栗の落穂 三の巻

目次

名西郡第十村の中島村は古き村号なること

淡路国三原郡国分村の国分寺にある釈迦如来像の銘には次のようにある。「阿波国国分寺の本尊である釈迦如来像一躯について敬って申し上げる。暦応3年(1340年)3月20日に手斧始(建築・造仏の儀式)を行い、同年27日に木開眼をした。暦応4年6月25日にご安置した。祈祷聖人は僧の乗□。大願主は誠導・尊忍房。女大施主は海氏の女。大仏師は法橋である僧の令円・観地房(昔は洛陽=京都に住み、今は阿波国名西庄第十の蓮福寺に居住して縁を結ぶ)。結縁の細工人は僧の流泉・□光房。任八大は僧の誠勲・良八房。僧の明俊・住法・□口。僧の実専・敷信房。住僧の覚禅・上口房。住僧の重信・檀田房。当住の信心結縁の衆僧は中道賢房(郷阿の延福寺の住職)、平光久。治部允である藤原近実。□□□僧の禅尊、若盤□□□」このように、早くも暦応のころには「第十中島」という村名のことが見受けられる。

貝の化石

那賀郡中林村の山に、里人が「ツベタ石」と呼ぶものがある。奇妙な形に似ている単なる石ではなく、貝が石になったものである。「ツベタ石」と言うけれども、一般に「ツベタ貝」と呼ばれる貝ではなく、別の種類の貝であり、今の世では見かけない貝である。大きさは梅の種が出たぐらいで、まれに栗の実ほどの大きなサイズのものもある。また、小さいものでは格子のような模様になっているものもある。また、同じ郡の楠根村の山にも貝が石に変化したものがある。これは一種類に限らず、色々な種類の貝がある。この「貝石」というものは他国(他の地域)にも多くあって珍しいものではないが、どういう道理で石になるのかということは、まったく人の推し量れるところではない。特に山に貝があるというのはどうしたことだろうか。海にあるはずのものである。この天地の始まりには大海原であったものが、山になった場所なのかもしれないが、知る由もない。ちなみに、土佐国で里人が「食い倒の蛤」と言って、弘法大師が昔残した跡だと言っているのも、この貝の化石である。したがって、語るに足らない説ではあるが、話に出たので記しておく。これは驚かされたことである。

菊花石

阿波郡浦ノ池村にある。例えば、摂津国の池田で焼かれた椚(くぬぎ)の炭を世間では「池田炭」と言うが、この炭の切り口に似たものが石にくっついている。大きさは直径約9ミリから約2センチばかりのものもあり、菊の花と言うべき形である。これも貝の化石であろう。

鏃石(やじりいし)

板野郡引野村の前阪という所にあるという。また、同郡大島田村の山で私が拾ったこともある。また、名西郡矢野村の山で色々なものを拾った人もいる。さらに、勝浦郡生夷谷(いくいだに)で拾った人もいるとのことだ。この石は諸国にあるが、美濃国、越後国、出羽国、陸奥国などには特に多くあるということである。里人が「神の軍勢の矢の根(矢尻)」と言う所もある。実に神がお造りになったものだろうか。(いや、そうではなく)形が似ているだけの自然の石ではない。全く欠けた石を研磨したようにはあらず、現代の玉磨きや彫刻などの技術で作り出せるようなものではない。この石は多くの神社の敷地から出ると言われている。また、塚穴(古墳)などに小さな壺に入れられて、古くから伝わってきたと見られるものも実在するという。

『続日本後紀』承和6年(839年)の条に言う。「10月17日、出羽国が言うには、『去る8月29日に秋田郡司が解状で申し上げた。この郡の西の浜辺は距離が五十余里ある。元来石は無かったが、今月の3日から長雨が止まず、雷電が響き渡ること十余日を経た。そして晴天になった時に海畔を見ると、自然に石が降っており、その数は少なくなかった。あるものは鏃に似ており、あるものは鋒(ほこさき)に似ていた。色は白、黒、青、赤などである。総じてその形は鋭く、みな西を向いており、茎(根本)は東を向いていた。古老に尋ねても未だかつて見たことがないという。国司が相談したが、この浜は砂地であり、直径一寸の石であっても昔から存在しない。そのため天皇に申し上げたのである。進上された兵家の石(武器のような石)数十枚は外記局に収められた』云々」とある。『三代実録』元慶8年(884年)の条に言う。「9月29日丙戌、出羽国司が言った。今年の6月26日、秋田城で雷電が鳴り暗闇となり、石の鏃が23枚降った。7月2日、飽海郡の海辺に鏃に似た石が降り、その矛先はみな南を向いていた。陰陽寮が占って言うには、あの国の憂いは兵賊(反乱)と疫病にあるだろうと。」また、同年10月2日己丑の条に言う。「出羽国に下知して、謹慎し警固させた。石の鏃が降る怪異は、兵乱の兆しであるからだ」云々。また、仁和元年(885年)の条に言う。「11月21日辛丑。6月21日、出羽国の秋田城中および飽海郡神宮寺の西の浜に石の鏃が降った。陰陽寮が言うには、山や秋に陰謀や兵乱の災いがあるだろうと。神祇官が言うには、あの国の飽海郡の大物忌神・月山神、田川郡の田豆佐乃売神がみなこの怪異をなした。祟りは不敬にある。勅命により、国司に諸神をうやうやしく祀らせ、謹慎し警戒させた」云々。

もし、承和の昔から今まで多くあるというのなら、その数は計り知れないものであろう。また、国史(正史)に「鏃が降った」と言っているのは、雨風で土砂が吹き飛ばされて、地中から現れ出たことを言っているのだろうか。されど確かに実際には恐ろしい(驚くような)事もあるのだろう。古今の物事を語るにしても、天地の間には人間の小さな心では全く推し量れないことが多いのだと思わなければならない。漢籍(中国の古典)にある「石砮(せきど)」というのはこの石のことだろうか。

『後漢書』東夷伝には次のようにある。「挹婁(ゆうろう)は古の粛慎(しゅくしん)国である。夫余の東北千余里にあり、東は大海に面し、南は北沃沮(よくそ)と接している。その北の限界は分からない。漢が興って以来、夫余に臣従している。部族の数は少ないが、皆勇気と力があり、険しい山に住み、弓射に優れ、放てば人の目に当たるほどである。弓の長さは四尺で弩(いしゆみ)のような力がある。矢には長さ一尺八寸の楛(こ)の木を用い、青い石を鏃(やじり)とする。鏃にはすべて毒が塗られており、人が当たれば即死する」

『魏書』には次のようにある。「勿吉(もっきつ)国は高句麗の北にあり、昔の粛慎国である。弓射と狩猟に優れる。弓の長さは三尋(?)、矢の長さは一尺二寸。石を鏃とする。常に七月や八月に毒薬を造って鏃に塗り、鳥獣を射れば当たったものはすぐに死ぬ」太和12年(488年)、使者を遣わして楛の矢や地方の産物を献上した。

