郷土史料 ・ 翻刻全文

八万村史

阿波・名東郡八万村の来し方を、中古から現代、社寺・人物・名所・伝説・風俗まで、翻刻の本文そのままに読む。

全 14 篇本文 約 53,308 字旧字体・原文表記のまま

本ページは『八万村史』の翻刻を、ページ番号などの転記メモを除いて一続きに編み直したものです。本文は一字も要約・現代語化していません(旧字体・仮名遣い・資料の誤記や欠字もそのまま)。研究・引用の際は、必ず原本とご照合ください。

第一章住民發達人はいつから、どこに住んだのか。石器時代の貝塚・銅鐸から、享保・文化・昭和の戸數と人口まで。第二章中古金剛光寺と法華寺の創建、そして義經阿波上陸地點をめぐる諸説(椿浦説・勝浦説・八萬浦説)。第三章近古夷山城(八万城)をめぐる戦乱。細川・三好・篠原・長曾我部の時代を、諸資料で読む。第四章近世蜂須賀入國後の藩政と産業、そして明治三年庚午事件(稲田騒動)。第五章現代明治維新後の歩みと、村の來し方・行く末への率直な省察。社寺宗教 第一章神社「銅ノ鳥居の八幡さん」をはじめ、村内の社々の由緒と祭禮。社寺宗教 第二章佛敎寺院・庵堂の由緒と現狀。切支丹御改めの記録も。社寺宗教 第三章その他の宗教天理教八万宣教所と、村の宗派別調査表。人物篇人物武將から高僧、開拓と産業に尽くした人々まで。名所舊蹟篇名所・舊蹟夷山城跡、延生軒、七ツ山、竹林院の舊蹟。名所舊蹟篇 第二章墳墓城主・高僧・力士・學者・藝人たちの墓。名所舊蹟篇 第三章廢神社・廢寺院合祀・廢絶した社寺と、法華寺跡の傳承。傳説篇傳説一宮成助の怨靈、天狗騒動、怪火。風俗篇風俗習慣伊勢講・大師講・心經講など、村の講の數々。
第一章

住民發達

原題 : 第一章 住民発達

人はいつから、どこに住んだのか。石器時代の貝塚・銅鐸から、享保・文化・昭和の戸數と人口まで。

一、住民居住の初め及其発達の状況

資料(1)森敷介氏編纂『八万村郷土史抄』

遠く八万村の始源に思ひを馳せれば、此地が全く蒼海の波底に在つて只僅かに夷山、御座山及七ツ山の如きの物變り有史以前たる石器時代には既に先住民活躍の遺跡たる洞窟中の貝塚が七ツ山の一なる朝日山麓及北沖濱の邊敬寺附近及南沖濱に於て發見し何れも石器及彌生式土器を含む貝塚遺跡の存在を示し、チロロ及福萬谷には彌生式土器及石族石槍等の發見があり、又隣接せる上八万村より石斧及石匕丁の發見もあり、山麓にはそれら先住民の棲息の跡を認むることが出来る。尚考察を要すべきは徳島市城山石器時代遺跡第二號原始的住居跡より始めて阿波に於てアイヌ派土器の發見ありしより三好郡池田町上野ヶ岡及名東郡加茂名町三谷なる徳島市水道三谷濾過池及名東郡加茂名町庄村よりアイヌ派土器の發見は以て固有日本人より先住たるアイヌ人種の繁殖せし確證ある事實で城山を根據とせるアイヌ人種も八万村に於て狩獵及漁労に活動せしことの推測に難くはない。

次に青銅器時代の遺物として本村祠万谷より銅鐸の發見を齎してゐることは特に注目に價するもので此の銅鐸文化を殘せる人種に就きては未だ先輩學者の定説がないが彼の銅鐸に共通點を發見し得る周鏡の如きものを鑄る技能を有する漢民族と銅鼓を鑄る技術を有する苗族及印度支那族の如き人種が何れも我國に移住し來り、先住の大勢力あるアイヌ人種に對抗する為漢民族と苗族、印度支那族相互間に握手提携して茲に新らしき銅鐸文化を育成せられしものと考察せられる。

右資料に依つて大体本村の裏山々脈には既に先住民族が棲息して居たものであらうと云ふ事を知る事が出来る。

福万谷に於ける銅鐸の發見及び裏山一帯の山麓に於ける遺品の發見は夥しくから記録されて居り大体確實なものと思はれるが、森氏が發見したと云ふ沖濱の貝塚及び石器の記録は不確實で、現在の南濱名、北濱名を形成した地が海中に在つた一つの洲嶼であつたとしても此地に先住民族が棲息して居たとは陸地形成の状態から考察しても全く考へられない事である。

先住民族は主に山麓の高地帯に住んで山の幸を得ると共に獨木舟をあやつって海の幸をも得て居たものであらうと思はれる。

平地部に陸地が形成されるにつれて山麓に住んだ民族も次第に平地に移住し始め、狩獵や漁労やの放浪的な生産手段から永いで農耕が發見されるに及んで人類の永久的な定住生活が始められたのである。

國家成立以前のムラは純然たる血族團体によって構成された聚落であつて本村に發見された山麓地帯の貝塚はかうした先史社會に在つたムラの形見であらうと思はれる。

今を去る千余年前の著書和名抄には阿波國を四十七郷に別ち名東郡の部に八萬郷が舉げられて居る。區域は勿論現在の本村のみではないが(村名起原項參照)左記資料に依ると千年以前には相當多くの住民があつた事が知られる。

資料(2)大化改新當時村落制度

里毎に長一人を置く、戸の人口數は戸主の養子、弟伯從兄弟姉妹甥姪、戸主以外の家屬員等合せて二十口から成る、里は奈良朝の初期に改められて郷となる。(村落制度發達史)

現今の如く平坦部に住民が發達したのは藩政時代以後であつて、藩政時代以前の住民は山麓地帯一帯に亘つて發達して居たものである。之は金剛光寺、教連寺、長谷寺、福萬寺、永明寺等の大寺の遺蹟が殆んど山麓地帯にあり、居民の遺蹟遺品等も多く山麓地帯に發見される事實に徴しても充分考へられる事である。

藩政時代以後多く不毛地であつた平坦部が開墾され次第に耕地が形成されるに及んで平坦部に住民が發達し始め遂に現今の如き人口の分布を見るに至つたのである。

裏山々麓及び前山、七ツ山等の山麓地帯一帯は古くから發達した地方であり下八万の平坦部沖濱、山城屋等は比較的新しく發達した地方である。

現存する記録に依つて住民發達の状況を示すと次の如くである。

1、下八万

享保十三年 戸數、人口(棟付帳ニヨル)四百二十五戸 千百六十一人
文化十年 戸數、人口(棟付帳ニヨル)六百三十九戸 二千六百六十一人
昭和五年 戸數、人口(國勢調査ニヨル)七百十五戸 三千五百六十七人

最近二百年間に戸數に於て二百九十戸、人口に於て二千四百六十八人の増加を示して居る。

2、沖濱

文政五年 戸數、人口(棟付帳ニヨル)百六十八戸 八百十二人
昭和五年 戸數、人口(國勢調査ニヨル)四百八十二戸 二千二百二十八人

備考

享保、文化共ニ北濱ノ記録ガナイノデ對照スルコトガ出来ナイ、文政五年ノ記録ハ故豊永久基氏ノ記録ニヨッタモノデアル。

沖濱に於ては最近百年間に戸數に於て三百十四戸、人口に於て千三百十六人の増加を示して居る。

3、山城屋

文化十年 戸數、人口(棟付帳ニヨル)二十一戸 九十八人
昭和五年 戸數、人口(國勢調査)二十八戸 百四十八人

山城屋に於ては文化十年より昭和五年に至る百十七年間に戸數に於て僅かに七戸、人口に於て五十人しか増加して居らない。

以上記録の詳細及び變化の状態は別項戸數、人口の章に記載されて居る如くである。

住民發達比較表

第二章

中古

原題 : 第二章 中 古

金剛光寺と法華寺の創建、そして義經阿波上陸地點をめぐる諸説(椿浦説・勝浦説・八萬浦説)。

一、中古以後に於ける佛敎文化

(1) 金剛光寺の創建

俗に平安朝時代僧空海の創建に係ると謂はれて居る金剛光寺は、境内の廣き事上八万村の北方より下八万の西方に跨り園瀬川屈曲して境内を流れ之に架するに橋梁を以てし閼伽池の如きは其庭池にして池中に華表を建て殿樓多くして堂宇の宏大なる當時阿波南方の巨刹丈六寺と其の壮麗を競つたと謂はれて居る。 思ふに金剛光寺は平安朝時代に於ける本村及び附近文化の中心をなして居たものであらう。

(2) 法華寺の開基

元寇の役があつた後僧日蓮の再来なりと稱する僧某來村して法華寺を開基した。信者四方より集り門前市をなしたと謂はれて居る。是れ現今法花町の産閼である。 以上二寺の建立は中古に於ける佛教文化の著名なる歴史であるが、其外長谷に於ては長谷寺、馬場に於ては長久寺、夷山に於ては河前寺の各遺跡あり、口碑傳説の傳ふる所に依れば何れも著名なる大寺で是等大寺は本村中古以后に於ける文化の中心をなし東山、山麓一帯の高地を中心とし燦然たる佛教文化が發達して居たものであらうとは想像に難くない所である。

二、義經阿波に上陸す

義經の阿波上陸地點に就いては古來學者間に論争があつて今に所論が一定して居らない。 一般的には勝浦郡今の小松島附近に上陸したものであるとの説が正しいとされて居るが、是には異説があるので本誌には資料と本村に關係ある説を例擧するに留めた。

資料(1)吾妻鏡抄

元暦二年二月十八日の條 仍て丑の刻先づ舟五艘を出し卯の刻阿波國勝浦に着す。 帝の行程三箇日也即ち七百五十餘騎を率て上陸

資料(2)源平盛衰記抄

大なる波はついくゞり、小波をば飛越々々て馳や著共漕や着共とて曳聲を出して漕ければ程で三日漕く所を只三時に阿波國はちま・あまこの浦にぞ着たる五艘の船一艘もあやまちなく皆一所に漕立たり。

資料(3)平家物語抄

まだあけざるに、三日の海上を三時計りに阿波國八間、尼子、が、津にこそ吹きつけけれ。

資料(4)はちまあまこの浦

源平盛衰記四十二ノ卷義經解纜四國渡の條に曰「十六日午ノ刻ニ(元暦二年)判官殿ニ纔テ解舟出ス云々押テ三日ニ漕所只三時ニ阿波國ハチマアコノ浦ニゾ馳付タル五艘ノ舟一艘モ誤ナク皆一所ニ漕並ベタリ云々」このハチアヲマコの浦は何處なりけむ定かならず皆人疑事なり 盛衰記この次に云「判官先陣ニ進此浦國メタル大将ハ誰人ゾヤ名乗レ名乗レト攻タキトモ答ル者ナシ此浦ハ阿波民部大輔成良カ伯父櫻間外記大夫良連軍將トシテ二百餘騎ニテ固メタリ云々」とあるは今の勝浦郡本庄村西須賀あたりなるべし。 元暦の頃などは小松島浦中田村あたりなど又なか村庄村、西須賀村までもすべて海にて船の着し所ならむさればアマコノ浦は勝浦郡の餘戸なるべしアマリへと云ふべきを其頃餘戸を字音交りに唱へたりしことのありしものあらん 又名東郡八万郷も近ければ五艘の船みな同じ浦にも着しにもあらで或は八万郷へつきし船もあり或は餘戸郷へ着し船もありしをはちまあまこの浦と同じ地のさまに記したるにもあるべし。たゞし餘戸をアマコと唱へしことはあるまじき事なれど古く元暦の頃唱誤りしも知るべからずと思ふはいかにあらん、餘に阿まこの浦考ふる所なきまゝにかゝる強説を記し置て後の人の考を俟つにこそ(栗の落穂巻三)

説ノ1、椿浦説

鎌倉幕府の記録で正確なる事實を傳へらるゝと稱せらる。吾妻鑑に椿浦に上陸したとある。義經は最初古來の官道である撫養を目的として出帆したのであるが暴風雨のため南方へ吹流されて漸く椿浦に上陸したのである。吾妻鑑には椿浦の椿の横に後人の加筆で(勝)と傍註してあると云はれ、椿浦は勝浦の誤記だとの説もあるが、上陸地が勝浦で櫻庭介の居つたのは桂浦となつてゐる。こゝでは勝浦も桂浦も勝浦庄、篠原庄、勝浦新庄一帯の汎稱でなければならぬ。隨つて同一の文字を用ひぬばならぬ。若し異つた文字を用ひるならば讀者に大なる誤解を生ぜしめる恐がある、勝浦、桂浦に同一文字を用ひると路次の二字が邪魔になる。勝浦に上陸し路次勝浦に於てとなつて文章にならぬ。路次といへば其所を離れた心持がする。上陸して其の地點を攻めるのに、路次に於てといつては文にならぬ。要するに桂浦を勝浦に改めては桂浦が勝浦と相離れた意になつて實地に適合せぬことになる。故にこの文の椿浦は勝浦の誤記ではなく原本の儘で始めて路次桂浦が活躍して來るのである。

資料(5)吾妻鑑

(丑刻)源廷尉出船五艘着卯刻阿波椿浦(勝)追記 即率百五十餘騎上陸召當國住人近藤親家爲仕承發向屋島於路次桂浦攻櫻庭介良遠之處良遠辭城逐電。

説ノ2、勝浦説

吾妻鑑には椿浦の椿の横に勝と傍註を施してあるのに依つて椿浦は勝浦の誤記である事が知れる。 義經の上陸が撫養方面を志したものであるが大風のために漂流して那賀郡の椿浦へ着船したと稱ふるものもあるが決してさうではなく義經は潜行的奇襲を行はんとして豫め周到なる用意と計畫の下に航路に通曉し腕に覺えのある熟練せる船夫を乗込ましめて乾坤一擲の離れ業を演じたので確かに目的地に到着したものであり決して漂着したなどゝは云ふ事が出來ぬ。 即ち五艘の船が舳艫(じくろ)相ふくんで一所に着船したといふに見ても此の間の消息を察し得るのである若し初めから屋島の攻撃が目的であつたならば何も迂回して勝浦或は撫養地方に上陸する必要がない譯で近道の撫養近海へ上陸せねばならぬ筈である。 小松島の漁師の談話によると當時の風位、風速では當然勝浦灣若しくは其の附近に着船するのが自然の歸結であると云つて居る。 殊に勝浦では勝浦は勝浦の誤記ではないと云つて居るが義經の上陸した地點と櫻庭介を攻撃した地點とは同一場所でなく相當の距離があつたものと見るのが至當であり、吾妻鏡の作者が之を勝浦と勝浦に區別したのは距離の關係ばかりでなく又或人の云ふ様は勝浦の誤りでなく、勝浦は櫻庭介の居城を指した名稱であつて斯く書き分けたのである。是に於てか勝浦が始めて活躍し勝浦は勝浦の誤記であることが明かになつた譯である。

説ノ3、八萬浦(津田)説

義經の上陸地點はこれまでの史料のみでは、勝浦へ上陸したとも見られ。また八萬の浦へ上陸したとも言ひ得られたのである。勝浦上陸説は吾妻鏡に傳ふる所であり、且つ平家物語、盛衰記にも其の傍証があつて大に確實性はあるけれども、これに從へば八萬浦尼子の津を全然否認して懸らねばならぬ缺點があり、八萬の浦上陸説は源平盛衰記、平家物語に傳ふる所であるが八萬浦と八萬郷の一部である津田浦に推定すれば立派に史論は成立するけれども、勝浦といふ地名の説明がむづかしく第一、一等史料である吾妻鏡の所論を否認せねばならぬ缺點があつた。 此兩説の缺點は反面に於て上陸地點の陥沒を物語ると同時に、右龜藏の陥沒を立証するものであると云ひ得られる。なぜならば陥沒した土地は勝浦郡と名西郡との東端が相合して外海に斗出した處であつてこの岬角の北岸一里の長汀には、勝浦庄と八萬郷とが境を接して相連つて居つたものと見られる。それで義經が上陸した地點を勝浦とも言ひ得れば又八萬の浦とも言ひ得られたのである。上陸した地點に變りはないとしても見方に因つては勝浦とも又八萬の浦とも言ひ得られたのである。 然るに陥没した結果北山の沿岸は線一里の懸崖絶壁をつくつて勝浦庄の上陸地點と八萬郷の上陸地點とを遠距離に引分けてしまつた。それがために現在の地理に即して立論すると兩説共に前に述べたやうな缺點が生ずる譯であつて、何時まで論究しても解決を得ないのは當然である。それで陥没を認めて初めて兩説の缺點が補はれ、而も何れも正しいといふ結論に到着し得られるのである。(島田泉山氏徳島市郷土史論)

説ノ4、八萬浦(沖洲)説

義經は田口成良の虚に乗じて其の根據を覆すために攝津の渡邊から阿波への最短距離である處の八萬浦へ着船し先づ敵將信知の必要上豫て源氏に心を寄する近藤親家との交渉を始めたのである親家から敵將を探り得た義經は親家を案内者として更に船にて内海の小松島布せる間を通過して勝浦灣の一角に上陸し、櫻庭介良遠の居城建浦を攻撃したのである。これは史料なる吾妻鏡には勝浦のみのことを傳へ、源平盛衰記と平家物語りには八萬浦のことのみを傳へたことになるので、兩者を合して一書と見て各其の缺げたるところを補ふて見ると、矛盾せると思はるゝ疑問も直に氷解するのであるが、從來史家が單に一方吾妻鏡のみに研究の基礎を置くものと、他方盛衰記や平家物語りを原據とするものとの差が議論を生むの間隙となるので、兩者を綜合して考察し互ひに其の缺漏を補はゞ正しい結論に到着するのであるから兩者共に思慮をこゝに置かねばならぬのである 勝浦上陸説と八萬浦上陸説との二つ乍ら是認するのは、以上の見地に立つて兩史料を研究したもので兩説が矛盾せざるのみならず正當なる結論を得られるので津田上陸説の如き無理を生ぜぬものである(津田は和名抄時代には八萬郷の一部であつたであらうが、既に年暦を經過すること久しく、元暦當時には最早津田島の名稱もあつたものと思はれ、八萬とは分離し獨立した部落と見ることが出來る。即ち建仁三年十一月の春日社政所下文(千鳥文書)に津田島の名が見えて居る、即ち義經上陸當時の元暦二年から建仁三年まではわづかに十年間の歳月を經過したばかりであるから元暦當時既に津田島の名稱があつたと稱しても決して不當ではない。之を強いて八萬に結びつけたのみならず、八萬をも勝浦庄に取込められたと觀るのは牽強附會の誹りを免れぬのである) 八萬の浦上陸説は沖ノ洲上陸説となるのである。今沖洲と山城屋との境界をなす堤防の直下西側即ち沖洲に属し蜂須賀氏入國の際に御座船の通過したと傳へらるゝ御座の川の吐口に祇園淵がある。此處は承久二年京都祇園社が焼失したとき、津田島が祇園造營所に充てられ、其の造營に要する木材及び用砢を搬出したその名残を留めた名稱であると推定せらるゝ處である。即ち言葉を換へて云へば即ち昔時の要津であつたのである。この御座の川の上流地方に現在八万の長谷の入口には高津田あり、更に其の東方に見立があり見立の北方に中津浦がある。これ皆古への要津であつた名殘りを留めた名稱で陸地の形成せらるゝに從うて其の碇泊場も漸次に東方に移り、高津田、見立中津浦に及び遂に承久の頃には見立は既に淺瀬となり祇園淵が最もその深處で當時の要港であつたものであると思はれる。即ち義經は此處に船を乗入れて若干の距離を溯航し、それより勝浦に到つたものと見るべきである。ハチマアマコノウラは一所の様に見えるが實はハチマは名東郡八万村沖ノ洲でアマコノウラは今の小松島で相距ること一二里その間に小山麓があつて一所ではないと云ふ考があるが假令其の説に従うとしても決して前述の意見に影響を及ぼすものでなく却つて勝浦上陸説の傍證となるのである(中井伊與太氏義經阿波上陸地點に就て)。

