郷土歴史家・研究者のための完全収録アーカイブ
跋文(後書き)
前述した『志抄』の原書には目録が置かれておらず、顧みるに記中の事柄が混雑しているのは、分類し難かったことによるのだろう。今、編者が略目録を作るのは、願わくば捜索(検索)の便を図ろうとしてである。足跡(つたない跡)を見る人はどうか私(の拙さ)を許されたい。 椋亭老人 誌す
二柱の尊(伊邪那岐・伊邪那美)が国生みをされる時、まず淡路島を胞(えな:胎盤)とされた。お気に召さなかったため、これを名付けて淡路洲といった。(淡路は「吾が恥」である。神は大国を従わせようとされたが、小島しか従わせることができなかった。これがその不徳を恥じた所以である。すなわち地名に名を付けてその恥を覆い隠すことができないようにしたのである。以下、神代巻は省略する)
『古事記』には次のようにある。伊予之二名島(四国)、この島は体は一つであるが四つの面があり、それぞれの面に名前がある。粟国(阿波)を大宜都比売(おおげつひめ)という。(讃岐は省略する)
考えるに、国魂である大宜都比売は、この一国の主である。二柱の神が国をお生みになられた時、すなわちこの阿波の国魂を大宜都比売、またの名を葦原中津国保食の神(あしはらなかつくにうけもちのかみ)、また大食都の神、また宇賀之女の神(うかのめのかみ)、または垣土屋姫(かきつやひめ)の神、また阿波の国においては大粟比売の命と申し上げる。
すなわち、名西郡神領村の大粟山に祭る上一宮大明神がこれである。 後に一宮村に移して祭ったのは、国庁への通路の間にあるためであろう。 伊予国の大山祇(おおやまづみ)の神の第一の后となられ、五柱の子供を産んだ。 また、三男二女であることは式内・式外の部(延喜式神名帳)に詳しい。御子の宇賀の御霊の神が阿波に集まって祭られている。板野郡岡の上の神岡をお守りになっている山祇の神、宇賀の女の神、宇賀の御霊の神の三神を合わせて、弘法大師が稲荷大明神と申し上げたという条がある。ゆえに、この国が富み栄える事は国魂の神の御意志である。その五穀や牛馬、養蚕に至るまで国魂となされたとある。
下枝には粟の国の忌部(いんべ)の遠い祖先である天の日鷲(あめのひわし)が作った木綿(ゆう)を懸け、 そして忌部首の遠い祖先である大玉命(おおたまのみこと)に執り取らせて、広く厚く称辞(たたえごと)を祈り申し上げた。(上略下略 神代巻)
考えるに、天照大神の御代から、もっぱら粟の日鷲の命が阿波の国造をなさっていたのだろう。地神の初めから神代五代、人王に至り、神武天皇が東征される御船が阿波の側に来た時、日鷲が御迎えのために海上の案内者を献上したことが『日本書紀』に出ている。(『旧事本紀』には「御船が阿波の側に到った時、日鷲命が迎え奉った」云々とある)
その後、日和志命(ひわしのみこと)は神武天皇の勅命があって、伊勢の国ならびに上総・下総・安房などの国造に任命され、五穀や麻・楮・葉蚕などを造らせなさった。神代から御名前が同じであるのは、今の人が先祖の名前を継ぐような事である。詳しいことは『記紀考』にある。
『古語拾遺』には「神武天皇の朝、天の日和志命の孫が大きな綿ならびに織布(あらたえ)を作った」とある。 考えるに、日鷲の孫というのは末孫のことであろう。木綿というのは楮(こうぞ)や麻のことである。織布というのは荒妙(あらたえ)のことである。神武天皇の朝廷で国政を執られたのである。
また(『古語拾遺』に)言う。「再び大富命(おおとみのみこと)が天日和志命を率いて、肥沃な地を分けて造り、穀や麻を播き植えた」と。 考えるに、大富命というのは忌部太玉命(いんべのふとだまのみこと)の孫の天富(あめのとみ)のことである。穀はカケ(楮の一種)である。麻というのも綿というのも皆アサのことである。
『古語拾遺』に言う。「阿波の忌部が住んだ所をそのまま名付けて安房(あわ)という」 考えるに、忌部の首である日和志命は、阿波の津の咋見の神、白羽の神などを率いて東国の所々で国造りをなさった。安房に至って、諸々の作物がよく育ったので阿波に似ているということで安房の郡と名付けなさった。その所で粟の日和志命をはじめ、その忌部の祖神を祭っているのが今もある。今は(安房が)一国の名となっている。伊勢、武蔵、上総、下総、安房などの国造りをなされて、阿波の国はなおも国造が代々国におられ、神御市(かみのみいち)の孫の所から忌部氏が従って国政をお勤めになられたのだろう。人王十二、三代まで日和志の末裔が勤めたのである。
『日本書紀』に言う。「大足彦忍代別天皇(景行天皇)の五十一年、阿波国の蝦夷の人を置く。凡そ佐伯部の祖である」 考えるに、日本武尊が西の賊を討ち、東の夷をことごとく鎮められて、蝦夷の捕虜を平らげ、敵の首将を百余人生け捕りにして伊勢の国へ近づけなさった。倭姫命(斎宮)に蝦夷の人を多く預け置かれたが、(日本武尊が)三十の御歳で能褒野(のぼの)にて崩御された後、倭姫命から天皇へ奏上があり、神宮に近くて汚らわしいため、蝦夷の人を西国五カ国に置きなさった。
そのうち阿波に置かれた凡そ佐伯部は、天武天皇の御代に諸国共に六畜(牛・馬・犬・羊・豚・鶏)を食べる事を禁止されたのに(他の諸人は皆守ったが)、阿波の佐伯部は勅命に背き、肉食をやめなかった。それによって穢多(えた)という。 『和漢三才図会』には「屠児(えとり)、すなわち牛馬の肉を屠り取る(獣)応(夷)鶏(同)餌の属である。殺生および牛馬の肉を屠り取って売る者である。屠児はすなわち大方いわゆる餌取である。今、所々に一つの村を構え、牛馬や猫犬を屠り皮を剥ぐことを業とする。その穢れは少なくないので呼んで穢多という。また加波多ともいう。天武天皇が天下に詔して六畜を食べる事を禁じて以来、神社は(これを)忌む」とある。(和漢三才図会 寺島良安著)
その穢れを、仏氏(仏教徒)は最も殺生を禁じる故に忌避し、餌取の者は同席したり同じ火を使う事を許さず、異姓の民としている云々。今考えるに、武内神社の近隣には必ず穢多を拝息(?)させ住まわせている。これは大昔に国造が預け置かれた故であろう。また式内などの大社が遍くある阿波国には、猿引きや傀儡師の類の者が多く住んでいる。これらは大昔の神社または寺などにおける伶人・楽人の末裔で、神領・寺領が頼朝公以来次第に減少し、渡世の道が絶えてやむを得ずこのような有様になった浅ましい事である。
『東鑑(吾妻鏡)』巻三十六には「寛元三年乙巳四月二十一日、酉、天晴。左馬頭入道正義は、自らその治める国領の所務において、将軍家の下文によって猿猴の所作を献上した。その猿舞は人間のようであり、大殿ならびに将軍家が召し上げられて御前でご覧になった」とある。「稀有な事である旨の御沙汰があった。教隆が言うには、これはただ事ではない(優れたことである)か」と。 考えるに、この頃から猿を使って面白おかしく渡世を送っていたと見える。この時が猿引きの始まりであろう。
同書に言う。「五十七年、諸国に田部の屯倉(みやけ)を興させる」と。 考えるに、阿波国那賀郡に春日部の屯倉を造りなさったのである。今いう那賀郡富岡邑の内にあったという。春日社があるのをもって証拠とする。
同書に言う。「日本武尊の王子である息長田別命(おきながたわけのみこと)は阿波の君等の祖である」と。 考えるに、これが国司の始まりである。その前の国造は県主(あがたぬし)である。県は郡の名である。一郷を県という。老田とも神代には書いたのであろう。多くの神名にある。
阿波の君が代々長く国政を執り、名方郡府中邑に鄙(ひな)の都と定めなさった。これが国庁の始まりである。長田別の御子孫が数十代にわたり国の君として国の政をお勤めになられた。その後、元正天皇の養老三年秋七月庚戌、従五位上の高安王が阿波・讃岐・土佐の三ヶ国を管轄し、孝謙天皇の天平勝宝六年十二月、従五位下の多治真人木人(たじのまひと・きひと)が南海道の巡察使となった。同朝の天平宝字二年、従五位下の豊野真人篠原(とよののまひと・しのはら)が阿波守となった。この時まで長田別の末孫が代々勤めていたが、阿波守がおなりになったことにより、私領である那賀郡海部の県主とおなりになった。この後は国司が京都から五年ごとの交替で代わり、国の管轄に高安王が下りなさったのであろう。
同書に言う。「天平宝字六年十一月、従五位下多治比真人木又(たじひのまひと・きまた)を南海道の巡察使とする」と。 同書「天平宝字二年、従五位下の豊野真人篠原が阿波守となる」と。 考えるに、この時は阿波守の御言葉として、数十代にわたり阿波国司をお勤めになった。しかしながら、阿波の君である長田別の御代々の御領所である海部はそのままなので、名草郡海部城の所柄を構えて海部氏と号し、郷に引退なされた。後から京都より来られた名誉の国司が座殿を立てて国庁となされた所が、今に名方郡の部に残っているのである。
『旧事本紀』に言う。「志賀の穴穂の朝(成務天皇)、天穂日命(あめのほひのみこと)の八世の孫である弥都侶岐(みつろぎ)の孫・大伴直大瀧(おおとものあたい・おおたき)を定めて阿波の国造を賜う」と。 大伴宝の記に言う。「昔、百済国の福信という者が力を乞うたことに応じて、救済の人数を九州および中国・四国の軍勢数万騎、百済に渡した。阿波の司である阿波真人広純が五百の軍勢を率いて彼の地に至った云々」と。 考えるに、阿波真人広純は長田別皇子の後裔であり、この時までも国司を執行なさっていたのであろう。
