阿波志 巻之十二 海部

海部郡 郷土史料アーカイブ

建置沿革

儒員(藩のお抱え儒学者) 臣・藤原憲 輯(あつ)む
海部郡(かいふぐん)
東南は海に臨み、西南は土佐(高知県)に至り、西北は那賀郡(なかぐん)に至り、北は美馬郡(みまぐん)に至る。縦横(の広さ)は二十余里である。
建置沿革(設置や統合などの歴史的沿革)
海部(かいふ)は、かつては「郷」であり那賀郡に属していた。(これは)『和名抄(わみょうしょう)』に見える。後に分かれて「郡」となった。慶長九年にはおよそ二十四(の村)があり、元禄年中には二十六、後に五十八となった。

郷名

和射(わさ)
(和名抄にみえる郷名)今は廃れているが、日和射浦(ひわさうら)が残っている。
海部(かいふ)
(和名抄にみえる郷名)『和名抄』に記載されている那賀郡の郷は、すべてで八つある。今は(海部郡に属する)二つの郷を記録し、残りの(六つの郷)は那賀郡に係っている。

古蹟

阿部塁(あべのるい)
阿部浦(あべうら)にある。平政吉(たいらのまさよし)がこれに拠った。
由岐塁(ゆきのるい)
由岐西浦(ゆきにしうら)にある。小高い丘にまたがり、南の海に臨む。高さは一仞(じん)ほどである。永禄・元亀(げんき)の間に平有興(たいらのありおき)がこれに拠った。
木岐塁(ききのるい)
木岐の明神山(みょうじんやま)にある。永禄・元亀の間に源正持(みなもとのまさもち)がこれに拠った。今は官林(国有林)となっている。
赤松塁(あかマツのるい)
赤松村(あかまつむら)にある。影野(かげの)にあり、城台(じょうだい)と称される。
浜塁(はまのるい)
日和射浦(ひわさうら)の浜にある。浜隠岐守(はまおきのかみ)がこれに拠った。また邸宅が矢上村(やがみむら)にあり、湯沐(とうもく)の地(※生活を支える領地や湯治の場所)となっていた。
日和射塁(ひわさのるい)
奥河内村(おくかわうちむら)にある。小高い丘にまたがり、南の海を背にする。高さは三仞(じん)ほどである。永禄年中に源友高(みなもとのともたか)がここに居た。上には権現の祠があり、思うに友高を祀るものである。
牟岐塁(むぎのるい)
牟岐中村(むぎなかむら)にある。藤原行久(ふじわらのゆきひさ)がこれに拠った。また甕城(おうじょう ※防衛用の半円形の小郭)があり、南の海に臨む。天正三年(1575年)に秦元親(長宗我部元親)がこれを攻め落とし、その一族である(香宗我部)親泰(ちかやす)にこれを守らせた。
浅川塁(あさかわのるい)
浅川浦(あさかわうら)にある。永禄・元亀の間に藤原有辰(ふじわらのありとき)がこれに拠った。
海部城(かいふじょう)
あるいは鞆城(ともじょう)と称する。藤原友光(ふじわらのともみつ)がこれに拠った。鞆浦(ともうら)の山の下にある。おそらくは天正五年(1577年)の秋に秦元親(長宗我部元親)が甲浦(かんのうら)・野根(のね)の二つの塁、および宍食塁(ししくいるい)を攻め落とし、遂にここへやってきて攻め落とした。田中長政(たなかながまさ)に守らせて十三年(※天正13年/1585年)、我が大兵(※豊臣方・蜂須賀氏らの大軍)が入るや、長政はその勢いを見て逃げ去った。瑞雲公(蜂須賀家政)は中村重友(なかむらしげとも)にこれを守らせ、次いで池田氏、益田豊後(ますだぶんご)にこれに代わらせて置いた。兵三百人を配置した。(阿波)九城の一つである。今は営(※役所や陣屋)がある。
新城(しんじょう)
地名は島である。鞆浦(ともうら)の北にある。河の水が環流し、東は蒼海(青い海)に臨み、西は奥浦(おくうら)に隣接する。竹や樹木が生い茂っている。
宍食浦塁(ししくいうらのるい)
宍食浦にある。藤原元信(ふじわらのもとのぶ)がこれに拠った。天正五年(1577年)に秦元親(長宗我部元親)がこれを攻め落とし、野中国吉(のなかくによし)にこれを守らせた。
祇園山塁(ぎおんやまのるい)
窪村(くぼむら)にある。藤原持共(ふじわらのもちとも)がこれに拠った。
吉田塁(よしだのるい)
吉田村(よしだむら)にある。吉田庸俊(よしだつねとし)がこれに拠った。東は宍食川(ししくいがわ)に臨み、西は諸山(山々)に隣接する。高さは十丈(じょう)余り、頂上は四方八歩(ほ)で平らであり、南の海に臨む。春日・八幡・金剛の三つの祠がある。天正十年(1582年)に秦元親(長宗我部元親)が北村閑斎(きたむらかんさい)にこれを守らせた。
吉野塁(よしののるい)
吉野村(よしのむら)にある。藤原持共の別塁(別の砦)である。広さは九百歩ほどで、三面には竹林がある。その東の山を萩岡(はぎおか)といい、思うに斥候台(ものみの台)を置いた場所である。祠があり、藤原明神(ふじわらみょうじん)と称する。四方に壕(ほり)があり、一辺は三十歩、広さは二歩半である。また廃井(廃れた井戸)が二つある。
木頭塁(きとうのるい)
木頭上山村(きとうかみやまむら)にある。細川大隅(ほそかわおおすみ)がこれに拠った。今は村長の宅地となっている。

村里

漁(りょう)
渓(川)が浅く流れが速く、損害(水害など)が多い。

阿部(あべ)

志和岐(しわき)

東由岐(ひがしゆき)
旧称は雪(ゆき)。南は龍王林(りゅうおうりん)に至り、北は懐山(ふところやま)に至る。
西由岐(にしゆき)
海がある。
木岐(きき)
浦がある。

田井(たい)

赤松(あかまつ)

日和射(ひわさ)

奥河内(おくかわうち)
北河内(きたがわうち)
西河内(にしがわうち)
山河内(やまがわうち)

橘(たちばな)

辺川(へがわ)

河内(かわうち)
東西に流れる川があり、西河(にしがわ)、東河(ひがしがわ)と呼び、合流して海に入る。

川長(かわなが)

灘(なだ)

牟岐(むぎ)

内妻(うちづま)

浅川(あさかわ)
浦がある。

大里(おおさと)

四方原(よもはら)
寛永十三年、命令により開墾し、除地(免税地)とした。村内の里が二つあり、一つを余口(よぐち)、一つを杉谷(すぎたに)という。

多良(たら)

奥浦(おくうら)
元和年中に志方某(しかたなにがし)が開墾した。
鞆浦(ともうら)
坊(ぼう/僧房)があり、役を免除されている。
宍食(ししくい)
あるいはいう、旧称は脚咋(あかくい)。支落(属村)が一つあり、那佐(なさ)といい、除地(免税地)とした。

窪(くぼ)

日比原(ひびはら)

尾埼(おさき)

芥附(あくつけ)

広園(ひろぞの)

小谷(おだに)

角阪(つのさか)

塩深(しおふか)

舩津(ふなつ)

久尾(ひさお)

高園(たかぞの)
旧称は高埆(たかかど)。貞享年間に改称した。

野江(のえ)

芝(しば)

中山(なかやま)

櫛川(くしかわ)

冨田(とみだ)
支落が一つあり、吉田(よしだ)という。

吉野(よしの)

熟田(にえた)

大井(おおい)

相川(あいかわ)

細野(ほその)
今は廃止された弱松(わかまつ)。明和年中に改称した。

神野(かんの)

小川(おがわ)
支落が一つあり、峡背(かいはい)という。

平井(ひらい)

木頭上山(きとうかみやま)
支落が七つある。一つを海河(かいこ)、一つを助村(すけむら)、一つを盌田(わんだ)、一つを南宇(みなみう)、一つを西宇(にしう)、一つを折宇(おりう)、一つを北川(きたがわ)という。
平谷(ひらたに)
支落が五つある。一つを大殿(おおどの)、一つを尉谷(じょうだに)、一つを苻殿(ふどの)、一つを鳴瀨(なるせ)、一つを白石(しろいし)という。
古屋(ふるや)
支落が一つあり、大戸(おおと)という。

戸口

二千二百九十六戸

五千四百七戸、二万三千九百八十八口(人)、雑戸(特定の職能を持つ世帯)四百六戸(寛政年間の記録)
漁・阿部(あべ)
百四十五戸、四百七十四口。蛋戸(たんこ/船上生活者)四人は、寛政元年に役(税や労役)を免除された。
志和岐(しわぎ)
六十九戸、三百六口
東由岐(ひがしゆき)
百十七戸、五百五十三口
西由岐浦(にしゆきうら)
百八十七戸、七百五十九口。支落(しらく/属村)の油宇(ゆう)は七戸、二十口。
西由岐(にしゆき)
三十三戸、百五十六口
木岐浦(ききうら)
百四十九戸、六百三十一口
木岐(きき)
四十五戸、百え六十八口
田井(たい)
三十八戸、百五十七口
赤松(あかまつ)
百七十三戸、六百八十七口
日和佐(ひわさ)
二百十六戸、八百九十口。支落(属村)の夷浜(えびすはま)は六十一戸、二百八十五口。
奥河内(おくかわうち)
百五十七戸、五百四十三口
北河内(きたがわうち)
百二十五戸、五百十二口
西河内(にしがわうち)
八十六戸、三百四十九口
山河内(やまがわうち)
六十五戸、三百十二口
橘(たちばな)
二十八戸、百九口
辺川(へがわ)
三十校四戸、百五十九口
河内(かわうち)
八十戸、三百二十九口
川長(かわなが)
四十戸、百え六十一口
灘(なだ)
五十二戸、百九十口
牟岐(むぎ)
三百五十三戸、千五百五十口
中村(なかむら)
百三十三戸、五百三十九口。雑戸は十六戸、五十一口。支落(属村)の大島(おおしま)は八戸、二十三口。
内妻(うちづま)
二十四戸、百六十六口
浅川(あさかわ)
二百一戸、八百五十九口
大里(おおさと)
百九戸、三百九十四口。雑戸は十戸、四十四口。
四方原(よもはら)
八十八戸、三百三十九口
多良(たら)
二十三戸、九十八口
奥浦(おくうら)
百四十二戸、六百五口
鞆浦(ともうら)
二百九十一戸、千九十九口
宍食(ししくい)
二百六十八戸、七百五十口。支落(属村)の奈佐(なさ)は二十戸、六十四口。
窪(くぼ)
四十四戸、百八十二口
日比原(ひびはら)
四十四戸、百六十二口
尾崎(おざき)
二十戸、七十口
芥附(あくつけ)
二十二戸、八十三口
広岡(ひろおか)
十九戸、六十六口
小谷(おだに)
三十戸、百十三口
角阪(つのさか)
八戸、二十口
塩深(しおふか)
十五戸、五十五口
船津(ふなつ)
二十八戸、九十口
久尾(ひさお)
二十五戸、六十五口
高園(たかぞの)
四十戸、百三十三口
野江(のえ)
四十五戸、百六十四口
芝(しば)
三十戸、八十四口
中山(なかやま)
二十八戸、百三十三口
櫛川(くしかわ)
三十九戸、百六十二口
富田(とみだ)
支落(属村)の吉田(よしだ)と合わせて二十二戸、九十八口
吉野(よしの)
三十七戸、百(ひゃく)七十五口
熟田(にえた)
二十戸、五十四口
大井(おおい)
四十戸、百九十口
相川(あいかわ)
七十七戸、二百二十六口
細野(ほその)
十八戸、八十二口
神野(かんの)
二十九戸、百三十四口
小川(おがわ)
四十八戸、二百二十五口
平井(ひらい)
二十九戸、百三十五口
木頭(きとう)
五百八十戸、千三百九十九口
平谷(ひらたに)
三百二十三戸、千六百五口
古屋(ふるや)
百三戸、四百五十口