『唐書』北狄伝には次のようにある。「黒水靺鞨(まか)は粛慎の地に住む。またの名を挹婁という。元魏(北魏)の時代には勿吉と言った。京師(長安)の東北6000里に真っ直ぐ当たり、東は海に面し、西は突厥(とっけつ)に属し、南は高句麗、北は室韋である。分かれて数十の部族となり、酋長がそれぞれ自治を行っている。その中で著名なものに粟末(ぞくまつ)部があり、最も南で太白山(またの名を徒太山)に至り、高句麗と接している。粟末水(川)に依存して住んでいる。その水は山の西北を水源とし、它漏河に注ぐ。少し東北にいくと汨咄(こつとつ)部という。さらに次は安居骨部、さらに東は拂涅(ふつだつ)部という。骨(安居骨)の西北に住むのが黒水部である。粟末の東に白山部というのがある。部族間の距離は遠いもので300里から400里、近いもので200里である。白山は本来高句麗に臣従していた王の軍である。(唐が)平壌を平定した際、その群衆の多くは唐に入った。汨咄や安居骨などは皆逃げ散って衰弱し、その名を聞かなくなった。遺民は渤海に逃げ込んだ。ただ黒水だけが完全に強く、16の集落に分かれて南北と称している。彼らがおそらく最も北に住む者たちである」

「人々は強健で歩兵戦に優れている。性質は忍耐強く剽悍である。弓射と狩猟をよくし、憂いや悲しみを持たない。若く壮健な者を貴び、老いた者を卑しむ。住居には空き家がない。山や川のくぼ地で木を渡し、その上に土を覆って塚のようにする。夏は水や草に従って外に出、冬はここに入って過ごす。尿で顔を洗うなど、夷狄(異民族)の中でも最も不潔である。死者はこれを埋葬するが、棺桶はない。文字による記録はない。彼らの矢の石の鏃は長さ2寸である。おそらく楛の矢や弩の遺法だろう。豚を多く飼い、牛や羊はいない。粟や麦がある。土地には貂(テン)やネズミ、白兎が多く、白い鷹がいる。塩の泉があり、気化して立ち昇った薄い塩が木の頂で凝結する。拂涅を大耕涅とも称する。開元・天宝の年間に靺鞨の白兎の皮を献上した。後に渤海が盛んになると、靺鞨は皆それに従属した。渤海は元々粟末靺鞨である。先天年間に使者を遣わして祚栄(大祚栄)を左驍衛大将軍・渤海郡王に封じた。これより靺鞨という名を捨てて専ら渤海と称するようになったという」これらの書物等にある石鏃は、皇国(日本)の矢根石(鏃石)と同じなのだろうか、それとも異なるのだろうか。

また、『池偶談』に言うには、「呉江の兆鰲(ちょうごう)は、順治15年(1658年)に寧古塔(ニンギュタ)に流罪となり20余年を過ごした。康熙辛酉(1681年)に帰還して都に至った。彼と対面した際、一つの石砮を取り出した。その形状は玉石のようで、紺碧色をしていた。言うには、『混同江(松花江)の中から出たものである。これは松脂が水に入り、長い年月を経て固まったものである。いわゆる粛慎の矢である』と」この説は疑わしいことである。松脂が水に入って長い年月を経て石砮に変化するなどということが、一体どういう根拠があって言えるのだろうか。

また、ある説では「この皇国の鏃石は、粛慎国の石砮である。斉明天皇の御代に、阿部臣や阿部引田臣比羅夫などの人々が蝦夷国を伐ち、また粛慎国を討った時、あの国の者たちが軍で用いた矢の根が陸奥国や出羽国などに残ったものだろう」と言うが、そうでもないだろう。これは陸奥国や出羽国の鏃石ばかりについて言っており、その他の国の鏃石を知らない説である。私はまだ陸奥国や出羽国の鏃石を見たことはないが、皇国の鏃石は各々の国で作られたものと見受けられる。私は若い頃、諸国の石を集めてもてあそんだことがあり、この御国(阿波)や淡路国、讃岐国、近江国、美濃国、越後国、飛騨国から出るものは皆同じ石であって、この御国では見られない石である。讃岐国の白峯山にある石である。これを見れば、その国の石でなければ近隣の国の石を使って作ったのだろう。十條清川が引野村で拾った大小の石は、石で作ったものだとしても、前述のように古いものである。

したがって、この石が斉明天皇の御代に阿部臣や阿部引田臣比羅夫らの人々が蝦夷の国や粛慎の国を討った時に用いた石砮であるはずがない。その理由は、斉明天皇4年から、『日本紀』(正しくは『続日本後紀』)に出羽国が言上した承和6年までは182年に過ぎない。「古老に尋ねたが未だかつて見たことがないという。国司が相談したが、この浜は砂地であり、直径一寸の石であっても昔から存在しない。そのため言上した」というのは、辻褄が合わない事ではないか。180年余り前の事であれば語り継がれているべきである。そうしたことから、斉明天皇の御代よりもさらに大昔の時代の物であるはずだ。

今の古学の徒は、目に見えない物事についても、大昔はただ不思議で神秘的なことばかりであったということは口癖のように言うが、目の前にこのようにすっきりと怪しいものがあるということを知ろうともしないのはどういうことか。愛石家や物知りと言われた古学者などが、たまたま書物の中などで見たことがあっても、その産地や形状、石質などの考察も深いとは思えない。このようなことの一つ一つを、あの愚か者の前で夢を語るような(馬の耳に念仏のような)例えのように、驚きもしない人にはどうしようもない。鏃石の事について言いたいことはたくさんあるが、この御国(阿波国)のことだけを示しておこう。

富田庄

『豫章記』には次のようにある。「(河野)通信には子が数多くいた。嫡子は得能冠者通俊で、母は新居大夫玉氏の娘である。後に八四郎大夫と云った。これが得能氏の始まりとして、18ヶ村の18番目である。その子を通秀太郎と云い、得能冠者と号した。その子は通純、得能又太郎である。文永年中に六波羅の役人を討伐して、阿波国富田庄を賜った」云々とある。また、左衛門尉の母は、承久の兵乱の時に東国方(鎌倉幕府方)の討手の大将として上洛し、宇治川の先陣を渡り、阿波国富田庄を賜った。「その後、当国(阿波国)の久米郡石井の郷へと配置替えを申し付けられた。この時、親父である(河野)通信はすでに流刑にされていたが、北条氏の孫であったため家督を継ぎ、武名を轟かせた」云々。

