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阿波国二十二社巡拝記

(大宮正八幡大菩薩 社記)
文久元年(1861年)酉の年 12月吉日 徳島にて修補・調査を行う。 (印:徳島県立図書館蔵書)

そもそも帝王というものは、天に対して誠意を尽くし、五穀豊穣を祈願なさり、国内においては村里の隅々に至るまで(その恩恵が行き届くようにされる)。これは元長が謹んで愚考するところである。 大いなる願いがある時には、天皇は様々な祭祀を通じて天地の神々にご祈願をされる。 大宮・正八幡大菩薩(の社殿)については、過去に大きく破損した際に(修復された)記録がある。 天地の神々や大宮の相殿、諸々の末社に至るまで

71座、官幣所28社、祈雨の神85座、日本全国の大小の神々に対して勅使を立ててご祈願された。このようなご祈願の事と祈念がなされた。これらは神明の霊跡について詳細に記されており、非常に明らかである。したがって、毎年の恒例であるためここでは詳細を省略し(諸国の神社を)巡拝することについて。

官幣所22社については、第64代朱雀天皇の天慶5年(942年)壬辰の年に五穀豊穣を祈願した(のが始まりである)。 その後、第62代(※原文ママ)村上天皇の康保2年(965年)、霜、雪、雹(ひょう)、落雷などの天災や、虫やイナゴの災難を取り除くことを祈願なさって、22社へ奉幣を行うことが定められた。 (その内訳は)伊勢、石清水、賀茂、松尾、平野、稲荷、春日、大原野、大神、石上、大和、廣瀬、龍田、住吉、丹生、貴布祢(きふね)、これらである。

その後、第65代(※原文ママ)一条天皇の正暦2年(991年)、干ばつがあり雨乞いの奉幣が行われた際、吉田、廣田、北野を加えて「22社」と定めた。同じ年の2月15日の祭礼において、穀物が極めて不作であったため……(中略)……2年ごとの官幣と定められた。 その後、後冷泉天皇の天喜3年(1055年)8月15日にも官幣が行われた。

(これらの奉幣は)毎年の恒例行事となった。日吉を加えて22社と定められた。諸国の神社は数多いといえども、例を挙げて言うならばこれらが該当する。 ……これに倣って阿波国62社(延喜式内社)の修復などを定めようとする者もいるが、当社の縁起などを考証し、五穀豊穣、悪魔退散、息災延命を祈る次第である。

大宮正八幡大菩薩 社記
井開伊賀守藤原光長  宮谷周防守忌部美徳
謹んで再拝し請う。
安永2年(1773年)癸巳の年 3月吉日

大麻比古神社(おおあさひこじんじゃ)

板野郡板東村

「一宮記」に阿波国の一宮であると記載されている。「延喜式神名帳」に載っている「大麻比古神社 大神社」がこれである。 祭神は猿田彦大神(さるたひこのおおかみ)で、正一位の神である。
神主:坂東石見守、永井若狭守

本社は東南を向いている。神楽殿は拝殿の東側にあり……

住吉大明神

同郡(板野郡)住吉村

本社は四か所の社殿からなる。第一殿は底筒男命(そこつつのおのみこと)、第二殿は中筒男命(なかつつのおのみこと)、第三殿は表筒男命(うわつつのおのみこと)、第四殿は神功皇后(じんぐうこうごう)を祀る。
神主:十河出羽守

本社の四社は南を向いている。神楽殿が一棟あり、拝殿の西、鳥居の内側にある。

高良大明神(こうらだいみょうじん)

同郡(板野郡)古川村

祭神は高良玉垂命(こうらたまだれのみこと)であり、武内宿禰(たけのうちのすくね)の霊である。景行、成務、仲哀、神功、応神、仁徳の六代の天皇の朝廷に仕え、その寿命は300年余りであったという。
神主:松枝右膳

本社は南を向いており、拝殿がある。神楽殿や鳥居があり……

田宮神明宮

名東郡田宮村

祭神は天照皇太神(あまてらすすめおおみかみ)である。 神社の伝承によると、第62代村上天皇の御代、天暦元年(947年)丁未の年に勧請(神仏の分霊を迎えること)されたという。
神主:新居因幡守

本社は南を向いている。両社……

天満天神宮

同村(田宮村)

祭神は菅原道真公の霊である。 神社の伝承によると、菅原道真公が筑紫(九州)へ左遷された時、淡路国の洲本・鮎原からこの地に到着され、一晩宿泊なさったため、この場所を「捨屋村(すてやむら)」と呼んだ。また、田んぼの中に宮を建てて一夜お留まりになったため、現在「田宮村」と言うのである。御船が着いた場所であるため、菅公の霊を祀っているのである。
別当(寺院の管理職が神社を管理すること):天神坊

