阿波郡 あわぐん — 郷土史資料

阿波国阿波郡の地誌・氏族・村里・寺社・産物に関する史料の全文を収録しています。郷土史研究の基礎資料としてご活用ください。

🗾地域概要・郷名

阿波郡(あわぐん)は、東は板野郡(いたのぐん)に至り、南は芳野河(よしのがわ)に及ぶ。西は美馬郡(みまぐん)に至り、北は讃岐(さぬき)に至る。幅員(領域の広さ)は四里ばかり(約16キロメートルほど)である。

郷名(ごうめい)

高井
たかい
今は廃れている。井沢村(いざわむら)が残っている。
秋月
あきづき
今は廃れている。秋月村が残っている。
香美
かがみ
今は廃れている。香美村が残っている。
拝師
はやし
今は廃れている。西林(にしばやし)村・東林(ひがしばやし)村の二つの村がある。

🏯古蹟

伊沢塁(いざわるい)

源頼俊(みなもとのよりとし)がここに拠った。天正五年四月、藤原国方(ふじわらのくにかた)が讃岐(さぬき)の引田城(ひけたじょう)から来攻した。頼俊は当時、板西城(ばんざいじょう)にいた。国方は庄野久右衛門(しょうのきゅうえもん)を使って(頼俊を)誘い出して殺した。祠(ほこら)を建ててこれを祀っている。

川人塁(かわひとるい)

上喜来村(かみきらいむら)の川人林(かわひとばやし)にある。川人越前守(かわひとえちぜんのかみ)がここに拠った。三好郡(みよしぐん)の西山村(にしやまむら)にもまた川人氏の宅址(邸宅跡)がある。

犬墓塁(いぬぶかるい)

犬墓村にある。松永城(まつながじょう)と称する。

日開塁(ひがいるい)

日開谷(ひがいだに)の山中にある。その側(そば)に子城(しじょう/支城)があり、土地の人はこれを隼人城(はやとじょう)と名付けている。また城円(じょうえん)とも称する。池があり、新田(にった)と名付けられている。おそらく源義宗(みなもとのよしむね)が拠ったところである。

山塁(やまいるい)

山上村(やまかみむら)にある。細川某(ほそかわなにがし)が拠ったところである。

切幡塁(きりはたるい)

切幡村にある。永禄・元亀の間(1558年〜1573年頃)、蘇我高次(そがのたかつぐ)がここに拠ったが、脇町の役(わきまちのえき/脇町の戦い)で戦死した。源頼俊が次いで兵士を置いた。

秋月塁(あきづきるい)

秋月村にある。源頼春(みなもとのよりはる)が拠ったところである。子の詮春(あきはる)が勝瑞(しょうずい)に移り、秋月中務大輔(あきづきなかつかさのたいふ)が次いで居住した。

郡塁(こおりるい)

郡村にある。柿原某(かきはらなにがし)がここに拠った。壕(ほり)や塁(土塁)が今も残っている。

源師光庁(みなもとのもろみつのちょう)

柿原の広永里(ひろながのさと)にある。その跡地が今も残っている。

源太宅(げんたのたく)

柿原の二条里(にじょうのさと)にある。おそらく柿原氏が居住したところである。

柿原塁(かきはらるい)

柿原村にある。源義長(みなもとのよしなが)がここに拠った。南は芳野河(よしのがわ)に近く、方六十歩(一辺が約109メートルほどの四方)である。あるいは秋月氏の別塁(出城)であるとも言われる。

篠原宅(しのはらのたく)

柿原の篠原里(しのはらのさと)にある。おそらく橘忠雅(たちばなのただまさ)が居住したところであろう。

小松宅(こまつのたく)

柿原村にある。詳細は未詳である。

📜莊名

朽田莊(くちたのしょう)

朽田(くちた)・西川(にしかわ)・中野(なかの)・大叉(おおまた)・上喜来(かみきらい)の諸村がこれにあたる。

👥戸口

総戸数:三千八百六十四戸(うち雑戸 六十四戸)

総人口:二万一千八百五十九口(うち雑戸 三百五十二口)〔寛政年間〕

村名読み戸数
西林にしばやし三百五十戸
東林ひがしばやし二百三十六戸
小倉原おぐらはら三十三戸
伊月いつき五百四十三戸
西川にしかわ二百十戸
中野なかの五十戸
朽田くちた百三十二戸
大叉おおまた二百五十一戸
勝命かつめい三百十五戸
上喜来かみきらい百六十七戸
犬墓いぬぶか百六戸
日開谷ひがいだに二百二十七戸
大影おおかげ三十七戸
香美かがみ二百七十二戸
興埼おきざき五十九戸
市場いちば百二十一戸
尾開おびらき百二戸
山上やまかみ八十二戸
大野島おおのしま六十五戸
粟島あわしま百二十二戸
切幡きりはた百二十七戸
浦池うらいけ百四十八戸
秋月あきづき六十六戸
伊月(別)いつき二百五戸
八幡やわた三十八戸
成当なりとう六十一戸
土成どなり四百一戸
水田みずた八十八戸
柿原かきはら四百十一戸
知恵島ちえじま百五戸
酤戸(詳細未詳)ここのえ十七戸

🏔️山川

岩津(いわづ)

