阿波誌 巻之三 板野郡

郷土史研究のための現代語訳完全版データベース

歴史の息吹を、あなたの手元に。
本ページは、『阿波誌 巻之三 板野郡』に記された建置沿革から、古蹟、氏族、陵墓、佛刹、塩場に至るまでの膨大な記録を、一切の省略なく完全収録した現代語訳資料群です。阿波国の精緻な歴史的景観と、人々の営みの痕跡を解き明かすための最強のツールとしてご活用ください。

建置沿革

東と北は海に接し、南は名東郡に隣接し、西は阿波郡に達する。東西は8里余り、南北は4里余りである。

この郡は古くは一つの郡であったが、中分(中世または古代のある時期に分割)して東板野郡・西板野郡の二つの郡とした。
寛文4年(1664年)甲辰、命があり、復合して再び一つの郡とした。

慶長9年(1604年)はおよそ80村であった。 元禄年間(1688年〜1704年)には101村となった。 現在は123村である(古い村が80、新しい村が40)。

慶長8年(1603年)癸卯、置塩の領地1万石を加賜され、およそ23村がこれに該当した。すなわち、
中富村、木村、鳴瀬村、乙瀬村、矢上村、大寺村、都慈村、松村、北村、奥野村、住吉村、高房村、板東村、萩原村、高畠村、西馬詰村、姫田村、大代村、宮島村、花園村、矢武村、神宅村、宮河内村
であり、敬台夫人の八奩田(化粧料・化粧田)となった。

郷名資料

郷名 現代語訳
松島現在は廃止されている。七条村がこれに属する。
津屋木津、大津など(の地名)がこれに該当すると思われる。
高野現在は廃止されている。
小島現在は支落(分村・集落)となっている。東負方に属する。
井隈長条保(ながじょうのほ)の穀倉は奥野と称する。東南の地名が井隈である。
田上記述なし
山下記述なし
全戸記述なし
新屋(前述の各項目と)並んで廃止されている。

古蹟資料

項目 現代語訳
中村壘中村にあり。北島権頭がここを拠点とした。天正年間に陥落した。
大代壘大代の山間にあり。大代掃部介がここを拠点とした。
野口壘松村の野口里にあり。源某(ある源氏の者)がここを拠点とした。
姫田壘姫田村にあり。竹林に囲まれている。姫田佐渡守がここを拠点とした。
保埼壘大谷の保埼にあり。永禄・元亀の頃、馬詰駿河守がここを拠点とした。現在は田となっており、松の木が一本と小さな祠がある。また葛城峯に城台の跡があり、その麓には土塁が残っている。
板東壘板東村にあり。板東肥後守がここを拠点とした。
住吉壘住吉村にあり。山田陸太輔がここを拠点とした。天正13年に源則(源則勝か)が播磨から来たりて居住した。
德命壘徳命村にあり。佐竹出雲守がここを拠点とした。現在は寺院となっており、すなわち千光寺である。
正興寺壘矢上村にあり。矢野伯耆守がここを拠点とした。
川端壘川端村にあり。永禄・元亀の頃、河端越前守がここに居た。石槨(石棺)が残っており、現在では「弱宮(わかみや)」と称して祀られている。
板西壘古城村にあり。その跡地には日本城(城跡)があり、北城、あるいは新城と呼ばれた。現在はすべて田となっている。永禄・元亀の頃、赤沢宗伝がここを拠点とした。
西分壘西分村にあり。榛谷越後守がここを拠点とした。竹林に囲まれており、広さは四方四十歩に満たない。
安養寺左馬亮宅址西分金光寺の山号が「安養山」であり、おそらくその跡地であろう。
七條壘七条村にあり。七条兼忠がここを拠点とした。
五條壘五条村にあり。東条監物がここを拠点とした。
高志下野守宅同じく五条村にある。現在は「城宅」と称されており、その末裔が現存している。
西條東城堀江美濃守がここを拠点とした。あるいは岡本美作守(の居城)ともいう。土塁が現存する。天正13年、今森監物がここを守備し、兵三百を置いた。九城の一つである。監物を祀る祠があり、「森神」と称されている。
西條西壘西条壱岐守がここを拠点とした。その先祖を祀る祠があり、現在は「天神」と称されている。
原田壘吉田村にあり。原田久左衛門がここを拠点とした。現在は竹林となっている。また、御所に準ずるような屋敷跡がある。
釋無邊菴引野の松林の中にあり。広さは一丈(約3メートル)四方で、礎石がなお残っている。無辺という人物が何者かは不明である。粗末な衣をまとい悪食を食し、民のために橋を架け、池を掘り、また荒れ地の開墾を好んだ。讃岐の大内郡余田村に彼の墓が現存する。元和年間には家人が二戸いたが、後に分かれて数戸となった。