(編者による考証)
考えるに、菅原道真公が左遷された時は、淡路と播磨の間の海上を船で筑紫へと下られた。曽根などは海辺であるから、御船が着いた時に上陸されたというのも理にかなっている。しかし、淡路の鮎原は山中であり、船が寄るような場所ではない。この田宮も、海辺であるとはいっても渡海の道筋ではない。ましてや左近衛権中将(左遷時の身分)というお立場で、このような地に御船を寄せるはずがない。 これはおそらく、国司である讃岐守に任じられて讃岐国阿野郡へ下られた時、阿波は隣国であるため地理を視察するために、鮎原や田宮などにも足を運ばれ、一晩宿泊なさったということだろう。これが正しい説であろう。後世の知識人による訂正を待つのみである。

諏訪大明神

同郡(名東郡)佐古村

本社は南を向いている。 神代の系図によると、信濃国の諏訪神社は、上社が建御名方命(たけみなかたのみこと)、下社が事代主命(ことしろぬしのみこと)であると記されている。当地の諏訪明神は上社の方であろうか、それとも下社の方であろうか。
別当:清水寺

本社は南西を向いている。両社とも春日社から十四丁(約1.5km)余り離れており、山際を西の方へ町筋を通る。寺町の内にある。

春日大明神

同郡(名東郡)徳島寺町

神書によると、大和国添上郡の春日神社四座(の神々)である。 武甕槌神(たけみかづちのかみ)、経津主神(ふつぬしのかみ)、天児屋根神(あめのこやねのかみ)、比咩大神(ひめのおおかみ)である。
別当:春日寺

本社は南を向いている。前の神社から四町(約430m)ばかり東南にあり、(起点から)十四丁程である。新町橋通、阿波橋、御崎橋を通り、福島橋を渡って行く。

四所大明神

同郡 福島

神社の伝承によると、山城国愛宕郡の吉田大明神と同体である。 武甕槌神、経津主神、天児屋根神、比咩大神の四柱の神が同じ社殿に鎮座している。
神主:榊本中務

本社は南西を向いている。前の神社より二十四丁(約2.6km)余り。徳島橋を渡り、右へ通り富田橋を渡って南西の方角、富田の内にある。

富田八幡大神宮

同郡 富田

神社の伝承によると、第49代光仁天皇の御代、宝亀年間(770~781年)に名方東郡井ノ上郷の大社として眉山に勧請され鎮座した。祭神は八幡大神、姫大神、神功皇后の三座が相殿に祀られている。条保(祝)社の尊神など、深く秘された末社が数多くある。
神主:早雲嘉治馬

本社は南を向いている。前の神社から夜昼宮(?)へ一里(約4km)余りあり、ここから南に新尾町へ出る。冷川を少し下り、阿波とある所から大岩村より西へ至る村である。

杉尾大明神

勝浦郡西須賀村

『延喜式』神名帳に載っている「勝占(かつら)神社」がこれである。神社の伝承によると、大己貴神(おおなむちのかみ)、須勢理姫神(すせりひめのかみ)、事代主(ことしろぬしのかみ)神、玉串姫神の四座であり、正一位の神である。勝占鏡、勝占石など様々な御神宝があり、源義経公の古い言い伝えがある。
神主:富川官吾

本社は南を向いている。前の神社から神宮寺の入り口まで三十二丁(約3.5km)余りある。番所を通り勝浦川を渡る。大水が出た時は舟渡しとなる。江田村、芝生村、八幡、中田村を経て、程なく豊国大明神が見え、これもまた立派である。(ここが)小松島である。

祇園三所天王

同郡(勝浦郡)小松島浦

神社の伝承によると、中央に素戔嗚尊(すさのおのみこと)、右脇に稲田姫命(いなだひめのみこと)、左脇に大己貴命(おおなむちのみこと)を祀る。
神主:南部和泉守

本社は南を向いている。前の神社から一里ほどの距離があり、南の方へ行く。日出村、芝生村、鴬山、谷を渡り、田野村へ至る。

牛頭天王宮

同郡(勝浦郡)田野村

素戔嗚尊を祀っている。一国一社と号し、牛馬の守護神として国中へ札を配っている。
神主:手束主殿、手束甚太夫

本社は南を向いている。前の神社から南西へ三里ある。芝生村へ戻り、西へ入る。砂子村、田浦村、勝浦川、広野村、八多村、幡山の弓所を西へ行く。ここから少し行って落合橋を渡り、前を出ると佐那河内村がある。川に沿って行くと大宮がある。