この富田は、その頃は単なる「庄」というだけの土地ではなかったのだろうか。金毘羅の社の下にある大岩には牡蠣の殻が付着していたのを、自分の母が見たということを常に語っていたのを聞いた。そこから東は海であったのが、次第に埋め立てられて今のように広くなったのである。そのまま今の新町のあたりも古い土地とは思えない。兼久の文永のころに庄というほどの土地があったことも知る由がない。天文の頃、河野五郎左衛門通勝という人がこの富田へ来たというのも、何かしら由縁があった土地なのだろうか。海部郡にも富田村があったが、それではないだろう。また『豫章記』の疑わしい点として知られているが、まったくの偽書というわけでもないだろう。

人の名に「男」という言葉を付けて言う事について

祖谷では人の名の下に「男」という言葉を付けて言っている。例えば、八兵衛男、十兵衛男などという類である。とはいえ、必ずしも常に言うわけではなく、たまに言うことである。三木村の文永11年の古文書にも「四郎男」と言うことがある。荒々しい言葉遣いであるが、『吾妻鏡』には渋谷庄司重国の郎従である平太男行光、郎従の藤五男、愚息の蓁村男、真正男といった記述がある。「つれづれ草」にもまた五郎男と言っている事が多くある。我が御国(阿波国)でもそう言い伝えており、長門本『平家物語』には、八の国の住人である佐の次郎義元の下人として「五郎真近男」という者もいるということだ。

吾橋名(あはしみょう)

祖谷山の平名、鍛冶屋名、西名、中屋名というのは、一つは「吾橋名(あはしみょう)」と言ったという。里人が旧名を合わせたので「合名(ごうみょう)」と言った由であるが、慶長17年の御検地帳に「三吉郡之内 吾橋中屋名」、また「三吉郡 吉橋西名」などとあるのを見たところ、(すべてが)総じてそうではない。「吾橋」と書いて「アハシ」と読むのは、近年の文字の用い方であって(中略)。これによって考えるに、『日本後紀』延暦16年正月の条に「甲寅に云う。新たに土佐国に吾橋・舟川の二駅を置く」とある「吾橋」も「アハシ」と訓むべきだろうか。ただ「橋」の字は橋の意味である。(当てはめるべき)字がない。我が皇国においては、大昔から「橋」の字と同じように用いてきたのである。

善徳名(ぜんとくみょう)

同上の山の古い名に「善徳名」というものがある。久及名(ひさおよびみょう)。地平名(ちひらみょう)。片山名、田窪名、友行名、大久保名、閑定名、云木などと名付けて善徳と言う。里人の多くは「ゼンロク」と言うけれども、物知顔の者が「ゼントク」と言うのはかえって誤りであるはずだ。古くは「ゼンロク」と言っていたと見えて、戸谷名の12社権現の天文16年の棟札に「せんろく 土松 女すけ丸 か松丸」とあるのを見れば、里人が「センロク」と言う方が極めて古く、(真実に)至っているものである。

阿波縮(あわしじみ)

その間は、この御国(阿波)にて縮を多く織り出していたと見えて、『延喜式』の交易雑物の中に「阿波絹300疋、白絹12疋」云々と見えていることにより、前に提示した通りである。その後も藤原明衡の『新猿楽記』に言うには、「四郎君は受領(国司)の郎等であり、刺史(長官)の鞭を執る図である云々。よって万民の追従を得て、邸宅は常に豊かであり、諸国の土産を集めて貯わえが甚だ豊かである。いわゆる、阿波の絹、越前の綿、美濃の八丈、また柿、常陸の綾、紀伊国のカトリ、甲斐の斑布、石見の紬、但馬の紙、淡路の墨、和泉の櫛、播磨の針、備中の刀、伊予の手箱、また麁麁、出雲の筵、讃岐の円座、上総の椘(?)、武蔵の鐙、能登の釜、河内の鍋、また味、安芸の榑(くれ)、備後の鉄、長門の牛、陸奥の駒、また濃紙、信濃の梨子、また木、丹波の栗、尾張の秬(黒黍)、近江の鮒、また餅、若狭の椎子、また餅、越後の鮭、また漆、備前の海藻、周防の鯖、伊勢の鮑、隠岐の鮑、山城の茄子、大和の葛、丹後の和布、飛騨の餅、鎮西の米など。このように贄(にえ)や菓子が絶え間なく踵(きびす)を継ぐように続き、大勢集まって市を成す云々。故に、除目(官吏任命の儀式)の朝には、親疎を問わず、まず求められるものである云々」とある。阿波絹を伝えたものであろうか、今でも「地絹」と言ってあちこちで織って疋(反物)を出している。どこで織っていようと、それを売り出すほどではない。

また『西宮記』巻第1の節会条の下に言う。「九記に言う。天慶7年10月9日の仰せに言う。延喜元年正月1日は日食により(儀式が)廃止された。中務親王・公卿・大夫など数十人が職曹司(しきのみつかさ)に来向した。杯のやりとりが頻繁に行われ、すでに酩酊していた。春宮の御服を召し、集会した侍従以上に阿波(絹)を給わった。これは元慶の例によるものである云々」と。考えるに、「癈」は癈(廃止)であって、その下に「務」などを脱落しているのだろうかと言っている。長年まだ『西宮記』を見ていなかったが、新居正方が言ってきた手紙によって書き添えたのである。

観音寺の古瓦

勝浦郡大谷村北山の地蔵院は、勢見山観音寺の旧地である古い寺と見えて、天保14年の洪水の時、寺の後ろの山が崩れた所から多くの瓦が出た中に、銘のある瓦が一つあるということで寺へ持ってきた。その銘に言うには「観音寺瓦 康暦2年2月10日より始也」とある。また、右に「小房 新大工道音」、左に「大工道実」と彫ってあった。康暦2年から今年、弘化3年まで467年になる。周囲に年号のある古い瓦があるが、これより古い瓦は他所にはいまだない。

それ故に言う。この大谷村の北山という地名はどうかと思う。ひょっとしたら大谷村よりは南山であれば、上村の北山なのだろうかと思って里人に尋ねると、「おそらくその方上村にあったという言い伝えもある」と言う。また中頃に北山村と言って一村であったとも言う。さて上に出した瓦の銘にある「房断大工」というような事についても、思うに淡路国三原郡八幡村護国寺所蔵の応永24年(1417年)3月27日の古文書に、「塔の九輪を鋳る事について云々。一、15貫文を作断黒渡申す。これは皆断(皆済?)15貫文、小約束として申し、共にこの外に3貫500文布400絹一、ひやくえく(百益?)の外にて共に、かくかく申し間かくのごとくゆえに、黒にただし申す」などと見える。「断」の字は今の世に言う請負、また請け取りなどいうことに似ていて、「皆断」は九輪を鋳る全ての雑費を15貫文で引き請けたということだろう。かかれば房断大工、つまり房舎(お堂)を修造する役目を引き受けた大工であるであろう。

