儒員:臣・藤原憲がこれを編集した。
勝浦郡:東は海に至り、南は那賀郡に至り、西は名西郡の上山に至り、北は名東郡に至る。延袤(縦横の広がり)は十里余りである。
建置沿革:貞観6年4月、少領(郡の次官)を一員加えた(『三代実録』による)。慶長9年には、村は総じて三十二であった。元禄年間も同様であり、今(編纂当時)は三十九となっている。
篠原:今は本庄に篠原里がある。本庄の潟上は昔これに属していた。
託羅:今は廃止されている。宮井村の青蓮庵の前に四十八万歩の田があり、多加良牓示と称されている。
新居:今は新居見村がある。
餘戸:小松島の一名である阿摩古は、恐らく餘戸の転じたものであろう。戸令には次のように記されている。「およそ戸呂は五十戸を里とし、里ごとに長を一人置く。もし六十戸を満たす者は、十戸を割いて一つの里を立て、長を一人置く。その十家に満たない者は大村に隷属して入れ、別に置く必要はない」と。
芝山塁:中田村にある。千代城と称される。おそらく源藤政が拠った所であり、享保年間に石棺が出土。
藤原兼時宅址:中田村の集落の西にある。
渋野塁:渋野村にある。平兼安がここに拠った。
熊山塁:本庄村にある。昔は桜間城と称された。紀成良の別塁であり、後に源国兼もまた拠った。
田林寺営:本庄村にある。水田の中に小山が孤立して立っているのがこれである。紀能遠が拠ったが、元暦2年に源義経が攻めてこれを降伏させた。今は寺となっており、田林寺という。『平家物語』において「三面は泥濘で、一面に堀がある」と称されている所である。
宮井塁:麻殖遠江守がここに拠り、千四百貫を領した。その跡地は寺となっており、すなわち大匠寺である。東に子城があり、亭円という。
天神山塁:新居見村にある。文治年間に藤原近家が拠った所であり、永禄年間には源吉則もまた拠った。
山分塁:飯谷村の奥にある。名は古城と称する。源長政がここに拠った。今は田となっており、櫓下、堀河、的場と呼ばれている。
源長政別館:飯谷の渡し口の竹林の中にある。
今山塁:沼江村にある。藤原国村がここに拠った。その麓は今、城端と称されている。
星谷塁:星谷村にある。源長政の別塁である。今は八幡の祠があり、宝殿が九つあると称されている。おそらく武器庫が置かれていた場所であり、しばしば地面を掘って兵器を得るといわれている。射埒があり、その上には淵があって矢淵と称されている。
中山塁:中山村にある。藤原国村がここに拠った。
中角塁:中角村にある。中角六郎左衛門がここに拠った。今は田となっており、城前、城後と呼ばれている。
山分塁:棚野村にある。源俊平の行営であった。今は田となっており、櫓下、堀河と呼ばれている。
四千六百十八戸、二万二千百三十一口、雑戸四百二十三口。
五千二百八十九戸、二万一千五百六十口、雑戸五百六十五口(寛政年間)。
酤戸(酒屋):十一戸(寛政年間)。
北山:大谷村にある。一株の桜の花があり、高さは三丈、百畝を覆い隠して照り映えている。これに因んで、あるいは桜谷と称される。
勝浦河:源は瀬津から出て、曲流して福川、藤川を経て東へ流れる。中廬を去ること、立川が南から入り、また東へ流れる。阪本渓が北から入り、また東へ流れ、今山に至って北へ折れ、飯谷、本庄を経て、西塚に至って分流し、また合流して海に注ぐ。
福原川:二つの源流がある。一つは田野から出て、一つは野尻から出る。合流して牓示の谷口に至り、瀬津川に注いで勝浦河の水源となり、長さは三千歩である。
大松川:大松村にある。勝浦河の支流であり、東北に向かって海に入る。
菖蒲田池:中郷村にある。中州は径五十歩、長さ三百歩ばかりである。この間は採捕を禁じられている。昔は板屋と称し、住民が千戸あった。
菖蒲田川:源は前原から出て、中郷、小松島を経て、金磯に至り海に入る。あるいは、旧勝浦河の支流であると言う。
芝山:中田村にある。左は海港に接し、右に勝浦河を帯びる。頂は日峰という。数十里を臨み眺めることができ、地の利は国中第一であり、また佳景である。西麓は千代城と称される。東麓には石槨が三つあり、それぞれ四方は一丈ばかりである。
千代松林:中田村にある。芝山、中津峯を背負い、西にそびえ、浦■が東に連なる。南には豊太閤の祠の跡がある。老松が群生して茂り、数十歩の間に植え立っている。また桜の木が道を挟み、春の時は美観であったが、今は枯れている。仁良世子がかつて中院内大臣通枝に請うて国風を作らせた。曰く、「常磐木爾花乃光袁仁保和勢天又一入廼千代松原」。また林の中には往々にして礎石があり、豊林寺の跡である。また石があり、高低して峰を成し、九山八海と称する。また石があり、馬石という。形をもって名付けている。その東にそびえ立つ者を蜑子の取石と呼ぶ。俗に伝わることには、昔海水が周囲を巡っており、漁家の子供たちが遊び戯れた場所であるという。
小松洲:一つの名は余戸浦と称する。『盛衰記』には天子と作かれている。
繋駒松:小松洲の蛭子の祠の畔にあるが、今は枯れている。俗に伝わることには、昔、源義経がその馬を繋いだ。
辨天山:金磯の海浜にある。一つの名は冑島と称する。昔は海水がこれを環っていた。灌木があり、郷名には美勿列とあり、また枝葉が茂り広がって四季を通じて蒼翠である。その根は数十条あり、極めて長く、頂から地に至るまで羅網のようである。右に石門があり、潮水が出入りする。
烏帽子岩:金磯にある。高さは二丈四尺余り。その頂は帽子に似ており、上の周囲は四丈二尺、中は痩せて削ったようであり、下の周囲は十丈八尺である。
帽子岩:弁天島の東にある。海に入ること百歩ばかり。形は丸く、帽子の頂のようである。
裝束原:芝生村にある。俗に伝わることには、源義経が颶風を侵して至り、ここで甲を着た。これに因んで名付けられた。
千把嶽:芝生の道の側にある。あるいは舩場と作る。古、この地は海に瀕していたと言う。石壁は四丈ばかりである。また小千把がある。
