建置沿革
儒員(藩のお抱え儒学者) 臣・藤原憲 輯(あつ)む
海部郡(かいふぐん)
東南は海に臨み、西南は土佐(高知県)に至り、西北は那賀郡(なかぐん)に至り、北は美馬郡(みまぐん)に至る。縦横(の広さ)は二十余里である。
海部(かいふ)は、かつては「郷」であり那賀郡に属していた。(これは)『和名抄(わみょうしょう)』に見える。後に分かれて「郡」となった。慶長九年にはおよそ二十四(の村)があり、元禄年中には二十六、後に五十八となった。
郷名
和射(わさ)
(和名抄にみえる郷名)今は廃れているが、日和射浦(ひわさうら)が残っている。
海部(かいふ)
(和名抄にみえる郷名)『和名抄』に記載されている那賀郡の郷は、すべてで八つある。今は(海部郡に属する)二つの郷を記録し、残りの(六つの郷)は那賀郡に係っている。
古蹟
阿部塁(あべのるい)
阿部浦(あべうら)にある。平政吉(たいらのまさよし)がこれに拠った。
由岐塁(ゆきのるい)
由岐西浦(ゆきにしうら)にある。小高い丘にまたがり、南の海に臨む。高さは一仞(じん)ほどである。永禄・元亀(げんき)の間に平有興(たいらのありおき)がこれに拠った。
木岐塁(ききのるい)
木岐の明神山(みょうじんやま)にある。永禄・元亀の間に源正持(みなもとのまさもち)がこれに拠った。今は官林(国有林)となっている。
赤松塁(あかマツのるい)
赤松村(あかまつむら)にある。影野(かげの)にあり、城台(じょうだい)と称される。
浜塁(はまのるい)
日和射浦(ひわさうら)の浜にある。浜隠岐守(はまおきのかみ)がこれに拠った。また邸宅が矢上村(やがみむら)にあり、湯沐(とうもく)の地(※生活を支える領地や湯治の場所)となっていた。
日和射塁(ひわさのるい)
奥河内村(おくかわうちむら)にある。小高い丘にまたがり、南の海を背にする。高さは三仞(じん)ほどである。永禄年中に源友高(みなもとのともたか)がここに居た。上には権現の祠があり、思うに友高を祀るものである。
牟岐塁(むぎのるい)
牟岐中村(むぎなかむら)にある。藤原行久(ふじわらのゆきひさ)がこれに拠った。また甕城(おうじょう ※防衛用の半円形の小郭)があり、南の海に臨む。天正三年(1575年)に秦元親(長宗我部元親)がこれを攻め落とし、その一族である(香宗我部)親泰(ちかやす)にこれを守らせた。
浅川塁(あさかわのるい)
浅川浦(あさかわうら)にある。永禄・元亀の間に藤原有辰(ふじわらのありとき)がこれに拠った。
海部城(かいふじょう)
あるいは鞆城(ともじょう)と称する。藤原友光(ふじわらのともみつ)がこれに拠った。鞆浦(ともうら)の山の下にある。おそらくは天正五年(1577年)の秋に秦元親(長宗我部元親)が甲浦(かんのうら)・野根(のね)の二つの塁、および宍食塁(ししくいるい)を攻め落とし、遂にここへやってきて攻め落とした。田中長政(たなかながまさ)に守らせて十三年(※天正13年/1585年)、我が大兵(※豊臣方・蜂須賀氏らの大軍)が入るや、長政はその勢いを見て逃げ去った。瑞雲公(蜂須賀家政)は中村重友(なかむらしげとも)にこれを守らせ、次いで池田氏、益田豊後(ますだぶんご)にこれに代わらせて置いた。兵三百人を配置した。(阿波)九城の一つである。今は営(※役所や陣屋)がある。
新城(しんじょう)
地名は島である。鞆浦(ともうら)の北にある。河の水が環流し、東は蒼海(青い海)に臨み、西は奥浦(おくうら)に隣接する。竹や樹木が生い茂っている。
宍食浦塁(ししくいうらのるい)
宍食浦にある。藤原元信(ふじわらのもとのぶ)がこれに拠った。天正五年(1577年)に秦元親(長宗我部元親)がこれを攻め落とし、野中国吉(のなかくによし)にこれを守らせた。
祇園山塁(ぎおんやまのるい)
窪村(くぼむら)にある。藤原持共(ふじわらのもちとも)がこれに拠った。
吉田塁(よしだのるい)
吉田村(よしだむら)にある。吉田庸俊(よしだつねとし)がこれに拠った。東は宍食川(ししくいがわ)に臨み、西は諸山(山々)に隣接する。高さは十丈(じょう)余り、頂上は四方八歩(ほ)で平らであり、南の海に臨む。春日・八幡・金剛の三つの祠がある。天正十年(1582年)に秦元親(長宗我部元親)が北村閑斎(きたむらかんさい)にこれを守らせた。
吉野塁(よしののるい)
吉野村(よしのむら)にある。藤原持共の別塁(別の砦)である。広さは九百歩ほどで、三面には竹林がある。その東の山を萩岡(はぎおか)といい、思うに斥候台(ものみの台)を置いた場所である。祠があり、藤原明神(ふじわらみょうじん)と称する。四方に壕(ほり)があり、一辺は三十歩、広さは二歩半である。また廃井(廃れた井戸)が二つある。
木頭塁(きとうのるい)
木頭上山村(きとうかみやまむら)にある。細川大隅(ほそかわおおすみ)がこれに拠った。今は村長の宅地となっている。
村里
漁(りょう)
渓(川)が浅く流れが速く、損害(水害など)が多い。
阿部(あべ)
志和岐(しわき)
東由岐(ひがしゆき)
旧称は雪(ゆき)。南は龍王林(りゅうおうりん)に至り、北は懐山(ふところやま)に至る。
田井(たい)
赤松(あかまつ)
日和射(ひわさ)
橘(たちばな)
辺川(へがわ)
河内(かわうち)
東西に流れる川があり、西河(にしがわ)、東河(ひがしがわ)と呼び、合流して海に入る。
川長(かわなが)
灘(なだ)
牟岐(むぎ)
内妻(うちづま)
大里(おおさと)
四方原(よもはら)
寛永十三年、命令により開墾し、除地(免税地)とした。村内の里が二つあり、一つを余口(よぐち)、一つを杉谷(すぎたに)という。
多良(たら)
奥浦(おくうら)
元和年中に志方某(しかたなにがし)が開墾した。
鞆浦(ともうら)
坊(ぼう/僧房)があり、役を免除されている。
宍食(ししくい)
あるいはいう、旧称は脚咋(あかくい)。支落(属村)が一つあり、那佐(なさ)といい、除地(免税地)とした。
窪(くぼ)
日比原(ひびはら)
尾埼(おさき)
芥附(あくつけ)
広園(ひろぞの)
小谷(おだに)
角阪(つのさか)
塩深(しおふか)
舩津(ふなつ)
久尾(ひさお)
高園(たかぞの)
旧称は高埆(たかかど)。貞享年間に改称した。
野江(のえ)
芝(しば)
中山(なかやま)
櫛川(くしかわ)
冨田(とみだ)
支落が一つあり、吉田(よしだ)という。
吉野(よしの)
熟田(にえた)
大井(おおい)
相川(あいかわ)
細野(ほその)
今は廃止された弱松(わかまつ)。明和年中に改称した。
神野(かんの)
小川(おがわ)
支落が一つあり、峡背(かいはい)という。
平井(ひらい)
木頭上山(きとうかみやま)
支落が七つある。一つを海河(かいこ)、一つを助村(すけむら)、一つを盌田(わんだ)、一つを南宇(みなみう)、一つを西宇(にしう)、一つを折宇(おりう)、一つを北川(きたがわ)という。
平谷(ひらたに)
支落が五つある。一つを大殿(おおどの)、一つを尉谷(じょうだに)、一つを苻殿(ふどの)、一つを鳴瀨(なるせ)、一つを白石(しろいし)という。
古屋(ふるや)
支落が一つあり、大戸(おおと)という。
戸口
二千二百九十六戸
五千四百七戸、二万三千九百八十八口(人)、雑戸(特定の職能を持つ世帯)四百六戸(寛政年間の記録)
漁・阿部(あべ)
百四十五戸、四百七十四口。蛋戸(たんこ/船上生活者)四人は、寛政元年に役(税や労役)を免除された。
西由岐浦(にしゆきうら)
百八十七戸、七百五十九口。支落(しらく/属村)の油宇(ゆう)は七戸、二十口。
日和佐(ひわさ)
二百十六戸、八百九十口。支落(属村)の夷浜(えびすはま)は六十一戸、二百八十五口。
中村(なかむら)
百三十三戸、五百三十九口。雑戸は十六戸、五十一口。支落(属村)の大島(おおしま)は八戸、二十三口。
大里(おおさと)
百九戸、三百九十四口。雑戸は十戸、四十四口。
宍食(ししくい)
二百六十八戸、七百五十口。支落(属村)の奈佐(なさ)は二十戸、六十四口。
富田(とみだ)
支落(属村)の吉田(よしだ)と合わせて二十二戸、九十八口
山川
金龍瀑(きんりゅうのたき)
阿部浦(あべうら)の東にある。南の海を見下ろす位置にあり、その上には一辺が三丈(じょう)、深さが五仞(じん)ほどの石の淵(水たまり)がある。そこから流れ出て渓流(川)となるものを「擂盆溪(すりばちけい)」と呼んでおり、これがすなわちこの滝の源流である。東の山麓には「鳶捕(とびとり)」と呼ばれる松があり、幹の太さは(大人が両手を広げて抱えた長さの)三囲(まわり)ほどで、根がすべて露出している。子供たちがその下に隠れ伏して、鳥を誘い込んでこれを捕らえる。元禄年中に、滝の傍らに石仏を安置した。
鹿首島(かしくびじま)
阿部浦の南にある。遠見番所(候館)がある。その東の少し高い場所を、現地の人は「簑手山(みのてやま)」と呼んでいる。
雩島(うしま)
志和岐(しわぎ)の南にある。樹木の緑が深く茂っている。
雪池(ゆきいけ)
東由岐村と西由岐村の間にある。康安元年(1361年)に大地震が起きて津波(海湧)が発生し、村全体がことごとく流されて尽くした。六月十六日の地震から十月に至るまで、地が裂けて池となった。長さは二百二十歩(ほ)、幅は百歩である。『太平記』に見える。正徳年中に(この地を)四分を西村、六分を東村とした。風や激しい波が起きるたびに、村民はここに船を避難させて置く。
箟島(のしま)
西由岐の東で海に入ること三百歩のところにある。傍らに「眠島(ねむりじま)」がある。
木岐川(ききがわ)
源流は大藤(おおふじ)から出て、南へ流れて木岐浦(ききうら)に至って海に入る。
天狗谷(てんぐだに)
赤松村(あかまつむら)にあり、お立ち入り禁止の山(禁山)となっている。長さは二里(り)半にわたる。