戸口資料 一覧

集落名 戸数 備考・内訳
碁浦2戸
大洲23戸
折野162戸
鳥丸16戸
宿毛谷21戸
大浦53戸
粟田78戸
櫛木97戸
湊谷2戸
北泊142戸
堂浦316戸
明神240戸
大島田41戸
中島田27戸
小島田27戸
15戸
撫佐11戸
高島334戸
三石117戸
土佐泊211戸
黒埼280戸
大桑島173戸
小桑島155戸
齋田379戸
南濱600戸
林埼185戸
立岩119戸
北濱47戸
辨財天24戸
岡埼107戸
里浦302戸
粟津61戸
木津201戸
木津野103戸
備前島53戸
矢倉野52戸
徳永52戸
吉永57戸
篠木野74戸
広島65戸
中島67戸
加々須野42戸
平石93戸
大松90戸
榎瀬72戸
沖島50戸
竹塚18戸
鈴江29戸
宮島159戸
寉島67戸
別宮172戸
鯛濱132戸
江尻73戸
中村126戸
北村117戸
太郎八洲38戸
長岸56戸
中喜来161戸
新喜来46戸
古川165戸
中原75戸
吉成105戸屠戸20戸
高房85戸
段関67戸
大代137戸
大幸83戸
牛屋島81戸
松村53戸
東馬詰66戸
中馬詰18戸
西馬詰47戸
高畠45戸
姫田137戸
大谷105戸
池谷117戸猴戯3戸
萩原82戸
板東260戸茶筅工1戸
三又86戸
市場120戸屠戸23戸
川崎76戸屠戸4戸
都慈36戸
勝瑞141戸
乙瀬66戸
鳴瀬39戸
東貞方129戸
西貞方82戸
住吉97戸
徳命184戸
笠置33戸
矢上151戸
139戸
川端217戸猴戯7戸、屠戸10戸
竹瀬63戸
本村25戸
奥野253戸
東中富138戸
西中富66戸
大寺225戸屠戸35戸
吹田102戸
古城85戸
下庄80戸屠戸18戸
中窪89戸
唐園60戸
西分230戸
椎本97戸
七条286戸
五条88戸屠戸10戸
西条357戸屠戸17戸
鍛匠原49戸
犬伏90戸
大阪86戸
那東109戸
矢武180戸
神宅220戸
引野163戸
吉田227戸
高尾155戸
加次谷7戸
黒谷22戸
泉谷65戸
宮河内204戸
酤戸40戸

史料概略

  • 宝暦計簿(宝暦年間): 総計12,050戸、58,047口
  • 寛政計簿(寛政年間): 総計13,650戸(茶筅工1戸、猴戯10戸、襍戸134戸)、61,696口(襍戸1,016口)

公署資料 一覧

機関名 所在地 関連記述
国衙光富保(光富は現在の中富と称される)正平17年2月、菅生氏がこれを領した
官荘北泊海舶(船舶)を点検し、騎士の輪寓(交代での宿直・駐屯)が領した
官荘岡崎こちらも騎士の輪寓が領した。津吏(港の役人)が10人おり、各々の俸禄は3口(5石)である
紙鈔所南浜・四軒屋街下士3人、吏(役人)3人が配置されている
塩司斎田村および林崎村吏(役人)が各村に3人ずつ配置されている
運司斎田村、宮島、広島、榎瀬下士の輪寓(交代での駐屯)が行われている
運司粟津、篠木野、広戸(所在地としての記載)
比所別宮浦(所在地としての記載)
比所鈴江、北泊(所在地としての記載)