山川

金龍瀑(きんりゅうのたき)
阿部浦(あべうら)の東にある。南の海を見下ろす位置にあり、その上には一辺が三丈(じょう)、深さが五仞(じん)ほどの石の淵(水たまり)がある。そこから流れ出て渓流(川)となるものを「擂盆溪(すりばちけい)」と呼んでおり、これがすなわちこの滝の源流である。東の山麓には「鳶捕(とびとり)」と呼ばれる松があり、幹の太さは(大人が両手を広げて抱えた長さの)三囲(まわり)ほどで、根がすべて露出している。子供たちがその下に隠れ伏して、鳥を誘い込んでこれを捕らえる。元禄年中に、滝の傍らに石仏を安置した。
鹿首島(かしくびじま)
阿部浦の南にある。遠見番所(候館)がある。その東の少し高い場所を、現地の人は「簑手山(みのてやま)」と呼んでいる。
雩島(うしま)
志和岐(しわぎ)の南にある。樹木の緑が深く茂っている。
雪池(ゆきいけ)
東由岐村と西由岐村の間にある。康安元年(1361年)に大地震が起きて津波(海湧)が発生し、村全体がことごとく流されて尽くした。六月十六日の地震から十月に至るまで、地が裂けて池となった。長さは二百二十歩(ほ)、幅は百歩である。『太平記』に見える。正徳年中に(この地を)四分を西村、六分を東村とした。風や激しい波が起きるたびに、村民はここに船を避難させて置く。
箟島(のしま)
西由岐の東で海に入ること三百歩のところにある。傍らに「眠島(ねむりじま)」がある。
天狗嶽(てんぐだけ)
由岐の東北にある。
木岐川(ききがわ)
源流は大藤(おおふじ)から出て、南へ流れて木岐浦(ききうら)に至って海に入る。
天狗谷(てんぐだに)
赤松村(あかまつむら)にあり、お立ち入り禁止の山(禁山)となっている。長さは二里(り)半にわたる。
鎌嶽(かまたけ)
天狗谷に属し、これもまた禁山である。長さは二千四百歩にわたる。
南叉(みなみまた)
これもまた天狗谷に属し、禁山である。杉、柏(ヒノキ科の木)、樅(モミ)が多い。
鈴谷(すずがたに)
これもまた赤松村にあり、禁山である。長さは百八十歩にわたる。
高筧(たかけい)
これもまた赤松村にあり、禁山である。
流屋(ながれや)
これもまた赤松村にあり、禁山である。長さは四百二十歩にわたる。
赤松川(あかまつがわ)
源流は那賀郡(なかぐん)の杉山谷(すぎやまがに)から出て、東南へ流れて赤松山に至る。天狗溪(てんぐけい)が東から(ここに)合流し、東へ流れて赤松村に至る。寺野溪(てらのけい)が東から合流し、さらに北へ流れて那賀郡雄村(おむら)に至る。南凥溪(みなみしりけい)もまた東から合流し、川口里(かわぐちのさと)に至って長河(那賀川)に入る。川幅は狭く、船や筏(いかだ)を通すことはできない。
観音瀑(かんのんのたき)
赤松村の阿字谷(あじだに)にある。傍らに小さな堂があり、観音像が安置されている。
広瀬川(ひろせがわ)
すなわち日和射川(ひわさがわ)のことである。山河内(やまがわうち)から出て、西河内(にしがわうち)を経て奥河内(おくかわうち)に至る。北河内溪(きたがわうちけい)が北から合流し、南へ流れて日和射浦(ひわさうら)に至って海に入る。また山に「後山(うしろやま)」と呼ぶものがあり、その頂上には「碁盤(ごばん)」と呼ばれる石がある。広さは一歩四方で、断紋(切れ込みの筋)が碁盤の目のようである。「試剣石(しけんせき)」の類(※刀で切り割ったという伝説のある石)である。
玉厨子山(たまづしやま)
山河内にある。西の方へ医王山(いおうざん)を隔てること三千六百歩である。形は円く、松の樹がすっきりと美しく生えており、見るに値する。石の洞窟(洞中)には釈迦像が安置されており、怪しい岩(奇岩)が連なっている。また「大悲閣(だいひかく)」があったが、寛永十六年(1639年)の秋に火災に遭った。南崇公(※藩主・蜂須賀光隆)が僧・鉄崖(てつがい)に命じてこれを重ねて造らせ(再建させ)、(僧らの)安居(あんご/修行)の場所とした。
八郎山(はちろうざん)
これもまた山河内にあり、高く険しい。材木が叢生(群生)しており、禁山となっている。また、松戸(まつど)、請谷(うけだに)、大越(おおごえ)、大漬(おおづけ)の諸山と隣接している。
畔淵(あぜのふち)
橘村(たちばなむら)の道路の側にある。
鬼城(おにがじょう)
橘村にある。坂道を九百歩進んだところに、高さ十五丈(じょう)ほど、長さ六十歩の石の崖がある。俗伝では、昔ここに「仏々(ぶつぶつ)」という者が住んでいたという。
水落瀑(みずおちのたき)
灘村(なだむら)にあり、高さは一丈余りである。頭風(頭痛やめまいなどの病)を患う者が来て(滝に)打たれる。
牟岐川(むぎがわ)
源流は橘村小松(こまつ)から出て、西南へ流れて川長(かわなが)に至る。中村溪(なかむらけい)が西から合流し、南へ流れて牟岐浦(むぎうら)に至って海に入る。
手羽島(てばじま)
牟岐浦から海へ入ること一里(り)ほどのところにある。その左側に二つの小さな島があり、「大津(おおつ)」「小津(こつ)」と呼ぶ。
大島(おおしま)
牟岐浦の津島(つしま)の東南、海に入ること三里ほどのところにある。最も大きく、手羽島がこれに次ぐ。魚戸(ぎょこ ※漁師の家)や田がある。気候は極めて温暖で、恵(※おそらく蘭の一種、あるいは特定の植物)が生え、冬に花を開く。蕃椒(トウガラシ)が冬を経てもなお青々と栄えることがある。その東北に「逆手(さかて)」と呼ばれる小さな島がある。
内妻川(うちづまがわ)
源流は奥内妻(おくうちづま)から出て、南へ流れて本村(内妻村)に至って海に入る。
円島(まるしま)
内妻村にある。福良(ふくら)が突き出て海に入り、上洋(かみのうみ)と下洋(しものうみ)の境界となっている。
逢坂(おうさか)
内妻村にある。東は牟岐に接し、西は内妻の汀(みぎわ/水際)に臨む。
松坂(まつさか)
内妻の汀の西にある。一説には「待坂(まつさか)」とも書く。
福良坂(ふくらさか)
古江(ふるえ)の汀の西にある。一名を「古江坂」ともいう。以上は内妻村に属する。
鯖瀬坂(さばせさか)
福良の汀の西にある。
萩坂(はぎさか)
鯖瀬の汀の西にある。一名を「大綱坂(おおつなさか)」ともいい、その道の長さが綱のようであることから(そう呼ばれると)いう。
鍛冶屋坂(かじやさか)
大汀(おおみぎわ)の西にある。一名を「閑所坂(かんじょさか)」という。
粟浦坂(あわうらさか)
鍛冶屋の汀の西にある。一名を「波背坂(はせさか)」という。
借戸坂(かるへとさか)
走(はしり)の汀の西にある。以上は浅川(あさかわ)に属する。逢坂からここ(借戸坂)にいたるまでを「ノ八坂(のやさか)」という。
内妻汀(うちづまのみぎわ)
逢坂の西にある。
古江汀(ふるえのみぎわ)
松坂の西にある。
福良汀(ふくらのみぎわ)
福良坂の西にある。以上は内妻に属する。
鯖瀬汀(さばせのみぎわ)
鯖瀬坂の西にある。
大汀(おおみぎわ)
萩坂の西にある。
鍛冶屋汀(かじやのみぎわ)
鍛冶屋坂の西にある。
走汀(はしりのみぎわ)
粟浦坂の西にある。
三浦(みうら)
借戸坂の西にある。以上は浅川に属する。内妻の汀からここ(三浦)にいたるまでを「八汀(はっちょう)」と呼び、これらは八坂の間に分かれて位置しており、砂の海岸(砂岸)が曲がりくねって続いている。
新川(しんかわ)
源流は新溪(しんけい)から出て、南へ流れて粟浦(あわうら)に至って海に入る。
龍留川(たつどめがわ)
源流は浦上(うらがみ)から出て、南へ流れて龍留(たつどめ)および借戸坂を経て、浅川浦(あさかわうら)に至って海に入る。
伊勢田川(いせだがわ)
源流は那谷(なたに)から出て、浅川浦に至って海に入る。長さは二里余りである。水が浅く、海口(河口)から百歩外側では船が底をすって(膠着して)通ることができない。
桶島(おけじま)
浅川の海口(河口)の閑所坂(かんじょさか)の南にある。頂上が朽ちて凹んでおり、水がたまっている。
加島(かしま)
桶島の西、海に入ること四百八十歩のところにある。広さは六步四方ほどである。竹や木が茂り生えており、若干の田がある。寛永二十一年(1644年)以来、地元の役人(土吏)である吉田某に下賜された。
鯖床島(さばどこじま)
加島の西にある。禁山となっている。
浅川(あさかわ)
浅川村の浦上から出て、浅川浦の集落の中(閭中)を経て海に入る。
蝦池(えびいけ)
浅川と大里(おおさと)の境界にある。周囲は三千歩ほどである。夏や秋にはさまざまな魚が出る。また牡蠣(カキ)が極めて多く、その殻が集まってまるで「蠔山(かきやま)」のようになっている。側にはススキ(芒)やカヤ(苞)が生い茂っており、まさに(古い詩歌などにいう)「一木芒(いちぼくのすすき)」と呼ばれるものである。
加島港(かしまこう)
浅川浦にある。
海部川(かいふがわ)
源流は巻廬山(まきいおざん ※現在の高城山周辺など)から出て、東南へ流れて川又(かわまた)に至る。大廬溪(おおいおけい)が西から合流し、平井(ひらい)に至って鰈溪(かれいけい)が北から合流する。桑原(くわばら)に至って峡背溪(かいはいけい)もまた北から合流する。弱松(わかまつ ※地名か)に至るまでの間に、急流(急湍)が十四ある。それぞれ「荒瀬(あらせ)」「的岩(まtoiwa)」「藤瀬(ふじせ)」「深瀬(ふかせ)」「桃瀬(ももせ)」「小川(おがわ)」「杖突瀬(つえつきぜ)」「喜木瀬(ききぜ)」「平尾(ひらお)」「桑原(くわばら)」「堅木瀬(かたきぜ)」「高瀬(たかせ)」「鵄瀬(とびせ)」「瓶尻(かめじり)」という。相溪(あいのけい)、大井溪(おおいけい)が西から合流し、南へ流れて高園(たかぞの)に至る。母川(もがわ)が西から合流し、奥浦(おくうら)に至って海に入る。(平時は)薪木を浮かべて流すことができるが、水が引いて(水が少なくなって)しまうと船は通れない。長さは五里余りである。
大里渠(おおさとみぞ)
余口(よぐち)、移谷(うつしたに)、および多良村(たらむら)から出て合流し、海に入る。民がこれを引き入れて田畑の灌漑(かんがい)に用いる。夏の時期には蛍が多い。
大里松林(おおさとのまつばやし)
長さは千二百余歩、幅はおよそ百八十歩である。白い砂が平らに敷き詰められたようになっており、南には大きな海(南溟)が前に開け、はるか遠くまで見渡すかぎり無限に広がっている。
妙見山(みょうけんざん)
奥浦の北にあり、禁山である。北は大川(海部川)を限界とし、西は諸山(山々)に連なる。上には星の祠(妙見祠)があり、石の階段(石磴)が五十歩ある。
鹿谷(しかたに)
奥浦の東南にあり、鞆浦(ともうら)に接する。西は宍食(ししくい)へ至る公道(官道)に通じている。上には秋葉の祠がある。
脇宮山(わきみやさん)
奥浦の南にある。上には脇宮(わきみや)および水神の祠がある。薪木が産出する。
愛宕山(あたごやま)
鞆浦の南にある。上には愛宕の祠があり、禁山となっている。南には青い海(蒼海)を見下ろし、東には紀伊(和歌山県)を望む。海に面した国々の村々(諸邑)を、ひと目で残さず見渡すことができる。
山神林(さんじんの はやし)
鞆浦の西の山中にある。山霊の祠(山の神の祠)がある。近くは奈射(なさ)に臨み、遠くは土佐を望む。また、地名に「大宮和奈射意富曾(おおみやわなさおおそ)」と称する場所がある。祠(※和奈佐意富曽神社)がかつてここにあったため、因んで名付けられた。
遠候山(とおそうやま)
鞆浦の東にある。遠見番所(候館)がある。東南は海に対面し、北はさまざまな浦(諸浦)を見下ろす。春や冬に(魚を捕るための)網を張る際、漁人がここに登って(指図のために)合図の菴(いおり)を指し示す。
奈射港(なさこう)
宍食浦の東にあり、鞆浦に隣接する。この地はかつて「和奈射意富曾(わなさおおそ)」の祠に接していたことから名付けられた。東南は海に連なり、西は乳埼山(ちさきやま)に接する。足元から水(海)へと突き出ている場所が全部で七つあり、それらが並んでいる様子が(竹の)節のようであることから「七浦(ななうら)」と称する。前には三つの島がある。大きなものは「一島(いちしま)」と称し、頂上には弥九郎(みくろう)の祠があり、鳥居(華表)が水の中に立っている。二つの島はその東南にあり、「孿島(ふたごじま)」と名付けられている。海と光を映し合って(映帯して)明るく美しく、絵のようである。漁人が魚を捕る場所であり、波を防ぐために樹木が植えられている。