鎌嶽(かまたけ)
天狗谷に属し、これもまた禁山である。長さは二千四百歩にわたる。
南叉(みなみまた)
これもまた天狗谷に属し、禁山である。杉、柏(ヒノキ科の木)、樅(モミ)が多い。
鈴谷(すずがたに)
これもまた赤松村にあり、禁山である。長さは百八十歩にわたる。
高筧(たかけい)
これもまた赤松村にあり、禁山である。
流屋(ながれや)
これもまた赤松村にあり、禁山である。長さは四百二十歩にわたる。
赤松川(あかまつがわ)
源流は那賀郡(なかぐん)の杉山谷(すぎやまがに)から出て、東南へ流れて赤松山に至る。天狗溪(てんぐけい)が東から(ここに)合流し、東へ流れて赤松村に至る。寺野溪(てらのけい)が東から合流し、さらに北へ流れて那賀郡雄村(おむら)に至る。南凥溪(みなみしりけい)もまた東から合流し、川口里(かわぐちのさと)に至って長河(那賀川)に入る。川幅は狭く、船や筏(いかだ)を通すことはできない。
観音瀑(かんのんのたき)
赤松村の阿字谷(あじだに)にある。傍らに小さな堂があり、観音像が安置されている。
広瀬川(ひろせがわ)
すなわち日和射川(ひわさがわ)のことである。山河内(やまがわうち)から出て、西河内(にしがわうち)を経て奥河内(おくかわうち)に至る。北河内溪(きたがわうちけい)が北から合流し、南へ流れて日和射浦(ひわさうら)に至って海に入る。また山に「後山(うしろやま)」と呼ぶものがあり、その頂上には「碁盤(ごばん)」と呼ばれる石がある。広さは一歩四方で、断紋(切れ込みの筋)が碁盤の目のようである。「試剣石(しけんせき)」の類(※刀で切り割ったという伝説のある石)である。
玉厨子山(たまづしやま)
山河内にある。西の方へ医王山(いおうざん)を隔てること三千六百歩である。形は円く、松の樹がすっきりと美しく生えており、見るに値する。石の洞窟(洞中)には釈迦像が安置されており、怪しい岩(奇岩)が連なっている。また「大悲閣(だいひかく)」があったが、寛永十六年(1639年)の秋に火災に遭った。南崇公(※藩主・蜂須賀光隆)が僧・鉄崖(てつがい)に命じてこれを重ねて造らせ(再建させ)、(僧らの)安居(あんご/修行)の場所とした。
八郎山(はちろうざん)
これもまた山河内にあり、高く険しい。材木が叢生(群生)しており、禁山となっている。また、松戸(まつど)、請谷(うけだに)、大越(おおごえ)、大漬(おおづけ)の諸山と隣接している。
畔淵(あぜのふち)
橘村(たちばなむら)の道路の側にある。
鬼城(おにがじょう)
橘村にある。坂道を九百歩進んだところに、高さ十五丈(じょう)ほど、長さ六十歩の石の崖がある。俗伝では、昔ここに「仏々(ぶつぶつ)」という者が住んでいたという。
水落瀑(みずおちのたき)
灘村(なだむら)にあり、高さは一丈余りである。頭風(頭痛やめまいなどの病)を患う者が来て(滝に)打たれる。
牟岐川(むぎがわ)
源流は橘村小松(こまつ)から出て、西南へ流れて川長(かわなが)に至る。中村溪(なかむらけい)が西から合流し、南へ流れて牟岐浦(むぎうら)に至って海に入る。
手羽島(てばじま)
牟岐浦から海へ入ること一里(り)ほどのところにある。その左側に二つの小さな島があり、「大津(おおつ)」「小津(こつ)」と呼ぶ。
大島(おおしま)
牟岐浦の津島(つしま)の東南、海に入ること三里ほどのところにある。最も大きく、手羽島がこれに次ぐ。魚戸(ぎょこ ※漁師の家)や田がある。気候は極めて温暖で、恵(※おそらく蘭の一種、あるいは特定の植物)が生え、冬に花を開く。蕃椒(トウガラシ)が冬を経てもなお青々と栄えることがある。その東北に「逆手(さかて)」と呼ばれる小さな島がある。
内妻川(うちづまがわ)
源流は奥内妻(おくうちづま)から出て、南へ流れて本村(内妻村)に至って海に入る。
円島(まるしま)
内妻村にある。福良(ふくら)が突き出て海に入り、上洋(かみのうみ)と下洋(しものうみ)の境界となっている。
逢坂(おうさか)
内妻村にある。東は牟岐に接し、西は内妻の汀(みぎわ/水際)に臨む。
松坂(まつさか)
内妻の汀の西にある。一説には「待坂(まつさか)」とも書く。
福良坂(ふくらさか)
古江(ふるえ)の汀の西にある。一名を「古江坂」ともいう。以上は内妻村に属する。
萩坂(はぎさか)
鯖瀬の汀の西にある。一名を「大綱坂(おおつなさか)」ともいい、その道の長さが綱のようであることから(そう呼ばれると)いう。
鍛冶屋坂(かじやさか)
大汀(おおみぎわ)の西にある。一名を「閑所坂(かんじょさか)」という。
粟浦坂(あわうらさか)
鍛冶屋の汀の西にある。一名を「波背坂(はせさか)」という。
借戸坂(かるへとさか)
走(はしり)の汀の西にある。以上は浅川(あさかわ)に属する。逢坂からここ(借戸坂)にいたるまでを「ノ八坂(のやさか)」という。
福良汀(ふくらのみぎわ)
福良坂の西にある。以上は内妻に属する。
三浦(みうら)
借戸坂の西にある。以上は浅川に属する。内妻の汀からここ(三浦)にいたるまでを「八汀(はっちょう)」と呼び、これらは八坂の間に分かれて位置しており、砂の海岸(砂岸)が曲がりくねって続いている。
新川(しんかわ)
源流は新溪(しんけい)から出て、南へ流れて粟浦(あわうら)に至って海に入る。
龍留川(たつどめがわ)
源流は浦上(うらがみ)から出て、南へ流れて龍留(たつどめ)および借戸坂を経て、浅川浦(あさかわうら)に至って海に入る。
伊勢田川(いせだがわ)
源流は那谷(なたに)から出て、浅川浦に至って海に入る。長さは二里余りである。水が浅く、海口(河口)から百歩外側では船が底をすって(膠着して)通ることができない。
桶島(おけじま)
浅川の海口(河口)の閑所坂(かんじょさか)の南にある。頂上が朽ちて凹んでおり、水がたまっている。
加島(かしま)
桶島の西、海に入ること四百八十歩のところにある。広さは六步四方ほどである。竹や木が茂り生えており、若干の田がある。寛永二十一年(1644年)以来、地元の役人(土吏)である吉田某に下賜された。
鯖床島(さばどこじま)
加島の西にある。禁山となっている。
浅川(あさかわ)
浅川村の浦上から出て、浅川浦の集落の中(閭中)を経て海に入る。
蝦池(えびいけ)
浅川と大里(おおさと)の境界にある。周囲は三千歩ほどである。夏や秋にはさまざまな魚が出る。また牡蠣(カキ)が極めて多く、その殻が集まってまるで「蠔山(かきやま)」のようになっている。側にはススキ(芒)やカヤ(苞)が生い茂っており、まさに(古い詩歌などにいう)「一木芒(いちぼくのすすき)」と呼ばれるものである。
海部川(かいふがわ)
源流は巻廬山(まきいおざん ※現在の高城山周辺など)から出て、東南へ流れて川又(かわまた)に至る。大廬溪(おおいおけい)が西から合流し、平井(ひらい)に至って鰈溪(かれいけい)が北から合流する。桑原(くわばら)に至って峡背溪(かいはいけい)もまた北から合流する。弱松(わかまつ ※地名か)に至るまでの間に、急流(急湍)が十四ある。それぞれ「荒瀬(あらせ)」「的岩(まtoiwa)」「藤瀬(ふじせ)」「深瀬(ふかせ)」「桃瀬(ももせ)」「小川(おがわ)」「杖突瀬(つえつきぜ)」「喜木瀬(ききぜ)」「平尾(ひらお)」「桑原(くわばら)」「堅木瀬(かたきぜ)」「高瀬(たかせ)」「鵄瀬(とびせ)」「瓶尻(かめじり)」という。相溪(あいのけい)、大井溪(おおいけい)が西から合流し、南へ流れて高園(たかぞの)に至る。母川(もがわ)が西から合流し、奥浦(おくうら)に至って海に入る。(平時は)薪木を浮かべて流すことができるが、水が引いて(水が少なくなって)しまうと船は通れない。長さは五里余りである。
大里渠(おおさとみぞ)
余口(よぐち)、移谷(うつしたに)、および多良村(たらむら)から出て合流し、海に入る。民がこれを引き入れて田畑の灌漑(かんがい)に用いる。夏の時期には蛍が多い。
大里松林(おおさとのまつばやし)
長さは千二百余歩、幅はおよそ百八十歩である。白い砂が平らに敷き詰められたようになっており、南には大きな海(南溟)が前に開け、はるか遠くまで見渡すかぎり無限に広がっている。
妙見山(みょうけんざん)
奥浦の北にあり、禁山である。北は大川(海部川)を限界とし、西は諸山(山々)に連なる。上には星の祠(妙見祠)があり、石の階段(石磴)が五十歩ある。
鹿谷(しかたに)
奥浦の東南にあり、鞆浦(ともうら)に接する。西は宍食(ししくい)へ至る公道(官道)に通じている。上には秋葉の祠がある。
脇宮山(わきみやさん)
奥浦の南にある。上には脇宮(わきみや)および水神の祠がある。薪木が産出する。
愛宕山(あたごやま)
鞆浦の南にある。上には愛宕の祠があり、禁山となっている。南には青い海(蒼海)を見下ろし、東には紀伊(和歌山県)を望む。海に面した国々の村々(諸邑)を、ひと目で残さず見渡すことができる。
山神林(さんじんの はやし)
鞆浦の西の山中にある。山霊の祠(山の神の祠)がある。近くは奈射(なさ)に臨み、遠くは土佐を望む。また、地名に「大宮和奈射意富曾(おおみやわなさおおそ)」と称する場所がある。祠(※和奈佐意富曽神社)がかつてここにあったため、因んで名付けられた。
遠候山(とおそうやま)
鞆浦の東にある。遠見番所(候館)がある。東南は海に対面し、北はさまざまな浦(諸浦)を見下ろす。春や冬に(魚を捕るための)網を張る際、漁人がここに登って(指図のために)合図の菴(いおり)を指し示す。
奈射港(なさこう)