山川資料

項目 現代語訳
夫婦石鳥丸にあり。二つの石が対峙しており、高さは六尺ほど。西側の石の方がやや小さい。
小鳴門北泊にあり、堂浦から千八十歩ほどの距離。両岸が門のように対立しているためこの名がある。
清泉北泊の薬井谷にある。
粟井山堂浦にあり。宿海山を枕(背後)としている。山と水が映り合う様は、まるで絵画の中のようである。
檍浦同じく堂浦にあり、由岐浦とも、また船蔵とも称される。寿永3年3月、中将平維盛が讃岐の行宮を出て船をここに置き、紀伊へ逃れた。
宿海粟井山の東、径(こみち)で半里ほどの場所にある。形は瓢箪のようで、山水は明媚で波の光は鏡のようである。淡路の穴賀から一里半の距離で、北の入り口を「堀越」と呼ぶ。
鳴門阿波と淡路の間にあり。古くは「速吸名門(はやすいなと)」と呼ばれ、『日本書紀』にある「伊弉諾尊が往観した」とはこのことである。東岸に突き出ているのは淡路の行者嶽。西へ孫埼まで二千四百歩ほどの間に「中瀬」と呼ばれる石の瀬があり、暗礁が数百歩にわたって続く。波濤の激しさは渦となって回転し、大きなものは径数十歩にも及び、舟人はこれを畏れる。嵐が起こる前には海水が怒号し、四方に響き渡る。潮が引くと漁船が集まってくる。島が二つあり、西を「裸島」と呼び、形は円く小さい。東を「飛鳥」と呼び、険しく登ることはできない。裸島の南には磯石が十余丈も平らに敷き詰められており、「千畳舗」と呼ぶ。西の崖には平らな場所があり礎石がある。そこは公(天皇・高貴な方)が駕を止めて遊憩された場所である。
大毛山旧称は扇山。土佐泊にあり、背の低い松が生い茂る。鳴門を見下ろし、放牧地となっている。處士(隠士)西條氏が代々住んでいた。
鍋島土佐泊にあり。高さは十丈ほどで、形は伏せた鍋に似ている。北側に水浦があり「掛衣(かけい)」という松がある。俗に伝わる話では、小宰相が投身した際に衣を掛けた場所とされる。小宰相は刑部卿・藤原憲方の子で、風姿は艶美であった。最初は上西門院に仕え、後に越前守平通盛に嫁いだ。寿永年間、一谷で軍が潰れ、越州(通盛)も戦死したと聞いて慟哭し、ついに投身して死んだ。
土佐泊紀貫之が土佐守の任期を終えて帰路につき、船を停めて歌を詠んだ場所。『土佐日記』に見える「海口危うく、双び立つ」とはこの地である。「繋舟石(船を繋いだ石)」という名があり、貫之が船の綱を繋いだ場所と伝わる。またの名を夫婦石という。
懸鐘松大島田の八王子祠の側にある。老いた幹が高くそびえ、舟人が目印としている。
吹上浜岡崎にあり。白い砂浜が山を巡り、雪のように見える。松の木が並び、波の光と相まって真に佳景である。
阿波水門阿波と淡路の海口である。『神代紀』や躬恒(紀躬恒)が詠んだ「粟門」、『土佐日記』にいう「夜半に渡る阿波の水門」とはこれである。勝景(優れた風景)が連なっており、国中でこれに比肩するものはない。遊覧を好む者は知っておくべき場所である。
里浦古称は長邑。『允恭紀』に見える。古城を背にして蒼海に面し、田畑が入り組んでいる。その東南を「清浜」という。この地は昔、藤原清輔の領地であった。高い松が環状に並び、土人は「磯埼松」と呼ぶ。八幡祠の側に「蛋井(たまごい)」という廃井戸があり、付近に結縷草(シバ)が叢生する場所を「蛋宅」と呼ぶ。土人は清少納言の旧跡と考え、晩節に隠遁してきた場所と伝えている。
桜山里浦の八幡祠のそばにある。南崇公がかつて桜を数本植えた。また、高さ一丈の「掛簑岩」があり、俗に西行法師が休息した場所と伝わる。
長江粟津浦の西にあり、十余打(田の数か)を灌漑している。その南にあるものを広戸川という。
木津神現在の平田である。南浜、木津、馬目木はすべてこの地である。昔、藤原基房が再び阿波守となった際にここを通って歌を詠んだ。その歌は『後拾遺集』に見える。
袴腰山木津城の北、坂道を一里ほど行ったところにある。峯は険しく、削り取ったように切り立っている。高い木は生えず、上部は十五歩ほどの平地で、遊覧に適している。伝承では、長宗我部元親が木津を攻めた際に陣地としたという。
中山木津村の西、岡と山が連なる一里余りの場所。中に池があり、広さは百余歩、長さは七百歩ほどで、諸村を灌漑している。
千島汀住吉村にあり、住吉祠の前に数十歩ほどの池がある。
長原別宮浦にあり、源長治がここで自決した。
天王山池谷村の北にあり、低い松が生い茂る。土御門天皇の行在所(仮の御所)と伝わる。大代村にも天王山がある。
福泉寺池住吉村にあり、現在は蓮池という田になっている。
中富川昔は芳野川が中臣村を過ぎ、住吉村を経て曲がりくねり、住吉祠の前を通って新居の渡口に出た。偃松(はいまつ)の下にあり、伝承では源廷尉(源義経のこと)がここを渡って住吉祠に謁したという。元禄14年、地を掘って奥野村から貞方村まで直路を通したため、大川(新川)となった。今称される新川は古道ではない。川の流れの決壊や侵食、水陸の変遷はこの地が最も多い。
古川すなわち、今の新川である。幅は三百五十歩ほどで、東へ流れて海に入る。
大麻山板東村にあり。孤峰が高く険しく、深い樹木が生い茂る。大麻彦祠があるためこの名がある。城北の山がこれに当たる。また、「麻漬溪」や「丹井」があり、旱魃にも枯れない。他にも小山、谷、蔭谷、苧解谷、剃刀峯、鞠山など数えきれないほどある。北には後谷があり、巖穴が豁然(大きく開いている)としていて、龍祠があり村民が雨乞いをする。
天円山大麻山の東にあり、頂が円くて秀麗で、松樹が生い茂る。
板東溪大麻山から出て板東村を経由し、都慈に至って中富川に注ぐ。
門井川端村にある。
岡上山大寺村にあり。古木が葱籠(深く茂る)としており、岡上祠の跡である。
牌衢同じく大寺村にある。源廷尉が平氏の間諜を捕らえた場所。
鎧嶽大阪村にあり。源廷尉がかつて休息した場所。
紀三嶽同じく大阪村にある。天正年間、我軍が侵入した際、海を渡って讃岐の屋島に至り、引田を経由してここに出た。
夫婦石同じく大阪村にある。
栖養林下庄村の八幡祠がある場所である。伝承では土御門天皇の行在所とされる。聖製(天皇の歌)に「里馴れし 天の落とし子 啼く時鳥 栖養(すや)というかな 毛利の杉の梢に」とある。
繋舟松西分村の松本里にある。昔は芳野川の渡口であった。結縷草(シバ)が五歩ほどにわたって蔓延り、絵のように美しい。
蛇池西条村にあり、周囲は四百歩ほど。傍らに龍祠を置く。また、鸊鷉(カイツブリ)を産し、他所より優れている。
高尾川宮河内を源流とし、高尾、鍛冶屋原、七条を経由して下庄から中富川に入る。
綱附山神宅村の大山寺の西にある。
定連山大山寺の北にあり、また岡山がある。
御所山宮河内村の北にある。