第三章

近古

原題 : 第三章 近 古

夷山城(八万城)をめぐる戦乱。細川・三好・篠原・長曾我部の時代を、諸資料で読む。

一、小笠原宮内大輔東條合戦に敗戰す

吉野朝時代武家方の將細川定頼先づ讃岐に來たが延元二年の春細川頼春定頼の後を繼いで四國の兵衆を統べんとして阿波國に入つた。 此當時飯尾家の一族武家方に属し八万城に籠り宮方なる一宮城の向城要害を擁搆ひ觀應二年七月二十八日小笠原宮内大輔と東條に戰つて之を敗つた。 觀應は所謂北朝の年號で正平七年に當る正平十八年宮方矢盡きて武家方に降つた。(此項石田廣二氏記録)

資料(1)(阿波志料飯尾氏考出)

飯尾隼人佐吉連代光吉□右衛門入道心藏申軍忠事去々年觀應元十二月二十七日鴈當御手籠八万城去年正月四日追落□□部二郎向城機搆要害訖同七月二十八日東條合戰之時追返小笠原宮内大輔訖同廿九日於新萱原致□□□同八月十五日板西上庄内浦城致晝夜警固訖同十月二日押寄河村小四郎城山手迄同十三日相

東條合戰ハ古杉氏ガ八万城トアルニ對シ記憶シタルノ事ニ付往年苦心研究ノ末漸ク其ノ齟齬及証據物ヲ得タルコトアリ、本村ナラザルコトヲ知ルニ至レリ 資料(3)(北浦、富永久基氏記録) 古城記ニ見ユ。 小笠原宮内大輔ハ同郡一宮ノ城主コノ一宮城ノ事ゾ此名存ス。 東條合戰云々ハ其ノ八萬郡中ノ地名夷山ノ近邊ニモト云フ、コノ城ノコト古城諸雜記、城跡記等ニ見ユ八万城ハ名東郡八萬郷夷山ト云所ニアリ後ニ夷山城ト云フ、(阿波國徴古雜抄) 進上 御奉行所 承了(花押) 沙彌心藏(花押) 觀應三年五月廿日 披露候 恐惶謹言 軍忠□□於勝浦庄内中津峯致合戰訖同□日向惣持院同子息右衛門□郎□□□向路下向陣致晝夜警固同廿五日經御合戰之時爲賞口人數晝夜戰功大將御□□□不可及御不審者欺然爲後證可給御判候以此旨可有御

一、近古に於ける主なる戰亂と夷山城 天文年間細川氏之六郎持郡領と稱した頃夷山に築城して之に據つたが、後故あつて美馬郡穴吹城に遷つた。 弘治永禄の頃三好豊前守義賢入道實休の弟篠原佐吉兵衛夷山城に據り七百貫を領した(或は百貫とも云ふ)が永禄三年三月五日三好義賢に從ひ泉州久米田に於て畠山右衛門、根來政等と戰ひ破れて自殺した、此時佐吉兵衛の遺子右京(鶴石丸)僅かに十一才にして伯父上櫻城主篠原紫雲の許に養はれ城壘は老臣庄野和泉守兼時が之を管理した。 元龜三年三月河島合戰起り上櫻城陥るに及び紫雲は右京を和泉守に付し阿波郡伊澤城に之を盗らしめた。 此の時に當り父義賢の跡を繼ぎ勝瑞に在つた三好長治は勝瑞を出て那賀郡仁宇谷城主福良出羽守によつた異父兄にして主にあたる細川眞之を討たんとし却つて一宮長門守、伊澤越前守等に討たれ別宮浦に自殺した。 長治の死后泉州にあつた其弟十河存保兄の后を受けて勝瑞城に據つたが、夷山城に在つた庄野和泉守は佐吉兵衛の遺子を奉じて一宮成助と共に存保を討たんとし存保の襲撃に去りし處に乗じ手兵を遣はして勝瑞城を占領した。 之より先河内、高屋城に在つた三好山城守笑岩は本國阿波の亂れるを見て之を回復せんとし來り、存保も又來り會して勝瑞城を復し一宮成助と戰ひ敗れて殘兵を紀州湊州に乞ひ七千の大軍を以つて再び一宮城を圍み遂に之を敗つたが、大粟山に籠つた一宮成助は姿を土佐の長曾我部元親に乞ふたので、元親は侍大將久武内藏助に一萬騎を指添へ成助の難を救つた。 成助一宮城を回復すると共に元親に降つたが元親成助の向背を疑ひ家臣池田肥前守、野中三郎左衛門に三千騎を指添へ之を監せしめた。 此の時夷山城に在つた庄野和泉守は孤君を奉じて元親に下り元親は其弟親泰に指揮せしめ家臣呉田五郎左衛門、東川庄左衛門に兵二百人を付して之を守らしめ和泉守をして之を監せしめた、時に天正五年である。 天正十年三好笑岩織田信長の命を奉じ數千騎を率て再び阿波に侵入、元親笑岩のために討たれ一宮城に在つた野中三郎左衛門は此處より人質を取り、夷山城に在つた呉田、東川の二士は庄野和泉守の子(或は庄野和泉守とも云ふ)を人質とし本城を破壞して元親と共に倉皇として土佐に歸つた。 三好笑岩は夷山城を根據として三好氏の舊臣を招く來り會するもの多かつたが同年六月二日信長本能寺に弑せられるに及び阿波を放棄して急遽京都に上つた。

土佐に在つた長曾我部元親は笑岩の京都に上るを聞き二萬の大軍を帥ひて再び阿波に侵入勝瑞城を抜いて阿波を平定し國内の要城には主將を配して之を守らしめ自からは阿波の守護仁となつた。 天正十年十一月元親は夷山城に一宮長門守成助を招いて之を謀殺した。 和泉守は惡心なき故を以つて八万領百貫の土當二十四町の地が與へられた。 天正十三年豊臣秀吉六萬の大軍を發して四國を平定し阿波國を蜂須賀家政に其内一万石を赤松則房に分與した。 夷山城に在つた庄野和泉守は此兵亂に臨領を失ひ下つて庶民となつた。 后仁木左京太夫の子日向守七兵衛なるもの篠原家の家衆として茲に住したが慶長十五年十一月十六日七兵衛死歿の后幾何もなく命に依つて夷山城は破毁せられた。

資料(1)三好記抄出 三好次郎長春、永録三年より天正四年迄阿波國の大守也、勝瑞に居城して有しが右に如言惡行稍て一家中と不和成たり、爰に土佐國長曾我部宮内少輔元親は阿州三好の女を壻居て盜事の出來よかしと思ふ所に一宮長門守成助より叛逆前後の次第の様具に云送り加勢可給旨申入れば元親兼而望所なれば早々人數五千計用意して天正四年に阿洲海部を越へ同桑野に付城を拵取一宮成助と一味して長春を賞手け其外大將分の者大形随へて一宮城に東川新右衛門野中三郎左衛門、西寺彌兵などゝ云者を大將として一両具足の者貳百騎計相添置、又夷山の城には呉田五郎右衛門と云者を大將にて同一両具足貳百騎相添庄野和泉守と一處に置て天正九年迄阿洲過半領知して居たりしが同十年の春信長公より三好山城入道笑岩に阿洲を宛行付により笑岩着讃干潟にて賞下られける、因之元親香手の侍共不叶一宮成助と庄野和泉守とを人質に取て歸りにけり、又阿州侍中笑岩に付ければ阿州又三好領分と成ける所に、同年六月二日明智日向守と云者叛逆信長公を奉討よし聞えければ笑岩に付下りし上方勢並笑岩共に不取敢上りければ又同年の八月に元親二萬の軍勢にて責來る然るに三好孫六正安は長春死後勝瑞に居住して右にも元親にも不随而城を堅固に持て有しが此度元親と可對戰とて城に干鱗計にて中富川原迄出給ふ、然れ共敵大勢なれば正安の先手の者二百騎計被討けり正安も討死可有とて頻に進ませ給ふを家老東村備後といふ者しきりに止め申により退かせ給ふ。敵透間なく押詰れば、正安可討捕に池淵といふ所にて軍勢兵糧を遣ひけるにより其間に城に取籠り給ふ又穀賎合戰有しが正安不叶して遂に城を明渡し泉州へ落行夫より九州へ越て遂に果給ふ也 さて元親は勝瑞の城を收當國濟諸道筋をも討取其外不殘賞隨へけるが一宮長門守成助は前三好家春下向の時笑岩に内通有之由沙汰有とて夷山と云所へ呼越て謀て成助を討取たり、又庄野和泉守は二心無之とて本領八万村廿四丁宛行けり、返一宮には元親舎弟二郎親安を置和泉の城には元親伯父新右衛門元行を籠置其後所には春年を置、國を治めけるが天正十一年同十二年には播州奥州迄切取大形四國の主と成けり。 戰亂の筋書は右の三好記で大体知る事が出来ると思ふので本村に關係ある部分で多少記述の相違せる資料に就き左に掲ぐ

資料(2)阿州足利平島傳來記抄出 (一)一宮城には池内田肥前守、野中三郎左衛門一領具足二百人計相添籠又夷山城には呉田五郎左衛門、東川庄左衛門両将一領具足の者二百人相添庄野和泉守ニ城ヲ預ケ又其外手ニ入シ城々ニハ此手ヲ置ク (二)池内田肥前守野中三郎左衛門へ成助ヲ人質ニ取、夷取、土佐ヘ歸ル。

資料(3)昔阿波物語抄出 (一)鶴石殿と申は十一歳に御あり候、關原の勢にて候親は篠原佐吉兵衛と申て永録四年に久米田にて實休様の御討死の時被相果候に付て八万と云野、立江のあせん田三所にて候を佐吉兵衛聟東條年に生れたる子にて候つれ共、其知行を被仰付候を林石見と申人が押取十一さい迄そだて關原の上様にて庄野和泉に被付候は我の子供は紀州衆もらいひたすけ候か鶴石十一歳に成是をたすけてくれられ候へと被仰候庄野和泉は關原の御供仕候はん歟治仕候へ共是非鶴石共をたすけよと被仰候に付鶴石殿を關原の御子息と一度にいただき出候へは仕合能く候て敵の中に伊澤越前と申人は鶴石殿ためには母方の叔にて候に付而事の外御扱にて知行を和泉に添て被下て鶴石丸をそだてて申候則關原は家に入をかけて御果被成候。 (二)天正十年に三好山城殿御下りの時阿波の侍衆も大略山城殿降参被成候、八多の篠原殿、八萬の新蔵一ノ宮殿内衆そのほか大略降参被申候。 (三)又八万の庄野和泉は池田池甚兵衛くれ川五郎左衛門一両具足百人にて和泉を人質に取て土佐へのかれ候則一宮殿も勝瑞より新衆を入、八万のゑみす山へも勝瑞より新衆を入候 (四)天正十年元親は四ヶ國の主護になりて霜月に一ノ宮の成助殿を談合事と、たばかり八万のゑみす山へ呼申時御供は星合六郎、一ノ宮主水三人計城へよび上け討果し候 (五)其刻庄野和泉はすこしも表裏か無御座候故に本知二十五町ゑびす山のあたりにて被下候。

資料(4)古城諸將記抄出 一、八万城夷山 篠原佐吉兵衛、橋氏、百貫 紫雲弟、泉州久米田ニテ討死 一子鶴石丸ヲ紫雲養育ス 庄野右近篠原家ノ幕下或ハ友護ト云フナリ 八万村ニ仁木日向守ト云アリ、久米亂ニ討死 下八万村ニ庄野和泉守トテ紫雲ノ臣アリ篠原左吉兵衛ノ領地二十四丁ヲ分領ス

資料(5)城跡記抄出 一、蛭子山城 天正十年落城 主將庄野和泉守後時篠原姓 數万疊築城中宮宇、馬印幕紋松皮菱於此城一宮成助元親自殺スト云フ。

資料(6)阿州古戰記抄出 元親は下八幡村夷山の城に在て談合の事ありと使を

第四章

近世

原題 : 第四章 近世

蜂須賀入國後の藩政と産業、そして明治三年庚午事件(稲田騒動)。

一、藩政と産業の発達

天正十三年六月二十日蜂須賀家政封を阿波に受くるに及び先づ封内を統一し専で民心を収攬し、法度を制定し特に勸業に鋭意し善政能く民心を安堵せしめた。宗后承平二百八十餘年其間村治のため庄屋、與頭庄屋、五人組等の制度を設け、民間名望家に名頭なるものあり共に村治のために力を盡した。 幾層に東岳、鐵崖、春菴、天宗、天然あり共に村民の福利増進に意を用ゐ、開墾事業に庄野喜三郎、永田平三郎あり荒廢せる土地を開拓して産業の發達に貢獻した。 刀鍛冶に海部、國瀬あり産科醫に堀口文景あり其他著名の人物相次いで輩出し共に文化の進展に寄與した。 村治、教育、産業の各部面に亘つて長足の進歩發達をとげ人口又急激に増加した。

二、明治三年庚午事件

明治三年版籍奉還し、阿波二國を徳島藩とし稲田藩主は其知事となつた。知事は藩制に從ひ禄制を改革せんとしたが、家臣稲田邦家は新制に服するを好まず特別の待遇を得んため數次の歎願書を出したが入られず、つひに有栖川宮及岩倉卿に對し奉り分藩願書を出した。 本藩の兵士等は從來稲田氏の跋扈を心よからず思つて居た折であり此處に至つて沸然として立ち稲田家を征討して姦を除かんと企てた。 四月二十七日朝廷より稲田九郎兵衛と同道して上京の命があり、徳島藩士の憤激其極に達し滯京中の藩士は東京を脱して淡路又は徳島に歸り各兵隊を煽動し遂に五月十三日暴動を起し美馬郡猪尻に在つた稲田の家臣を襲はんとしたが星圖星合の兩大參事長倉公の意に依り急ぎ歸藩し直ちに兵を下浦に退ひ百方説諭して事なきを得たが、淡路洲本に於ては五月十三日稲田邸を襲ひ十數人を殺傷し其邸宅に火を放つた。 此暴動に因り徳島藩士新居與一助以下十人は主謀者として斯罪を申し付けられ其他終身流罪二十六人、禁錮四十五人多數の譴責等があつた。世に之を稲田騒動と呼んで居る。 此事件に關係した本村人は次の如くである。 一、權大參事尾關政享 徳島藩に暴動を惹起した折東京に在り岩倉公の意に依つて星合常松權大參事と共に急ぎ歸藩したが、兵亂に十三日徳島を發し名西郡下浦村に至るときゝ蜂須賀藩心權大參事と共に直ちに追つて下浦に至り「下手なことをすれば蜂須賀家が潰れる」との岩倉公の意を傳へ百方説諭の結果遂に兵士も説諭に服して十四日徳島に歸つた。 尾關權大參事は此事變のため太政官より謹慎被仰付られたが程なく謹慎を被免退官の後當時の功勞のため褒賞金より賞詞並賞品を賜つた。 四月二十五日 何之通謹慎被仰付候事 尾關徳島藩權大參事 十一月 謹慎被免候事 太政官 尾關徳島藩權大參事 太政官

(尾關成享ニ關スル記事ハ人物篇ニ詳記サレアリ)

從二位 蜂須賀茂韶 明治四年九月 藩不静仍而勤勞ヲ賞シ目録ノ通り差遣候事 一、金御一新以來引續精勵盡力不オヲ輔翼致呉候段懇 一、年國歩艱難ノ時ニ際シ大義ヲ固守シ一藩ノ士民ヲ安 裁留幼年ノ助保煉ノ任ヲ盡シ厚教育候面己ナラス先 尾關政享

第五章

現代

原題 : 第五章 現代

明治維新後の歩みと、村の來し方・行く末への率直な省察。

明治維新後文化日に進展し町村制、郡制、府縣制、相次いで實施され町村會、郡會、縣會、國會の開設あり、我八万村より出でて郡縣の樞要位置を占め、或は國會議員の選に當りし者輩出し以て村の名聲を輝したるあり。現時は村民能く相和し村治能く整ひ自治界に卓越の成績を擧げ和氣靄々常に村内に滿つるは我八万村の誇りとする所である。 最後に吾等が村民諸君と共に村の歴史を研究し發展の過程を知るに及んで相共に抱く一ツの疑念は本村が徳島市に近接し南北交通の要路に當る樞要の位置にあり、豊にして富める耕地と山地を有し温暖の氣候、明眉なる山河あらゆる點に於て恵まれたる環境にあり乍ら明治維新後遅々として發展せず巳然として冬眠の状態にあるの一事である。 人口は土佐街道沿線に僅かの増加を見たのみで農家部落は逐年減少の傾向にあり、産業上にも何等の改良が加へられず米麥を主要作物とした原始農業に終止し商工業又振はず其他各般の施設經營に於ても何等見るべきものなき状態で大體本村は發展力に乏しいため自然老年期的環境に置かれた本村の發展に影響した事も原因の一であるが根本の原因は發展力に乏しい村民性にある。 本村民の重大な性情の短所は甚だしい利己主義であり金力至上主義であると云ふ事である。吾々は未だかつて本村民が私の利益を没却して公のために盡したと云ふが如き、又目前の利益を没却して將來に備へたと云ふが如き例を見ない。 一日で耕す田を一日ですまして一日を市内で稼ぐのである直ちに金にありつける其方が田を美しく作るよりも山を開墾するよりも利益であると信じて居る。それ程本村民は利己主義であり唯物主義であり保守的である。 此性情が本村の發展を著しく阻害した事はおろそかぬ事實である。 藩政時代に於ける目覺しい發展の歴史を讀んで吾々が痛切に感ずる所は傑出した人物一人の力が村發展に貢獻する所如何に大であるかの事實である。 藩政時代輩出した幾多の人材を得たるに反し近世に至つて人材に乏しかつた事は村民の不幸と云はなくてはならぬ。 今や本村は徳島市の都市計畫地域に編入せられ徳島市への合併はも早時間の問題となつた。 耕地の減少宅地の増加、農家戸數の減少商工業の發達産業の上に或は人情風俗の上に自治財政の上に教育上に本村總ての部分に亘つての都會化は最近に於ける著しき傾向である吾々は只單なる發展の趨勢に滿足せず進んで過去の歴史と村現勢に立脚した村振興の計畫を樹つると同時に村民性の長を採り短を捨て協力一致村發展に力を盡さねばならぬ。

