羊我山人 郷土研究録
粟の抜穂 地の巻
著 飯田 義資
※本ページは上記文献からの抽出文と歴史背景の解説文です

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天保のむかし、藩士佐和直縄は、阿波国内の各地に遺存する古文書を博く探し、これを手写して『栗拾穂抄』と名づける書物を著わされたが、われわれは今もこの本の恩恵に浴しているのである。阿波の国学者としての先輩、野口年長は、安政のころ郷土の地理・歴史に関する論稿や考証をまとめて『栗の落穂』という著述を残していられる。われわれは現にこの本から啓発を受けることが多いのである。

郷土研究の先覚者、田所眉東翁は、多年にわたり阿波郷土の歴史に関する新聞記事を切り抜いたものを貼付した本を作り続けて数十冊に達し、これに『栗の種袋』の題号を付して愛蔵しておられたが、昭和二十年七月の戦災で烏有に帰したのは惜しいことであった。また翁は自著の論考を自費出版して、これも『栗の種袋』と称し、昭和十六年その歿後に第十巻が出た。

これら諸先人の足跡に導かれつつ、阿波郷土研究の路に踏み入ってから早くも四十五年を過ぎたが、何ら見るべき業績を残し得ないことを嘆いている。ただ最近の数年間、引き続いて徳島県教育会の機関雑誌である月刊『徳島教育』に執筆した『誌上博物館』を、種目別に分類整理して本にまとめることになり、先人の書名にならって『栗之抜穂』と名づけることにした。(後略)

昭和庚子仲冬初五 1960年(昭和35年)の11月5日
羊我山人識

水井の水銀鉱

創業と発展

明治十九年(一八八六)、淡路国志筑の人、蛇目連太郎が創業したが、明治二十五年(一八九二)に薬学博士、丹波敬三の手に帰し、その開発によって最盛期には、日本の全生産量の六〇%を占めたと伝えられる。

所在地は阿南市水井町で、那賀川中流の右岸に位する山脈中に賦存している。北方に急斜する石灰岩層中に分布する二条の角礫岩状の鉱脈で、ともに両翼が緩斜している背斜状をしていて、その背斜軸は北方に斜下している。恐らく母岩を褶曲した南北方向の横圧力のためにこの部分が北方に摩行し、その際に二条の角礫岩状摩行帯を生じたものであろうと考えられる。

なお母岩の石灰岩は、粉末にして火中に投ずると美しい青色の光を放つところの熱発光現象を呈する特別な性質を持っているのである。

産額の推移

硫化水銀鉱すなわち辰砂は、幅八〇を超えない鉱樋中に、あるいは幅三以下の網脈をなし、あるいは拳大に満たない鉱塊をなしていて、明治二八年(一八九五)ごろには自然水銀をも産して、年一万斤の産額があり、明治三五年(一九〇二)ごろには、鉱石中水銀の歩留り百分の一を示し、年産類約一千斤を精練し、大和(奈良県)とともに、我が国における二大水銀産地として、鉱物学教科書にも記載せられていたのである。

その後もなお継続して稼行せられたが、産額は次第に減少し、明治四〇年(一九〇七)四二三斤、大正三年(一九一四)二九〇斤、大正五年(一九一六)三一八斤などの記録が散見するに過ぎず、大正末期には廃坑して、もっぱら石灰岩の採掘に転向していたのである。

ところが日華事変から太平洋戦争に至る戦時中は、水銀の需要が非常に多くなったので、これを充たすために復活して操業し採算を度外視して採鉱を行ったのであった。敗戦後『昭和二十四年度版徳島県勢要覧』には、「由岐水銀鉱山の産額粗鉱一四・一四七、品位〇・三%、製煉水銀一三一・五二五」と記されている。

