清らかな水のあるところ、緑の木や草が繁るところ、人々は生命のやすらぎをここに求めて定着し安住する。私たちのふるさとは緑の山々に囲まれた鮎喰川流域である。流れに沿って上分上山・下分上山・神領・鬼籠野・阿野と五つの村であったが、今は合併して神山町になった。この流域一帯を古くは大粟谷という名で呼んでいた。(大粟文化圏)そう呼んでいたころの生活の舞台は鮎喰川流域一帯で、五つの村がそれぞれ完全な形の村として存在したものではなかったであろう。五つの村がかりに今の部落のような小さなまとまりであったにせよ、その呼び名が必要なほど社会や政治のしくみが整っていたかどうかわからない。
ふるさとはその時代ごとに広さを変える。古いころのふるさとは鮎喰川の流れる大粟谷一帯であり、合併前のふるさとは上分上山村である。また考え方によればいまのふるさとは神山町である。ただ、古い時代のふるさとには情報というパイプがなかったので原始的ふるさととも考えられる。
私たちのふるさとにはそれぞれ味のついた歴史がある。上分上山村の歴史は大粟谷の歴史でもあり、神山町の歴史でもある。古い歴史の流れを調べる方法はいろいろあるが、最もたしかなことは古い時代の「もの」や「記録」などによるほかはない。古い時代のものは歴史を語る宝であるが、まだ未発見、未発掘のものが多く、いま見つかっているものだけで歴史篇をまとめあげたが、やはり狭い世界しか覗けなかった。偏見であったり、不備な事柄の多いことを恥じている。この歴史篇で述べたふるさとの範囲も、古い時代はそのころの生活舞台であった鮎喰川流域一帯であり、この意味では上分上山村も神領村も同じ色彩であり匂いも味も変らない。近世になってからは本村独特の色あいが強く出ているが、調査考察の不びんさから充分とは言えない。未発掘の資料を掘りおこし、それによって歴史が解明されることを今後に期待して一応歴史篇をまとめあげた。
長さ約四十七㎝、緑泥片岩で断面はやや精円形(だえんけい)の精巧な磨製石棒が、下分上山村大字左右内字鍋岩(現神山町下分字鍋岩)の阿部伍一宅方の旧宅地から掘り出された。当時の様子をきくと
「今から二百五十年ほど前に、字鍋岩二百十番地の旧宅地は大小二つの高低があったので一枚地にするために、その両地の境目にあって、ちり捨場のようになっていた小さな塚を掘り下げたときに見つかった。板碑二基も同時に発見したが、板碑は現地に祭り、石棒は五十年ほど前に氏神の十二社神社に奉納した。」
とのことであった。この石棒は石器時代に人間が使用したものではあるが、装飾品か、権威を象徴したものか、また、生活の道具として欠かせないものであったのか、現在もなお研究の余地が残されている。
イ 出土の様子
焼山寺山の南のふもと下分、水舟谷の出口に位置する傾斜地で、鮎喰川左岸に臨み下分の今井集落を対岸に見る小高い所で出土した。出土の様子について山根実太郎の記憶をたどると、昭和四年から六年にかけて畠の開墾をしていたとき一口の剣らしきものが出てそのあたりから別の剣らしいものが出た。剣以外は何もなかったが、あとの「たたり」を恐れてすぐそばに小石を積んでその中に祭り、出土したことをだれにも言わず、家の人や附近の人たちには「おふなっさん」と称して祭っていた。その後この石がくずれて剣がはみ出していた。
ロ 形状
左右山出土の平型銅剣と同じようなものであるが欠けたところが多く、全体に腐蝕している。その形状については、下分上山村誌第三編(昭和三十六年八月一日発行)に飯田義資先生が次のように記してある。鮎喰川左岸の山腹、東寺の海抜二百mほどの地点。細型銅剣三口分と思われる破片三個。
ハ 出土の歴史的考察
この出土地、東寺は朝日がさし夕日かがやく日当りのよい丘で、海抜は二百mぐらいの南面の傾斜地である。この山をのぼると焼山寺である。この地から南へ一㎞ほど離れた鮎喰川の支流である左右山谷川の右岸から明治時代に二口の平型銅剣が出土している。本県で一㎞ほどの間に平型銅剣が二か所も出土した例はなく、全国的にもこのような例は珍らしい。文化は川の流れに沿って開かれる例が多いが、弥生式文化の花がこの流域に開いたものと推察される。この下分上山村から弥生式銅剣が出土したことで鮎喰川上流の上分上山、下分上山から神領、広野、入田に至る流域一帯は古代における人々の生活圏を形成していたものと思われる。
イ 形状
二口あるが東寺の平型銅剣に比較して、形が大体整っている。形態等は次のとおりである。
ロ 出土の考察
まず考えられることは前者の銅剣にも通ずることであるが、鮎喰川上流のこの地方に古墳が見つからないという点である。ほとんどの弥生式遺物は古墳の中に発見されるのが例であるが、二つの出土地は鮎喰川をはさんだ畠のなかにあって、弥生式遺跡の形跡もない状態からの出土であった。
さらにもう一つの特異性は四国山系中の深部に属する地域に出土したことである。従来は海岸近くの沖積平野に面する山麓か、またはそれに近い丘陵地である。
ただここに遺跡のつながりを見いだすとすれば、下分上山村の今井名に「楠さん」という塚らしいものがあった。今から五十余年も以前にそこを掘っていたところ刀が一口出てきたが、その刀は行方不明で掘った人も故人となっているので調査するよすがもないが、その塚は底径が長辺で二mくらい、幅は三〇㎝くらい、一枚の石板のようなものでふたをし、周囲は平板の石であったと伝えられている。現在はこの石も何も残っていないので判断の仕様もないが、話を総合すると石棺であろうと思われる。
もう一つは昭和七年十二月、その南方から幅三〇㎝、長さ三五㎝くらいの粗末な石の棺が掘り出された。底は四〜五枚の平石であったが、ふたは一枚石で、中には何もなく土地の人々は「カラト」といっている。いずれにしても今はこの石もなく、当時の事情を知る人もなくなり、調査するすべもないが、平型銅剣の出土につながるものであろう。今まで古墳の発掘がないということで、この地域に古墳がないとは断定できず、まだ望みの糸はつながれている。
ともあれこの地域に四〜五口の平型銅剣の出土したことは弥生式文化の時代に、集団生活を営んでいた人々のいたことを物語るものであり、その集団も青銅器文化を持った優秀な首長のあったことがうかがえる。
この地域は鮎喰川が天然の連絡路となり、西に山を越せば木屋平に通じさらに穴吹に通ずる。また、北に越せば吉野川流域に通じ、これから琴平に通ずる「こんぴら道」である。「平型銅剣の文化圏は西日本の文化の流れである」との定説があるが、徳島県の中央に位置する神山町に古く弥生式文化の花が咲いていたことを知る大きな遺物である。