旗山:芝生の道の東にある。小山が孤立して立ち、石が出て松が秀でている。俗に伝わることには、義経がかつてここに旗旄を建てた。これに因んで名付けられた。
芝生川:源は田浦の清浄池から出て、金磯に至って海に入る。径は二十余りである。
天王谷:田野村にある。牛頭の祠があり、住民は互いに戒め合って肉を断っている。
勢潛石:田野の山麓にある。門のような穴があり、身をかがめて容れる。
赤石山:田野の東にある。海に浜しており、乱石が多い。その下を勢合と言う。俗に伝わることには、義経が憩うた所である。
清淨池:田浦にある。清浄寺の廃址である。
賓頭縷嶽:新居見と芝生の境界にある。
掛鞍石:新居見の春日の祠の側にある。
蓮池:新居見にある。水は極めて清らかで透き通っている。
神路山:また杉尾と称し、または勢見と称する。すなわち勝占の祠がある所である。源豫州がここに兵を駐屯させた。峰が二つある。一つは伏鉢と称する。俗に伝わることには、豫州はここで冑を脱ぎ、その兵を観閲した。一つは耻峯と称する。伏鉢の峰の西百五十歩のところにある。盤石があり、上は平らで凹んだ所に水があり、名を洗櫛といい、また鬢影とも称する。伝えられるところによれば、豫州がついてその容姿を照らしたという。また矢淵がある。
敷地原:西塚村の集落の橋の北にある。毎年九月に市が立つ。また赤石があり、田の中にそびえ立っている。]
鶴島:西塚村の道の左にある。水田の中に孤立して立ち、石壁が周囲を巡り、小松が楚々として生えている。
蔓島:寉島(鶴島)の東南にある。やや大きく、土を載せている。
鞴川:一つは渋野から出て、一つは本庄から出る。西塚に至って合流し、大松川に入る。
化頂峯:本庄村の丈六寺の後ろにあり、勝浦河を枕とする。伝えられるところによれば、永正十二年十一月十五日、釈用急がこの峰に登り、袈裟を脱いで松の枝に掛け、羽化して去った。その松はすでに枯れている。
梅林:渋野村の長田、牓示にある。家々で梅を植え、木々が互いに望まれ、三、四千歩途切れることがない。花の時は見ごたえがある。潟上村にもまた多い。
八多山:八多村にある。公がかつてここで狩りをした。下には天王林があり、櫧や樟が争って茂り、また白桜梅が出る。
中津峯:宮井村にある。城府を去ること三里。阪道は千八十歩であり、左右に桜の花が列をなす。西は八多山に連なり、東は海門を望む。その峰は森閑として奥深く、前に大悲閣がある。その下は如意輪寺となっている。
鳴瀑:飯谷の長桂の里にある。石壁は十丈余り、飛泉がその下へと懸かり、深い淵がある。清く澄んで鏡のようである。板橋がその上を跨ぎ、庵があり洞友という。最も避暑にふさわしい。
小嶽:長桂にある。小嶽という名である。林木は鬱蒼としている。頂には牛王の祠がある。その南には応潮泉があり、御甕と称する。石穴はわずか二尺であるが、冬も夏も涸れない。土地の人はそこへ行って雨を祈る。
犬返阪:長柱の勝浦河の河南にある。険しく水に臨み、高さは六丈ばかり、すこぶる険しい。
星窟:星谷の山中にある。古木は青々と茂り、石は皆透き通って鏡のようである。その中に滝があり、高さは数丈、石には崖があり高さは五丈ばかり。俗に伝わることには、釈空海がここで星に祈った。南の麓には石が突起しており、男石と称する。また高く険しい岩があり、名を懸鈎という。
窟溪:源は星窟から出て、灰焼渓および二森渓に合流し、南へ流れて勝浦河に入る。
大宮林:星谷にある。禁山となっている。中に平坦な所があり、名を身繕という。伝え称されることには、源俊平がここで射撃を習った。麓には回る谷川があり、名を閼伽という。また弱宮、神戸の二林がある。[cite: 5]
象頭巖:星谷の西にある。形が似ていることから名付けられた。
佛蹟山:中山村にある。石崖が谷川に臨み、上に石仏五十三体が安置されている。前には石門がそびえ立っており、谷川の水がこれを擁し、小延渓と呼ぶ。前後には■■彴がある。左にもまた小さな石門があり、その後ろは石梁が水を絶っている。その北には老杉が林を成し、林の外には石を積んで門とし、小道は星谷に通じている。上には池があり、険しい石が中に起ち、草庵があって一人の僧がこれを守っている。
寉林山:敷地村の南にある。雑木が散在して生え、その上は平らで広く、数十里を見渡すことができる。滄冥が南の境となり、寉林寺が上に起ち、その雄麗さは郡中において並ぶものがない。
檜嶽:敷地村にある。上に怪岩があり、名を獅子頭という。
清泉:また敷地村にある。水は甘く冷たく、俗に水飲と称する。花桜があり、八重咲きで見ごたえがある。
山神溪:寉山から出て、北へ流れ、敷地村に至って勝浦河に入る。また野神、砥石の二渓があり、坊渓もまた皆勝浦河に入り、並んで敷地村にある。
古川:久国村にある。昔は淵があったが、今は甚だ浅く狭い。
星越:横河内村にある。俗に伝わることには、昔、客星がここを経て、岩脇村に落ちた。
峽野川:阪本木村にある。また内谷、本谷の二渓がある。
轆轤山:また阪本木村にある。上に経塚があり、里の民はここで雨乞いをする。また通夜石があり、俗に釈空海が結跏趺坐した所であるという。この地は霜が降らず、蛭が人を噛まない。]
灌頂瀑:藤川の山にある。石崖は二十丈、その水は石に触れて乱れ落ちる。ある時は落花のようであり、ある時は軽綃のようであり、ある時は薄霧のようであり、ある時は瑠璃のようである。日光がこれを射ると、絢爛と閃鑠し、たちまち五色を成す。俗に仏の現れとする。その下には怪石が入り混じってそびえ立ち、谷水は極めて清らかである。花桜、楓の木が入り混じって植わり、山に満ちている。春秋の二季は最も美観である。山の中腹に堂があり、不動像を安置し、この流れのほとりで憩う。山は月頂と称し、昔はあるいは灌頂とも作った。