『続日本紀』に言う。「元正天皇の朝、養老三年秋七月庚戌、五位上の高安王が阿波・讃岐・土佐の三国を管轄する」と。 考えるに、この時まで阿波の君の末裔が国を治めなされて、大国司の上に三ヶ国を同書に言う。「天平宝字七年四月丁酉、従五位下の菅生王(すごうおう)が阿波守となる」と。 考えるに、この時の阿波国司である従五位下・菅生王は、押勝(藤原仲麻呂)の従弟であって怪しまれたのか、間もなく葛井連(ふじいのむらじ)が下りなさった。菅生王は当国に捨て置かれたのだろうか。美馬郡祖谷に菅生の名が旧家に残っているのは何かの縁だろうか。
『続日本紀』に言う。「天平宝字八年冬十月甲戌、外従五位下の葛井連根主(ふじいのむらじ・ねぬし)が阿波守となる。下略」 『続日本紀』に言う。「神護景雲元年三月乙巳、阿波国の板野・名方・阿波などの三郡の百姓が言うには、『自分たちの姓は虜の年に凡直(おおしのあたい)と記されたが、ただ戸籍には皆、贇(ひん)の字がついている。これより後、凡直贇などを替えることを許してほしいと朝廷に陳情し、改めて粟凡直の姓とすることが完了した。天平宝字二年の戸籍編纂の日に、追って凡贇と注記されたのは心情的に不安である。ここにおいて改めて粟凡直とした』とある。
同書に「神護景雲二年二月壬辰、立位下の中臣朝臣常(なかとみのあそん・つね)が阿波守となる」とある。 また言う。「同二年七月、阿波国麻植郡の人、外従七位下の忌部連方贇(いんべのむらじ・かたひん)、従五位上の忌部連須美(いんべのむらじ・すみ)など十一人に宿禰の姓を賜う。大初位の忌部越麿(いんべのこしまろ)など十四人に連の姓を賜う」と。 考えるに、忌部方贇など十人は麻植の神の神代から国造をなさった末裔である。同忌部越丸など十四人は高越の社に宮奴(みややっこ)として仕える同姓の者である。神社の部に詳しい。
『続日本紀』に言う。「宝亀三年四月庚辰、従五位下の大伴宿禰村上(おおとものすくね・むらかみ)が阿波守となる」と。 同書に言う。「宝亀三年五月辛酉、阿波国勝浦郡の領(郡司)である長の贇(おさのひん)の人が言葉を立てて言うには、『一族の年長の直(あたい)の籍には皆、贇の字がつけられている。これにより前の郡領である長の直敵夫は改注を許され長の直となった。天平宝字二年、国司の従五位下・豊野真人篠原は、証拠がないとして更に長の贇とした。官判は虜の籍によって定めた。またその天下の氏姓は、青衣を采女とし、耳中を紀阿曽贇とし、朝臣を足尼(すくね)・宿祢とする。諸々この類は必ずしも古(いにしえ)に従わず。(下略)』」と。
同書に言う。「同七年六月甲午、近衛の大初位下の粟人直足(あわひとのあたい・たり)など十人に粟直の姓を賜う」と。 同書に言う。「同八年正月戊寅、従五位下の大中臣朝臣宿奈麿(おおなかとみのあそん・すくなまろ)が阿波守となる」と。 同書に言う。「天応元年五月癸未、左兵衛佐で従五位下の藤原朝臣弓主(ふじわらのあそん・ゆみぬし)が阿波守となる」と。 また言う。「延暦元年閏正月庚辰、従五位下の川村王が阿波守となる」と。 また言う。「延暦六年二月庚辰、従五位上の雄倉王が阿波守となる(但し倉氏の祖か)」と。
『日本後紀』に言う。「延暦十九年春正月、無部大輔兼武蔵介の藤原朝臣道雄(ふじわらのあそん・みちお)が兼ねて阿波守となる」と。 『類聚国史』に言う。「桓武天皇の朝、延暦十九年四月、阿波国に綿種を植えた事。 考えるに、綿種は天竺国から献上されたが、後に種を失って三度渡ってきた。今の在所にあるのは慶長・元和の初めである。 『日本後紀』にまた言う。延暦二十一年春正月、従四位少将の秋篠朝臣安人が阿波守となった。 また言う。大同二年亥年夏六月、従四位下の藤原朝臣真夏が阿波守となった。 また言う。弘仁三年、文章博士で従五位上の菅原朝臣清公が阿波守を兼ねた。 考えるに、菅原清公が阿波に任国されたということで、今、名西郡天神村という。芝原村の近郷を領地としていたのである。この地は昔は土師の郷といい、菅原家の領地であったからである。この郷に御氏の末が残っている。式外神社ならびに城跡の部に詳しい。
また言う。弘仁十一年亥正月戌、正五位下で陸奥守の小野朝臣岑守が阿波守となった。 また言う。天長四年、従四位上の藤原朝臣が阿波守に除任された。 『続日本後紀』に言う。承和元年八月、遣唐都匠で外従五位下の三島公嶋継が阿波権掾を兼ねた。 また言う。承和四年正月、従五位上の藤原朝臣富士麿が阿波介を兼ねた。 また言う。同五年十一月戌、従四位下の和気朝臣仲世が阿波守となった。同六年二月、仲世は刑部大輔となった。同日、従五位上の山名王が阿波守となった。同八年二月、外従五位下の讃岐朝臣永直が阿波権掾となり、大判事勘解由次官は元のままである。同九年、右京権大輔兼山城守の長岑宿祢高名が阿波守となった。
『続日本後紀』に言う。承和十年正月、従五位上の藤原朝臣良相が阿波守となった。内蔵頭右近衛少将は元のままである。 また言う。承和十二年、従四位上の源朝臣寛が神祇伯となり、阿波守は元のままである。 考えるに、源朝臣寛が以前の阿波守になる箇所は見えないが、名ばかりの守である事は『詳覧』にある。嵯峨天皇の王子で、母は安倍氏である。 また言う。承和十三年正月、従五位下の山田宿祢古嗣が阿波介となった。 『文徳実録』に言う。従五位上の山田宿祢古嗣が阿波守となった。古蹟に声あり。阿波・美馬の両郡が常に旱災に罹るため、方略を巡らし、堤を築いて水を蓄え、その灌漑によって人々が温飽を用いる事を頼みとした。今もこの二郡(三郡と分ける)は田が多く水が少ない。特に古嗣周司以来、今もって大池が多いのはこの池である。田作が不調であったのを、上古の国司が民業を助けた事を讃美する。
また言う。承和十五年正月戌、正四位下の源朝臣明が兼ねて阿波守となり、刑部卿は元のままである。 考えるに、源明は源寛の弟で嵯峨天皇の王子であり、仁明天皇の弟でもある。嵯峨天皇の時、弘仁五年五月に皇子の信、弘、致、寛、常、明の四人ならびに皇女四人に源姓を賜り、源の一字を名乗った。この四家が始まりである。明も任国の事ではないか。 また言う。嘉祥二年三月戌、王子で正四位下の源朝臣明が参議となり、阿波守は元のままである。 また言う。嘉祥三年正月、従四位上の源朝臣多が阿波守となった。同三年三月朔、この日、仁明天皇が落飾(出家)された。同日、従四位上で阿波守の源朝臣多が入道となった。帝は清涼殿にて崩御された。同日、従五位下の橘朝臣岑雄が阿波介となった。 考えるに、源多が入道された故に岑雄が阿波介になったのだろう。『武家大系図』に従五位上岑範が阿波守と記されている。岑雄と岑範といずれか一字の誤りか未詳。
『文徳実録』に言う。嘉祥三年、正五位下の橘朝臣真直が阿波守となった。 また言う。仁寿二年、従四位上の源朝臣勒が阿波守となった。 また言う。斉衡元年春、藤原朝臣亘が阿波介となった。同年、従四位上の源朝臣勒が右近衛中将となり、阿波守は元のままである。 『三代実録』に言う。貞観元年二月十三日、従四位上行阿波守の藤原朝臣輔嗣が刑部亜となり、阿波守は元のままである。 考えるに、輔嗣が前に阿波守になった事は書に見えず、よって未詳。
また言う。貞観二年三月二日、阿波国を割いて美馬に三好を置いた。 考えるに、美馬・三好に分けるのではなく、紙杯を割くようなものである。清和天皇の朝である。 また言う。貞観三年正月十三日、従四位上の弾正大弼茂世王が阿波守となった。 考えるに、茂世王は刑部卿である。桓武天皇の孫で、平城・嵯峨・淳和天皇の甥である仲野親王の王子である。 また言う。同日、従五位上の守右近衛少将藤原朝臣有真が阿波介となり、少将は元のままである。
また言う。貞観四年正月七日、明法博士の粟凡直鱒麿に外従五位下を授けた。同年正月十三日、従五位上で守右近衛兼阿波権介の藤原朝臣有真が因幡権守となった。同日、従五位上の行因幡守藤原朝臣興世が阿波権守となった。同五月廿日、近頃海賊が往々にして群れを成しているので、この日、淡路・阿波などの国に下知し、人夫を差し発して海賊を追捕した云々。 考えるに、この頃、南海道で海賊が多く起き、官物や私財を隔てなく掠め取ったため、諸国に下知して官人を出させ、国司がこれを討ち平らげた。
また言う。同年八月十七日、讃岐国寒川郡の人の兼出雲権介が阿波掾を遷兼した。九月廿三日、阿波国板野郡の人の従五位下行明法博士粟凡直鱒麿、中宮舎人少初位下粟凡直貞守等、同族男女十二人に粟宿祢の姓を賜った。十月十四日、鱒麿は大判事となり、明法博士は元のままである。 貞観六年正月十六日、従五位下行阿波介の藤原朝臣忠宗が備前介となった。同日、従五位下守主殿頭の常麻真人鴨継が阿波介となり、主殿頭は元のままである。四月十日、阿波国勝浦郡に少領一員を加置した。同廿二日、阿波国名東郡の人の従八位上の直豊宗、外少初位下の海直于常等の同族七人に大和連の姓を賜った。同八月八日、阿波国名東郡の二品治部卿兼常陸太守の加陽親王の家令で上首位上の安曇部粟麿が郡字を改め、宿祢を賜った。粟麿は自ら安曇百足宿祢の末裔であると言った云々。