文明は川の流域に生れる。世界の文化が最初に開花した地方は殆んど川の流域である。阿波においてもまず人間が住みついた地方は川のほとりであろう。鮎喰川の流域もこの例にもれない。石棒や青銅の銅剣を生活の用具として古くから集団生活の舞台となったのは鮎喰川清流のほとりであった。水清らかな流れと、豊かなみどりの大きな自然のふところにひっそりと生きた私たち先住の人には開拓と生産にあけくれ、純朴な農民として勤労を愛し素朴に生きつづけた。『阿波の落穂』(弘化年間、野口年長著)には、「この国を阿波の国といへるは粟のよく繁茂する国なる故に名づけしなるべし。」とある。『古事記伝』(本居宣長著、明和元年(一七六四)起稿、寛政一〇年(一七九八)脱稿)には「粟の国 即ち阿波の国なり。以下略……」なにかの書物にも「粟は丹波に十石を出したる外、諸国になく、而して特に阿波国において二十石と出たるは是特産なるによれるや明らかなり。」とあるといわれる。
いずれも全面的に肯定することはできないが、とにかく「粟」と「阿波」とのつながりをこれからみつけても全然まちがいではあるまい。
粟は穀物のなかでも重要な一つである。稲を栽培する前はおそらく主食であったと思われる。この粟を作った人々の集団が粟をシンボルにした大宜都比売命を祖神として鮎喰川流域に住みついたと伝えられる。古い記録や物的証拠がないので、粟の神として大宜都比売命をこの大粟谷の祖神としたことは研究の余地が残されている。然し阿波で初めてこの鮎喰川流域の先住民が粟を栽培して平和郷を打ちたて、阿波では最も古いころから生きつづけているという幾多の伝承は、私たちに大きな誇りと夢を持たせてくれる。
古来の伝承によると
「上古未だ郡制のあらざりし時、今の名東、名西、板野、阿波四郡の地は、一県地で総称して粟と唱えしも、孝徳天皇の大化元年に勅して数郡をおき小県を合併して一郡とせり・粟の国においてもこの制度にならい、大粟山の附近は名方郡となり、その次は板野郡となりその残地は古名残りて阿波郡と称す……。」
この伝承はあくまでも古伝であるが、阿波の国は粟の国であり、その粟を最も早くから栽培していた地域は私達の住む鮎喰川流域であったと思われる。
粟を作った人々の集団が住んでいた鮎喰川流域の総称として「大粟文化圏」と呼びたい。それは次の根拠による。
神山町阿川勧善寺所蔵の大般若経巻の奥書
とあり、また焼山寺所蔵文書にも次のようにみえている。
右の二つの文書から鮎喰川流域一帯を大粟山と呼びならわしていたことがわかる。
大粟下山とは阿川、広野、入田の各村であり、大粟上山とは上分上山、下分上山の各村、大粟山とは神領、左右内、鬼籠野である。阿川勧善寺大般若経のなかの、第五一巻その他の尾呂野は現在の鬼籠野である。鬼籠野は神領の一部であったこともある。慶長十三年大粟谷上一宮神領分検地帳に次の村々があげられている。
上分は嘉慶二年のころはまだ下分上山村と一体で上山という呼び名で上・下分を総称していたのである。第四七四巻の柚宮はいまの阿川の二宮のことである。
大粟山を中心にしてこれから下を下山、これから上を上山とよび、神領を大粟山の中心とみることは、粟の祖神である大宜都比売命を祭った上一宮大粟神社の神禄の地という意味で「神領」でありここを大粟山とした。この地をなかに上山、下山とわけたことはうなずける理由である。上山という呼び名は下分、上分両地域の総称で、すでに嘉慶二年(一三八八)のころにできていた地称である。
大化の改新によって私有していた土地と人民を国の公地、公民とした。このころから日本の国は形式的にも内容的にも国家としての姿を作った。この大化の改新によってこれまで「粟」と「長(なが)」とに分かれていたのを一国として、阿波と呼ばれた。国は郡にわかれ、郡は里に分れて一里(今の一村)は五十戸を単位とし里には里長がおかれた。そのころの郡は阿波、名西、板野、麻植、勝浦の五郡がいずれも中部でそれぞれ郷司がおかれていたようである。阿波の国になってから政治の役所は国府と呼ばれ、今の徳島市の国府町府中におかれていた。それから七百年余りはこの地が阿波の政治の中心であった。
「郷」の行政区は元正天皇の霊亀元年(七一五)に大化の五十戸一里の規定を郷に改められたもので、五十戸が一つの郷であった。この郷が現在のどこに当るかは明らかでないが、倭名抄(九三五)によって推察すると名西郡では名方西郡(四郷)、埴土(波爾(はに))、高足(多加之)、土師(波之)、桜間(佐久良方)となっていて、埴土郷は大粟文化圏一帯のことであろう。いまの神山町から入田までの鮎喰川流域と思われる。
吉田東吾博士著「大日本地名辞典」にある「埴土郷(はに)」の範囲は、入田から上山までとしている。また阿府志(徳島県史料から)によれば次のようになっている。
ただし、埴示姫は埴生女屋神社のことで、阿波の国を開拓された祖神といわれている大宜都比売命を祭り、式外社となっている。
平安初期の弘仁十三年(八二二)に成立した「日本霊異記」のなかに、名方郡埴村(はに)のことがでている。埴土と呼んでいたことはこれからもうなずける。次に霊異記を書き出してみる。
このような埴土郷は五十戸とみて、当時の一戸の人数は約二十人〜三十人の大家族制で、これから計算すると約一千人か一千五百人ぐらいの人口であったと思われる。
名方という郡名について調べてみると、はじめの郡名は、名方郡である。この郡名は建御名方富命の「名方」をとったとする説がある。また日本武尊の御子、息長田別が長く阿波国を治めていたので「長田」を「ながた」として「名方」としたとの説もある。いずれも信をおきがたいが名方郡と呼ばれていたのは寛平八年(八九六)までのころであって、このころは名東、名西をあわせて名方郡と呼んでいた。
そのころの郡名は板野、阿波、美馬、三好、麻植、名東、名西、勝浦、那賀の九郡であった。
それを立証するのは「按延喜皮日 宇多天日己寛平八年九月五日阿波国分"名方郡" 名方東郡 名方西郡 後名東名西ノ二郡トナル」とあって、名西郡としての初めての記録である、右の文は「阿波志」巻第一の巻頭のものである。
延元元年(一三三六)から六十年余りを南北朝時代と呼ぶが、阿波ではどのような姿であり、私たちの住む上分上山、広くは大粟谷、上山谷はどのような舞台でありどんな活躍がなされたか、このころのすがたを物語る史実は何も残されていない。
当時の人たちがすべて山嶽武士であったとは思われないが、南朝に忠節をつくした武士の活躍は天険の山脈を利して、上山谷一帯を舞台に働いたこの武士たちを山嶽武士という。
真書大閤記に次のように述べられている。
この大閤記は江戸時代の後期、寛政のころに出版されたものである。この文中にある山士が山侍である。南北朝時代に突然に山士が山嶽武士となったものでなく、古くから山士はあり、南北朝のころになって南朝のために、正義の血潮をわきたぎらせたものであり、特に天然の要害である山によったために山嶽武士といわれたものであろう。山嶽武士の棟領は一宮城によった一宮宮内大輔長宗、成宗父子であった。この頃の阿波は南朝方と北朝方にわかれ、北朝方は足利尊氏の片腕ともたのむ細川和氏をして阿波国に配し、延元元年秋月城(板野郡土成町)によって吉野川流域を勢力下にした。さらに勢力を強めほとんど四国全部に及び、特に平野部にての勢力は強かった。これに反し南朝方は平野から追われ、山奥に孤忠を守っていた。