西林(にしばやし)村に属する。直径は六十歩(約109メートル)である。南は川田(かわた)の神灘(かみなだ)となる。芳野河(よしのがわ)はここに至って最も流れが急になる。渡丁(渡し守)が一人いる。水中に怪石(奇妙な形の岩石)が入り混じってそびえ立っており、すべて渡口(渡し場)にある。その中で特に著しいものが十三ある。

一、京石(きょういし) 土地の人が雨乞いをする場所。高さが京師(京都)の地と等しいと言われている。
二、苧桶(おがけ) 麻糸を入れる桶。形状から名付けられた。
三、燕石(つばめいし) 形状から名付けられた。
四、牛爪(うしづめ) 形状から名付けられた。
五、水神(すいじん)
六、聖侶(しょうりょ) 人が笈(おい)を背負っている姿に似ている。
七、五色石(ごしきいし) 表面に五彩(五色の彩り)がある。
八、一石(いちいし) 数によって名付けられた。
九、夫婦(めおと) 数によって名付けられた。
十、三石(さんせき) 数によって名付けられた。
十一、馬背(うまのせ) 馬の背骨のように狭い。
十二、秤石(はかりいし) 形状が細くて長い。
十三、楫取(かじとり) 小舟に似ている。

長峯原(ながみねはら)

西林村にある。

汝池(なんじいけ)

同じく西林村にある。

馬子池(まごいけ)

同じく西林村にある。

嫗谷(おうなどに)

同じく西林村にある。渓流の間にある石の背に皺(しわ)があるため、これに因んで名付けられた。

伊沢山(いざわやま)

伊沢村にある。

神端(かみはな)

伊沢村の杉尾祠(すぎおのほこら)の南百十歩ばかり(約200メートル)のところにある。毎年の神事の集まり(お祭り)の際に、神輿(みこし)が留まるところである。また、神端から三百歩ばかり(約545メートル)離れたところに「懸綱松(かけつなのまつ)」がある。

桜埒(さくららち)

伊沢村の廃城(伊沢城跡)の西南にある。

憩石(いこいいし)

廃城(伊沢城跡)の前門の跡地にある。瑞雲公(ずいうんこう)が休息された場所である。

伊沢川(いざわがわ)

源流は伊沢山から出て、三里(約12キロメートル)流れて芳野河に入る。その西に大窪川(おおくぼがわ)がある。

大叉池(おおまたいけ)

大叉村にある。承和三年(836年)、山田古嗣(やまだのふるつぐ)が造った池であり、おそらくこれはそのうちの一つである。

犬墓(いぬぶか)

犬墓村にある。

日開溪(ひがいだに)

その源流は三つ並んで日開谷(ひがいだに)から出て、犬墓・(上)喜来・勝命を経由し、香美(かがみ)に至って芳野河に入る。

平尾山(ひらおやま)

(※ここで記述が途切れている)

⚔️氏族

平為清(たいらのためきよ)

喪に服して僧となった。父の義継(よしつぐ)は三浦太郎(みうらのたろう)と称し、義明(よしあきら)の弟である。為清は朽田荘(くちたのしょう)を領有した。文治二年(1186年)六月、為保(ためやす)が訴えて言うには、「朽田荘は父の為清法師が領有していたところである。券書(証文)が残っている。山田荘については後日願い出ることがある」とのことである。

平為保(たいらのためやす)

蘆名三郎(あしなのさぶろう)と称した。受け継いで朽田荘を領有した。これは右大将・源頼朝(みなもとのよりとも)が地頭を置いたものである。為保が訴えた事柄は『吾妻鏡(東鑑)』に見えている。

源義宗(みなもとのよしむね)

新田武蔵守(にったむさしのかみ)と称し、左近衛少将に任じられた。父の義貞(よしさだ)は左近衛中将であったが、節義に殉じて戦死した。そこで(義宗は)庶兄の義興(よしおき)や弟の義治(よしはる)とともに越後(えちご)を攻めてその半分を奪い、城を築いてここに居住した。義興を奉じて挙兵し、源尊氏(足利尊氏)と武蔵野で戦った。義興と義治が鎌倉を攻めると、基氏(もとうじ)は逃亡した。その後、義宗は笛吹峠(笛吹嶺)で敗れ、尊氏はそこで鎌倉を攻めた。義興と義治は河村城に入り、翌年逃亡して、ついに(阿波郡の)犬墓山(いぬぶかやま)に来て居住した。その遺物である剣、槍、弓矢、馬具、および椀は、岩野の農家に蔵されている。一説には、正平三年(1348年)七月に義治とともに起兵し、上杉憲将(のりまさ)らと戦ったが勝てずに戦死したともいう。

源義治(みなもとのよしはる)

脇屋(わきや)と称し、従五位下・左衛門佐に任じられた。また(父の)義助(よしすけ)は正五位下・右衛門佐であった。暦応二年(1339年)七月、越前の黒丸城を攻め落としたが、足利高経(たかつね)が京都に救援を乞うたため大軍が至り、敗れて美濃(みの)へ逃れた。三年四月、後醍醐天皇の勅命を奉じて伊予(いよ)に至り挙兵したが、たまたま宇摩郡(うまぐん)で病死した。義治はそこで義宗とともにこの郡(阿波郡)に居住した。おそらく伊予には河野氏・土居氏の二氏がいたからであろう。子孫は讃岐の大内郡土居村に居住して「児島(こじま)」と称した。その一族は「脇(わき)」と称し、代々決して他姓を跡継ぎに(養子に)しなかったという。