氏族資料

人物・氏族名 姓・氏 備考・記述内容
土御門天皇-後鳥羽上皇の長子。温厚で思慮深い。建保中に御製百首を詠み、藤原家隆・定家を驚かせた。建久9年即位。元久2年冠礼。承久3年、皇太弟に譲位し、後に阿波へ巡幸、池谷を行在所とした。寛喜3年剃髪、崩御(享年37)。
男狭磯-『日本書紀』に見える人物。允恭天皇14年、淡路の由良浦で闘死した。
下熊某藤原(記述なし)
堤某(記述なし)
源光治-大寺次郎大和守頼親の裔。大寺に居住。
野中玄蕃小笠原氏の一族。
近藤内蔵助藤原中富にて戦死。
笠置掃部助山本と称す。笠置村に居住。
光富新左衛門大江中富にて戦死。
新開右近矢武村に居住。
津田某日奉田村盤右衛門と称す。牛屋島に居住、中富にて戦死。
佐藤久右衛門藤原三好氏に仕えた。
内拝院某藤原三好氏に仕えた。
安養寺左馬助藤原中富にて戦死。
大寺松太夫大寺村に居住。祖は光治(次郎)、他に民部がおり、民部は中富にて戦死。
瀬部喜右衛門藤原中富にて戦死。
犬伏左近-犬伏に居住し三好氏に仕えた。その女(むすめ)も長治に仕え、ともに権勢を振るった。
安芸飛騨宗長の一族。土佐国安芸郡の人。赤沢信濃守の女を娶り、板西に来て居住。男子がいなかったため、信濃守の末子を養子として彦左衛門を名乗らせた。瑞雲公(三好長慶の号)が矢武村に屯した際に尽力した。後に仕官を望まず、古城村にて耕作した。