したがって山嶽武士の根拠地はけわしい四国山脈の山嶽地帯で、大粟山・一宮・種野山・祖谷山・田井庄などであり、なかでも焼山寺は山巓で通ずる天険の要地で最高の拠点であった。その連絡は一宮城から鮎喰川をさかのぼり焼山寺を経て上分上山から川井峠を越えて木屋平に入り、保賀山峠を通り美馬郡一宇村につなぎ、さらに西の小島峠を越えて東祖谷山を過ぎ、西祖谷山の国見山を越え三好郡の川崎に出て、吉野川に沿い伊予川をさかのぼった。また一宮から小松島か勝浦に出て和歌山に至り、紀州から熊野を経て吉野の本據地に連絡する。西の連絡は伊予から九州の熊本に連絡した。この連絡路はいずれも平地を避けて峯を伝い谷を渡り道のない難行路であった。今も残る山伏街道がこれである。この山嶽武士の勢力範囲は金沢治氏のことばの上からもうなづける。
上分でも峯から峯の道が昔の道であり、鮎喰川のほとりに降りて川筋のみの道で他村と行き来しだしたのは近い昔である。
山嶽武士は「もとどりの綸旨」をもって吉野の南朝に尽した。綸旨は天皇の命令、側近のものが書いて出す文書で、横三十㎝、薄手の薄墨色の紙を用いたもので、隣村の木屋平に三木文書と松家文書として残っている。山伏たちは京都方の厳重な監視と警戒の目をくぐって運ぶために小さく折りたたんで、もとどり(頭髪)の中にかくしたり、かさの裏に入れたり、着物のえりに縫いこんだりするため都合のよいように作られたものである。このような苦労も報われず阿波における山嶽武士もついに細川氏のために圧迫せられ、まず一宮城が陥り、次いで木屋平、祖谷山と西に及び南朝年号弘和三年、北朝年号永徳三年(一三八三)菅生氏を最後に全滅した。吉野朝五十七年のうち
阿波には板碑が多い、緑色片岩の石材が阿波に多いことも理由の一つである。殊に県下では名西郡は多い方である。板碑は石の供養塔婆でいまも法事などに墓にたてる「そとば」と思えばよい。板碑が発生したことについて学問的に研究されているが、五輪塔から発生したと考える説が有力である。
板碑は、十三世紀ころから造立が始められた。阿波は緑色片岩いわゆる青石が多く、なかでも「佐古石」「内谷石(石井)」「神山では「左右山石」などと名付けて板碑を作った。殊に神山町ではほとんどの地方で青石がとれた、しかも山の中にこの石が多いため川まで採取に降りなくてもよい関係で、山腹の石垣などに見事な青石を使っていることも多い。
イ 古い板碑
徳島県でいちばん古い板碑は、名西郡浦庄村下浦(現石井町浦庄)で昭和二十九年に発見された文永七年(一二七〇)三月九日の銘がある三尊種子板碑である。この紀年銘は板碑の裏面にかかれていて、鎌倉時代の特色をもつ豪放な文字である。この時代から続々と板碑が造立され、室町時代にかけて現在発見されている数は県下で約三千基といわれている。
神山町でいちばん古いものは、阿川、井の谷の新井宅の畑の端にある正和四年(一三一五)三月六日銘の五輪板碑である。この板碑は全長百四十㎝、碑面いっぱいに溢れるほどに雄大な五輪が線刻され、右に正和三年三月六日とあり、その横に文保二年(一三一八)七月八日と刻み正和の書体と異った書体である。正和四年は鎌倉時代(一三一〇ころから一三三〇ころまで)で文保二年は正和四年の三年後である。正和四年に供養して三年目に追供養したものであろう。五輪線刻のなかに雄渾な五大種子を配している。五輪は大日如来の三昧を表わし宝珠、半月、三角、円、方で空、風、火、水、地を表現し、五つの種子を各輪に配する密教の深義を示すものである。この井の谷の五輪板碑は大輪は厚く垂れ長で最も古い型を示し、水輪はおおらかな円形で全体のバランスがとれた豪放雄大な鎌倉時代の特色をもつ板碑である。
板碑の材料はほとんどが緑色片岩である。片岩であるため、はぎやすく、表面も線刻するに適し、形を整えることもたやすい石である。
板碑として備える形式は図の通りで、頭部を八形にとがらせ、上部に二条の横線があって頭部と身部の区別をし、周囲は一本の線でかこむ。その中に標識として普通は種子、画像、名号、五輪、趣旨銘、紀年号、仏具(花瓶など)が刻まれていて刻み方は陰刻である。大きさは大型のものでも二mぐらいでその数は少ない。上分では大型はまだ発見されず、普通の大きさは一m前後である。板碑の身部と脚部の中はあまり違っていないのが普通である。銘文は板碑を造立した意味を表わしたもので、「右為志者慈父三十三回忌造立之」とか「右為趣意者比丘尼□□逆修菩提建之」などが多い。造立は三回忌、十三回忌など、現在の追善供養と同じ時期であり、その年の八月に造立が多い。年号は板碑を造立した年を表わすものであるが年号のない板碑も多く、年号を記した板碑は形式もよく整っている。種子や趣旨銘、年号などの彫り方もいろいろであるが、彫りの深いもの、ていねいなもの、種子の図案化されたものなど一様ではない。
イ 標識による分類
種子板碑……一種子のものと三種子、五種子がある。なかでも阿弥陀、観音、勢至の三尊を表わした三尊種子板碑が上分では最も多い。
画像板碑……阿弥陀画像、観音、地蔵、五輪塔などである。このなかで上分は五輪塔板碑がある。阿弥陀画像板碑は広野の峯長瀬と長瀬にすばらしいものがある。峯長瀬のは応永五年、長瀬のは応安六年でいずれも阿弥陀立像で傘(かさ)形光背板碑である。光背の線刻が仏の慈悲を繊細に表現しいずれも優美な芸術的作品といってもよい。この外に県下でも唯一つと思われる宝篋印塔線刻板碑が広野支所裏山の中腹にある。「くまの墓」と呼ばれているがバランスのよい板碑で、芸術的価値の高いものである。
ロ 造立趣旨による分類
追善供養板碑……この板碑が最も普通のものである。死者の来世の冥福を弔うためのものである。
逆修板碑……造立する者が自らののちの世を祈るために立てるもので、銘文に「為逆修」と記している。また「為七分全得」の文字もあり、逆修板碑があることは逆修の修法がかなり行われていた証拠である。
この種のものは、上分では江田の中野宅上の墓地に双式板碑として「七分全得」の趣旨銘で残っている。
双式板碑……連碑とも、夫婦板碑とも呼ばれる。夫婦の供養のためのもので、鎌倉時代から始まったと伝えられている。双式板碑は同一様式のものを二基造立したもので、別々に作ったものと、同石のものとがある。神山町内にある双式は別々に作られたもので、同石のはないが、双式板碑はかなり多い。隣村の木屋平村には一石で双式がある。