宍食浦の東にあり、鞆浦に隣接する。この地はかつて「和奈射意富曾(わなさおおそ)」の祠に接していたことから名付けられた。東南は海に連なり、西は乳埼山(ちさきやま)に接する。足元から水(海)へと突き出ている場所が全部で七つあり、それらが並んでいる様子が(竹の)節のようであることから「七浦(ななうら)」と称する。前には三つの島がある。大きなものは「一島(いちしま)」と称し、頂上には弥九郎(みくろう)の祠があり、鳥居(華表)が水の中に立っている。二つの島はその東南にあり、「孿島(ふたごじま)」と名付けられている。海と光を映し合って(映帯して)明るく美しく、絵のようである。漁人が魚を捕る場所であり、波を防ぐために樹木が植えられている。
乳埼山(ちさきやま)
奈佐港の東にある。一名を「仕立山(したてやま)」ともいう。南の海へ突き出ており、松の樹が群生している。岩があり、名を「冠岩(かんむりいわ)」という。また「烏帽子岩(えぼしいわ)」とも呼び、高さは一丈余りで、形は(冠の)岸幘(がんさく ※額の出た冠の形)のようである。また石の凹んだところが舟のようになっており、断崖に横に懸かっている。その下の海は深く、水の色は紺碧(濃い青色)で、最も優れた美しい景色(佳景)である。
宍食浦(ししくいうら)
海部の西の境界である。およそ土地(の性質)は砂が多く、魚の臓物やその汁を肥料(糞)として用いる。
愛宕山(あたごやま)
宍食浦にあり、古目嶺(こめとうげ)と隣接している。高く険しくて登りにくい。かつては愛宕の祠がここにあったが、後に(祠は)並んで村の中へと移された。
椎樹島(しいのきじま)
宍食川(ししくいがわ)の中にあり、禁山である。上には弁財天の祠が安置されている。
牛伏山(うしぶせやま)
南は土佐に接する。草が多く、牛馬を放牧することができる。上には愛宕の旧址(古い跡)があり、すこぶる優れた景色(勝景)である。
宍食川(ししくいがわ)
源流は小谷(おだに)から出て、南へ流れて芥附(あくつけ)に至り、禊川(みそぎがわ)が北から注ぎ入る。南へ流れて尾崎(おざき)、日比原(ひびはら)を経て、宍食浦に至って海に入る。川幅は二十歩、あるいは十五歩である。所々でこれを引き入れて田畑の灌漑に用いる。薪木を浮かべて流すことができる。中河原(なかがわら)から上流は船が通れない。
獅子礁(ししのハエ)
宍食の覚位(かくい)の汀にある。形が野猪(イノシシ)に似ている。また「鹿児居島(かこいじま)」と呼ばれるものがあるが、実際には島ではなく礁(隠れ岩・岩礁)である。
鵜礁(うのハエ)
獅子礁の東にある。鵜(う)が集まって来ることから名付けられた。鵜の形をしているわけではない。
棚礁(たなのハエ)
孿島(ふたごじま)の南にある。
鈴礁(すずのハエ)
鵜礁の東にある。鈴峯(すずがみね)に秘蔵されていた鈴がここから出たとされ、その痕跡が残っている。
佐微島(さびじま)
竹島(たけしま)の北にある。石梅(せきばい/イシウメ ※ウメボシイソギンチャク等の類か)を産出し、現地の人は石梅のことを「佐微(さび)」と呼ぶ。
四島(よつしま)
孿島の西南にある。これも実際には礁(岩礁)であり、島ではない。二つずつが相対している。
隺島(つるしま)
鼓石(つづきいわ)の上にあり、相伝では、もともと木氏(きし)が鶴を飼っていた場所であるという。
座頭石(ざとういし、原文
瞽者石):宍食港の入り口にある。形が座頭(盲人)が座っている姿に似ており、高さは二丈ほどである。石の性質が柔らかくしなやか(柔靭)で、波浪によって削られてできたものである。以下、形が似ている(と記述される)石についても同様である。
鼓石(つづきいわ)
覚位の石の崖にある。表面が絵のように盛り上がって(隠起して)おり、形は鞨鼓(かっこ ※太鼓の一種)を紐で縛って固定したようである。その数は五つある。
大鼓石(おおつづきいわ)
鼓石の西にある。盛り上がって太鼓のようになっている。
石亀(いしがめ)
大鼓石の西にある。形が円く亀のようで、長さは二丈ほどである。
石鯉(いしごい)
金埼(かねさき)の石の崖にある。その模様が鯉のようで、波に従って下るかのようである。長さは五尺(しゃく)ほどである。
浪石(なみいし)
宍食の海の中にある。形が騒ぎ立つ波のようである。およそこのあたりの諸石(岩々)は、形状や勢いが極めて奇異で怪しいものであるが、ただ荒れ果てた僻地にあるために、これを賞美して楽しむ者がいないだけである。
竹島(たけしま)
これもまた宍食の海の中にある。竹や樹木がすこぶる茂っており、斧や山刀(斧斤)を入れない。中には小さな祠があり、「権現(ごんげん)」と称する。お役人(官吏)二人(※見張り役などか)がその南に居住している。四つの暗礁(隠れ岩)があり、それぞれ「大柄杓(おおひしゃく)」「小柄杓(こひしゃく)」「鯨(くじら)」「噦(しゃくり)」といい、その根元はすべて竹島と連なっている。
孿子礁(ふたごのハエ)
竹島の東南、宍食嶺(ししくいとうげ)を隔てること六百歩ほどのところにある。二つの島が対峙していることから因んで名付けられた。北側は阿波(徳島県)に属し、南側は土佐(高知県)に属する。
帽子礁(ぼうしのハエ)
その形状に似ていることから名付けられた。竹島の東南にある。
臍石(へそいし)
宍食川の西の崖にある。形は円くて長く、その色は蒼白(青白い)で、磨いたり削ったりしたかのようであり、一寸の草も生えていない。上下ともに豊かに満ちており、形は(「立」という)文字を立てたようである。その下には十人余りが座ることができ、端正で愛すべき姿である。
民部岩(みんぶいわ)
宍食浦にある。民部(みんぶ ※人名・あるいは百官名)がここに逃れてきて死んだという。
金目山(かなめやま)
土佐の甲浦(かんのうら)と隣接している。田が十二石(こく)余りある。寛文年間の前に、現地の平左衛門(へいざえもん)という者が南の山麓を墾田(開墾)し、これを「歯朶尾(しだお)」と称した。土地の漁師たちがかつてここを争い、訴訟において理屈が曲がっていた(非があった)ため、平左衛門がこれを訴え、これによって(漁師らの)余丁(よてい ※課税対象の成人男性)の労役を免除された。
古目坂(こめさか)
また「宍嶺(ししくいとうげ)」とも呼ぶ。土佐との境界にあり、高さは三百歩ほどである。
祇園山林(ぎおんやまの はやし)
窪村(くぼむら)にある。すなわち藤氏(ふじし ※藤原氏・あるいは地元豪族)の城跡(墟)である。その麓に祇園の祠があり、林の木々が周囲を取り囲んでいる。
鈴峯(すずがみね)
これもまた窪村にある。険しく切り立って(峭拔)曲がりくねっており、石段の道(磴道)は千八十歩ある。上には堂があり観音像が安置されている。一口(ひとつ)の鈴を蔵(所蔵)していることから因んで名付けられた。その峯にはまた茶鑵(茶釜・急須)があり、極めて古色を帯びており、鱗(うろこ)のような模様(鱗紋)がある。水が一斗三升(いっとさんしょう)ほど入る。並びに櫛川村(くしかわむら)の孫右衛門(まごえもん)という者が、天和年中に海辺でこれを得たものである。俗伝では、これを洗えば必ず風雨が起きるといい、敬うこと神のごとくである。大晦日の夜(除夜)には、聖灯(不思議な火)が灯る。
窪川(くぼがわ)
源流は鈴峯から出て、南へ流れて窪村を経て海に入る。
天狗石(てんぐいし)
日比原(ひびはら)の山の中にあり、(集落から)三百六十歩ほどである。高さは二丈、幅は十歩四方ほどで、登って見下ろすことができる。
井神淵(いのがみのふち)
日比原にある。幅は八歩、長さは二十歩ほどである。上には小さな祠があり「井神(いのがみ)」と称する。現地の人が雨乞いをする。
烏帽岩(えぼしいわ)
尾崎村(おざきむら)の山中にある。民家(閭)を去ること三百歩、高さは一丈八尺(しゃく)ほどで、その形が似ていることから名付けられた。
雄蛙石(おがえるいし)
尾崎村にある。高さは一丈八尺ほどで、蛙(かえる)に似ている。芥附村(あくつけむら)にもまた同じような石があり、そのため因んで雌雄に区別している。
蛇谷(じゃだに)
尾崎村にある。今は「阿瀬谷(あせたに)」と称する。大きな石に穴があり、長さ五尺、幅三尺、深さ五仞(じん)ほどで、俗に「地獄釜(じごくがま)」と呼ぶ。その上を「仏嶺(ほとけとうげ)」と名付けており、道はまばらで谷は深い。
雌蛙石(めがえるいし)
芥附村の中山(なかやま)にある。高さは二丈余りで、その形が似ていることから名付けられた。
新発意石(しんぼちいし)
これもまた中山にある。形が僧侶(新発意 ※出家したばかりの僧)に似ている。
大鼓石(おおつづきいわ)
これもまた中山にある。高さは一丈八尺余りである。
大溪(おおたに)
小谷村(おだにむら)から出る。すなわち宍食川の源流である。また「中溪(なかたに)」がある。
観音山林(かんのんやまの はやし)
角阪村(つのさかむら)にある。すなわち大悲閣(だいひかく)が所在する場所である。古木が青々と茂っており(蒼翠)、その側には「禅興寺(ぜんこうじ)」がある。
華表坂(とりいさか)
塩深村(しおふかむら)にある。大山の祠の鳥居(華表)がかつてここにあったことから因んで名付けられた。
禊川(みそぎがわ)
源流は角阪から出て、南へ流れて芥附に至り、宍食川に注ぎ入る。
船津川(ふなつがわ)
源流は東谷(ひがしたに)の石轟(いしどどろ)から出て、久尾村(ひさおむら)に至って「畷川(なわてがわ)」と呼ばれる。南へ流れて船津村(ふなつむら)を経て、やや大きくなり、境界を越えて土佐の野根浦(のねうら)に至る。大雨(水潦)が至れば、これによって薪木を浮かべて流すことができる。
石轟瀑(いしどどろのたき)
久尾の山中にある。石の洞窟(石洞)は深く奥まっており(深邃)、水のカーテン(水簾)のように滝が懸かり流れている。古木がうっそうと茂り(森々)、これを覆っている。中には龍の祠(龍祠)があり、現地の人が雨乞いをする。道はまた非常に危険で険しい。その地名を「結石(むすびいし)」という。