乳埼山(ちさきやま)
奈佐港の東にある。一名を「仕立山(したてやま)」ともいう。南の海へ突き出ており、松の樹が群生している。岩があり、名を「冠岩(かんむりいわ)」という。また「烏帽子岩(えぼしいわ)」とも呼び、高さは一丈余りで、形は(冠の)岸幘(がんさく ※額の出た冠の形)のようである。また石の凹んだところが舟のようになっており、断崖に横に懸かっている。その下の海は深く、水の色は紺碧(濃い青色)で、最も優れた美しい景色(佳景)である。
宍食浦(ししくいうら)
海部の西の境界である。およそ土地(の性質)は砂が多く、魚の臓物やその汁を肥料(糞)として用いる。
愛宕山(あたごやま)
宍食浦にあり、古目嶺(こめとうげ)と隣接している。高く険しくて登りにくい。かつては愛宕の祠がここにあったが、後に(祠は)並んで村の中へと移された。
椎樹島(しいのきじま)
宍食川(ししくいがわ)の中にあり、禁山である。上には弁財天の祠が安置されている。
牛伏山(うしぶせやま)
南は土佐に接する。草が多く、牛馬を放牧することができる。上には愛宕の旧址(古い跡)があり、すこぶる優れた景色(勝景)である。
宍食川(ししくいがわ)
源流は小谷(おだに)から出て、南へ流れて芥附(あくつけ)に至り、禊川(みそぎがわ)が北から注ぎ入る。南へ流れて尾崎(おざき)、日比原(ひびはら)を経て、宍食浦に至って海に入る。川幅は二十歩、あるいは十五歩である。所々でこれを引き入れて田畑の灌漑に用いる。薪木を浮かべて流すことができる。中河原(なかがわら)から上流は船が通れない。
獅子礁(ししのハエ)
宍食の覚位(かくい)の汀にある。形が野猪(イノシシ)に似ている。また「鹿児居島(かこいじま)」と呼ばれるものがあるが、実際には島ではなく礁(隠れ岩・岩礁)である。
鵜礁(うのハエ)
獅子礁の東にある。鵜(う)が集まって来ることから名付けられた。鵜の形をしているわけではない。
棚礁(たなのハエ)
孿島(ふたごじま)の南にある。
鈴礁(すずのハエ)
鵜礁の東にある。鈴峯(すずがみね)に秘蔵されていた鈴がここから出たとされ、その痕跡が残っている。
佐微島(さびじま)
竹島(たけしま)の北にある。石梅(せきばい/イシウメ ※ウメボシイソギンチャク等の類か)を産出し、現地の人は石梅のことを「佐微(さび)」と呼ぶ。
四島(よつしま)
孿島の西南にある。これも実際には礁(岩礁)であり、島ではない。二つずつが相対している。
隺島(つるしま)
鼓石(つづきいわ)の上にあり、相伝では、もともと木氏(きし)が鶴を飼っていた場所であるという。
座頭石(ざとういし、原文
瞽者石):宍食港の入り口にある。形が座頭(盲人)が座っている姿に似ており、高さは二丈ほどである。石の性質が柔らかくしなやか(柔靭)で、波浪によって削られてできたものである。以下、形が似ている(と記述される)石についても同様である。
鼓石(つづきいわ)
覚位の石の崖にある。表面が絵のように盛り上がって(隠起して)おり、形は鞨鼓(かっこ ※太鼓の一種)を紐で縛って固定したようである。その数は五つある。
大鼓石(おおつづきいわ)
鼓石の西にある。盛り上がって太鼓のようになっている。
石亀(いしがめ)
大鼓石の西にある。形が円く亀のようで、長さは二丈ほどである。
石鯉(いしごい)
金埼(かねさき)の石の崖にある。その模様が鯉のようで、波に従って下るかのようである。長さは五尺(しゃく)ほどである。
浪石(なみいし)
宍食の海の中にある。形が騒ぎ立つ波のようである。およそこのあたりの諸石(岩々)は、形状や勢いが極めて奇異で怪しいものであるが、ただ荒れ果てた僻地にあるために、これを賞美して楽しむ者がいないだけである。
竹島(たけしま)
これもまた宍食の海の中にある。竹や樹木がすこぶる茂っており、斧や山刀(斧斤)を入れない。中には小さな祠があり、「権現(ごんげん)」と称する。お役人(官吏)二人(※見張り役などか)がその南に居住している。四つの暗礁(隠れ岩)があり、それぞれ「大柄杓(おおひしゃく)」「小柄杓(こひしゃく)」「鯨(くじら)」「噦(しゃくり)」といい、その根元はすべて竹島と連なっている。
孿子礁(ふたごのハエ)
竹島の東南、宍食嶺(ししくいとうげ)を隔てること六百歩ほどのところにある。二つの島が対峙していることから因んで名付けられた。北側は阿波(徳島県)に属し、南側は土佐(高知県)に属する。
帽子礁(ぼうしのハエ)
その形状に似ていることから名付けられた。竹島の東南にある。
臍石(へそいし)
宍食川の西の崖にある。形は円くて長く、その色は蒼白(青白い)で、磨いたり削ったりしたかのようであり、一寸の草も生えていない。上下ともに豊かに満ちており、形は(「立」という)文字を立てたようである。その下には十人余りが座ることができ、端正で愛すべき姿である。
民部岩(みんぶいわ)
宍食浦にある。民部(みんぶ ※人名・あるいは百官名)がここに逃れてきて死んだという。
金目山(かなめやま)
土佐の甲浦(かんのうら)と隣接している。田が十二石(こく)余りある。寛文年間の前に、現地の平左衛門(へいざえもん)という者が南の山麓を墾田(開墾)し、これを「歯朶尾(しだお)」と称した。土地の漁師たちがかつてここを争い、訴訟において理屈が曲がっていた(非があった)ため、平左衛門がこれを訴え、これによって(漁師らの)余丁(よてい ※課税対象の成人男性)の労役を免除された。
古目坂(こめさか)
また「宍嶺(ししくいとうげ)」とも呼ぶ。土佐との境界にあり、高さは三百歩ほどである。
祇園山林(ぎおんやまの はやし)
窪村(くぼむら)にある。すなわち藤氏(ふじし ※藤原氏・あるいは地元豪族)の城跡(墟)である。その麓に祇園の祠があり、林の木々が周囲を取り囲んでいる。
鈴峯(すずがみね)
これもまた窪村にある。険しく切り立って(峭拔)曲がりくねっており、石段の道(磴道)は千八十歩ある。上には堂があり観音像が安置されている。一口(ひとつ)の鈴を蔵(所蔵)していることから因んで名付けられた。その峯にはまた茶鑵(茶釜・急須)があり、極めて古色を帯びており、鱗(うろこ)のような模様(鱗紋)がある。水が一斗三升(いっとさんしょう)ほど入る。並びに櫛川村(くしかわむら)の孫右衛門(まごえもん)という者が、天和年中に海辺でこれを得たものである。俗伝では、これを洗えば必ず風雨が起きるといい、敬うこと神のごとくである。大晦日の夜(除夜)には、聖灯(不思議な火)が灯る。
窪川(くぼがわ)
源流は鈴峯から出て、南へ流れて窪村を経て海に入る。
天狗石(てんぐいし)
日比原(ひびはら)の山の中にあり、(集落から)三百六十歩ほどである。高さは二丈、幅は十歩四方ほどで、登って見下ろすことができる。
井神淵(いのがみのふち)
日比原にある。幅は八歩、長さは二十歩ほどである。上には小さな祠があり「井神(いのがみ)」と称する。現地の人が雨乞いをする。
烏帽岩(えぼしいわ)
尾崎村(おざきむら)の山中にある。民家(閭)を去ること三百歩、高さは一丈八尺(しゃく)ほどで、その形が似ていることから名付けられた。
雄蛙石(おがえるいし)
尾崎村にある。高さは一丈八尺ほどで、蛙(かえる)に似ている。芥附村(あくつけむら)にもまた同じような石があり、そのため因んで雌雄に区別している。
蛇谷(じゃだに)
尾崎村にある。今は「阿瀬谷(あせたに)」と称する。大きな石に穴があり、長さ五尺、幅三尺、深さ五仞(じん)ほどで、俗に「地獄釜(じごくがま)」と呼ぶ。その上を「仏嶺(ほとけとうげ)」と名付けており、道はまばらで谷は深い。
雌蛙石(めがえるいし)
芥附村の中山(なかやま)にある。高さは二丈余りで、その形が似ていることから名付けられた。
新発意石(しんぼちいし)
これもまた中山にある。形が僧侶(新発意 ※出家したばかりの僧)に似ている。
大鼓石(おおつづきいわ)
これもまた中山にある。高さは一丈八尺余りである。
大溪(おおたに)
小谷村(おだにむら)から出る。すなわち宍食川の源流である。また「中溪(なかたに)」がある。
観音山林(かんのんやまの はやし)
角阪村(つのさかむら)にある。すなわち大悲閣(だいひかく)が所在する場所である。古木が青々と茂っており(蒼翠)、その側には「禅興寺(ぜんこうじ)」がある。
華表坂(とりいさか)
塩深村(しおふかむら)にある。大山の祠の鳥居(華表)がかつてここにあったことから因んで名付けられた。
禊川(みそぎがわ)
源流は角阪から出て、南へ流れて芥附に至り、宍食川に注ぎ入る。
船津川(ふなつがわ)
源流は東谷(ひがしたに)の石轟(いしどどろ)から出て、久尾村(ひさおむら)に至って「畷川(なわてがわ)」と呼ばれる。南へ流れて船津村(ふなつむら)を経て、やや大きくなり、境界を越えて土佐の野根浦(のねうら)に至る。大雨(水潦)が至れば、これによって薪木を浮かべて流すことができる。
石轟瀑(いしどどろのたき)
久尾の山中にある。石の洞窟(石洞)は深く奥まっており(深邃)、水のカーテン(水簾)のように滝が懸かり流れている。古木がうっそうと茂り(森々)、これを覆っている。中には龍の祠(龍祠)があり、現地の人が雨乞いをする。道はまた非常に危険で険しい。その地名を「結石(むすびいし)」という。
猪嶺(いのたお)
船津村の東にある。すこぶる高く、これを越えると宍食川の源流に至る。薪木を浮かべて流すことができる。また「石牛(いしうし)」があり、土佐に隣接する。
馬路嶺(うまじとうげ)
高園村(たかぞのむら)にある。四方の眺めがすこぶる良く、巡検使(撫使)が休息する場所である。
母川(もがわ)
源流は櫛川村(くしかわむら)から出て、南へ流れて高園村に至り、海部川に注ぎ入る。長さは一里ほどである。俗伝では、昔、孝行な民が地を掘って清水を得て、これによってその母を養ったといい、後に遂に川(溪)となったため因んで名付けられた。高園の板橋(いたばし)の南に淵があり、その中央に「裂岩淵(さきいわのふち)」と称する石がある。大きな鰻(ウナギ、大鰻鱺)を産出する。
蛇淵(じゃぶち)
中山の石敷谷(いしじきだに)にある。幅は三丈、長さは六丈で、その深さは測ることができないほどである。飛泉(滝)がここに注ぎ入っている。龍の祠があり「轟(とどろ)」と称する。現地の人が雨乞いをする。側には「蛇巻(じゃまき)」と称する石がある。また、石の崖には馬の蹄の痕(馬蹄痕)がある。また石の穴の中には、潮の満ち引きに応じて湧き出る泉(応潮泉)がある。
不動瀑(ふどうのたき)
野江村(のえむら)にある。飛び流れる滝は三十仞(じん)ほどである。傍らに石の窟(いわや)があり、不動像が安置されている。草庵が一宇あり、六十年の前に女僧(尼僧)の「貞寿(ていじゅ)」が置いたものである。母川に臨んでおり(枕母川)、その地は奥深く静かで(幽邃)、遊覧するに値する。
北川(きたがわ)
源流は吉田村(よしだむら)から出て、東へ流れて海部川に入る。
北渠(きたみぞ)
吉野(よしの)にある。長さは四百20歩、幅は一歩である。日照り(旱)になればすなわち水が枯れるため、因んで海部川を引き入れている。堰(せき)があり、長さは百三十歩、幅は八歩である。
禅僧林(ぜんそうばやし)
相川(あいかわ)、小川(おがわ)、平井(ひらい)の三つの村にまたがっている。長さは一万八十歩である。杉(スギ)、樅(モミ)、扁柏(ヒノキ)、豫章(クスノキ)が生えており、小さいものは幹の回りが二尺、大きなものは七尺に達する。その頂上(山の頂)を「櫧廬(いちいお)」といい、登ること六十歩のところに熊(クマ)が多い。大きな杉があり、幹の回りは十三囲(まわり)ほどで、ここを去ること百八十歩のところから始めてその山頂(巓)が見えるようになる。
相川(あいかわ)
源流は禅僧山(ぜんそうやま)から出て、相川村を経て大井村(おおいむら)に至り、海部川に注ぎ入る。長さは二里半である。春や夏に水が至れば(増水すれば)、船や筏がようやく通ることができる。