神山町に現在判明している板碑の数は約五百基ほどである。この中で特に変った板碑についてのみ述べてみる。まず板碑のある場所であるが、造立された位置にそのまま安置されているものと、後世になって一定の場所に寄せ集められたものとに分れる。寄せられた板碑群としては広野の峯長瀬の阿弥陀堂がある。ここでは阿弥陀画像板碑(前出)のすばらしい一基を初め約三〇基が集められている。ここの板碑のなかでは康暦元年(一三七九)十月六日の双式板碑がある。一方は「右□□慈父四十九日」であり、他は「右志者為慈母三十……」である。さらにもう一組の双式板碑がある。三尊種子で造立は応永十三年(一四〇六)で逆修板碑である。
名田河にも板碑群がある。ここは地蔵庵のすぐ横に一六基が並んでいる。神山町の板碑群では形状・造立銘、紀年号など全体的にバランスのよい最右翼の群像である。その中でも応永十五年(一四〇八)の三尊種子板碑は高さ二百六㎝、巾三十六㎝、厚さ六㎝で趣旨銘は「於我滅度後為受持此経 是人於仏道□是無有疑 為義広禅門逆修菩提 応永十五戊子八月二十八日敬白」で形状、銘文、梵字、彫り方など模式的な板碑である。板碑群ではないがその他の傑出した板碑を項目的にあげると、広野の「くまの墓」と(前述)の宝篋印塔線刻板碑、井の谷の神山町最古の五輪線刻板碑(前述)鬼籠野中分・地蔵堂横の大型板碑の梵字の雄大な美しさ、下分の中内地蔵堂前の三尊種子板碑の種子の図案化された香り高い芸術的価値の板碑、更に左右内鍋岩の天蓋板碑等数えきれないほどである。
麻衣、川井などの板碑だけしか調べていないので判断することは早計であるが、それだけの材料で比較してみると、材料の石質において大きな相違はみられない。ただ上分と異なる点は五輪線刻板碑が木屋平に多く、麻衣などは二十八基中五輪線刻板碑は十二基もありこの点は上分と大きく異なる点である。
次に紀年号、趣旨銘などのある板碑が少なく全体的に形も小さく、彫り方も幼稚な感じがした。双式板碑については川井に一石でこの形式があり、上分ではみられない形式がある。また川井小学校の校庭に、川の自然石の丸味のあるずんぐりした石に五輪線刻板碑があった。自然石をあまり加工せずに板碑にしたもので珍しい形式である。川井峠をへだてただけの地域で、しかもこの峠は剣山道であるため往来も昔から多かったし、いわば生活舞台をつなぐ太いパイプであった。板碑の関係においてもこの大筋にはまちがいなく全くかけはなれた存在ではない。ただ木屋平村ではまだ未発見の板碑も多いし、狭い材料で結論を下すことはできない。
イ 西久地地蔵堂の板碑群
板碑のあるところは福井宅の墓地のなかである。地蔵堂のすぐ上の小高いところで福岡朝一の話によると、地蔵堂の上の畠を積み直したとき現在の所に板碑を移動したといっている。
略図のとおり上、中、下と三段にわかれて板碑は祭られている。
下の六基のうち応永六年のものは、上段にある応永六年のものと石質も形も銘文も同じ彫り方である。
中段にある二基の板碑は小型のもので、そのうちの一基は八型と上部の二条の線刻で板碑と断定する。他の一基は三尊種子がかすかに認められ趣旨銘や紀年号も彫ってあったような痕跡がある。
上段の三基のうち双式板碑と思われるのが一組で他は上部のみで下半部は折れている。
ロ 江田の双式板碑
上分江田名の中野宅上の墓地に双式板碑がある。応安三年(一三七〇)の北朝年号である。石質は緑色片岩でていねいに彫り三尊種子の梵字の彫り方もよい。造立趣旨銘に「七分全得」とあるのは逆修のことである。一基は中心で斜めに折れている。
江皇の乗飯原龍明宅裏にある。五基の板碑が石丸章平の調査にもみえている。大栗誌(神領岸栗里著)に次のように出ている。
「上分江畠名横左ェ門旧宅附近に石碑沢山あり永和五年九月日と相わかりしも字のみ年号などの文字磨滅せり…」永和五年は北朝年号で一三七九年である。
趣旨銘は「〇〇為〇〇霊散〇」
上分の板碑で現在発見されているのは約八〇基である。そのなかで趣旨銘、紀年号更に特殊な板碑だけ略図で紹介すると、最古の紀年号は、一宇夫にある貞治四年(北朝年号一三六五)の双式板碑である。
年貢を集めるために土地の調査をした検地帳と同じく夫役(労役)、夫役銀(人頭税)を課するために棟附帳がつくられて十五才以上六十才未満の男に夫役を課した。また実際の戸籍を調べるための棟附も行われこの帳には女の名、年令が記入されている。普通の棟附帳には女は記入されない。
棟附改は、(明暦・万治)、(延宝)(正徳・享保)(文化、文政)に実施されたが、毎回しなかった地方もある。内容は男の名、身居、職業、年令、家長との関係や家の履歴、走人などを記入し、巻尾に一村内の家長の身居、職業別数、人数、年令別および石高数を集計してある。
万治元年十一月三日(大粟)
名西郡之内上山村棟附人改御帳
(※中略・詳細な各戸の石高・名前・年齢等の記録が続く)
(※中略・名ごとの本家、平本家、小家、家数、人数、高の記録が続く)
<註>木屋とは木挽家でなく、おもやを遠くはなれた木屋小屋のことでそこで生活しているもの部屋とは隠居のことである。
(※中略・各名ごとの家数、人数、高などの集計記録が続く)
(※中略・夫役人数の詳細記録が続く)
藩政時代の土地の税金は年貢といいその年貢を決める元帳を検地帳といった。検地帳は田畠の面積、地味、水利などを調べて等級をきめ、その田畠からとれる米の量を籾で算定したものである。水帳ともいった。
検地が最初に行われたのは天正検地であるが、この時は実地に測量せず百姓の申告によった。この天正検地帳は上分にはなく、神山町では広野にその一部が残っている。実地について測量した検地は慶長九年である。この慶長検地は幕府の命によって、全国一様に六尺を一間として行ったものであるが、阿波では六尺五寸であった。田畠六尺五寸四方を一歩といい、三拾歩を一畝、三百歩を一反とした。検地は一筆ごとの田畠を二間竿で測量し坪刈りによって一反歩の収穫見積高(石盛籾制(こくもりもみせい))を決定する。
万治四年 西久地名
(地名) (等級) (面積) (石高) (耕作者)
ほうの谷 中上田 三畝拾弐歩 三斗九升三合 甚右エ門
田畠の等級は上、中、下の三種で、さらに細分せられて次のような十等分になっていた。
上上田、上田、上下田、中上田、中田、中下田、下上田、下田、下下田 四斗。
等級は十等であるが石高(予想収穫高)は土地によって各々上下があった。いずれも坪刈りによって決定されるが、坪刈りの方法は坪刈りして一升の籾があると一反ではその三〇〇倍の三石の籾となる。米に調整すると半減するから一石五斗となる。この方法は一枚毎にするのではなく標準的な田で行う。
阿波藩の標準は上田一石五斗、中田一石三斗、下田一石一斗、上畠一石三斗、中畠一石一斗、下畠九斗であった。
上分には山畠が多い。万治四年の検地帳でみると、山畠は一反について八升の石高である。山畠は山を開墾した傾斜地の畑のことで焼畠などともこれに属する。畠の場合の年貢は麦だけでこの年貢は毎年六月二十五日限りで納めた。
川成とは大水のために田畑が流れて川原に成ったことでこの場合は免租される。元禄十五年の大洪水で本根川名では丸川成となったところが多い。川成になってもまた元通りになった場合の年貢は前通りとなる。