【時代背景解説】近代日本における水銀の戦略的価値と丹波敬三

『粟の抜穂』に記録された大規模な水銀採掘には、当時の日本の富国強兵と深く結びついたダイナミックな産業史の背景が存在します。

『日本地質鉱産誌』(昭和七年) の記録

地質調査所創立五十年記念『日本地質鉱産誌』の、第二編鉱産、第一章金属鉱物、(一六)水銀鉱の節を左に抄録する。

本邦に産する水銀鉱は主として、辰砂にして屢々准辰砂を伴ふことあり、石英鉱脈又、鉱染状態の鉱床中に主に塊状・粒状・土状を為して産す。辰砂は化学成分上水銀八七%を含有すれども、水銀鉱石として稼行せらるるものは品位最低〇・五%内外迄のものなり、水銀鉱床は各地に知らるれども現在稼行せらるる鉱山は僅かに奈良県磯城郡多武峰村多武峰鉱山・同県宇陀郡宇太村大和水銀鉱山の二ヶ所に過ぎず、是等も鉱産額少なく、本邦に於ける水銀需要の大部分は之れを輸入に仰ぐものにして、最近五ヶ年間の輸入高は左の如し。

最近五ヶ年間の輸入高

年次 輸入高 (瓩) 金額 (円)
大正十五年三二、七四八、〇六〇一、四五八、一〇三
昭和二年二六、九五七、五八〇一、三七八、六七六
昭和三年三〇七、二六〇一、八六八、八六一
昭和四年三三三、二三〇一、九四二、一八四
昭和五年二四七、一四〇一、三四六、三九五

水銀鉱山及水銀産地 (表中より水井鉱山を抄出す)

鉱山及産地 水銀錳鉱山
所在地 徳島県那賀郡加茂谷村
地質及鉱床 白堊紀の粘板岩及石灰岩中の断層面に伴ひたる鉱脈、通幅〇・七米内外、辰砂は二種内外の細脈鉱石辰砂は瀝青質の方解石を伴ふ富鉱部は品位一%
産額 大正十五年 粗鉱〇・〇二三吨

この表には、多武峯鉱山・大和水銀鉱山・水銀錳鉱山・水銀沢(南樺太)・様似(日高国)・明治鉱山(後志国)・姪子館(岩手県)・父ノ川(愛媛県)・波佐見(長崎県)・大口(鹿児島県)・平林(台湾台北)の十一鉱山が掲げられているが、はじめの二山の外は昭和に入ってからは産額は皆無である。参考のためにこの二山を抄出すると左の通りである。

『徳島県富岡・日和佐図幅説明書』(昭和三十三年)

昭和三一年度総合開発調査の鉱床、水銀鉱の項には、次の記事がある。
「地域内では富岡町水井に水銀鉱が胚胎しており、由岐鉱山が現在稼行している。鉱床は醍醐層群中の石灰岩・チャート及び塩基性凝灰岩中の小断層・割れ目に侵入した辰砂の鉱脈である。鉱脈は幅二㎜〜一㎝位の細い脈となって存在しているが、膨縮・分枝がいちじるしく、長くつづかない。なお網状の微細な脈が集合した複成鉱脈の場合もある。」

昭和三十七年十二月


阿波の石灰

一、本県の地下資源の概況

本県の地下資源は、明治時代に水井の水銀が日本一の産額を誇示し、明治以来昭和初期まで四国山脈の含銅黄鉄鉱が相当の成績を挙げたが、現在では金属鉱山は掘り尽されたらしく、極めて不振の状態にある。ただ非金属鉱山の石灰石だけは、やや活況を見せて、本県の鉱産に生彩を保たしめているのである。

二、石灰岩の分布と鉱山

石灰岩は、主として阿南市および那賀郡に東西に分布する古生代の地層である秩父累帯の中に賦存していて、各地で採掘せられている。その中で、良質でしかも埋蔵量が多いのは、醍醐層群に属するもので、目下盛んに稼行せられている。それらの鉱山を、那賀郡教育会—『教育那賀』(昭和三四)の『那賀の地質』六、鉱産の項から摘記すると、左の通りである。

三、生産と統計

徳島新聞社―『徳島年鑑』(昭和三六)中の鉱業石灰石の項には、次の記事がある。

「地下資源のうち、最も重要視されるもので、県南の那賀地方に埋蔵されている。埋蔵量は、二三鉱床で一億七千万トンといわれ一六鉱山が採掘している。
従業者 二〇六人、生産量 石灰石九万トン、生石灰 九、五〇〇トン、消石灰 三万トン。」