名西郡に主帳の一員を置く事

『類聚三代格』7の巻に言う。「太政官符、名東郡に主帳一員を置く。名西郡の郡司からの解を応省する。右、阿波国解を得るに、名西郡は、元は一郡であった時に置かれた件の職一員である。それによって、太政官が寛平8年(896年)9月5日に符(文書)を下し、分かれて両郡となった。七箇郷は名東郡となり、四箇郷は名西郡となった。しかし未だこの職を置いていない。すでに令条を違えている。一人がこの郡を負うように請い望む。省が裁断するに、国が加覆して申す所には道(道理)がある。請う、官の裁断を。大納言正二位兼行左近衛大将藤原朝臣時平が宣し、勅命は請いによる。養元元年(?)7月17日」とある。考えるに、小郡の長を郡領という。本土の人を任じる定まりである。主帳、主政も同じく本土の人からなる。さて、この『三代格』をすでに見ると、一本に誤字が多い。(そのため)決して言い難い。(例えば)「元は一郡之時置件職一員」とあるのを「一」を「二」と誤っているのだろうか。「職員令」によると、主帳は、大郡には3人、上郡には2人、中郡・下郡・小郡には1人である。両郡に分割する前は11郷であったので、戸令によれば、9郷以上は上郡、8郷以下16里以上は大郡、12里以下は上郡、8里以下は中郡、4里以上は下郡、2里以上は小郡である。長は即ち郷である。(11郷という)この制度であれば、名方郡は中郡であって主帳1人である。したがって(一郡を)分割して、後(分割後)の省が、彼(彼ら)を1人ずつ、この郡の員(郡司)とすることは、全く持って道理である。しかし両郡に分かちるべき故に、郡であるならば主帳1人を増して2人になったのだろうか。また「七箇郷為名東郡、四箇郷為名西郡」とある「七」は「六」を誤っているのではないか。『和名抄』に載る所は6郷である。それとも『和名抄』が6郷で一郷脱落しているのだろうか。中郡の制であれば、主帳の員は同じく1人である。それならば、この職員の考察については、いずれにしても妨げにならないはずだ。

さらに考えるに、『三代格』の小・讃岐国那珂郡の主政・主帳各1員を加置する官符がある。「応加置那珂郡主政・主帳各一員事。右得讃岐国解称、新立一郷、一所管轄多。而郡司少員、事多闕怠。按内、山田郡少郷戸課口1760。既置主政2員、主帳2員。而此郡10郷課口2080。只置主政1員、主帳1員。望請因准彼郡加置件職各1員、以済雑務者。国加覆審所申有実。謹請官裁者。従三位行大納言兼左近衛大将源朝臣多宣。奉勅依請。元慶4年(880年)3月26日」とある。あの那珂郡は中郡であって主政1人・主帳1人の制であるが、各1員を加置したことを請い申し出ているのを見れば、名方郡もこれより前に請い申し出たことが有るべきだが、その時の官符の脱漏があるのだろう。今の令条の制外に職員を加置したことは、この官符の文中に「山田郡少郷戸課口1760、既置主政2員、主帳2員。而此郷10郷課口2080、只置主政1員、主帳1員。望請因准彼郡加置件職各1員、以済雑務」とあるように、いくつも例があることと見えて、伊予国宇和郡の下郡に大・少領を置く、同国久米郡の下郡に大・少領を置く。同国喜多郡の小郡に主政1人・少領を置く。同国新居郡の下郡に…(以下略)。他の国にもあるだろうが、名方郡もこの例により成立したことは前にも言った通りである。「名東名西二箇郡、元為一郡之時置件職一員」とする、「一」は「二」を誤ったものだろう。疑いない。

三好郡の少領

『三代実録』貞観12年(870年)の条に言う。「7月19日己巳。阿波国三好郡少領外従8位上仕直浄宗等5人に姓佐伯直を賜う」と。考えるに、三好郡は3郷であるから小郡である。職員令によると、大郡・上郡・中郡・下郡には大領・少領があるけれども、小郡には大領1人となっており、大領・少領とは言わない。それならば少領と言うのは、何事でもないことならば、「郡領」というのも「郡」の字を「少」に誤ったのだろうと思っていたところ、これも上で言った讃岐国などの例で、令の制度外に大領・少領を置かれたものなのだろう。

藍をこの御国(阿波国)に植えるのは中島という頃からの事なのだろうか。年経って、少しそれを考えるに、俗に播磨国で作っていたのを後に(播磨で)植えるのはやめて、御国(阿波)で作る事となった由を言うけれども、古い書にいつの頃まであの国(播磨)で作って、御国(阿波)にいつの頃から作り始めたのか定かではない。あるいは大まかな言い伝えである。播磨国で作った藍というのは、『金葉集』懸下・よみ人しらず「いとせめて恋しき時のすり衣はりまなる藍か浦(裏?)にぞむるうちよりぞくる」。『詞花集』懸上・曽根好忠「播磨なる藍かま(藍釜?)にぞむるあふのうちに人をこひーと思ふ頃かな」。『夫木抄』信実朝臣「はりまなる藍かまにたく(炊く)あまはまけ(?)いつあなかのこぞみてをうらん(?)」。衣笠内大臣「星はなる藍かまの里にほに染のいつらおもひのいろに出べき」。この外にもある歌は、などの歌があるのを見れば(播磨の藍釜を詠んだ歌が)多くあるのだろう。定かではないが、御国(阿波)に作り始めたのはいつの頃だろうか。確かなことはないが、天正より前の頃だろうか。『阿波三好物語』に言う。「(中略)化物に成り候て青や染めと申す事は罷り出で候。天正10年に上方より阿波屋四郎兵衛と申す者が罷り下り、阿波国には藍染と申す事を知っている者がいなく候故に、事のほか米を儲け仕合せよく成り候」云々と。それならば、これより前から藍染を知らないわけがない。「藍を作っては染める」という事を知らなかったのか、または「作る事」も知らなかったのか。この『三好物語』の文からでも定かには言えないことである。とにかくうたがわしき事である。

神祇官に用いる亀甲

『延喜式』臨時祭式に言う。「凡年中所に用いる所の亀甲は総じて50枚を限度とする」注に言う。「紀伊国の中男作物17枚、阿波国の中男作物13枚・交易6枚、土佐国の中男作物10枚・交易4枚。ただし斎内親王が野宮に遷り入る際の用料の亀甲13枚は臨時に解を申し、官符により国から送り納め、この宮に毎月これを充てる」この亀は俗に言う海亀か、また石亀か知ることはできない。