峡背山(かいはいざん)
小川村にある。高さは六百仞、周囲は二里である。山の中には「梅樹谷(うめきだに)」があり、芍薬(シャクヤク)が自生している。白い花で一重咲き(単瓣)である。
小川山(おがわやま)
これもまた小川村にある。高さは五百余仞、周囲は三里である。東南は牟岐に隣接する。その間に「小谷(おだに)」と呼ぶ谷がある。高さ六丈ほどの石があり、黒色でそびえ立っており、雑木がこれを覆っている。声をかけると(唱えれば)すなわちこだまする(和す)。現地の人は「鸚鵡石(おうむいし)」と呼んでいる。
桑原山(くわばらやま)
これもまた小川村にある。高さは五百仞、周囲は二里余りである。西は禅僧林に隣接する。
玉笠山(たまがさやま)
これもまた小川村にある。高さは五百仞、周囲は二里半である。山の麓に渓流があり、千余歩ほど遡ると深い淵がある。俗伝では、昔、「栗林伊賀介(くりばやしいがのすけ)」という者が狩りに来た際、たまたま大蛇(蠎蛇)が現れて襲ってきたが、彼の猟犬(狗)が極めて優秀で、これを噛み殺したという。山の入り口を「狗塚(いぬづか)」といい、その猟犬を埋葬した場所(理其狗之地)である。
轟瀑(とどろのたき)
平井村(ひらいむら)の鰈谷(かれいたに)にある。その地勢は南郷(みなみごう)であり、東は請峯(うけがみね)に接し、西は後谷(うしろだに)を境界とし、北は木頭(きとう)に隣接する。水源は巻廬山(まきいおざん)から出る。その間、数里にわたって滝(瀑布)となっているものが数え切れないほど多く、現地の人は「九十九瀑(つくもだき)」と称している。その中で最も優れたものが八つあり、「上轟(かみとどろ)」と呼ばれるものは、道がますます険しく遮られており、葛(クズの藤蔓)を引っ張って進む。また「石瀑(いしたき)」「横瀑(よこたき)」「烏還(からすかえり)」「円淵(まるぶち)」「千淵(せんぶち)」「舩瀑(ふなたき)」「十兵瀑(じゅうべえだき)」と呼ばれるものがある。あるいは十仞、あるいは二十仞の高さから、ここに至って直下に数十仞も流れ落ちる。石に触れて二つの道(流れ)となり、石の崖がこれを抱え込んでいる。その下は澄んだ深い淵(澄潭)で底が知れず、直径は十歩ほどである。巨木が沈んでいることがあり、沈むと出てこない。左右はみずみずしい屏風(翠屏)のようで、草木(卉木)が逆さまに懸かっており、丸い流れが前方に開け、怪しい岩が中に突き出ている。奇妙で優れた景色(奇勝)は比べるものがない。その東には「安竜(あんりゅう)」の祠があり、すなわち「轟神(とどろのかみ)」である。杉の樹が周囲を取り囲んでおり、幹の太さは二、三囲ほどで、うっそうと茂って(蓊欝)日差しが見えない。
烏還瀑(からすかえりのたき)
石の崖の高さは十八歩である。ほとばしる流れは白い虹(白虹)のようである。巻柏(イワヒバ)がまばらに生えている。道は極めて危険で険しい(危嶮)。一名を「空穂(うつぼ)」という。
巻廬山(まきいおざん)
高さは三千仞、長さは三里、周囲は七里である。孤高としてうっそうと群生しており、近隣のすべての山々(闔群)の中で第一である。良質な木材(良材)を産出し、杉が最も多く出る。お役所(官舎)が四区あり、鉄砲隊の兵(銃卒)がこれを守っている。東側を「川又(かわまた)」といい、北へ至ること「日早(ひそう)」と呼ばれる場所まで一里千八十歩ほどである。十一の谷があり、それぞれ「西表(にしおもて)」「譲葉(ゆずりは)」「島屋廬(しまやいお)」「大還(おおがえり)」「猪戻(いのもどり)」「綟(もじり)」「余慶(よけい)」「五葉(ごよう)」「小谷(おだに)」「角谷(つのや)」「投峡津(なげきょうづ)」という。
請峯林(うけがみねの はやし)
平井村にある。高さは二千四百仞である。その山頂を「不入(いらず)」といい、おそらく斧や山刀(斧斤)を入れない(不入)という意味である。杉や柏(ヒノキ科の木)が森々とそびえ立っており、価値ある山(金山)となっている。祠があり「不入権現(いらずごんげん)」と称する。また絶頂(山のてっぺん)には「請池(うけいけ)」があり、これは「池ノ転(いけのころび ※あるいは地名の転訛)」をいう。また朽ちた木の根から聖なる水(聖水)が湧き出ており、崖を懸け流れて滝となっている。現地の人がこれを汲んで病気を治療する。
海河林(かいこの はやし)
木頭の海河村(かいこむら)にある。周囲は三里ほどで、禁山となっている。
倉谷林(くらたにの はやし)
これもまた海河村にある。
奥日早林(おくひそうの はやし)
これもまた海河村にある。近隣の古屋村(ふるやむら)の民がやってきて墾田(開墾)を行っている。
海河池(かいこのいけ)
これもまた海河村にある。山の麓に長さ百歩にわたって広がっており、日照り(旱)に遭っても枯れることがない。
海河川(かいこがわ)
すなわち東叉川(ひがしまたがわ)のことである。源流は海河谷(かいこだに)から出て、四里流れて長河(那賀川)に入る。
西又川(にしまたがわ)
これもまた海河谷から出て、三里流れて長河に入る。
霧越峰(きりごえとうげ)
南は峡背(かいはい)に接し、北は海河に通じる。その間は三里ほどである。左右に折れ曲がっており(詰曲)、さまざまな樹木がうっそうと茂り、民家は一軒もない。東側を「六町(ろくちょう)」といい古屋村に属する。西側はすなわち海河谷である。南には険しい坂(峻阪)があり、石を穿(うが)って道を通している。屈曲しながら登っていくため、名を「九十(くじゅう ※九十九折のことか)」という。
星越坂(ほしごえさか)
海河村にある。西の方へ追谷(おいだに)を過ぎること三百歩のところに、上(坂の上)に石仏が安置されている。道は上山(かみやま ※木頭上山)に通じる。
天狗嶽(てんぐだけ)
海河村にある。西の円山(まるやま)にあり、石が独立して立っている。西の方へ上山を隔てること一里、東の方へ平谷(ひらたに)を隔てること半里である。坂があり「熊坂(くまさか)」という。西北の方へ助村(すけむら)を隔てること一里であり、長瀬谷(ながせだに)を経て源蔵窪(げんぞうくぼ)に至る。
龍王石(りゅうおういし)
木頭の大窪(おおくぼ)、長河(那賀川)の上流にある。現地の人が雨乞いを行う場所(雩所)である。
蝉谷(せみだに)
上山(かみやま)の北にある。その山頂(巓)は樹木がうっそうと茂っている。
三段瀑(さんだんのたき)
蝉谷にあり、高さは十仞(じん)である。
石瀑(いしたき)
蝉谷の西にある。石の崖の高さは二十八丈であり、飛泉(滝)がここに懸かっている。
山嫗嶽(やまんばだけ)
石瀑の東北にある。
蛇石(へびいし)
名谷(なだに)にある。那賀郡の岩倉(いわくら)を隔てること千八百歩である。
男瀑女瀑(おだきめだき)
東叉(ひがしまた)にあり、西の方へ裾谷(すそだに)を過ぎること三千六百歩のところにある。その高さは測ることができないほどである。下流は九文谷(くもんだに)に至り、二里で谷叉(たにまた)に至って西叉谷(にしまただに)と合流する。
雨留瀑(あまどめのたき)
中谷(なかたに)の西、千八百歩のところにある。高さは十仞である。昔、雨乞いをしたところ風雨が大いに至り、その後は恐れてあえてここで雨乞いをしなくなった。
上山(かみやま ※木頭上山)
さまざまな山(諸山)が周囲に列をなしており、長河(那賀川)が前方に流れている。民居(民家)がやや多い。材木が集まる場所である。「相殿(あいでん)」がある。国の初め(徳島藩初期)に「細川大隅(ほそかわおおすみ)」という者が拠っていたが、益田豊州(ますだほうしゅう)が火を放ってこれを攻め、大隅は逃げ去ったが、舎人(とねり ※家来)らによって北川(きたがわ)で殺害(弑)された。東の方は久乗谷(くのりだに)に通じており、石の門(石門)および飛泉(滝)がある。南の方は南宇村(みなみうむら)の蔭谷(かげだに)に通じる。西の方は腰越坂(こしごえさか)に通じる。北の方は九文(くもん ※九文谷)に通じており、名は「二千四百歩」という。上越坂(かみごえさか)を経て峡背(かいはい)に至るまで、四里ほどである。
岩下瀑(いわしたのたき)
木頭上山村にある。下流を北へ一里ほど行ったところで長河(那賀川)に入る。
上山池(かみやまいけ)
これもまた上山にあり、長さは千六百二十歩である。
御富添林(おとみぞえの はやし)
これもまた上山にあり、禁山となっている。
掛鈎崖(かけかぎの崖)
これもまた上山にあり、長河(那賀川)を上から見下ろしている。壁のように千仞も立ち並んでおり、上方は険しくそびえ立って、すっぱりと断絶している。足の踏み場(下ろすところ)がなく、目が眩(くら)んで行くことができない。
大森山(おおもりやま)
木頭の盌田村(わんだむら ※現在の椀田など)の北にある。そびえ立って秀麗であり、前方には長河(那賀川)に臨み、西には月溪(つきけい)を見下ろしている。また池があり、これを引き入れて(田畑の)灌漑に備えている。
折宇窟(おりうのいわや)
木頭の折宇村(おりうむら)にある。村の入り口を「栩谷(とちだに)」という。一里行くとそこに窟(いわや)があり、俗に「穴磯(あないそ)」と称する。深さは十歩、幅は六歩ほどで、数百人を収容することができる。その中には鍾乳石(鍾乳)が競って懸かっており、あるいは神像のようであり、あるいは奇妙な獣のようである。
猊口石(げいこういし ※獅子の口の石)
折宇村の栩谷にある。下方に長河(那賀川)を見下ろしており、その形状は、獣が渓水(川の水)を飲んでいるかのようである。
折宇池(おりういけ)
折宇村にあり、長さは七百八十歩である。
南宇池(みなみういけ)
南宇村にあり、長さは三百六十歩である。日照り(旱)になればすなわち乾く。
西宇池(にしういけ)
西宇村にあり、長さは千六百八十歩である。これもまた日照りになればすなわち枯れる。
石立山(いしたてやま)
木頭の北川村(きたがわむら)の西、一里半のところにある。高く険しく、草木がうっそうと茂る。周囲は測ることができないほど広い。上には地蔵の小さな堂(地蔵小堂)があり、広さは六尺四方、柱はわずかに四阿(よんあ ※四方の庇)である。土地の者がそれぞれ二本の柱を寄進した。ここは二つの州(阿波と土佐、徳島県と高知県)の境界(界)である。西の方は土佐に連なる禁山で、東の方は巻廬(まきいお)、柏皮(かしわかわ)、千本勢(せんぼんぜ)、河池川(かわいけがわ)、高川(たかがわ)の諸溪と接しており、これらはここから流れ出ている。東の麓は平村(たいらむら)で、横枕(よこまくら)を隔てること四里、剣山(つるぎさん)を隔てること一里、祖山(そざん ※祖谷山か)を隔てること七里である。北へ行くと、青々と茂った杉の樹(杉樹蒼然)があり、名を「唐林(からばやし)」という。またさらに行くと、石の淵が澄んで深く(石潭澄深)、石の色が赤紫色をしている場所があり、名を「釜岩(かまいわ)」という。また石の崖があり、水のカーテン(水簾)がここに懸かっており、名を「鎧瀑(よろいのたき)」という。これらはすべて、村民が雨乞いを行う場所(雩之地)である。
北川池(きたがわいけ)
北川村にある。三つの池があり、長さは千五百歩ほどで、日照り(旱)になっても枯れないものもある。
北川(きたがわ)
源流は幸瀬山(こうせやま)から出て、南へ流れて久井谷(ひさいだに)を経る。東へ折れて折宇(おりう)、西宇(にしう)、上山(かみやま)、下地(しもじ)を経て那賀郡の日真(ひま)に至り、北尾川(きたおがわ)と合流して長河(那賀川)となる。中島(なかじま)の港口に至るまで、四十五里である。
南川(みなみがわ)
源流は巻廬大谷(まきいおおおたに)から出て、日早(ひそう)を経て北川に入る。これもまた長河(那賀川)の源流の一つである。
古屋溪(ふるやけい)
古屋村にある。源流は六町林(ろくちょうばやし)および倉谷(くらたに)から出て、東へ流れて川又(かわまた)に至る。奥日早溪(おくひそうけい)が南から合流し、深森漆溪(ふかもりうるしけい)もまた南から合流して、本村に至って長河(那賀川)に入る。石の崖が水に臨んでおり、名を「膏石(あぶらいし)」と呼び、その色は青く潤いがあって愛すべき姿である。その土地を「大戸(おおと)」と称する。