普通の検地帳の外に新開検地帳がある。新に開墾した検地のことである。狭い耕地を広げるため荒地の開墾を奨励し、山地や竹やぶのようなところまで手をのばした。やぶ検地帳などもある。このような荒地を開墾した場合は或る期間諸役免除の特典を与えた。また新に開墾する時は鍬下料を納め開墾して三年ぐらいすれば年貢を納める場合が多かった。開墾して年貢掛りとなっても検地が正式に行われない時は仮検地帳によった。
茶、楮、桑などにも年貢がかかった。この調査をした帳が上毛帳である。上分には上毛帳の残っているのが多い。
封建時代の核は家である。家は一家(いっけ)・小家(しょうけ)・部屋に分かれていた。一家は村の構成の正員で、小家、部屋を代表する本家である。百姓の代表的存在で耕作に従事する下人を使用する。一家は耕地を所有し用水利用の権利や、入会地(いりあいち)の採草もできる。年貢を納める義務や先祖葬いの責任を持つ。この先祖の年忌葬いのこととは最も大きな一家の責任で、先祖の法要や葬いができない時は本家株を失って小家とならねばならなかった。一家は株内一統の首座であると同時にすべての責任者でもあった。この本家としての責任がとれないので小家の信望あるものが一家になった例がある。
享保九年(一七二四)のことである。下分の本百姓で本家の平十郎は身をもちくずして本家役の責任を果たさず、年忌弔いもできないようになった。もともと年忌弔いはかなり経費も必要だし、常々からそのつもりで諸事準備していないと簡単にはできなかった。平十郎は遂に本家をあきらめて小家の徳兵衛にゆずった。徳兵衛は小家の中でも信望のあった者と思われる。このような場合に一家株になりたい希望者が多ければ、本家株の争いごとが起る。
小家は一家の分家であって、弟、いとこ、叔(伯)父のように血縁関係の忌懸り(いみがかり)小家と、下人から成りあがる忌外(いみはずし)小家とがある。一家とちがって「こまえ」「こいえ」といわれて一家に従属し、一家の田畠の一部を耕作して収入を得た。
忌懸り小家は百姓の二、三男が別家した場合が多い。その頃の農村には開墾すればまだ耕作して生活できる土地があった。小家になったものの調査をしてみると弟が最も多く、次に伯(叔)父、いとこがこれに次ぎ、更に親の場合は家を長男にゆずり自分は隠居して小家となったのもある。また下人であって一家の得心のもと下人から小家に成りあがるのもある(下人放し)。一家と小家との関係は身居上の従属関係で、経済的優位のものではない。一家がつぶれ人、絶人となって絶家した場合その下にあった小家は一家に昇格する。
享保の頃までは、別家して小家となることが多かった。本家の財産である田畠の分割が行われるので、農民の細分化することを恐れてこれを制限した。寛文十三年分地の制限令に「名主は二十石、百姓は十石以上の田畑を有するもの以外は分地を許さない。」
正徳三年には「田畠の分配高を高拾石、一町以上とし、残りもこれ以上にならなければ分割することを許さず。」として一町歩以下の百姓を作らないようにしたが、実際はこの通りにならなかった。
文化年間になると別家が少なく解放による小家が多くなった。那賀郡橘町の棟附に一家数八十七戸で、小家数三百七十六戸とあるがその小家数の中で約半数は解放された。この頃から農民の異動が多くなり走り人なども多くなった。農民は可酷な身分制度から逃れようとして、金を出して一家株や武士の株を買うようになった例もある。
上分における小家の成立について、万治の棟附帳と、それから十六年後の延宝二年の棟附帳で調べてみる。(※詳細な小家・名子のリスト中略)
万治に小家であったが延宝になって小家の身居から落ちたのは五戸である。わずか十六年間であるが、小家の変り方が多いことに驚く。農家の二、三男対策はいつの時代でも問題が多くこの頃は現在とちがって開墾するあき地も多かったので、割に容易であった。健康で骨おしみせず働らけば、汗の結晶で新しい畠が拓けた。こうして下人から身上りして小家になった。
家に家格があるように人にも身分がきちんと定められていた。世襲であってその身分は生まれてから死ぬまで殆んど変わらなかった。士、農、工、商の四民に分けられて支配階級の武士と被支配階級の町人、百姓とに分かれていた。この身分を身居といった。
この身居の意味については、徳島県警察史につぎのように記されている。
(一) 身居の意味 江戸時代の厳格な社会制度の一つに、身居(みずわり)があった。身居の意義について名東郡史には、「身居(みずわり)とは、人別のこと、すなわち個人個人の身分を規定する一種の法制的呼称」と記されている。このように封建時代には、あらゆる事柄が身分階級によって行なわれたので、身居の基本を示したものが庶民の戸籍簿としての「棟付帳(むねつけちょう)」である。
(二) 身居の種別 県下の各町村に現存する「棟付帳」によって、藩政時代の身居のあらましを述べる。
1 郷士 2 小高取 3 願士 4 一領一匹 5 郡村浪人 6 郷村浪人 7 糖浪人 8 所付浪人 9 支配外無役人 10 郷鉄砲・御鉄砲 11 豪目付 12 御林目付・御鳥見役 13 加子 14 取立人 15 先規奉公人 16 御目見人 17 神職・僧侶 18 農民 19 職人 20 町人 21 来り人・その他 22 賎民
なお、当時は家格について、次の各種の身居が定められていた。
一家(いっけ)〜(本家)小家をも一団としたので、本家は独立権を有する公民の家で、その支配下の小家を監督し、その縁組等身分上の万事を指図し、また、年貢を上納する責任を持たされていた。
小家(しょうけ)〜(別家)分家のことで、本家の監督を受けた。本家との血縁が近い間は忌懸(いみがかり)であるかが、それが遠くなると忌外(いみはずし)となって他人に近くなった。
部屋(へや)〜一軒の家でも、なんらかの事情で本家または小家の一部に住む者で、小家に準じて取り扱われた。
農民の身居を決定的に決めたのは、棟付帳である。古い言い伝えや、系図などで身分を示そうとしても、それは語りぐさであって決定的なものではない。従って棟付帳の改正などは最も慎重に取扱った。よほどの証拠がない限り軽々しく改正はしなかった。
イ 村の行政からみた身居
(一) 庄 屋 現在の村長や町長にあたる。苗字や帯刀を許されたものもいた。その進退は郡奉行によって決定せられ、庄屋が幼少のときは後見人をおいた。
(二) 与頭庄屋(組頭庄屋) 数か村の村役人の長である。多くの庄屋を支配した。
(三) 肝 煎(きもいり) 弄地百姓の身分で庄屋になったものをいう。
(四) 五人組(五人与) 普通は五人であるが、かならずしも五人でなかったこともある。組頭があって、組中の吉凶について助けあい、犯罪と年貢について共同で責任をもち、庄屋をたすけた補助的な役柄である。