村号を改めた事

板野郡吉田村は、もと原田村と唱えていたのを、吉田村と改めたと言う。里人が伝えて言うには、「原田村と唱えていた時には作物が実らず百姓が栄えなかったので、公(お上)に訴えて村号を改めてからは、作物がよく実り百姓も栄えた。その後サツマイモを作って大小の民の食料を満たし、近年になってサトウキビを作って豊饒の地になったのは、村名を改めたことによるのだろう」と言った。ある人がこの事を論じて言う。「村号を改めたからといって、作物の実る・実らない、百姓の栄える・栄えないがあるはずの事ではない。この外にも原何村、また何原村という村名が多いのに、そのような事があるはずもないではないか」と言った。私が思うにも、もとより村号によってそのような事があるはずの道理はない。しかし、良くない事が多いので「原」という字を忌んで改めようと訴え出たのを、百姓の申す事をそのまま改めなさって、百姓の心を安らかにしてくださったのは、ありがたい事ではないか。このある人の説のように、「村号によって作物の実る・実らない、百姓の栄える・栄えないがあるはずはない」として改める事を許されなかったならば、百姓の苛立つ心を思うと、考えるべきである。この村だけでなく、淡路国三原郡福井村はもと原村と言っていたのを、「原」の字は豊作の吉兆ではないとして、延宝5年に福井村と改めたという。また同郡に今上村というのは、もと上村と言っていたのを延宝5年に今の村号に改めた。また三原村というのは、昔は三原と言っていたのを明暦3年に神代村と改め、「神代」という事が古書に見えるとして、また元禄に元の三原に復したという事などがあるが、これらの事はみな百姓等の願いによるものなのだろう。

国司の使者が京に入る時、駅馬に乗ることを許された事

『続日本紀』養老6年の条に言う。「8月丁卯。伊勢、志摩、尾張、三河、遠江、美濃、飛騨、若狭、越前、丹後、但馬、因幡、播磨、美作、備前、備中、淡路、阿波、讃岐等の国司は、これより先、使いを奉じて(京に)入る際、馬に乗ることを許されていなかったが、ここに至って初めてこれを許された。ただし伊賀、近江、紀伊、四国は(許された国の中に)ない」云々。このようにどういう理由で駅馬に乗ることを許されなかったのか、また許されたのもどのような理由からなのか、考えるところがない。

山崎の橋を造った事

同書(『続日本紀』)延暦3年の条に言う。「7月癸酉。阿波、讃岐、伊予の三国に仰せて、山崎橋を造らしむ…」云々。

池田村に伝わる歌

三好郡池田村に大きな池があり、その地を細野と言った。池田村という村の名称もつまりはこの池に由来する名なのだろう。この池に、大明神と申す社がいらっしゃる。これを今、医家(医大明神?)と書くのは当て字ではあるだろうけれども、由緒正しからぬ書き様である。さて、この池に伝わっている古い歌というものがあり、その歌は「あすといへば 心はそこの 池に生る ひしのうきぬの なう水こそすれ」。この歌は『古今和歌六帖』にあるのを見て…(中略・後世の誤伝や別の形について言及)…また『夫木抄』に出して「あすといへば おひいぬほそみの 池におふる 菱のうきぬの なかに…」。題知らず、『六帖』には「近江」とあり、近江には「ほそみの池」があるのだろうか、なお尋ねるべきである。『歌枕名寄』には、考えるに、ここらの歌であったのを細野の池に付会した(結びつけた)のだろうか。また「ほそのの池(細野の池)」と言った歌を、「ほそに」と誤ったのだろうか。『夫木抄』には『懐中抄』および桜間の池の歌も出ているので、この御国(阿波)の歌にあるべき時でもないが、共に『六帖』に出ているのは…(詳細不明)。

新居見村

勝浦郡新見村は、古い村の名前なのだろう。『和名抄』の勝浦郡に「新居郷(爾比乃井)」とある、その郷の名前が残ったものだろう。この新居見村を今は「ニノミ」と唱えるのは、たいそう軽んじたことである。自分が若い頃、人の多くは「ニノミ」と「ノ」を添えて称していた。今、村人の中には「ニトノミ」と言う者もいると、「ニノミ」と言う人が多いけれど、「ニトノミ」と言うのが、古い唱え方なのだろう。讃岐国阿野郡にある新居郷の訓注に「爾比乃美(にひのみ)」とあるのを考えるべきである。

全戸

『和名抄』の板野郡の郷名に「全戸」というのがある。今どこであるかは知ることができないが、「余戸」なのだろう。これは「余」の字を省略して「全」の字に書き、それをまた後になって「全」の字に写し間違えたものだろう。「全戸」というのがあるはずがないことを、さらに紀伊国海部郡の郷名に「全戸」がある。同国日高郡に「全戸」がある。周防国熊毛郡に「全戸」がある。それ以外には「余戸」とはっきりと書いて「全戸」と書いているものはない。自分が以前にこの考察を書いて、桐林広滋に見せたところ、紀伊国について考えるところも同じである由を言っていた。

生夷

勝浦郡生夷は、中古(中世)の庄の名前だろう。今「イクイナ」と称しているが、「生夷」であるならば「ナ」の字がないから「イクイナ」とは読み難いと言う人がいるけれど、「夷」を「ヒナ」と言う字音の「イ」なのであろう。『和名抄』安房国朝夷郡(比奈)、遠江国城飼郡小朝夷郷(比奈)、駿河国益頭郡に朝夷郷(比奈)があり、…という読みを振っている。また常陸国信太郡に朝夷郷があり、訓注は脱落しているけれど他の例によってこれも「アサヒナ」と訓むべきである。そうであれば「生夷」も正しく称するには「イクヒナ」であるけれども、口語では「イクイナ」と聞こえるのである。例えば、朝夷三郎義秀を唱える(呼ぶ)には、「アサイナノサブロウ」と言うのと同じである。

駅の再考

石隈駅は板野郡大谷村の小石園という地である。そこなのだろう。『延喜式』兵部式で今の本に「石隈」に作っている「隈」の字は「濃」の字を誤ったのだろうか。『和名抄』の郷名部、安芸国安芸郡の郷名である「養隈」の訓注に「也乃(ヤノ)」とある。それならば、養隈の「隈」の字は「濃」の字を誤った証拠の例である。と、弘化3年の春に考えて第1巻に記しておいたが、嘉永元年3月に『延喜式』の出雲本を見たところ、この駅は「石濃」と作られており、考異(校勘記)に「刻本には石隈と作る」「享和2年の本には石濃と作る」とある。これを見れば、年長が以前に思い巡らした考察が、同じ時の不思議なことであったよ。さて、これによって石濃は「イヤノ」と読むべきである。また、郡頭を「コキヅ」と読んで、大寺村の高津という地がそこだろうと言うけれども、郡頭を「コキヅ」と訓む理由はゆかない訓み方であるけれども、それはさておき、これも出雲本の考異に、「郡頭、京本には那頭と作る。刻本・貞享・享和2年の本には郡頭と作る」とある。そうであれば、京本の那頭に作るのを良いとして、今、那東村であることは疑うべきではない。「那」の字と「郡」の字とは草書では誤りやすい。郡頭の後に那東に書き換えたのも何によるのだろうか。