社寺宗教 第一章

神社

原題 : 第一章 神 社

「銅ノ鳥居の八幡さん」をはじめ、村内の社々の由緒と祭禮。

一、概 説

我國には神代以來、出雲大社、鹿島神宮、香取神宮、伊勢大廟等諸所に神靈を祀りて國民は肇國の當初より敬神崇祖の念、深く且厚きものあり。而して欽明天皇の御代に至り百濟より佛敎傳來するに及び、當時我國固有の神敎と對照して其の探り入るべきや否やに付き種々波瀾ありしも、後次第に神佛同化混合し、敬神と信仰は共に相反するものに非ずとの思想となるに至れり。爾來神祇佛閣共に並び立ちて廣く庶民の深き信仰を集めたり。 村内に於ても八幡神社は長久寺之が別當たり、又圓福寺は蛭子神社の奉仕寺院たりしが如き、神社の在る所、寺院佛堂も又共に在りし例尠からず。 斯の如き状態は佛敎傳來以後、實に一千余年の長きに亘りて持續され、而かも神佛合体は信仰の主体たるのみならず政治的且社會的にも大なる地歩を占め來りつゝありしが徳川始期に至りて漸く本來の整然たる神佛界のみの分野に歸らんとする機運見え、次で中期より末期に亘りて敬神と崇佛は各々別個体の存在なりとの論調次第に高まり、遂に明治三年八月新條例の發布となり茲に神佛各々判然たる分離を爲すに至れり。斯くして明治四年五月神社は各村鎮守村社縣社府社及國幣官幣社等の社格制定され、國府縣市町村のそれぞれ一所管廰より幣帛供進使參向を見るに至りたる事、普く人の知る如し、此間村内に於ける神社の建立され或は廢絶されたる歴史の變遷は數ふべからずと雖も其記録無くして概ね詳かならず、然れども八幡神社は約三百三十年前慶長年間(或は又二百六十年前延寶年間とも云ふ)の創建と傳へられて、最も古く次で正保三年約二百九十年前の沖魂神社、元祿三年約二百四十年前の天一神社等あり。 往昔より神社の祭禮は郷民年中行事中の、最大なるものにして毎年概ね五穀豊熟の秋に行はれ、各月總て業を休みて屋台を出し神樂を奏し賑々しき神輿渡御を行ひ、又神踊り奉納相撲を催すなど、祭禮の行事は多少の變遷を見れども其殷賑は尚、昔日と變る事無く否益々年と共に隆盛に赴けり。 殊に八幡神社は「銅ノ鳥居の八幡さん」と稱され、既に藩政時代より國内に名高く其例祭又、阿波台の多きを以て盛南北方両面より參詣人雲集して、爲に沿道の麥芽も踏み荒されたる程なりと。 斯くして幾多の變遷を經し後、現在村内には郷社一、村社六、無格社二十余社を數へ、尚八万村役場合倂に記載なき小社、小祠、鎮守神等を合すれば總數幾百なるか詳かに知の難し。

二、神社の由緒及現狀

八幡神社

又八幡祠あり大宮と稱す地高く林茂る、又金毘羅祠、黒岩祠あり。(阿波志抄出) 祭神 應神天皇 社格 郷社(明治五年列す) 位置 下八万村字宮谷、老松の繁茂せる所 縁起(由来)往昔八万村は上八万村夷宮神社の氏子なりしが上八万村に於て壱ノ宮神社を祀るに及び、下八万村は別に馬場山に一社を建てゝ金毘羅大権現を祀る。後神託には必ず武神八幡大菩薩を祀るべしとの宣命に依り、當時橋本名の神ノ氣(神ノ氣とも讀み現在の若宮神社附近)に鎮座せる八幡神社を、八幡大菩薩として馬場山楠の大樹の下に遷座し、金毘羅大權現と共に合殿として祀る。之れ大約慶長年間(紀元二千二百五十六年より同七十五年)なりと傳へられども確實なる記録無し。後現在の御所に再び遷宮され、以て今日に至る。明治初年迄東隣に在る長久寺之に奉仕せしが神佛分離後、八幡神社と改稱(明治三年四月)し同五年郷社に列せられ毎年三大祭には幣帛供進使參向せらる。 此の縁起に付き、別に左の如き説あり。 舊橋本名神の域(今の若宮神社を祀るところ)にありて金毘羅祠なりしを延寶年間今の神社の境内、楠の大樹のあるところに遷し、後更に現在の社殿のあるところに遷し、八幡祠も並べて二ツの神殿に祀りしものとの言傳あり。明治初年迄別當長久寺の僧奉仕せしが、明治三年八幡大菩薩を八幡神社と改稱、神官の奉仕となり明治五年郷社に列せり。祭禮は八幡神社は陰暦八月十五日、金毘羅神社は九月十日に、各別々に行ひしが近年は同日に行ふことゝなり社殿も一つとなれり。 本殿及幣殿拝殿 神殿は總て檜造りにして縱二間横二間半あり、階梯を隔てゝ幣殿及拝殿に接す。 幣殿は縱三間、横四間ありて二段に分れ大太鼓及大賽銭箱を吊しあり。幣殿に續いて縱二間半横六間の拝殿あり、左右に白毛の御神馬二頭、欄間には日青、日蓮雨龍及記念の大額、出征軍人の寫眞、其他所狭き迄に奉納されあり。尚昭和三年御大典記念として幣殿右側に接續して二間半に三間の控所を増築せり。 「附」棟札 八幡神社に文政十三年(天保元年、紀元二四九〇年)の左の如き棟札現存せり。

(棟札の裏文字) 右耳風 金毘羅宮 奉再興八幡宮御神殿一字北頭不朽氏子繁昌 無魔修行祈 以祈誠微言 願我常吉祥 最サ三尺五寸

別當長久寺現住阿闍梨宥雄敬白

文政十三年 金輪聖王天長地久御願圓滿氏子繁昌五穀成就万民豊樂 宮敷 寅十二月吉良日 青木福右衛門 (註)宮敷は大工の意、青木福右衛門は青木幸助氏の祖先(此項鳥居順一郎氏による)

傳説 當年國主蜂須賀公本村に鷹狩を催されしに偶々最愛の鷹の行衛を失ひて從者百方に捜索すれども見當らず國主大いに心痛して即ち自ら本社を念じ愛鷹の恙なく歸來せん事を祈りし所、靈驗忽ち著れ何處よりか鷹は國主の手に歸來せり。國主大いに喜び直ちに命じて本殿を改築し祈願せし現れを以て鬼面(今の橋本名に在り)たらしむ(當時寄築せる本殿の棟札には「蜂須賀某建立云々」の數字と年號月日記入ありし由なれども何時しか紛失せり、又祈願建は明治維新迄其餘業を継承し居たりと)それをよる造營事十一回(前の記録には一六二〇年とあり)の下賜あり、又祭禮の節には馬一頭を神馬として供進せしめられたりと傳ふ。

「附」競馬の古實 八幡神社を現在の馬場山に奉祀して以來、毎年二回(?)神靈を慰むる爲、競馬を行ひたり。 最初の馬場は市原の御旅所を出發點として東山ぐに西へ駈り、社前を以て決勝點とし、それより右折して用水に添ひ、元の市原に歸りしものなりと。然るに馬場筋は佐那河内街道の要路にして、且人家多く、度々怪我人等あるに因り、阿波川筋變更後(約二百年前と云はる)其堤防下を走らせたり。即ち現在の延命軒橋の西附近(約七十數年前、木浦鬼効一氏幼年の頃、茲に八幡神社の幟の立てあるを見たりと云ふ)より圖瀬の道路交叉點を越し、下井利附近を以て決勝點とせり。然るに其後尚、圖瀬の道路交叉點附近に於て事故絶えず、遂に競馬を中止せんとして八幡神社に伺ひを立つ。即ち神靈の御託宣に曰く「我神心好まざる競馬を爲すにより自づと事故多し、以後、我好む所の角力を行へ」と之より從來の競馬に變りて、例年宵祭り早朝より庄野の力士を集め、氏子輪番を以て數日盛大なる角力を行へり。之れ大約百年前、即ち天保年間ならんと云ふ、氏子中には本年勸進せる競馬の同好者少からず、角力を行ふとは別に、競馬も爲すべしとて、更に位置を變へ、法花石疊(現在の法花橋下)より堤防に添ひ敷町西へ新馬場を造り、娯樂的に明治末年頃迄競馬を擧行せり。(註)法花の競馬は知る人多し) 布を以て、競馬を行ひたる事實は疑ふ余地無きも、其馬場筋に就きては、最初の位置より二度變更されしも如く、其事實等不詳にして、單なる古老の言ひ傳へなるも、延生軒の幟の點、又現在の地形等より之を推察せば、或は然らんと首肯するを得べし。

年中神事 四月十五日 大々神樂 舊六月十五日 夏祭及大祓式 十月十五日 例 祭 十一月二十三日 新嘗祭 十二月三十一日 大祓式 二月十七日 祈年祭 年中神事は毎年四月に初り翌年三月に終る。其内例祭祈年祭、新年祭は三大祭として縣より幣帛供進使參向し特に嚴粛なる祭典擧行せらる。大祓式は他に率先して大正三年頃より確實に執り行はれ、此外軍人の入退營小學校卒業生の報告祭等の臨時祭、又隨時に執行せらる。

祭 禮 祭禮は元舊暦八月十五日を以て擧行されしも其後九月二十八日となり更に昭和七年版より氏子總代評議員議決にて十月十五日に擧行す。當日は村内の北地、法花、法花谷、馬場、長谷、橋本、大野、大山、南濱の各旁より神樂地車、勇屋台十一を出して御神馬數頭鉾、薙刀、鉢、天狗、獅子其他と共に神輿の供奉を爲し御旅所を渡御せらる。其賑はしき事、阿波南方祭禮中最も著名なるものに數へらる。昭和八年從來の御興渡御區域を擴張し北地を經て土佐街道に出て新軒より引返して法花に至り、略氏子區域を一巡する事となれり。往昔の祭禮には額、金幣、鉾、薙刀、獅子等を以てお練りを爲し又獅子舞等も行はれし由なれども時代の影響に伴ひ之が次第に廢るゝに及び、代りて北地下村六郎兵衛の盡力に依り神樂屋台を出せし事現在屋台の初なりと。(風俗習慣の項參照) 角 力 祭禮の前日即ち宵祭りには、毎年、馬場、柿谷、福万谷市原、北地、法花法花谷、大野、大山、橋本、長谷、の各傍示七組。輪番主催となり、盛大なる奉納相撲を行ふ。當日境内、自然地を利用せる相撲場には早朝より殺到して上り雲集す。遠近よりの見物客交々薄暮に及ぶ。

銅ノ鳥居

社前縣道に添ひて一の銅華表あり、之れ古來有名なる八万ノ銅ノ鳥居にして、昭和十年より凡そ三百三十數年前、即ち八幡神社を橋本名より遷座せる當時藩主蜂須賀至鎮公之を建すと傳へらる。其構造は、楠の丸柱を心柱となし之れに銅板を以て巻き、左右の柱に控柱を設けて其堅牢を全うせり、當時國内無比と稱さる。(大百科辞典に云ふ、鳥居、其の様式の鳥居は両部鳥居といつて、臺輪鳥居に属し本柱の上部に臺輪を有すもの一の輔柱の前後方に控柱を有し此を本柱に連ねたるものを云ふ。此鳥居は其型式なり)斯の如き様式は銅ノ鳥居と共に現在多く共例を見る所にして神佛合体の神社に多く用ひられたり。同様式の鳥居として徳島神社、金比羅神社、近江白鬚神社等あり。 斯の如くして曰く「八万の銅ノ鳥居に集れ」と。此れ蓋し銅ノ鳥居の他に其構造の類無きを證するものにして、爾來其名國内に喧傳されしものなりと云ふ。後、數度の築造ありたれども、その年月不明にして、唯僅かに文久年間再建さるもののみ、判明せり。 明治十四年に至り腐朽の爲之が改築あり、以來五十余年に及ぶなるに依り昭和八年九月再び改築に着手し、村内氏子一同醵金に依りて、半永久的なる凝固土を以て内部を造り、銅ノ鳥居の名を永く傳へん爲外部は昔ながらの銅板にて巻き、茲に結構壯麗なる銅ノ鳥居再現せり。然して翌九年一月十五日木場修理の竣工と併せて、各傍示より十數台の投餅を爲し盛大なる落成式を擧行されたり。

日露戰役記念堂

縱二間二尺、横四間半 時の總代(竹内銀一、中野與太郎、増田巳三郎、鈴江彌藏、幅島清輝、石田廣二、中野與太郎、大貝忠太郎、青木守太郎

老翁の傳説に往年屡々大なる出水は近傍一帶を浸水して海をなすも鳥居は常に其難を免かれ、獨り水上に浮ぶが如き姿をなす。之れ一重に御神威の然らしむる所にして古來神の鳥居と稱し奉れり。 殊に往年築造したる大楠は近年枯死せりとは云へ、自然の楠は現在苑内に一千年の樹齢を保つと云はれ、社殿裏宮谷一圓より南山は新舊の杉等密生して神嚴なる大樹となり枯死に依り今は其根より芽を生ぜしもの相當の大樹となり古の如き觀なきも猶直徑一丈數尺の朽木を存せり以て如何に往昔の大なりしかを想像せらる)(此の 此の大楠の下に鎮座ありし時代には、古道として現在の參道の南側に殘れる道より參詣せしものなりと。元祿十五壬午年(紀元二三六二年)八月十五日、井上彌五衛門(澤口敦夫郎先祖)より手洗鉢及社地(銅の鳥居より右段下迄)の寄附あり、以來縣道より直ちに境内となり面目大いに改められたり。

に機を造てあり、其他處神輿渡御されたるものならん 又金比羅神社の御旅所は市原より引返し銅ノ鳥居より右折して高津田を經、下長谷橋土手に達して休息せり それより園瀬川堤防を下り佐那河内街道より境内へ歸りしものなりと(明治四十一年合祀に至る迄) 右の事實を介にして考案するに、園瀬川改修即ち川筋變更により、當時新規の築造(現在の堤防の約三分ノ一の大さなり)にて、大水の折、危険なる事度々あり、依つて八幡神社並に金比羅神社の加護を受けんとして園瀬を境とし、上は金比羅神に、下は八幡神の渡御を仰ぎたるに非ざるやと思考す。

村社 靈鑑神社

山城屋宇東濱傍示 祭 神 猿田彦命(宇賀能美多麻姫命) (大鷦鷯命 ) 本殿 縱一間二尺 横一間半 西殿 縱二尺五寸 横一尺 東殿 縱二尺五寸 横一尺 拝殿 縱二間 横三間 境内 七百五十八坪 享保二十年(紀元二三九五年)山城屋濱の開拓者水三助右衛門越前の氣比神宮より分靈を勸請して祀る社殿は古風なれ檜皮葺にして現在は堂内に安置し其屬風雨に腐るを防ぐ。尚堂内に若宮神社、稲荷社を合祀し、山城屋濱二十八戸を以て氏子とす。境内は用水を以て圍まれ中央に長方形の池あり。社前に明治卅二年舊三月十一日奉獻の石の鳥居及燈籠(文久二年)狛犬各二基と昭和三年建設にかゝる御大典記念碑等あり 明治三庚午年四月幣帛供進の村社に指定せられ毎年十月十一日祭典執行、神輿渡御あり。社域内に別に地神社を祀る。

村社 沖魂神社

沖濱北名 八幡祠 北濱に在り又蔵王祠吉野祠あり(阿波志抄出) 祭神 猿田彦命、大宮姫命 本殿 縱一間半 横一間 拝殿 縱二間半 横二間半 神輿庫 縱二間半 横三間 境内 二百五十六坪 正保三年(紀元二三〇六年)三月九日板野郡板東町大麻比古神社より御分靈を北濱浦の現在地に遷座して藏王権現と稱す。北沖濱眞福寺之が別當たりしが、明治三年四月、分離して沖魂神社と改稱、村社に列し昭和三年更に幣帛供進社に指定さる。社前に弘化三年(約九十年前)正月吉日奉獻の石の鳥居及狛犬、燈籠各二基あり、昭和三年新に百三十四坪を擴張せり。 現在北濱、一軒屋通り約二百余戸を氏子とし毎年十月九日祭典執行、神輿渡御及神樂屋台を出せり。尚境内に左の四社あり。 一、稲荷社 祭神 倉稲魂命 一、宮島社 同 金山彦命 一、船戸社 同 猿田彦命 一、地神社

村社 若宮神社

沖濱字大木(南濱) 祭 神 猿田彦命 本 殿 縱一間 横一間 拝 殿 縱一間 横一間半 幣 殿 縱一間 横一間半 境 内 九十九坪 元、若宮大權現と稱せしが明治三年神社と改め現在村社に列す。文化年間(約百三十年前)拝殿建築の記録あり、日露戰役後、戰勝記念として之を改築せり。 社前には石の鳥居(天保十五年辰九月吉日)狛犬二基(嘉永六年癸丑六月九日)自然石の燈籠二基等奉獻あり。明治初年より祭禮には神樂屋台を出して神輿渡御を行ふ。現在沖の濱の南濱約八十戸を氏子とし毎年九月九日に祭典行はれしが、現時は十月九日に執行されあり。 夏祭り(六月九日)には赤見重河遊びを爲せし際、木像を拾ひしに之に觸るゝ者忽ち腹痛を起す。依つて祠を建てゝ祀り次で堂宇を建立せしもの當社の始めなりと。 尚境内に左の三社あり。 一、龍王神社 一、沖野神社 一、地神社

天一神社

下八万字馬場山 祭 神 天之御中主命 本 殿 縱三尺 横二尺五寸 拝 殿 縱二間 横二間 境 内 二千四百五十六坪 昔時南方(那賀郡坂野村)に祀られしが周圍に汚れ多きを厭ひ元祿二年(紀元二三四九年)御幣の飛びて、現在の馬場、長谷の中間に聳ゆる馬場山の頂上に留まられしにより其處に社を建てゝ奉祀したりと傳ふ。 現在元祿二年九月吉日の棟保存し明治末期頃迄、坂野村より祭禮の御神馬供奉に來りしと。 百數十年間今に荒蕪無きは此故なりと。毎年十月二十五日の祭典なりしが現時は八幡神社の例祭に附随して十月十六日に改め、神輿渡御を行ひ兩谷より各々神樂屋台を出す慣しなり。又夏祭り(舊六月廿五日)は子供角力を行ふ。現在氏子數約百六十戸にして昭和四年御大典記念にして本殿を改築さる。社前に元治二年(慶應元年)乙丑五月吉日(紀元二五二五年)の大鳥居及、昭和九年五月又新に奉獻されたる花崗台の鳥居あり。尚燈籠(八基にして明治四十二、三年頃奉獻されしもの)狛犬二基、境内に秋葉神社(祭神軻遇突智命)を祀る。

天満神社

下八万字法花谷 阿波誌蛭子祠の項に左の如く見ゆ 「又菅廟あり、舊朔川氏宅地に在り故あつて之を阿彌陀寺中に置く」 祭 神 菅原道眞公 本 殿 縱一間二尺 横一間半 拝 殿 縱二間 横三間 境 内 二百四十四坪 元、大野谷、朔川家邸内に在りしを故ありて現在の天神山腹樹木繁茂せるの地に移されしと。傳へ言ふ御神体は海中より上りしものにて「我が氏子の土地數町四方には落雷無し」との宣託ありて法花、法花谷兩名間百余戸を以て氏子とす。 社前には鳥居(天保八丁酉年九月)、燈籠一基(文化五戊辰年八月)及狛犬二基等あり。毎年十一月二十五日の例祭には兩地区より氏子參拜して社頭頗る賑ふ。

黒岩神社

下八万字福万谷 祭 神 大山祇命 本 殿 縱一間半 横一間 拝 殿 縱二間 横二間 境 内 九百六十坪 福万谷の山腹八寸の所に在り。 黒岩神社の名彌及社地の状態より察すれば、太古、先住民族(神代以前)の巨石崇拜の遺跡にして當時巨岩を以て御神体とせしが其後に至り、社を建てゝ祀る。之れ黒岩神社の起源ならんと。 本社縁起に曰く「寶永年間(二百三十年前)地方民衆の伊勢參宮せし記念として當時の發議により地方守護神として勸請せしものなりと。 其後天保年間(約百年前)常覺院奉仕を爲し當時靈験著しきに因り參詣人夥しく來りしと。最近再び御神徳あらたなりと傳へられ、遠近よりの賽者頓に多し。 境内は黒岩の名に因み巨巖重疊、且老松繁茂し眺望殊に開けて普く村内を俯瞰するを得べし。 大正十三年五月通夜堂建築あり、翌年八月境内に引水工事成り、同十五年花崗岩の鳥居(高一丈一尺)狛犬四基、燈籠三基、コンクリート階段(昭和六年八月)等續々竣成し且、參道大いに改修され其面目を一新せり昭和五年十月更に山麓より社前に至る間、電燈四十余個の奉獻あり遠く勝浦、津田方面より夜の美觀を望み得べし。 氏子は福万谷、柿谷合して二十數戸にして毎年舊三月二十八日は春祭り、舊十一月二十八日には例祭行はれ神輿渡御、神樂奉奏等あり。昔には天保年間よりの慣しなる奉納相撲盛なりし。昭和九年五月拝殿又新に改築されたり。