氏族

脚咋別鷲住王(あかくいのわけ わしずみおう)
今、宍食郷(ししくいごう)がある。思うにその一族が居住した場所である。『日本書紀』にいう。履中天皇六年春二月癸丑(みずのとうし)の朔(ついたち)に、鮒魚磯部王(ふなのいそべのおう)の娘である太姫郎姫(おおいらつめのいらつめ)と高隺郎姫(たかたづのいらつめ)を喚(よ)んで後宮に納め、並べて嬪(ひん)とした。ここにおいて二人の嬪は常にこれを嘆いて「悲しいかな、我が兄王はどこの場所へ去られたのか」と言った。天皇はその嘆きを聞いてこれを問い「汝は何を嘆息するのか」と言った。答えて「妾(わたくし)の兄の鷲住王(わしずみおう)は、人となり強力(きょうりょく)にして軽捷(けいしょう)です。これによって、独りで八尋屋(やひろや)を馳せ越えて遊行し、すでに多くの日を経るも対面して言葉を交わす(面言)ことができません。ゆえに嘆くのみです」と言った。天皇はその強力を喜び、これをもって彼を喚んだが、参上しなかった。また重ねて便(使者)を遣わして召したが、なお参上せず、常に住吉邑(すみのえのむら)に居住した。これより以後、止めて求めなかった。これは讃岐国造(さぬきのくにのみやつこ)および阿波脚咋別(あわのあかくいのわけ)、およそ二族の始祖である。あるいはいう、讃岐国造はすなわち飯山神(いいやまのかみ)であり、その後、高木氏となった、と。
曾禰連(そねのむらじ)
『三代実録』にいう。元慶五年夏四月四日、阿波国那賀郡(なかぐん)の人、従七位上・椋部夏影(くらべのなつかげ)、従八位上・椋部古麻呂(くらべのこまろ)、従八位・椋部安世(くらべのやすよ)、ならびに白丁(はくちょう)十九人が、本姓(木姓)である曾禰連に復した。高園(たかぞの)は旧称であり、貞享年間に高園と改められた。今は海部郡に属する。思うに曾禰氏の出た場所である。あるいはいう、曾禰氏は後に改めて安摩(あま)と称し、また海部郡の名の起こる理由(所由興)となった、と。
源賴綱(みなもとのよりつな)
一説に有綱(ありつな)に作る。伊豆冠者(いずのかじゃ)と称した。祖父は頼政(よりまさ)、従三位・兵庫頭。父は仲綱(なかつな)、伊豆守。頼綱は右衛門尉に任じられ、従五位下に叙された。寿永元年、源頼朝の命を奉じて蓮池家綱(はすいけいえつな)・平田俊遠(ひらたとしとお)を土佐に撃った。源義経の女婿(じょせい)となったが、右大将(頼朝)がこれを害した。文治元年十二月に出奔し、船が破損(船廃)した。摂津の大物浦(だいもつのうら)で風濤が時に甚だしく、漂流して浅川(あさかわ)に至り、草庵を結び(草次)、年を越した(守歳)。その地は今、太歳(おおとし)という。これが木岐(きき)・浜(はま)の二氏の祖となった。あるいはいう、大和守の「多(おお)」に匿われたが、源頼朝が平貞時(たいらのさだとき)に命じてこれを撃たせた。頼綱は勢いが屈して山中に入り自殺し、首を京師(けいし)に伝送した。『東鑑(吾妻鏡)』に見える。
源正持(みなもとのまさもち)
木岐大膳大夫と称した。木岐浦に居住した。
濱隱岐守(はまおきのかみ)
源某(みなもとのなにがし)。日和射浦(ひわさうら)に居住した。天正五年、源長治(みなもとのながはる)に従って別宮浦(べっくううら)で自殺した。思うに正持の一族であり、その子孫(裔)はなお残っている。
平政吉(たいらのまさよし)
阿部浦に居住した。目氏(さっか氏)の阿部であり、和泉守と称した。その一族は四つあり、郡須(こおず)、山田、大津、石見という。その先祖は当時に任官して左五郎と称した。元暦年間に平教経(たいらののりつね)に従ってしばしば戦った。寿永年間には宇留島十郎、元暦(※原文のまま。年号を指すか、あるいは姓名の一部を構成するかなど、詳細は不明)とともに源氏に属した。
平有興(たいらのありおき)
由岐隠岐守と称した。由岐西浦に居住し、政吉と同宗(一族)である。また善左衛門という者がおり、天正十年に中富川(なかとみがわ)で戦死した。
平有道(たいらのありみち)
八田備中守と称した。また由岐西浦に居住し、有興と同宗で、西家(にしけ)と称した。
源友高(みなもとのともたか)
日和佐和泉守と称した。日和佐浦に居住した。
三方某(みかたなにがし)
(※本文なし)
藤原俊房(ふじわらのとしふさ)
牟岐兵庫頭と称した。牟岐浦に居住した。また虎房(とらふさ)がおり、牟岐の八幡祠の棟銘に見える。また行久(ゆきひさ)がおり、大状(だいじょう)に見える。その一族は五つあり、佐野、荘野、大竹、小橋、町口という。
藤原有辰(ふじわらのありとき)
浅川兵庫頭と称した。浅川浦に居住した。
北某(きたなにがし)
(※本文なし)
藤原政吉(ふじわらのまさよし)
一説に長政(ながまさ)に作る。田中市助(たなかいちすけ)と称した。海部城に居住した。子は長門(ながと)、孫は与兵衛(よへえ)。万治年間に田九十歩を賜り、市長(しちょう)となった。
藤原持共(ふじわらのもちとも)
本木下野守(もときしもつけのかみ)と称した。窪村(くぼむら)の祇園山城に居住した。また信久(のぶひさ)がおり、本木五郎左衛門と称して大永年間に持共に仕えた。思うにその一族である。
藤原元信(ふじわらのもとのぶ)
本木孫六郎と称した。宍食の愛宕山城に居住した。
井上某(いのうえなにがし)
姓は橘(たちばな)。
栗田宇右衛門(くりたうえもん)
姓は橘。
阪東某(ばんどうなにがし)
姓は藤原。
埴淵某(はにぶちなにがし)
姓は橘。
東條某(とうじょうなにがし)
姓は源。
藤原吉清(ふじわらのよききよ)
海部左近将監(かいふさこんのしょうげん)と称した。永禄・元亀年間に鞆城(ともじょう)に拠り、海部七城を領した。元亀年間、吉清が讃岐へ行った間に、秦元親(はたのもとちか)がその隙に乗じてこれを攻めた。衆(軍勢)は出て鈴峯(すずがみね)に駐屯してこれを拒んだ。天正五年、その父の友光が河内(かわうち)へ行くと、元親は再びこれを攻め落とし、闔軍(全軍)は皆降伏した。吉清は刀剣を造ることを善くし、「藤」の字をもって識(しるし)とした。
藤原友光(ふじわらのともみつ)
また海部左近将監と称した。釈服(出家)して宗寿(そうじゅ)と称した。源元長(みなもとのもとなが)の女婿(じょせい)であり、吉清 of 父である。河内の高屋(たかや)に至り、三好山城守(みよしやましろのかみ)を援助した。舎人(とねり)の岡崎太夫左衛門(おかざきだゆうざえもん)という者がおり、功績があったため、海部氏が書を賜った。代々木頭上山(きとうかみやま)に居住した。また近藤助左衛門(こんどうすけざえもん)という者がおり、甲(よろい)および兵杖(武器)、ならびに延宝五年に賜った書を所蔵している。今の里正(りせい)は五郎兵衛と称する。
藤原氏吉(ふじわらのうじよし)
康暦・応永年間の人である。子は房吉(ふさよし)、正長年間の人。孫は泰吉(やすよし)、嘉吉・文明年間の人。遠い子孫(遠孫)は代々氏吉を称し、皆刀工となった。後に城府(じょうふ)に移り住んだ。
藤原氏次(ふじわらのうじつぐ)
中島源太夫(なかじまげんだゆう)と称し、刀を造ることを好んだ。代々名と姓名を受け継いで冶工(やこう)となったが、後嗣(あとつぎ)は今は絶えている。
河野某(こうのなにがし)
姓は越智(おち)。その後、盲人(瞽者)の伊与一(いよいち)という者がおり、慶長年間に里正(りせい)となった。また百々某(どどなにがし)がおり、大永年間以来ここに居住した。田井某(たいなにがし)は永禄年間以来ここに居住した。また富田某(とみたなにがし)がおり、平右衛門(へいえもん)と称して秦元親(はたのもとちか)に仕え、後に日比原(ひびはら)の高光寺山(こうこうじやま)に居住し、遂に宍食(ししくい)に移った。
古屋五郎左衛門(ふるやごろうざえもん)
古屋村に居住した。天正年間に仁宇(にう)の賊を討つ際、向導(道案内)となり、代々村正(そんせい)となった。天正十八年に田三十歩を賜り、寛永五年には宅地にかかる租税(宅租)五石六斗を免除された。
野中国吉(のなかくによし)
三郎左衛門と称した。土佐国の人であり、来て宍食城(ししくいじょう)を守った。その子孫(裔)の清兵衛(せいべえ)という者は、荒田野(あらたの)南村に移り住んだ。能間里(の間の里)の叢医(そうい)である。
農民善次兵衛(のうみんぜんじへえ)
折宇村(おりうむら)の人。寿命は百五歳。寛政四年に米および銀を賜った。