さて、高田与清が『駅馬及公使上下日数考』に、「阿波の井隈、郡頭の二駅があって、馬はそれぞれ5匹である」云々と受けているのは、このような異本であったことによるのだろうか。なおなお考えるに、石隈の井隈という郷がないのは、石は井を誤り、郡頭は名方という郷であるから、式の京本に「那頭」に作る、その那字を良いとして、頭を県の誤りとして、さらに改めて井隈、那県と書き誤ったのではなく、意図があって改めたものと思われる。この与清は、考証の学問に詳しい人であると聞くのに、これを考証というのは当たらず妄説である。地理を考えずただ書物の上のみで論ずることから、このような誤りが出来たのである。考えるに、井隈の郷は今その方面の区域のはっきりした事はないけれども、その所々の地名に及ぼし、また古文書等に残っていることによってこれを考えるに、昔の官道より南にあたって官道に関わる地ではないだろう。名方の郷は名東郡にあり、今その地のどこにあたるか知ることはできないけれども、郡中の他の郷を推し考えるに、国府に遠くない地であると思われるので、駅を置かれるべき場所ではない。すでに私が言ったこれらの考えでは、強引な説であることを知るべきである。さて今の那東村を駅として、石濃から国府に至る間の道のりは、西へ回って遠い。しかし今では遠く思えるが、延喜の頃の昔の官道はどうであっただろうか。川もどのように流れていたのだろうか。知ることはできない。里人の説に、「瀬部から神宮寺と」いう道というのは、昔の吉野川の流れは名西郡瀬部村より北へ回り、板野郡神宮寺村へ流れていた様子であって、回って遠いことの例えに言っているとのことである。慶長の頃は神宮寺から人を渡して神宅村へ出たと言っている。いつの頃の様子か、何であるか、知ることはできない。しかしながら、これらによって、延喜の頃の様子を思いやるべきである。

考えるに、『和名抄』に近江国野洲郡敦智(国用。日向国諸県郡瓜生は字用利布乃国)、大隅国桑原郡仲川(国用。津川字)、同国噌於郡志摩(国用。島字)などとあるのを見れば、源順の昔も、公に用いられる文字と国で用いる文字とが異なることもあった様子であるから、石濃も公には用いられたけれども、国では石隈の文字を用い、郡頭も公には用いられてきたけれども、国では那東の文字を用いたのを、今に至るまで用いて来たのであろう。ただこの『和名抄』の「国用云々」とあるのを見れば、一字であるのを三字にすることのみであるから、これによって、『延喜式』の制度に「諸国の郡内の郷里等の名は並べて2字を用い、必ず嘉名(良い字)を取れ」とあることによって、公には必ず2字で文書を書くけれども、国においては3字にも書き慣わしたまま用いたのであろう。そうであるから思うに、字数が2字であっても公に用いられる文字と国に用い来る文字とで異なることもありしたのだろうと思うべきである。以上に言うのではない。

明神村の神社

板野郡明神村に大明神と申す神社がある。今の大元大明神と申している。別当である堂浦吉祥寺の説に、「祭神は弁財天である」と言っている。また里人の説に、「この村の初めの産土神(うぶすなかみ)にして、自分の村に産土神がない。この地に厳島明神を勧請しようとしていまだ来ていないという時に、あちらの地の人が言うには、『当所の明神は他国へ勧請することを許すならば、古くから神がおり、この神を産土神として斎き祀るべきである』と言って帰り、よって帰り大元大明神と申して斎き祀る、祭神は国常立尊である。またその頃は安芸国より来臨なさった神を祀ったことによって、安芸神村と申したのを、後に今の文字に改めた」と言っている。この村の名称であるはずなので、この説は疑わしく思ったことを書き出した。(傍注:慶長9年の御検地帳この村号もなしに、後の村号なるべきにより、この説疑わしく思いしを出す)

讃岐国高松の人、梶原景紹の許から言ってよこしたことには、「成松明神が村にある。この神は、いつの年にか、ご神体が東より飛んで来てこの所の松の上に留まりなさったことによって、村民が社殿を造って勧請して鳴松大明神と崇め奉ったが、いつの頃からか成松大明神と称し来たっている。天正年中、兵火により社殿が焼亡した。その後再興した。古老が言うには、「当社の古い昔は、阿波国に鎮座していた。境内には大樹が多くあった。ある時、あの国の国君の命令によって、国中の山林や神木をも伐り給う事があり、あの神木に及んだが、人夫が数多く怪死するなどの事があった。ゆえにこれを占う者が言うには、『これは神の祟りである』と。しかし誰か(国君の使いか)が『もう一度切ってしまえ』と言うと、ついに国君の耳に達した。国君が聞いて言うには、『もし私の領分の樹木を切り伐るのに、我が邦内を守護なさる神であるならば、我が木を伐る理由を知り給うべきである。何の怒りがあるのか。これが明神であるならば、即時に切り断つべきだ』と命令があった。翌朝、あの社人(神職)の庭へ出て言うには、『神前の扉が自然に開き、神体が空に上り成玉ふと』と。また公命があって、さらに、あの宮を改め、その儀祭をすべて今までと同様に、あの地に社殿を造営したのだけれども、と年長が考えるに、この御国(阿波)より飛び給うたという明神村の神であるのだろう。俗に『何神』というのを『何宮』と言い、『何宮』というのを『何神』とも言えば、『明宮』というのも『明神』というのも同じであろう。まだこの御国にて『明神』と言っていたのを、讃岐国では『明の宮』と伝え、『明神』と言いながらも、その頃は『明宮』と言っていたのを後に『明神』と言い…」と。これらはすべて当て推量の大明神と申す神号のある至り(結果)であろう。他村にあれ、また大明神と申す社もすべて「明神」と称している字音によって、「明神」と言い伝えた世に、「何大明神某大明神」と申す神号が多くあるのに混同して、大字(大という字)を加えて「大明神」などと言ったのだろうか。昔、神号を「明神」と申したのだと思ったものの、今も村号を「明神村」と称している。明神村と言うわけではないのに、そのように知られざるものであろうか。さて、安芸神村と書き記したことがあったからと言うだろう。けれども、今考えると、無理なこじつけであるけれども、空理(根拠のない理屈)によって明神村と言い改めたのだと、怪しく思える。また、里人の讃岐国へ伝える伝説を言うのも、後にこじつけたものであり、あの地へ行ってみたいものである。大元大明神と申して、祭神は国常立命であるという伝説はいかがなものか。