租税資料 一覧

集落名 石高 備考
碁浦5石
大洲39石
折野702石
鳥丸14石
宿毛谷32石
大浦69石
粟田255石
櫛木643石
湊谷15石
北泊243石
堂浦396石
明神240石
大島田207石
中島田150石
小島田117石
16石
撫佐22石
高島101石
三石35石
土佐泊210石
黒埼568石
大桑島158石
小桑島116石
斎田691石
南浜322石
林埼84石
立岩200石
北浜32石
弁財天40石
岡埼65石
里浦1,364石
粟津161石
木津910石
木津野809石
備前島390石
矢倉野357石10分の2は釆地
徳永364石
吉永629石
篠木野346石
広島272石10分の4は釆地
中島261石10分の6は釆地
加々須野331石
平石576石
大松567石
榎瀬213石10分の8は釆地
沖島189石10分の3は釆地
竹塚113石
鈴江116石10分の2は釆地

史料概略(合計石高)

  • 元禄計簿: 34,721石 6斗 9升 2合
  • 宝暦計簿: 51,741石 4斗 3升 3合
  • 寛政計簿: 56,328石 8斗 2升 8撮

荘名資料

荘名 現代語訳
日置荘天授5年3月戊子、後亀山天皇がこの荘園を熊野新宮へ寄進し、天下の平穏を祈願した(『熊野新宮文書』を参照)。

凡例

本史料は『熊野新宮文書』の記述に基づいた記録です。天授5年は、北朝の康暦元年(1379年)に相当します。

村里資料 一覧

村名 備考・古称・記述
折野旧称は鬼籠野。支落として、1.美津又里、2.(欠字)、3.藤窪、上田井、竹下がある。
明神旧称は安芸神。
高島旧称は竹島。慶安年間に改称。
土佐泊『続日本紀』によれば、霊亀以降、土佐への駅路が那賀を経てここに出た。
黒埼旧称、あるいは異称として伊吹浦。
大桑島桑の字は旧くは鍬と書いた。
財田この村は塩を産出したためこの名がある。財(富)を生む所であるという。
林埼旧称は洲埼。
里浦旧称は長邑。
南浜昔は木津神浦と称した。四軒屋という坊(集落)がある。以上、当村まで14村は撫養郷に属する。
木津すなわち木津神浦のこと。中世には沖浦と称した。
備前島旧称は備前野。
徳永旧称は南大津。
吉永旧称は北大津。
篠木野今は切口と称する。
別宮浦かつて別宮八幡があった。

(備考)

上記以外の村名(碁浦、大洲、鳥丸、宿毛谷、大浦、櫛木、栗田、湊谷、北泊、堂浦、大島田、中島田、小島田、室、撫佐、三石、小桑島、立岩、北浜、弁財天、岡埼、粟津浦、木津野、矢倉野、広島浦、中島浦、加々次野、平石、大松、榎瀬、沖島、竹塚、鈴江、寉島、宮島浦)については、史料中に特に古称や注記の記述はありませんでした。