夫役を負担し村の構成の主体となるのが百姓で本百姓(平百姓)が基本の身居である。
(一) 年貢を納める先によって百姓を分けると次の二つになる。
(1) 御蔵(おくら)百姓 年貢を藩の御倉に納める百姓
(2) 拝知百姓 頭入(かしらいり)百姓とも呼ばれ、年貢を藩士に納める百姓。上分は殆んどが御蔵百姓であった。
(二) 本百姓 地主であってこれが百姓の基本の身居である。
(三) 間 人(まうと) 夫役を負い一人前の百姓として取扱われた。間人は元来他国より移住してきた百姓であって、文禄三年の人定によってその土地に定着させられたものを、従来からいる土着の人々が「まうと=客人」と呼んだのがこの名のおこりという。
(四) 名 子(なご) 本百姓の屋敷内に住みその家の耕作に従事して支配をうける農奴的な性格の身居である。少しの私有地もなくただ働くのみである。この身居で勤労と努力によって小家になったものも多い。
(五) 下 人(げにん) 名子の下の階級で家来と同じである。大きな本百姓で広い耕地をもつものは、十数人の下人を有するものもある。
(六) 見懸人 一人前の夫役を負わず、見懸銀を負う身居である。然し数代たつと夫役銀を課され百姓の身居となり一人前の村民として扱われた。
(七) 来り人 他村から移住し。居屋敷を求めて定住したものである。
(八) 他国者 移住者であるが、阿波国外から流浪して移住したものは特に他国者として、村方で支障がない時は見懸人の身居を与えて見懸銀を徴した。
(九) 潰 人 田畠や家屋敷などを売って村を出るかまたは乞食にでも落ちるような破目になったものがあった。
(十) 出作人 出稼人。出作人は他村に田畠を求めて移住耕作するものである。
(十一) 走 人 出稼人や出作人は稼手形を受けて他村に出るものであるが。所在ははっきりしている。走り人は所謂住所不定で行方不明である。走人は藩の禁制であったが絶えなかったのは、農民の苦しみが大きな原因である。
身居は人間の一生を通じての格付であるため、この身分からすこしでも上位の階級にあがることと生涯の望みとした。間人は小家に、さらに壱家へと昇進する道を歩んだ。昇進の根幹となるものは資産であってこの資産は勤労による外はなかった。但し藩の財政が窮乏すると経済力の豊かな農民に半強制的に身居を売った。これが冥加金、役札銀の制度である。
慶応二年、一宇夫の幸吉が冥加金を上納して苗字帯刀、二歩役御免の身居になったがその時の事情を知る書状がある。藩政時代において身居制度は今の社会通念で考えられないほど厳重であった。年始や節句などの際は小家や名子などは本家にあいさつを申しあげるために伺い、下の間でなにと恐れなかったほど自分の身居を固く守った。この身分の階級があることを「身上り」と言うが、与加金もその「身上り」の一つの方法である。
原簿は検地帳で、米と麦で納めた。税率は四公六民の制度が普通である。四公六民とは、収穫した米の四割を年貢として納め大割は自分の収入となった。これを四つ物成といった。実際はこの外に付加税がついたので結局は大公四民になった。
普通作ならよいが凶作となるとまことにみじめなもので、文字通り水呑み百姓の生活である。朝は明星から夜は手もとが見えにくい頃まで働いてこの状態である。打ちつづく凶作やききんに対してなすすべもなき百姓は、米を作って米が食べられない極貧の生活であり、盆や正月に銀めしが食べられるのは上の部で、病気になっても米を振る音を聞き、それで辛抱したという笑えない百姓生活である。百姓は土地にしばられ身居に自分をくくられ、逃げもできず訴えることもできない現実の苦しみに一揆を起こし、田畠を捨てて他国に走る者さえあった。
この制度は他藩ではみられないもので、二毛作田では米の一部を麦で上納させて軍馬の飼料にした。割合は米一石に対して麦は三倍の三石とした。それを三つ折といい内麦の制度である。外麦は秋年貢の米と同じく、夏年貢の麦のことである。
棟附帳は夫役を課するための戸籍調査を目的としているいわゆる戸籍帖である。夫役は年貢とともに百姓の大きな義務で、労力又は米や銀で納めた。夫役・夫役米・夫役銀などの名はこれである。
この夫役銀の使途は、城下の普請(ふしん)や土木新田工事、薪伐り、竹林伐りその他諸労役に使われた。
重い年貢の上にさらに夫役が課せられ、人頭税として十五才以上六十才未満の者には二歩役といって毎年、銀五匁を負担した。この二歩役を免ぜられたものは女子と、十四才以下・六十才以上の男子と無役人・夫役御免人である。
上山の三大飢饉は安永年間、天明七年、天保七年である。天明では家数百九十三戸、人数六百六十二人が救済を必要とした。天保七年の飢饉では種もみが不足したので藩へもみ種三十一石一斗五升の拝借願いを出して、十六石九斗一斗六合の貸し出しを許可された。
洪水やひでり続きで凶作になった時の百姓はまき種に困って、公借の願を出している。部落で或いは村全体で拝借する場合などいろいろである。
元禄十五年の大洪水で田畠が流失した。本根川名の安政四年の新古検地帳をみるとその状態がよくわかる。本根川名の田畠の総反別は十二町四反五畝九歩であるがそのうち二町五反六畝二十四歩が丸川成となっている。丸川成というのは、田畠が流失して全部磧になったことである。とにかく約二割の田畠が流れたこの大洪水の被害は大きかった。
百姓にとって田畠は生命である。台風や長雨、ひでり、虫害など自然の暴威におろおろしながらも百姓は田畠で自分の闘志を燃やす。壱人前の百姓から小作百姓に至るまでみんな同じように田畠を大切にして、手あかや汗で耕作したのである。この田畠を人手に渡すということはよほどの理由がない限りできなかった。自分の手足をちぎられる思いであった。田畠の売買については随分ときびしい掟もあった。永代売りや期限をつけて売る年切売りなどである。
土地に立つ自給自足の生活経済は商人や商業の存在を許されなかったが、農村で自給自足のできない商品や、技術を要する職業は許されていた。大工・左官・石工・桶・屋根・紺屋・木挽・鍛冶などである。但し紺屋・鍛冶屋・木挽などは棟附帳に記載される身居であるが、他は百姓の身居であった。
上分と下分に分かれたのは延宝三年(一六七五)である。寛永十二年(一六三五)では上山は一つでまだ上分と下分とにわかれていなかった。万治元年十二月三日 上山村下分棟附御改帳では二十五か名は、「中峯」から「名」を、「立岩」と「市宇夫」とを分けて二十五か名としたのである。
地名にはそれなりのわけがある。はじめに言いならされていた地名が、なにかの理由によってなまったり、あて字によってもとの意味と違った呼び方になったり、いろいろな変遷をもったのもある。上分の地名については、古い記録などをさがしながら調べてみた。
① 江田名 善田、又は恵田という意味で、水田のよい所からこの名がつけられたのではないか?