猪嶺(いのたお)
船津村の東にある。すこぶる高く、これを越えると宍食川の源流に至る。薪木を浮かべて流すことができる。また「石牛(いしうし)」があり、土佐に隣接する。
馬路嶺(うまじとうげ)
高園村(たかぞのむら)にある。四方の眺めがすこぶる良く、巡検使(撫使)が休息する場所である。
母川(もがわ)
源流は櫛川村(くしかわむら)から出て、南へ流れて高園村に至り、海部川に注ぎ入る。長さは一里ほどである。俗伝では、昔、孝行な民が地を掘って清水を得て、これによってその母を養ったといい、後に遂に川(溪)となったため因んで名付けられた。高園の板橋(いたばし)の南に淵があり、その中央に「裂岩淵(さきいわのふち)」と称する石がある。大きな鰻(ウナギ、大鰻鱺)を産出する。
蛇淵(じゃぶち)
中山の石敷谷(いしじきだに)にある。幅は三丈、長さは六丈で、その深さは測ることができないほどである。飛泉(滝)がここに注ぎ入っている。龍の祠があり「轟(とどろ)」と称する。現地の人が雨乞いをする。側には「蛇巻(じゃまき)」と称する石がある。また、石の崖には馬の蹄の痕(馬蹄痕)がある。また石の穴の中には、潮の満ち引きに応じて湧き出る泉(応潮泉)がある。
不動瀑(ふどうのたき)
野江村(のえむら)にある。飛び流れる滝は三十仞(じん)ほどである。傍らに石の窟(いわや)があり、不動像が安置されている。草庵が一宇あり、六十年の前に女僧(尼僧)の「貞寿(ていじゅ)」が置いたものである。母川に臨んでおり(枕母川)、その地は奥深く静かで(幽邃)、遊覧するに値する。
北川(きたがわ)
源流は吉田村(よしだむら)から出て、東へ流れて海部川に入る。
北渠(きたみぞ)
吉野(よしの)にある。長さは四百20歩、幅は一歩である。日照り(旱)になればすなわち水が枯れるため、因んで海部川を引き入れている。堰(せき)があり、長さは百三十歩、幅は八歩である。
禅僧林(ぜんそうばやし)
相川(あいかわ)、小川(おがわ)、平井(ひらい)の三つの村にまたがっている。長さは一万八十歩である。杉(スギ)、樅(モミ)、扁柏(ヒノキ)、豫章(クスノキ)が生えており、小さいものは幹の回りが二尺、大きなものは七尺に達する。その頂上(山の頂)を「櫧廬(いちいお)」といい、登ること六十歩のところに熊(クマ)が多い。大きな杉があり、幹の回りは十三囲(まわり)ほどで、ここを去ること百八十歩のところから始めてその山頂(巓)が見えるようになる。
相川(あいかわ)
源流は禅僧山(ぜんそうやま)から出て、相川村を経て大井村(おおいむら)に至り、海部川に注ぎ入る。長さは二里半である。春や夏に水が至れば(増水すれば)、船や筏がようやく通ることができる。
峡背山(かいはいざん)
小川村にある。高さは六百仞、周囲は二里である。山の中には「梅樹谷(うめきだに)」があり、芍薬(シャクヤク)が自生している。白い花で一重咲き(単瓣)である。
小川山(おがわやま)
これもまた小川村にある。高さは五百余仞、周囲は三里である。東南は牟岐に隣接する。その間に「小谷(おだに)」と呼ぶ谷がある。高さ六丈ほどの石があり、黒色でそびえ立っており、雑木がこれを覆っている。声をかけると(唱えれば)すなわちこだまする(和す)。現地の人は「鸚鵡石(おうむいし)」と呼んでいる。
桑原山(くわばらやま)
これもまた小川村にある。高さは五百仞、周囲は二里余りである。西は禅僧林に隣接する。
玉笠山(たまがさやま)
これもまた小川村にある。高さは五百仞、周囲は二里半である。山の麓に渓流があり、千余歩ほど遡ると深い淵がある。俗伝では、昔、「栗林伊賀介(くりばやしいがのすけ)」という者が狩りに来た際、たまたま大蛇(蠎蛇)が現れて襲ってきたが、彼の猟犬(狗)が極めて優秀で、これを噛み殺したという。山の入り口を「狗塚(いぬづか)」といい、その猟犬を埋葬した場所(理其狗之地)である。
轟瀑(とどろのたき)
平井村(ひらいむら)の鰈谷(かれいたに)にある。その地勢は南郷(みなみごう)であり、東は請峯(うけがみね)に接し、西は後谷(うしろだに)を境界とし、北は木頭(きとう)に隣接する。水源は巻廬山(まきいおざん)から出る。その間、数里にわたって滝(瀑布)となっているものが数え切れないほど多く、現地の人は「九十九瀑(つくもだき)」と称している。その中で最も優れたものが八つあり、「上轟(かみとどろ)」と呼ばれるものは、道がますます険しく遮られており、葛(クズの藤蔓)を引っ張って進む。また「石瀑(いしたき)」「横瀑(よこたき)」「烏還(からすかえり)」「円淵(まるぶち)」「千淵(せんぶち)」「舩瀑(ふなたき)」「十兵瀑(じゅうべえだき)」と呼ばれるものがある。あるいは十仞、あるいは二十仞の高さから、ここに至って直下に数十仞も流れ落ちる。石に触れて二つの道(流れ)となり、石の崖がこれを抱え込んでいる。その下は澄んだ深い淵(澄潭)で底が知れず、直径は十歩ほどである。巨木が沈んでいることがあり、沈むと出てこない。左右はみずみずしい屏風(翠屏)のようで、草木(卉木)が逆さまに懸かっており、丸い流れが前方に開け、怪しい岩が中に突き出ている。奇妙で優れた景色(奇勝)は比べるものがない。その東には「安竜(あんりゅう)」の祠があり、すなわち「轟神(とどろのかみ)」である。杉の樹が周囲を取り囲んでおり、幹の太さは二、三囲ほどで、うっそうと茂って(蓊欝)日差しが見えない。
烏還瀑(からすかえりのたき)
石の崖の高さは十八歩である。ほとばしる流れは白い虹(白虹)のようである。巻柏(イワヒバ)がまばらに生えている。道は極めて危険で険しい(危嶮)。一名を「空穂(うつぼ)」という。
巻廬山(まきいおざん)
高さは三千仞、長さは三里、周囲は七里である。孤高としてうっそうと群生しており、近隣のすべての山々(闔群)の中で第一である。良質な木材(良材)を産出し、杉が最も多く出る。お役所(官舎)が四区あり、鉄砲隊の兵(銃卒)がこれを守っている。東側を「川又(かわまた)」といい、北へ至ること「日早(ひそう)」と呼ばれる場所まで一里千八十歩ほどである。十一の谷があり、それぞれ「西表(にしおもて)」「譲葉(ゆずりは)」「島屋廬(しまやいお)」「大還(おおがえり)」「猪戻(いのもどり)」「綟(もじり)」「余慶(よけい)」「五葉(ごよう)」「小谷(おだに)」「角谷(つのや)」「投峡津(なげきょうづ)」という。
請峯林(うけがみねの はやし)
平井村にある。高さは二千四百仞である。その山頂を「不入(いらず)」といい、おそらく斧や山刀(斧斤)を入れない(不入)という意味である。杉や柏(ヒノキ科の木)が森々とそびえ立っており、価値ある山(金山)となっている。祠があり「不入権現(いらずごんげん)」と称する。また絶頂(山のてっぺん)には「請池(うけいけ)」があり、これは「池ノ転(いけのころび ※あるいは地名の転訛)」をいう。また朽ちた木の根から聖なる水(聖水)が湧き出ており、崖を懸け流れて滝となっている。現地の人がこれを汲んで病気を治療する。
海河林(かいこの はやし)
木頭の海河村(かいこむら)にある。周囲は三里ほどで、禁山となっている。
倉谷林(くらたにの はやし)
これもまた海河村にある。
奥日早林(おくひそうの はやし)
これもまた海河村にある。近隣の古屋村(ふるやむら)の民がやってきて墾田(開墾)を行っている。
海河池(かいこのいけ)
これもまた海河村にある。山の麓に長さ百歩にわたって広がっており、日照り(旱)に遭っても枯れることがない。
海河川(かいこがわ)
すなわち東叉川(ひがしまたがわ)のことである。源流は海河谷(かいこだに)から出て、四里流れて長河(那賀川)に入る。
西又川(にしまたがわ)
これもまた海河谷から出て、三里流れて長河に入る。
霧越峰(きりごえとうげ)
南は峡背(かいはい)に接し、北は海河に通じる。その間は三里ほどである。左右に折れ曲がっており(詰曲)、さまざまな樹木がうっそうと茂り、民家は一軒もない。東側を「六町(ろくちょう)」といい古屋村に属する。西側はすなわち海河谷である。南には険しい坂(峻阪)があり、石を穿(うが)って道を通している。屈曲しながら登っていくため、名を「九十(くじゅう ※九十九折のことか)」という。
星越坂(ほしごえさか)
海河村にある。西の方へ追谷(おいだに)を過ぎること三百歩のところに、上(坂の上)に石仏が安置されている。道は上山(かみやま ※木頭上山)に通じる。
天狗嶽(てんぐだけ)
海河村にある。西の円山(まるやま)にあり、石が独立して立っている。西の方へ上山を隔てること一里、東の方へ平谷(ひらたに)を隔てること半里である。坂があり「熊坂(くまさか)」という。西北の方へ助村(すけむら)を隔てること一里であり、長瀬谷(ながせだに)を経て源蔵窪(げんぞうくぼ)に至る。
龍王石(りゅうおういし)
木頭の大窪(おおくぼ)、長河(那賀川)の上流にある。現地の人が雨乞いを行う場所(雩所)である。
蝉谷(せみだに)
上山(かみやま)の北にある。その山頂(巓)は樹木がうっそうと茂っている。
三段瀑(さんだんのたき)
蝉谷にあり、高さは十仞(じん)である。
石瀑(いしたき)
蝉谷の西にある。石の崖の高さは二十八丈であり、飛泉(滝)がここに懸かっている。
蛇石(へびいし)
名谷(なだに)にある。那賀郡の岩倉(いわくら)を隔てること千八百歩である。
男瀑女瀑(おだきめだき)
東叉(ひがしまた)にあり、西の方へ裾谷(すそだに)を過ぎること三千六百歩のところにある。その高さは測ることができないほどである。下流は九文谷(くもんだに)に至り、二里で谷叉(たにまた)に至って西叉谷(にしまただに)と合流する。
雨留瀑(あまどめのたき)