貞観七年正月廿七日、参議右近衛中将で従四位下の藤原朝臣基経が阿波守となり、右近衛中将は元のままである。三月廿八日、右近衛権少将の清原真人秋雄が阿波守となり、少将は元のままである。 また言う。貞観八年正月七日、従五位上行右兵衛権佐の坂上大宿祢瀧守が阿波介となった。十二月、阿波国名方郡に主政・主帳を各一人加宣した。 また言う。貞観九年正月八日、従五位下行陰陽頭の藤原朝臣三直が阿波権守となった。 貞観十年正月十六日、従五位下の内匠頭藤原朝臣維範が阿波権介となり、内匠頭は元のままである。維範は去年、阿波権介を兼任したが父の喪に遭い職を解かれ、今本官をもってこれに起用した。 貞観十一年正月八日、二品行治部卿兼上野太守の賀陽親王の家令である安曇宿祢粟帯に外従五位下を授けた。同年正月十日、従四位上行右近衛中将の源朝臣粤が阿波守となり、右近衛中将は元のままである。同年十二月十三日、従五位上守右近衛少将兼行阿波介の坂上大宿祢瀧守を大宰少弐とし、阿波介は元のままである。
貞観十二年七月十九日、阿波国三好郡の人の少領で外従八位上の任直浄宗ら五人に佐伯直を賜った。 貞観十四年五月廿三日、大学頭で従五位上兼行文章博士阿波介の巨勢朝臣文雄を遣わし、鴻臚館にて渤海国の使者を饗応させた。 貞観十四年五月廿五日、従四位上行右近衛中将兼行阿波守の源朝臣粤を遣わし、鴻臚館にて勅書を賜った云々。
また言う。十五年五月十五日、これより先、太宰府が言った。筑前国司が休天長元年六月十九日の格に言う。諸国の渡船で二十年以上になるものは買い替えることを期す。而して鳴門の渡船二艘は、いつ置き始めたのか分からないが、今すでに朽ち損じ、渡るのに不便である。ましてや河岸は欠け、渡口は広く遠い。公私の往還は連日遥かに留まっている。正税の稲をもって早く買い充てることを請い望む。請いによってこれを允した(許可した)。 考えるに、鳴門の渡海に船を置き始めた年限は分からない。昔、伊予国より陸路で三好・佐野より美馬・阿波・板野郡を経て阿波鳴門を渡り、淡路へ官物が多く往来したという事は、土佐の吏伝を大宰府が奏上したことで詳しい。土佐国からも陸路を経て阿波を通った事がある。『延喜式』に駅路伝馬の科の定めがある。『実録』にある。
『実録』に言う。元慶元年十二月廿一日、阿波権介の小野朝臣櫟生に従五位下を授けた。同二年正月十一日、従五位上守右近衛少将の藤原朝臣有実が阿波権少将となり、元のままである。 元慶三年五月廿五日、従四位下行阿波権守の藤原朝臣安方が、出家して沙門となることを請い、勅許を得て清和院の随主入道に仕え奉った。同年十二月廿五日、従五位上行阿波守の藤原朝臣基を正五位下とした。 元慶五年四月四日、地震があった。阿波国那賀郡の人で従七位上の椋部安成ならびに白丁十九人が本姓の曽祢連に復した。 考えるに、曽祢姓は海部の大領主であり、前の阿波の君の末裔である。
元慶八年三月九日、従五位下行内蔵助の南淵朝臣良臣が阿波介となった。同五月廿六日、従五位上行皇太后宮亮の藤原朝臣積善が兼阿波権介となった。 仁和元年正月十六日、従四位下行右近衛少将の平朝臣正範が阿波権中となり、従五位上行民部少輔の藤原朝臣安嶺が阿波守となった。 仁和二年正月十六日、従四位下の藤原朝臣直方が阿波権守となった。 考えるに、平朝臣正範は讃岐権守に成った故である。 仁和三年二月十七日、従五位下の南淵朝臣良臣が阿波介となった。良臣は元慶八年三月に任じられたが母の喪に遭い職を去った。今、喪の情を奪いこれを起用した。六月十三日、従五位下守大学頭の藤原朝臣和蔭が阿波守となった。 寛平八年九月五日、阿波国名方郡を分けて名西郡・名方東郡とした。今言う名東・名西がこれである。
『延喜式』の第七に言う。践祚大嘗祭云々。大嘗会の雅用料の稲は、国別に正税一万束を充てる。 また言う。馬一疋、太刀一口、弓一張、箭二十隻、鍬一口、鹿皮一張、庸布一般、木綿・麻各一斤、堅魚・煎各四斤、海藻・滑海藻各四斤、酒・采各四斗、塩四斗。ならびに郡所輸(郡から納めるもの)。 その供神幣物ならびに作貝および潜女・水手の料は、大蔵の物を以て充てる。ただし浪(波)は当国の正税を以て給し、人別に日米二升を給する。阿波は十日。 その物が造り終わると、神監が斎場に送り両国に分付する。ただし阿波国が献上する鹿布や木綿は神祇官に付ける。
同(延喜式)十三、大膳の下に言う。大嘗祭に献上するものは、鹿布一端、木綿六斤、煎十五缶、蒜(にんにく)・莢(さや)・根を合わせて漬けたもの十五缶、乾手・蹄・臛(あつもの)・鴿(はと)・橘子(みかん)各十二籠(以上は忌部が作る所)、鰒(あわび)四十五編、納十垌、綢螺(つむばい)・棘甲(うに)・贏(さざえ)・石華(かき)など合わせて二十垌(以上は那賀郡の海女十人が作る所)。 その幣(ぬさ)は五色の薄絹各六尺、倭文(しづ)六尺、木綿・麻各二斤、葉薦(はごも)一枚、作貝・钁(くわ)・斧・小斧各四具、鎌四丁、鑿(のみ)十二具、刀子(とうす)四枚、銫(やりがんな)二枚、火鑽(ひきり)三枚。並びに忌部や海女らに分量を量らせて造り備えさせる。
造備 すべて淡路・阿波の三国の由加物を造る使が京へ向かう日の路次の国は、通路を清掃して奉仕せよ。 すべて斎服は十一月の中の寅の日にこれを給う。神祇官の伯以下、弾琴以上十三人は、藍摺錦の袍一領(白袴一腰)。史生以下、神服以上の一人百三十七人(史生四人、天神部二十四人、卜部十万人、使部十六人、阿波忌部共に神服七十万人)には、各々青摺の布衫(ふさん)一領。 延喜式二十六、主税上に言う。阿波国は正税と公廨(くげ)各十万束。国分寺料一万四千束、文殊会料二千束、修理池溝料三万束、道橋料五百束、救急料六万束。
同四十八 左右馬寮に言う。毎年進める秣(まぐさ)の科、阿波国は大豆八十斛。 同四十三 民部下に言う。年料別貢雑物として阿波国等から八十。紙麻(かみそ)七十斤、斐紙(雁皮紙)麻百斤、馬草十張。 同三十七 典薬寮に言う。諸国が進める年料雑物。阿波国は三種。茈胡(さいこ)・黄菊花・沢瀉(おもだか)・橘皮各一斤、萆薢(ひかい)・躑躅(つつじ)・花菌(はなきのこ)・草各四升、薺苨(せいせい)・芍薬・土瓜(からすうり)・牡丹各三斤、細辛九斤、大戟(たいげき)・狼牙(ろうが)・菝葜(ばっかつ)・連翹(れんぎょう)・女萎(にょい)各二斤、升麻(しょうま)十両、蒲黄八両、天門冬五斤、寄生二十斤、榧子(かやのみ)一斗三升、麦門冬・蛇床子(じゃしょうし)各二斤、桃仁二斗、秦椒(しんしょう)二十五升、葵子五升、蒺藜子(しつりし)...一升、鶏頭子五升、麻子三斗、胡桃子一斗、蜀椒八升、乾棗一斗五升。
延喜式 驛馬・伝馬の条。阿波国は上馬三百束、中馬二百五十束、下馬二百束(其の伝馬は直看を免じ、進減す。また言う、阿波国の陸路の駄別の稲、海路の自国より漕ぎ豊等に降りる航賃、別一束一把、水手(かこ)各漕十日、自余は播州に同じ)。 延喜式 主計上に言う。阿波国の調は、両面五疋、四点・羅二疋、一窠(いっか)綾九疋、二窠綾五疋、七窠綾・蕃緻(ばんち)綾各四疋、白絹四十疋、緋(あけ)絹五十・五絁(あしぎぬ)・紬(今日では絁と言う)。緑絁・縹(はなだ)絁各廿絁、皂(くり)絁五絁、練絁二百五十絁、絁一千五絁、調夏御取鰒三十九斤、堅魚(かつお)五百三十五斤、八面(中男の庸)、白水・韓櫃十二合、白條・輸絹・緜・作物・紙・黄蘗三百斤、亀甲十三枚、苧麻子(からむしの実)二石、由岐(ゆき)・榎椒(かしょう)・油・胡麻油・短鰒・猪脯(いのししのほじし)・久恵(くえ)・臛(あつもの)、(令には調の副物に鰒の腸とあり)、漬・鮨・鰒鮨・年魚(あゆ)・雑魚鮨・海藻・鹿角菜・凝海菜。 また言う、阿波国は絹二百疋、白絹十二疋、油二石四斗、亀甲五十枚、鹿皮十張、粟二十石、小豆十石、秔大豆(うるちだいず)八石、胡麻子四石、小麦七十石、凝菜七斗、青苔廿斤、海藻根・於期菜六斗、鹿角菜二石、梵寸五十枚、樽二合、嶋大豆十二石、隔三年進(三年ごとに進める)嶋大豆五石。 また言う、禄物価法、阿波国の絹五十束、鐵六束。
延喜式二十八 兵部 隼人に言う、諸国の器仗、阿波国は甲(よろい)二領、横刀(たち)七口、弓二十張、征矢(そや)二十具、胡籙(やなぐい)二十具。 延喜式三十三 大膳下に言う、諸国より貢進する菓子、阿波国は柑子二輿、籠数は四百顆、甘葛(あまづら)煎一斗五升。 延喜式 民部上に言う、すべて諸の健児(こんでい)は皆な徭役を免ずる。ただ阿波・讃岐等の国は免役を傷(そこな)う。すべて諸家の封戸(ふこ)は各々三分の一を充て、阿波国は置位田を得ず。すべて文章博士の職田五町、筭(さん)博士の田一町、すべて山城・阿波・西国の班田の者は陸田・水田を相交えてこれに授ける。 延喜式二十三 民部下に言う、すべて諸国が進める兵庫寮の修理甲科の馬草、阿波十枚。下向の使いは、もって駅伝を給い、尋いで死馬の皮を熟してこれを送れ。もし足らない者は買い備え、満数せよ。其の直(あたい)は正税を充てよ。 延喜式 木工寮に言う、庸米阿波国三百斛、海藻千四百五十斤、魚四十七斛(ただし百里は一斛を贈り遺す)。