灌頂窟:灌頂瀑の北、数百歩にある。その前は大石が隆起し、滑らかでよじ登ることはできず、梯子で登る。導く者は燭を執って入り、観る者は後に従って行く。深さは二十歩、石が横に出て一字の形のようである。それより先は甚だしくは広くなく、身をかがめて入ること六歩、三つの石が仏のようであり、側には石人二十五があり、菩薩石と呼ぶ。また進むこと四歩、石螺があり、あたかも鬼工のようである。また進むこと二歩、一つの石人が立っており、普賢石と呼ぶ。その突き当たりの場所は石面が上平らであり、灌頂壇と呼ぶ。その他の奇状は枚挙にいとまがない。その下は慈眼寺となっている。
虚谷:牓示村の西、名西郡神領との境界にある。中腹に穴があり、水が常に漲り出ており、村を挙げてこれで灌漑する。稲の生産が最も多い。]
立川:源は上伊豆から出て、東へ流れること若干里。宮渓が南から入り、また東へ流れ、中廬に至って勝浦河に注ぐ。
鳴瀑:立川の山にある。高さは二十仞、古木が青々とこんもり茂り、下に深い淵があり、𣴎をもって流れが懸かる。また龍頭岩があり、形をもって名付けられている。
山神林:窪村にある。林の中に杉の木があり、幹の太さは六囲である。
野尻川:野尻村にある。源は二つあり、一つは殿河内から出て、一つは高山から出る。
田野川:田野村にある。長さは一里で、野尻川に入る。
市宇川:市宇村にある。
高山:郡中で最も高い。登ること三百六十歩ばかりである。
南又川:八重地村にある。
北又川:二つの流れがあり、皆清水から出る。
長人立:『続日本紀』宝亀4年5月辛巳の条に次のように記されている。阿波国勝浦郡の郡領である長費人立が言うことには、「庚午の年に、長直の戸籍には皆『費』の字が着けられました。これにより、前の郡領である長直枚夫が訴え出て、『長直』と改め注記されました。天平宝字2年、国司の従五位下・豊野真人篠原は、記録の証拠がないとして、さらに『長費』としました。官の判決では、庚午の戸籍によって定めることとされました」とある。『新撰姓氏録』には、「長公は大奈牟智神の児である積羽八重事代主命の後裔である」とある。人立はおそらくこの長公の後裔であろう。
長大富売:『三代実録』貞観13年閏8月4日の条に記されている。節婦である勝浦郡の人の長直大富売に位を二階叙し、戸内の租を免除し、門閭に表彰した。
紀成良:民部大輔で、散位である。寿永2年9月、緒方惟義が叛き、安徳天皇の御輿は筥崎へ遷幸され、公卿や宮人は徒歩でこれに従った。間もなく御船は柳浦に至り、宇佐の祠に謁見した。紀光秀が船百三十余艘を奉り、ついに讃岐に至った。菊池胤益が阿波の材木を運び、讃岐国山田郡の屋島に行宮を造った。成良は兵一千を率いて至り、四州の将士はことごとくこれに応じ、そこで阿波守となった。文治元年に源氏に降伏した。一説には、「寿永2年6月、平氏の命を奉じて屋島に行宮を造り、郡司にこれを助けさせ、食糧を貯え、薪や秣を積んで、行幸をお待ちした」ともいう。ある者は、「その後裔である成安は、天正10年に長宗我部氏のために殺された」と言う。
紀能遠:桜庭介と称した。成良の弟である。元暦2年2月、源廷尉が至り、直ちに民家を壊してその城の堀を埋め、これを急激に攻めた。能遠はそこで城を捨てて逃げた。
紀教能:田内左衛門と称した。『盛衰記』には成直と作り、またあるいは重則とも作る。成良の長子である。平氏に仕え、河野氏を攻めた。元暦2年、ついに屋島に赴く際、伊勢義盛が道を塞いで言った。「叔父は既に没落し、勝浦も既に降伏した。尊侯は今我々に降伏して、会いたいとは思わないか」と。教能は驚愕し、そこで降伏した。
藤原近家:近藤六と称した。師光の第六子である。天神山塁に拠った。源廷尉が勝浦に至った際、伊勢義盛を遣わして説得し、これを降伏させた。(近家が)赴いて廷尉に謁見すると、地名を問われたので「勝浦」と答えた。軍衆の多少を問われたので「一千に過ぎません」と答えた。「なぜ少ないのか」と問うと、「教能が伊予を攻めており、その残りが手分けして各所を守っているためです」と答えた。廷尉は聞いて大いに喜び、彼を先鋒とした。
源長政:大状には吉武と作り、一説には俊平とも作る。福良出羽守と称した。飯谷に居住した。その祖先は中将実方から出たという。保元年間に淡路の福良浦に居住したという。その一族は七つあり、佐々木、丹羽、丈川、伏田、成瀬、木戸、服部という。天正4年、源真之を迎えて丹生山中の館に置き、源敬元、大栗国村、栗田宇右衛門、中角六郎左衛門らと交替で警衛した。子は某、右衛門兵衛と称し、孫は某、兵左衛門と称した。その後裔は森村におり、槍二枝、剣八口、弓一つ、鞍二つを収蔵している。棚野村にもまたその後裔がいる。
平兼安:新開と称した。渋野村に居住した。忠之の一族である。
安宅某:姓は藤原。田浦に居住した。三好氏に仕えた。
源光則:赤沢玄三と称した。服を脱いで僧となった。小笠原氏の一族である。新居見村に居住した。子は某、鹿丞と称した。天正10年の中富川の戦いで戦死した。その一族は七つあり、前田、安津、前野、高田、三間、湯浅、大野という。
源吉則:新居見村に居住した。これに因んで新居を氏とした。おそらく赤沢氏の一族であろう。
源国兼:本庄太郎兵衛と称した。本庄の熊山城に拠った。その一族は五つあり、木下、小林、桜井、梅田、桑原という。今、八多村に桑原氏が存続している。
藤原国村:大栗左近と称した。政吉の後裔である。沼江村に居住した。その一族は五つあり、内藤、沢部、芝田、阪田、飯尾という。子は某、熊右衛門と称して大木と氏を改めた。孫は某、次郎左衛門と称した。
磯谷源右衛門:芝生村に居住した。源勝元に仕え、節に死した。子孫はなお存続し、農業を営んでいる。
源藤政:小命と称し、一説には小御子とも作る。大原村の小神子の里、また芝山の千代城に居住した。小命の墳墓がある。その一族は四つあり、水野、西延寺、三浦、寺尾という。