中谷(なかたに)の西、千八百歩のところにある。高さは十仞である。昔、雨乞いをしたところ風雨が大いに至り、その後は恐れてあえてここで雨乞いをしなくなった。
上山(かみやま ※木頭上山)
さまざまな山(諸山)が周囲に列をなしており、長河(那賀川)が前方に流れている。民居(民家)がやや多い。材木が集まる場所である。「相殿(あいでん)」がある。国の初め(徳島藩初期)に「細川大隅(ほそかわおおすみ)」という者が拠っていたが、益田豊州(ますだほうしゅう)が火を放ってこれを攻め、大隅は逃げ去ったが、舎人(とねり ※家来)らによって北川(きたがわ)で殺害(弑)された。東の方は久乗谷(くのりだに)に通じており、石の門(石門)および飛泉(滝)がある。南の方は南宇村(みなみうむら)の蔭谷(かげだに)に通じる。西の方は腰越坂(こしごえさか)に通じる。北の方は九文(くもん ※九文谷)に通じており、名は「二千四百歩」という。上越坂(かみごえさか)を経て峡背(かいはい)に至るまで、四里ほどである。
岩下瀑(いわしたのたき)
木頭上山村にある。下流を北へ一里ほど行ったところで長河(那賀川)に入る。
上山池(かみやまいけ)
これもまた上山にあり、長さは千六百二十歩である。
御富添林(おとみぞえの はやし)
これもまた上山にあり、禁山となっている。
掛鈎崖(かけかぎの崖)
これもまた上山にあり、長河(那賀川)を上から見下ろしている。壁のように千仞も立ち並んでおり、上方は険しくそびえ立って、すっぱりと断絶している。足の踏み場(下ろすところ)がなく、目が眩(くら)んで行くことができない。
大森山(おおもりやま)
木頭の盌田村(わんだむら ※現在の椀田など)の北にある。そびえ立って秀麗であり、前方には長河(那賀川)に臨み、西には月溪(つきけい)を見下ろしている。また池があり、これを引き入れて(田畑の)灌漑に備えている。
折宇窟(おりうのいわや)
木頭の折宇村(おりうむら)にある。村の入り口を「栩谷(とちだに)」という。一里行くとそこに窟(いわや)があり、俗に「穴磯(あないそ)」と称する。深さは十歩、幅は六歩ほどで、数百人を収容することができる。その中には鍾乳石(鍾乳)が競って懸かっており、あるいは神像のようであり、あるいは奇妙な獣のようである。
猊口石(げいこういし ※獅子の口の石)
折宇村の栩谷にある。下方に長河(那賀川)を見下ろしており、その形状は、獣が渓水(川の水)を飲んでいるかのようである。
折宇池(おりういけ)
折宇村にあり、長さは七百八十歩である。
南宇池(みなみういけ)
南宇村にあり、長さは三百六十歩である。日照り(旱)になればすなわち乾く。
西宇池(にしういけ)
西宇村にあり、長さは千六百八十歩である。これもまた日照りになればすなわち枯れる。
石立山(いしたてやま)
木頭の北川村(きたがわむら)の西、一里半のところにある。高く険しく、草木がうっそうと茂る。周囲は測ることができないほど広い。上には地蔵の小さな堂(地蔵小堂)があり、広さは六尺四方、柱はわずかに四阿(よんあ ※四方の庇)である。土地の者がそれぞれ二本の柱を寄進した。ここは二つの州(阿波と土佐、徳島県と高知県)の境界(界)である。西の方は土佐に連なる禁山で、東の方は巻廬(まきいお)、柏皮(かしわかわ)、千本勢(せんぼんぜ)、河池川(かわいけがわ)、高川(たかがわ)の諸溪と接しており、これらはここから流れ出ている。東の麓は平村(たいらむら)で、横枕(よこまくら)を隔てること四里、剣山(つるぎさん)を隔てること一里、祖山(そざん ※祖谷山か)を隔てること七里である。北へ行くと、青々と茂った杉の樹(杉樹蒼然)があり、名を「唐林(からばやし)」という。またさらに行くと、石の淵が澄んで深く(石潭澄深)、石の色が赤紫色をしている場所があり、名を「釜岩(かまいわ)」という。また石の崖があり、水のカーテン(水簾)がここに懸かっており、名を「鎧瀑(よろいのたき)」という。これらはすべて、村民が雨乞いを行う場所(雩之地)である。
北川池(きたがわいけ)
北川村にある。三つの池があり、長さは千五百歩ほどで、日照り(旱)になっても枯れないものもある。
北川(きたがわ)
源流は幸瀬山(こうせやま)から出て、南へ流れて久井谷(ひさいだに)を経る。東へ折れて折宇(おりう)、西宇(にしう)、上山(かみやま)、下地(しもじ)を経て那賀郡の日真(ひま)に至り、北尾川(きたおがわ)と合流して長河(那賀川)となる。中島(なかじま)の港口に至るまで、四十五里である。
南川(みなみがわ)
源流は巻廬大谷(まきいおおおたに)から出て、日早(ひそう)を経て北川に入る。これもまた長河(那賀川)の源流の一つである。
古屋溪(ふるやけい)
古屋村にある。源流は六町林(ろくちょうばやし)および倉谷(くらたに)から出て、東へ流れて川又(かわまた)に至る。奥日早溪(おくひそうけい)が南から合流し、深森漆溪(ふかもりうるしけい)もまた南から合流して、本村に至って長河(那賀川)に入る。石の崖が水に臨んでおり、名を「膏石(あぶらいし)」と呼び、その色は青く潤いがあって愛すべき姿である。その土地を「大戸(おおと)」と称する。
氏族
脚咋別鷲住王(あかくいのわけ わしずみおう)
今、宍食郷(ししくいごう)がある。思うにその一族が居住した場所である。『日本書紀』にいう。履中天皇六年春二月癸丑(みずのとうし)の朔(ついたち)に、鮒魚磯部王(ふなのいそべのおう)の娘である太姫郎姫(おおいらつめのいらつめ)と高隺郎姫(たかたづのいらつめ)を喚(よ)んで後宮に納め、並べて嬪(ひん)とした。ここにおいて二人の嬪は常にこれを嘆いて「悲しいかな、我が兄王はどこの場所へ去られたのか」と言った。天皇はその嘆きを聞いてこれを問い「汝は何を嘆息するのか」と言った。答えて「妾(わたくし)の兄の鷲住王(わしずみおう)は、人となり強力(きょうりょく)にして軽捷(けいしょう)です。これによって、独りで八尋屋(やひろや)を馳せ越えて遊行し、すでに多くの日を経るも対面して言葉を交わす(面言)ことができません。ゆえに嘆くのみです」と言った。天皇はその強力を喜び、これをもって彼を喚んだが、参上しなかった。また重ねて便(使者)を遣わして召したが、なお参上せず、常に住吉邑(すみのえのむら)に居住した。これより以後、止めて求めなかった。これは讃岐国造(さぬきのくにのみやつこ)および阿波脚咋別(あわのあかくいのわけ)、およそ二族の始祖である。あるいはいう、讃岐国造はすなわち飯山神(いいやまのかみ)であり、その後、高木氏となった、と。
曾禰連(そねのむらじ)
『三代実録』にいう。元慶五年夏四月四日、阿波国那賀郡(なかぐん)の人、従七位上・椋部夏影(くらべのなつかげ)、従八位上・椋部古麻呂(くらべのこまろ)、従八位・椋部安世(くらべのやすよ)、ならびに白丁(はくちょう)十九人が、本姓(木姓)である曾禰連に復した。高園(たかぞの)は旧称であり、貞享年間に高園と改められた。今は海部郡に属する。思うに曾禰氏の出た場所である。あるいはいう、曾禰氏は後に改めて安摩(あま)と称し、また海部郡の名の起こる理由(所由興)となった、と。
源賴綱(みなもとのよりつな)
一説に有綱(ありつな)に作る。伊豆冠者(いずのかじゃ)と称した。祖父は頼政(よりまさ)、従三位・兵庫頭。父は仲綱(なかつな)、伊豆守。頼綱は右衛門尉に任じられ、従五位下に叙された。寿永元年、源頼朝の命を奉じて蓮池家綱(はすいけいえつな)・平田俊遠(ひらたとしとお)を土佐に撃った。源義経の女婿(じょせい)となったが、右大将(頼朝)がこれを害した。文治元年十二月に出奔し、船が破損(船廃)した。摂津の大物浦(だいもつのうら)で風濤が時に甚だしく、漂流して浅川(あさかわ)に至り、草庵を結び(草次)、年を越した(守歳)。その地は今、太歳(おおとし)という。これが木岐(きき)・浜(はま)の二氏の祖となった。あるいはいう、大和守の「多(おお)」に匿われたが、源頼朝が平貞時(たいらのさだとき)に命じてこれを撃たせた。頼綱は勢いが屈して山中に入り自殺し、首を京師(けいし)に伝送した。『東鑑(吾妻鏡)』に見える。
源正持(みなもとのまさもち)
木岐大膳大夫と称した。木岐浦に居住した。
濱隱岐守(はまおきのかみ)
源某(みなもとのなにがし)。日和射浦(ひわさうら)に居住した。天正五年、源長治(みなもとのながはる)に従って別宮浦(べっくううら)で自殺した。思うに正持の一族であり、その子孫(裔)はなお残っている。
平政吉(たいらのまさよし)
阿部浦に居住した。目氏(さっか氏)の阿部であり、和泉守と称した。その一族は四つあり、郡須(こおず)、山田、大津、石見という。その先祖は当時に任官して左五郎と称した。元暦年間に平教経(たいらののりつね)に従ってしばしば戦った。寿永年間には宇留島十郎、元暦(※原文のまま。年号を指すか、あるいは姓名の一部を構成するかなど、詳細は不明)とともに源氏に属した。
平有興(たいらのありおき)
由岐隠岐守と称した。由岐西浦に居住し、政吉と同宗(一族)である。また善左衛門という者がおり、天正十年に中富川(なかとみがわ)で戦死した。
平有道(たいらのありみち)
八田備中守と称した。また由岐西浦に居住し、有興と同宗で、西家(にしけ)と称した。
源友高(みなもとのともたか)
日和佐和泉守と称した。日和佐浦に居住した。
藤原俊房(ふじわらのとしふさ)
牟岐兵庫頭と称した。牟岐浦に居住した。また虎房(とらふさ)がおり、牟岐の八幡祠の棟銘に見える。また行久(ゆきひさ)がおり、大状(だいじょう)に見える。その一族は五つあり、佐野、荘野、大竹、小橋、町口という。
藤原有辰(ふじわらのありとき)
浅川兵庫頭と称した。浅川浦に居住した。
藤原政吉(ふじわらのまさよし)