『徳島県勢要覧』最近三カ年の統計

年次 鉱山数 従業者 (人) 生産高 (トン)
昭和三五年一四二九三一一三、八九七
昭和三六年一四二六〇一〇九、四七七
昭和三七年一四二五二二六、九一一

竹内勘兵衛と十郎兵衛の事績

1. 鉱脈の発見

近江国彦根の人、竹内勘兵衛は、四国霊場巡拝に来て各札所を回る途中、那賀郡水井村へ来た時、石灰岩の露頭によって、その鉱脈を発見した。それで、これを村民に話して試みに採掘したところ、果たして良質であったので、帰国した後に、この事を藩主井伊侯に申し出て事業を開始することを請願した。井伊家はこれを蜂須賀家に申し入れて許可を請うたところ、第十二代藩主蜂須賀治昭は、これを許可し、しかも令して一国一手の製造すなわち独占事業とした。

2. 十郎兵衛による事業の拡大

そこで、勘兵衛の嗣子十郎兵衛が阿波に来て、この事業に従事することになった。十郎兵衛は、名を長福といい、森彦次の子で、母は横関家から嫁した人であった。勘兵衛の養子となって竹内家に入り、これを継承したのである。
寛政六年(一七九四) 阿波に来て、那賀郡水井村(現、 阿南市)に家を構え、一意専心石灰岩の採掘と石灰の製造に励精したので、事業は年を追うて盛大になり、産額は月々に増加した。製品を諸国に輸送して販売したが、中でも大阪が第一であり、産額は年産およそ十万俵に上り、その利益金は五百両に達した。これによって、阿波の石灰の産出が次第に世に広く知られるようになったのである。

3. 十郎兵衛の人柄と社会貢献

十郎兵衛は、人となり質実剛直であって、人にこびず、自己を律すること厳で、倹約を守り、人に接すること寛で、これを豊かにし、難を救い、急を賑わし、人をして悪を去って善に就かしめた。それ故、衆人皆これに悦服して、敢えて非とするものがなかった。
常に次のように言っていたと伝えられる。「人の幸福は、ただ身の行いにある。人は余りがあれば施そうというが、私は三度の食事の半分を分けて飢えた者に与え、得たところの利益金は、これを三分し、一は阿波と彦根の国主に奉り、一は神社仏閣を修理し、道路を平らかにし、用水・排水を通ずる資金にあて、一は家人を養う費用に供するのである。」と。この事が彦根と徳島の両藩に聞こえたので、両藩からそれぞれ扶持米若干を賜わって、これを賞せられた。

4. 引退と晩年

文化十年(一八一三)、年齢が五十に達した時、寿を祝福する者が戯れて「分果充分」といった。十郎兵衛はこの言葉を聞いて、喜んで次のように言った。「私は初めここへ来る時に、二万両を得てこれを三分しようと期待したが、今は僅かに三千両に過ぎない。そうして人が今このように言うのは、天が私を退かしめようとするのではなかろうか。功成り、名遂げたのは、退くべき時期である。」と。
そこで、家屋住宅や器物道具は、ことごとく公に奉り、一物をも身につけず、世を避けて、「静也翁心海」と号した。彦根に帰って、余ったところの金は残らずこれを親戚故旧に分与し、一銭をも留めずして言った。「私は両藩から賜わる扶持米で、老後の生活は充分である。」

5. 後継と最後

正木氏を妻としたが、子がなかったので、彦根と京都と大阪に他人の子を貰って各一人を養い、皆にそれぞれ資金を給して産業を営ましめていた。退いた後は、三子の家に往来移転し、仏に仕える外はすこぶる茶事を喜び、世間の事は再び意にかけなかった。
文政二年(一八一九)再び阿波に来て、病にかかり、正木氏の所で三月二十日、年五十六歳で死去し、勝浦郡中田村(現、小松島市)の桂林寺に葬られた。