朱雀院天慶三年(今の昔の物語 第五世の伝承 中将門純友の伏誅に言う)、藤原純友は、伊予・讃岐・阿波・淡路をかすめ、阿波の介・藤原国風と合戦し、国風は敗軍して警固の使にのぼり、敵はこれと共に阿波国を出て淡路に行き、純友の同行に入り放火し、公私の財物を奪い取る。国風はこの事を言上し、二ヶ月を経て人・敵を催し讃岐にかかり、官軍の到来を待つ。その時、都より追捕使・左近衛少将・小野好古を長官とし、源経基を次官とし、左衛門尉・藤原慶幸を判官とし、左衛門志・大蔵春実を主典とし、播磨・讃岐の二箇国に発向し各々二百余艘に乗り、伊予国に打って向かう。官軍がいまだ到着せざる以前に、純友が頼みに思う藤原恒利という者がひそかに賊陣から逃れ、国風の許へ来る。この恒利は賊徒の宿所・隠れ家・海陸の通路の塞ぎ・案内のことを知っていたため、国風は彼を指南として賊を討ち、先陣の恥辱を雪(すす)ごうとする。
前太平記に言う、天慶三年春、予州(伊予)の純友は阿波・讃岐を濫妨する。官軍の大将・左衛門佐・倫実(ともざね)は阿波の国司・阿波介国風、執事・櫟間文治行直と相共に讃岐高松で合戦し、利を失い阿波・讃岐の堺にある中山へ退き、少し息を休めているところに、阿波国の楫尾(かじお)太馬允(たいばのじょう)資宗ら一族が相具し一千余騎で国風の前に馳せ来たり、宇治・早々の敗軍は賊の威を増し、人数は衆寡敵せず、延引の由を申す。国風は社の申すところはもっともである、敵の追討はここに来るであろう、その時汝らは軍を出して敵を山陰へ引き入れよ。前後より包み討つべしとて待ち構えていると、純友の弟・権亮(ごんのすけ)純素が二つ無い大勢の敵を乱し追い来たり、勇を計るがごとく敗軍を弱しとして退く山奥深くに來る所を...この森の陰・かしこより、鑓・大勢で打って一度に前後左右より権亮に伐ってかかる。さしもの純素も計略に落ち残念と見て、次第に一方を打ち破り、辛くも一命ばかりを助け高松より船に乗り西国へ下った故に阿波・讃岐は平らになった。また、今按ずるに阿州美馬郡の雪江の名の奥より讃州中山村へ越える大久保寺の近し。これより高松へ三里ばかりである。
和名類聚抄巻第七 源順撰(順は弘仁の帝の四世の孫、博聞強記の詩文好きにして和歌を能くす。作に造詣深く字義に富む。これ延喜・天暦の時の人なり) 第百二十一 阿波国(按ずるに此の時は九郡なり、中頃は十三郡、今は十郡なり)
板野郡(此の板野郡と云うのは、葦田野郡である。根元は神宅村にある。長田厩、葦津姫の神のゆえをもって郡の号とするのである。郷は九つである)
松島(万都・之万 今の松村に通ず。大山を云うか。郷は実は阿波の郷である。今の一円、大庄である)
津ノ屋(都乃也 梅本村より吉永・徳永・木清野・備前島などの地である。是を大ノ郷の号とするのである。此の地をもって大州と云う所である)
高野(多加乃 此の地は未詳)
小島(古之万 此の地は西方の村、小島と云う所より吉成・大川・鈴江・宮島・上下別宮・通切の島を一郷として上代は手頼の領地である)
井隈(井乃加マ 此の地は奥野住吉・矢上・乙瀬・鳴瀬・竹瀬・中富などの地である)
田上(多乃加マ 此の地は未詳)
山下(夜万乃之多 此の地は未詳)
全戸(左に同じ)
新屋(左に同じ)
阿波郡(此の郡の名を粟と言う。鷲神の県(あがた)である。後に麻植の神号にして郡を麻植とした。又根元の宮・島の神の地は阿波郡である。粟の神の号である)
高井(此の地は中ノ村より下日開谷である)
秋月(阿木都岐 此の地はすなわち秋月村がある。左大山より地の郷の号である)
香美(加美 此の地はすなわち香美村がある。是の地より川原・柿原までである)
拝師(ハヤシ 此の地はすなわち西林・東林・伊沢・久千田・勝命のあたり。ハヤシノ郷である)
美馬郡(此の郡の名は井ノ内の谷、馬岡の神の馬を愛し、美しい馬を生ずるゆえの号である。式内の部に詳しい)
郡原(コホリノハラ・江都以良 此の地は拝原・井尻・脇・岩倉のあたりである)
三次(美津木 此の地は郡里・重清・山分の一郷を云う。三好のツネの三次である)
大島(於保之万 此の地は今、誤って小島と云う。穴吹・拝村・一郷である)
大村(於保無良 此の地は太田村より半田村・追山分の一円一郷である)
三好郡(此の郡は上古は美馬郡である。中古代清和の朝貞観二年三月二日割いて美馬郡・三好郡を置く)
三縄(美奈波 此の地は毛田より池田・迫・間奈・州ノ井ノ内駒ノ名のあたりを号する)
三津(美豆 此の地は清水村より西澤村・迫を号する)
三野(美乃 此の地は白地より佐野・山城・三名・県の号である。佐野の訛りである。根元は三野の郷である)
麻植郡(此の郡は粟と言う。和志の命が麻を植え始めし所であるため麻植郡の号としたのである)
呉島(久礼乃万 此の地は西麻植より麻植塚・牛島・上浦山より云うのである。根元は呉島と云うのは、昔唐土より呉部の漢部と云う、後に羅織・縫人らを召し、忌部・根州・忌服・又池田杯を置く。其の後、諸国の大社に定められる。奇玉阿波大社三社に産人六人、今云う上下島ノ辺りに飯尾村の唐人と云う所がある。此の住人、今は末葉となり由。人あり、又上下島の呉島を云う。訛りである)
忌部(伊無倍 此の地は宮ノ島より川原・山崎を云う。別紙・中村・木屋平・近山・忌部の地である)
川島(加波之万 此の地は川島より山田・東山・林・皆川島の地である。此の巴は川ありて地をろす也)
名方西郡(なかたのにしのこおり) この郡の名称は、上下の字を略して、元々は単に「名方郡」であった。あるいは「内神社」の項目に詳しい。郡を分けたのは、宇多天皇の寛平8年(896年)9月15日に東西に分割したためである。
射立(いだが):この地は未詳である。村から田場にかけて「湯立」という地名が残る場所である。これは射立の賊を討った勇気に由来するものであり、つまりは(判読不明)神社のゆえんの郷である。
埴土(はにふ):この郷は入田から上山・延命の地である。神領である埴生姫の領地である。あるいは「外神社」の項目に詳しい。
高足(たか):この郷は高畠、中島、東両、寛田、顔郷、高崎あたりの地である。高志ともいう。高志という姓の者がこの地に住んでいた。ただし高志国というのも郷村の地名である。
土師(はじ):この地は天神村、芝原、茅、十高畠などの地に当たる。菅原清公が阿波守となり、領地として長くここの百姓の人が特別に扱われた。
名方東郡(なかたのひがしのこおり) この地は東西および東佐古、蔵本、田宮、矢三、島田などの地に当たる。
櫻間(さくらま):現在、名西郡に櫻間がある。加茂野一円などのあたりであろう。
新井(にい):この地は南北新居、和田、光延、高崎などの場所をいう。
賀茂郡・井戸郡・勝浦郡
賀茂(かも):この郷は東櫻間、敷地、池尻、井ノ日開、高輪、花園などの地である。式外神社の項目に詳しい。
井戸(いと):この郷は今の「渭ノ猪ノ山」という。井ノ上の言葉が残ったものである。昔この所に住人がいて、井関あるいは井上と言ったとのことである。今の徳島の、大岡、駐在、福島などである。
八萬(やま):この地は下町、上下の八万、沖ノ浜、津田までである。式外神社の項目に詳しい。
殖栗(えくり):この地は尼寺の内の長谷野、延命、一宮、佐那河内までである。後に名東郡と名付けて一つの郷となった。また(判読不明)にもあるはずである。
勝浦郡(かつうらのこおり) この郡の名称も、勝占の神社があるがゆえに名付けられたものである。
篠原(しのはら):この郷は飯谷から生夷、谷の村里、立江、櫛渕までである。
託羅(たから):この郷は大谷、西須賀、片上、澁野、八多、宮井、本城などである。現在でも宮井にタカラ田、太井という場所もある。またタカラ川というのもある。今は誤ってタラ川と言う。
新居(にい):この地は田浦、新居見村、田野、芝生、前原、江田などの場所である。
餘戸(あまりべ):この郷は中田、中ノ郷、松島、金磯などの地である。金戸、余戸と残る場所である。(以下未詳)と定めることが残る場所である。
那賀郡・海部
那賀郡(なかのこおり) この郡の名称の由来はわからず未詳である。中古には那東・那西の名称があったが、今は昔に戻して一つの郡である。もっとも海部も上古は那賀の内であった。今は独立した一郡である。
山代(やましろ):この郷は仁宇、和食、山ニ、荒田野など山側の地であるが未詳である。
大野(おおの):この郷は上下の大野、西方、宮内、岡村、柳島などの地であろうが未詳である。
嶋根(しまね):この郷は島尻から中島、色々な島、今津の近辺であろうが未詳である。
幡羅(はら):この郷は原村、田原、古庄、大京原あたりの地の郷の名称である。
和泉(いずみ):この地は本庄村の内に和泉という場所の名前がある。荒井の上下、今市、石塚、観音、能見の海へ下り海辺までである。
和射(わさ):この郷は宮倉から板野、森、立江、櫛渕、中ノ庄、星、南方である。元々は宮倉村の和射の神からの名称である。式内神社の項目に詳しい。
海部(あま):この地の上は阿波、伊佐州、由岐、木岐から、下は鞆奥、浦ノ庄、牟岐である。広い県(あがた)であるため、現在は一つの郡に分かれている。
一條院 考えるに、この朝廷において藤原秀郷の三代の末裔である左馬允経立が陸奥守兼鎮守府将軍に任じられ、阿波守義光(これは利忠綱の七代の祖である。『吾妻鏡』にある)も兼任した。このような阿波の国司は数多く見られるが、氏族や年月が不詳であるためここには記さない。