藤原師光(ふじわらのもろみつ)

近藤(こんどう)と称し、柿原に居住した。『平家物語(平語)』にいわゆる「阿波の在庁(官人)」とは、これ(師光)のことであろう。初め少納言・信西(しんぜい)に仕え、推薦されて左衛門尉となり、官族を継いで中納言・藤原家成(ふじわらのいえなり)の猶子になろうとした。平治の乱で信西が奈良へ逃れると、師光もこれに従い、信西が死のうとするに及んで師光は剃髪して名を西光(さいこう)と改めた。後白河上皇に親しく寵遇され、その恩恵は日に日に厚くなった。和歌をよくし、『千載集』などに見える。男子が七人いた。長男を師高(もりたか)といい、加賀守に任じられた。次男を師経(もろつね)といい、近藤榻判官と称して加賀に赴任した。次男(三男の誤記か)を師平(もりひら)といい、京師にいた。父に従って平家一族を滅ぼそうと謀ったが成功せず、殺された。第四子、第五子は柿原にいて、紀成良(きのなりよし)の追及を受け、ついに宮河内(みやがわち)で死んだ。次は親家(ちかいえ)、末子は鎌倉に仕えた。

藤原親家(ふじわらのちかいえ)

臼井近藤六(うすいこんどうろく)と称し、師光の第六子である。源義経の道案内(向導)となった。

源重実(みなもとのしげざね)

佐渡源太(さどのげんた)と称した。承暦三年(1079年)、佐渡前司(さどのぜんじ)と共に配流され柿原にいた。永保年中(1081年〜1084年)に召還され、武者所に補任された。

橘盛澄(たちばなのもりずみ)

柿原左近将監(かきはらさこんのしょうげん)と称し、越前守となった。のちに喪に服して僧となり、正善(しょうぜん)と号して円光寺に居住した。明応五年(1496年)に亡くなった。

源光秋(みなもとのみつあき)

秋月五郎左衛門(あきづきごろうざえもん)と称し、また主膳(しゅぜん)と称した。三好宗三(みよしそうさん)の従弟である。弓術に優れ、天正年間、摂津の有馬の戦いで一本の矢で二人を倒した。柿原に居住した。その一族に中務太輔(なかつかさのたいふ)がいる。

橘長政(たちばなのながまさ)

篠原大和守(しのはらやまとのかみ)と称した。源義賢(みなもとのよしかた)の女婿である。秋月に居住した。

伊月某(いつきなにがし)

代々伊月に居住した。その祖先は秩父権頭(ちちぶごんのかみ)・平重綱(たいらのしげつな)である。重綱の末子である重継(しげつぐ)が江戸四郎(えどしろう)と称し、その後裔がここに来て居住した。

蘇我高次(そがのたかつぐ)

森飛騨守(もりひだのかみ)と称した。天正年間、岩倉の戦いで戦死した。その一族は去って織田内府(織田信長または織田信雄)に仕えた。

背尾某(せおなにがし)

備中(びっちゅう)の人で、兼康(かねやす)の後裔である。その一族は板野郡引野に居住した。

源義長(みなもとのよしなが)

柿原源五(かきはらげんご)と称した。天正十年(1582年)八月、勝瑞城(しょうずいじょう)が包囲された時、撫養(むや)にいて兵糧と火薬を送った。篠原紫雲(しのはらしうん)に属して上桜(かみざくら)の戦いで戦死した。その一族の藤五(とうご)、新五(しんご)も同じく死んだ。その祖先の孫四郎(まごしろう)は源頼之(細川頼之)に属し、讃岐の白峰の戦いで戦死している。

清久三丞(きよひささんじょう)

姓は源。あるいは『太平記』に載る清久左衛門次郎(きよひささえもんのじろう)の後裔で藤原姓であるともいう。

藤原某(ふじわらなにがし)

内藤助太夫(ないとうすけだゆう)と称した。

高沢某(たかざわなにがし)

守貞(もりさだ)と称した。

知恵島原次兵衛(ちえじまはらじひょうえ)

姓は源。柿原清久右衛門次郎(かきはらきよひさうえもんのじろう)と称した。天正十年、中富川(なかとみがわ)で戦死した。

源頼俊(みなもとのよりとし)

伊沢越前守(いざわえちぜんのかみ)と称した。その祖先の高好(たかよし)は河内守(かわちのかみ)と称して三好氏に仕えた。おそらく同族であろう。頼俊は天正三年(1575年)に反逆し、源成助(三好成助)と共に源長治(三好長治)を攻めてこれを殺害した。(天正)五年四月、藤原国方(ふじわらのくにかた)がその一族の備後守(びんごのかみ)、三好越後守(みよしえちぜんのかみ)らと謀り、庄野久右衛門(しょうのきゅうえもん)を使って誘い出し、これを襲撃して殺した。

橘忠雅(たちばなのただまさ)

篠原右京進(しのはらうきょうのしん)と称した。賢(三好実休)に属し、和泉の久米田の戦いで左隊長となった。子は某(なにがし)といい小一郎(こいちろう)と称した。

蘇我某(そがなにがし)