6. 十八女用水

十八女(さかり)村は、その居宅に近く、水利の便が悪くて常に旱害に悩んだ。十郎兵衛は自ら資金を投じて工を起こし、山を掘ること約八㎞、水路を開通した。これが今に至るまで一村が恩恵を受けている十八女用水である。

7. 彰徳碑と余徳

彰徳碑は、文政二年八月、国学者賀茂季鷹の文で、桂林寺(小松島市)に建てたものを、後に妻が二軒屋(徳島市)の潮見寺に移したものと、文政八年二月、信者柴野碧海の撰文で水井(阿南市)に建てられたものの二基が現存している。
横山春陽先生に拠れば、土佐の石灰製造は、文化年間に、四国遍路に行った阿波国の人徳右衛門によって、今の南国市の下田付近で創始せられたと伝えられている由で、これも十郎兵衛の余徳と称すべきであろう。

<昭和三十九年十月>


式内社

延喜式は、藤原時平ら十七人の公卿や学者が二十年間を費して編集し、醍醐天皇の延長五年(九二七)に完成して撲進した平安時代の法令書である。令というのは官制の大綱を示す根本法令であって、大化の改新の諸制度は近江令・浄見原令を経て大宝令(七〇一)にいたって完備し、奈良時代に修正せられて養老令(七一八)となり、永く行われた。式というのは、この令に関する一定の法式・標準を記した施行細則の規定であって、延喜式はその最も整ったものである。

延喜式巻第九は神祇九の神名上となっていて、宮中・京中・五畿内・東海道の神社を掲げ、巻第九は神祇十の神名下となっていて、東山・北陸・山陰・山陽・南海・西海の神社を載せているのである。この両巻を普通『延喜式神名帳』と呼んでいるのであって、これに登録せられている神社を「延喜式内社」・「式内神社」あるいは「式内社」(しきないのやしろ・しきないしゃ)と称し、さらに略して「式社」と呼んでいるので、時にはもと神祇官の製簿に社名を録せられた神社の称にちなんで「官社」ともいわれ、朝廷の尊崇が極めて厚い神社であったことを示している。それ以外の神社は、すべて「延喜式外社」であって、単に、「式外社」(しきげのやしろ・しきがいしゃ)と称し、延喜以後に創建せられたものはもちろん、延喜以前の神社でも登載せられていない社がある。その中で、六国史に記事の出ている社を「国史見在社」(こくしげんざいしゃ)と称し、阿波国では名方郡の白鳥神社・植生女屋神社、板野郡の天河別神社・葦稲葉神社などがこれに属するのである。

式内社には官幣社と国幣社があり、それぞれに大社と小社がある。官幣社を大社と小社に区別した標準は、祈年祭に神祇官から幣用を奉奠する際に、案上に奠するもの(案上の幣)と案下に突するもの(案下の幣)とによった。また大社には祈年祭の外に、月次・相嘗・新嘗の三祭もしくは月次・新嘗の二祭にも同様に幣を受けるも存在しなかった。国幣社は国幣を炊したので、その大・小の別は官幣社に準じたらしく、名神社の外は祈年の国幣に預るのみであった。

官幣大社と国幣大社の中には、名神祭に預る社が二百八十五座ある。名神祭とは一朝事ある際、祈願のためにその社にのみ奉幣が行われる臨時祭である。これは一種の社格のごときもので、大社の中で特に崇敬の厚い有名な神社に対し名神という名称の下に特殊の尊崇を捧げられたものらしい。式内社の座数は次に摘録した表によって概観することにする。

神名帳登載の神社は、その由緒が古く規模が大で信仰者の多いものを網羅しているとは限らない。当時、地方で有力な豪族が、自分の氏神や鎮守の社を登録するために運動したり圧力をかけたことは当然あったと想像せられ、相当政治経済的色彩の濃厚なことを考慮に入れる必要がある。従って式内社の分布によって推定せられることは、地方豪族の存在と、その勢力圏であろう。この観点から前掲の表に注目すると、四国の中で阿波国の式内社数が断然他の三国を圧し、かつ官幣大社二座を有することは、当時相当の経済力を持ち、しかも京都の朝廷と連絡のある権力の存在を暗示しているのである。しかし他の一面、国幣大社の少ないことは、富の分配において有力な地方的豪族の少数を物語るものではなかろうか。