二條院 長寛2年(1164年)10月、関白の基実が左大臣を辞任した。基房が左大臣に転任した。その弟の大納言兼実が内大臣に任じられた。基実は近衛殿の祖であり、基房は松殿と号した。兼実は月輪と号し、九條殿とも号した。この三人は忠通の子である。 考えるに、この基房が阿波の国司として二度来訪されたことは、木津の(判読不明)上の和歌に詳しい。 和歌に(判読不明)月輪殿も阿波へ下って薨去され、名西郡瀬部村に御所跡や御墓などがあるということである。
高倉院 安元2年(1176年)7月、この頃、加賀国司の藤原師高が比叡山の末寺である鵜川の僧徒と争いを起こした。その坊舎を焼き、互いに合戦に及んだ。ついに僧徒らは白山の神輿を比叡山へ振り上げて訴え出た。比叡山から公家へ申し入れ、師高と師経を投獄しようとした。師高・師経の父は、法皇の御意にかなっていた西光法師であったため、山門(比叡山)の訴訟は通らなかった。西光は元来、少納言信西の家人である。信西の死後、法皇の北面の武士として側近に仕え、阿波に在住して藤左衛門尉師光と号した。実は藤原姓であるゆえに原と号したのか未詳である。加賀国司と同国の目代の両人は尾張国井戸田において首を刎ねられる。
治承元年(1177年)正月、院の別当である新大納言の藤原成親らが平家の驕りを憎み、法皇に申し上げて、西光らの党類と共に平家を滅ぼすことを企てた。東山の鹿ヶ谷において会合し、法皇も御幸された。事が発覚し、6月1日に西光や成親らが捕らえられ、成親は備前国の児島へ流された。西光は処刑され、その子や家人らも獄中で処刑された。阿波国に残っていた家族も、男子は皆処刑された。 『国史略』に曰く。治承3年(1179年)11月、松殿関白基房を備前へ流罪とした。本文には備前とあるが、木津上の和歌の趣意から考えると、阿波へ流されたのであろうか。二度当国へ下られたと見えるが未詳である。
『吾妻鏡』巻第二に曰く。治承5年9月17日、刑部大夫成良が『国史略』に曰く。寿永2年(1183年)9月、木曽義仲(判読不明)。平家の使いが伊予国に乱入し、河野以下の在庁官人らが異心を抱いたとして合戦に及んだ。河野はしきりに降伏したが、これは勢力が及ばなかったためであろうかと言う。 考えるに、『吾妻鏡』に治承5年とあるのは養和元年(1181年)のことである。阿波民部成良(重能)はこの時、阿波の国司であったのだろう。もっとも、平家の内においては忠臣と見られている。(判読不明)庫、筑島は民部が一人で、あるいは阿波の国氏が勤めた所である。ならびに讃岐国八島の板屋の内裏などは、皆成良が造営したものである。
『吾妻鏡』巻第四に曰く。元暦2年(1185年)2月11日、平家は讃岐国の志度道場に籠もった。廷尉(源義経)は80騎の兵を率いてそこへ追撃した。平氏の家人である田内左衛門尉が廷尉に降伏した。
考えるに、元暦2年は文治元年である。田内左衛門は阿波の民部成良の嫡男であり、伊予の河野を攻めるために出陣していたところを、義経が伊勢三郎を派遣して計略により降参させ、その上その手紙を用いて民部成良も降参させたのである。そうであるに違いない。民部父子は先帝(安徳天皇)を供奉し、国盛をお供として阿波の祖谷へご安座させた。祖谷に入山したのは寿永元年(1182年)12月の大晦日であると地元の言い伝えに残っている。特にこの国盛の家系は現在まで続き、天皇の錦の御旗などが残っている。その館には都にあるような道具が昔はあったと言うが、今は損なわれている。これらをもって考えると、民部父子の降参はあっぱれな忠義からの降参であったに違いない。悪名を末代まで残してでも、先帝や国盛、その他の平家一族を多く助けるためであったと見受けられる。ああ、忠臣たる平家の侍はこの人にとどめを刺す。
『鎌倉将軍家譜』に曰く。文治2年(1186年)3月、六十六国に総追捕使ならびに地頭が置かれた。これにより諸国に守護を置いて国司の権威を押さえ込み、わずかに吏務(役人としての実務)の名を残すのみとなった。所有する荘園や郷保には地頭が補任され、本所(本来の領主)は無いも同然となった。 考えるに、阿波国は平家の所領が多かったため、諸国の武士で頼朝へ功績のあった者たちに分け与えられたのである。阿波・土佐・淡路の三州の守護職である佐々木中務丞経高は、阿波国名西郡白鳥村に城を築いて鳥坂城と号し、これによって三州の在庁官人の勤務の善悪を調べ、頼朝へ訴え出て賞罰を行った。阿波国司であった平判官康頼入道は、西国の麻植郡森藤村に城を築いて在庁に入った。
『吾妻鏡』巻第六に曰く。文治2年閏7月22日、前廷尉ならびに尉の康頼法師が恩沢を浴し、阿波国麻殖保の保司とすべき旨が仰せ下された。故・左典厩(源義朝)の墳墓が尾張国野間庄にあり、没後に訪れる人もなくただ前廷尉(康頼)のみがこれを庇護していた。そしてこの康頼が任期中にその国へ赴いた際、水田三十町を寄附して小堂を建て、六人の僧に不断念仏を修めさせたとのことである。よってその功に報いるため、このように決定がなされたとのことである。
『吾妻鏡』巻第八に曰く。文治4年(1188年)8月20日、前廷尉の康頼入道が訴状を捧げた。これは阿波国麻殖保の事である。地頭である刑部丞成綱が暴威を振るい、保司(康頼)の言うことを用いないため、恩沢の拠り所がない状態に似ているとのことである。そこで、内蔵寮への納入物が欠如したことを理由に、成綱の地頭職を停止すべきであるとの命令が下された。これは院宣である。(以下略)
『吾妻鏡』巻第十二に曰く。建久3年(1192年)8月9日、天候は晴れで風は静かであった。早朝から御台所(北条政子)が産気づき、鳴弦の役は平山左衛門尉季重と上野九郎光範が務めた。和田左衛門尉義盛が引目役(魔除けの弓)として控え、歩く際には江間四郎殿、三浦介義澄、佐野十郎義連、野(判読不明)刑部丞成経、藤九郎盛長、下妻四郎弘轉ら計六人が御護刀を献上した。加賀守俊隆が特別に禄を取り、次に阿野上総の妻室が取った。 考えるに、阿野上総とは頼朝の弟である全成のことである。童名は今若といい、阿野法橋、あるいは醍醐の悪禅師と呼ばれ、奈良で得度した。建仁3年(1203年)5月19日(に誅殺された)。
謀叛の噂があったため御所中に召し籠められ、武田五郎信光がこれを捕らえて常陸国へ配流した。また言うには、八田右衛門尉知家が仰せを奉じて下野国で殺害したとのことである。その妻室は阿波局といい、佐々木中務丞の娘であったために阿波局と呼ばれたのである。
『吾妻鏡』巻第十六に曰く。正治2年(1200年)7月27日、阿波の(判読不明)書状などが到着した。佐々木中務丞経高は下向して京都の警衛の任に就き、頼朝の威光を奉じていたが、治安維持にあたる中で、生け捕りにした強盗人を口実にその周辺の近隣の民衆まで追捕した。その上、淡路国の守護であることを笠に着て国司の命令をないがしろにし、国務を妨害した。さらに去る9日には淡路・阿波・土佐などの国の軍勢を招集し、甲冑を着せて走り回らせた。これが天皇の耳を驚かせることとなり、事の起こりを尋問されたところ、「敵に襲われそうになったため」と申し立てたが全く確たる証拠がなかった。その行いの企ては奇怪極まりなく、早く関東へ送るべき旨の勅命が下った。上皇も逆鱗に触れられたとのことである。
8月2日、佐々木中務丞経高は不興を買い、淡路・阿波・土佐の三箇国の守護職以下の所領などを没収された。その旨が京都へ申し入れられた。これまでいささかの罪科により勘当に任せられてはいたものの、他とは異なるため暫くは宥免されていた。しかし洛中の警衛の士でありながら京都を騒動させ、天皇の意に背いたことは私的な宥免には及ばないとして、両使が沙汰を促しこのようになったとのことである。 考えるに、佐々木経高が三ヶ国の守護職を没収されると、即日、信濃国の小笠原阿波弥太郎長経が阿波・土佐・伊予・讃岐の四箇国の(守護に任じられた)。閏[?]守護職である。これを相続した日時は不明である。
九月二日、[吾妻鏡より] 快晴。羽林(近衛府)の令を歴覧する。小壺の海辺において、小坂太郎、長江四郎らに給う。馬を儲け、例の如く飾る。笠懸。結城七郎朝光、小笠原阿波弥太郎(すなわち海野小太郎、宇佐美平次、市河四郎義胤、和田左衛門尉常盛ら)をその射手とする。以下略。 (※注記:桜井小笠原阿波弥太郎と、この時から号し始めたと見える。阿波国に下り、四国守護職を仰せ付けられたのはこの頃である。)
『東鑑(吾妻鏡)』第十七巻より:正治三年(建仁元年)酉の五月六日の記録に曰く。 佐々木中務入道純蓮が、子息の高重を用いて一通の疑状(謀反を疑わせる文書)を構えた。先頃、今日、遠州(北条時政)が義信を用いてその書状を露見させた。ここにおいて、自身には全く犯した罪はないとはいえ、傍らの者の讒言によって(将軍の)不興を買ってしまったため、愁訴して言うことには、その旨の第一は、全く罪がないことを謝し、その後に数度の勲功を載せた。 「去る七月、大和国の賊の首謀者らが謀反を企て王城(京都)に群集しようとしている件について用心を致し、請方からの報告に基づいて直ちに淡路・阿波・土佐の三国御家人等に知らせたことは、頓に忠節と謂うべきである。これに従えば、当時のいわゆる国識法師と号する者の反逆について鋒先が露見したため、伊賀新平内が捕らえられ、恐怖して直ちに逃げ去った。この用心は本来の宿望に違わないものである」と掲げた。 色々な勲功と謂うのは、「関東草創の最初において、大夫尉景隆(山木兼隆)を誅伐した時、純蓮の兄弟四人が騎手として列した。それ以降、世の中が平定されるに至るまで、今度々自身の命を忘れて敵陣を破った」云々と。 ここにおいて、ついに許しが完了した。淵源は免じられた云々。ただし、所領については今は返付されない云々。同十三日、佐々木太郎高重は、父・純蓮への深い不興による勘気を受け、京都へ帰った。遠州(北条時政)ならびに庸元朝臣らが餞別の馬を遣わした云々。