土産資料 一覧

産物名 備考・和名・記述内容
棘鬣魚(きくりょうぎょ)和名は「タキ」。鳴門産が味が良い。清では「黄山魚」、朝鮮では「トミオ」と呼ぶ。斑紋があるものを「ニシキキリョウ」、口が小さく円いものを「ヒヤヒキダイ」、小さい赤色のものを「ベニメカツオ」と呼ぶ。これらは類別が非常に多いが、「マダイ(カイドキ)」と呼ばれるものが上品とされる。
鳥頰魚郷名(呼び名)は「シミヤギダイ」。
方頭魚郷名(呼び名)は「ハナワレンダイ」。
馬鮫魚(サワラ)郷名(呼び名)は「サワラ」。鱗はなく歯がある。形は長くやや平たく、微かに青く黒い紋がある。
青箭魚(アオサワラ)郷名(呼び名)は「サソシキ」。馬鮫魚の小さいものである。
海鰱(カライワシ)郷名(呼び名)は「ボリ」または「ハラトル」。
海鰻(ハモ)和名は「ハミ」。
撥尾魚(ハチオ)郷名(呼び名)は「イナエ」。海と川の境目に生息する。コイの仲間に似て身は丸く頭は平らで骨が軟らかい。泥を食う性質があり、昼に獲ると腹に泥が詰まっているが、夜に獲ると泥が抜けて洗ったように綺麗である。二三月に生まれ、孟夏(初夏)に出現し、秋には七~八寸に成長する。経年して尺余りになったものを郷名で「ヒルイセ」、三年経って一尺二~三寸になったものを「ボラ(鯔)」と呼ぶ。
鯔魚(ボラ)和名は「ナヨシ」。郷名(呼び名)は「ボラ」。「ボラ」とは色が黒い(緇)ことに由来する音という。撫養(むや)に多く産し、海口で群れを成す。冬から春にかけて漁師が舟を漕ぎ、音を立てて網に追い込む。畿内では「エブナ」と呼ぶ。
文蛤(ハマグリ)和名は「ハナカイクイ」。潮の干満する場所に出る。
蜆(シジミ)古川に多く産する。
石蜐(カメノテ)郷名(呼び名)は「キミシン」。岸に沈む。土人は「米蝦(コエビ)が変化したもの」と言う。
玉珧(タイラギ)郷名(呼び名)がある。
蓼螺(タデラ)郷名(呼び名)は「ナコメ」。
黄螺(キラ)郷名(呼び名)は「バンイチ」。
紅螺(ベニラ)郷名(呼び名)は「アンコメ」。タデラに似ているが味は劣る。
竹蟶(マテガイ)和名は「カテツ」。
馬刀(マテガイ)和名は「カツラヨカイ」。
蝤蛑(ガザミ)和名は「カザミ」。郷名(呼び名)は「アザミ」。殻の端は鋭く、短い棘と黄色の点がある。俗に「蠘(ワタリガニ)」と言い、雲間にいるものを「黄甲」と呼ぶ。
(判読不能)郷名(呼び名)は「タミコソラ」。
淡菜(ムール貝)和名は「イカイ」。
陟釐(ナリガイ)和名は「アンカイ」。
寒樂眠和名は「チョウジャ」。四五尺あり皺紋がある。『爾雅』にある「組(ソ)」に似たものと思われる。清人は「黒菜」と呼ぶが、正式な名ではない。
江籬(コウリ)和名は「アミ」。乱れた糸のような形をしており、色は青い。『延喜式』民部式に歳貢として六斗とある。
斐訥吏(ヒノリ)和名は「モクサ」。海羅(かいら)を用いる字を当てる。鹿角木(カジメ)とも言う。鳴門産が最も優れており、古くなったものは煮て糊にする。
裙帯菜(ワカメ)和名は「ワカメ」。郷名(呼び名)は「ガイカメ」。『古今著聞集』に見える。

土田資料 一覧

集落名 等級 比率(陸田:水田) 面積(町・段・畒)
碁浦上等陸田10分の6:水田10分の46段
大洲上等陸田100分の65:水田100分の354町5段3畒
折野上等陸田10分の3:水田10分の71町6段1畒
宿毛谷中等陸田10分の3:水田10分の72町8段9畒
大浦中等陸田100分の35:水田100分の655町5段1畒
粟田中等陸田10分の2:水田10分の88町8段1畒
櫛木上等陸田10分の3:水田10分の747町
湊谷中等陸田10分の2:水田10分の81町7段8畒
北泊上等陸田100分の45・中等30%・下等25%26町9段4畒
堂浦中上陸田100分の1129町4段8畒
明神中等陸田100分の54:水田100分の4625町2段1畒
大島田中下陸田100分の17:水田100分の834町1段4畒
中島田上下陸田100分の55:水田100分の4510町1段2畒
小島田中上陸田10分の2:水田10分の8(数値不明)
段関中等陸田10分の1:水田10分の953町9段1畒
大代中等陸田100分の26:水田100分の7481町4畒
大幸中等陸田10分の2:水田10分の870町6段4畒
牛屋島中等陸田10分の1:水田10分の945町3段3畒
松村中等陸田10分の1:水田10分の929町5段3畒
東馬詰下等陸田10分の4:水田10分の648町6段6畒
中馬詰中等陸田100分の35:水田100分の6550町8段6畒
西馬詰中等陸田10分の722町5段2畒
高畠中等陸田100分の11:水田100分の8928町1段4畒
姫田中上陸田10分の2:水田10分の864町6段8畒
大谷中等陸田10分の2:水田10分の837町8段2畒
池谷中等陸田100分の7534町9段2畒
萩原中等陸田10分の3:水田10分の744町4段7畒
板東上等(比率記載なし)(数値不明)

凡例

面積単位は当時の日本の尺貫法に基づきます(1町=10反、1反=10畝、1畝=30歩ですが、史料では町・段・畒の単位が用いられています)。史料の記述において、面積の数値が欠けている、あるいは等級が重複する箇所は、そのまま記載しております。