一説に長政(ながまさ)に作る。田中市助(たなかいちすけ)と称した。海部城に居住した。子は長門(ながと)、孫は与兵衛(よへえ)。万治年間に田九十歩を賜り、市長(しちょう)となった。
藤原持共(ふじわらのもちとも)
本木下野守(もときしもつけのかみ)と称した。窪村(くぼむら)の祇園山城に居住した。また信久(のぶひさ)がおり、本木五郎左衛門と称して大永年間に持共に仕えた。思うにその一族である。
藤原元信(ふじわらのもとのぶ)
本木孫六郎と称した。宍食の愛宕山城に居住した。
藤原吉清(ふじわらのよききよ)
海部左近将監(かいふさこんのしょうげん)と称した。永禄・元亀年間に鞆城(ともじょう)に拠り、海部七城を領した。元亀年間、吉清が讃岐へ行った間に、秦元親(はたのもとちか)がその隙に乗じてこれを攻めた。衆(軍勢)は出て鈴峯(すずがみね)に駐屯してこれを拒んだ。天正五年、その父の友光が河内(かわうち)へ行くと、元親は再びこれを攻め落とし、闔軍(全軍)は皆降伏した。吉清は刀剣を造ることを善くし、「藤」の字をもって識(しるし)とした。
藤原友光(ふじわらのともみつ)
また海部左近将監と称した。釈服(出家)して宗寿(そうじゅ)と称した。源元長(みなもとのもとなが)の女婿(じょせい)であり、吉清 of 父である。河内の高屋(たかや)に至り、三好山城守(みよしやましろのかみ)を援助した。舎人(とねり)の岡崎太夫左衛門(おかざきだゆうざえもん)という者がおり、功績があったため、海部氏が書を賜った。代々木頭上山(きとうかみやま)に居住した。また近藤助左衛門(こんどうすけざえもん)という者がおり、甲(よろい)および兵杖(武器)、ならびに延宝五年に賜った書を所蔵している。今の里正(りせい)は五郎兵衛と称する。
藤原氏吉(ふじわらのうじよし)
康暦・応永年間の人である。子は房吉(ふさよし)、正長年間の人。孫は泰吉(やすよし)、嘉吉・文明年間の人。遠い子孫(遠孫)は代々氏吉を称し、皆刀工となった。後に城府(じょうふ)に移り住んだ。
藤原氏次(ふじわらのうじつぐ)
中島源太夫(なかじまげんだゆう)と称し、刀を造ることを好んだ。代々名と姓名を受け継いで冶工(やこう)となったが、後嗣(あとつぎ)は今は絶えている。
河野某(こうのなにがし)
姓は越智(おち)。その後、盲人(瞽者)の伊与一(いよいち)という者がおり、慶長年間に里正(りせい)となった。また百々某(どどなにがし)がおり、大永年間以来ここに居住した。田井某(たいなにがし)は永禄年間以来ここに居住した。また富田某(とみたなにがし)がおり、平右衛門(へいえもん)と称して秦元親(はたのもとちか)に仕え、後に日比原(ひびはら)の高光寺山(こうこうじやま)に居住し、遂に宍食(ししくい)に移った。
古屋五郎左衛門(ふるやごろうざえもん)
古屋村に居住した。天正年間に仁宇(にう)の賊を討つ際、向導(道案内)となり、代々村正(そんせい)となった。天正十八年に田三十歩を賜り、寛永五年には宅地にかかる租税(宅租)五石六斗を免除された。
野中国吉(のなかくによし)
三郎左衛門と称した。土佐国の人であり、来て宍食城(ししくいじょう)を守った。その子孫(裔)の清兵衛(せいべえ)という者は、荒田野(あらたの)南村に移り住んだ。能間里(の間の里)の叢医(そうい)である。
農民善次兵衛(のうみんぜんじへえ)
折宇村(おりうむら)の人。寿命は百五歳。寛政四年に米および銀を賜った。
外方
釈了義(しゃくりょうぎ)
号は海岸。姓は海部(かいふ)。阿波国の人である。大燈国師(だいとうこくし)が一見してその器量を愛し、命じて版首(はんしゅ)に置いた。出て摂津(せっつ)に妙観寺(みょうかんじ)を創建したが、これを棄てて江川(えがわ)の興禅寺(こうぜんじ)に移った。ある日、南方に使いした際、官吏に拘束されて問いだされた。師は実情をもって告げた。吏(役人)が帰り、夢想(※「夢の中でのお告げがあった」か、あるいは人名を指すか、詳細は不明)するに、国師(※原文「国師則免矣」。国師がすなわち免じた、あるいは国師であるため免じた、のいずれか。詳細は不明)はすなわち免じた。師は笑って「貧道(わたくし)はどうして死を畏れるがために師資(師弟の義、または師の教え)を変えようか」と言った。吏は遂にそのまま置いて問わなかった。
孝子
勘七(かんしち)
大里(おおさと)の吏、余口(よぐち)の人。父母に仕えて孝謹(孝行で謹み深い)であった。家は極めて貧しく、客作(きゃくさく)し、あるいは籃(かご)を造ってこれをもって売った。出かけるたびにしばしば帰り、定省(ていせい/朝夕の挨拶)をした。母がかつて病に臥せること七年、足が冷えれば、夜はすなわち(懐に)抱いてこれを温め、時に粉餌(ふんじ)を進めた。行年六十八(※母の年齢か、あるいは勘七の年齢か、詳細は不明)、勘七の膝の上で死んだ。父は嘉一兵衛(かいちべえ)と称し、酒や餻(こう/菓子)を嗜んだ。よって力を尽くして営弁(調達)した。毎夜、温酒(温めた酒)を進めたが、父はこれを辞退した。そこで瓢(ひさご)を籃の中に隠し、出て買いこれをもって供え、あえて父に知らせなかった。父はますます老いて飲まなくなり、代えるに甘輭(甘く柔らかいもの)をもってした。安永三年に死に、享年は九十三であった。その後、墓を過ぎる際には必ず笠および屩(きゃく/草履)を脱いだ。毎事必ず謁(参拝)し、策(つえ)を探(突)いて行った。寛政丁亥(の年)に月俸二口を賜った。
兵次郎(ひょうじろう)
助村(すけむら)の里正・忠右衛門(ちゅうえもん)の舎(※舎人、あるいは家来などの意か、詳細は不明)である。親に仕えて至孝(この上なく孝行)であった。一室を築いてそこに(親を)置き、奉養すること甚だ謹み深かった。自身はその側に盧(いおり)し、人(※親、あるいは兵次郎のことか、詳細は不明)は寿(天寿)をもって終えた。時に年齢は八十七歳(※親の年齢か、あるいは兵次郎の年齢か、詳細は不明)。よって母と同居して就養(養育)した。(※原文「有又仕忠右衛門極忠」の箇所。また忠右衛門に仕えて極めて忠義であった、などの意か。詳細は不明)。寛政年間に米若干石を賜り、もってこれを褒賞した。
旅覇
惟宗国長(これむねのくになが)
右衛門と称した。土佐の野根塁(のねるい)に拠っていたが、永禄十二年に秦元親(はたのもとちか)に攻められるところとなり、来奔(逃れて来た)した。
租税
宝暦(ほうれき)の石高合計
一万六千四百九十一石四斗四升七合
各村の石高
西由岐(にしゆき)
百五十三石(支落の油宇(あぶらゆ)は三十二石)
富田(とみだ)
支落の吉田(よしだ)と合わせて五百六十九石
塚墓(つかばか)
康暦碑(こうりゃくのひ)
由岐東浦(ゆきひがしうら)にある。康暦二年(1380年)庚申十一月十六日、海がひっくり返るような大地震と津波(海飜震盪)があり、死亡者が非常に多かったため、ここに合葬した。
犬塚(いぬづか)
小川村にある。俗伝では、昔、栗村伊賀介(くりむらいがのすけ)という者が飼っていた犬が非常に猛々しく、大蛇(蠎蛇)を噛み殺した。その犬をここに埋葬したという。
土産(産物)
海鰛(いわし)
各浦(すべての浦)で産出する。網(呂網)で捕らえる。
鱵(さより)
各浦で産出する。これも網で捕らえる。その網は阿部浦(あべうら)ではわずか三張、漁浦(漁村の浦)ではただ一張である。
鰒(あわび)
諸浦で産出する。その種類は三つある。一つを「喜樂甲(きらくこう)」といい、肉の色がわずかに赤く、味が良いので上品とする。一つを「免大甲(めんたいこう)」といい、孔(穴)や目が隆起しているものを中品とする。一つを「眉骨六魯甲(びこつろくろこう)」といい、隆起しているものを下品とする。大きなものは八寸五分(約26cm)に達し、浪華(大阪)へ売り、次ぐものは城府(徳島城下)へ売る。水底二十仞(じん)にあり、これを養って三、四日おくと味がますます良くなる。土人は「鰒(あわび)が藻(も)を食う時は必ず大水(洪水)がある」と言う。
竹筴(あじ)
紅蝦(あかえび)
甲子和(かつお)
各浦で産出する。その種類は三つある。一つを「買甲子和(かいかつお)」といい、これを押すと指が沈み込み、肉が元に戻るものを上品とする。打尾殺(※叩いて殺したもの)を「寐治甲子和(ねじかつお)」といい、押しても肉が盛り上がらず、腠理(きめ)が不明瞭で色がわずかに白く、味が最も劣る。釣ればすぐに血を吐くものを「四■甲子和(し■かつお)」といい、肉の中に筋があり、刀に触れるものを次品とする。叉(※漁具)をもって腹の内を刺し、膾(なます)を作る。これを「花樂婆納買私(はならはなまいし)」と呼び、あるいは塩を加えて脯(干物)とする。これを釣るには、二月(ふたつき)で海六十里を入れ、後にあるいは十里、あるいは五里となる。一人が毎日得る所は七、八十尾である。竿と綸(釣り糸)はそれぞれ一丈八尺。その綸の末は水蒼色である。生きた海鰛(いわし)を餌とすると、動くたびにこれを呑み込む。七、八月は角(※ルアーの一種)を餌とする。長さ一寸半、方五分。その末に鈎(はり)を付け、綸を二尺とし、鈎の孔を貫く。佛(ほとけ)または成(※文字不明)をもって字と成すか、あるいは「波」の字(波字)を用いる。
棘鬣魚(とげうお/アイナメ等の類)
阿部(あべ)、漁(りょう)、由岐(ゆき)、木岐(きき)で産出する。
青箭(あおぜん)
識皮(しきひ)
骨買皮吉(こつかいかわきち)
すなわち郷名の「侶文(ろぶん)」である。鰩(えい)に似ているが無翼であり、形は円い。
淹魚(えんぎょ)
鱸魚(すずき)
鯧魚(まながつお)
鱓魚(うつぼ)
古魯別(ころべつ)
美子(びし)
すなわち郷名である。形は長く、鱗が大きい。
大鰻鱺(おおうなぎ)