いつたい神社の位置は、古い時代は山の上に在ったのが、次に中腹に下り、さらに低い山のふもとに移った形跡がある。これは昔の交通路や集落と関係があると想像せられ、旧社地を伝える口碑や伝承、古宮・古芝という地称の存在などによってこれを立証することができる。

また一般に、神社というものは寺院と違って、その建築の性格上、礎石や古瓦のような著しい遺物を残さないから、いったん他所へ移転してしまうと、その遺跡は比較的早く滅んでしまうのである。それで後代になって位置に関する論争が起こると、その判定が不可能なことが多い。式内社や国史見在社にこの事態が発生した時は、これを「論争社」あるいは略して単に「論社」というものができるのである。また維新前後に出た国学好きの神職が、故意に考証的付会を作為し、別の神社を式内社と強弁し、そのために後世を誤り、今は大衆がそれを信じている神社も県内に二〜三社あるらしい。式内社についての研究は、国学の勃興に伴って隆盛になり、永井精古の『阿波国神社略考』(文化一〇一一八一五)・野口年長の『阿波国式社略考論』・早雲高古の『阿波国式社考証合類』があり、明治にはいって岡本監輔の『名神序頌』 (明治二八一一八九五)が出ている。

<昭和三十四年一月>

なお最近には、徳島大学福井好行助教授(後に教授)の『阿波国王朝時代集落の分布式内社を通じてー』(昭和三〇―一九五五)・京都学芸大学志賀剛教授の『古代村落より見たる式内社の研究の阿波国五十座』(昭和三三年―一九五八)が出ている。

<昭和三十五年十月補>


式外社

式外社(しきげのやしろ)は式外(しきげ)神社の略称で、『延喜式神名帳』に登載されていない神社の総称である。『延喜式』の他の部分に出ていても『神名帳』に載っていないのは『式外社』であり、『延喜式』が撰進せられた延長五年(九二七)以後に創建せられた神社は、むろん式外社で、京都祇園の八坂神社や北野神社がそれである。しかし延長五年以前に建立せられた神社でち、男山八幡宮や香椎宮などのように登載に漏れた社も相当あるらしい。

六国史所載社は、また国史現在社ともいわれ、官撰の国史である『日本書紀』・『続日本紀』・『日本後紀』『続日本後紀』・『文德実録』・『三代実録』の中にその名が見えている神社をいう。この中には式内社も含まれているのであるが、普通には六国史に見えながら神名儀に載っていない社を式内社に対して特称する語として使われている。これらの社は、式内社と共に朝廷尊崇の社として由緒上重んぜられてきたが、江戸時代にはその真蹟がで滅に帰し、二つ以上の神社が互に由緒事蹟の正否を争って自己の正当を主張し、終に幕府に裁決を乞うて黒白を定めるにいたり、いわゆる論争社 (論社)を生じた。明治憲法下の大日本帝国時代には、官国幣社・延喜式内社と相並んで重視せられ、大正二年内務省令第六号によって、その移転・廃止の際には地方長官から内務大臣あてに稟請(ひんせい)することと定められていた。

阿波の式外社は七社、あるいは一社を除いた六社とせられている。その分布は板野郡四(三)社、名西郡三社で、吉野川下流北岸に四(三)社・南岸に一社、鮎喰川流域に二社と局限せられた地域以外には存在しない。

1天河別神社(あまかわわけじんじゃ)

鳴門市大麻町池谷に鎮座し、天太玉命の御子天石戸別命を祀る。中古、松童権現と称せられたが、明治三年旧号に復し、そのころ村社に列せられた。祭神については野口年長の『栗の落穂』に『朝野群載』から引用した詳細な考証がある。承暦四年六月十日の文で、七月から十二月までト火が行われたことがわかるのである。

2伊比良咩神社(いひらめじんじゃ)