大宮正八幡大神宮

名東郡佐那河内村

神社の伝承によると、中殿に八幡大神、相殿に諸神、東西に百神の祝(はふり)が鎮座している。第42代文武天皇の御代、大宝3年(703年)癸卯の年に神託があり、第43代元明天皇の和銅元年(708年)戊申の年2月初卯の日に鎮座した。末社は75神座ある。毎月5度の祭礼、正月15日の御弓神事、2月初卯の日の湯立御神楽、万度大祓6月15日の夏祓、8月15日の流鏑馬、12月14日夜の御誕生祭がある。様々な神宝や霊石がある。この地に猿田彦大神、社日字、最初の藍染の根元由来、杖立長者、平大人、木屋の三社など、所々に旧跡がある。
神主:井開伊豫守

本社は南を向いている。前の神社から上山へ三里ある。川に沿って奥へ行く。阿佐の宮所の宮社が道筋にある。二十丁ばかり行くと惣社明神がある。二十丁行って井開伊豫守(の家?)がある。
本社は南を向いている。前の神社から川上へ行く。(または)広野へ戻り、これも二十丁行って上る。谷を過ぎて鬼篭野村や神宮寺所がある。前の神社より南へ大勢参詣する。川筋を幾曲がりかして、ここへ上山村字佐古岩がある。ここから川を渡る。(※頭注:大岩の神名未詳、北宇佐宮、南建社遷宮)

宇佐大岩両社

名西郡上山村

宇佐とは八幡大神のことである。南を向いて川の北に鎮座している。大岩の祭神の御名は未詳である。神殿は西を向いて鎮座している。

その間の行程は二百十一(?)丁である。11月初辰の日に神事がある。初卯の日の神事は、ここから川上の川俣名にある黒松八幡宮にあり、これを卯辰(の神事)という。
神主:中嶋因幡守 社人は数多くいる。
前の神社から一里半ばかり。この地を村落という。ここに宿泊した。黒川の一の坂を越えて在所へ入る。ここから次第に一宮へ参詣する。町がある。

一宮大明神

名東郡一宮村

神社の伝承によると、大粟姫神(おおあわひめのかみ)、すなわち大宜都比咩命(おおげつひめのみこと)を祀っている。伊豆国の阿波神社と同体の大神である。尊号を伊古那比賣命(いこなひめのみこと)という。相殿二座の神号は神社の伝承として深く秘されている。
大宮司:小笠原大和守

本社は南を向いている。前の神社から杉尾山へ三十丁程ある。東の方の川辺へ向かい、川を渡り、延命村を通り、矢野村へ行く。

天石門別八倉姫神社(あまのいわとわけやくらひめじんじゃ)

名西郡矢野村

当社の神記によると、大昔は喜能辺山(または矢野神山ともいう)に鎮座していた。その後2105年経った辛酉の年、小治田宮(推古天皇)の御代元年(593年)秋8月1日、神託によって杉尾山に遷座した。その後、正一位を奉られ、杉尾大明神と号した。
神主:富崎日向守

本社は東を向いている。前の神社から白鳥宮へ道程二十丁ある。一の鳥居の下へ出て北へ行く。内に一丁余りあり鳥居がある。これを白鳥村という。

白鳥大神宮

同郡 白鳥村

第12代景行天皇の御子である日本武尊(やまとたけるのみこと)の神霊を祀る。第14代仲哀天皇の御代に勅命により神社が建てられた。
神主:宮谷周防守

本社は南を向いている。前の神社から本宮・新宮へ道程四丁程ある。前の神社を下へ行き、舟で西へ行き石井村へ。一里余りの所より北へ向かい川筋の村を通り、蔵所の山、小路を行き、村に至って中嶋村へ行く。

本宮新宮両社

同郡 中嶋村

神社の伝承によると、紀伊国の熊野本宮・新宮を勧請したものである。願立者(発願者)は那須与一宗高である。
社人:巫女相模 別当:神宮寺

両社は並んで東に向き拝殿が一棟あり。南向きである。前の神社から前の八幡宮へ三里程ある。ここより西へ原村へ。宮より牛の牧(?)八幡がある。性還とあり、鴨島、上浦、西麻植村、少し北へ行って知恵島村。惣司の馬の渡しがある。宮ノ嶋村。