高園村(たかぞのむら)の母川(もがわ)で産出する。大きなものは長さ五、六尺、周囲三尺ほどある。耳があり、土人は(これを)金とは呼ばない。謹んで思うに、これは芦鰻(あしうなぎ)である。『嶺南雑記』にいう、「芦鰻は海辺に産し、潮に従って岸に登り、芦の芽を食う。潮が退けば溪田(谷田)に入る。捕らえることはできないが、方(ようやく)得ることができる。重さ一、二十斤(約6〜12kg)の者があり、重さ五、六斤(約3kg)の者がある。すべて鰻に似ているが身は短く、背は黒く、烏鱧(からすはも)に類がある」。
訥婆吏珂(とばりか)
母川で産出する。六月に川へ遡り、数千(の群れ)で列をなす。一汕(※一網か)で二合を得ることができる。形は弾塗魚(ハゼの類)に似て小さく、斑紋があり、味は膾(なます)に似ている。
殘魚(ざんぎょ)
拳螺(こぶしら)
米蝦(よねえび)
蓼螺(たでら)
沿岸の諸村は、多くが漁業や伐採をなりわいとしており、耕地は少なく、他の郡と比較できるような状況ではない。
漁(りょう)
陸田(旱田)二町三段七畝。水田の記載なし。
阿部(あべ)
陸田三町一段八畝、水田四町五段六畝。
志和岐(しわき)
陸田二町九段四畝、水田一町一畝。
東由岐(ひがしゆき)
陸田三町四段七畝、水田二町一段。
西由岐(にしゆき)
陸田二町九段、水田九町九段八畝。属村である油宇(ゆう)は、陸田三段、水田三町五段六畝。
赤松(あかまつ)
陸田五町五段五畝、水田七十二町九段八畝。
奥河内(おくかわうち)
陸田十九町一段、水田五十六町五段八畝。
西河内(にしがわうち)
陸田三町四段三畝、水田四十三町七段二畝。
山河内(やまがわうち)
陸田五町八段六畝、水田三十九町三段一畝。
辺川(へがわ)
陸田二町五段二畝、水田十町九段五畝。
河内(かわうち)
陸田五町四段八畝、水田二十一町二段八畝。
中村(なかむら)
陸田九町三畝、水田三十三町九段三畝。
内妻(うちづま)
陸田六町四段五畝、水田十一町八段九畝。
浅川(あさかわ)
陸田十六町二段、水田六十三町八段。
大里(おおさと)
陸田は旱害を受けやすく、水田は水害を受けやすい。
四方原(よもはら)
陸田は旱害を受けやすく、水田は水害を受けやすい。
多良(たら)
陸田が十分の六、水田が十分の四。比較的、旱害は少ない。
宍食(ししくい)
水田十六町(早稲と晩稲を混種する)。沼沢地が九町余あり、晩稲を植える。陸田十町一段。
高園(たかぞの)
陸田は水不足で、水田は水害が多く、旱害は少ない。
野江(のえ)
水田で早稲・晩稲の三種の稲を植える。陸田はない。
芝(しば)
水田が耕地の十分の七、八を占めるが、しばしば水害を受ける。
櫛川(くしかわ)
陸田十四町余、水田十七町余。圃(菜園)三町。長さ九百歩、幅百五十歩。渓流は時として干上がり、時として溢流する。
冨田(とみだ)
陸田二十六町七段。水田は水害が多い。圃五町余。東は海に面し、部川があり、堤防の長さは四百歩。春夏の時期には船が通行できる。高園まで一千八百歩ほど。
吉野(よしの)
田は四十町三段。長さ六百歩、幅二百十歩。前方に川があり、後方に山がある。松が非常に多い。
熟田(にえた)
陸田は旱害を懸念し、水田は水害を懸念する。渓流は浅く、船は通わない。山に大きな木はない。
大井(おおい)
陸田が十分の七を占め、水田は水害が多い。
細野(ほその)
渓流で灌漑を行う。水田は少なく、人々は薪炭の採集をなりわいとしている。
小川(おがわ)
陸田で早稲と晩稲を植える。圃地では芋、豆類、麦を栽培するが、多くが旱害を受ける。
木頭上山(きとうかみやま)
陸田五町八段六畝、水田六町九段六畝、疁田(火耕田)七町四段八畝。茶園一千一百四十五歩。楮四百四十七株。漆百十七株。
海河(かいこ)
田五町四段九畝。茶園一千一百五十二歩。楮一千一百九株。
助村(すけむら)
水田一町七段、陸田一町九段七畝、疁田四町八段二畝。茶園二百十一步。楮百二十四株。漆十九株。
盌田(わんだ)
水田八町四段、陸田八段六畝、疁田一段七畝。茶園四百九歩。楮百五十八株。漆六十六株(漆樹は現時点で枯死している)。
南宇(みなみう)
水田七町四段八畝、陸田二町八段、疁田四町一畝。茶園一千二百四十三歩。楮一千二百七株。漆二百八十七株。
西宇(にしう)
水田二町三段三畝、陸田二町八段五畝、疁田二町六段五畝。茶園五百三十三歩。楮三百三十六株。漆百五十九株。
折宇(おりう)
水田二町二段八畝、陸田六町八段二畝、疁田十町九段二畝。茶園六百三十六歩。楮一千四百三株。漆四十六株。
北河(きたがわ)
水田二町八段九畝、陸田四町九段二畝、疁田九町一段二畝。茶園三百六十歩。楮一千二百七十五株。漆六十四株。
仏刹(寺院)
極楽寺
漁浦(りょうのうら)にあり、那賀郡の石塚正福寺に属する。
持福寺
同じく漁浦にあり、平安(京都)の東本願寺に属する。
長円寺
由岐東浦にあり、薬王寺に属する。もとは長法寺と円通寺という二つの寺であったが、後に合併して一寺となった。
光願寺
西由岐浦にあり、浄土真宗(一向)を修める。宝永6年に釋玄忠が建立。
延命寺
木岐浦にあり、木岐氏の香火院(菩提寺)で、薬王寺に属する。慶長3年以降、5石の採地を賜る。
円通寺
赤松村にあり、薬王寺に属する。延徳年間に建立。
常光寺
日和佐浦にあり、浄土真宗(一向)を修める。
薬王寺
奥河内村にあり、真言宗を修める。山名は医王。磴道(階段)は五十歩ほど。前には広瀬川が対面し、後ろは高山に接する。左には広瀬川、右には長路山があり、山は険しく木々は老いている。文治年間に再建され、寛永年間に火災に遭った。現在は堂が二つあり、一つには薬師像、一つには祖師像を安置する。採地は10石。別に玉厨子山にも堂がある。また、白山祠がある。
極楽寺
同じく奥河内村にあり、平安(京都)の知恩院に属する。
打越寺
山河内村にあり、薬王寺に属する。山名は駅路。慶長3年に10石の採地を賜り、旅人のための宿舎(路室)とするよう命じられた。
普周寺
河内村の川又里にある。松や杉が多く、丈六寺に属する。
東光寺
同じく灘村にあり、満徳寺に属する。南海の島々を見下ろす景色は絵画のようである。
満徳寺
牟岐村にあり、真言宗を修める。応永年間に釋増吽が建立。採地3石3斗。八幡祠を管轄する。
正伝寺
同じく牟岐村にあり、丈六寺に属する。弁財天祠があり、その像の背面に「天長七年」の文字がある。
法覚寺
同じく牟岐村にあり、平安(京都)の西本願寺に属する。
昌寿寺
中村にあり、丈六寺に属する。釈迦像を安置する。海巌が建立した。海巌は、かつて尾張の智多城主であったが、瑞雲公(蜂須賀家政公)の後に僧侶となり、各地を巡遊してこの地に住んだ。公が国を巡察した際に相見え、その望みを問われたが何も求めなかったため、3石余の租税を免除し、さらに観音の木像を賜って脇侍とした。宝永4年の地震で海が湧き上がり、文書はすべて失われたが、古鏡一枚のみが残っている。
江音寺
同じく浅川村にあり、慶長年間に建立。丈六寺に属する。
千光寺
同じく浅川村にあり、丈六寺に属する。宝永4年の地震で海が湧き上がり、この寺は水没したが、薬師堂はなお残っている。
観音堂
同じく浅川村にあり、仁治3年に建立。もとは竹内里にあったが、正保4年に現在の地に移した。高台で景色が美しく、南の海を見下ろす。
神宮寺
大里村にあり、真言宗を修める。和奈佐意冨曾祠を管轄する。
宝蔵寺
同じく大里村にあり、真言宗を修める。長さ八寸五分(約26cm)の観音木像がある。昔、土地の人が拾った木を割ったところ、中にこの像が入っていたという。
宝称寺
同じく鞆浦にあり、和泉(大阪)の慈光寺に属する。
法華寺
同じく鞆浦にあり、法華宗を修める。日蓮像を安置するが、言い伝えでは日蓮自身が彫ったものとされる。天正年間に名東郡の法華寺が廃絶となり、ここに移された。参詣者が多い。
大日寺
宍喰浦にあり、真言宗を修める。寛文11年に免税地となり、採地は4石。もとは総蔵寺と呼ばれ、廃城の下にあった。藤原元信が香火院とし、禅を学んだ。
円頓寺
同じく宍喰浦にあり、大日寺に属する。慶長3年に旅の宿とすることを命じられ、10石を賜り、さらに2石余の租税を免除された。祖師の快厳は、和泉久米田寺の快尊の弟子である。
真福寺
同じく宍喰浦にあり、大日寺に属する。寛文11年に免税となる。もとは祇園山麓にある本具寺と名乗っていたが、慶長3年にここへ移転した。祇園祠を管轄する。
願行寺
同じく宍喰浦にあり、浄土宗を修める。寛文11年に4石余の租税を免除された。もとは鈴峯下にある安養寺を移したものである。
正法寺
同じく宍喰浦にあり、浄土真宗(一向)を修める。寛文11年に1石余の租税を免除された。
浄福寺
窪村にあり、宍喰の願行寺に属する。また、廃城の南西に廃総蔵寺があり、本木氏の香火院であった。
毘沙門堂
小谷村にある。金口(梵鐘の口の部分)があり、「応永二十九年」と刻まれている。
禅興寺
角阪村の山麓にあり、雑川(まぜかわ)を枕にしている。その左側に大悲閣がある。その建築様式は非常に古風で素朴である。毎柱(すべての柱か)、藤原氏がかつて崇敬していた。現在は城府(徳島城下)の瑞巌寺に属する。
藤坊廃址
塩深村にある。大山祠に属する十二坊の一つで、最も大きい。
宝福寺
同じく塩深村にある。また大日寺があり、大山祠を管轄していたが今は廃絶しており、宝福寺がその機能を摂している。真言宗を修める。
真光寺
中山村にあり、丈六寺に属する。阿弥陀像を安置する。
九品寺
櫛川村にあり、阿弥陀像を安置する。大悲閣を管轄し、多宝寺に属する。
覚宝寺
吉野村にあり、平安(京都)の大覚寺に属する。
阿弥陀寺
大井村にあり、真言宗を修める。阿弥陀像を安置する。
光照寺
神野村にあり、応永4年に建立。丈六寺に属する。大般若経の畸本(欠本ではない異本)200巻を蔵する。
宝覚院
宍喰浦にあり、優婆塞(在家信者)が住んでいる。