四王子神社

下八万字長谷 祭 神 活津日子根命 本 殿 縱一間 横一間 拝 殿 縱二間 横三間 境 内 二百六十九坪 長谷名の中央山腹に在り。祭神は天照太神第四の王子活津日子根命を祀ると傳へらる。境内に安永三年(九月)紀元二四三四年)の手洗鉢及、慶應元年丑六月の狛犬二基、燈籠等あり、松樹老杉繁茂して幽趣なり。長谷名を氏子とし其數約五十戸あり。毎年舊暦九月九日の祭禮にて勇屋台を出し神輿渡御を行ふ。宵祭りには例年奉納相撲を催せり。

八坂神社

下八万字大山 祭 神 素盞鳴命 本 殿 縱一間 横一間半 拝 殿 縱二間 横二間半 境 内 百三十二坪(地神社、他一社を祀る) 大山、大野に跨る七ツ山の内。祇園山の山頂松樹繁茂せる所に在り。大山名を氏子とし三十戸あり。毎年舊六月七日は祇園會につゝ、秋十月十六日には冬祭行はれ、神輿渡御を爲し大山谷より勇屋台を出す。社前に鳥居(明治三十四年三月)狛犬二基燈籠等あり尚昭和二年五月の建設にかゝる自然石の常夜燈を大山道路傍に奉獻せり。

龍王神社

下八万字大野 祭 神 海龍之命 本 殿 縱一間 横二間 拝 殿 縱二間 横二間半 境 内 百二十九坪 大野の田圃中、老松生ひ繁れる下に在り。往年海嘯により、中津浦に流れつきたる由、舊記にあり。境内に鳥居及狛犬二基(明治二十年八月奉獻)日露戰役記念碑等あり。氏子は大野名約三十五戸にして毎年十月十六日祭禮行はれ、勇屋台を出し、神輿は河中を渡御さる尚、社地内に地神社を祀る。

秋葉神社

沖濱字西山 祭 神 火具高津根命 本 殿 縱一間 横一間 拝 殿 縱一間半 横二間 境 内 十六坪 山麓の徳島市との境界線山上に在り。山路方面を氏子とし、境内に鳥居、狛犬二基、燈籠等奉獻あり。例祭は舊六月十七日を以て行はれ宵には子供奉納角力を行ふ。

豊浦神社

下八万字宮ノ谷 八幡神社の裏山山頂に在りて老齢の松瀬多く鳥居及自然石の燈籠二基あり。毎年舊暦九月九日の例祭にて、春は太々神樂の奉奏あり。流行病に靈験あらたなりと傳ふ。

若宮神社

下八万字橋本 祭 神 猿田彦命 本 殿 縱一間半 横二間 境 内 十四坪 字橋本名の南部に在り、往昔八幡神社の鎮座せし跡なりと言ふ。祭日は舊九月十五日にして宵祭りには例年夜相撲の催しあり。堂前に文政五壬午年二月吉日(紀元二四八二年)奉獻の燈籠一基あり。

日の出神社

下八万字宮ノ谷 祭 神 稚日女之命 本 殿 縱一尺 横二尺 拝 殿 縱二間半 横二間 境 内 七十九坪

宇佐八幡神社

沖濱字西郷 祭 神 應神天皇 社 殿 縱二尺 横二尺 境 内 十五坪

竹宮神社

下八万字下長谷 祭 神 建御雷神 社 殿 縱一尺 横二尺 境 内 九十六坪

水神社

下八万字下長谷 祭 神 罔象女命及大山祇命 境 内 十八坪 下長谷通稱「カケ」の入口に在りと傳へ言ふ。元祿年間蜂須賀隆重、富田御殿の泉水へ引水するに際し、下長谷「風呂ノ下」の堰を構築して園瀬川の水を通じ四ヶ村用水を経て境内に導きし當時、水神として祀りたるもの此社の初なりと。

稲荷神社

下八万字法花 祭 神 倉稲魂命 本 殿 縱一間 横二間 拝 殿 縱一間半 横一間半 境 内 三十一坪 法花橋(南)の西、大楠の下に在り。元、桑村氏の鎮守神にして、その先祖、京都伏見稲荷神社より分靈を勸請して祀ると傳ふ。明治初年社地を擴張し社殿を建つ。現在境内に鳥居及自然石の燈籠一基あり。主として桑村氏之を祀り、舊四月十六日を以て祭日とせり。

吉野神社

沖濱字東郷 祭 神 吉備武彦命 社 殿 縱二尺 横二尺 境 内 十四坪 北沖濱蓮敬寺の傍らに在り。毎年十一月十五日を祭日とす。

(社名不詳・牟壽姫命を祀る社)

祭 神 牟壽姫命 社 殿 縱一尺 横一尺 境 内 七十二坪 日ノ出神社の裏山山頂老松の下に在り。毎年舊暦五月五日を祭日とし、古來農業の神様なり。境内に自然石の燈籠一基たてり。

山神社

下八万字法花谷 祭 神 大山祇命 社 殿 縱二尺 横一尺 境 内 三百六十一坪(地神社あり)

山神社

下八万字福万谷 祭 神 大山祇命 社 殿 縱二尺 横二尺 拝 殿 縱二間半 横三間 境 内 二十四坪

地神社

下八万字法花谷 祭 神 天照皇太神、少彦名命、大己貴命、倉稲魂命、埴安姫命 社 殿 縱二尺 横一尺 境 内 九坪

住吉神社

下八万字法花谷 祭 神 底筒男命 社 殿 縱一尺 横一尺 然石の燈籠一基あり。 通稱「禰宮神社」と呼ぶ。長谷の中央右山麓に在り。祭日は四王子神社と同じ。舊九月九日にして境内に自然石の燈籠一基あり。

三、小祠

地神社 村内各傍示には總て地神社(祭神天照大神、倉稲魂命、大己貴命、埴安姫命、少彦名命)を祀りて、毎年春秋二回彼岸の中日には農家悉く業を休みて神徳を慰むる習慣なり。 山神社 俗に「山ノ神さん」と稱へて山の鎮守神なり。毎年舊暦正、五、九月の二十六日を祭日とす。(法花谷、福万谷、柿谷の外下八万字向寺山麓僧都谷等に在り。 小祠並に鎮守 山麓松樹の茂れる處、或は田圃中の小丘等諸所に小祠、地主さんなど在りて、それゞゝ由緒あれども概ね詳かならず。此の系統古き家には其邸内に鎮守と稱すもの頗る多し先又各社には各々明神等を祀りて鎮守となすもの頗る多し王子神社 俗に應神さんと稱す。元、延生軒の長谷川氏の鎮守神にして、維新に及び獨り應神山麓の地なりしと傳へられ、又其傍に賀茂後家の祀りし三玉大明神なる神を祀る。祭神は大照太神の第三の王子天津日子根命を祀る 備考 以上列記せる神社は總て役場神社明細帳に登載しある神社にして、本殿及拝殿坪數の坪数は、神社明細帳の記載を基本とし、改築等ありたる神社には修正を加へたり。

四、祠

又古老に依れば當村には祠と稱する所少なからず。大抵は屋敷神等の面影を留む。 其名のみ記せば左の如し。 現在礎石の存する處ならん。 曾て其跡、歴然と殘り尚、小祠燈籠鳥居の形に擬したるものありて俗に骨龍と云ふ地名あり。昔、骨龍と名付くる大蛇此の山腹老松茂れる中に在りて人を悩まし時として家畜を食ひたり。時の領主之を退治し、其靈を慰めんが爲之を祀りしと云ふ。其骨格の一部は寶藏寺に保存せり。此の小祠骨龍神といへるものにあらずや。 中山祠 字柿谷に在り。一宮長門守の弟義長(主計正と稱し柿谷に戰死)を祀ると云ふ。 神谷の小祠 中山祠、二王子の祠の他柿谷には疊神社(祭神大山祇命)ありしが現在は八幡神社へ合祀して無し。 中津浦の小祠 俗に「七社サン」と稱して龍王神、秋葉神、稲荷神、山ノ神、髪ノ神、矢ノ神、船戸神の七柱ノ神を引藏各所に祀りありしが現在は八幡神社へ合祀して無し。 二王子の祠 柿谷に在り。天照皇太神第二王子天ノ菩卑能命を祀ると傳ふ。 一王子の祠 福万谷に在り。天照皇太神第一王子正哉吾勝速日天忍穂耳命を祀ると傳ふ。 三王子の祠 天照皇太神第三王子天津日子根命を祀る。

附記 一王子の祠、二王子の祠、三王子の祠、四王子神社は共に神代時代の神々を祀れるものにて、我が國最古の神社にして、此等神社の系統より推察すれば阿波國は天照皇太神の縁故深き土地ならんかと推察さる。

「附」1、祭神の系統並事蹟

左に村内の神社に關係ある祭神の系統並に事蹟の概要を擧げ、神徳の一斑を知るに便す。 天之御中主命 天地の未だ成らざりし時に高天が原に生出ませし神にして天地萬物の大元を總べ知らしめし有形無形の元の神靈として、無始無終に坐し無窮に世を宰へ給ふ。神徳の奇しき貴き事量り知るべからず。 天照太神 伊邪那岐、伊邪那美二尊の御子なり。老華明彩六合の内に照徹す。二尊の命により高天が原を始め農、桑業織物等を奨励し給ふ。皇孫瓊々杵命生れ給ふに及び中ツ國を治めしめたまはんと三種の神器を授け且、天壌無窮の神勅を賜ひ、五伴緒神を從はしめて天降らしめ給へり。我國体の優秀完全なる所以實に大神の神神徳に外ならず、申すも畏き極みなり。 大國主命(大己貴命) 素盞鳴命の御子にして天下を平定し國土を經營し給ふ、殖産興業、醫薬、禁厭等の神様なり。 少彦名命 大國主命と共に國土經營の神様なり。 埴安姫命 城安姫命 伊邪那岐命の御子にして土の神に坐す 大山祇命 伊邪那岐等の御子にして山岳を掌る神様なり。

「附」2、神佛御取分け

皇室國家の繁栄を守護し給ふ神なり。 伊波比主命 經津主命とも申し天孫降臨に際し天使として出で給ふ神なり。 玉依姫命 海神見命の神子にして神武天皇の御母に坐す。 建御名方命 大國主命の御子にして勇武に富み父神を助けて國土を經營す。天孫降臨の時父兄の御神慮と共に國土を奉還し信濃國に鎮座さる。今に至る迄軍神として崇敬深き神なり。 大物主命 大國主命の和魂の神にして皇室國家の守護神なり。 水波女命 伊邪那岐命の御子にして水神に坐せり。 大海龍命 海神の總稱 蒼野姫命 伊邪那岐の御子に坐し野を守護し給ふ神なり。 大花咲屋姫命 大山祇命の御子にして天孫瓊々杵命の妃神として國土平定に偉勲を奏せられし神なり。

奈良時代より漸次同化し來りし敬神と崇佛は平安時代より益々盛んとなり、支那の文物、思想と共に廣く世に行はれしが、徳川時代に入りて徳川光圀大日本史を編纂して尊王論を喚起し次で賀茂眞淵、本居宣長等出でゝ國學の研究大いに行はれ、釋家に對する敬神、尊王の思想次第に世に廣く行はれたり。徳川末期に入りて内外共に多事、上下を通じて國論沸騰せしが幕府の大政奉還、王政復古と共に明治の新政となり、神佛混合は茲に断然分離獨立するに至れり。左に其經過を述ぶれば 明治元年戊辰三月二十八日政府は太政官布告を以て神佛混同を禁じ神社境内に在る別當寺及佛堂等を排し神主を定め權現或は牛頭天王等佛を以て神號とせる社、又佛像を以て御神体とせし社は總て之を改め、鰐口、梵鐘、佛具等社外に出すべき事を令せり。之舊に千古の舊慣を一掃する神佛分離の大革新なり。即ち 一、中古以來某權現或は牛頭天王之類、其他佛語を以て神號に相稱候神社不少、何れも其社の由緒委細に書付、早々可申出候事 但 勅祭之神社、御宮號、勅額有之候向は是又可伺出其上にて御沙汰可有之候、其余の社は急度可相改事 一、佛像ヲ以テ神体ト致候神社共、以來相改可申候事。 附 本地等ト稱ヘ佛像ヲ社前ニ掛ケ置キ、梵鐘、佛具等之類差置候分ハ早々取除可申事。 明治元年戊辰四月 太政官 其後度々神佛御取分けの命ありしが明治三年庚午八月二日に至り民政府より左の達しあり。 一、神社方役場之儀廢止、民政府へ附属申付候事。

社寺宗教 第二章

佛敎

原題 : 第二章 佛 敎

寺院・庵堂の由緒と現狀。切支丹御改めの記録も。

一、概 説

我國に佛敎傳來(紀元一二一二年欽明天皇の御代、昭和十年より一三八三年前)以後推古天皇の御代に至り(紀元一二六七年)聖徳太子篤く佛敎に歸依し給ひ、大阪の四天王寺、大和の法隆寺等大伽藍を建立され、佛敎大いに隆盛となり後、聖武天皇の御宇(紀元一四〇一年)諸國に國分寺を建て奈良に大佛を造營せしめらる等ありて佛敎益々盛んなれり。 次いで延暦廿四年(紀元一四六五年)傳敎大師、大同元年(紀元一四六六年、昭和十年より一一二九年前)弘法大師等、唐より歸朝して天台宗、眞言宗を弘め、殊に四國には眞言の霊場八十八ヶ所を開基するなど、當時信仰は愈々我國古來の敬神の國風と同化して庶民悉く佛敎信者たりしが如し。本村に於ける信仰状態は何等記録の取るべきもの無けれども約千二、三百年より起りし事、上記を以て推察に難からず。就中寺山の金剛光寺は大同年間弘法大師の開基建立されしものと傳へられ、丈六寺と並びて阿波に於ける最古寺院の一なり。其の後約四百年を經て平氏の頃、僧法然淨土宗を唱へ、建久二年(紀元一八五一年)僧榮西、宋より歸朝して臨濟宗(禪宗の一派)を傳へ、法然の弟子親鸞、淨土眞宗(一向宗)を開き、又、建長四年(紀元一九二三年)の日蓮の日蓮宗、榮西の弟子道元の曹洞宗(禪宗の一派)等相續いて新宗派開かれたり。 村内に於ても金剛光寺、法華寺(日蓮宗にして傳へ言ふ。紀元千九百年代の創建ならんと。)等の建立以來之等新宗派の興隆につれ、各所にそれ/\寺院建立されしならん。 天正十年(紀元二二四二年)長曾我部元親の阿波に侵入するや榮華を極め、到る處の伽藍堂塔を巍聳ひたりしが當時炎火に罹りしは金剛光寺、法華寺を始め甚だ多く、字長谷に應寺あり(通稱「寺ノ上」の山腹にして後車屋の在りし所)及福万谷の地名は元、圓藏寺に基くと云ふ事如き、蓋し當時に廢絶せしものならん。 其後蜂須賀時代を經て今日に至る迄、或は新に堂宇建立あり、或は災禍に遭ひて再建されるあり、其他又幾多廢絶となる等、世の推移に連れて幾多の變遷を重ねたり。殊に特筆すべきは明治初年神佛御取分けの布達と共に從來神佛混合に依りて寺院は概ね神社の別當として其祭祀を爲せしを此時より判然分離され、明治三年八月以來寺院と神社は各々別個の存在となるに至れり。傳ふる所に依れば現存せる寺院中其開基最も古きは前記金剛光寺にして(現在の金剛庵)今より約千百廿余年前弘法大師の開基されし以前、既に伽藍ありし由なれば少くも千二百年以前の創建ならん。(現在金剛庵に奈良朝時代のものと推定さるゝ瓦を發掘して是を證せり—寫眞參照)次で承正年間の潮見寺(約四百三十年前)、確たる年月不詳なれども約四、五百年前の蓮敬寺、眞福寺、圓福寺等にして、現在の寺號に改められし以來にては永祿年間の長久寺、それより四十余年を經て慶長十二年(紀元二二六八年)の圓福寺等あり。總算三百二十八年より七十余年に及べり。其他は概ね徳川治世當初の開基にて少きも百年以上を經過し居るもの殆んどを占む。明治に入りてより時代の推移變轉急激にして小庵の廢絶せしもの諸所にありとも、村民の信仰心尙益々篤きが如し。 昭和九年は弘法大師入寂一千百年御遠忌に相當するを以て村内眞言宗各寺院に於ては記念の流木塔建立等を行ひ、又高野山に行はれたる大法要に前後して參詣せる善男善女多し 尙、村内は概ね眞言宗にして沖の濱方面に眞宗あり、其他淨土宗、曹洞宗、禪宗、日蓮宗等各若干の信徒分布散在せり。

【附記】本地垂迹説 佛敎傳來後も尚敬神の心厚く大寶の制令(紀元一三六一年)に於て神祇官を太政官の上に置きて國体の本來を明かにせり。後、佛敎傳來者、神道と爭ふ事の不可なるを知り次第に神佛混合の説を立つ。紀元一四六、七十年頃最澄、空海等出でゝ佛敎隆盛時代を現出し、神佛同体の説益々濃厚となれり、即ち眞言宗に於ける金剛界胎藏界の兩部を神道と合して之を兩部神道と稱したるが如き之なり。 以來他の諸宗皆之に傚ひて社僧を設け、神社に祈祷するに僧をして經を讀ましむるあり、或は神前に佛像に法楽を行ふあり、遂には神社の遷座迄も自由に爲して神道の道と本地垂迹の説大いに 行はれ長く明治維新に迄及びたり。左に其顕著なる一例を擧ぐれば 阿彌陀如來は天照太神の本地佛、觀音菩薩は玉依姫、勢至菩薩は神功皇后の本地佛にして之等の本地佛即ち天竺の佛が日本に跡を垂れて天照太神、玉依姫、神功皇后の三神と現れ來つたと云ふ意に依りしものなり。又牛頭天王は天竺に在りし一大寺、祇園精舍守護の荒神なるも之を日本の荒神、素盞鳴命の本地佛なりと附會せる如き之なり。

二、寺院、庵堂の由緒及現狀

(備考 寺院の檀家戸數は村内のみの計算による)

眞言宗 圓福寺

下八万字夷山 八萬下村に在り亦眞言を修む山號龍寶、舊河南寺と稱す。蛭子祠を管す。(阿波誌抄出) 本 尊 三尊阿彌陀如來 本 堂 縱六間半 横四間 庫 裏 縱五間半 横四間 書 院 縱二間 横四間 茶 室 縱一間半 横二間半 現住職 幅島智高 京都仁和寺末流にして龍寶山と號す。慶長十二年(紀元二二六八年)僧、宥尊の開基にして往年河南寺と稱し橋本名に在り(現在其跡を寺跡と云ふ。)元祿七年(紀元二三五五年)今の地に移す。明治初年迄、八万の蛭子祠の別當寺院として村内に有名なりしと。 現在字北地、橋本を主とし、村内各所に檀家最も多く其數三百戸に達せり。境内面積五百九十三坪にして聖天堂跡あり。尚境外宅地百五坪を有す。