承元元年四月、九条前関白太政大臣(九条兼実)が自邸で薨去した。 秋八月、輪殿は(源)空の門徒であったため、阿波国瀬部邑の御所において承元二年四月に薨去されたという。同年については未詳。 (※注記:黒谷の僧・源空、すなわち法然である。)
『東鑑(吾妻鏡)』第二十五巻より:承久三年五月十九日壬戌。両陣。 佐々木歩騎、右郎信実、壱岐卿伽、法師等が、北陸道大将軍(北条朝時)に従って上洛する。ここに、阿波守・相中将・陸奥卿・記造の張本である家人・河匂八郎家賢が人質の後胤を引き連れ、六千余人の伴類を率いて越後国加地庄の願文山に立て籠もったため、信実がこれを追討した。聞くところによれば、これは東国(幕府)が官軍を破った最初の戦いである。相州(北条義時)・武州(北条泰時)らが大軍を率いて上洛する事について、今日飛脚を遣わした云々。院中(後鳥羽上皇側)の上下は魂を消した(大いに落胆した)云々。
[編者の]案に、相中将が阿波に下られた年限は未詳である。上皇の勅命であるから、当然誰がこれを反逆と思うだろうか。これにより、阿波の人の多くが院に参じ、軍勢となったのである。ああ、時流がなかったというべきか。往古は天皇に敵対する者を逆徒・反逆と呼んだが、今に至って、叡慮(天皇の意志)に対して反逆とはどのような文章であろうか。信成卿は後に阿波に住み、阿波郡山上村の御所にてのち遂に亡くなられた。御廟は香美村にあり、今「寛政三千ガト」と言う者の産鋪の内にある。これは承久の乱の張本人であったため、鎌倉の下知としてこの地に配流されたのであろう。律顕というのは阿波の板東・板西の武士である。その余りは平判官康頼の子孫で前守護職の清基、佐々木中務丞経高の一族などは、皆阿波国より官軍に加わったが、敗軍の後にある者は討ち死にし、あるいは自害し、残る者は流罪となったと見える。
『南海治乱記』に曰く。ある日、阿波国麻植の保の預所であった左衛門尉清基も、官軍の人数であったことによって地頭職を追放された。鎌倉で在番していた際、最初は「この人(清基)は偽って官軍にいた」と言わなかったが、後に長経より申告があり、世帯を没収(没軌)された。佐々木入道純蓮は鷲尾において自害した。 その子、佐々木弥太郎判官高重は、承久三年六月十四日、京都での合戦において生け捕りにされたと言われ、河原において誅殺された。弟の佐々木高範、同高義らの家人共々、阿波国鳥坂の城を落ち、同・都鬼籠野弓折シにおいて自害した。下部らは小児を連れて上山へ退いた。これが今に言う「上山の佐々木」である。[右ノ開地求ル年中ノ計切有人ハ分玉公:判読・意味不明] 関東の武士が多く阿波に来たのであろう。伊予国阿野氏は、阿波の浅富田の庄を賜った。承久三年に武功があったためである。
『東鑑(吾妻鏡)』第二十六巻より:承久四年五月廿七日。 土御門院が土佐国より阿波国へ遷御されることになったため、祇候(奉仕)する人数の事について尋ね求め、注進すべき旨を、阿波守護で三好の元祖である小笠原弥太郎長経の許へ仰せ遣わした。四月廿二日、お迎えのためにすでに土州へ進発し終わった由を、長経が言上した云々。 『東鑑(吾妻鏡)』第二十六巻より:貞応三年甲申十月廿八日。阿波国麻植保の預所である左衛門尉清基と、地頭の小笠原弥太郎長経が、先日来から相論(訴訟)している事について、両国司の御前にてついに決着した。清基が申して言うには、「当保は、康頼法師の功労によって右大将家(源頼朝)から拝領し、今まで相伝して領掌してきたところ、長経が課役の跡と称して申し賜り終わったというのは正理ではない。早く返付されるべきである」と申した云々。
長経が申して曰く。「清基は去る承久三年の兵乱の時、院中において腹巻(鎧)を着け、官軍に利するように自宅から出立した。和田新左衛門尉仲康法師と今、戦場に向かう云々」と。清基は重ねて曰く。「左衛門仲康と朝威のために向かうのは朋友だからである。それについて対面した以外は、全く同心していない云々」と。 しかし、この兵乱における、清基の遺子で当国守護人である佐々木弥太郎判官高重の書状云々に、「男種たる者は、たとえ一人であっても御大切である。麻殖の人々を御辺に付け奉ることは神妙である」とある。その書状が忽然と出てきたため、これを御覧に供した。逆節(反逆)であることは疑いない趣旨として、清基の訴訟は棄却された云々。
寛喜二年十二月、松殿前関白基房が薨去した。年八十六。 楼前にて阿波守。殊に勇任(勇猛?)と見えたり。木得土の和歌にて詳細である。 同三年十月、土御門院が阿波国にて崩御された。年三十七。阿波院と奉諡(追号)された。 四州守護職、小笠原阿波守長房。幼名太郎、すなわち左兵衛佐。法名は長心。三好郡大西の城に住む。ただし年月日は未詳。信州を弟に譲り阿波に来た。ただし長経の子である。 宝治元年、四州守護職・従四位上・小笠原兵庫頭長久。長房の子。初めは兵庫蔵人と云った。家督の年月日は未詳。
『東鑑(吾妻鏡)』第四十八巻より:正嘉二年戊午八月十七日癸亥。天晴。伊賀殺害の嫌疑について、[庸 遫 :判読不能]、諏訪刑部左衛門入道が召された。[被對馬前司氏信也于内左衛門尉俊職宇利官衛門入道等同言令露顕云々:文脈不鮮明だが、対馬前司氏信、内左衛門尉俊職、宇利入道らが同言して露顕させた云々] また曰く、九月二日戊申。今日、諏訪刑部左衛門入道が罪を問われた(流罪)。また、内左衛門尉・牧左衛門入道らが流罪となった。中でも俊職は公人でありながらこの巨悪に与した条は、殊に物義に背くとして、硫黄島に配流された云々。治承の頃には祖父・康頼がこの島に流され、正嘉の今また孫の俊職が同所に配流された。まことにこれは一つの業の所感というべきか云々。
[編者の]案に、俊職の父・清基を追えば、すなわち麻植保司であったが、承久の乱で官軍であったために麻植保司を召し放たれた。俊職がまた事後に祖父と同じ界ガ島(硫黄島・鬼界ヶ島)に流されたのはどのような事であろうか。この人は根本的に麻殖の産であるはずだ。
後宇多院の御代。四州守護職・小笠原蔵人太郎左衛門長義。長久の子。家督を継いだ年月日は未詳。 光厳院の御代。王慶[元号不詳、元弘あるいは正慶か]二年。上略。二月、赤松円心が摂州摩耶城に出張(陣を張る)した。伊予国の土居・得能、阿波国では小笠原の一族が皆官軍に降った。又下略。
『太平記』第十巻曰く。佐介左京亮貞俊は、平氏の門葉(一族)で武略と才能のある者であったが、元弘三年五月初め、千早城の寄手(攻め手)であったが降参し、京都を歴廻っていたところ、秋の頃に阿波国へ流された。一旦は命を助けられ降人とし、「もし還れば許すべし、ことごとく誅されるべき」と言われていたが、貞俊もまた殺生石(?)に捕らえられ誅殺されることになった。死に臨んで、年来身から放さなかった腰刀を預かり人に許しを乞うて出し、故郷の妻子へ許しを得て送った。その鮫皮(鞘)の上に一首の和歌を詠んだ。 「三十人の世に有る時は数多テンウキハ、もし又我が身なりけり」 ある野において夜見の刀と貞俊の中袖を持って鎌倉へ下り、探し出してこれを女房に与えたところ、女房は聞くや否や堪えきれず、涙の床に臥し沈んでいたが、傍らの硯を引き寄せて、形見の小袖のつま(裾)に一首。 「誰見よと 形見の人の とどめけむ 魂を有るべき 命ならずと」 記念の衣を引き被り、その刀にて自害してしまった。
『南海記』曰く。建武二年乙亥十二月十二日。讃州高松の三郎頼重が早馬を以て京都へ申した様は、「東国足利の一族、細川郷律師定禅が、去る月二十六日、当国鷺田の郷に乗り込んで旗を揚げたところ、託間・香西がこれに与した。頼重はこれを退治せんがため、時刻を移さず屋島の麓に打ち寄り、陣中の兵を催した。所が、定禅さえも急ぎ夜討ちを致してきたため、頼重は身命を捨てて防戦すると言えども、徒兵(歩兵)がたちまち翻って味方を射る故に、頼重ならびに兄、また氏族十四人、郎従三十四人がその場において戦死した。一陣の役のために破れ、またこれによって讃州の藤・橋の両党、阿州の板東・板西、その他の国中の者共が定禅に属し、兵船を用意して京都に攻め上ろうとしている云々」と。 四州守護職・小笠原中宮内大輔左京大夫義盛は、大西に在して不動の官軍であった。
『南海記』曰く。延元二年丁丑の春。帝は京都を出御し、和州吉野に潜幸された。その後、尊氏卿は京都に在して自ら天下の成敗を行われた。細川刑部大輔頼春は細川定禅の跡を継ぎ、四国の兵衆を統轄する(したということで)、尊氏卿より四国の大軍を賜って阿波国へ下向し、勝瑞邑に安居した。あるいは「頼春の代から勝瑞に住む」と言うが、その元は不知である。初め細川律師定禅が讃州に攻め来たことに付いて、阿波国阿波郡の板東・板西・一宮などは細川に来従した。大西の小笠原阿波守義盛は南朝の末までも後醍醐の御方であった。時に頼春は初めて阿波郡秋月の県主の家に在して国政を行った。疑いもあり、侵さず攻めずであった。頼春が討ち死にした後、頼之(幼名は守立)が京都に上り在住した故に、勝瑞に屋形を建てたと見える。これにより国政を弟の詮春に譲り、後に詮春が初めて勝瑞に居住した。