板野郡藍住町徳命に鎮座し、祭神伊比良咩命については不明である。『式外神名考』に阿波国三神の一つに数えられている由が、『板野郡誌』に見えている。中古、若宮大権現と称せられたが、明治三年旧号に復し、明治四年村社に列せられた。『三代実録』巻第廿二清和天皇貞観十四年十一月二十九日乙未の条に阿波国正六位上伊比良咩神に従五位下を授く、と記されている。朝日新聞社版(昭和一五)には左の頭注(佐伯有義)がある。
「伊比良咩神、式外、神祇志に所在板野郡奥野村、一說東中富村若一王子祠内合祀とあり。」
しかし『大日本史神祇志』には合祀のところが、「有小社日伊比良明神是也」となっている。

3中臣大鳥神社(なかとみおおとりじんじゃ)

板野郡、『新鈔格勅符』に大同元年に本国封二戸を定められたことが記されている。『神祇志』には郡名は土人の説に據る、大寺村に在り、大鳥社と称す、按ずるに本郡は蓋し和泉大鳥社の封戸在る所、故に其神を分祀する也、姑く附して考に備う、とある。

4葦稲葉神社(あしいなばじんじゃ)

板野郡上板町神宅鎮座、祭神倉稲魂命・鹿江比売命、明治の社格は村社。『続日本後紀』巻第十二仁明天皇承和九年冬十月辛酉朔壬戌(二日)の条に、阿波国無位葦稲葉神に従五位下を授け奉るの項があって、朝日新聞社版の頭注に次のごとく記されている。
「葦稲葉神、式外の神、板野郡大山村神宅、葦は原本莘に作る、内閣本・尾州家本・神宮文庫本等に據て改む。」
『三代実録』巻第十四清和天皇貞観九年四月二十三日壬辰の条に、阿波国従五位上葦稲葉命・大麻比古神並に正五位下を授く、とあり、同巻第廿五貞観十六年三月十四日癸酉の条に、阿波国正五位上葦稲葉神に従四位下を授く、とある。同卷第三十六陽成天皇元慶三年六月廿三日壬午の条に、阿波国従四位下葦稲羽神に従四位上を授く、の項がある。

5白鳥神社(しらとりじんじゃ)

名西郡石井町白鳥に鎮座し、祭神は日本武尊と伝えられ、明治の社格は村社であった。
『三代実録』巻第五清和天皇貞観三年三月六日庚辰の条に、阿波国正六位上白鳥神に従五位下を授くと記されている。『神祇志』、今名西郡に在り、白鳥村に在り、村北門実村に白鳥寺有り是れ本社の別当為り、郡名神名阿波志に據る。
『三代実録』巻第四十四陽成天皇の元慶七年十二月二日甲午の条に、阿波国従五位下白馬神に従五位上を授く、と記されている。朝日新聞社版の頭注には、次のごとくある。「白馬神、式外、神祇志白鳥神社とし、三代実録元慶七年条白馬に作るは蓋し誤と云。」

6船尽比売神社(ふなはてひめじんじゃ)

名西郡神山町広野字歯ノ辻鎮座、祭神は船尽比売命・天手力雄命、社格は村社、俗に歯ノ辻神社と称せられ、歯痛治癒の俗信を伴っている。
『三代実録』巻第廿二清和天皇貞観十四年十一月廿九日乙未の条、阿波国正六位上船尽比咩神に従五位下を授く。
『神祇志』今名東郡に在り、郡名は本社棟札に據る、入田広野二村の界に在り、羽辻明神と称す。

7埴生女屋神社(はにゅうめやじんじゃ)

名西郡神山町上角に鎮座し、大栗比売命(大宜都比売命——天石門別八倉比売命)を祭り、中古には田ノ口大明神また上一宮大栗神社と称せられた。明治三年旧称に復し、昭和二十年敗戦の直前県社に昇格せられた。
『三代実録』巻第四十四清和天皇元慶七年十二月廿八日庚申の条に、奉授阿波国従五位下埴生女屋神従五位上、とあり、朝日新聞社版の頭注に、神名式阿波国勝浦郡建鳥女祖命神社、小松島町中田とある。『神祇志』は、今名西郡に在り、郡名阿波志に據る、上津野名に在り、猶故社名を存す、としている。

<昭和三十五年十月>