香美馬進(かがみまのしん)と称した。

三橋丹後守(みはしたんごのかみ)

西林村に居住した。天正年間、秦氏(長宗我部氏)と図って諸士を脇城で謀殺した。また常陸介(ひたちのすけ)がおり、おそらくその弟である。

奈良太郎兵衛(ならたろうひょうえ)

姓は平。天正十年、中富川の戦いで戦死した。

井上某(いのうえなにがし)

代々広長里(ひろながのさと)に居住した。興源公(蜂須賀家政)がかつて巡行し、荒れ野を分割して処士およそ六十人に賜った。長谷川氏が讃州(讃岐)の諸路を遮ったとき、五つの部隊に分かれたが、(井上某は)その首領(魁)であった。

外方(げほう/僧侶)

釈疎石(しゃくそせき)— 夢窓国師

諡(おくりな)は夢窓国師(むそうこくし)。伊勢の人で姓は源。元弘三年(1333年)、臨川院(臨川寺)の主となった。暦応二年(1339年)八月、源尊氏(足利尊氏)が勅命を奉じて亀山行宮を革(あらた)めて天龍寺を造営した。甲斐の恵林寺、平安(京都)の西芳寺、伊勢の善応寺、阿波の補陀寺(ふだじ)は皆この師を祖とし、法を継ぐ者はほぼ百人いた。語録数巻が世に行われている。

釈妙誡(しゃくみょうかい)— 黙翁

黙翁(もくおう)と号した。姓は源、肥前の人。幼い頃から夢窓国師に従い、来りて補陀寺に居住した。のちに肥前に妙憧寺(みょうどうじ)を創建し、山城の臨川寺に移った。光厳上皇(こうごんじょうこう)が召して法を問い、晩年には亀山に華蔵院(けぞういん)を創してそこで養老した。

釈周崇(しゃくしゅうそう)— 大岳

大岳(たいがく)と号した。姓は一宮(いちのみや)、本州(阿波国)の人。幼い頃から黙翁に事(つか)え、来りて補陀寺に居住した。翁に従って山城の臨川寺に移り居た。寺主となったとき、大将軍・源義満(足利義満)が講筵(こうえん)に臨み、金襴の袈裟(伽黎)を贈った。また南禅寺に居住し、再び天龍寺の住職となった。応永三十年(1423年)九月に亡くなった。

釈一以(しゃくいちい)— 大道

大道(だいどう)と号した。姓は平、出雲の島根の人。十四歳で叡山にて受戒した。やがて教外の教え(禅)を慕い、蔵山(ぞうさん)に光明院で侍し、また虎関(こかん)に東福寺で従った。康永元年(1342年)、夢窓国師の請いにより来りて補陀寺に居住した。源氏春が淡路に安国寺を置き、師を招いて居住させた。居住して三年、国民は初めて禅があることを知った。文和二年(1353年)、藤相国(二条良基)の命により普門寺に居住し、東福寺に移り、また南禅寺の住職となった。光(細川満之)が淡路の安国寺にいた至徳丙寅(1386年)の夏、源公(足利義満)が朝廷に奏上し、南禅寺の位を陞(のぼ)せて五山の上に置いた。

🏘️村里

元禄年間には村が三十二あったが、今は三十一である。

村名読み備考
西林にしばやし
東林ひがしばやし
小倉原おぐらはら
井沢いざわ
西川にしかわ旧(もと)は朽田荘(くちたのしょう)に属していた。
中野なかの旧は朽田荘に属していた。
朽田くちた旧の荘名。今は久千田と書く。
大叉おおまた旧は朽田荘に属していた。
勝命かつめい支落(枝郷・分村)があり、一つを新在家(しんざいけ)という。
上喜来かみきらい旧は朽田荘に属していた。
犬墓いぬぶか
日開谷ひがいだに
大影おおかげ旧は大楢(おおなら)と称した。
香美かがみ旧の郷名である。
興埼おきざき旧は香美原(かがみはら)と称した。元は香美村に属していたが、分割して処士に賜った。
市場いちば旧名は古市(ふるいち)。尾開に属していた。
尾開おびらき
山上やまかみ
大野島おおのしま
粟島あわしま
切幡きりはた
浦池うらいけ支落があり、一つを法林寺(ほうりんじ)という。
秋月あきづき旧の郷名である。
伊月いつき旧は「厳(いつき)」と書いた。おそらく厳事代主(いつきことしろぬし)の祠(ほこら)があるからであろう。
八幡街やわたのまち
成当なりとう
土成どなり
水田みずた旧は日好(ひよし)と称した。
こおり正平(しょうへい)年間の文書には郡原(こおりばら)と書かれている。
柿原かきはら分かれて八つの里(篠原・広永・高畠・島田・谷・小笠・春日水・八落)となっている。広永は分割して処士に賜った。
知恵島ちえじま