外方

釈了義(しゃくりょうぎ)
号は海岸。姓は海部(かいふ)。阿波国の人である。大燈国師(だいとうこくし)が一見してその器量を愛し、命じて版首(はんしゅ)に置いた。出て摂津(せっつ)に妙観寺(みょうかんじ)を創建したが、これを棄てて江川(えがわ)の興禅寺(こうぜんじ)に移った。ある日、南方に使いした際、官吏に拘束されて問いだされた。師は実情をもって告げた。吏(役人)が帰り、夢想(※「夢の中でのお告げがあった」か、あるいは人名を指すか、詳細は不明)するに、国師(※原文「国師則免矣」。国師がすなわち免じた、あるいは国師であるため免じた、のいずれか。詳細は不明)はすなわち免じた。師は笑って「貧道(わたくし)はどうして死を畏れるがために師資(師弟の義、または師の教え)を変えようか」と言った。吏は遂にそのまま置いて問わなかった。

孝子

勘七(かんしち)
大里(おおさと)の吏、余口(よぐち)の人。父母に仕えて孝謹(孝行で謹み深い)であった。家は極めて貧しく、客作(きゃくさく)し、あるいは籃(かご)を造ってこれをもって売った。出かけるたびにしばしば帰り、定省(ていせい/朝夕の挨拶)をした。母がかつて病に臥せること七年、足が冷えれば、夜はすなわち(懐に)抱いてこれを温め、時に粉餌(ふんじ)を進めた。行年六十八(※母の年齢か、あるいは勘七の年齢か、詳細は不明)、勘七の膝の上で死んだ。父は嘉一兵衛(かいちべえ)と称し、酒や餻(こう/菓子)を嗜んだ。よって力を尽くして営弁(調達)した。毎夜、温酒(温めた酒)を進めたが、父はこれを辞退した。そこで瓢(ひさご)を籃の中に隠し、出て買いこれをもって供え、あえて父に知らせなかった。父はますます老いて飲まなくなり、代えるに甘輭(甘く柔らかいもの)をもってした。安永三年に死に、享年は九十三であった。その後、墓を過ぎる際には必ず笠および屩(きゃく/草履)を脱いだ。毎事必ず謁(参拝)し、策(つえ)を探(突)いて行った。寛政丁亥(の年)に月俸二口を賜った。
兵次郎(ひょうじろう)
助村(すけむら)の里正・忠右衛門(ちゅうえもん)の舎(※舎人、あるいは家来などの意か、詳細は不明)である。親に仕えて至孝(この上なく孝行)であった。一室を築いてそこに(親を)置き、奉養すること甚だ謹み深かった。自身はその側に盧(いおり)し、人(※親、あるいは兵次郎のことか、詳細は不明)は寿(天寿)をもって終えた。時に年齢は八十七歳(※親の年齢か、あるいは兵次郎の年齢か、詳細は不明)。よって母と同居して就養(養育)した。(※原文「有又仕忠右衛門極忠」の箇所。また忠右衛門に仕えて極めて忠義であった、などの意か。詳細は不明)。寛政年間に米若干石を賜り、もってこれを褒賞した。

旅覇

惟宗国長(これむねのくになが)
右衛門と称した。土佐の野根塁(のねるい)に拠っていたが、永禄十二年に秦元親(はたのもとちか)に攻められるところとなり、来奔(逃れて来た)した。

租税

元禄(げんろく)の石高合計
一万二千四十石三合
宝暦(ほうれき)の石高合計
一万六千四百九十一石四斗四升七合

各村の石高

漁阿部(りょうあべ)
八十六石
志和岐(しわき)
二十一石
東由岐(ひがしゆき)
四十一石
西由岐(にしゆき)
百五十三石(支落の油宇(あぶらゆ)は三十二石)
木岐(きき)
二百三十一石
田井(たい)
百九十四石
赤松(あかまつ)
九百四石
浅川(あさかわ)
村七百八十七石、浦百二十一石
大里(おおさと)
七百二十六石
四方原(よもはら)
四百一石
多良(たら)
二百九十二石
奥浦(おくうら)
百八石
鞆浦(ともうら)
三十一石
宍食(ししくい)
六百二石
窪(くぼ)
三百三石
日比原(ひびはら)
二百九十四石
尾埼(おさき)
百六十石
芥附(あくつけ)
百七十七石
広園(ひろぞの)
七十八石
小谷(こだに)
八十一石
角阪(かどさか)
三十三石
塩深(しおぶか)
九十一石
船津(ふなつ)
三十二石
久尾(くお)
十八石
高園(たかぞの)
四百四十六石
野江(のえ)
五百四十一石
芝(しば)
二百五十四石
中山(なかやま)
二百五十四石
櫛川(くしかわ)
二百九十五石
富田(とみだ)
支落の吉田(よしだ)と合わせて五百六十九石
吉野(よしの)
五百六十九石
熟田(にえた)
八十二石
大井(おおい)
二百三十石
相川(あいかわ)
百七十九石
細野(ほその)
二十一石
神野(かんの)
三十四石
小川(おがわ)
五十九石
平井(ひらい)
五十五石
木頭上山(きとうかみやま)
四百八十五石
平谷(ひらたに)
百五十石
古屋(ふるや)
六十一石

塚墓(つかばか)

康暦碑(こうりゃくのひ)
由岐東浦(ゆきひがしうら)にある。康暦二年(1380年)庚申十一月十六日、海がひっくり返るような大地震と津波(海飜震盪)があり、死亡者が非常に多かったため、ここに合葬した。
犬塚(いぬづか)
小川村にある。俗伝では、昔、栗村伊賀介(くりむらいがのすけ)という者が飼っていた犬が非常に猛々しく、大蛇(蠎蛇)を噛み殺した。その犬をここに埋葬したという。

土産(産物)

海鰛(いわし)
各浦(すべての浦)で産出する。網(呂網)で捕らえる。
鱵(さより)
各浦で産出する。これも網で捕らえる。その網は阿部浦(あべうら)ではわずか三張、漁浦(漁村の浦)ではただ一張である。
青貫(あおざより)
各浦で産出する。
鰒(あわび)
諸浦で産出する。その種類は三つある。一つを「喜樂甲(きらくこう)」といい、肉の色がわずかに赤く、味が良いので上品とする。一つを「免大甲(めんたいこう)」といい、孔(穴)や目が隆起しているものを中品とする。一つを「眉骨六魯甲(びこつろくろこう)」といい、隆起しているものを下品とする。大きなものは八寸五分(約26cm)に達し、浪華(大阪)へ売り、次ぐものは城府(徳島城下)へ売る。水底二十仞(じん)にあり、これを養って三、四日おくと味がますます良くなる。土人は「鰒(あわび)が藻(も)を食う時は必ず大水(洪水)がある」と言う。

竹筴(あじ)

紅蝦(あかえび)

甲子和(かつお)
各浦で産出する。その種類は三つある。一つを「買甲子和(かいかつお)」といい、これを押すと指が沈み込み、肉が元に戻るものを上品とする。打尾殺(※叩いて殺したもの)を「寐治甲子和(ねじかつお)」といい、押しても肉が盛り上がらず、腠理(きめ)が不明瞭で色がわずかに白く、味が最も劣る。釣ればすぐに血を吐くものを「四■甲子和(し■かつお)」といい、肉の中に筋があり、刀に触れるものを次品とする。叉(※漁具)をもって腹の内を刺し、膾(なます)を作る。これを「花樂婆納買私(はならはなまいし)」と呼び、あるいは塩を加えて脯(干物)とする。これを釣るには、二月(ふたつき)で海六十里を入れ、後にあるいは十里、あるいは五里となる。一人が毎日得る所は七、八十尾である。竿と綸(釣り糸)はそれぞれ一丈八尺。その綸の末は水蒼色である。生きた海鰛(いわし)を餌とすると、動くたびにこれを呑み込む。七、八月は角(※ルアーの一種)を餌とする。長さ一寸半、方五分。その末に鈎(はり)を付け、綸を二尺とし、鈎の孔を貫く。佛(ほとけ)または成(※文字不明)をもって字と成すか、あるいは「波」の字(波字)を用いる。
梭魚(かます)
網で捕らえる。
棘鬣魚(とげうお/アイナメ等の類)
阿部(あべ)、漁(りょう)、由岐(ゆき)、木岐(きき)で産出する。
金絲魚(きんしうお)
篤鼻胡和(とくびこわ)

青箭(あおぜん)

識皮(しきひ)

胡壘眠(こるいみん)
諸浦で産出する。
鱣魚(ちょくぎょ/チョウザメの類)
骨買皮吉(こつかいかわきち)
すなわち郷名の「侶文(ろぶん)」である。鰩(えい)に似ているが無翼であり、形は円い。

淹魚(えんぎょ)

鱸魚(すずき)

鯧魚(まながつお)

鱓魚(うつぼ)

古魯別(ころべつ)

美子(びし)
すなわち郷名である。形は長く、鱗が大きい。
大鰻鱺(おおうなぎ)
高園村(たかぞのむら)の母川(もがわ)で産出する。大きなものは長さ五、六尺、周囲三尺ほどある。耳があり、土人は(これを)金とは呼ばない。謹んで思うに、これは芦鰻(あしうなぎ)である。『嶺南雑記』にいう、「芦鰻は海辺に産し、潮に従って岸に登り、芦の芽を食う。潮が退けば溪田(谷田)に入る。捕らえることはできないが、方(ようやく)得ることができる。重さ一、二十斤(約6〜12kg)の者があり、重さ五、六斤(約3kg)の者がある。すべて鰻に似ているが身は短く、背は黒く、烏鱧(からすはも)に類がある」。
訥婆吏珂(とばりか)
母川で産出する。六月に川へ遡り、数千(の群れ)で列をなす。一汕(※一網か)で二合を得ることができる。形は弾塗魚(ハゼの類)に似て小さく、斑紋があり、味は膾(なます)に似ている。

殘魚(ざんぎょ)

拳螺(こぶしら)

米蝦(よねえび)

蓼螺(たでら)

