所蔵史料・由緒・社務移譲記録
この白鳥村の正八幡宮一社は、昔は白鳥村の山伏である大学と、矢野村の奥禅寺の両寺院が受け持っていたと申しております。
しかしながら大学の作成後(死後・退役等)、院の徒弟が極めて困窮して社務を行うことが難しくなりました。ゆえに奥禅寺についても寺の役目が非常に多くなったためか、右の両者で互いに助け合って維持していくことが困難な状況となりました。
そこで矢野村の神主である下田丹後に由緒をお尋ねになったところ、右の下田丹後の方へ譲り渡すことになり、その度ごとに丹後もこれを譲り受けて社務を行いたいとし、今後は右の丹後に沖嶽社を仰せ付けるとともに、そのほか度々、奥禅寺・成徳院・丹後が連名で願い出ました。
村中やその他からも異議がなかったため、右の両村の庄屋衆や知人、ならびに白鳥村の氏子たちが連名で裏書きをして願い出たことにより、右の神社は丹後の支配とするよう申し付けました。
明和3年(1766年)戌年 6月11日 津田勘兵衛 (花押)
右の三社について、以前に神社帳の改訂を行った際には申し出がありませんでしたが、この度、改めて矢野村の下田丹後が自分が所持(管理)する神社であると願い出たため、その旨を書き留めました。
ところが、同村の神主である富崎播磨も同職であり、これまでずっと社役を勤めてきたため、今回の件について「清持(自分の紛れもない単独管理)」であるとして承知せず、不審を抱きました。
そのため、「この度、丹後が所持するものとして決着させてしまえば、自然と播磨の立場を取り上げることになってしまう。右の神社を譲り渡すなどという話については、全く身に覚えがないのは当然である」として、異議の申し立てがありました。
そこで、その者たちが、白鳥村および矢野村の後見らの裏書きをもって願い出たため、精査した結果、右の三社は今後、富崎播磨が清持として受け持つべきものと言い渡しました。
明和5年(1768年)子年 7月25日 津田勘兵衛 (花押)、(判読不能) 吉兵衛 (花押)
この諏訪大明神の社僧である成就院が不埒なことをしたため、享保2年(1717年)、袈裟を懸けた山路村の山伏である持福院へ、本寺としての祠の場所を願い出たことにつき、飯尾村・山路村・内原村の三ヶ村の役人ならびに組頭・庄屋に頼んでほかへ仕向けました。
なおまた、郡所へ書面をもって願い出たため、ついに取り調べ吟味したところ、先年の名好坊の免状の分は持福院に申し付ける。もしこれに背くことがあれば袈裟を取り上げる。
右のことは、元々は飯尾村持福院が宮元(本元)であるという言い伝えがあるためです。
この度いざこざについても成就院が本元であるとの証拠は相違なく存在しないため、修験坊は袈裟を持福院へ引き渡すべきであるとする書物の内に、原村の五人組の証印を押して引き渡されたものがあるので、願いの通り袈裟を取り上げ、右の宮の儀は持福院へ引き渡させるよう裁判を申し付けたため、このように書き置くものである。
宝暦6年(1756年)2月20日
右の八幡宮は先却神社の由緒を伝えるものであり、郷中へ無より、神社を埋め八幡宮と申し、遷宮の節には尊師の儀として同所の名川島町にある志宝長生寺の仕様にする旨を神主が申し出ました。
この児島村の中道明神宮は、島村の社人である庄太夫が受け持っていた分であり、社役を勤めてきたところ、由緒があるため、この度、同村の宮太夫や鈴江惣右衛門の方へ譲り渡し、今後は出雲の支配とします。
春日大明神は社人である庄太夫の所持につき社役を相勤め居り申したところ、由緒があることにつき、この度同村の宮太夫・鈴江出雲へ譲渡し申す間、向後は出雲の支配とします。
申し付けられ、下知に対して双方より願いの書面を差し出したため、社役を相勤め申したところ、支障は無いとのことで、庄屋五人組共が書付を差し出したため、以後は右の神社を出雲の支配に申し付けます。
明和5年(1768年)子年4月5日 津田勘兵衛