鹿草出羽守:あるいは草初と作る。彦太郎と称した。田浦の北原の里に居住した。その祖先の某もまた彦太郎と称した。建武4年閏7月、越前の黒丸城にあり、細川阿波守と共に源義貞に代わり、流れ矢に当たって卒した。ここにおいて名前がいよいよ顕れた。出羽守は貞治年間に細川氏の命を奉じて伊予の太空に至り、土居、得能と戦った。また源成助が細川氏を攻めようとした際、出羽守が諫めて止めさせた。元仲に至り、子がなく、元木の某を子とした。某は右衛門兵衛と称し、尾張の蜂須賀の人であった。国初に、大栗山の役で先鋒となり功があった。三世の庄右衛門は、命を受けて益田氏の娘を娶った。正元公の孫である。肥前島原の役では、命を奉じて軍装したが、たまたま賊が既に誅伐されていたため行くことは果たせなかった。四千五百畝および竹林を賜り、丁役を免除された。正元公はすなわち福聚公の弟であり、尾張長島の役で戦死した。遺腹の才蔵君があり、高尾村に居住して五百石を賜った。
寺沢六右衛門:代々小松島に居住した。瑞雲公がかつて中田の豊国廟に謁見した時、勝占の水が溢れ、六右衛門が船で奉迎した。公は大いに喜び、食を分けて賜った。また山内松軒と共に小松島、日開野、中郷などを管理するよう命じ、二十分の一を賜った。また、大坂の商人・新左衛門が殿河内山で材木を切り出して捨てて逃げたため、これに因んで六右衛門に賜り、これを運輸して売らせた。(六右衛門が)謹んで余剰金を献上したところ、公はこれを返還して賜ろうとしたが、(六右衛門は)固辞した。そこでさらに大木をもって賞した。峻徳公がかつて中島で材木を切り出すよう命じた。商人が献金してこれを乞うた。六右衛門は条銀一万錠を献上することを請うたが、証人がいなかった。瑞雲公がこれを聞いて、「私がこれを証言しよう」と言った。やがて大きな利益があり、(六右衛門は)献金を請うたが、公は聞き入れず、「これは証人の幸いである」と言った。公が薨去すると、そこで剃髪して宗斎と称した。興元公が再び駕を枉げ(来訪し)、三条藤公の真筆の伊勢物語を献上した。帯刀を許され、衣服を賜ることは数度であった。享保年間、その後裔の弥六郎は紙幣所を掌り、銀二千八百錠を献上した。元禄8年、月俸十口を賜った。
多田某:その後裔に喜右衛門があり、慶長年間に飯谷に居住し、里正となった。また助右衛門という者は、金磯に赴いて墾田を作った。
吉成長久:対馬守と称し、また出雲守と称した。地蔵寺所蔵の天正7年の文書に見える。子は某、左馬と称し、国初に禄四十口を賜った。後裔は西塚村におり、里正となっている。
猪防某:五郎右衛門と称した。昔は井関の谷城に居住していたが、後に猪山の下に移った。国初に大谷村を開墾し、ついに移り住んで代々里正となった。
藤原兼時:泰地と称した。中郷村に居住した。その祖先は紀伊熊野の人であり、来て細川氏に仕えた。その一族は三つあり、奥田、森、庄野という。
友兼某:八太夫と称した。播磨の人である。国初に公の駕に従って来り、八多村で開墾した。その田を友兼某台と称した。その後裔は代々里正となった。
安部某:縫殿助と称した。伊予の人であり、宗任の末裔である。来て牓示村に居住し、草莱を開墾した。従者は三十六人おり、安藤彦九郎という者がその長となった。毎月朔日には入って祝賀を行ったが、彦九郎が至らなければ衆はあえて入らなかった。地を分けて共に居住した。源長政の子を養って嗣子とし、佐古右衛門と称した。国初に阪本より西の租税を掌るよう命じられ、その後裔はなお存続している。
越智通春:河野某と称した。民部大夫・通久の子である。軍に敗れて来て、渋野に居住した。元和7年7月に没した。その後裔の六戸が渋野村にあり、また阪本村にあり、家には甲および槍を収蔵している。
森監物:森村に居住した。細川氏に仕え、丹生の行営を警衛した。
旅覇(源義経):正五位上・伊予守兼院厩別当である。源義朝の子である。元暦2年2月、関東の兵が平氏を討ち、義経は啓行となった。16日に暴風が起こり船の多くが敗れたが、夜半に纜を解き、夜明けに勝浦の余戸浦に至った。船はわずか五隻、兵卒は百人であった。直ちに紀能遠の城を抜いた。板西の藤原近家が降伏したので、命じて郷導とした。中山を経て讃岐の屋島に至り、放火してこれを攻めた。平氏の一族は驚き慌てて海に浮かんだ。19日、天皇は志度に遷幸されたが、義経が再びこれを犯したため、そこで長門の彦島に遷幸された。
外方:
一万四千百八十八石六斗二升一合(元禄年間)。
大谷]
大松:慶長以前は高田と称した。のちに北塩浜と称し、中に平松と称した。昔は塩場があった。支落が一つあり、萱野という。
論田浦:百年前、富田浦の人が行って開墾し、田とした。
大原浦:里が二つあり、千代、あるいは大神子という。
江田
中田:里が一つあり、沢里という。
中郷
小松島:昔は阿摩古と称した。坊があり、丁役を免除されている。
金磯:元禄2年8月、勝浦河が大いに溢れ、芝生川が決壊した。多田某が請うて墾田とし、七十余町となった。
日開野:昔は中島があったが、今は合わせて一つとなっている。
芝生
田野
田浦
新居見:この間、昔は新居郷に属していた。
西塚:昔は敷地と称した。
潟上:昔は乾潟上と称した。
澁野:里が一つあり、長田牓示という。
八多:里が三つあり、下八多、大窪、犬飼という。
本莊:昔は桜間と称し、昔は篠原郷に属していた。
宮井:この間、昔は託羅郷であった。
飯谷:支落が一つあり、長柱という。里が五つあり、高良、沖野牓示、杉尾、谷口、小竹牓示という。
沼江:支落が一つあり、今山という。谷が一つあり、蔭という。
中角:昔は中津野と作った。
星谷:昔は森林に属していた。谷が七つあり、小延、井峡、二森、窟、灰焼、天満、閼という。
森:谷が四つあり、日野神、砥石、大谷、坊谷という。
敷地:昔は森林に属し、鶴敷地と称した。谷が一つあり、明神という。
中山:昔は棚野に属していた。
久國:これも昔は棚野に属していた。
棚野
横瀨:昔は棚野に属していた。
横河内
阪本:里が一つあり、極楽という。谷が三つあり、峡、内谷、本谷という。
藤川
黄蘗
福川
牓示:福原の北の境界であるため、名付けられた。里が五つあり、中村、宮多尾、新居田、櫧生、西谷という。
瀬津