大龍寺

那賀郡賀茂村大龍寺は弘法大師の旧跡であるという。しかるに美馬郡岩倉山に大瀧寺とある。これも弘法大師の旧跡で、疑わしいこととなっている。『三教指帰』に「阿国大瀧嶽に登りて水に似ふ字をかけや(?)」と。那賀郡にある大龍寺は、今「龍」の字を書いている。また、美馬郡岩倉山の大瀧寺も、「大龍寺」と書いていると見えて、真言宗の声明の書に『声決書』というものがあり、応永3年、慈鏡という法師が書いたものである。その書の中に言う。「又云明徳3年秋之頃、挙上阿波国岩倉辺大龍之峯大師弘法之霊跡古徳禅行之甲地。有山龍勤行念誦観法之事。幽閑慰引経論之明文、聚祖師遺言名観行集造一巻書、出草本、請門徒請之了云々」と。明徳のころには「大龍寺」と言っていたのは、美馬郡であろうと疑いはないだろうけれども、今の同寺(大龍寺)号の寺も多くある事なので、弘法大師旧跡の「大龍寺那賀美馬両郡にある」べきことと思うのはどうか。また、『声決書』に「大龍」と書いているのを、今岩倉山では「大瀧寺」と言い、『三教指帰』には「大瀧嶽」と書いているのに、今那賀郡には「大龍寺」と言うのはいかがなものか。考える所である。那賀郡にある大龍寺も古い寺と見えて、同村一宿寺のあたりにある町石の銘に「41人町、貞治6年3月13日、施主道信」と記しているのは、大龍寺へのぼる町石であるのだろう。また捨心という所の擬宝珠の銘に「長享2戊申卯月日、大龍寺奉寄進」また「長享2戊申卯月日、根来寺泉識坊奉寄進大龍寺」また「多聞天の堂の灯籠」の銘に「阿州大竜寺明応10年2月吉日、願主篠原之良施入」などとあるのを見ると、擬宝珠や灯籠の銘を知らざる時に、ある人が「龍」・「瀧」の文字は「うたみ(異体字?)」に通じて用いる至り(結果)であると言うのに対して、「字書に龍は鱗虫之長、瀧は雨瀧瀧貞とあり、いかにもとより字の意味が異なるのに、いかで通じて用いる事があろうかと、こともなげにいひしを、この銘等を見れば通じて用いている。さて、明徳のころ那賀郡の大龍寺は、今時のように堂舎が壮麗であって、「弘法大師の旧跡が顕然(明らか)であるならば、岩倉山の方を『大師弘法之霊跡古徳禅行之甲地』などと言っているのは、疑わしいことではないか。あの寺(岩倉山の方)は古い伝説があるに至っている。また近頃、『弘法大師年譜』という書も出来た由であるけれども、まだこれを見たことはない」と言っている。「より夏を記したるなり(?)」、「もし偽の『大龍寺縁起』というものを見たけれども、あらかじめ偽書であると思って見つつ、その偽りの論を忘れはてるように思い出しなさい」と、また書き加えるべきである。

はちま阿波の浦

『源平盛衰記』42巻・義経解纜・四国渡の条に言う。「16日午刻、元暦2年判官既に纜を解きて船を出す。云々。押して3日後には酒折(さかおり)へとどまる。ただ3時に阿波国ハチマアマコこの浦に馳せ着いた。5艘の船、1艘も誤る事なく、皆一所に漕ぎ並べた」云々。この「ハチマアマコ」の浦は今どの所なのだろうか、すべての人が疑う所である。「盛衰記」の次には「判官が先陣に進み、この浦が堅固である。大将は誰か。阿波民部大輔成良が伯父、桜間外記大夫良連が軍将となって300余騎で国を守っていた」云々とある。今の勝浦郡本庄村・西須賀村のあたりだろうか。小松島浦のあたりに義経の乗ってきた馬の足跡があると言うが、どうだろうか。元暦の昔などは小松島浦・中田村あたりなど、また今の本庄村・西須賀村までは勝浦郡の余戸(あまるべ)郷に至って海であったと言うので、そこら辺の余戸(あまるべ)と字音が交じって称したのか、また「海女」と言ったのがあったのだろうか。また名東郡八万郷も近いので、5艘の船が一つの浦に到着したのではなく、あるいは八万郷に到着した船もあり、あるいは余戸郷に到着した船もあり、それを一万、余戸と同じ地と誤って記したこともあるだろう。ただし、「余戸(あまるべ)」を「アマコ」と唱えたというのも、誤りであるとも知ることはできないと思うのは、いかがなものであろうか。余戸(あまるべ)、海人(あま)の浦と考えるべき所がないから、強引な説を記し置く。後世の人の考えを待つのみである。また思い出すに、『平家物語』には「2月16日少しのこく(未明)に洋の国に渡り、勝浦島を出て明る卯の刻に阿波の地へ着き、吹き附け」とあるが、地名は長門本には記されていないのだろうか。

聖憧寺の古机

東名東村の聖憧寺の所蔵に古い机がある。銘には「奉寄進聖憧寺本堂机1脚 明応8年11月16日 藤原国清」とある。寺の小伝(略伝)には、全て畠山阿波守国清の事であると言う。畠山国清の『桜雲記』正平8年7月の条に、「畠山安房守国清、鎌倉の管領となる」云々。同13年10月の条に、「鎌倉管領基氏および執事畠山国清入道道誓、計って新田義興を殺す」云々。同19年の条に、「畠山道誓、関東より河内に潜んで来て南朝へ降参しようとしたが、楠木等が許容せず、故に流浪して死にいった」云々。『太平記』正平5年12月13日の条に、「阿波守畠山国清」に作っている。『太平記』の所に阿波守に作っているのは誤りであって、また梅松論・建武2年12月12日の所に畠山安房入道討死とあるが、実名を記していないので決めることはできない。けれども、別人であるはずだ。さて『桜雲記』正平19年に流浪して死したとあるのによれば、明応8年に先立つこと135年である。おそらく畠山国清は5代の祖・義純は足利上総介義兼の一男であるけれども、母が畠山重忠の娘であって母方の氏を継いで畠山と称し、清和源氏であるから、この机の銘の「藤原国清」と言うのも別人であることをわきまえて知るべきである。さて、この机は4足で、足の下に4つの小さく廻した台(?)があって、台の裏に銘を彫り入れている。机の表板のいつの頃からか端を切って、粘板(別の板?)にしてしまったその長さを知ることはできないと言う。さて、国清という名前の人があって、これを知られなかったのだろう。このように不朽(朽ちないこと)を図って銘を彫り入れたのだろう。端を切った粘板の余りの板にあっても、これをこころなく(むやみに)してしまうのはいかがなものかと思うけれども、年は長いけれども古物ということで粗末にしたのだろう。かつ、これを思い合わせると、勝浦郡星谷村大般若経の事を言っている条にも考え合わせるべきか。僧は仏の物を自分のものと思っているのだろうか。