② 金泉名 かね気(鉱石)の出る泉があったためにつけられたと伝えられる。
③ 中津名 神通川と東谷川の合流点に川巾の広い洲ができた。この地を中津といったのである。
④ 大中尾名 中尾山と南方山との接合点で大中尾といった。
⑤ 奥屋敷名 上分のいちばん奥にあたるからこの名がつけられた。
(※中略: 本根川、樫平、大蔭、府殿、殿宮、野保路、坂丸、柿道、江畠、入手、石本、中峯、西久地、名、名ケ平、一宇夫、立岩、川又、有掛、角屋等)
藩政時代の行路人の病気や死亡などについては、村々がうけついで世話をし自村に送り届ける制度になっていた。その時の費用はその村で負担した。
上分の庄屋は下分と同じように、粟飯原家の世襲で続けられている。
初代庄太夫から始まり、太郎兵衛、権左エ門、益右エ門、紋之助、浅之助、文左エ門、佐次郎(太郎兵衛)、権左エ門、庄太夫、与一へと世襲された。
村邑の庄屋は、村内で家がららが正しく田畑などを多く所有した者がなった。いいかえると公法政治においても自治においても、一村の代表者であり支配者であった。また藩の立場からすれば、もっぱら村の政治に任ずる地方役人中の筆頭者で、藩によっては庄屋を藩政に関与せしめた例もある。かように庄屋は上下の中間に立って、ある場合は藩庁の利益を代表し、ある場合には農民の利益をも代表した。
「お東さん」と親しみのこもったことばでよばれている粟飯原家は、上分の西の政所から庄屋とつづいた政治の家がらである。お東さんには藩政時代の古い記録がたんねんに残されている。本宅の裏には蜂須賀家の紋「卍」の土蔵が今も古い光りを放っている。藩政時代からの旧家であるお東さんにスポットをあててみる。
蜂須賀家政が就封すると阿波領内における「先方の士」細川、三好、長曾我部の土豪たちの知行を没収して、新しく知行を与える政策をとった。この方法は平地においては別に抵抗はみられなかったが、山分では激しい抵抗があった。
天正十三年八月仁宇山、大粟山、祖谷山の土豪たちはこの家政の政策に対して反旗ののろしをあげた。大粟山においては、木屋平の木屋平知保、知満の父子は十三年八月蜂須賀家政が発した巡見使兼松縫右エ門を、名子下人をもって襲い大粟谷下分の寺久保に殺した。家政は重臣の樋口正長を派遣し、首謀者十数人を捕え事態は静かに収まった。
文政二年(一八一九)六月上分、下分両村の百姓たちが、神領村上角の百姓たちと手をくみ、みの、かさ、竹槍をもって神領の神宮寺に七百人あまり集って、強訴をしようとした。ことのおこりは馬の飼料や番縄の割が不公平であるとして一揆の形となった。一宮の与頭庄屋である河原周助はこの狂乱騒ぎをみて、このまま城下に入れては一大事であるとし誠意をつくして農民たちを説得した。さすがの農民も自分たちの行動の重大さに気付いて、城下に入ることはとどまった。
弥十郎騒動は明治六年(一八七三)六月から七月にかけて、上分の高橋弥十郎が主謀となって、地券発行などの新しい明治の変革に対して反抗した農民暴動である。明治新政は封建制度に凝り固まった当時の人々にとっては、食欲をおこさない異物の食べものであった。
一口に言えば地券発行は農民のためにならないという考え方である。地券とは土地田畑の権利書のことである。藩政時代においては、代々農を世襲するので、土地の権利が異動することは殆んどなかった。このように新しい制度はみんな農民を苦しめるものばかりとの偏見によって、弥十郎の頑なな心はいよいよ狭められ、抜きさしのならない破目に立ち至った。
高橋弥十郎(上分本根川在)は三十一才の六月十五日叔父の峰木亀太郎とともに、徳島市の県庁におもむいた。目的は地券発行、地券証印税及び戸掛日課銭を廃止するようにとの訴えであった。弥十郎ら一味は妙法寺に集結したあと、主謀の弥十郎ら幹部の心は破竹の熱情たぎりたつものがあったが、半ばおどされ従ったものは烏合の衆で一人へり、二人かくれ、その数次第に減って百人余りとなった。鎮撫方は血を流さずに一応事態の収拾をみたことに対してホッとしたが、主謀の高橋弥十郎、弥平などは捕えることはできなかった。弥十郎は高知県で遂に捕えられ八月三日拘留せられた。九月二十八日刑が確定した。
「上分上山村之土地ハ北緯三十九度西経六度ニ位シ其面積東西三里南北三里名数二十三ケ名アリ元上山村一村ニテ四十六ケ名政所二人アリ西上山東上山ト称ス延宝三年上山村ヲ東西ニ分ケ東上山ヲ上山村下分トシ西上山ヲ上山村上分トシ庄屋役ヲ置レ統治ス…」
なお、藩政時代の上分上山村民を代表して上は藩またはその役所へ対して、下は村民に対する上意下達はすべて庄屋役の粟飯原家で執行していたが、明治二年正月二十三日に版籍を奉還し、阿波藩を徳島藩と改称し藩主は知藩事となった。同四年七月二十四日徳島藩を廃し徳島県となり、同年十一月十五日徳島県を名東県と改称された。
明治十一年第十七号布告郡区町村編成法により区を廃し名西郡役所を石井町に置き郡長をして全部を統治せしめ数大字を連合して戸長役場を設けた。このように郡は町村と県の中間の地方自治体として発足し、郡には郡長および郡会議員、郡役所に事務職員を置いて郡政を議し、町村の指導監督にあたった。
大正十二年三月末日限りで、地方自治団体としての郡制は幕を閉じたのである。しかし行政官庁としての郡役所はその後も引続き存続したが、大正十五年七月一日に事務の簡素化と経費節減のため廃止せられ事実上姿を消してしまった。
村政の首長の職名は、庄屋―里長―戸長―用掛―村長―副戸長―戸長―村長というふうに目まぐるしく変わっている。用掛・筆生等の職員も揃い庄屋時代の事務のほとんどを占めていた税務(貢租)のほかに、はじめて庶民の意志を反映する民主政治のはじまりともいうべき議事をはじめ、兵事・学事・戸籍・衛生・勧業・土木などの新しい事務部門も次第に整備されていったのである。
われわれの遠い祖先は火を使うことを知らず、夜は月星の光りが唯一の灯火であり、照明であった。いつのころからか火を手に入れて灯火だけでなく、食生活においても生の食物から煮ることや焼きものなどへと大きな変化をもたらしたが、火を手に入れて我がものとしたことによって、いわゆる「たいまつ」を考えだし、たき火をして家の中にも明るさができ、生活時間の延長と、うるおいができてきた。