眞言宗 長久寺

下八万字宮ノ谷 八萬下村に在り亦眞言を修む山號松樹、舊眞觀と稱す延寶中改称す八幡祠を管す。(阿波誌抄出) 本 尊 十一面觀世音 本 堂 縱五間半 横七間 庫 裏 縱六間半 横八間 現住職 齋賀智雄 圓福寺と同じ仁和寺末流にして松樹山と號す。永祿年間即ち昭和十年より三百七十數年前、僧道珍(慶長九甲辰年九月廿一日入寂す)の開基せしものなり。 初め眞觀寺と稱し現在地より約三丁奥地に在りしを、元祿年間(紀元二三四八年より同六四年)現在地に移して長久寺と改称す。(棟札帳に依る) 長く銅ノ鳥居八幡神社の別當たりしが明治初年各々分離獨立せり。大正二年五月十三日、明治天皇の御聖徳を偲び且、御冥福を祈る爲、園瀬川原に於て鐃鈸を行ひ鐘樓を建つ。鐘の銘に明治聖徳記念、明治天皇御冥福祈願、松樹山長久寺現住戒道とあり。大正九年五月廿九日火災に罹りて本堂を烏有に歸せしが直ちに再建に着手して同十三年五月十一日落成せり。現在檀家は馬場、長谷を主として其他に散在し約百九十戸を數ふ。境内面積七百八十三坪あり。 「附」 棟 付 帳 高十二石二斗一升三合 (享保十三年、林巻六氏所藏) 一、一 家 長久寺 同四十六 此寺、立木林右衛門様被付御改之御者、眞觀寺ト相唱付上御極候、四十六年以前御願申上長久寺ト寺號相改申候、只今之住持ハ御普請御奉行御手代玉川清左衛門倅ニ而拾八歳ヨリ長久寺弟子ニ罷越シ正徳二辰年ヨリ長久寺住持仕居申候 部屋 長久寺隠居 見 雅 歳六拾八

眞宗東派 蓮敬寺

沖濱字西屋 亦北濱に在り釋浄珍置く平安興正寺に隷す(阿波誌抄出) 本 尊 阿彌陀如來 本 堂 方六間 山 門 縱五間 鐘 樓 縱二間 横三間(二階建) 方一間半 庫 裏 縱七間半 横五間 現住職 河野行信 東本願寺末流にして初め竹淨珍なるもの現在の北濱近に住し道敬庵と稱せし處、御三世信淨正の時(天正十三年紀元二二四六年)蜂須賀家政阿波入國に當り、船中病死の乳母(渡邊七右衛門勝秀の妻)を此地に葬らしめ寛永三年十二月(紀元二二八七年)勝秀死するや命じて其乳母と同穴に葬り藩主として香資を附けしめ翌四丁卯年堂宇を建築す。之より六珠山蓮敬寺と號す。後、六世僧信順の世、梵鐘と鐘之御樓を建つ。其銘に寛文丁丑七年(紀元二三一八年)三月廿八日とあり。 寺寶として、蜂須賀公大膳公より拜領せる綴絹一巻を寶として所藏せり。 境内九十五坪にして仲道蔡、原鵬雲(學者)、瀧山雲俸(畫家)、西盤谿(書家)等各名士の墓あり。現在村内に於ては主として沖濱方面約百八十戸を檀家とし、かの有名なる渡邊の松(大正五年頃迄はお補の松と稱す。藩主御手植の松の意)は今尙高く聳へて年毎に愈々其馨を増せり。

覺(堤普請に付金銀其他差上覺状)

蓮敬寺所藏 生駒右近殿 東條舎人殿 名東郡園瀬堤大破之處爲冥加下より仮普請仕候に付其評議爲御手傳金百疋白銀壹両提重壹箱上候段奇特之事候條此段申達候已上 寛政四子年二月朔日 穂積早藏 印 蓮 敬 寺

覺(諸願郡奉行直當申渡覺書)

蓮敬寺所藏 名東郡北濱浦蓮敬寺儀、寺格之趣從是申立請願之儀、郡御奉行直當ニ被仰付被下候様に書附を以申出候承届之頭之通此後諸願郡御奉行直名當ニ被仰付候條此段可被申渡候以上 八月十三日 右之通御當職山田織部殿、長谷川越前殿より被仰渡候ニ付御書附寫相添候條向後有縁ニ可相心得候以上 寛暦七丑歳八月十六日 中 山 藤 藏 印 名東郡北濱浦 蓮 敬 寺

(阿波國最近文明史料抄出)

蓮敬寺所藏 光 隆公御判 承應二二年二月五日 家中馬飼用自今以後遣之條可被得其意者也 當寺山林眞木不可伐探之枝落下面等可任寺用但草爲 名東郡北濱 蓮敬寺

覺(宗門寺請状)

一濱屋吉五儀は出生北濱浦ニ而御坐候處當寺之小家者ニて相違無御坐候其町内へ嫁ニ罷越度旨申來り指遣候而相違無之候如件 文政五午年九月 吉田屋 吉兵衛殿 龜 屋 清左衛門殿 蓮 敬 寺 印

(以下阿波藩民政資料抄出)

蓮敬寺所藏 宗門寺請状 宗門寺請状之事 一三木林平後代々淨土眞宗ニ而當寺檀家ニ紛無御坐候依而爲後日一札如件 嘉永四亥年八月十一日 蓮 敬 寺

眞言宗 眞福寺

沖濱字西屋 北濱に在り山號大覺寺に隷す堂あり地藏像を安ず(阿波誌抄出) 本 尊 地藏菩薩 本 堂 縱六間半 横四間半 廻 廊 縱六間 横一間半 仁王門 縱五尺 横二間 庫 裏 縱三間半 横四間半 通稱沖ノ濱のお地藏さんと呼ぶ。 古義派京都大覺寺末流なり。南北朝より足利氏初世の頃、此地方一帶は海濱にして二個の洲嶼あり、其北なるを北濱浦と稱せしが、何時頃ともなく、一の地藏尊を小堂に安置せしものあり。後、次第に人家構ふるに至り尊空とて當國最古の地藏尊として、信者頗る多し。元祿四年(紀元二三五二年)僧、快詮之を中興し十輪院と稱す。其後僧、宥範再び復興して現在の寺號に改め、傳次末に至り霊村の名、顕著にして鄰郡の信者蝟集し、其名國内に轟きたりと。古來當寺より高野山に登り、高僧となりしもの數名ありと云ふ。 境內面積五百四十六坪にして本堂前に聳きて春宮藏王大權現の堂(縱一間半横五間)竝に八十八ヶ所の佛体を安置せる堂(縱二間横五間)あり。又本堂前には女久三癸亥年九月廿四日の大燈籠二基奉獻さる。 尚境内に鐘樓ありしが現在無く、鐘の銘には寛文十三癸未年十一月吉日、(紀元二四二四年)北濱浦講中、南濱浦講中、寶珠山原願寺一代龍峯建立之とあり。 現在境内に珍らしき菩提樹あり。圓福寺之を管理し、主として沖ノ濱方面約五十戸を檀家とせり。 本尊地藏菩薩に就き、左の如き文書あり。 (北沖濱 林氏所藏) 一、當院本尊地藏菩薩者聖徳太子之御作也 一、歩儀千手觀世音者折下行馬殿之守本尊依御奉當院安置處也 一、御長三寸ノ阿彌陀如來者天竺優填王釋迦如來生身之御姿ヲ佛工ニ命メ赤栴檀ヲ以テ作ラセ給フ、其後光佛也右釋迦尊者嵯峨清凉院ノ釋尊是也、悉ハ説法因縁集ニ見タリ 一、西明寺入道時頼公御作之阿彌陀如來ノ躰内佛ノ地藏尊者、聖徳太子之御作也 印右縁記是 已上

淨土宗 寶相寺

沖濱字山ノ下 亦北濱西山の麓に在り淨土を修む寛文中、片山實來置く 北濱無縁寺を管す(阿波誌抄出) 本 尊 阿彌陀如來 本 堂 縱六間 横四間半 庫 裏 縱六間 横七間 現住職 梅林一衞 當寺は元、二軒屋町觀潮院附近に堂宇ありしが蜂須賀入國後、さる姫君に依りて當時現在地に移され小庵を結びたりと傳ふ。(現在其姫君の像を寺内に安置せり以上寺町淨智寺隷) 後、慶安元年四月(紀元二三〇八年)僧昭譽靈心上人來りて堂宇を建立し淨土宗鎭西派京都智恩院末寺として其開基となる。後又、村帆觀覺中興し以て現在に至る。支院として燒香庵ありしが(一名無縁寺と云ふ)今は無し。本寺の山號を天昭山と稱し多く市内に檀家を有す。 境内三百九十三坪にして史上有名なる畫家椿椿海黄洲、及儒者、柴秋村等の墓あり。昭和七年先代淨譽上人新に堂宇改築せり。

眞宗本願寺派 潮見寺

下八万字中津浦 亦北濱西山の麓に在り眞正寺に隷す初め大龍浦に在り(阿波誌抄出) 本 尊 阿彌陀如來 本 堂 方五間 庫 裏 縱三間 横四間(二階建) 山 門 縱五尺 横二間 現住職 河野行信 天正中没して海と爲る因て福島(德島)の南岸に移す寛文中此所に移す(阿波誌抄出) 往古、興正寺流なりしが現在は本派本願寺末流にして市内長善寺の末寺なり。承正年間(約四百三十年前)僧、祐善なるもの津田浦の屬島なる大龍浦に開基創立しありしが、天正年間(約三百六十年前)金島海中に没するや、徳島市、福島の南岸洲崎に移る。後、斷絶の元、播州龍野紫雲院に居たりしが蜂須賀家に從ひて入國し圓徳寺を建て住したりと隱遁して此寺に居る事數年、寛永年間に至り寺院の海岸に在るを嫌ぜらるゝや、藩主光隆より地を賜ひて今の地に移り小庵を結び之れ寛永十八年(紀元二三〇二年)なり。慶安年間、祐賢更に堂宇を創建し熊谷山と號す、二世祐道以來久しく住僧無かりしも安永九年(紀元二四四二年)津田方面村、明亮之を中興す。主として市内、勝浦、津田方面に檀家を有し現在も境内四百二十坪あり。

黄檗宗萬福寺末 竹林院

下八万字法花 北濱下法花に在り、山名初日、又永明寺と稱す釋徳翁置く後經鐵重建造す、山坡葱蘢萬福寺に隷す貞享四年采地十五石を賜はる其地高敞、後は諸山に連り前は澄潭を抱へ松樹楚々胡枝參差、尤も遊息に宜し上ること六十歩許り大悲閣あり其側に遊泉出づ(阿波誌抄出) 本 尊 釋迦牟尼如來 本 堂 方四間 山 門 縱二間 横四間 庫 裏 縱五間 横三間 方 丈 縱七間 横三間 境外所有地 田 六反三畝十四歩 畑 二反五畝二十五歩 山林 九町一反七畝十八歩 墓地 二町余(德島寺町外三十六ヶ町村共有) 現住職 佐藤熏定 竹林院は大古跡、紫雲、竹林庵の跡なり。(又、往昔竹林庵と稱し中津浦に在り、後明應年間(紀元二二五二年より同六一年の間)造營され當國の古刹なりとあり)延寶二寅年(紀元二三三五年)蜂須賀光興公より本院を鐵崖に賜る。鐵崖即ち之を中興し、神田山永明寺と改稱し其の中興開山となる。當時の本堂は貞享三丙寅年(紀元二三四七年)の造營にて現在の本堂は明治四十三年頃改築され苑内に鐵崖の像を安置しあり。 奥ノ院の本尊補陀落山觀世音は聖徳太子、一刀三禮の御作にして、前佛を瀧見之觀世音と稱し奉る。此の本尊は日本國、體三体の尊像にて太閤秀吉公歸依し給ひしものと傳ふ。元祿五年(紀元二三五三年)面積三反余の溜池を築き、文殊公、練山公(七代綱矩公)來りて毎年放生會を催し且、國主より十五石七斗二升五合の所を永代赦免地とせらる。元祿十七甲申、黄檗山末寺に改派して今日に至る。 境内七千七百八十二坪余あり。往昔最も景勝の地にして鐵崖和尚の有名なる座禪石(現存)盤臺、大悲閣等の舊蹟少からず。本堂前に「享和三癸亥秋八月十一日(紀元二四六四年)弔、鐵柱無端居士(劍道の達人)百年忌」と刻したる燈籠二基あり。又山門に明治二十七年鑄造の鐘を吊せり。 最近、鐘の塔を以て殊に斯界の視聽を集む。(人物篇鐵崖の項參照) 覺 年貢御赦免地書 竹林院屋敷高合十五石七斗二升五合之所唯今迄御年貢物被召上候處然向後御赦免被成度候間被下置旨被仰出候 仰出拙者奉之申渡候因之如此候以上 貞享四年二月廿四日 長谷川主計(花押) 竹 林 院 (阿波藩民政資料抄出)

曹洞宗 大匠寺(通稱養老軒)

下八万字法花谷 本 尊 聖觀世音菩薩 本 堂 縱三間 横三間半 座 敷 縱五間 横三間半 境外所有地 田 七反二畝十七歩 同 下八万字法花 山林 一反二畝十八歩 同 法花谷 勝浦郡丈六寺末流にして、元、同郡多家良村字宮井に在り。明治四十二年六月廿日本村法花谷養老軒内に移轉す。 元和九癸亥(紀元二二八四年)蜂須賀正勝の夫人、大匠院殿光室玄圭尼大姉の持念佛(觀世音)を安置開基し、即ち法名を以て寺號と爲せしものにて、丈六寺鳳祝和尚の隠居地として菩提米十石の附與ありし寺なりと。 境内三百七坪あり。昔時より燕子花を以て遠近に聞へ晩春の候、遊客頗る多し。 (名所舊蹟養老軒の項參照)

曹洞宗永平寺派 慈眼庵

下八万字福万 本 尊 瑜伽菩薩 本 堂 縱七間半 横三間半 庵 堂 縱四間 横六間 廻 廊 縱六間 横一間 境外所有地 田 一反五畝廿七歩 下八万字上福万 畑 四畝一歩 同 字下福万 山林 二反五畝十七歩 同 字上福万 寶暦五年(紀元二四一六年)十一月開基にして、元竹林院末なりしが文政七甲申(紀元二四八五年)丈六寺廿三代の住職百川和尚之を再建し後、天保年間に丈六寺末となる。(一説には今より二百數十年前、竹林院の僧鐵崖、備前岡山の瑜伽大權現より瑜伽菩薩を勸請して開基せしものと傳ふ) 境内五百六十五坪ありて現在、聖觀世音菩薩(堂方二間)稲荷大明神(堂二間—三間昭和七年建)玉姫稲荷(堂一間—二間昭和八年建)青面金剛(切支丹燈籠)竝に地神さん等の堂(二尺—五尺)在り。又本堂前に狛犬二基(嘉永甲寅七年五月)石の鳥居(大正十四年三月)燈籠(二基)稲荷さんの赤鳥居等竝べり。 大正十年縣道、鬼籠野徳島港線此地を開通したる依り以來、從來の面目大いに一新され、信者頓に増加し、殊に春は櫻花の眺め一入にして參拜を兼ね遠近より杖を曳く者近年殊に多し。

眞言宗 阿彌陀庵(青蓮庵末)

下八万夷山 本 尊 阿彌陀如來 堂 宇 縱四間 横三間半 由緒詳かならざれども、一名原庵とも稱し、百余年前の開基と傳へらる。本尊阿彌陀如來は三百余年以前名工の作なりと傳ふれど、何人の作なるや未だ明かならず。現在圓福寺末にして主として北地名に墓地檀家多く、境内墓地三百余坪あり、墓石數多存せり。

眞言宗 裏川庵

下八万橋本 本 尊 弘法大師 堂 宇 縱四間 横三間 辨天堂 縱二間半 横二間 開基年月不詳なれども古くより辨財天を祀り、裏川の辨天さんとて名あり。別堂に弘法大師を祀る。 昭和八年四月新に大師堂改築あり。近時橋本のお大師さんとて佛徳を慕ひて近郊より信者參集す。 現在圓福寺末にして境内八十七坪あり、「奉唱光明眞言一千萬遍、廿一日斷食三回、昭和十年三月廿一日」と刻せる石碑建てり。

眞言宗 金剛庵

下八万字寺山 本 尊 辨財天 堂 宇 縱三間半 横二間半 庵 室 縱三間半 横二間半 往時、名刹金剛光寺の七堂伽藍ありし跡にして、其附近の田には今尙古き地名の殘れるもの少なからず。現在堂内に奈良朝時代(約一千二百年前)の古瓦を所藏せり。 境内面積二五四坪にして正徳五乙未歳九月十日(紀元二三七六年)の手洗鉢、安政三辰年三月(紀元二五一七年)の燈籠三基等殘れり。圓福寺末にして、毎年舊暦中の猪ノ子には奉納相撲を行ふ慣習あり。 (名所舊蹟ノ項參照)

日蓮宗 妙見庵(本行寺末)

下八万字内濱(冷田橋) 本 尊 釋迦如來 本 堂 縱五間 横二間 庵 堂 縱四間 横三間半 由 緒 文政十二己丑年三月十五日(紀元二四九〇年)本行寺十七世、日住創立たり。 由緒に就き役場台帳に右の如く見ゆれども、當庵に就きて調ぶれば約二百余年前開基されしものと傳へられ 庵堂正面に石塔「高祖五百年之遠忌碑、天明元年十月十三日」あり、紀元二千四百四十一年に建設されしものなり。又左方境内に池を巡らせて「南無妙法蓮華經一字一石」の大石塔あり、横に干時嘉永七甲寅歳九月日と刻す、即ち由緒に曰く、嘉永七寅年(紀元二五一四年)閏七月十五日にして慶應二寅年の大水より十二年前)園瀬川の氾濫により、人畜多數流されて落命せるに依り其供養の爲、日蓮宗の經文六万九千三百八十四文字を數年に亘り刻銘に一石に一字宛を書きて埋め、其上に石碑を立て、以て供養塔となせしものなりと云ふ。 境内三百余坪にして土佐街道に隣接せり。

禪宗妙心寺派 雲水庵

下八万字中津浦 八萬下村中津浦に在り山名臥龍、四面皆山、連續相連り門徑幽閑、愛すべし釋東岳置く妙心寺に隷す采地十石承應二年賜して授樵を許し他の狼籍を禁ず(阿波誌抄出) 境外所有地 畑 六反一畝二十九歩 宇中津浦 山林 三町四反五畝一歩 右同 禪宗妙心元派興源寺末流にして臥龍山と號す。元和五年十一月(紀元二二八〇年、或は元和六年十二月とも云ふ)僧、東嶽開基し國主蜂須賀至鎮之を創立す。 世々蜂須賀家の待遇甚だ渥く二世僧、宗恩に及び境内山林の境界を定め除税とし且、毎年米十石を以て寺領とせらる。 境内八百四十四坪にして昔時堂塔伽藍建ち竝びて壯麗なりしが天保十三年(紀元二五〇三年)四月堂宇悉皆焼失せりと。 現在境内には東嶽禪師始め歴代住僧及び、蜂須賀家老たりし池田家歴代の墓標を存す。池田家の墓標は村内に於ける最も大なる石碑にして其數八基あり、各其の戒名を刻せり。(人物編東嶽禪師の項參照) 雲水庵 名東郡中津浦 松林山雲水庵 寺領米十石 開基東嶽和尚 當寺山林眞木不可伐探之枝落下刈等可任寺用、但草爲家中馬飼用自今以後遣之條可被得其意者也 承應二年二月五日 光隆公御判 米十石爲御合力被下之彼地林之内撫牛山今度就召上也承應二年二月十七日賀島主水、山田豊前、長谷川越前證文を給る (阿波國最近文明史料抄出)

(雲水庵鹿所所蔵) 伐木木其他禁禁制を札を 禁 到 一、中津浦山林木採用之事 一、寺境内樹木人寺内狼藉取之事 一、右相輩可處嚴科者也 小春三日 至 鎭(花押) (阿波藩民政資料抄出) (雲水庵所蔵) 扶持米下附證文 覚 一、米拾石は中津浦雲水庵常年には被地林之內より爲御合力被下候間無 付米にて被下候候右は彼地林之內へ夏麥にて可被相渡候侯右に 付米にて被下候候毎年半生分は夏麥にて可被相渡候侯召上 長谷川 惣左衛門 山田豊主前 水本前 賀島 主水 大田忠助殿 大口英文右衛門殿 柳久左衛門殿(阿波藩民政資料抄出)

日蓮宗 清涼寺(久遠寺末)