土田(田地および耕作条件)
沿岸の諸村は、多くが漁業や伐採をなりわいとしており、耕地は少なく、他の郡と比較できるような状況ではない。
漁(りょう)
陸田(旱田)二町三段七畝。水田の記載なし。
阿部(あべ)
陸田三町一段八畝、水田四町五段六畝。
志和岐(しわき)
陸田二町九段四畝、水田一町一畝。
東由岐(ひがしゆき)
陸田三町四段七畝、水田二町一段。
西由岐(にしゆき)
陸田二町九段、水田九町九段八畝。属村である油宇(ゆう)は、陸田三段、水田三町五段六畝。
木岐(きき)
陸田六町二段三畝、水田十五町一段。
田井(たい)
陸田三町七段六畝、水田十二町八段。
赤松(あかまつ)
陸田五町五段五畝、水田七十二町九段八畝。
奥河内(おくかわうち)
陸田十九町一段、水田五十六町五段八畝。
西河内(にしがわうち)
陸田三町四段三畝、水田四十三町七段二畝。
山河内(やまがわうち)
陸田五町八段六畝、水田三十九町三段一畝。
橘(たちばな)
陸田五段、水田十四町五段。
辺川(へがわ)
陸田二町五段二畝、水田十町九段五畝。
河内(かわうち)
陸田五町四段八畝、水田二十一町二段八畝。
川長(かわなが)
陸田一町、水田二十町五段。
灘(なだ)
陸田三町、水田二十八町。
牟岐(むぎ)
陸田三町二段八畝。
中村(なかむら)
陸田九町三畝、水田三十三町九段三畝。
内妻(うちづま)
陸田六町四段五畝、水田十一町八段九畝。
浅川(あさかわ)
陸田十六町二段、水田六十三町八段。
大里(おおさと)
陸田は旱害を受けやすく、水田は水害を受けやすい。
四方原(よもはら)
陸田は旱害を受けやすく、水田は水害を受けやすい。
多良(たら)
陸田が十分の六、水田が十分の四。比較的、旱害は少ない。
宍食(ししくい)
水田十六町(早稲と晩稲を混種する)。沼沢地が九町余あり、晩稲を植える。陸田十町一段。
高園(たかぞの)
陸田は水不足で、水田は水害が多く、旱害は少ない。
野江(のえ)
水田で早稲・晩稲の三種の稲を植える。陸田はない。
芝(しば)
水田が耕地の十分の七、八を占めるが、しばしば水害を受ける。
中山(なかやま)
陸田八町余、水田十五町余。
櫛川(くしかわ)
陸田十四町余、水田十七町余。圃(菜園)三町。長さ九百歩、幅百五十歩。渓流は時として干上がり、時として溢流する。
冨田(とみだ)
陸田二十六町七段。水田は水害が多い。圃五町余。東は海に面し、部川があり、堤防の長さは四百歩。春夏の時期には船が通行できる。高園まで一千八百歩ほど。
吉野(よしの)
田は四十町三段。長さ六百歩、幅二百十歩。前方に川があり、後方に山がある。松が非常に多い。
熟田(にえた)
陸田は旱害を懸念し、水田は水害を懸念する。渓流は浅く、船は通わない。山に大きな木はない。
大井(おおい)
陸田が十分の七を占め、水田は水害が多い。
相川(あいかわ)
渓流で灌漑を行う。
細野(ほその)
渓流で灌漑を行う。水田は少なく、人々は薪炭の採集をなりわいとしている。
小川(おがわ)
陸田で早稲と晩稲を植える。圃地では芋、豆類、麦を栽培するが、多くが旱害を受ける。
木頭上山(きとうかみやま)
陸田五町八段六畝、水田六町九段六畝、疁田(火耕田)七町四段八畝。茶園一千一百四十五歩。楮四百四十七株。漆百十七株。
海河(かいこ)
田五町四段九畝。茶園一千一百五十二歩。楮一千一百九株。
助村(すけむら)
水田一町七段、陸田一町九段七畝、疁田四町八段二畝。茶園二百十一步。楮百二十四株。漆十九株。
盌田(わんだ)
水田八町四段、陸田八段六畝、疁田一段七畝。茶園四百九歩。楮百五十八株。漆六十六株(漆樹は現時点で枯死している)。
南宇(みなみう)
水田七町四段八畝、陸田二町八段、疁田四町一畝。茶園一千二百四十三歩。楮一千二百七株。漆二百八十七株。
西宇(にしう)
水田二町三段三畝、陸田二町八段五畝、疁田二町六段五畝。茶園五百三十三歩。楮三百三十六株。漆百五十九株。
折宇(おりう)
水田二町二段八畝、陸田六町八段二畝、疁田十町九段二畝。茶園六百三十六歩。楮一千四百三株。漆四十六株。
北河(きたがわ)
水田二町八段九畝、陸田四町九段二畝、疁田九町一段二畝。茶園三百六十歩。楮一千二百七十五株。漆六十四株。

仏刹(寺院)

極楽寺
漁浦(りょうのうら)にあり、那賀郡の石塚正福寺に属する。
持福寺
同じく漁浦にあり、平安(京都)の東本願寺に属する。
光明寺
阿部浦にあり、正福寺に属する。
荘厳寺
志和岐浦にあり、奥河内の薬王寺に属する。
長円寺
由岐東浦にあり、薬王寺に属する。もとは長法寺と円通寺という二つの寺であったが、後に合併して一寺となった。
光願寺
西由岐浦にあり、浄土真宗(一向)を修める。宝永6年に釋玄忠が建立。
般若寺
同じく西由岐浦にあり、真言宗を修める。
延命寺
木岐浦にあり、木岐氏の香火院(菩提寺)で、薬王寺に属する。慶長3年以降、5石の採地を賜る。
真福寺
同じく木岐浦にあり、薬王寺に属する。
地蔵寺
田井村にあり、薬王寺に属する。
円通寺
赤松村にあり、薬王寺に属する。延徳年間に建立。
龍宝寺
同じく赤松村にあり、薬王寺に属する。
常光寺
日和佐浦にあり、浄土真宗(一向)を修める。
薬王寺
奥河内村にあり、真言宗を修める。山名は医王。磴道(階段)は五十歩ほど。前には広瀬川が対面し、後ろは高山に接する。左には広瀬川、右には長路山があり、山は険しく木々は老いている。文治年間に再建され、寛永年間に火災に遭った。現在は堂が二つあり、一つには薬師像、一つには祖師像を安置する。採地は10石。別に玉厨子山にも堂がある。また、白山祠がある。
観音寺
同じく奥河内村にあり、薬王寺に属する。
弘法寺
同じく奥河内村にあり、薬王寺に属する。
極楽寺
同じく奥河内村にあり、平安(京都)の知恩院に属する。
西川寺
西河内村にあり、薬王寺に属する。
打越寺
山河内村にあり、薬王寺に属する。山名は駅路。慶長3年に10石の採地を賜り、旅人のための宿舎(路室)とするよう命じられた。
真光寺
橘村にあり、勝浦郡の丈六寺に属する。
幸福寺
辺川村にあり、牟岐の満徳寺に属する。
普周寺
河内村の川又里にある。松や杉が多く、丈六寺に属する。
木福寺
川長村にあり、満徳寺に属する。
洞雲寺
同じく川長村にあり、丈六寺に属する。
観音寺
灘村にあり、満徳寺に属する。
海蔵寺
同じく灘村にあり、満徳寺に属する。
東光寺
同じく灘村にあり、満徳寺に属する。南海の島々を見下ろす景色は絵画のようである。
満徳寺
牟岐村にあり、真言宗を修める。応永年間に釋増吽が建立。採地3石3斗。八幡祠を管轄する。
西念寺
同じく牟岐村にあり、真言宗を修める。
正伝寺
同じく牟岐村にあり、丈六寺に属する。弁財天祠があり、その像の背面に「天長七年」の文字がある。
法覚寺
同じく牟岐村にあり、平安(京都)の西本願寺に属する。
昌寿寺
中村にあり、丈六寺に属する。釈迦像を安置する。海巌が建立した。海巌は、かつて尾張の智多城主であったが、瑞雲公(蜂須賀家政公)の後に僧侶となり、各地を巡遊してこの地に住んだ。公が国を巡察した際に相見え、その望みを問われたが何も求めなかったため、3石余の租税を免除し、さらに観音の木像を賜って脇侍とした。宝永4年の地震で海が湧き上がり、文書はすべて失われたが、古鏡一枚のみが残っている。
東泉寺
浅川村にあり、真言宗を修める。
誓願寺
同じく浅川村にあり、真言宗を修める。
江音寺
同じく浅川村にあり、慶長年間に建立。丈六寺に属する。
千光寺
同じく浅川村にあり、丈六寺に属する。宝永4年の地震で海が湧き上がり、この寺は水没したが、薬師堂はなお残っている。
観音堂
同じく浅川村にあり、仁治3年に建立。もとは竹内里にあったが、正保4年に現在の地に移した。高台で景色が美しく、南の海を見下ろす。
正福寺
同じく浅川村にあり、禅宗を修める。
神宮寺
大里村にあり、真言宗を修める。和奈佐意冨曾祠を管轄する。
宝蔵寺
同じく大里村にあり、真言宗を修める。長さ八寸五分(約26cm)の観音木像がある。昔、土地の人が拾った木を割ったところ、中にこの像が入っていたという。
弘法寺
四方原にあり、真言宗を修める。
西方寺
多良村にあり、真言宗を修める。
薬師寺
奥浦にあり、真言宗を修める。
万照寺
鞆浦にあり、真言宗を修める。
観音寺
同じく鞆浦にあり、万照寺が管轄する。
弘誓寺
同じく鞆浦にあり、浄土宗を修める。
多宝寺
同じく鞆浦にあり、浄土宗を修める。
東光寺
同じく鞆浦にあり、丈六寺に属する。
宝称寺
同じく鞆浦にあり、和泉(大阪)の慈光寺に属する。
法華寺
同じく鞆浦にあり、法華宗を修める。日蓮像を安置するが、言い伝えでは日蓮自身が彫ったものとされる。天正年間に名東郡の法華寺が廃絶となり、ここに移された。参詣者が多い。
大日寺
宍喰浦にあり、真言宗を修める。寛文11年に免税地となり、採地は4石。もとは総蔵寺と呼ばれ、廃城の下にあった。藤原元信が香火院とし、禅を学んだ。
円頓寺
同じく宍喰浦にあり、大日寺に属する。慶長3年に旅の宿とすることを命じられ、10石を賜り、さらに2石余の租税を免除された。祖師の快厳は、和泉久米田寺の快尊の弟子である。
真福寺
同じく宍喰浦にあり、大日寺に属する。寛文11年に免税となる。もとは祇園山麓にある本具寺と名乗っていたが、慶長3年にここへ移転した。祇園祠を管轄する。
願行寺
同じく宍喰浦にあり、浄土宗を修める。寛文11年に4石余の租税を免除された。もとは鈴峯下にある安養寺を移したものである。
正法寺
同じく宍喰浦にあり、浄土真宗(一向)を修める。寛文11年に1石余の租税を免除された。
浄福寺
窪村にあり、宍喰の願行寺に属する。また、廃城の南西に廃総蔵寺があり、本木氏の香火院であった。
正福寺
日比原にあり、真言宗を修める。
西方寺
同じく日比原にあり、願行寺に属する。
西光寺
尾埼村にあり、大日寺に属する。
東林寺
芥附村にあり、禅興寺に属する。
安楽寺
広岡村にあり、願行寺に属する。
毘沙門堂
小谷村にある。金口(梵鐘の口の部分)があり、「応永二十九年」と刻まれている。
禅興寺
角阪村の山麓にあり、雑川(まぜかわ)を枕にしている。その左側に大悲閣がある。その建築様式は非常に古風で素朴である。毎柱(すべての柱か)、藤原氏がかつて崇敬していた。現在は城府(徳島城下)の瑞巌寺に属する。
藤坊廃址
塩深村にある。大山祠に属する十二坊の一つで、最も大きい。
宝福寺
同じく塩深村にある。また大日寺があり、大山祠を管轄していたが今は廃絶しており、宝福寺がその機能を摂している。真言宗を修める。
医福寺
高園村にあり、真言宗を修める。
真福寺
野江村にあり、真言宗を修める。
地蔵寺
芝村にあり、真言宗を修める。
真光寺
中山村にあり、丈六寺に属する。阿弥陀像を安置する。
九品寺
櫛川村にあり、阿弥陀像を安置する。大悲閣を管轄し、多宝寺に属する。
宝福寺
吉田村にあり、真言宗を修める。
覚宝寺
吉野村にあり、平安(京都)の大覚寺に属する。
阿弥陀寺
大井村にあり、真言宗を修める。阿弥陀像を安置する。
本覚寺
相川村にあり、丈六寺に属する。
弘法寺
同じく相川村にあり、真言宗を修める。
玉泉寺
弱松村にあり、真言宗を修める。
光照寺
神野村にあり、応永4年に建立。丈六寺に属する。大般若経の畸本(欠本ではない異本)200巻を蔵する。
松山寺
小川村にあり、真言宗を修める。
高西寺
同じく小川村にあり、丈六寺に属する。
端伝寺
木頭上山村にあり、真言宗を修める。
永福寺
木頭南宇村にあり、端伝寺に属する。
妙法寺
平谷村にあり、真言宗を修める。
良覚院
牟岐浦にあり、三宝院に属する。
宝覚院
宍喰浦にあり、優婆塞(在家信者)が住んでいる。

祠廟(神社・祠)