明治維新となり、江戸が東京とあらたまって文明開化の大波が急激に押し寄せ、ガス灯ができ、水力発電となって電灯の需要は増大し、大容量電力不足の重要をみたし、明治後半から電力の需要はどんどん伸びてきた。
上分における電力利用状況をふりかえってみると、大正初期から終戦までの間は、神通発電所からの恩恵で南谷の一部で電灯をともし、ついで神領村にできた名西水力発電所からの送電で川又地区に電灯がともるようになって、その状態がつづいていた。上分全域に点灯したのは、終戦後のことである。
藩政時代の道として、金比羅街道、西北尾筋街道、長山街道、勝浦道、剣山街道などの街道は村外へ通ずる主要道であった。他にも小道がこれらの主要道に連絡していた。また村内では上納道といって庄屋を中心に各部落に通ずる道があり、米、麦、蕎麦、紙等の年貢(上納物)の運搬や「行(あるき)」の往来する道があった。
コリ木、木材の搬出は鮎喰川、南谷川の水路運送に依存し、古来より北谷、江田等は人の肩による外なく、いかにも困難を極めていた。名西山分に画期的な開化をもたらしたものは、山分五ヶ村貫通の車道の開通である。明治二十四年、郡制実施の好機に時の郡長は郡会に附議し、調査費百五十円の予算を得て、山分道路開発の第一歩を踏みだした。明治三十四年、矢野村八倉比売神社前より本村の江畠に至る全線が開通し、広野五反地領において盛大な開通式を挙行した。
上分上山村内にかつては一十二社の神社が鎮座しておられ、敬神の厚さを物語っていたが時代の流れによってその数も次第に減少した。
神事についても、黒松八幡神社、新田八幡神社には、神官・氏子によって伝統ある荘厳な神事が今も受継がれていて、毎年の例祭日にはこの神事で神を敬い、神に感謝し、神意をたっとんでいる。
村民の宗旨は真言宗がほとんどで、他の宗旨はわずかに数える程度である。上分上山村の現在の寺院は妙法寺一か寺であるが、南谷、北谷、川又の大部分は妙法寺を檀那寺とし、中の谷の大部分が下分の西光寺を檀那寺としている。ごく一部分が下分の明王寺を檀那寺としている。
この宗派の最も大きな行事は旧二月十五日の涅槃(釈迦入滅祭)である。次に秋には十夜法会を行うのが通常であるが、山間地のため宗家寺院が少なくていきづまりとなり、涅槃会に合わせて行われている。
地蔵さん:
つるつるぼうずの頭に、墨染の衣をまとい、右手に杖をついた地蔵さんは、庶民にもっとも親しみやすい仏として、各地で数多くまつられている。この仏は子供に深い関係があり、この世とあの世の境にいて地獄の苦難を救って下さると信じられ、幼児の墓石には地蔵さんを刻んであるのも多い。
庚申さん:
人間の体内には三尸(さんし)の虫がいて、庚申の夜、人が眠っている間に体を抜け出し、大帝にその人の罪過を告げるという。したがって庚申の夜は眠らずに戒慎恐懼(かいしんきょうく)して善事を行い、一夜を過ごすという迷信があり、仏教と支那の道教の教えの混合したものが日本に伝わり、さらに日本の神道の猿田彦の語などが習合して庚申信仰を作り出した。上分の野の石仏でもっとも多く建立せられているのがこの庚申さんである。
地神さん:
上分の各部落の神社の境内に、石積みの台の上に、高さ四十〜五十糎ほどの五角柱の石塔が立っている。これが地神さんである。五角柱の五つの面には天照大神、大己貴命、少彦名命、倉稲魂命、埴安媛命の五柱の神様の名前が刻まれている。農業に深い関係のある神々を一つ石に刻み、地神さんとして農作物の稔りの豊かであるように祈願するのである。
柴折さん:
昔の人情味の豊かで、しかも素朴な信仰のあらわれに「柴折さん」がある。隣りの部落へ行く道中の距離の遠い場合とか、危難が予想せられる箇所などに一定の場所を定め、その前を通過する時は必ず雑木の小枝を手折って供え、道中の平安と、後から来る人に誰かが先に通過した事を教える所である。
経塚:
経塚は、釈迦のありがたい教え、すなわち経文を後世に残しておきたいとする考えから起きた。釈迦の死後千五百年経ると正法像法(しょうぼうぞうぼう)が衰えて末法の世になると信じられ、後冷泉天皇の永承七年(一〇五二)が末法に入る最初の年として、仏教信者は絶望感におそわれた。
剣山道:
開祖は「役の小角」と伝えられる修験道が広まるにつれて、大峯山(大和国、現奈良県)に入山して修業する風習を、阿波の修験者たちは手近かな隣村の木屋平にある剣山に目をつけ、大峯山に模した行場として開拓したといわれていた。旧暦七月十五、十六、十七の三日間を例祭と定め、信者たちは講組を作って先達に引率せられ、白衣に身をかためて「六根清浄(ろっこんしょうじょう)」と唱え、法螺貝(ほらがい)を吹き鳴らしつつ入山し、一夜の修業を終えて翌早朝には頂上で御来迎を拝して下山した。
本名鑑は各種公職に就任された方を主にして収録した。配列は五十音順による。
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粟飯原庄太夫 安政三・九・一六 字江畠生 村会議員・旧制学務委員 農業 |
粟飯原伝蔵 嘉永五・三・二五 字江畠生 旧制学務委員 |
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粟飯原太郎一 明治五・四・二四 字江畠生 村会議員・農業 |
粟飯原幸雄 明治三八・四・一二 字江畠生 村会議員・養蚕組合長・大政翼賛会・農業 |
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粟飯原繁行 明治三三・二・一九 字江畠生 村書記・選挙管理委員 |
粟飯原茂憲 明治三一・八・二六 字江畠生 村収入役・タバコ電報KK専務 |
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相引 源八 弘化二・一一・一〇 字名ケ平生 村会議員・農業 |
阿部福太郎 明治三三・一・一二 字川又生 丸福木材社長 |
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池本 寛平 万延元・八・一九 字入手生 勧農実行委員をして、学校林寄付。 |
粟飯原良胤 明治五・一〇・九生 村会議員・農業 |