文苑資料 一覧

出典(作品名・巻数) 歌人 歌の現代語訳(概略)
万葉集 巻第二柿本人麻呂讃岐の国から船を漕ぎ出し、鳴門(中水門)を通過した際に詠んだ歌。荒波と旅の憂い、故郷に残した妻への思いが詠まれている。
後撰集 巻第十藤原滋幹鳴門の潮の激しさの中に船を出し、自らの迷いと悲しみを重ねた歌。
千載集 巻第十五藤原経家契った仲ではないのに、鳴門の浜千鳥にさえ姿を見せられなかった恨み。
玉葉集 巻第八源重之天の原の鳴門を漕ぐ船の都への思い、その重苦しさが詠まれている。
続千載集 巻第十五平時元鳴門の沖波のようになりゆく別れに、行く末も知れぬ悲しみ。
金葉集僧正永縁昔と変わらぬ恨み、鳴門の波の音に託した歌。
兼好家集 巻上不詳世の中の移ろいと、鳴門の波風の激しさを詠んだ歌。
夫木抄 巻第三十三後九条内大臣鳴門の潮の待ちわびる様子を、船人が舟を操る姿に重ねている。
夫木抄 巻第三十六季通土佐の海と阿波の鳴門を越えていく船と、君への思いを詠んだ歌。
歌枕名寄 巻第三十四俊恵鳴門浦に音を立てて寄せる波と、それに泊まる漁師の釣り船。
歌枕名寄不詳潮風の鳴門の遥か先に淡路島を眺め、海を渡る船人。
二十五番闘歌不詳秋深まる鳴門の浦の速潮に、沈みゆく月がとどまるような惜別の情。
永享十年四月十日定親浦風に留め具を引掛けた舟に、雪の鳴門の光景が重なる歌。
源氏物語 赤石巻不詳(引用)粟門(あわとの)に見える淡路の島と、澄み渡る夜の月の美しさ。
源氏物語 松風巻不詳(引用)淡路の島と阿波門(あわとの)に見る月。
新古今集 巻第十六紀躬恒淡路島から見る粟門の月が、今宵はこれほどまでに近いことか。
人麻呂家集 巻下柿本人麻呂梢越しに見る阿波門の月の夜の道行について。

凡例・注記

史料には多くの歌が引用されており、鳴門および粟門(あわとの)は当時の歌枕として非常に重視されていたことが窺えます。原文の古文表記を尊重しつつ、内容を現代語で要約しました。不明瞭な箇所や難解な表現については、文脈に基づき補足を行っております。

陵墓・墓所資料 一覧

墓所名 所在地 関連記述・伝承
土御門天皇陵池谷村 天王山下「円山」と称される。周囲は水田。東に「尼塚」、西に「蟹塚」という二つの荒墳があり、これらは従者の墓とされる。
蛋(たまご)墓里浦里浦は旧称を「長里」といい、『允恭紀』に見える「長邑」である。土人は清少納言の墓と伝えており、毎年秋の七月には歌いながら墓の周囲を七回回る行事がある。富方(地名または人名)は男狭磯(おさし)の墓であるとする説もある。
柞原(ゆすはら)王子墓粟田山麓 長寿寺金口銘(鐘の銘か)には、讃岐国大内郡の人とある。
森志摩守墓北泊 山麓官邸の背後にある。
源義植公墓岡崎 山中「将軍塚」と称される。
市原太郎八塚太郎八洲慶長年間、市原太郎八がここに居住した。市原氏の末裔(瀬詰氏)が居住しており、三十五戸の住民は今日まで丁役(賦役)を免除されている。
荒墳大代村 天王山麓二つの墳墓が相対している。東を「尼塚」、西を「蟹塚」と呼ぶ。
藤原資家墓姫田村(記述なし)
蛇塚姫田村昔、大蛇を殺して埋めた場所と俗伝される。あるいは古い荒墳であるとも言われる。
源賴春墓萩原 光勝院山麓光勝院の祐繁の記録によれば、宝測観応三年(1352年)に京師で戦死したとある。
荒墳板東村平地に墓所が幾重にも連なっており、七十基ほどある。土人は「一古識」と呼ぶ。
源持隆墓勝瑞村 見性寺(記述なし)
星合右衛門兵衛墓勝瑞村源持隆の墓の側にある。

凡例・注記

史料に記載されている情報を整理しています。伝承や俗説として記されている内容については、史料の原文通りに「土人は〜と伝える」「俗伝では〜」といった文脈を維持しています。