入曰(?)。文和元年壬辰の二月、南方の和田・楠木が京師(京都)を窺うのを察して、二万余の兵を揚げて攻め来る。頼春の兵は少ないと言えども、烏羽畷へと出向いて防戦した。讃州の住人・香西家資が二千余人を以て先鋒となった。敵は大勢にて力が相当せず、ついに討ち死にした。阿波の板東・板西・小笠原等はこの一場で必死の戦いをなしたと言えども力を落とし、細川頼春はこの戦いで死没された。天下の人で皆惜しまない者はなかったという。時に頼之は夢窓国師を請待して阿州板野郡萩原の麓にこれを葬った。この時すでに勝瑞を都とする心があったのである。
暦応三年四月、義助は南帝の勅を受けて南海に赴き、四州を平治せんとした。五月、義助は伊予国において病死した。その虚に乗じて、細川頼春が四国を平均(平定)した。 貞和元年八月、備前国児島の三宅高徳らが義助の子・脇屋左衛門尉義治を取立て、潜かに京へ上り、尊氏・直義を夜討ちにせんとした。事が顕れて信州へ逃げ去った。この時も阿波大西は四州一郡宛合せて四郡を領して南朝の事を知る(味方する)。小笠原宮内大輔頼清はこれを頼み、義助父子・新田武蔵守少将義宗も来り玉うたのである。
義詮は詐って南帝と和睦した。南帝も偽り許容した。これに依って観応二年を改めて南朝の正平六年を用いた。翌年二月、南帝は吉野を出て住吉天王寺へ行幸。伊勢国司源顕能などを率いて参陣した。すなわち八幡へ行幸した。顕能、正儀らがこれに乗じて俄かに京都を攻めた。義詮は近江国へ落ち延びた。細川頼春は討ち死にした。顕能は勅命を受けて上洛し、持明院殿へ参り、本院(光厳上皇)・新院(光明上皇)・主上(崇光天皇)・東宮(直仁親王)を車に乗せ奉り、吉野の奥である賀名生(あのう)へ押し籠め奉った。主上の在位はわずかに三年であった。これによって天下平定の城の主がいなくなり、荒廃の地となった。阿波・讃岐は頼春が討ち死にしたとはいえ、すぐに嫡男の武蔵守頼之が四州の守護職を管領し、国政を執行した。
『将軍家譜』に曰く。貞治元年七月、細川左馬頭頼之が讃岐国において細川清氏と合戦した。清氏は討ち死にし、四国はことごとく頼之に属した。 貞治六年、義詮は病に伏せた。細川頼之をもって執事職に補任し、武蔵守に任じた。
『南海記』に曰く。貞治元年壬寅の正月、細川相模守清氏は将軍・義詮公へ通誉(讒言)があったことにより、たちまち疑いを蒙り、やむを得ず南朝へ参じて勅命を奉じ、四国を平定して都を傾け、武功を顕そうとした。堺の浦から船を出して讃州へ渡った。清氏の従弟である細川兵部大夫[?]が淡州(淡路)の兵三百余騎を率いて加わった。その弟の掃部助は讃岐の兵を催して五百余騎で駆け参じた。阿波の小笠原宮内大輔は三百余騎を率いて参陣した。加勢した清氏は無種の[?]となり、讃州三木郡白峯山の麓に陣を敷いた。
その頃、細川左馬頭頼之は四国の兵を率いて備中へ渡り、山陽道の蜂起を鎮めようとしていた。その時、本国(四国)で事変があったと聞き、讃州へ引き返し、宇足津(宇多津)に到着した。頼之は計略をもって、まず母である禅尼(頼春の正室)を清氏の元へ遣わし、和議の事を申し入れた。清氏はそれを真に受け、その問答で日数が経つ間に、頼之は宇足津に城を築き、四国の兵が到着するのを延引させる作戦に出た。清氏の陣と頼之の陣の距離はわずかに二里であった。互いに距離を置いて様子を窺った。頼之が日を送る間に、頼之の兵士は阿波と讃岐の通路を遮断し、備前国の住人・飽浦侯観という者が宮方(南朝方)として海上を警固して海路を塞いだため、宇足津の兵糧は欠乏し、兵の数は日々に減っていった。
七月廿三日の朝、頼之は陣幕の内に新開遠江守直行(阿州牛岐の城主である)を召し出して言った。「今日、当国の両陣の様子を考え見るに、敵は日々に佚(気力を失う)し、味方は日々に疲労している。これ以上日数を送れば、計り知れない困難が生じるだろう。今、事を計るに、中院源少将が西長尾の城にいる。ここに兵を向けて攻めるべきほどの勢力がある。清氏もまた兵を分けて城へ入るだろう。その時、我が兵は城を攻めるふりをして、向かいの城に乗り込んで篝火を焼き捨て、真っ直ぐに兵を引いて清氏の城へ寄せるべきだ。頼之は宇足津より出撃して搦手(裏手)に向かう。兵を出して敵を欺くのだ。清氏はこらえ性のない気性であるから、一騎でも駆け出してくるだろう。その時、一挙に大敵を破るべきである」と。
そして新開遠江守に四国・中国の兵五百余騎を付けて遣わした。清氏の間者(スパイ)が「敵が西長尾の城を攻め落とし、背後へ回ろうと計っている」という旨を清氏の陣営へ告げた。弟の左馬助・従弟の掃部助に千余の兵を付けて西長尾の城に入れようとした。これは新開の謀略であったため、足軽を少し向けて城下の民家に放火し、向かいに陣を取った。夜がすでに更けていたので、篝火を多く焼き捨てて真っ直ぐに進み、白峯の麓にある清氏の城へ押し寄せた。頼之はかねて定めていた通り、廿四日の辰の刻に搦手へ向かった。先鋒の二百余騎を二手に分けて陣を開かせ、鬨の声を上げさせた。
清氏はもとより猛将であるため、寄せ手の旗を見るや否や、二つの木戸を開いて小具足(簡易な鎧)を着け、布袷に小袖、鎧を身につけ、討ち取って投げ捨てようと馬に乗って腹帯を締め、ただ一騎で駆け出した。それに従う兵三十余人も、武具の備えを固めずに、頼之の戦列が整った一千余騎の兵の中へ駆け入り、八方に蹴散らした。清氏ら三十余人に打ち破られ、人馬ともに辟易した。 野木備前次郎と柿原孫四郎の二人は、清氏の馬の鞍の前輪にすがりつき、首を掻き切ろうとした。清氏は太刀の先で彼らを貫き持ち上げ、「唐土(中国)や天竺(インド)の事は知らないが、我が秋津州(日本)において清氏に勝る勇者がいるものか」と罵り、ただ一騎で大勢の敵兵の中に駆け入った。徹底して馬乗りや打物の達人であったため、攻撃を避けては敵を斬り落とした。
ここに備中国の住人・陶山三郎と、備前国の住人・伊賀掃部助という田舎の細道を連れ立って引き行く者がいた。清氏はこれを追討して斬ろうと、両鐙を合わせて馬を走らせた。陶山の中間(使用人)が傍らの溝へ下り立ち、清氏の馬の草脚(足)を突いた。そのため、駿馬ではあったが立ちすくんで動けなくなった。清氏は敵の馬を奪おうと、太刀を逆さにして杖のようについて立っていた。備中国の住人・真壁孫四郎が駆け寄り、一太刀打って当て倒された所を、清氏は走り寄って真壁を馬から引き落とし、自らがその馬に乗り上がった。伊賀掃部助高光も駆け合わせた所で、敵二人が斬り落とされ、清氏の行く末の眼を塞ごうとする所に、真壁が馬に引きずられながらもその馬に乗ろうとする者がいた。「その勇力は私と九分と変わらない」と顧みて、草に鳥が一直線に向かうように馬を走らせ、清氏と組んだ。
清氏は真壁を投げ捨て、掃部助を射向の袖の下に押し付けて首を掻き切ろうとした。掃部助は気の早い者で、組むと同時に清氏の鎧の草摺(裾)を跳ね上げ、三度刀で刺した。しかし弱かったため、押し返されて首を取られようとした。(清氏が)気高く勇猛な大将であったため、続く味方もなく、森次左衛門尉と鈴木孫七郎の二人の他には同じ場所で死ぬ者もいなかった。
西長尾への援兵である左馬助・掃部介は、廿四日の夜明けに新開の陣を見渡したが、人の気配も音もなかった。「さては出し抜かれたか」と両鐙を合わせて引き返した。新開は険阻な場所で待ち受けて戦おうとしたが、利あらずして退いた。左馬助・掃部介が勝鬨を挙げて白峯の城へ帰ったところ、清氏はすでに討ち死にし、城には敵の旗が立て替えられていた。力なく、両将は敗軍を集めて淡路国へ退いた。
貞治二年癸卯正月。細川右馬允頼之は将軍家に申し出て、今年豫州(伊予国)へ出陣し、凶徒の実否を正すとした。将軍の赦免があり、頼之は四万の兵を二軍に分け、海と陸の二路から伊豫に向かった。まず世田山の城を囲んだ。城主の河野六郎通朝が防戦し、数十日にわたって城を守った。しかし城中に野心を持つ者(裏切り者)が現れ、通朝は自殺した。世田山城が落ちたため、温湯の城(通朝の嫡男・徳若丸通尭を守る所)へ。二月二日、細川方の先陣が湯の城に乗り懸け、矢合わせを行った。頼之は阿波の一万余の兵を以て通尭の後方にある大空[?]の所に陣を敷いた。河野の与力の通路を絶って計略を巡らし、国中の兵が河野を見捨てて頼之に従った。通尭ならびに家臣等は将軍方となり、先祖代々の所領を安堵され、国中の官軍方を打ち破ってその地を武家方への恩賞として補填し、その外の廟所の地を以て守護職の領地と定めた。
案ずるに、頼之が讃州より南朝方を平定し、阿波・土佐の城に小笠原宮内大輔が官軍(南朝方)として存在していた所を、その尽力を捨て置いて差し置いた。彼が給う心の底から好んだ大西の城は、極めて優れた堅城で、難所に高く築かれており、二方は吉野川がみなぎり落ちる深淵であった。大手(正面)は一本の細道で、険しい坂や谷川が数十もあり、寄せるのが難しかった。その上、四国守護を数代務めた家であり、四州の兵で籠城していたため、容易には攻め取れないものであった。南朝と和睦した時も、少しも異心を変えなかったのである。後に勝瑞に役した(従った)云々。