祠廟(神社・祠)
和奈佐意冨曾祠(わなさおふそし)
延喜式(神名帳)に載る小社。現在は八幡と称し、古鏡と金口(梵鐘の口)を各一枚収める。かつては鞆浦の大宮山にあったが、慶長9年に大里の松林中に移した。興源公(蜂須賀家政)が度々米を賜り、修復の料とした。鞆・浅川など21村で共同で祀っている。土地の人によれば日本武尊を祀るといい、景行天皇、務成天皇、仲哀天皇、神功皇后、応神天皇の五帝および息長田別皇子を配食する。
宮内祠
阿部浦にある。収蔵する大般若経の畸本の巻末に記された紀年には、康和5年、永安2年、安元元年、治承2年、建久6年、文安元年のものがある。備中の散位藤原重平および重秀、摂津の渡辺安曇寺の某が書写し、後に土佐生見荘の惟宗朝臣長盛が宗観に命じて補写させた。また、住吉祠、蛭子祠、岬祠がある。
蔵王祠
志和岐浦にある。また、住吉祠、蛭子祠がある。
天神祠
由岐東浦にある。祭神は大己貴命(おおなむちのみこと)、少彦名命(すくなひこなのみこと)。また魚吞祠がある。伝承では、祠のそばの渓流の魚を夏に食べると疫病が除かれるといい、掬いに来る者が多いためそう呼ばれる。
八幡祠
由岐西浦にある。また、蛭子祠、住吉祠、祇園祠、日吉祠、愛宕祠、明神祠がある。
八幡祠
田井村にある。白鳥とも称する。また、山王祠がある。
八幡祠
木岐浦にある。また、日吉祠、満石祠、蛭子祠、牛頭祠、王子祠がある。さらに真福寺に源三位祠があり、これは木岐氏らが先祖である(源)頼政を祀るために置いたものとされる。
八幡祠
赤松村にある。氏八幡と称する。また、礫(つぶて)祠がある。さらに松尾祠、窟権現(いわくごんげん)が合食されている。高瀬里には永池祠がある。
八幡祠
日和佐浦にある。観応2年に建立。また、鴨祠、玉木祠、蛭子祠、大黒祠、弁財天祠、立鳥祠、城山祠、湊柱祠がある。支落の夷浜には、蛭子祠、弁財天祠、権現祠がある。
天神祠
奥河内村にある。元和4年に再建。また、愛宕祠、住吉祠、星祠がある。
若一祠
北河内村にある。寛文2年に再建。また、十二社(万治元年再建)、新田祠、八幡祠、明王祠、牛頭祠がある。
八幡祠
西河内村にある。康応5年に建立。また、皇大神祠、住吉祠、新田祠、八幡祠、稲荷祠がある。
白澤祠
山河内村にある。大永8年に再建。また、星祠があり、玉城祠は明暦2年に再建された。
高知祠
橘村にある。昔、狒々(ひひ)が往々にして人に害を与えていたが、土佐の高知の人が兄弟で射殺したため、里民が祠を建てて祀り、「高知」と称した。
岬祠
河内村にある。また、弱宮、蔵王祠、米山祠、星祠がある。
王子祠
川長村にある。貞享3年に再建。また天神祠があり、こちらは寛文3年に再建。
八幡祠
牟岐浦にある。承久年中に建てられ、元亀2年に藤原虎房が再建。また皇太神宮があり、宝永4年に波濤で破壊され、5年に再建された。また、蛭子祠、大黒祠、弁財天祠、住吉祠、天神がある。さらに牟岐津祠があり、宝永6年に再建。姥祠は大島にあり、土地の人は牟岐津神の妃だと言い、商船が来ては晴天を祈る。
杉尾祠
中村にある。正徳元年に再建。また、大将軍祠、岬祠がある。
春日祠
内妻村にある。また、牛王祠、牛頭祠、高知祠、石賀祠、古江祠がある。
天神祠
浅川村にある。慶長年間に海が湧き上がり瀕海が罹災し、この祠も水没したため再建された。また、尾山祠、岬祠、岩神祠がある。竈神祠は元和9年に再建。
大歳祠
同じく浅川村にある。俗伝では、文治年間に源頼綱が来宿した際、除夜にここで大歳を祭ったという。
岬祠
同じく浅川村にある。寛永8年に再建。また、馬越山に住吉祠、蛇尾に蛇尾祠(宝永6年建立)、蛇尾山上に蔵王祠がある。
一宮
大里村にある。また金毘羅祠、大紫祠がある。さらに別の一宮があり、直径五寸の古鏡一枚を収める。経塚の上には小祠があり、これも古鏡一枚を収める。
二宮
四方原の弘法寺中にある。また西谷祠(龍祠)があり、丘を背に池に臨み、緑野に囲まれているため、村民が雨乞いをする。
寉(つる)祠
同じく多良村にある。俗伝では、昔源頼朝が放した鶴がここに到ったため、後人が祀ったという。
豫章祠
奥浦にある。そばに豫章(クスノキ)が三株あり、大きなものは周囲一丈、次いで七尺。また周囲一丈のタブノキ、一丈二尺のものが二株ある。郷名(この土地)を達蒲という。また、秋葉祠、脇祠、星祠がある。
湊柱祠
鞆浦にある。また、地主祠、船王祠、住吉祠、蛭子祠、小島祠がある。
愛宕祠
宍喰浦にある。もとは牛伏山にあったが、後に城址へ移した。また、天神祠があり、椎木山に弁財天祠がある。夷祠、住吉祠はいずれも金目(地名か)にあり、権現祠は竹島にある。
三島祠
同じく那佐村にある。その鬼(あるいは関係者)は弥九郎という。永禄11年春、病を得て摂津の有馬温泉へ湯治に向かったが、途中で雨に阻まれて泊まったところ、藤原吉清が(弥九郎が)自分を窺っていると疑い、一夜にして襲って殺した。元親(長宗我部元親)の入寇もここから起きたという。渡辺八太夫が守りに来ていたが、後に宍喰へ移り商人となった。
祇園祠
窪村にある。正一位を叙される。大永6年丙戌11月15日、藤原持定、本木信久が再建。建永・建暦年間に書かれた大般若経を収める。また仮面三面(三番叟、猊頭、桂男)を収める。半月のような形の鉾があり、長さ五、六丈。毎年6月7日に神輿に乗せて運ぶ。慶長9年12月16日に津波が押し寄せ、3,700人余りが死亡し、郡全体が蕩尽したが、本祠は倒れたものの流されなかった。また一宮里社がある。
御霊祠
日比原にある。また岬祠、三杉尾祠が二つある。
大山祠
塩深村にある。宍喰郷に属し、十二社権現とも称す。俗伝では神名は下総大納言で、塑像が十二体ある。宍喰は「脚咋(あしくい)」の転訛であり、脚咋別(あしくいわけ)の族を祀るものだろう。老木が環合し、華表(鳥居)がある。阪禊川および神田跡がある。明昌7年(丙辰)4月の日付が刻まれた高さ一尺三寸の古鐘があり、「明昌七年丙辰四月日、鑄造金鐘一重六十七斤、徳興寺、寄進・旦那一同心、聖躬萬歳、上棟梁戸長金仁鳳、副棟梁延甫、慶讃陳蕃孝」とある。明昌は金(王朝)の章宗の年号。天明3年9月18日に火災で龍紐が欠けた。祠のそばの倒木は円頓寺に所蔵されており、慶長中の記録に「何年経たか不明だが数百年経っても朽腐せず、色が赤く香りがする」とあるため、血柏(赤いヒノキの類)だろう。周囲二丈、長さ三丈ほど。永正・天文年間には規模が広大で、僧房が十二あり、それぞれが一祠を掌理しており、藤坊がその筆頭であった。また太神祠、岬祠がある。
稲荷祠
高園村の医福寺にある。また岡祠、檍祠がある。
大将軍祠
野江村にある。毎年孟春(旧暦正月)に神会(神事)で二人が弓を射る。また祖父木祠がある。
新居祠
芝村にある。古鏡一枚を収める。慶長11年に益田玄蕃允が改造。また天照太神祠があり、毎年孟春に神会で二人が弓を射る。
王子祠
中山村にある。藤原宗壽が建立。21村で共同で祀る。天正年間に兵火にかかったが、柱の礎石はなお残っており、万治2年に再建。また蔵王祠、円山祠、三宝祠がある。
杉尾祠
櫛川村にある。金毘羅の木像を安置する。また大将軍祠がある。
杉尾祠
富田村にある。寛文8年に釋良雅が再建。また鎮守祠があり、吉田に春日祠(慶長14年再建)、八幡祠、三宝祠がある。
杉尾祠
吉野村にある。享禄3年に藤原持定が再建。また三保祠、星祠(星権現とも称す)がある。この間に川があり、星川と呼ぶ。藤原持定を祀る祠がある。
立池祠
大井村にある。龍祠であり、姫明神とも称す。林木が鬱然としており、中に長さ四十歩、幅十五歩ほどの池がある。土人が雨乞いをする。また聖祠、弱宮、杉尾祠、岬祠がある。
牛王祠
相川村にある。また御室祠、星祠、池主祠、河内祠、弱宮、聖祠、岬祠がある。
岬祠
弱宮松村にある。また牛頭祠、池祠、轟祠、聖祠、鳴瀬祠がある。
岬祠
神野村に二つある。また牛王祠、守神祠、星祠、街祠、稲荷祠がある。神祇谷に神祇祠がある。
豊埼祠
小川村にある。また桑原に岬祠、堅木瀬に八王子祠、志尾に花姫祠(塑像があり古鏡一枚を収める)、小谷口に居祠、堅木屋に五社、他に聖祠がある。
轟祠
平井村にある。鰈谷の滝のそばで龍祠であり、鰈明神とも称す。杉が生い茂り、村民が雨乞いをする。かつて大風が吹き、薪が廬山を巻き、ヒノキが互いに擦れ合って大火が起きたが、三日三夜経っても消えず、そこで雨乞いをしたところ俄に雨が降り火が消えたという。また岬祠、蔵王祠、毘沙門祠、八幡祠、不入祠がある。
八幡祠
木頭海河村にある。また八幡祠、十二社がある。
八幡祠
木頭助村にある。また蝉谷に杉尾祠、中谷に蛇王祠、蛇王祠の裏に歯神祠がある。その主は大きな石で、土地の人は「歯痛の者が拝めば験がある」と言う。また八幡祠、蛭子祠、鎮守祠がある。
鎮守祠
木頭上山本村にある。また出原に明神祠、与計野に山埼祠、九条谷に岬祠がある。
十二社
木頭南宇村にある。また権現祠、八王子祠、里社、水神祠、地社権現、舩戸祠、鎮守祠、八幡祠がある。
天神祠
木頭西宇村にある。また蔵王祠、里社がある。
八幡祠
木頭北川村にある。また十二社、夷祠、大黒祠、天神祠、石祠、鎮守祠、明神祠がある。
八幡祠
平谷村にある。また牛頭祠、八幡祠、その他に八幡祠が二つあり、一つは児、一つは新田と称す。
八幡祠
平谷白石村にある。また聖牛王祠が二つ、松尾祠、八幡祠がある。
春日祠
古屋村にある。また八幡祠、聖祠、星祠、不動祠、明神祠、蔵王祠、天神祠がある。
竹島守封所
宍喰の海中にあり、土吏(役人)二名を置く。
候館(こうかん)
竹島の絶頂にあり、外国船や難破船を見張る。
元越(もとごえ)守封所
日比原の両川の境界にある。
追分(おいわけ)守封所
巻廬山(まろやま)にある。
藤橋
木頭にあり、蔓(つる)を用いて作った吊り橋(飛橋)である。