福原:以下の六村は、共にここに隷属する。
窪
野尻
田野
櫧原
一宇
八重地:以上の二十四村は、昔は生夷郷であった。
七人塚:芝生村にある。
吉成出雲守墓:西塚村の正福寺にある。
越智通春墓:渋野村にある。
源持隆墓:丈六寺にある。識には「徳雲院岳麟」とある。
平忠之墓:丈六寺の中門の外にある。高さは二尺五寸である。識には「新開遠江守入道道喜」とある。
松田新兵衛墓:丈六寺の大門の中にある。その主である忠之のためにここで闘死した。
韓人墓:文禄年間の朝鮮の役において韓人三人を捕らえ、これを仁木又五郎に賜った。死してここに葬られた。
荒墳:新居見村の天神山の麓にある。俗に磨黒塚と呼ぶ。
荒墳:久国村にある。土地の人は桜塚と呼ぶ。
安部縫殿亮:藤川村の民家の側にある。字は磨滅して存していない。
溪鰛(あゆ):勝浦河に出る。大きい者は一尺三寸に至り、年に数十万を獲る。
一代:すなわち郷名である。鯉に似て扁長であり、長さは一尺余り、渓中に産する。
索訥婆吏:すなわち郷名である。一名を「一索坐」という。勝浦河に出ることが多い。状は石伏魚に似て細小であり、長さは二、三分、蒼色で黒点がある。仲夏に多く集まり、味は甘美である。
鰷魚:和名は「花宴」。一種の赤い額の者を「■胡十花宴」と呼ぶ。すなわち闘魚である。蒼黒色でやや小さい者を俗に「養納其花宴」と呼ぶ。
鯉、鯽魚、鰻鱺:(記載あり)]
泥鰌:郷名では「獨直羊烏」という。
魶魚:郷名では「索美識羊烏胡紅」という。
海鰻、牛尾魚、帶魚、鯧魚、海鰛:(記載あり)
鱠殘魚:和名は「識魯胡紅」である。潔白で雪のようである。また黄を帯びて形が長く、味の美しい者を「氷魚」と称する。
王餘魚、鯔魚:(記載あり)
鱊魚:小松島に出る。郷名では「席吏眠眉坐珂」という。秋の末に盛んに出る。大きさは針のようであり、水蒼色である。水中に在るときは弁別できず、ただ眼の二点のみが黒い。塩水で煮て暴乾(天日干し)した者を「鵞毛脡」と名付ける。]
撥尾魚、青貫、竹筴、烏賊、竹麥、牡蠣:(記載あり)
寄居虫:和名は「甲𥧌納」であり、郷名では「隑烏納」という。潮際に生じ、小松島に出る。土地の人はこれを桶の中に盛り、泥で和え、木でこれを攪拌する。肉がそこで出るので、淘げて泥および殻を去る。醢にすると味は香ばしく脆い。
鼈:勝浦河に出る。
毛蟹:郷名は「治隑女」。二つの螯があり、毛が最も多い。大きい者は八、九寸ある。
陟釐、乾苔、紫菜、鳩、欅、豫章、枇杷:(記載あり)
地腎:小松島に出るものが最も多い。
松蕈:本庄に出る。
白楊梅:中山に出る。
蜜柑:阪本に出る。
薪:生夷郷の諸村に出る。その品は檞、柞、櫧、松などである。これを城府で鬻ぐ。平底船に載せ、長さは三丈ばかり、広さは六尺ばかりである。舳に又口があり、舟人は棹を容れて危石を避ける。
樵柴:また生夷郷の諸村に出る。
梅:渋野、潟上の二村に出る。
硯材:土地の名は「木尺一西」という。白、蒼の二品があり、藤川に最も多い。
猫搔石:また立川に出る。色は蒼く、質は麁。断紋はあるいは龍の形を成す。
白沙:大原の大命にある。雪浜と称するのは、白沙があるからである。役人がこれを守っている。米のような者、麦のような者、豆のような者があり、また風のような者があって最も奇である。
細沙:小松島の根井に出る。藍餅を作る者は、この細かくて黒い沙をもって和える。
伊紫吉:すなわち郷名である。葉は細くて堅く、四弁の白花を開く。
遏珂:榕樹の類である。土地の名は「美木連及」という。高さは丈余り。花咲かずして貫く。図を按ずるに、蛮人が「安塁婆塁姪郎伊四」と呼ぶ者とは差異がある。
答伊密美隑識:(記載あり)
不灰木:渋野に出る。
黄土:中田に出る。
黄蘗:黄蘗村に盛んに出るため、名付けられた。『延喜式』によれば、歳貢は三百斤であった。
席索訥吉:すなわち郷名である。葉は霜が降りると紅くなる。三、四月に小さな白花を開き、単弁である。その材は稠密で堅く、剣の柄とするのに堪える。
羅漢松:郷名では「古索買吉」という。
邏柚:郷名では「花納予」という。
珂眼■免:すなわち和名である。囲みは一寸余り、長さは二、三丈。葉は丸くて厚く、鋸歯があり、小さな白花を開く。皮には皺文がある。土地の人は杖を作るが、堅靭で並ぶものがない。『夫集』の藤原為家の和歌に云う、「秋深山乃夕霧郷許米呉免爾巳毛色也馬豆加波留良武」と。
代赭石:瀬津に出る。
玉髓:(記載あり)
皮鞋:中郷に出る。
篛:また中郷に出る。
樟脳:寛政年間に医学院に命じて始め製した。
石灰:立川に出る。鉱には蒼、白の二種があり、すなわち硯材の余りである。
鱁鮧:沿河の諸村において、渓鰛の腸をもってこれを製する。
二千四百二十九町六段三十一歩五厘。
二千二百八十三町一畝五八七五(寛政年間)。
大谷:上等二町四段五畝、中等九段七畝、下等二町九段。水田は上等十三町九段六畝、中等七町八段七畝、下等五町九段五畝。
大松:上等が四分の一で、自余は中等・下等が入り混じっている。水田は七十一町二段六畝、陸田は十五町。
論田:三等が入り混じっている。水田は七十二町七段三畝、陸田は十四町八段九畝。]
大原:上等一町八段六畝、下等八町一段六畝。水田は上等十町三段五畝、中等十五町一段一畝、下等二十八町五畝。
江田:上等一町二段、中等二町七段二畝、下等二町三段四畝。水田は上等十三町八段一畝、中等二十六町四段六畝、下等二町。]
中田:上等十五町、中等十五町、下等十九町八段一畝。水田は三十九町四段九畝、陸田は十町三段二畝。
中郷:上等一町五段三畝、中等二町八段五五畝、下等二町七段四畝。水田は上等三十二町六段二畝、中等十町七段三畝、下等六町三段六畝。
小松島:三等が入り混じっている。水田は七十九町九段四畝、陸田は十五町。
金磯:中等・下等が入り混じっている。水田は三十四町、陸田は二町一段。
前原:三等が入り混じっている。陸田は六町一段五畝、水田は三十六町三段六畝。