宮之嶋八幡宮

麻植郡宮ノ嶋村

神主:高霧衛士助

八幡大神の三座を祀っているのだろうか。古い伝承によると、上代の忌部神社(いんべじんじゃ)であるという。『延喜式』神名帳には「忌部神社(名神大、月次、新嘗。あるいは麻殖神、あるいは天日鷲神と号す)」とある。古書には「阿波郡の阿波神社、これは忌部の大祖である天太玉命(あめのふとだまのみこと)を祀る」とある。宮之嶋の土地は麻植郡である。阿波郡の粟嶋と入り組んでおり、どちらが正しいのだろうか。宮之嶋の社地は清浄である。昔から葬墓がなく、水難のない浮嶋であるという。神秘(の伝承)がある。古老が言うには、中世に川嶋の城主である林氏が村に来て、鈴神明と共に鎮座していた八幡宮を忌部の社内に遷座して、城内の守護神とした。そうであるならば、忌部と八幡宮の両神が合殿(相殿)である。領主が特に八幡宮を信仰したため、忌部の神号はいつの間にか廃れてしまったのである。ああ、惜しいことである。
本社は南を向いている。前に委(?)川渡しがあり海が見える。夜昼宮(?)へ三里、森村へ一里。大山、山崎、川北、川田村、一ノ坂へ片道六里ある。山道にて十二丁登る。

種穂忌部社(たなほいんべしゃ)

同郡(麻植郡)川田村

『延喜式』神名帳に載っている「忌部神社(名神大、月次、新嘗。あるいは麻殖神、あるいは天日鷲神と号す)」がこれであるという。
神主:中川式部

本社は東を向いている。前の神社から松尾大明神へ三里ある。当社の裏へ回って道へ出て、ここから川がある。ここから穴吹村の中へ入り、北から川を渡って光村(貞光村)へ。

松尾大明神

美馬郡貞光村

山城国葛野郡の松尾神社二座、左が大山咋神(おおやまくいのかみ)、右が若山咋神(わかやまくいのかみ)であるという。社家の説によれば、当社は大己貴神(おおなむちのかみ)、酒解神(さかとけのかみ)、乙若子神(おとわかこのかみ)であるという。現在、酒造りの守護神であり、酒屋がこれを信仰している。
神主:小倉長門守

本社は南を向いている。前の神社から加茂(賀茂)へ三里西の方へ半田村、毛田村、江田村、中庄村、西庄村、加茂村。加茂川を差し渡り、鶏の御供がある。奥谷山にあり、大山であるに違いない。

賀茂皇大神宮(かもこうたいじんぐう)

三好郡賀茂村
『延喜式』神名帳に載っている「美馬郡 鴨神社」がこれである。『清和実録(日本三代実録)』には「貞観2年(860年)3月2日壬子、阿波国美馬郡を割いて三好郡を置く」とある。神社の伝承によると、山城国の上下賀茂皇大神を奉遷して祭ったものであるという。祭神は天津彦火瓊瓊杵尊(あまつひこほのににぎのみこと)、神日本磐余彦尊(かむやまといわれひこのみこと)である。神系図によると「山城国愛宕郡の上賀茂別雷皇大神宮、俗説では賀茂宮といい、造化雷神を祭るという。この他に多くの異説があるが、採用すべきではない。『本朝社語』には、上宮の瓊瓊杵尊、下宮の磐余彦尊は共に伊勢神宮と同じく斎院を立てたとある。上社を別雷皇大神(わけいかずちのすめおおかみ)と称し、下社を御祖皇大神(みおやのすめおおかみ)と称する。別雷とは賀茂山の別雷のことである。よって山の名前をとって神号としたまでである。俗説のように雷神を祭るなどということがどうしてあろうか(いや、ない)。

天子が内親王を斎院とされた。深く畏れ多いことである。皇大神の号は、伊勢の二所宗廟と山城の上下賀茂の他には、その列に加わるものを聞かない。古歌に 「ちはやぶる神代より天つ日嗣たえぬならひは(神代から皇統が絶えない習わしは)…」 とある。祝(はふり)によれば、瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)が日向国の高千穂の觸峯(くじふるみね)に降臨され、皇孫が万世に到るまで絶えないということである。これをもってその証拠とすることができるだろう。

神主:白川伊織

本社は東を向いている。川上へ半里程行くと明神落の滝がある。

後の宿より大麻へ至って終わりである。行程は十四里余りある。道法(道のり)は道中帳の裏書きに記してあるので、それをもって日数を測るべきである。 ことごとく成就した。

享和元年(1801年)辛酉の年 3月吉日 これを写す
徳島 石井町 新居吾嬬仁 (印)(印)

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