🌾租税

元禄年間:七千八百七十三石五斗五升六合

寛政年間:一万二百六十八石余り

村名石高采地
西林(にしばやし)八百七十九石五分の四
東林(ひがしばやし)五百八十九石五分の四
小倉原(おぐらはら)五十六石弱半分
伊沢(いざわ)六百七十七石半分
西川(にしかわ)三百八十二石四分の三
中野(なかの)三百七十三石半分弱
朽田(くちた)三百五十五石大部分
大叉(おおまた)五百十五石五分の四
勝命(かつめい)四百十九石四分の三
上喜来(かみきらい)四百二十二石大部分
日開谷(ひがいだに)二百五十三石大部分
大影(おおかげ)八十二石三分の二
香美(かがみ)四百五石四分の三
興埼(おきざき)二十八石一部を割いて
市場(いちば)百三十三石半分弱
尾開(おびらき)百八十三石
山上(やまかみ)百六十六石五分の四
大野島(おおのしま)三百四十九石三分の二
粟島(あわしま)五百三十六石四分の三
切幡(きりはた)四百八十石四分の三
浦池(うらいけ)二百七十四石七分の一
秋月(あきづき)百三十八石大部分
伊月(いつき)七百五十五石半分
八幡(やわた)十五石
成当(なりとう)三百三十七石大部分
土成(どなり)八百九石大部分
水田(みずた)三百五十一石大部分
郡(こおり)三百十石大部分
柿原(かきはら)五百九十八石四分の三
知恵島(ちえじま)六百四十九石五分の一

⛩️塚墓

馬塚(うまづか)

西林村(にしばやしむら)にある。

矢塚(やづか)

同じく西林村にある。形が箙(えびら/矢を入れる器)に似ていることから名付けられた。

犬墓(いぬぶか)

犬墓村にある。俗説では、僧・空海(くうかい)が飼い犬をここに埋葬したと伝えられている。

川人備前守墓(かわひとびぜんのかみのはか)

喜来上村(きらいかみむら)にある。古木が叢生(群がって生える)しており、名付けて川人林(かわひとばやし)という。

宰相中将信成墓(さいしょうちゅうじょうのぶなりのはか)

香美村(かがみむら)の田淵(たぶち)にある。承久三年(1221年)に亡くなった。官軍が平泰時(たいらのやすとき/北条泰時)によって破られた後、山上村(やまかみむら)に落ち延びて隠れ潜んだ。その地(里)は今、御所(ごしょ)と称されている。

応安碑(おうあんのひ)

香美村の平治祠(へいじのほこら)の側にある。以前は陸田(おかだ/畑地)の側にあったが、のちに妹尾某(せおなにがし)が移した。応安二年(1369年)仲春(二月)の中旬、法眼(ほうげん)の定金(じょうきん)がその父のために建てた。碑文が見える。高さは六尺(約1.8メートル)、幅は二尺余りである。

永和碑(えいわのひ)

香美村にある。高さは八尺(約2.4メートル)。永和二年(1376年)三月に建てられた。

荒墳(こうふん)

市場街(いちばのまち)にある。墓碑銘(識)に「宗心大徳 妙西信尼」とある。

細川氏墓(ほそかわしのはか)

山上村にある。詳細は未詳である。

十三塚(じゅうさんづか)

土成村(どなりむら)にある。はるかに長く連なって六十歩(約109メートル)の間に羅列している。文字は磨滅していて不詳である。また荒墳があり、幅が一歩三尺ほど(約2.7メートル)、奥行きが三十歩ほど(約54.5メートル)で、塚の上には薬師如来の塑像が安置されており、高い木々が周囲に立ち並んでいる。

🌿土産

香魚(あゆ)

芳野河(よしのがわ)でとれる。郡村(こおりむら)より西の地域では盆のように大きい。

藍(あい)

土豪が餅の形(藍玉)にして諸国へ売り出している。他の郡と同じである。

土殷孽(どいんげつ)

鍾乳石などの鉱物の一種。日開谷(ひがいだに)から出る。

斑竹(はんちく)

伊沢村(いざわむら)から出る。僧・隠元(いんげん)がもたらしたものである。周囲(太さ)は一寸(約3センチメートル)ばかりで、斑点がある。

金燧(きんすい)

火打石。西林村(にしばやしむら)の岩津(いわづ)から出る。

河漏(かろう)

蕎麦切りなどの麺類。土地の人が手作りして賓客(客)に供(もてなし)している。色が非常に真っ白である。

🌾土田

寛政年間:二千四百七町二段二畝

村名等級陸田/水田面積
西林(にしばやし)下の上陸8/水2二百七十九町七段七畝
東林(ひがしばやし)中等陸6/水4八十四町二段七畝
小倉原(おぐらはら)下等二十一町三段八畝
伊沢(いざわ)下の上陸2/水8三百九町六畝
西川(にしかわ)中等陸85/水15八十五町九段四畝
中野(なかの)下等陸6/水4四十町六段二畝
朽田(くちた)中の下陸6/水4七十九町四段七畝
大叉(おおまた)下等陸45/水55百十五町九段四畝
勝命(かつめい)下の上陸4/水6百二十町七段四畝
上喜来(かみきらい)中等陸7/水3九十一町二段六畝
大墓(おおはか)中等陸7/水3三十六町七段六畝
日開谷(ひがいだに)中等陸6/水4五十六町九段一畝
大影(おおかげ)下等陸7/水3十二町九段七畝
香美(かがみ)下等陸95/水5二十八町二段四畝
興埼(おきざき)下の中陸99/水わずか四十三町四段六畝
市場(いちば)下等陸99/水1六十五町一段六畝
尾開(おびらき)中の下陸85/水15四十九町六段六畝
山上(やまかみ)下等陸7/水3三十九町三段九畝
大野島(おおのしま)中等陸7/水3五十八町五段三畝
粟島(あわしま)中等陸田のみ八十九町二段八畝
切幡(きりはた)中の下陸6/水4七十七町六段五畝
浦池(うらいけ)中の上陸4/水6三十八町二畝
秋月(あきづき)中の下陸7/水3二十四町七段五畝
伊月(いつき)中等陸6/水4百七町七段九畝
八幡(やわた)一町五段四畝
成当(なりとう)中の下四十四町六段九畝
土成(どなり)中等陸55/水45四十一町九段三畝
水田(みずた)中の下陸47/水53五十六町七段九畝
柿原(かきはら)下等陸8/水2百六十町三段五畝
知恵島(ちえじま)中の下陸田のみ百二十四町五段三畝