日開野:上等四十三町一段七畝、中等二十五町九段、下等十七町二段六畝。水田は七十九町九畝、陸田は七町二段五畝。
芝生:上等二十五町、中等四十四町七段四畝、下等三十七町六段五畝。水田は百町七段九畝、陸田は七町六段二畝。
田浦:陸田は二町八段。水田は上等四十七町、中等十五町一畝、下等七町一段三畝。
新居見:上等九段四畝、中等三段一畝、下等二町八畝。水田は上等十二町九段一畝、中等十二町六段八畝、下等九町四段四畝。
西塚:上等十五町で、自余は中等・下等が入り混じっている。水田は五十一町二段五畝、陸田は十一町八畝。
潟上:上等四町二段、下等四町九段。水田は上等十町、中等三十五町、下等三十町二段九畝。
渋野:上等一町八段、中等二町七段、下等四町五段。水田は上等二十二町、中等二十六町四段、下等三十九町六段。
八多:強半は上等で、中等・下等が入り混じっている。水田は八十九町九段六畝、陸田は十九町六段五畝。
本庄:上等四町七畝、中等一町三段六畝、下等三町八段六畝。水田は上等三十町二段九畝、中等二十三町一段四畝、下等十一町六段五畝。
宮井:上等が四分の一、中等が三分の一、残りの下等は百十三町一段六畝。[cite: 11]
飯谷:陸田は上等二町、中等五町、下等二十九町一段五畝。水田は上等十町、中等八町五段、下等二十町七段一畝。
沼江:水田は五十四町七段六畝、陸田は十九町六段五畝。
中角:上等十八町九段八畝、中等四町四畝、下等一町七段。陸田は上等一町九段、中等九段六畝、下等一町六段二畝。下河原は上等一町五段、中等二段九畝。
星谷:上等二十町六段一畝、中等三町八段七畝、下等六段。陸田は七町四段七畝。
森:上等二十町一段六畝、中等四町八段八畝、下等三段七畝。陸田は二畝。
敷地:上等十町五段一畝、中等六町二畝、下等二町二畝。陸田は三町八段。
中山:三等が入り混じっている。水田は二十五町四段六畝、陸田は十五町六段六畝。
久国:上等が五分の四で、自余は中等・下等が入り混じっている。水田は二十一町五段、陸田は四町。
棚野:三等が入り混じっている。水田は三十一町七段八畝、陸田は十四町一段六畝。
横瀬:三等が入り混じっている。水田は二十二町七段四畝、陸田は九町二段二畝。
横河内:三等が入り混じっている。水田は二十三町二畝、陸田は十二町四段一畝。
阪本:三等が入り混じっている。水田は四十町六段三畝、陸田は三十四町一段一畝。
藤川:三等が入り混じっている。水田は三十町九段三畝、陸田は二十五町六段五畝。
黄檗:上等六段五畝、中等一町四段三畝、下等三段七畝。陸田は上等一段、中等三段四畝、下等八段二畝。
福川:三等が入り混じっている。水田は十八町四段七畝、陸田は二十二町一段七畝。
牓示:三等が入り混じっている。水田は三十六町二畝、陸田は二十六町四段。
瀬津:三等が入り混じっている。水田は六町七段三畝、陸田は二十四町一段二畝。
福原:三等が入り混じっている。水田は十五町六段九畝、陸田は十二町八段九畝。
窪:三等が入り混じっている。水田は二町七段五畝、陸田は二町六段四畝。
野尻:三等が入り混じっている。水田は九町四段、陸田は八町六段八畝。
田野:三等が入り混じっている。水田は二十一町三畝、陸田は十三町二段一畝。
櫧原:三等が入り混じっている。水田は四町八段一畝、陸田は三町五段五畝。
一宇:三等が入り混じっている。水田は五町三段六畝、陸田は二町一段五畝。
八重地:三等が入り混じっている。水田は六町四段七畝、陸田は八町六段一畝。
地藏院:大谷村にある。昔は観音寺と称し、千手観音像を安置していた。元和2年に命じてその像を城府の勢見山に移したが、これが観音(勢見山観音)である。そこでその脇侍である地蔵像を主とした。俗に伝わることには、元暦年間に源義経の軍勢が至り、衆が恐れてその地に逃げ隠れた。竄谷という。糙葉の樹があり、義経がその馬を繋いだといい、あえて剪伐しない。寺の田が五段あり、今に至るまで五段地と呼ぶ。廃瓦が往々にしてあり、文明の字がある。今は城府の観音寺に隷属している。また廃寺が二つあり、華蔵、常照という。
延壽院:また大谷村にある。延宝7年に林の方角の六十歩を賜った。
持福寺:大松村にある。小松島の地蔵寺に隷属する。
寶聚寺:江田村にある。また小松島の地蔵寺に隷属する。
桂林寺:中田村にある。釈周勝を祖とする。源持常が重造し、観音像を安置し、田二百石および林を捨てた。釈原古もまた居住したが、やがて廃絶した。元和年間に釈長俊が重造した。備前の人が伝えたところによれば、持常が捨てた法華経があるという。寛文年間に小松島の地蔵寺に隷属し、三百歩のその税を免除された。昔は子院が十あり、能万寺、仙光寺、般若院、東光坊、成願寺、成見寺、円福寺、明音寺、東明寺、龍蔵寺といった。相伝わることには、龍蔵寺に弁財天女の祠があった。今、金磯に置かれているのがこれである。
成願寺:また中田村にある。真言を修める。
宮坊:また中田村にある。真言を修め、八幡の西の祠を管理する。また廃寺が一つあり、豊林寺という。千代松林の中にあり、礎石が存している。元和年間に釈尊海がここに居住した。
寶藏寺:中郷村にある。一つには豊林院と称する。前に日吉の祠があり、豊太閤の像を安置する。寛永12年に釈龍厳がここに居住し、手書を賜った。今は小松島の地蔵寺に隷属する。
天滿寺:中郷村にある。本庄の丈六寺に隷属する。寛永17年に除地となった。
密嚴寺:また中郷村にある。平安の仁和寺に隷属する。寺を去ること西へ百五十歩ばかりの所に石があり、俗に伝わることには、往々にして火が出るという。
地藏寺:小松島にある。采地は二石八斗余り。天正7年12月、吉成長久、高市正見が連署して地八百歩を捨てた。元和2年11月、山内松軒、寺沢六右衛門に命じて除地とした。寛永17年9月、また釈宥伝に命じて元の如くにした。また観音寺、阿弥陀寺、宝性寺、真福寺、薬師寺、般若寺の六宇があり、並んで地蔵寺に隷属している。
光明寺:また小松島にある。一向を修める。釈宗忍が置いた。宗忍はすなわち安宅宗之である。