(下八万字馬場山) 招きて祭祀を行へり。 每月一回(七日)京都、本宗本願寺より布教使師出張して説教を爲し、且、其後的的の禮拝堂として本堂阿彌陀如来を祀りて牛の会堂を建設し、公會堂として公衆の集會所と爲す。外、之を宗教的禮拝堂として本堂阿彌陀如来を祀り、牛の会堂を建設し、公會堂として公衆の集會所と爲す。外、之を宗教的禮拝堂と爲し、本宗本願寺より布教使師出張して説教を行ひ信者を集むる事大なり。又毎年舊暦七月十三日は施餓鬼として家々に無縁佛を祀る習慣あり。

「附」1 村内の新四国 本村に文政二年十一月(紀元二四八〇年)の草創にて左の如き新四国ありたれども、現在無く、唯僅かに法花谷天満神社境内に一部佛体を存するのみ。 一 番——十九番 大山 萬松庵 二十番——二十三番 同 萬光庵 二十四番——二十五番 法華谷地藏庵 二十六番——三十九番 同 阿彌陀庵 四 十 番 下八万常覺院 四十一番——五十二番 同 長久寺 五十三番 市原 慈眼庵 五十四番——五十六番 見立 慈光庵 五十七番——五十八番 經子山圓福寺 五十九番——六十番 二ツ山新巖院 六十一番 下津浦大光庵 六十二番 風呂ノ谷長學院 六十三番——六十八番 中津浦牧牛庵 六十九番——七十番 中津浦雲水庵 七十一番——七十三番 同 竹林院 七十四番——八十五番 中津浦青松軒 八十六番——八十七番 勢見山觀音寺 八十八番 岩ノ鼻潮觀院 (阿波國最近文明史料抄出) (一番より八十八番巡道のり三里)

2 切支丹御改め

天文十二年ポルトガル人が島に漂着して小銃を傳へより六年後、宣教師サビエル初めて我國にキリスト教を傳ふ。(昭和十年より三百八十五年前、當時之を天主教又は切支丹と呼べり)後、次第に全國に信徒擴まりしが秀吉の頃に至り、我國民性に合致せざる等を慮りて斷然其の布教を禁じ、先に信長の建てし京都の南蠻寺を壊ち且宣教師を放逐せり。徳川家康又其の後を受けて之を禁じ、國民をして悉く佛教に歸せしせしめん事を圖る。然れども常時海外渡航の盛んなる頃なりし爲、尚其信徒を絶滅するを得ず、三代將軍家光に至りが之が根絶を期し、先づ懸賞に依りて宗徒を探がし、度々宗門改めを行い、又踏繪と稱し、其上を踏みしめて信者なるか否やを試み、若し信者出でし時は容赦なく極刑の處分したり。之が為其壓迫に堪えかねて九州に於ける島原の起りしが、機何もなくして鎮壓せらる。 幕府世々之を継ぎて益々禁制を厳しく永く明治初年に迄及べり。 當時の参考として本村に於ける椎野耕二氏所蔵の切支丹御改帳を左に掲ぐ。 仕上書物之事 一、切支丹宗門就御改度々御法度書之趣奉畏候 一、私儀家族眞宗=而則且寺富村圓福寺祖願中處配置御座候、不審成宗門之旨毛頭無御座候、此度誓紙ヲ以申上通茂相違無御座候、自今以後門不審成者罷出候得者、早導往往進可申上候、依面書物如件 明治二年八月廿一日 下八万付小高取 牧民從事中殿 椎野傳治郎

社寺宗教 第三章

その他の宗教

原題 : 第三章 その他の宗教

天理教八万宣教所と、村の宗派別調査表。

天理教八万宣教所

下八万字内濱(冷田橋) 本 殿 縱七間半 横四間半 建 坪 七十八坪二合五勺(附屬建物共) 天理教の祭神は宇宙に於ける萬神を總て祀れれるものなるも、其内、伊弉諾、伊弉再命等、十柱の神霊を總稱して天理王ノ命と稱し是を祀る。 八万宣教所は名東大教會に屬し、大正十年十月八日馬場名に設立せられ、昭和九年二月十九日現在の冷田橋に移る。毎月二日を設教日、十六日を月並祭として信徒一堂に集り神樂を奏し説教を爲す等の祭典を行ふ又毎年三月及び九の二日は布教に從事したる先人の慰霊として嚴肅なる御靈祀りを行ふ由なり。 現在村内信徒の數、百戸を越ゆと。(宣教所山口氏)

村派別調査表

眞言宗 六八〇戸 淨土眞宗 二〇〇戸 日蓮宗 一五戸 淨土宗 一一二戸 禪宗 七戸 曹洞宗 六戸 神社 一〇戸 天理教 一〇二戸 キリスト 五戸 其他 七〇戸 金光教(金光教) 一五戸 大社教(出雲教) 六〇戸 黒住教 一〇戸 御嶽教 八戸 大本教 四戸 備考 その他の項には分家等にて未だ何宗にも属せざる者約百戸を含む。総計の現住戸数より多きは各宗旨重複せるに因る。

人物篇

人物

原題 : 第一章 人 物

武將から高僧、開拓と産業に尽くした人々まで。

仁木日向守義胤

清和源氏八幡太郎義家六代の孫仁木太郎實國六世の斎左京太夫義長の後胤源義包の子なり上八万村花房城に居る天文二十一年主君細川持隆の仇を報せんと為め三好氏と戦ひ東黒田村鎗場に於て戦死すと云ふも実際は家臣の影武者にて代死するものにあかぬかに逃れて下八万なる篠原家に寄寓し夷山に居れり九十余りの長命を保ち二男あり長男を義忠又太郎入道自道と云ふ次男は友能和泉守と称し庄野伊賀守の養嗣子となる。下八万仁木氏旧記には仁木は篠原左吉兵衛家臣とあり。

仁木右京之進の妻

我國中古の才媛にして赤松則房の乳母なり。赤殿目は三ヶ國(中國なり)の主なる故にお局になる人は源氏物語、うたぞうし萬事をしらぬ人はつけられず候て國中を詮索戒候時、下八万に仁木右京之進と申人は仁木日向殿従弟なり右京之進の嫁を局につけられ候げんじ物語、古き歌萬能覚たる人也。其の子は仁木を止て林杢右衛門と申て和泉守養聲也此國へ萬萬石の約束にて御有村乗房様めのおと也。(昔阿波物語抄出)

篠原左吉兵衛

篠原雲齋の弟、本姓楠氏八万に於て百貫を領す(古城諸将記には七百貫とあり)夷山城主たりしが永禄年間泉州久米田にて戦死す。

篠原右京

篠原左吉兵衛の子、庄野和泉守奉待し居りしもの、即ち当時の実山の城主(実権は無くとも)たりしものなり。天正八年庄野和泉守が計りにて城を長曽我部元親に納め従属するや右京年既に十九才去つて讃岐に至り十河一存に寄依し後其の配下となり數回の戦功あり、後戦死したりと傳ふ。

庄野和泉守

本姓藤原、兼時と称す、紋は石疊、添紋中宮字、馬印松皮菱、篠原雲齋の嘱により左吉兵衛遺子鶴石丸を奉じ夷山城に居りしが長曽我部元親の阿波侵入に當り異心なしとして領地百貫余の上に更に七十二貫を給せられる。同人の別家に庄野右近と称するあり、元篠原家の兄弟なりと云ふ。(兄弟とは領主に交り厚く其地に居住し領主より一年の世事料を受くるもの)

東嶽一禅師

僧東嶽俊俊禪師は尾州蜂須賀郷の人母を益田松と云ひ(尾州益田の領主、高三千貫)宮内少輔持正(後藩士となり氏を仁木と改む)の女なり、少輔の國司北畠左中將具教の寵する所となり遂に禪師を宿す、具教辨之に相傳の良力を授けて遂に禪師の子に賜ふ」と、然るに弾の夫人、嫉妬心燃ゆるが如く其毒手に倒れんとすること数回、家人某等二人謀りて潜かに伊勢の國鈴鹿郡中河原郷なる關某に難を避かしめたるも荷身を安んずるに足らず、當時尾州海東郡蜂須賀の領主(二百貫)蜂須賀彦右衛門正勝、宝な趣、益田内膳、齋藤某の媒介により天文二十二年の一秋、益田内膳、齋藤某の媒介により天文二十二年の秋容れて室となす。翌二十三年正月師を産み名付けて鶴千代と呼ぶ、(後永祿元年正勝一児を挙ぐ之を家政とす)鶴千代、幼少にして勇名あり、父に従ひて軍功を建つ、織田信長手づから短鎧を賜ひて之を賞せり十七歳にして感ずる所あり父に請ひ自ら是茶維寺に入りて剃髪して長存と名付く、後洛東南禅寺に至り衣を改めて名を緑俊と改め天正年間東嶽と號し名を榮俊と及ぶ師も従ひて阿波に来る。翌天正十四年家政先考に及ぶ師も従ひて阿波に来る。翌天正十四年家政先考の菩提所として渭山の東北麗なる大雄山寶賢寺を改め更に堂宇を増建して江嚴山福樂寺(慶長六年下助任大岡に移転し大雄山源源寺となる)と號し師を請うて住持たらしむ、後軍事及國政等帷幄の謀にも参興せのみならず朝鮮の際は家政に代り徳島城にて留守國政を執る。 關ヶ原役の時、家政高野山に還るや代りて阿波國を關ヶ原役の後に蜂須賀至鎮、阿波藩主となるに及び藩主が大阪陣或は出府不在の際代りて政務を掌る、尚四世の間始終政務指導の位置にあり前後始んと四十年(侍者道修、宥関之を補佐せり)上下の徳澤を仰がざる者無しと。のち徳川家康招きて鎌倉興興寺に居らしめんとせしも老病に托し辞して罷ぜず、天正十八年引退して光勝院内梅松軒或は極楽寺等に老を養ひ後元和五年に至り八万村に臥龍山雲水庵を建立に残り父長長政の歸依せし補陀落観世音を奉じて佛山山永明寺跡に新唐風の寺を建立して竹林院と號す藩主蜂須賀公は鐵崖を遇するに中太夫の禮を以つてし叔母様に當る稲田九郎兵衛の喜捨最も厚かりしが竹林院に居りし事十九年の長きに互り元祿十六年九月九日七十六歳を以つて入寂す。(竹林院所藏古文書抄出)

鐵崖和尚

宇多天皇九代の後胤、近江源氏の嫡流佐々木四郎高綱の末、淺井備前守長政の三男に生まれ幼名を守貞と称す。長政、織田信長と戦ひて克たず落城に際し守貞は乳母の懐に抱かれて難を逃れ成長長叔母に當る(蜂須賀公國老稲田九郎兵衛の妻)景岩院をたよりて阿波に来る。藩主蜂須賀公守貞の技量を見込み三千石を給して家臣に抱へんとしも之を受けずして富田の瑞龍寺に入り僧となり名を鐵崖と號す、其の徳高きを以つて忽ち世に知られ十三ヶ国の霊場大利より請招されし事切なりしと雖も敢て應ぜず、後徳島市佐古町、雲照山大安寺に移り第三代の住職となる。承應年中、明の渡來僧黄檗木庵の長崎に來朝するに及ぶ暦應二年大安寺を出て長崎に至り黃檗木庵の徒弟となり木庵弟三十七人中、十人の中の高足となる。鐵崖の木庵に就き法を修めんとして長崎に往復せし事に及べり。 延寶二年大安寺を退住し、後貞享二年に至り本村下竹浦に来り父長政の歸依せし補陀落観世音を奉じて

永田平三郎

山城屋の名主にして豪商なり。麻植郡中勇次の三弟に生れ平左衛門の養嗣子となる。永田の家は始め徳島佐古町に住し山城屋と呼ぶ祖勘右衛門享保年間名東郡南斎田浦に塩田を築き山城屋と稱す。後ち之を他人に譲る(一説に譲受人は藩士族なりが士族にして百姓をなし商業をなすは不均なりと認め取り上げらると)其の地官渡となりて更に永田家に下賜さる、寛政八年名主となり爾來土地肥え四方より移住する者多し、天保年間土人の人久保半藏なる者阿波に来り撫養地方にて堀抜井戸を試みんとしも其の志成らず人亦其の有利を知らず平三郎之を聞き平三郎を聘し邸内に堀抜井戸を穿たしむ、之を本縣堀抜井戸の嚆矢す。後ち藩主齋昌之を聞き城内西の丸に穿せしめ是より國內各へ傳播するに至りしなりと云ふ。 嘉永六年九月十四日六十九才にして病殺す。同家邸内に在りし碑は(今は徳島市東富田某家に在り)其の碑文は左の如し。 永田氏新井碑 夫水火者、民生之所急、而鑛鑛取火無不獲焉。鑿井泉出、或清、或濁、或鹹、或淡、或有臭氣、而不可入口、或鑿深而不得水焉。其清洌甘馨者、豈在所能乎。雖則有水未必有充用、況於絕無者乎。永田直陸築潮田於府城之東南、構宅而居焉。小族數棟亦住其側。其地無水遠酌之數里外、縫得生活、皆以爲憂也。邦俗所謂穿貫者、汇濃諸國往々有之、其水沸騰滿井、溢出石甃上、故不用硬瓶及□□之機、可以木竹提桶汲之。其利便無比也。本州數十年前、穿貫之工者、來、或使鑿之、終無以成、徒稀土地不應其法矣。頃土佐工來之。其法以數尺鐵棒、層々積之、最下之棒末尖者、自上墜之則其重、自然穿入、十二三尋而遂到源底、則倍上矣。而以竹筒、亦層々接之。水自筒中湧出、溢井幹之上、工之難者指揮、其徒成水自筒中湧出、溢井幹之上、永田氏爲權興也。君侯嘉之特狂駕往觀之矣。至於公族及士庶、觀賞之者多矣。余亦得一寓目、實興江濃之國所有者、無以異焉。可謂奇工哉。爾後西城之園、公族巨室之庭、陸續鑿成。就中西城新泉、其湧々清洌、無以過。永田氏之水、亦類清而晝夜所湧出不可數十斛、則不唯供以含用、其利澤及隣里鄉黨、以免遠汲之勞。則美嘗河潤九里之謂乎哉、可稱義井尤者也。昔者武師拔刀刺山飛泉湧出魛歌井拜井水泉鼻出以稱漢德神明。夫此穿貫之泉、昔無成而今成。益昔公明德之所致而吾民之蒼福也。永田氏欲立碑以表焉。以銘賦余。嗚呼此泉之成、能周生活之怠、開萬古之利源、是可以銘也。

作銘曰、繪水之利、要於民生、既先六府、亦冠五行。咸角沸濟口、載鑿載炊、載、浮瓜李、昔匱今饜、斂以汁辜、潤盆薄將、鄉黨隣里、開固利源、垂裕後昆、勤銘貞石、長倚□根。 天保十三年壬丑冬十月穀旦 敕住妙心賜紫宏芷玉淵撰

一 堂 家

此者先祖平衡門儀ハ猪子七兵衛樣御デ地名西郡矢野村頭入規奉公人仁右衛門小家=而正德四年年右村棟付御帳=正德三年ヨリ佐古町拾壹丁目=家宅相調膳越居旨相付候所平左衛門伴又次郎=付候得共病氣=付耕作働難相調儀義ヲ以平左衛門家督之儀者相小家八右衛門二男菊之助讓渡子=仕伴又次郎鎌者助任町針醫師渡部ト朴嚢子=指遣度段御間屆之上享保四年七兵衛糠御先代吉六糠御暇御証文被下置御奉行小林三右衛門棒御見印被仰付御座候=共又次郎儀實者朴養子=相成不申名目造=御証文頂戴仕候其健親平左衛門家督相續仕平左衛門養子=奉願候菊之助儀者於矢野村田畠指遣別家爲仕平左衛門先規奉公人株相立又次郎代=町人居罷在此度棟付御改=付御取訓被仰付候所前段之通不筋=相運廻雖仕居候故=一旦御暇御江引リ戻リ戾可仰付當リ候得共又次郎儀=奉公人株=者代リ人相立候次第モ御座候補右又次郎儀追而勘右衛門ヵ改名仕當浦清新村於洲崎岬享保年中新規=埴濱築立山城屋濱ク唱相候様地普請等出仕候所及困第一且他=相續御座候所受人不訪御座候土地不殘姦父平左衛門へ=下置右濱名主=被仰付濱土地不殘姦平左衛門へ=被下置右濱名主=被下政御改ヲ付候然所棟付御調訓=付右右濱之儀ハ先祖勘右衛門築立候以來追々住居之者多相成候=付此度御改ヲモ別帳=被仰付土地之儀ハ諸役御免所右然御用之節ハ加子役=被召仕仕様候被召仕後苗字帯刀御免所右者支ラ立一村開基仕候者之儀故此後苗字1人支配外之無役人=被仰付官位渡候尤平三郎儀ハ3男前名富次郎=而御座座所御家來所乘母平左衛門後家男子無御座座文化七年年養子=相成居申此度養子居奉願御用閉届之上御郡代高木真之助樣夕御居御証文被置平左衛門後家家怪相續套子=罷成候 侯 既先祖代々佐古鄉町拾壹丁目=家居敷相相住居仕住居申候=付稼手形頂戴仕候之仕合當濱=家無御座候候(下略)

来人龍蔵

歳三十四 此者板野郡大桑島村御蔵百姓=而御座候所會祖父清五郎代暦年中當濱へ罷越名主住田平三郎島地ヲ借り建家仕相稼居候 (下略) 當濱之儀ハ名主永田平三郎祖勘右衛門南齋田浦於洲崎=新規=壇濱築立々土地成近來有付人モ餘程相増候=付此度棟付別帳=御改被仰付土地之儀ハ南齋田浦楠杖鄕=而田畠仝之儀ハ一圓濱稼而已仕事故南齋田浦百姓同様者役御免許可自然御用之節ハ加子役=被召仕候樣御當樣御下知之御趣郡代木眞之助樣も被仰渡候

安藝 鍛治

一に園瀬鍛治と称し其先祖は土佐國安藝の城主なり上佐那河内村内に來住せしが天明年間闕、潮川邊に遷移し武具を専業とす。大谷御屋敷に勤務するに及び、安藝の稱を賜り法花に移り御厩御用利となる。

加藤 光藏

字夷山(通称北地)の人、侠士なり御掃除頭を勤む、人のために常に冤を解く時に服せざる事あらば上職に内訴下司して光藏を恐る。常に出入する所の藩臣邸へ年始に赴くや家僕をして各家の定紋衣服を携えしあめ家毎に改め以て栄とす、當時吉村の俚言に「八万に過ぎたるものが二つある銅の鳥居に加藤光蔵」と以て其の人となりを知るべし。

平野家和吉

名西郡下浦村某の傭人なりが宇板橋に出で米商を営みて頗る義気に富み、或年後岡藩士の遺子二人を助け本郡庄村観音庵に隠れたる敵を求め親の仇怨を報ぜしを以て世間に其の美誉を讃へられたり。

尾關 成章

通称源右衛門字は文郷、扇江と称す小字廣吉七之助と呼ぶ。家世々藩に仕へて祿五百石を受け側目附奥小姓頭取より鐵砲頭奉行付元締を経て徳島藩の執政助役となり明治二年七月權大參事に任り、退職後は下八万村朝日山の麓に移住す。明治四年九月蜂須賀茂韶侯は部下重臣に各金二千両を給し積年の功労を慰むるや成章又給はる、明治六年四月十日壽四十三才にして逝く、候時に倫敦にあり計を開くや痛悼し自ら文を撰んで哀悼の意を表し井上高格をして碑を建てて之を鐫せしむ。 明治六年四月十日。尾関成章病卒於家。成章仕吾先考戴公。為奧小姓。余之幼也。先考擢為傅。為人謹慎重厚。能盡輔導之道。知無不言。言必有則。左右耆宿。自以爲不及。余之嗣位。國步艱難成章確大議。從容繃繁。國家維新之日。盡力口懈。以余之不肖。得至成立者。匡救之功實居多余嘗賠金若干。酬積年之勞。今在黽勤。遠望其計。東望慟哭。憾不得親臨弔。斯使井上高碑於墓側。亦無徳不報之意也。 從二位故阿波國守蜂須賀茂韶撰 故儒臣 橋本惟孝謹書