🛕佛刹

西福寺(さいふくじ)

西林村(にしばやしむら)にある。明王院(みょうおういん)に属する。

常円寺(じょうえんじ)

東林村(ひがしばやしむら)にある。平安(京都)の仏光寺(ぶっこうじ)に属する。

善行寺(ぜんぎょうじ)

同じく東林村にある。仏光寺に属する。また廃医王寺(医王寺の跡)があり、今は小庵があって薬師如来像を安置している。

明王院(みょうおういん)

伊沢村(いざわむら)にある。真言宗を修める。不動明王像を安置している。

願成寺(がんじょうじ)

同じく伊沢村にある。明王院に属する。

林泉寺(りんせんじ)

同じく伊沢村の三宅里(みやけのさと)にある。釈鉄崖(僧・鉄崖)が置いた(建立した)。

西光寺(さいこうじ)

中野村(なかのむら)にある。明王院に属する。

臨川寺(りんせんじ)

朽田村(くちたむら)にある。禅宗を修める。

廃法満寺(法満寺の跡)

大叉村(おおまたむら)にある。今は小庵があり、律僧がここに居住している。

実相寺(じっそうじ)

上喜来村(かみきらいむら)にある。真言宗を修める。

虚空蔵堂(こくうぞうどう)

香美村(かがみむら)にある。毎年年初めには市が立つ。

大野寺(おおのでら)

山上村(やまかみむら)にある。真言宗を修める。涅槃像、および九頭龍王・般若十六善神の画像およそ三幅を所蔵している。匠人の総兵衛という者が朝鮮の役に従軍した際にもたらして還った(持ち帰った)と伝えられている。山林の木材十町余りを賜った。

切幡寺(きりはたじ)

切幡山の山上にある。山名を得道(とくどう)という。大野寺に属する。大悲閣(観音堂)があり、前は曠野(広野)に臨み、後ろは諸山に連なる。右には大日堂・鎮守堂の二堂があり、遥かに蒼海(青い海)を望む。大般若経は秋月公用(あきづききんもち)が寄進したものであり、五部大乗経は讃岐守常長(さぬきのかみつねなが)が至徳二年(1385年)己酉に持明院氏の真筆を(寄進したもの)、法華経は予州(伊予)の越智通維(おちみちこれ)が寄進したものである。暦応二年(1339年)、左兵衛督源直義(足利直義)が勅命を奉じて金塔を造営し、釈宥範(僧・宥範)が導師となった。五年三月十六日に落慶した。今は廃寺となっている。旧(もとの寺)は西の麓にあり、百二十歩四方であった。あるいは吉吏花達(きりかたつ)というが、これは墾田(開墾地)を意味するという。

尊光寺(そんこうじ)

大野島にある。旧は天台宗の法を修めていた。嘉暦(かりゃく)年中に釈正玄(僧・正玄)が浦池に置き、のちにこの地に移した。山号の金輪は先公が賜ったものである。阿弥陀立像を安置している。また堂があり、長さ八寸の阿弥陀の金像を安置している。瑞雲公が賜ったものである。先公が巡覧した際の館となった。のちに釈真仏に就いて親鸞の教え(浄土真宗)を学び、今は東本願寺に属する。

蓮生寺(れんしょうじ)

浦池村(うらいけむら)にある。承元丁卯の年(1207年)、蓮生房法力(れんしょうぼうほうりき)が置いた。兵火(戦火)に遭って廃れたが、釈円通が再建した。円通はすなわち青木城主である櫟原石見(いちはらいわみ)の男子である。直径二尺三寸余り、重さ五十五斤ばかりの車渠(シャコ貝)を所蔵している。伝承では豊臣公の遺物であり、十一世の含秀がこれを得たという。仏光寺に属する。

廃補陀寺(補陀寺の跡)

秋月村にある。暦応三年、権大納言源尊氏(足利尊氏)が置いた。梁銘(棟札などの銘)が残っている。釈疎石(夢窓疎石)を祖とし、改称して安国寺とした。源頼之(細川頼之)がこれを板野郡の萩原に移した。康永元年、疎石が請うて釈一以(僧・一以)がここに居住した。のちに釈徳済、釈中諦もまた居住した。

光福寺(こうふくじ)

同じく秋月村にある。大野寺に属する。

円光寺(えんこうじ)