圓福寺:日開野にある。小松島の地蔵寺に隷属する。
藤樹寺:また日開野村にある。平安の仁和寺に隷属し、薬師像を安置する。昔は藤があり、太さは三囲、蔓は数畝に延びていたが、今は枯れている。
吉祥寺:また日開野村にある。平安の仁和寺に隷属する。
文殊院:また日開野村にある。また成福寺ともいう。優婆塞がこれに居住し、南都の三宝院に隷属する。
恩山寺:田野村にある。昔は密厳寺と称し、薬師像を安置する。古木が周囲を巡り、下には原野を見下ろす。天正年間に兵火に罹った。瑞雲公が命じて造らせ、采地一石六斗を与えた。真言を修める。
大乘院:また田野村の天王谷にある。優婆塞が居住し、牛頭の祠を管理する。
福成寺:田浦村にある。小松島の地蔵寺に隷属する。
正福寺:西塚村にある。また小松島の地蔵寺に隷属する。
高松寺:また西塚村にある。紀成直が置いた。昔は光勝と作った。元文年間に釈万元が重造した。淳和法帖を所蔵しており、その刻みは最も精良である。帰化僧の隠元がもたらしたものであり、端本となっており、わずか九十二葉である。また朱漆の柱杖を所蔵しており、紀伊丹羽氏の槍の柄である。今は丈六寺に隷属する。
神光寺:潟上村にある。城府の観音寺に隷属する。
長谷寺:渋野村にある。また観音寺に隷属する。
新藏院:また渋野村にある。細川氏が置き、優婆塞が居住した。後に篠原自遯に従って和泉へ逃れた。天正年間に帰り、自遯の書をもたらして瑞雲公に謁見した。また別荘があり、名東郡の北浜にあり、不老閣と称する。
金藏寺:八多村にある。真言を修める。
長樂寺:また八多村の大窪の里にある。真言を修める。
西福寺:八多村の犬飼の里にある。真言を修める。
丈六寺:本庄村にある。山名は瑞麟。結構は壮麗である。永正年間に釈金岳が越前から至って伝えた。曹洞の第二世である用急は遁げ去って行く所を知らず、俗に伝わることには羽化して去ったという。源成がこれを重造した。持隆が瑠璃殿を造った。三好氏が采地十五貫、地二町八段および花瓶、幕、弓、宍草などを捨てた。次に附するに田浦、吉田山をもってした。今の采地は二百石。さらに十石を加増して賜り、これを命じて吾が先公を祀らせた。観音像を安置しており、長さは一丈六尺。豊臣太閤の書を所蔵する。支院に清久寺、知蔵斎、方円寺がある。
田林寺:また本庄村にある。紀重遠の城址である。小松島の地蔵寺に隷属する。
成福寺:宮井村にある。真言を修める。
如意輪寺:宮井村の中津峰にある。阪道は千八十歩。その上に大悲閣があり、その像は永正年間に小松島の舟人である助石某が置いた所のものである。慶長14年、峻徳公が山林を寄進した。南祟公が月俸三口を賜った。真言を修める。
青蓮菴:宮井村にある。昔は真国寺と称し、また青蓮院と称した。麻殖遠州が采地二百石を捨てた。支院が六つあったが今は廃止されている。田があり、岡坊、奥坊と名付けられている。遠州が亡くなり、寺もまた廃れた。天正年間に釈宥雅が小庵を作って居住し、粟二十石を賜った。貞享年間に釈瑞照が始めて戒律を広め教えた。ゆえに山林を賜り、四石八斗の租を免除された。
法圓寺:また宮井村にある。丈六寺の支院である。釈月山がここに居住する。
大匠寺:宮井村にある。廃城の址である。釈室が置き、釈石峰もまた居住した。女、大匠夫人の神版。山林を賜り、租を免除された。
醍醐寺:飯谷村にある。地蔵寺に隷属する。
洞友菴:飯谷村の長柱の滝の側にある。醍醐寺の支院である。古木板を所蔵しており、長さは六尺余り、広さは六寸。字は磨滅している。相伝わることには釈空海の真筆であるという。また知足天院があるが、今は廃されている。
胎藏寺:沼江村にある。寉林寺に隷属する。
慈林寺:今山村にある。また寉林寺に隷属する。
觀音寺:中角村にある。また寉林寺に隷属する。
神宮寺:星谷村にある。また寉林寺に隷属する。
星谷寺:また星谷村にある。寉林寺に隷属する。天正14年に田十五石を捨てたが、後に絶えた。
寉林寺:敷地村にある。真言を修める。山名は霊鷲。地蔵、祖師などの諸堂は絵のように壮麗である。子院が六つある。石室、宝積、北室(今は廃)、愛染、不動(今は廃)、東蔵(今は廃)という。古鐘を所蔵しており、異紋がある。三好氏が二十貫を捨てた。今の采地は四十八石余り。寛永18年、採樵を禁じられた。
觀正寺:また敷地村にある。寉林寺に隷属する。
妙音寺:中山村にある。また寉林寺に隷属する。
圓明寺:久国村にある。また寉林寺に隷属する。
圓城寺:棚野村にある。また寉林寺に隷属する。
妙樂寺:横瀬村にある。また寉林寺に隷属する。
明光菴:また横瀬村にある。禅を修める。
寶性寺:与河内村にある。寉林寺に隷属する。
長藥寺:阪本村にある。真言を修める。
藥師寺:また阪本村にある。寉林寺に隷属する。
慈眼寺:藤川村にある。阪道は三千六百歩。境は幽玄で谷は清らかである。灌頂窟および滝、祖師堂があり、怪岩が往々にして挺生している。木板一枚を所蔵しており、古色蒼老で、字は皆すでに剥落している。相伝わることには空海の書いた所であるという。寉林寺の別院である。一里半離れている。
金輪寺:また藤川村にある。寉林寺に隷属する。
普門寺:牓示村にある。また寉林寺に隷属する。
願成寺:福原村にある。また寉林寺に隷属する。
黑松寺:田野村にある。丈六寺に隷属する。所蔵する松で黒色の者は、おそらく海松であろう。
光明院:田浦村にある。また真道寺ともいう。三宝院に隷属する。観音像を安置する。
勝占祠:『延喜式』では小祀とされている。西塚村の神路山の上にあり、四百歩ばかり(の高さである)。喬木が蓊鬱している。今は杉尾と称し、正一位を叙されている。南の足に祠があり、松熊といい、係宦が造った。北の足には金比羅祠があり、かつて命じて城府へ移させた。その旧址には今も石馬が存している。神田は七町五段余りである。仁和親王がかつて寄進した。古鏡一面があり、秘して出さない。木獣が二基あり、紀教能が寄進した所である。また鼓身があり、香木を用いている。大和の人某が寄進したという。熊山の東南の田を鳥居と呼ぶのは、その大門の址である。