貞治五年九月、将軍・義詮が病に伏せたことにより、政務を嫡子の義満に譲り、細川右馬頭頼之を四国より呼んで執事とし、武蔵守に任じた。これを管領と号する。その弟に四国の守護職を譲った。讃岐守詮春を立て、阿波の勝瑞に館(城)を築き、そこに安住させた。
応安三年十二月。和田某一門以下の南方の武士が、楠木正儀を要害へ寄せて合戦した。頼之は大軍を催して南方へ出陣し、敵を追い払い、山名氏清を阿内[?]に留め置き、南方の押さえとして頼之は帰洛した。 応安四年五月。細川頼之は南方へ出陣した。同月、細川頼之は理由あって管領職を辞し、西山の西芳寺へ赴いた。義満はすぐに赤松則祐をして呼び返させた。ある説に曰く、「頼之は自身が権威を誇り、将軍や諸人を軽蔑していたため、義満に奏上して諸大名が列座する時に頼之が無礼であると義満に叱責させた。そうして我が威光を落とし、君(将軍)の威光を極め増すためである」という。これにより、頼之はしばらく丹波に下って蟄居したのである。これより将軍家が大人を重んじるようになったと云う。
応安五年十二月。義満の九州出陣の評議があった。頼之は計らって鎌倉の上杉弾正忠朝房を召し出し、京都を警固させた。頼義(斯波義将か?)長をして伊勢・北畠を押さえさせた。山名氏清には南方・和田・楠木の一族を押さえさせ、武田・小笠原をして伊豫の金石等を押さえさせた。その東は誰それまでを限りとし、北は越後を限りとする諸国の軍勢を召集した。
応安七年三月。義満が筑紫へ出陣した。頼之・斯波義将・畠山義深・仁木・今川・土佐・佐々木等の大名三十九人、軍勢は十万騎に及んだ。山名師氏・赤松の一族が先陣であった。四月に将軍は安芸に到着した。先陣は長門に到着した。菊池武政が念入りに戦って山名・赤松が敗北したと伝えられると、阿波の館・細川讃岐守義之(詮春の子か?)が四国の軍勢を連れて攻めかかったところ、島津・伊東らは菊池に背いて降参した。菊池は敗れ、征西将軍の宮を伴って宰府(大宰府)に陣を敷いた。
『南海記』に曰く。応安七年三月廿三日、将軍家は厳島・京都を出発し、九州へ赴かれた。先陣は山名・赤松に山陰・山陽の兵将を加えて四万五千余人をもって豊前国へ発向した。大内介が五千余人をもってその先陣を勤めた。細川讃岐守詮春は阿波・土佐・讃岐・淡路の兵卒二万三千余人をもって伊豫国で船揃えをし、豊後国へ渡った。将軍家の供奉(お供)は、管領・武蔵守頼之、その子・頼元、仁木、今川、武田、その他六人、尾張・義将兄弟の三人、畠山氏族三人、土岐・遠山・逸見等の人々に佐々木氏族、東は伊豆を限りとし、北は越後を限りとする諸国の軍兵十万余人、家後の大名三十九人が前後に供奉した。頼之は天下を知行(統治)し、四国・中国の自領より兵糧を用意して、五万余石を立て、百余艘の船を調達して運送した。諸兵卒に配給した。菊池も流石の者であるため、九州の地に敵を入れまいと長門の府に出張して今や今かと待ち構えていた。山陰・山陽の十余ヶ国の兵、七八万余の兵が海陸から攻め下り、背後を断とうとした。そのため菊池は兵を引いて筑後国に帰り、高良山の城郭に立て籠もった。九州の諸武士は将軍家に降参して味方となった。豊後の国より肥後へ入ろうとする。
将軍家(足利義満)が筑前にお入りになり、大宰府に陣を張って、先鋒が筑後川を越えようとしたところ、菊池氏が降参を乞うてきた。そのため、九州での軍事行動を止め、肥後国から外へは出ないよう国々に誓約をさせた。これによって肥後を赦免された。その他の国の降参した諸人には領地を賜った。長門・豊前は大内介に賜り、豊後は大友に賜り、日向は伊東に、筑前・肥前は大宰少弐に賜って、将軍家は帰洛された。細川詮春は2万3千余の兵を引率し、道案内を求めてすでに肥後に攻め入ろうとしていた。菊池はこれを聞いて降参を乞い、赦された。伊予国の官軍(南朝方)もこれを聞いて降参し、今後は敵対しないとして領地を賞された。すなわち、小笠原信濃守や武田蔵人らがすぐに執事に告げて詮春に服従したので、両将も兵を引いて退いた。
これらは上の島(上野)の守護の武功であるという。 考えるに、小笠原信濃守や武田蔵人などはまさにこの時に降参した人々である。小笠原は阿波国三好郡大西の城主である。武田は元々安芸の守護で、後に伊予に住み、吉備に至って阿波美馬郡脇町に城を築いたともいう。天正の頃に落城した。城主は武田上野亮という。そのため上野城というべきだが未詳である。
康暦元年(1379年)閏4月14日、二階堂中務と松田丹後守を将軍義満の使者として、細川頼之の管領職を辞めさせ四国へ赴かせた。その弟の頼元ら一族も勘気を蒙った。頼之は京都を出た後、剃髪して名を常久と改めた。同年9月、義満は御教書を出して入道常久(細川頼之)を誅殺すべき旨の命令が下された。しかし頼之には罪がないため赦免された。阿波、淡路、讃岐、伊予の四国を総管(統括)して在国した。 後小松院の至徳2年(1385年)秋、前管領の細川常久は阿波に宝冠寺を建て、絶海を和尚(開山)とした。 明徳2年(1391年)、細川常久は召し出しにより阿波国より上洛した。義満は過ちを改め、元の通り常久を任用した。細川右京大夫頼元を斯波義将に替えて管領とした。頼元は常久の弟であり養子である。12月29日、山名氏清と同満幸が謀反を起こし、和泉と丹波の両国から兵を率いて京都へ攻め入った。義満は常久などの諸大名にこれを防がせた。
晦日、内野合戦の場所において合戦となった。氏清の弟・義数ならびに家老の小林は大内義弘と戦って討たれた。満幸は常久、畠山基国と戦って敗北した。氏清は京中へ乱入し、大内義弘、赤松義則、山名時煕等と戦い、氏清が勝ちに乗じたため、義満は自ら旗を進めた。一色詮範と斯波義重が先陣を切った。氏清は敗北した。一色詮範とその子・満範が氏清と戦って、氏清を斬り殺した。満幸は逃げ去った。明徳3年(1392年)4月、氏清と満幸の旧領を分け、丹波を細川頼元に賜り、丹後を一色満範に、美作を赤松義則に、和泉・紀伊を大内義弘に、出雲・隠岐を佐々木高明に、但馬を山名時煕に、伯耆を山名氏幸に賜った。若狭今富の庄を一色詮範に給わり、山城国内の領地は畠山基国に賜った。氏清の兄・義理は紀伊にいたが、大内義弘が攻めたため、義理は城を去り逃亡した。 明徳3年(1392年)2月、頼之入道常久が亡くなった。行年64歳。永泰院と号した。葬礼の時には、義満将軍が自らこれを見送られた。
称光帝元年 応永19年(1412年)10月、細川右京大夫満元が管領となる。 応永34年(1427年)10月、赤松左京大夫満祐と赤松越後守持貞が所領について相論(争い)をした。足利尊氏公の時から赤松一族は播磨・備前・美作・因幡を領していた。満祐は赤松則祐の嫡孫であり、持貞は則祐の兄・貞範の孫である。持貞は嫡孫ではなく庶流である。
しかしながら持貞は将軍義持の寵臣であったため、五ヶ国のうちの一ヶ国を持貞に賜った。満祐はこれに憤り、京都の自身の館に火を放って播磨へ下った。義持は怒り、細川持元と山名満煕に満祐を討たせようとした。しかし、持貞は驕り高ぶり無礼な者であったため、諸大名は皆これを憎み、満祐と相談して持貞の悪行を訴えたところ、12月になって持貞は自害した。満祐は赦免された。
後花園院の代 嘉吉元年(1441年)6月、将軍義教は赤松満祐入道の所領である備前・播磨・美作を分けて、その一族である赤松伊豆守貞村に授けようとした。満祐の子・彦次郎教康はこれを知り、満祐に語った。満祐は恨みを抱いた。今月24日、将軍義教が満祐の邸宅へ渡御され、猿楽の酒宴を設けた。この時、義教の一族である左馬助と教康が相談して、猿楽の酒宴の最中に厩の馬を放ち、その騒ぎの隙に門を閉め、教康と左馬助が進み出て義教の首を取ろうとし、左馬の手を取った。義教は驚いて大いに騒ぎ立てた。大内介持世は垣根を越えて逃げ去った。満祐と教康は義教の首を持って一族を引き連れ播州へ下向した。
管領の細川右京大夫持之、畠山左衛門督持国、大内介持世らが相談し、義教の子・義勝を守り立てて主君とした。この時わずか八歳であった。細川讃岐守持常(四国の守護であり、阿波勝瑞の館に住み、後に病死して勝瑞中田村に葬られ桂林院と号した)、赤松伊豆守貞村、武田大膳大夫信賢を大手(正面)の大将とし、山名右衛門督持豊、同修理大夫教清、同相模守教之を搦手(裏手)の大将として播州へ発向させ、満祐父子を誅罰させた。持常は近親であり非常に親しかったため進軍を渋ったという。8月、綸旨を播州の寄せ手に賜り、満祐を誅罰させた。9月、山名持豊、教清、教之が播州の城を攻め破り、赤松満祐はついに自害した。年齢は61歳であった(下略)。
嘉吉2年(1442年)8月、管領の細川右京大夫持之入道常春が亡くなった。年齢は43歳。 文安2年(1445年)12月、細川勝元が管領に任じられた。年齢は16歳。 文安4年(1447年)5月、冨樫次郎がその叔父・安高と加賀国守護(守護)職を争論した。管領の細川勝元は安高を助け、畠山徳本は次郎を助けたため、半国ずつを領させた。 宝徳元年(1449年)4月16日、足利義成が元服した。13歳であった。加冠は管領の細川武蔵守勝元がこれを務め、理髪は細川民部少輔教春がこれを務めた。その他の役も皆、細川一族であった。
考えるに、四国守護職の細川讃岐守持常が死去したことにより、姪の子を嗣子として家督を相続し、細川讃岐守成之となった。これは宝徳元年の12月のことである。