和奈佐意冨曾祠(わなさおふそし)
延喜式(神名帳)に載る小社。現在は八幡と称し、古鏡と金口(梵鐘の口)を各一枚収める。かつては鞆浦の大宮山にあったが、慶長9年に大里の松林中に移した。興源公(蜂須賀家政)が度々米を賜り、修復の料とした。鞆・浅川など21村で共同で祀っている。土地の人によれば日本武尊を祀るといい、景行天皇、務成天皇、仲哀天皇、神功皇后、応神天皇の五帝および息長田別皇子を配食する。
宮内祠
阿部浦にある。収蔵する大般若経の畸本の巻末に記された紀年には、康和5年、永安2年、安元元年、治承2年、建久6年、文安元年のものがある。備中の散位藤原重平および重秀、摂津の渡辺安曇寺の某が書写し、後に土佐生見荘の惟宗朝臣長盛が宗観に命じて補写させた。また、住吉祠、蛭子祠、岬祠がある。
蔵王祠
志和岐浦にある。また、住吉祠、蛭子祠がある。
天神祠
由岐東浦にある。祭神は大己貴命(おおなむちのみこと)、少彦名命(すくなひこなのみこと)。また魚吞祠がある。伝承では、祠のそばの渓流の魚を夏に食べると疫病が除かれるといい、掬いに来る者が多いためそう呼ばれる。
八幡祠
由岐西浦にある。また、蛭子祠、住吉祠、祇園祠、日吉祠、愛宕祠、明神祠がある。
岡埼祠
由岐西村にある。また、馬留祠がある。
貴井祠
由岐浦の支落である油宇にある。
八幡祠
田井村にある。白鳥とも称する。また、山王祠がある。
八幡祠
木岐浦にある。また、日吉祠、満石祠、蛭子祠、牛頭祠、王子祠がある。さらに真福寺に源三位祠があり、これは木岐氏らが先祖である(源)頼政を祀るために置いたものとされる。
八幡祠
赤松村にある。氏八幡と称する。また、礫(つぶて)祠がある。さらに松尾祠、窟権現(いわくごんげん)が合食されている。高瀬里には永池祠がある。
八幡祠
日和佐浦にある。観応2年に建立。また、鴨祠、玉木祠、蛭子祠、大黒祠、弁財天祠、立鳥祠、城山祠、湊柱祠がある。支落の夷浜には、蛭子祠、弁財天祠、権現祠がある。
天神祠
奥河内村にある。元和4年に再建。また、愛宕祠、住吉祠、星祠がある。
若一祠
北河内村にある。寛文2年に再建。また、十二社(万治元年再建)、新田祠、八幡祠、明王祠、牛頭祠がある。
八幡祠
西河内村にある。康応5年に建立。また、皇大神祠、住吉祠、新田祠、八幡祠、稲荷祠がある。
白澤祠
山河内村にある。大永8年に再建。また、星祠があり、玉城祠は明暦2年に再建された。
高知祠
橘村にある。昔、狒々(ひひ)が往々にして人に害を与えていたが、土佐の高知の人が兄弟で射殺したため、里民が祠を建てて祀り、「高知」と称した。
五社
辺川村の小松にある。また、権現祠がある。
岬祠
河内村にある。また、弱宮、蔵王祠、米山祠、星祠がある。
王子祠
川長村にある。貞享3年に再建。また天神祠があり、こちらは寛文3年に再建。
灘祠
灘村にある。貞享元年に再建。
八幡祠
牟岐浦にある。承久年中に建てられ、元亀2年に藤原虎房が再建。また皇太神宮があり、宝永4年に波濤で破壊され、5年に再建された。また、蛭子祠、大黒祠、弁財天祠、住吉祠、天神がある。さらに牟岐津祠があり、宝永6年に再建。姥祠は大島にあり、土地の人は牟岐津神の妃だと言い、商船が来ては晴天を祈る。
杉尾祠
中村にある。正徳元年に再建。また、大将軍祠、岬祠がある。
春日祠
内妻村にある。また、牛王祠、牛頭祠、高知祠、石賀祠、古江祠がある。
天神祠
浅川村にある。慶長年間に海が湧き上がり瀕海が罹災し、この祠も水没したため再建された。また、尾山祠、岬祠、岩神祠がある。竈神祠は元和9年に再建。
大歳祠
同じく浅川村にある。俗伝では、文治年間に源頼綱が来宿した際、除夜にここで大歳を祭ったという。
岬祠
同じく浅川村にある。寛永8年に再建。また、馬越山に住吉祠、蛇尾に蛇尾祠(宝永6年建立)、蛇尾山上に蔵王祠がある。
一宮
大里村にある。また金毘羅祠、大紫祠がある。さらに別の一宮があり、直径五寸の古鏡一枚を収める。経塚の上には小祠があり、これも古鏡一枚を収める。
二宮
四方原の弘法寺中にある。また西谷祠(龍祠)があり、丘を背に池に臨み、緑野に囲まれているため、村民が雨乞いをする。
楠王祠
多良村にある。また岬祠がある。
寉(つる)祠
同じく多良村にある。俗伝では、昔源頼朝が放した鶴がここに到ったため、後人が祀ったという。
豫章祠
奥浦にある。そばに豫章(クスノキ)が三株あり、大きなものは周囲一丈、次いで七尺。また周囲一丈のタブノキ、一丈二尺のものが二株ある。郷名(この土地)を達蒲という。また、秋葉祠、脇祠、星祠がある。
湊柱祠
鞆浦にある。また、地主祠、船王祠、住吉祠、蛭子祠、小島祠がある。
愛宕祠
宍喰浦にある。もとは牛伏山にあったが、後に城址へ移した。また、天神祠があり、椎木山に弁財天祠がある。夷祠、住吉祠はいずれも金目(地名か)にあり、権現祠は竹島にある。
岬祠
那佐村にある。
三島祠
同じく那佐村にある。その鬼(あるいは関係者)は弥九郎という。永禄11年春、病を得て摂津の有馬温泉へ湯治に向かったが、途中で雨に阻まれて泊まったところ、藤原吉清が(弥九郎が)自分を窺っていると疑い、一夜にして襲って殺した。元親(長宗我部元親)の入寇もここから起きたという。渡辺八太夫が守りに来ていたが、後に宍喰へ移り商人となった。
八幡祠
窪村の廃城下にある。
祇園祠
窪村にある。正一位を叙される。大永6年丙戌11月15日、藤原持定、本木信久が再建。建永・建暦年間に書かれた大般若経を収める。また仮面三面(三番叟、猊頭、桂男)を収める。半月のような形の鉾があり、長さ五、六丈。毎年6月7日に神輿に乗せて運ぶ。慶長9年12月16日に津波が押し寄せ、3,700人余りが死亡し、郡全体が蕩尽したが、本祠は倒れたものの流されなかった。また一宮里社がある。
御霊祠
日比原にある。また岬祠、三杉尾祠が二つある。
王子祠
尾埼村にある。また星祠が二つある。
岬祠
芥附村にある。
太神祠
広岡村にある。
岬祠
小谷村にある。
天神祠
角阪村にある。
大山祠
塩深村にある。宍喰郷に属し、十二社権現とも称す。俗伝では神名は下総大納言で、塑像が十二体ある。宍喰は「脚咋(あしくい)」の転訛であり、脚咋別(あしくいわけ)の族を祀るものだろう。老木が環合し、華表(鳥居)がある。阪禊川および神田跡がある。明昌7年(丙辰)4月の日付が刻まれた高さ一尺三寸の古鐘があり、「明昌七年丙辰四月日、鑄造金鐘一重六十七斤、徳興寺、寄進・旦那一同心、聖躬萬歳、上棟梁戸長金仁鳳、副棟梁延甫、慶讃陳蕃孝」とある。明昌は金(王朝)の章宗の年号。天明3年9月18日に火災で龍紐が欠けた。祠のそばの倒木は円頓寺に所蔵されており、慶長中の記録に「何年経たか不明だが数百年経っても朽腐せず、色が赤く香りがする」とあるため、血柏(赤いヒノキの類)だろう。周囲二丈、長さ三丈ほど。永正・天文年間には規模が広大で、僧房が十二あり、それぞれが一祠を掌理しており、藤坊がその筆頭であった。また太神祠、岬祠がある。
天一祠
舩津村にある。また岬祠、伊行寺祠がある。
河内祠
久尾村にある。また岬祠がある。
稲荷祠
高園村の医福寺にある。また岡祠、檍祠がある。
大将軍祠
野江村にある。毎年孟春(旧暦正月)に神会(神事)で二人が弓を射る。また祖父木祠がある。
新居祠
芝村にある。古鏡一枚を収める。慶長11年に益田玄蕃允が改造。また天照太神祠があり、毎年孟春に神会で二人が弓を射る。
王子祠
中山村にある。藤原宗壽が建立。21村で共同で祀る。天正年間に兵火にかかったが、柱の礎石はなお残っており、万治2年に再建。また蔵王祠、円山祠、三宝祠がある。
杉尾祠
櫛川村にある。金毘羅の木像を安置する。また大将軍祠がある。
杉尾祠
富田村にある。寛文8年に釋良雅が再建。また鎮守祠があり、吉田に春日祠(慶長14年再建)、八幡祠、三宝祠がある。
杉尾祠
吉野村にある。享禄3年に藤原持定が再建。また三保祠、星祠(星権現とも称す)がある。この間に川があり、星川と呼ぶ。藤原持定を祀る祠がある。
岬祠
熟田村にある。
立池祠
大井村にある。龍祠であり、姫明神とも称す。林木が鬱然としており、中に長さ四十歩、幅十五歩ほどの池がある。土人が雨乞いをする。また聖祠、弱宮、杉尾祠、岬祠がある。
牛王祠
相川村にある。また御室祠、星祠、池主祠、河内祠、弱宮、聖祠、岬祠がある。
岬祠
弱宮松村にある。また牛頭祠、池祠、轟祠、聖祠、鳴瀬祠がある。
岬祠
神野村に二つある。また牛王祠、守神祠、星祠、街祠、稲荷祠がある。神祇谷に神祇祠がある。
豊埼祠
小川村にある。また桑原に岬祠、堅木瀬に八王子祠、志尾に花姫祠(塑像があり古鏡一枚を収める)、小谷口に居祠、堅木屋に五社、他に聖祠がある。
轟祠
平井村にある。鰈谷の滝のそばで龍祠であり、鰈明神とも称す。杉が生い茂り、村民が雨乞いをする。かつて大風が吹き、薪が廬山を巻き、ヒノキが互いに擦れ合って大火が起きたが、三日三夜経っても消えず、そこで雨乞いをしたところ俄に雨が降り火が消えたという。また岬祠、蔵王祠、毘沙門祠、八幡祠、不入祠がある。
八幡祠
木頭海河村にある。また八幡祠、十二社がある。
八幡祠
木頭助村にある。また蝉谷に杉尾祠、中谷に蛇王祠、蛇王祠の裏に歯神祠がある。その主は大きな石で、土地の人は「歯痛の者が拝めば験がある」と言う。また八幡祠、蛭子祠、鎮守祠がある。
鎮守祠
木頭上山本村にある。また出原に明神祠、与計野に山埼祠、九条谷に岬祠がある。
聖祠
同じく木頭本村にある。また八幡祠がある。
八幡祠
木頭椀田村にある。
十二社
木頭南宇村にある。また権現祠、八王子祠、里社、水神祠、地社権現、舩戸祠、鎮守祠、八幡祠がある。
天神祠
木頭西宇村にある。また蔵王祠、里社がある。
八幡祠
木頭栩谷に三つある。
八幡祠
木頭中内に三つある。
蔵王祠
木頭日早に三つある。
聖祠
木頭宇井内に三つある。
八幡祠
木頭北川村にある。また十二社、夷祠、大黒祠、天神祠、石祠、鎮守祠、明神祠がある。
八幡祠
平谷村にある。また牛頭祠、八幡祠、その他に八幡祠が二つあり、一つは児、一つは新田と称す。
八幡祠
平谷白石村にある。また聖牛王祠が二つ、松尾祠、八幡祠がある。
八幡祠
平谷大殿村に二つある。
十二社
平谷尉谷村にある。また八幡祠が二つある。
八幡祠
平谷苻殿村にある。
八幡祠
平谷艀瀬村にある。新井田と称す。
春日祠
古屋村にある。また八幡祠、聖祠、星祠、不動祠、明神祠、蔵王祠、天神祠がある。
関梁(関所・橋梁・番所)
古目(こめ)守封所
宍嶺(ししみね)にある。
金目(かなめ)守封所
同上。
竹島守封所
宍喰の海中にあり、土吏(役人)二名を置く。
候館(こうかん)
竹島の絶頂にあり、外国船や難破船を見張る。
元越(もとごえ)守封所
日比原の両川の境界にある。
追分(おいわけ)守封所
巻廬山(まろやま)にある。
浅川港運司
浅川の加島にあり、また候館がある。
浅川橋
浅川にある。また、本橋と小橋がある。
候館
鞆浦の遠見山にある。
藤橋
木頭にあり、蔓(つる)を用いて作った吊り橋(飛橋)である。