事代主祠:『延喜式』ではこれも小祀とされる。生夷郷の沼江村にあり、郷中でともに祀っている。今は微かである。『姓氏録』には、「長公は大奈牟智神の児である積羽八重事代主命の後裔である」とある。
山縣比古祠:『延喜式』でも小祀とされる。
宇母理比古祠:『延喜式』でも小祀とされる。
阿佐多知比古祠:『延喜式』でも小祀とされる。(以上の三つの祠については未詳である。)
速雨祠:『延喜式』でも小祀とされる。八多村の雨宮の里の水田の中にあり、金蔵寺がこれを管理している。
御縣祠:『延喜式』でも小祀とされる。中郷村の竹林の中にある。古事記に櫛御方命とあるが、同体かどうかは不明である。今は甚だ微かであるが、村民はなおこれを畏敬している。
建島女祖命祠:『延喜式』でも小祀とされる。中田村の小山にあり、水田が周囲を環匝っている。今は竹島三社大神である。その側に石があり、径は一丈二尺。その祝は某といい、竹島長太夫と称する。(以上、古い祠八社。)
熊野祠:大谷村にある。その主である石像は、昔は十二あったが存しているものはわずか二である。また妙見山の上に星祠があり、林木は頗る茂っている。あるいは紀成良が置いたともいう。また弱宮があり、祭田がなお存している。
杉尾祠:大松村にある。
水神祠:論田浦にある。
蛭子祠:大原浦の芝山の麓にある。また山霊祠、竈神祠がある。
八幡祠:中田村の千代松林に、東西二つの祠がある。東は大宮と称し、松林が環匝している。天正17年、瑞雲公が十石を賜り、慶長年間に財を賜って改造した。
廃豊臣祠址:中田村の松林の中にある。
日峯祠:芝山の頂にある。石崖は嶮絶し、海口を見下ろし、四望は空濶である。その神は大日霊女尊。また宝蔵祠、沖祠、蛭子祠、十二社、牛頭祠、滝島祠がある。
源持常廟:中田村の桂林寺にある。
菅廟:中郷村にある。祭料は四斗五升。また皇子祠、住吉祠がある。
祇園祠:小松島にある。中古、国に大疫が流行したため、この祠を置いて禊をした。その北百歩余りに大神祠があり、蛭子と八幡を合食している。前に古松があり、駒を繁く担いだ。源豫州が駑を停めた場所であると伝えられる。
天照大神祠:金磯にある。また八幡祠、山王祠がある。
辨財天女祠:金磯の小山の下にある。昔は海中にあったが、今は新田に接している。
總藏祠:前原村にある。
天照大神祠:日開野村の文殊院にある。また熊野祠、春日祠がある。
八幡祠:芝生村の旗山にある。また王子祠、鑑守祠、国中祠がある。
牛頭祠:田野村の天王谷にある。松杉が蓊鬱としており、采地十三石を大乗院が管理している。
山王祠:田浦村にある。また上天子祠、下天子祠、若一王子祠、総蔵祠がある。
菅廟:新居見村の天神の里にある。石壁が後ろにそびえ、水沢が前に流れており、頗る佳景である。
三尺坊祠:西塚村の本庄との境界にある。また秋葉とも称する。いわゆる天狗である。丈六寺から移された。
八幡祠:方上村にある。山を背にし田に臨み、連松が蔚然である。また草創祠、熊野祠がある。
八幡祠:渋野村にある。また佐野祠、天神祠、牛頭祠がある。
伊豫王子祠:渋野村の王子谷にある。越智通春が置いた。従者二人を僧守とし、一人は常心、もう一人は唯心という。
八幡祠:八多村にあり、大宮と称する。この間は昔、詑羅郷に属していた。郷中でともに祀っている。毎年8月に官府が馬一匹、祭料一石五斗を給した。大般若経を収蔵しており、麻殖遠州が寄進したものである。
八幡祠:本庄村にある。また権現祠があり、また秋葉祠があり、丈六寺の山上にある。
賀茂祠:宮井村にある。毎守会して米五斗を賜る。また八幡祠二社、春日祠、熊野祠三十八社がある。また菅廟があり、麻殖遠州が置いたが今は廃れて小祠となっている。また弱宮があり遠州を祀る。また井神祠、愛宕祠、志次目祠がある。
御火祠:宮井村の金谷にある。
杉尾祠:飯谷村にある。松樹が高く茂っている。また高良祠が河原の山麓に、稼山祠が沖野に、八幡祠が谷口にある。
牛王祠:飯谷村の長柱にある。小嶽の頂であり、東南は海を臨み、西は諸山を俯瞰し、頗る佳景である。
大將軍祠:沼江村にある。また天神祠が古原にある。
藤原政吉祠:今山の麓にあり、家宮と称する。慶長5年、大栗次郎左衛門が置いた。また蛭子の新祠があり、生駒氏が置いた。
天神祠:中角村にある。
八幡祠:星谷の禁山中にある。大宮と称し、草木が暢茂し、原野を俯瞰し、頗る佳景である。文応2年、源時尼が造り、文明年間に大栗政吉が重造し、天文8年、源俊平が復造し、慶長10年、命じて重修した。側に武内祠、天神祠などがある。また山木祠がある。また山頂には三十八所の祠があり、里民がここで雨乞いをする。
春日祠:敷地村の風炉谷にある。藤原の。また御所祠があり、前に田があって御所前と称する。また猿太彦祠があり、俗に御祖父と称し、間谷にあり、遠眺するのに頗る適している。東に海口を見下ろす。
八幡祠:中山村にある。
稼山祠:横瀬村にある。その径が狭隘な場所を輿挟と呼ぶ。
八幡祠:与河内村にある。
八幡祠:阪本村にある。また明神祠がある。
八幡祠:藤川村にある。また岬祠がある。
明神祠:黄檗村にある。
八幡祠:牓示村にある。また櫧山祠、秋葉祠がある。
八幡祠:瀬津村にある。また櫧山祠(あるいは加志和間神とも称す)があり、また聖祠がある。
王子祠:福原村にある。
白山祠:久保村にある。
八幡祠:野尻村にある。また櫧山祠がある。
天照太神祠:田野村にある。
三寶祠:市宇村にある。
八幡祠:八重地村にある。
神田瀬橋:小松島にある。
落橋:鞴川に架かっている。紀能遠が敗走した際にここを経たため、この名がある。今は石造りの橋となっている。
批験所:大原浦にある。港を封鎖する役人二人が詰めている。その祖先は朝鮮の囚人であり、至った者である。
批験所:小松島の根井にある。