右の神社(種穂忌部神社)は、以前は衰退してしまっており、当時は「那穂大権現(なほだいごんげん)」という名で呼ばれていました。
神主の中川民部は、神祇伯(神社を統括する役職)である白川家の雅富卿の先代・雅冬卿からの「御書付」1通と「御伝授の秘書」1通、そして現在の雅富卿からの「秘書」1巻、合計3通の文書を所持していました。
過去の丙(ひのえ)の年の8月からは、この神社を「多邪穂忌部神社(たやほいんべじんじゃ)」と呼んでいました。しかし、戌(いぬ)の年の3月に雅富卿に対して(名称変更を願い出て)、「多邪穂」の3文字を除き、「種穂」の2文字へと公式に改めていただきました。
このたび、民部が「種穂忌部神社」として正式に記録し(証拠の文書を)持ち出してきたため、事実確認のために白川家へ使いを出し、所持していた3通の文書をすべて提出させたところ、(内容が確認され)杉上の配下である早雲と民部へ文書が返還・引き渡されました。
また、彼らからの申し出によれば、「白川家から与えられた許状(許可証)には『中川』という宛名が記されています。そのため、地元ではこれまで『早雲(そううん)』と名乗ってきましたが、今後は公式の文書に合わせて『中川』と名乗りたい」と願い出があったため、この改名を聞き届けました。
板野郡の大岡別宮浦須崎にある稲田九郎兵衛の拝領地内の小宮について、この度の神社改め(調査)にあたり、役地から何の申し出もなかったため、組頭や庄屋の木戸藤左衛門を呼び寄せて事情を尋ねました。
すると、「どのような事情か全く存じておりません。その上、この土地は近年になって九郎兵衛様が拝領した土地となり、萱野などを引き渡した経緯もあり、庄屋の管轄でもなくなっているため、書き出し(報告)をしなかった」と内々に申し出がありました。
そこでさらに役所へ問い合わせていたところ、持明院の管轄として認識されている筋もあるように聞こえたため、これについても確認したところ、別当職として改めて管理を行っているような神社ではないとのことでした。九郎兵衛殿の拝領地にある鎮守のようなもので、特定の管理者は誰もおらず、もちろん祭礼などを行うような祠などもないとのことでした。
その上、どこからも申し出がないため、結局この帳面には書き入れないこととしました。この件については、公に申し上げるべき内容でもありませんので、お聞き置きください。
何分よろしくお取り計らいくださるよう、中川泰兵衛が右の帳面を提出した際に庄太兵衛が申し懸けたところ、この件は出雲殿(加島出雲)へ泰兵衛が申し上げ、ご承知くださったとのことです。なおまた、泰兵衛を通じて仰せ出された通りです。以上。
寛保3年(1743年)亥年2月28日 坪内庄太兵衛、速水角五郎、生駒彦吉 (宛先:太田章三郎殿)
合計340社、速水角五郎 手崎分、都会(総計)1236社
右の通り、一昨年の夏に神社について差し出した公儀の御書付をもって、ここに仰せ出されました。ついては差し出した神社の件、神主や別当の有無を承知し、記して差し出すべきこと。
なかでも麻植郡東川田村の種穂忌部神社については、白川家へ伺いを立てて認められ、差し出した上は、そのように仰せ付けられたものと承知すべきである。
公事御裁判書やその他お渡しになられた御書付があるならば、差し出すように仰せ出されました。この度、公事御裁判書やその他御奉行所へお渡しになられた書付があるならば(差し出すこと)。対象となる神社は他にありません。以上。
亥年 2月28日 加島出雲殿宛て 生駒彦吉、速水角五郎、坪内庄太兵衛
覚:去る夏に仰せ出された通り、以前の御書付等があり、御奉行所へ残らずお渡しになっている様子の神社については、この度重ねて神社名を記して差し出すこと。また、阿波国板野郡大麻彦神社について、この度の御奉行所へ差し出す神社帳へは記し入れないこと。ならびに淡路国津名郡の伊勢講の神社については、当時の近々の御奉行所への差し出しの通りにすること。