成当村(なりとうむら)にある。興正寺(こうしょうじ)に属する。釈正善が置いた。正善は初め橘盛澄(たちばなのもりずみ)と名乗った。高麗の金鐸一口を所蔵している。

教覚寺(きょうかくじ)

同じく成当村にある。旧は天台宗で自然寺と号し、水田村にあった。正安年中に兵火に遭い、のちに釈敬西がここに移した。天文年中に釈永徳が再建した。今は円光寺に属する。

熊谷寺(くまたにじ)

土成村(どなりむら)にある。荘厳院に属する。大悲閣(観音堂)がある。山を背にし、その前は花桜(桜の花)の狭い道となっている。

法輪寺(ほうりんじ)

同じく土成村にある。真言宗を修める。「輪」は「蓮」とも作る。

称念寺(しょうねんじ)

水田村(みずたむら)にある。浄土宗を修める。

薬師寺(やくしじ)

柿原村(かきはらむら)にある。真言宗を修める。

妙憧寺(みょうどうじ)

同じく柿原村にある。真言宗を修める。

廃光福寺(光福寺の跡)

同じく柿原村にある。今は田となっている。

清宝院(せいほういん)

柿原村にある。また阿弥陀寺と称する。三宝院に属する。阿弥陀像を安置し、観音・勢至(勢至菩薩)を脇侍とする。また虚空蔵・大日・不動像を安置する。八幡祠を管轄する。天文年中には優婆塞(うばそく/在俗の修行者・修験者など)の盟主であった。

⛩️祠廟

建布都祠(たけふつのほこら)

『延喜式』神名帳に小社(小祀)とみえる。すなわち健雷神(たけみかづちのかみ)のことで、またの名を建甕槌神(たけみかづちのかみ)という。『日本書紀』神代紀に、高皇産霊尊(たかみむすびのみこと)がさらに諸神を集めて、葦原中国(あしはらのなかつくに)に遣わすべき者を選ぼうとした際、皆が「磐裂神(いわさくのかみ)の子である磐筒男(いわつつのお)・磐筒女(いわつつのめ)がよい」と言ったと記されている。

事代主祠(ことしろぬしのほこら)

『延喜式』神名帳に同じく小社(小祀)とみえる。伊月村(いつきむら)にある。今は事代明神(ことしろみょうじん)と称する。『日本書紀』神功皇后紀に、尾田の吾節(あふし)の淡郡(あわのこおり)に居られたとき、「これはいかなる神か」と問うたところ、「天事代虚事代玉籤入彦厳之事代神(あめのことしろそらのことしろたまくしいりひこいつのことしろのかみ)である」と答えたとある。今考えるに、「伊月」はおそらく「厳(いつき)」の音が転じたものであろう。『日本書紀』神代紀には、事代主神が出雲国の三穂之埼(みほのさき)に遊行しており、魚を釣ることを楽しみとしていた、あるいは鳥を狩る(遊鳥)ことを楽しみとしていたと記されている。

杉尾祠(すぎおのほこら)― 西林村

西林村(にしばやしむら)にある。また、八幡祠、蛭子祠(岩津里にある)があり、さらに枯木祠、八幡祠、水神祠、日吉祠、王子祠、貴船(貴舩)祠、弱宮(わかみや)、天神祠、および二つの鎮守祠がある。

山王祠(さんのうのほこら)― 東林村

東林村(ひがしばやしむら)にある。また、八幡祠、牛頭祠(ごずのほこら)、清折祠(きよおりのほこら)、東条(東條)八幡祠、および二つの鎮守祠がある。

八幡祠(はちまんのほこら)― 小倉原

小倉原(おぐらはら)にあり、弱宮(わかみや)と称する。

花折祠(はなおりのほこら)― 伊沢村

伊沢(伊澤)村にある。また篠原祠(篠原紫雲およびその子の大和守を祀る)があり、さらに祇園祠、田神祠、御権殿(ごごんでん)、三体(三體)祠、二つの八幡祠、二つの弱宮がある。また、妙体(妙體)祠が縦墾(じゅうこん)の山頂にある。また杉尾祠(一説にその神は伊佐波止見命〔いさはとみのみこと〕という)があり、さらに弱宮、泉(いずみ)祠、春日祠、山王祠、天満祠、天王祠があり、これらは並んで谷島(たにしま)にある。

牛頭祠(ごずのほこら)― 西川村

西川村にある。また星祠、山王祠、酒造祠、柳川祠、貴布禰(きふね)祠がある。

鴨祠(かものほこら)― 中野村

中野村にある。また弁財天祠があり、さらに小山祠(その主は小山修理)がある。

別雷祠(わけいかづちのほこら)― 朽田村

朽田村にある。旧は中野村にあり、貞享元年にここへ移した。越智通玄が偃月刀(えんげつとう)一枝を奉納しており、これは備中の水田源国重の作である。また春日祠、稲生祠、鎮守祠がある。