德僧 天宋

讃岐高松の生、幼にして僧となり各所を轉々し遂に沖濱村十輪寺(今の真福寺)に居す資性恬淡、學識豐富、能く現世の物事より過去の事歴、將來の事を指摘し百發百中、毫も誤りなる事なし故に都鄙遠近の老若男女歸依甚だ厚く寺内地蔵尊の参詣者

橋本 鹿太郎

蜂須賀家の御臺所人格にして事務の餘暇彫刻に従事し其の技甚だ巧妙なり刀剣の縁頭、目貫草入、紙入れの金具等地質は金銀赤銅四分一等好みに應じ圖書を彫刻せりと、始め此技を伊豫人形彫刻師保行に就いて學ばんとせしに保行曰く、其許は性質不調法なれば本術を修むること難し他業に轉せられよと、鹿太郎之を聞き落膽せしも我も男なり人一度すれば神一何事か成らざらんとは心の意を表して今一度教示を垂れ給へと哀願せしに保行も其の熱心に動かされて其の術を教授し卒業の後保の一字を許され一鶴齋保忠と称するに至る。而も其の細工物優良にあらず齋保忠と称するに至る。而も其の細工物優良にあらず其の業を捨て更に仕直すは常とし收支相償はざるを意とせず其の入念物に至っては痴戒沐浴して一室に籠り精神を凝らすこと斯の如く身心疲勞し數日修養せざるべからざる事屢々ありしと、鹿太郎は字大坪(通称馬場)橋本亀一氏の曾祖父に當り。

名所舊蹟篇

名所・舊蹟

原題 : 第一章 名所、舊蹟

夷山城跡、延生軒、七ツ山、竹林院の舊蹟。

夷山城跡

歷代城主・居城年代:

  • 細川六郎掃部頭:文安年間
  • 篠原佐吉兵衛:自弘治至永祿三年
  • 篠原右京:自天正四、五年頃至天正八年
  • 庄野和泉守:自天正八年至天正十三年

字夷山(通称北地)に在り、今は緒山にて見らるべき物なきが、此の城は一名聖城と云ひ、天文年間の頃、細川眞之、六郎掃部頭と称せし頃、此城を築く。之れを楠の壘(今時一宮城に対する壘なるに依り楠の壘と言ふ人あり、之れは臆測に過ぎず、當時は上八万村にも二三の壘あり當城のみを楠壘と云ふ云ふは當らず、細川眞之時代は當地の前方に通ずる海岸の要路にして其の關門たるに依り楠の城と稱し説が實説ならん)弘治、永禄の頃、三好豊前守義賢入道実休の弟篠原佐吉兵衛の地に譲り七百貫を領す、永祿三年三月五日實休と共に泉州久米田に於て畠山右衛門等と戦ひ破れて自自殺す。庄野和泉守兼時は篠原佐吉兵衛の遺児右京を護して此城に居りしが、長會我部元親の阿波侵入に際し右京を率いて之に降る、時天正五年なり。 元親の弟親泰は家臣吳田五郎左衛門及び東川庄左衛門をして兵二百人をつけを護らしめ和泉守をして後克をず、此の時異田、東川の二士は和泉守の子を人質とし本城を破壊し以て土佐に皈る、同六年同年六月笑岩の京師に上るを聞き元親更に兵を率来り阿波の諸城を抜く、和泉守異心なき故を以て兵を率ねり阿波貫の上向廿四丁の地(北浦浦全部元五ヶ庄の内にして今沖濱の内)を宛行はる。 天正十三年豊臣秀吉四國征伐に當り其の兵亂のため遂に處領を失ひ下つて庶民となる。 永祿四年仁木左京太夫の子日向守東黒田鎗場の戦に破れ浪人となり一族と共に此の地に來り篠原家の客養となり九十余才にして歿せり。

橘(橘の坪にあり附近に仁木一統と称する民家散在し東、一町余りに篠原祠(左吉兵衛を祭る)あり、西に夷山池あり此の池は昔時園瀬川本流の注ぎし所なり。)

壘

八万下村市原里に在り、一に夷山城と名づく。篠原佐吉兵衛此に據る百貫を領す和泉久米田にて戦死す其臣庄野和泉守、孤子右京を追ひ之を奪ふ天正中秦元親之を陥れ弟親泰をして守らしむ一曰く吳田五郎左衛門、東川庄左衛門をして兵二百を率る之を守士、和泉守の子を執質と爲し土佐に皈る。六月笑岩入京す、月元親來り諸城を抜き八万を以て和泉守に興ふの如し或は曰く仁木日向守亦此に居ると、今田ありと局と称す。(阿波誌抄出)

谷

柿谷、福万谷の間に在りて東に事勝嗣(一宮源成助を祠ると傳ふ)あり、西に中山祠(成助の弟、成長を祠ると伝えふ)あり、一名『血渡谷』と稱す天正十年十月中旬一宮源成助の一軍長會我部元親と戦ひし古戦場(前章一宮源成助と夷山城参照)にして、時戦死者の血は澱み満ちて長く滅せざりしに依り『血渡谷』の名起れり、と、此の地、今荷山頂、山麓に刀剣遺骨等を発掘する事往々これあり。

延生軒

宇向寺内に在り、往昔庄野和泉守の住みし所にして蜂須賀時代は長谷川氏代々の別荘たり此の地北は園瀬川の清流を望み近く桃舘川庄下を流れ南に前山の峰麓を負り茂林渓を隠す春に有るなる櫻花の勝あり夏に杜鵑花の眺め優にして古来有名な燕子花の勝地として開ゆ。此地は元藩士下氏の別荘にして元禄年間の創設なり、今は大匠寺の境内に属せり。

養老軒所蔵巻軸

阿州陪臣折下氏氏居士、性格不凡、心常側儻、擇地於府之南、結棲於山之北、鱗岩夷峻、植花移木、沼石林叢、岑嶺幽勝、崾山千其上、激水干其下、面修原、椅鄭田、枕平阜、帶回塘、隨地形山勢、設一所別口、凡其爲標目歡心之物亦已備矣。若得政暇、則鑿磚遺跡、以極樂于此間、自樂且樂人、超踰世網、蕭然無累、是所謂不見固千人間榮辱之域者也。或登山遠望、則熊嶽高峯數百里之名藍、彷彿眸中、加之歸帆落照販暮雪、四時朝暮、日夜陰晴、難輝以配。

養老軒偶作

一望包括大千界、 四面奇瓏洞裏天、 疊翠群巒閉畫軸、 鳴珠流水奏徴絃、 這般勝樂令誰說、 廣舌淨身耳目邊、 深占村莊南地幽、 煙霞泉石壓丹丘、 盤旋行樂觀暇、 醉臥安眠得自由、 翠竹移來爭勁直、 碧松時伴慰間遊、 期秋預種陶家菊、 宜夏遠分禹日流、 撫子傍溪幾瘦馬、 牧童放野逐癡牛、 登山履險喚叢杖、 臨水渡橋浮葉舟、 窓入紀溪習轉廣、 境離朝市意常休、 西憐幸有道仙窟、 壽域相借滿十籌、 鳳山比丘龍南、書龍眠室。

七ツ山

園瀬川の南、宇犬山及び宇大野の人家の間を西より東に點々島嶼の如く羅列せる小山七個の總稱なり。 口碑に依れば此地往古海中の孤島なりしが漸次埋りて平野になるに至れり、後世庄喜三郎(庄野和泉守の末裔と称する者)此の山の周圍を開発せり。 藩主蜂須賀重喜(十二代の藩主にして、秋田新田領主、佐竹豊守義道四子に生れ蜂須賀家の養子となり十六歳の幼少にして在職す安永二癸巳年四月大谷別館に退隠老を養ふ、世に重喜を大谷公と云ふ)。明和六年(重喜退隠五年前)別館を勝浦郡大谷に造建し附近一帯の土地を庭園に造るに當り、此の七ツ山をも其の一部に取り入れ各小山に櫻、梅、桃、杜鵑花等を植ゑたりと。 七ツ山とは西より東に數へて名を呼ぶに。

  • 眉山(一名、杜鵑花山)
  • 櫻山(一名、蛇池山)
  • 中山(一名、長山)
  • 犬山(一名、祇園山)
  • 天神山(一名、春日山)
  • 大崎山(朝日山)

園

字馬場より上八万に通ずる園瀬川筋を云ふ、夏時納涼に適し、蛍の名所なり、國字會て山城治より螢を取り寄せ此地に移せりと傳ふ、今に園瀬螢は大なるを以て有名なり。

圓 山

宇沖濱の西部、竹林院へ通ずる咽喉地にある小丘(高さ三丈六尺、周園一丁)を呼ぶ、其形圓く月輪の東海に出る如しとして圓山と名付く、往昔納涼の地として土座杖を曳く者多く、殊に騷人の集り來りて連歌、俳諧を楽しむ好地たり、山道登り口に歌塚ありて(現時山田氏の庭園に在り)左の文字を刻せり □百五十年忌 二世 □正房 □保十四四□□秋九月建 此の小丘は徳島中學建築に際り、埋立に取り崩され全然其の姿を亡へり。

福面山

徳島中學校前の高丸山の南面せる一部を稱す、遠く眺むればお福の面の如し、依つて福面山と呼ぶ、一名阿波富士と稱し、其の形富士に似たるをもつて此の名起れり、山麓に無縁寺趾在り。

香留山

高丸山の西に連り、元長學院上方一帯の稱なり、蜂須賀正勝會て此地を過ぎ、此地に愛宕の祠を鎭座せしむ、往年正勝が京都なる愛宕神社參詣中得たる『香を留めよ蓮が下に澄む水の濁らぬ世々の末まで』の神歌に因り背後の山を香留山と呼ぶ。

風呂谷

香留山より出る小溪を云ふ、元長學院境内にして昔時蒸窯(蒸風呂)あり、蒸主之に浴し林區を賜はりし事あり此の境内には大正初年頃まで左の遺証ありが現時其姿を留むす。

便利室

寛政年間某藩士の建設して維新前までは風流人相集り茶事の催あり。

歌塚

ひとも思ふ稍や初櫻 鹿鳴くやことに傾く月とて 空山 芭蕉堂の側に在り今其の形を亡ふ、藩士其此地に隠遁して左の二碑を建つ。

竹林院の舊蹟

(奥石山参照)経塚あり、院の周邊に筆の水、大悲閣、蜂須賀公家老稲田氏の設計に掛る數寄を凝らせし庭園等あり、昔時より有名な勝地として知られる、荀同寺に葉柴木庵外八人の詩を以て賞せる十景に左の如きものあり。

  • 盛月の池:門前の池を言う
  • 一趣關:禁牌石の上にある
  • 補陀岩:奥院谷路にある
  • 般若臺:奥院観音堂上にあり
  • 臥眼岩:奥院東北にあり座禪石なり
  • 入流洞:瓦礫谷を言う
  • 不動岩:藤倉谷の下の池を言う
  • 梯雲橋:寺東山路上にあり、奥院地蔵尊の上にある
名所舊蹟篇 第二章

墳墓

原題 : 第二章 墳 墓

城主・高僧・力士・學者・藝人たちの墓。

篠原左吉兵衛の墓(夷山城主)

夷山城址より東に當る一丁餘(椎野境氏裏)の岡畦に在り、佐吉兵衛泉州久米田の戰ひ(夷山城址參照)に破れ自殺せしを、臣其の遺骸を持ち歸りて葬れり、此の墓は元、酒屋錦家の敷地に在りが同家建築に際り取り除きし所墓下より鎧、刀剣等の發掘を見れば之を衝参に復して現地に移せり。

庄野和泉守の墓(夷山城主)

字市原、蜂須賀山城別邸址の西に在り、『阿波誌』には八万下村法華寺址に在るとあるも、現該寺は墳墓荒廢の内に出々點在すれば孰れが是なるかを知らず、口傳に依れば阿彌陀寺址に在る(現在、中田楠太郎氏庭園南隅に移る)墳墓を以て和泉守の墓なりと云ふ、墓面に、寶永、裏面に庄野喜八郎夫妻の文字を刻せり、子孫これを建立せしものならん、亦一説に裏山の東麓に在りと、何れが是なるか探求中。

仁木道鎭の墓

字夷山(通称北地)夷山城址の山麓、圓福寺の庭庭に在り。 仁木家の系岡に依れば仁木日向守の子孫にして七兵衛と称せり、該系岡は家寶共に箸蔵寺に預けありしが同寺火災のため焼失し、現時の系図は新に作成せものなりと、(仁木清氏談)夷山傍示に仁木姓を名乗る家多くありて仁木道鎭を仁木一統の鎮守と称せり。

一宮源成助の墓(一宮城主)

夷山城址の南麓一丁餘の字橋本の園中に在り、大正十年十二月十六日子孫河原國藏氏新なる墓道を建立して碑文を刻せり。 (碑文)此五輪塔ハ一宮城主長門守源成祐ノ墓也、其先阿波國主小原長經ヨリ出テ、世世名東郡一宮城主タリ足利氏ノ末世長會我部元親土佐ヨリ阿波=侵入シ各所ノ城寨ラ陥ル、中就事ヲ構ヘテ一宮長門守ヲ八万夷山城=招キ之ヲ欺殺センハ阿波歴史中有名ナル事變=テ天正十年十月十六日ノ事ナリ、遺跡相謀リテ墓ヲ此地=建ツ、亦後星霜三百餘年風雨蝕シ草苫封シ文字讀ミ難キモノアリ後齋大阪西四區南堀江上通五丁目河原國藏氏深ク之ヲ慨シ圓願寺現住福島智高師=談シ墓城修補ヲ企劃シ今茲十二月竣工且金一千圓ヲ圓願寺=付シ永世無編廻向ノ資ト爲ス大正十辛酉年十二月 名東郡八万村長 鎌子四郎撰

吉田金四郎の墓(傀儡敦頭)

字沖濱、無縁寺墓地に在り、金四郎は何なる人なるや詳かならざるも或は曰く大阪にて有名なる『デクマワシ』なりと、弘和四年三月中旬建の刻せる風流なる衡立形の碑石なり。

鉄崖和尚の墓(僧侶)

竹林院の境内に在り、鉄崖は浅井備前守長政の三男に生れ幼名を守貞と称す。長政織田信長と戦ひて克たず落城に際り守貞、乳母の懐に抱かれて難を逃る、壯年に至り、叔母に當る(蜂須賀氏國老稲田九郎兵衛の妻)景岩院をたよりて阿波に來る、藩主蜂須賀公、守貞の技量を見込み三千石を給しして招へんとせしもこれに應ぜず、富田の瑞龍寺に入りて僧となり名を鐵崖と號し高僧を以て世に知らる。元祿十六年九月九日七十六才を以つて竹林院に於いて入寂す。(詳細は人物篇鐵崖和尚に參照)

渡邊七右衛門の墓(武人)

字北濱、蓮敬寺に在り、蜂須賀家政の家臣にして其の寵を一身に集む、天正十三年家政阿波入國に際し其乳母(勝秀の妻)船中に病死したれば之を蓮敬寺に葬る。(渡邊の松参照)後年勝秀病を得て妻のあとを追いたれば家政深く之を憐みて妻の墳墓たる蓮敬寺に葬れり。

苔ヶ島の墓(力士)

字沖濱、無縁寺墓地に在り、徳島富田の人にして本名井上浦右衛門、安永五年頃東京幕内の關取にして、當時の大關ヶ関に連勝し其の名を海内に響かせり、今に彼を讃えし童話に『阿波で一番名を挙げたるは五百羅漢に苔ヶ島』と唱へり。寛政二年二月十八日歿す。

蟠龍の墓(力士)

字沖濱、無縁寺墓地に在り、通稱岩田剛右衛門、名は秀勝、當時の角界に名を挙げし力士にして寛政八年七月十二日歿す。

東岳の墓(僧侶)

字中津浦、雲水庵に在り、(傳記參照)蜂須賀家政の義兄に當る、福泉寺の僧となり高僧を以て知らる、寛永十一年十二月四日歿年八十才。

園瀬川の墓(力士)

字沖濱、無縁寺墓地に在り、本名は長助、當時の角界に其の名を挙げし力士にして文化二年十二月十五日歿す。

勢見山の墓(力士)

字沖濱、無縁寺墓地に在り、通稱は山口兵右衛門、名は規親、東京幕内力士となりて其名を揚ぐ、文化六年八月十八日歿す。

諭鶴羽の墓(力士)

字沖濱、無縁寺墓地に在り、通稱は市川峰右衛門、東京幕内力士となりて人氣を揚ぐ、文化十四年七月十六日歿す。

二十七齋宗真の墓(茶人)

字沖濱、實相寺に在り、通稱は長谷屋三九兵衛と呼び茶人を以て有名なり、文政六年十月廿七日歿年七十八。

西宣行の墓(書家)

字北濱、蓮敬寺に在り、名は燮、宇は子恒、江島屋と稱し書家を以て有名なり。徳島市新町の人にして文政九年九月廿九日歿年六十三

横野鏡山の墓(儒家)

字中津浦、竹林寺に在り、名は允文、字は子興、通稱多門次と呼び板野郡高島村に生る、儒家を以て名高く、染野栗山に学び、儒員に擧げらる、天保元年十一月九日歿年七十一。

竹内十郎兵衛の墓(實業家)

字沖濱、潮見寺に在り彦根の人にして父を勘兵衛と云ふ、石灰製造の創業者なり文政二年三月二十日歿年五十六。

新居春洋の墓(文藝家)

字沖濱、潮見寺に在りは謨、字は子影米之丞と稱す、徳島市富田の人、幼にして學を好み文墨に長ず、天保九年六月廿八日歿年十七。

有持伯民の墓(醫師)

字福万谷、有持家の墓地に在り、伯民は徳島市東船場町に居を構へ内外科の醫術をなすも特に外科を得意とし其の名を揚げたり。現時其の名を知る人稀なり、當時の人、伯民の醫術を長崎流と唱ふ。

梅津真洲の墓(畫家)

字沖濱、實相寺に在り、通稱茂太夫と呼び書家を以て世に知らす、市富田の人にして安政三年八月十一日歿年六十三。

渡邊英齋の墓(生花師匠)

字沖濱、實相寺に在り、温和堂一潤と號し遠洲流生花を以て世に知らる、元治元年二月六日歿す、年七十四才。

上田吉之亟の墓(馬術師範)

字沖濱、實相寺に在り大坪流馬術を以て藩の師範役となり古態と號す。文久三年二月二日歿す、年六十二才。

瀧山霞崖の墓(畫家)

字北濱、蓮敬寺に在り、本名寛寛輔と稱す、世々藩士にして畫家を以て知らる、明治八年五十才を以つて歿す。

柴 秋村の墓(儒家)

字沖濱、實相寺に在り、名は萃、字は綠野、通稱六郎と稱し儒家を以て名高し初め斯居水竹に學び後ち廣瀬旭莊に從ふ、文久年間儒員となり、明治四年三月十八日四十二才にて歿す。

橋本本晚翠撰「墓表」

松本觀翁の墓(儒家)

字中津浦、竹林寺門前より一丁余の掲本米蔵氏南側の山麓に在り、名は真宣徳太郎紅雲樓と號し致仕して觀翁と稱す、増田衛亭に學び藩の素讀方となり儒家を以て名高し、門人に農商務大臣たりし松岡康毅氏等知名の士あり、明治甘五年八月廿二日歿年七十五。

豊平鶴翁の墓(義太夫)

字沖濱、紫庵跡基地に在り市古物町の人にして義太夫、三味線を以て世に知られ、其の妙技は遠近に響く、明治廿八年九月一日歿年五十七。

名所舊蹟篇 第三章

廢神社・廢寺院

原題 : 第三章 廃神社、廃寺院一覧

合祀・廢絶した社寺と、法華寺跡の傳承。

移転合祀廃社一覧表

(主な抜粋)