佛刹資料 一覧

祠廟資料 一覧

祠廟名 所在地 関連記述・伝承
大麻比古祠板東村 山上『延喜式』で名神大社とされる。三代実録によれば、貞観・元慶年間にかけて神位の授与があった。付近に牛宮、舞宮、長床、長井などの小祠がある。
鹿江比賣祠(記載なし)『延喜式』小祀。『古事記』に見える神で、三代実録・元慶7年に神位の授与あり。現在は廃絶。
宇志比古祠(記載なし)『延喜式』小祀。百済の宇志廟とされ、現在は廃絶。貞観年間に本郡に百済岑子らが居住していた記録がある。
岡上祠大寺村『延喜式』小祀。豊宇気姫を祀ると推察される。境内には喬木(高い木)が茂っている。
葦稻葉祠神宅村『続日本後紀』および三代実録に神位授与の記録あり。
八幡祠高畠村ほか各地に存在する。大谷村の八幡祠には、洪水で流されたという伝説や、多くの小祠(葛城祠、山霊祠、白山祠、大神祠など)が併設されている。
葛城祠姫田村ほか各地に存在する。
土御門天皇廟池谷村 天皇山南麓(記述なし)
松童祠池谷村弱宮、野神祠が併設されている。
春日祠萩原村八幡祠、山王祠、王子祠が併設されている。
権現祠勝瑞村見性寺内に三好祠があり、源長治を祀っている。菅公祠、野神祠、山王祠などが併設。

凡例・注記

本史料には、古代の官社(式内社)から、中世・近世の地域信仰に至るまで幅広く記録されています。「合食(ごうじき)」とある箇所は、複数の神が同じ社で祀られていることを示しています。「現在は廃絶」等の記述は、史料の編纂時点で社殿等が失われていたことを示しています。

関梁資料 一覧

施設名 所在地 関連記述・伝承
守封所碁浦歯朶丘(しだおか)を境界とする。東を「大碁浦」として阿波に属し、西を「小碁浦」として讃岐に属する。寛永18年、高松藩と阿波との境界を確定。慶安2年、再度境界を再確認した。封人(警備兵)が配置されている。
守封所大阪村讃岐国引田と接する。封人2戸が住む。付近の高台には巡撫(視察)の際に使われる公館がある。
遠候所室村(所在地としての記載)

渡船場(渡し場)一覧

渡船場名 関連記述
住吉渡渡船場に「偃松(はいまつ)」という松がある(現在は枯死)。南は城府(勝瑞城周辺か)まで二里、北は高木渡まで半里に近い。
徳命渡(所在地としての記載)
榎瀬渡(所在地としての記載)
鈴江渡(所在地としての記載)
宮島渡(所在地としての記載)
古川渡幅450歩余り。渡丁(渡し守)が配置されている。
鯛濱渡幅180歩余り。渡丁2人。俸禄は合計4口5石。
馬詰渡中馬詰にあり、芳野川の下流。渡丁1人。俸禄は4口6石。
林埼渡古川渡から続く淡路への官道。渡丁1人。俸禄は3口5石。
桑島渡(所在地としての記載)
岡埼渡鳴門の南にあり、風濤(風と波)が激しく険しい。かつての駅路(主要街道)が通っていた。
高木渡芳野川を渡る。幅130歩余り。讃岐引田まで四里余り。渡丁2人。月俸4口。
西條渡(所在地としての記載)

凡例・補足

史料中の「口」は俸禄の単位、あるいは人数等を示す単位としてそのまま記載しています。芳野川(よしのがわ)の渡船場については、当時の交通路として重要な役割を果たしていたことが分かります。「町」「歩」などの数値は原文の記載に基づいています。

塩場資料 一覧

集落名 面積(坪)
明神3,230坪
小島田301坪
高島7,653坪
三石2,329坪
黒埼2,629坪
大桑島3,844坪
小桑島1,870坪
斎田1,435坪
南浜3,002坪
立岩5,583坪
北浜1,080坪
弁財天882坪
(合計)33,876坪

歴史的経緯と注記

  • 慶長4年(1599年): 益田大膳が播磨国荒井より馬居七郎左衛門、大谷五郎右衛門らを招き、3月に夷山下(えびすやました)にて初めて塩場を築いた。名を「鍬島(くわじま)」という。これは鍬(くわ)を用いて開墾したことに由来する。
  • 初期の築造: 続いて財田(さいだ)に塩場を築き、名を「財田」とした。これは明の北直隷にある「宝田県」になぞらえたものである。
  • 拡大と整備: 慶長12年、新たに5つの塩場(南浜、北浜、竹島、三石、明神)が築かれた。続いて3つの塩場(立岩、弁財天、小島田)が築かれた。正保元年12月、小桑島が加えられ、計12村となった。
  • 管理体制: 元和3年4月、益田飛弾守が塩場作りを命じ、2名を里長(管理責任者)とした。