八幡祠(はちまんのほこら)― 大叉村

大叉村にある。また総頭祠、春日祠、鎮守祠、八幡祠、平岡祠があり、さらに夕日祠(その主は柿本人麻呂)、朝日祠(その主は山部赤人)がある。

八幡祠(はちまんのほこら)― 勝命村

勝命村にあり、弱宮と称する。また春日祠、牛頭祠、王子祠がある。

菊理祠(くくりのほこら)― 勝命村

同じく勝命村にある。『旧事紀(先代旧事本紀)』に「伊弉諾(いざなぎ)・伊弉冊(いざなみ)の二尊が泉津平阪(よもつひらさか)で相闘ったとき、菊理媛神(くくりひめのかみ)が申し上げる事があり、伊弉諾尊はこれを聞いて善しとされた」と記されている。

西宮(にしのみや)― 上喜来村

上喜来村にある。また鎮守祠、天神祠、神功皇后祠がある。

藺笠祠(いがさのほこら)― 犬墓山頂

犬墓山頂にある。相伝によれば、新田氏の族が逃れて来て、常に笠をかぶって歩いており、死後に祠を作ってこれを祀ったという。また平氏権現祠、三体祠、糟屋祠、白髭祠、星祠、二つの八幡祠がある。

八幡祠(はちまんのほこら)― 日開谷

日開谷にあり、苦木(にがき)と称する。また稲荷祠、弱宮、杉尾祠があり、さらに円山祠(おそらく岩野のことか)、神明祠、牛頭祠、九王野祠、松尾祠がある。また二社、為俊祠、大平祠、八幡祠(川又にある)、鎮守祠(大池にある)、神明祠(楸生にある)、二社(東方にある)、二所祠(河原芝にある)、葛生権現祠(山頂にある)がある。

新田祠(にったのほこら)― 日開谷城址

同じく日開谷の城址にあり、太尾権現と称する。その主は源義宗、源義治である。側にその墓がある。岩戸の農民が古器の弓矢、剣、御勒(馬具)、および椀を蔵しており、新田氏の遺物であると相伝している。

大楢祠(おおならのほこら)― 大影村

大影村にある。また八幡祠、熊野祠がある。

八幡祠(はちまんのほこら)― 香美村

香美村にある。長さ一尺九寸五分の偃月刀一枝を蔵している。また住吉祠、牛頭祠、吉備津祠、春日祠、平野祠、平治祠がある。

杉尾祠(すぎおのほこら)― 香美村

同じく香美村にある。一に建布都神(たけふつのかみ)と称する。旧は山麓にあったが、百五十年前にこれを藤太夫塚に移した。

菅廟(かんびょう)― 興埼村

興埼村にある。その主の画像は、相伝によれば従五位下加茂清真という者が奉納したものである。また牛頭祠がある。

弱宮(わかみや)― 市場街

市場街にある。また夷祠、弱宮があり、さらに天神祠(一説にその神は天尾羽張神〔あめのおはばりのかみ〕という)がある。

春日祠(かすがのほこら)― 尾開村

尾開村にある。また牛頭祠、八幡祠、鎮守祠、石神祠、山王祠がある。

松尾祠(まつおのほこら)― 山上村

山上村にある。また王子祠、崇道天皇祠がある。

杉尾祠(すぎおのほこら)― 大野島

大野島尊光寺の側にある。また江島祠、高良祠、菅廟、鎌倉祠があり、さらに牛頭祠(総堂と称する。その廟は旧七間八架であった)がある。

八条祠(はちじょうのほこら)― 粟島村

粟島村にある。

弱宮(わかみや)― 切幡村

切幡村にある。すなわち八幡祠である。また菅廟、明神祠、鎮守祠、龍祠がある。

薬王子祠(やくおうじのほこら)― 浦池村

浦池村にある。また神木祠、奈岐祠、弱宮、中宮、部路祠、祇園、井上祠、奥宮、九王野祠がある。

王子祠(おうじのほこら)― 秋月村

秋月村にある。一説におそらく「凡(おおし)」の転訛であろうという。『続日本紀』にいう「粟凡直(あわのおおしのあたい)」がこれである。また山霊祠、蛭子祠がある。

宮内祠(みやうちのほこら)― 伊月村

伊月村にある。また五権祠、弱宮、鎮守祠がある。

八幡祠(はちまんのほこら)― 八幡街

八幡街にある。また蛭子祠、原田祠がある。

赤田祠(あかだのほこら)― 成当村

成当村にある。また神木祠があり、側に楠(豫章)の巨木が若干囲あり、中に湧泉がある。また里社がある。

杉尾祠(すぎおのほこら)― 土成村

土成村にある。また王子祠、諏訪祠、櫧原(かしはら)祠、高台祠、天神祠がある。

日吉祠(ひよしのほこら)― 水田村

水田村にある。また神明祠、弱宮、神木祠、二つの山霊祠がある。

西宮(にしのみや)― 郡村

郡村にある。すなわち蛭子(えびす)である。

杉尾祠(すぎおのほこら)― 郡村

同じく郡村にある。土地の人はあるいは建布都祠がこれであると言う。

十二社(じゅうにしゃ)― 柿原村

柿原村にある。また鸛森祠、龍祠、天神祠、八幡祠、西宮総堂祠がある。また弱宮が広永里にあり、その地を御所と称する。その主は藤原師光であり、柿原氏が置いたものである。

案内祠(あないのほこら)― 柿原村

同じく柿原村にある。おそらく藤原親家を祀ったものであろう。

祇園祠(ぎおんのほこら)― 知恵島

知恵島にある。