  • 短蛭子神社(市原、藤本氏西側):明治44年9月25日 八幡神社へ合併
  • 元蛭子神社(市原、國福寺南隣):明治5年 徳島市通町ノ事代主神社へ本社ヲ移セリ
  • 八百屋蛭子(沖濱):明治44年9月25日 八幡神社へ合併
  • 愛宕神社(沖濱):明治44年9月25日 八幡神社へ合併
  • 東若宮神社(夷山、騎馬興一氏畑):明治44年9月25日 八幡神社へ合併
  • 西若宮神社(夷山、仁木慶次郎氏畑):明治44年9月25日 八幡神社へ合併
  • 伊勢神社(夷山、籤内氏西畑):明治44年9月25日 八幡神社へ合併
  • 杉尾神社(下大野):明治44年9月25日 八幡神社へ合併
  • 龍王祠(中津浦):大正九年 八幡神社と並びて其の西側に鎮座せしが明治四十四年八幡神社に合祀されたり
  • 金比羅神社(八幡神社ノ西側):大正九年 八幡神社へ合併

寺、庵名一覧表

(主な抜粋)

  • 法華寺(法花谷):日蓮宗、弘安の頃、大同年間
  • 金剛光寺(寺山):真言宗、弘安の頃、天正年間
  • 阿弥陀寺(法花谷):真言宗、天正年間
  • 龍王祠(中津浦):元大野名にあり、洪水のため流されて現在の地に漂着し祀られた

宵蛭子市(正月にぎわい)

正月九日 宵蛭子市 十日 名東郡下八万村寶寶山圓福寺の蛭子市は市中よりの参詣者も多く賑へり、露店の賣物はえびす金とて小判、二分金、一分、二朱、一朱金などに模したるを始め最も奇観なるは陽物の形したる不倒翁の如く作り大なるは五、六寸、小は豆の如きものと磁製にて大きさ一尺許りの是亦陽物にて形取りたるを火吹代用のものを響ける露店にて其の呼聲も『吉兆金〇』と呼ぶなど誠に奇なり、明治に入りて禁令出で後ち絶ええたり、其他は磁製布袋、竹の枝につれる福俵、飴、風等なり。

法華寺跡の伝承

法花谷に在りが長會我部元親の侵入に際り兵火にかゝれり、此の附近には今に焼土焼瓦を発掘する事あり、池地の跡を池田と呼べり(海部郡鞆岡法華寺の修紀中)日蓮上人の像を安す、傳て日蓮正年間長會我部元親の一矩に付せられ今は諸堂及び門跡を存するに過ぎず、開くならく七堂伽藍建て其姿壮麗は當時の勝浦郡丈六寺に結抗せり、と、今に寺跡の田名に『塔の下』『風呂の下』『仁玉田』等の名残りて其の壮麗なりしを偲ぶに足りり。 嘉永七年寅三月、椎野庄左衛門(現村長祖父會父に當る)該寺の梵鐘が現今、山城國愛岩郡峰定寺に蔵され左の銘を刻せり。 『阿波國以西郡八万方金剛光寺鐘』『願主三郎阿闍梨實秀』『永仁四年歳次丙十月五日』『大工内藏範類』

義林庵

見立にありもし天正年間より慶長の間に置領主なる赤松三郎則房(從五位下上總介)に奉仕し當時有名なる和学者たりし局の尼(仁木右京之進の妻)晩年退隠此の庵を結び居りたりと傳ふ後ち修験者の居りしが明治年間に至り廢廃れなり。

焼香庵

字沖濱、實相寺の東に在り、徳島市及び近郷に於ける有名な墓地區内にして俗に無縁寺と稱す、明治初年まで此地内に於て火葬を営みし事あり現時人近く箇所の土葬、嚴禁以來葬者の敷も増し毎年盂蘭盆會及び彼岸會には墓参者の群集を以て有名なり今りは境内幾万の寺石累々たり。

新蔵院

字沖濱、雙ツ山の間に在りしが今は民有の畑地なり、往時京都なる眞言宗醍醐寺末なりしと、永祿の頃験者者宥辨なるもの細川三好氏の間、板野郡板野村大麻神社に奉仕せしが故あり篠原自遯に従ひ泉州に帰る、家政命じて紺屋町(市内)に地を賜ひ居りたるも用水不良の故を以て訴へを乞ひて勝浦郡瀧野村に堂宇を建て新蔵院と稱し居住しが遠隔の地にして公用不便なるにより更に願ひて瀧野村の地は隠居所(正明寺と改む)と今の地に正徳三癸巳年移轉したり。明治七年修験の名、廢せらると共に廢院となり一族又埀野に移れり後ち明治八、九年の頃某の僧なる者あり来て此地に堂宇を建立し傍らに温泉を設けありしも数年ならずして廢滅せり。新蔵院を瀧野村より移せし當時の古文書を見るに、 澁野村新蔵院へ申渡覚書(浦浦郡二山嶽重氏所蔵) 一 新蔵院義達様御入國之節が為御意御祈願寺に被仰付長川越前殿御仕置之節紺屋町裏にて屋敷被下候得共共悪水付之所故自力に肯請難仕室上候所重而相應之地有之候は、相願候へと被仰付澁野村住居之可仕旨申上諸役御赦免被遊居申候然其遠方に而御上之御祈禱御用並公用用難相勧迷惑仕候依之名東郡南濱浦之内石井理と申所に下々下畠所持仕候処所へ引越並近在所とも相鍛候何何之障無之付属之通申付候間勝手次第普請可被仕候 正徳三巳年七月二十五日 西 彌次郎

長學院

字沖濱、香留山の麓に在り眞言宗京都醍醐寺の末流にして天正年間、修験僧實順の創建にして明治七年廢院となる。

千光院

宇沖濱西山の麓に在り、眞言宗古義流醍醐寺の末流にして天正十三年、修験僧實順の開基に係る實順は元形兵部と称し三好長治の臣なり天正五年故ありて京都醍醐寺に上り剃髪して修験者となり居りし事ありしが再び阿波に歸り徳島町に院地を構ふふ院は寛文中西船場へ移り又た紙屋町に轉じ明治五年前記の地に移りしが同七年修験廢止と共に廢院となれり。

正福寺

一名を紫庵と云ひ宇沖濱の西方、西山の東麓に在り眞言宗西本願寺の末流にして天文六丁酉年僧體本なるもの之を開基し明治年間に至り廢寺となれり。

釈伽庵

字橋本、夷山池に臨みたたる箇所にあり開基年月不詳、釋迦の像を安す、元興源寺の屬たりし も後ち圓福寺に隷し今は無堂無住となりて佛像は圓福寺内にあり。

惠光庵

字犬山に在り、享保年間僧法憧の中興、明治九年僧龍真の復興せしもの本尊隨求菩薩は日本三体の一と称し有名なりしが今は廢せり。

晚松庵

字大野、朝日山の北麓に在り、臨済宗慈光寺の末流にして元祿十六年二月十三日蜂須賀國家老稲田九郎兵衛の菩提の為め伽藍を建立し法名を以て萬松庵と称し、僧榮厳の開基する所なりしも今は廢せり。

三好松落

(阿波先哲小傳抄) 阿波名東郡下八万村萬松庵の僧なり材學富膽にして戯作を好めり、一日飄然として出奔し市街に隠れ淨瑠璃本を著述し名を松落と改む、これ萬松庵を堕落するを以て名づけしなり是れ世に謂ふ三好松落なり。 帝國人名字典に松落は竹田出雲の門人にして大坂の人なり難波竹本座の狂言者となり常に出雲に助筆其戯作に妹背山女庭訓ありと阿波人を大坂人と過ること稀ならざるが如し然れども『落』を異にする考ふへきなり。

亀甲庵

淨智寺(徳島市寺町)の末庵なり、字沖濱の西方。實相寺の傍羅浄土の寺境内に在り元八百屋町(徳島市)より移せしが後ち又徳島市寺島に移り今に地名に亀甲の称あり。

慈性庵

字市原、慈眠庵の南にありしが、明治年間福島某之を再興せしも今は廢せり。

地蔵庵

字犬山なる犬山(一名祇園山)の東南麓の共葬、墓地の側にありしが明治十五、六年の頃廢庵となせり。

牧牛庵

字中津浦に在り、文政十二年丑年三月、僧惠操の創立に掛け境内三百九十坪を有し禅宗慈光末にして四國八十八ヶ所の霊場を移し、新四国と称せり明治初年廢され畑となれり。

傳説篇

傳説

原題 : 伝 説

一宮成助の怨靈、天狗騒動、怪火。

一宮成助の怨霊

天正10年(1582年)、長宗我部元親は2万騎を率いて阿波へ攻め来り、秋風の木葉を磨かす如く瞬間に諸城を陥れて守護仁となり夷山城に陣取りて攻め殘る一宮城を圍んだが城塞堅固で容易に陥らなかった。其處で一策を案じ元親は和議に事寄せて一宮源成助を夷山城内に呼び寄せて欺討ちにした(名所舊蹟、一宮成助と夷山城参照)。其の後夷山城から一宮城跡の街道を成助の亡靈が首無し馬に乗つて馬蹄の音高らかに毎夜の如く走つた、此の怨靈に黒人は恐れ慄き亡靈を鎮めるため毎年盂蘭盆の精霊棚に別の火を上げて、『一宮様』と拝み、成助の霊を慰めた、此の風習は明治末年迄行はれたと。

一本松の怪火

園瀬大橋より西に遡ること九十余りの園瀬堤に枝を四方に張つた一本の大松がある、此の下に何時頃建てられたか石地蔵が安置されて居る、里人は此の松を『前場の一本松』と呼んで居る。 園瀬堤を遊びて終りには寺山の金剛光寺跡の建石まで一気に飛び去り、パッと消えると云ふ。

聖天の天狗

法花谷の天神山々に明治三年頃まで聖天が祀られて居たが、天狗に龍辨と云ふ僧が堂守をして居たが、トント参詣人が無く其の日の生活に窮する有様であった。其處で彼は客寄を引く工夫に頭を捻った。 或深夜、天神山の聖天堂邊りに『ビューく』と、凄まじい怪音が起り出した。里人は此の不思議な音響に好奇の瞳を見張つたが其の原因を知る者はなかった。不思議な怪音は、それから毎夜起き、平和な里人の心を極度に慄やかしけた。 或日、天狗に化けた津根三(仮名)が、夜舟に乗つた天狗さん鼻をかがれて何と聖天と云ふ狂歌が作られ、子供に到るまで之を口吟むと聞くと天狗に化けた津根三(仮名)は『天狗津根根』の綽名を付けられ、今に其の綽名は屋號の如く呼ばれて居る。

黒岩の天狗

聖天堂の天狗騒動に前後して黒岩神社に天狗出現が噂された。此の事件に現れた勇士は、聖天堂の天狗を押手えた伊達の森と共に角界に其の名を知られた沖島の力士荒岩でした。荒岩が単身黒岩神社に登り、容易に怪物に出会い生捕らんとしたが怪物もさるものや、もしすれば其の身が危ぶまれた。彼は強敵と見て、得意とする腹樽(角力の投げ手)を以て怪物を取り押へんとしたが、それも駄目だった、當時界異に荒岩の腹樽には向ふ敵なく、自他共許した得意中の得意とする腹樽の武器も此の怪物には一向効かなかった。深夜の黒岩神社境内で、荒岩は怪物と争ふ事、小半刻に亘つたが、其の勝負は何時果てるとも知れなかった。彼は怪物と格闘中、ふと人間だと気付いた、其處で彼の頭に浮かんだのは、此の俺の腹樽に掛らぬ奴は普通人ではない、角力取りとすれば二本竹より外に無い事がサット頭に閃いた。 『俺の腹樽に掛らぬ貴様は二本竹だな?!』 『サウ言ふお前は荒岩か?』 折柄、雲間よりニッコリ顔を見せた月明りに二人は顔を見合わせた。と、同時に二人の曝笑が夜の扇谷に木霊した。

がせん前堂の怪火

名東郡八万村には昔から「がぜんどう」と云ふ怪火があつて月の四、九日の夜にはフワリ〜と中空を飛ぶと云はれてる。其大きさは酒樽位のもので、それを見て氣絶した者が澤山あつた。

洗いはれた地蔵

夷山の祈禱師佐兵衛は二軒屋町の或舊家に招待されて患者の祈禱を済まして後ち、出された御饌と御馳走に満足して其家を出たのは午前一時頃でした。 久し振りに鱈腹飲んだ酒は四五丁足を運ぶとスッカリ酔が廻って来て足が自由にならなかった、ともすれば轉び勝ち

風俗篇

風俗習慣

伊勢講・大師講・心經講など、村の講の數々。

風俗習慣

組織及經營の團体は其の詳説を略する。

馬場方面

「伊勢講」 嘉永初年名中上流階級の有志によつて組織せられ最初家具の都合により十名内外の講中を造つた、毎年正、五、九月講員各戸廻り持にて會を開き酒肴等を饗し又春秋に表、米各一升碗を持つて補識で伊勢參宮をして居た、次いで神職を招いてお祓香を行ふ様になつた、其後約百年継続して今日に至つて居る。現今は経営會一人三十錢宛積立て毎年正月柑織して一人金十二円與へられ參宮する事になつて居る、講會の饗態は其の當業者が白米一升宛講中から集め酒肴を出し是等各種の内情も華美な様である。 次の記録は最初から當講中に保存せられて居る面白い当時の風俗を表して居る。

伊勢講

嘉永七寅年五月組替名面

  • 椎野庄左衛門
  • 椎野卯右衛門
  • 佐藤甚五郎
  • 富士住仲
  • せと川勘右衛門
  • 川田市太
  • 新シ五右衛門
  • 鍋島倉吉
  • 宮本源右衛門
  • 潮見川文次郎
  • 和田直兵衛

右講連業申請先規之通講中案內安全千子講長久戸用金申請候故夏八一斗秋八一斗一升宛指出可申候其年=附屋當り之方へ相渡可申候右相場之上の方へ各割付イタン受取可管 一、各講當り之面々へ切分論有米伊勢參宮可仕後日趣=り居參宮仕候者勿論膳米之た爲初回穩荷為而引除面々御師へ指上御渡申受中之相程可申事大有右代及御初榎へ講米渡之節右銀札松方右衛門殿へ相預可替相定申候事 一、其余參宮居參宮等取關之渡へ先年々相定置候通申談候事 慶應四年辰正月十一日改メ 一、伊勢講相企寄合之儀先例之通正五九月落合可仕事 一、各講取之儀へ正月高座にて隨取可致事 一、振舞之儀へ膳ニテ吸物相付御酒指出事大九講米渡之儀ハ先例之通正月二十五日迄相福元膳銀之儀ハ拾八匁宛指答可事 一、寄高之内拾式及面々へ御師へ指上ゲ御講講中之相配候事 一、米寄之儀へ同様舞現用之事 右之通一統相談之上竪相定候事 新募入 宮本鎌吉 宮之谷茂右衛門 馬場伊勢吉 宮本屋友吉 中野彌五衛門 馬場源次 又明治十一年の定めには 一、會合之酒唯飲食のみ致し候へ共共救神之既無之に依り自分亦土清光殿を頼み配詞を奏し講中一同禮拜すべき事 一、中野彌五衛門殿を酬金預人と定め利足は一ヶ月八朱と定む事 一、今までの酔風を排し神帳を綺麗く事にして居る、又明治十三年二月の講令にて 一、參人は社申安全の爲金箱四錢より少からず金貳拾八錢より多からざる同導師を奉納し清舞真は清膳其時の趣に應じ執行すべき事 (註 同導師とは食膳の事である) 「御祈禱」 起源不明、古くは講員十數名にて講を組織し每年正五丸、毎月十五日夕講員互に當家となり御膳を居てお祓をなし食を共にし世事を語る習慣にして每回來一升を持寄つて其の費用として居た、大正六七年頃此の制度を改め部落全家族加入し毎回八幡神社に集まり御祈禱をなし神酒及護符を戴きて年中の安全を祈る習慣と今日に及んで居る。 「大師講」 起源不詳なれ共古くより行はれ講員十二名内にして講員互に講會を開き十三佛の經を唱へ先祖の業福を祈り古くは赤飯一盛を饍鑑する習慣であったが今日は茶菓子を供し讀經の後は並用語に一夕を有義に送る習慣で又會の都度の積立金により毎年講員互に十七ヶ所巡禮をなす習士である。 「心経講」 起源不詳なれ共約百年の歴史ありと傳へられ名中に二組ある講員各十四五名を邀へ講管には般若心經五十巻を唱へ精神修業に資す近年積立金により講檀寺に互主參拝する制度となつて居る。

長 谷

「御祈禱」 毎年正、五、九、各月の適當の日を選び巡遊者に各自の宅に多集師官を招きて祈念す、是には白米一升に各自の宅に多集師官を招きて祈念す、是には白米一升を持持ちより本膳につて饗應す。 「心経講」 西組、東組二組あり、東組は三十年前前著薦に改め、改め、最底金万比羅講として積立金により(毎月十六日)每年二名宛金比羅宮に参拝す。 「心経講」 心経講の何方あつたが近時は一所につて居る 「大師講」 毎年春著戒城寺に抽籤にて参拝して居る。

柿 谷

「心経講」 大師講によく似た形式で行はれて居る。 「高野講」 掛金によつて高野山に参拝する。 「大師講」 毎月舊暦二十日講員參集兼若心經五十巻及十三佛經を奉唱し後で茶菓を供し茶菓子を供し讀經の後へ並用語に一夕を有意義に送る習士で又會の都度の積立金により毎年講員互に十七ヶ所巡禮をなす習士である。

福万谷

「心経講」 毎月三回五日ノ日講會を催して居る。 「心経講」 一月二名宛抽籤して鍜金を以て十七ヶ所へ代参す。 「大師講」 一組、二組あり、各十月位一組、正、九月各月講會をなし前帳をおなじをお祓をなして講員には本膳を出して直をなし前職を招きお祓をなして講員には本膳を出して直をなし、春二回晩年を催し茶菓子を供しとせり。起原等不詳。

中津浦

「御日待」 毎年舊暦正月、五月、九月の各二十三日夜講員各家に参集し種々の饗態をなし盡事其他其他の四方山の世間語寄家に参集し種々の饗態をなし盡事其他其他の四方山の世間語寄家に参集し種々の饗態をなし盡事其他其他の四方山の世間語り合ふ祈禱を行つて居る。現時八幡神社奉願館と兼ねて行つて居る。 「黒住教大歳」 黒住教信仰者によつて明治十六年頃講を組織し時を定めてを癒し又教所を推し又教所を推し八幡神社奉願館と兼ねて行つて居る。

  • 市原見立:「大師講」
  • 法花:高野講、金剛講、念仏を唱へ金仏を唱へ一面積立金によつて十七ヶ所或は高野山に參拝して居る。
  • 法花谷:「大師講」

下大野:「大師講」、毎月二十一日夜講員参集し念仏を唱へ茶葉を供し世間話等に談笑す。一面二錢宛毎講會に積立て講員の家族死亡等の額育療として贈る事にして居る。

「金刀比羅講」:講會常催さず、毎月掛金をなし抽籤にて交互に讃岐金刀比羅宮に参拝する。

山城屋:「御大師講」西中北の二組あり毎年春秋彼岸二回に一月に大人人の場合十圓子供後の場合五圓の香案として賜り又より九十錢殘積立て講員中に不幸ある時は此積立金中より

「報恩講」:北濱蓮敬寺檀家により南北両濱の十二戸を以て組織す。開祖親鸞上人の報恩の講で年一回春季講会を開き遊行寺住職等を招し説教を開く。

「鏡開き」:毎年正月、鏡餅を講中に分配す、現行は教導厳会を開く。

第六章 村民娛樂及風俗雅語

本村に存在した古き村民娛樂仕雛、人形芝居、風雅が重な内を重ねたものである。