凡直・長直の書にある「費」の字

『続日本紀』補護景雲元年3月乙丑の条に言う。「阿波国板野(説大板を校)名方・阿波等の3郡の百姓が言った。已等(私たち)は姓を凡とし、毎年籍に記されてきた。凡(おおし)の直(あたい)は、ただ籍に皆費の字を着けている。自らこの許しを督して誤りをもって背いた。凡の直(あたい)、麻呂等は抜擢されて朝廷に改め、粟の誤りとなった。直の姓はすでに天平宝字2年に籍を編む日に改められ、凡・費(ひ)の情に任せられなかった。安においてここにおいて粟と同仁に改める。凡(おおし)の直の宝亀4年5月辛巳、阿波国勝浦郡の領長・費(ひ)の人・立言・庚午の年に長直(ながのあたい)は籍に皆費の字を着けていた。茲の前によって、郡領・長直(ながのあたい)・救天・天の許しを抜いて長直(ながのあたい)に改めるよう注した。天平宝字2年、国司の従5位下・豊野直人が篠原などをもって記験を為さない。さらに長直の庚午の籍のための費の字に官判を以って任せる」とあって、「ツユ」と読むべきである。「アタヒ」と読む字のならず、「費(ひ)」の字書に「市を費やす(費市)」とあり、商買の事において「アタヒ」と読むべき字であるから、「費(ひ)」の字を写し誤ったと疑うことはないはずだ。考えるに、『古事記傳』7の巻に、「80に云直の書紀に阿多多の直とある所ある」皇極の巻に「長」と『和名抄』和泉国和泉郡の郷名に「小山直(をやまのあたい)」とあるのと合わせて「阿多多直」と訓じるべきである(加多所、多くは山直の北、直は郷の名前を解き、多く所を器名義未だ考えを得ず。直は兄なるべし「『直』の字は借字である。『続日本紀』巻28に庚午の年籍に直姓があり、『新撰姓氏録』に『直とは君のことである』とあるのは、『よろしく汝を君としてこれを治めさせる』とある詔について注記したものである。ここもすべて国々所々に姓として付けられたのであるから、その所の君であるという意味であろう」と言ってきたので、「直」は「アタエ」と訓むべきである。

桑野、御厨

那賀郡桑野村、谷島村、橘浦、山口村、内原村、これを桑野50村と言うのはこれである。『神鳳抄』に出ている桑野御厨であろう。この50村のうちに神明宮といって太神宮(天照大神)を祀る場所が一箇所も知られていないだろうか、尋ねるべきである。

郡里村八幡宮の仮面

美馬郡郡里村の八幡宮の所蔵に、古い猿楽の仮面がある。若男という面であるが、背面に「蓬来民部丞永近、大永2年3月吉日」と彫刻の銘がある。以前に猿楽師の某に尋ねたところ、「仮面に墨で書いた銘は(判読困難)、彫刻の銘があるという。また、仮面職人に蓬来氏はない。これは所有している人の名前であるだけだ。その社へ納める人の名前であろう」と言ったけれども、考えるに所蔵ということはなく、また納める理由もなく、ただ名前と年号だけを記しているのは、仮面職人の銘であるはずだと思うけれども、自分は猿楽の事に疎いので大したことは言えない。しかし、『柳本雑筆』に古い仮面職人の事を書いた中に言うには、「越前一乗谷に住む福来正友は暦応4年に、平安城に住む増阿弥久次は慈照院准后の御像を作り文明11年に没す。大和の住人石翁兵衛は享禄4年に没す。宝来千種と共に東山に眠り近し。この6人の作を6作と称す」云々とあるのを見れば、蓬来民部丞永近は東山に眠り近しという宝来の子孫であろう。「蓬」は「宝」を後に書いたのだろうか。しかし、この『雑筆』に出された仮面職人の事について出所が記されていないので、何の本に出ているのか知ることはできない。また、猿楽師が言う、「彫刻の銘は…」というのも、古くから伝えられている事があったのを言うのかは知らない。

『粟の落穂』2巻を弘化3年に書き記したが、後になって思いついた事を頭注に記し、また朱筆をもって傍らに書き込み、あるいは誤っていた箇所を消すなどしているうちに、たいそう見苦しくなってしまったので、この度書き改め、ついでに後から拾い集めたものも書き添えて3巻とした。しかしながら、自分の手書きはことのほか拙い上に、年を重ねたことで目はかすみ、筆を執る手さえ震えておぼつかない状態であるが、そうかといって他人に頼んで書き直させるべきものでもないので、かろうじて書き上げたのである。

さて、このように書き終えて、初めから見直してゆく中で「考えが至った」と思うことは、3つのうち1つにも満たないだろう。また「考えが至らなかった」事については、これはそもそも落穂の中の秕(しいな=中身のない籾)のようなものであるから、唐箕(とうみ)にかけてより分けるなどすれば、中には公の年貢として納めるに値するものがないわけでもない。とはいえ、残りの寿命がどれほどあるべくもないので、それを成し遂げることは思いもかけない。どうにかして私が思い起こしたこの志を継いでくれる人もいてほしいものだと、老人の繰り言をこのように言うのは、安政3年(安らけきまつり事の3とせ)という年の8月(仲月)

(池辺真榛の跋文)

粟の落穂の後ろに添えて言う。1つ、2つ、万と言うようであるから、落穂であるからといって捨て置くのも惜しいことである。どうにか拾い集めて、それを来たる秋には千万にもしようという思いを許された、始めから終わりまでの事柄は、もはや正方が序文と本文に詳しく記しているので言わない。

そもそも、この阿波の国内に古典研究(古学び)が起こってからこのかた、しかるべき学者たちも代々少なくはないが、その多くは和歌や文章のみに心を留めており、いにしえの事跡を探求する人は甚だしく乏しく、たまたま文化・文政の年間に永井精古、太田豊年などが優れた学者としてその世の人々に数え上げられたが、それすら当時のことであり、今の世に出たとしたら物の数に入ろうか(いや、入らない)、口も開けないだろうと思われるのに、この椿園の翁は、早くからそのような歌作りや文作りなどの益のない学問に拘ることなく、中国の某(孔子)が言った「温故知新」の道理も心に留め、和漢の書という書を広く読み渡り、かつて人が弁え知らなかった事を知り、あれこれの事物によって証明し、あちらこちらで古の道を説き明かすことは、過去の博士たちに格段に優れているのは言うまでもなく、その書き著された書物は家屋の棟に満ち、運ぶ牛が汗をかくほど(汗牛充棟)である。年齢さえ比叡の山を20も重ねたよりもさらに高く、77歳という高齢に達されたのもめったにない古稀の例である。

私自身、まだ幼い子供であった頃からこの翁の文机の前に付き従い、今このように古典研究の端くれを理解できるようになったのは、まったくこの翁の恩恵(みたまのふゆ)であるから、今さらまた誰を多く語ろうか(いや、翁の他に語るべき人はいない)。去年の喜びのついでに、折に触れて見聞きした事を書き付けたのは、安政3年という年の8月1日ごろ 池辺真榛