慶長年間以前、吉野川の清流はこんこんと湧き出て高越山の麓を洗い、東へと向かう岩壁には水が猛烈な勢いでぶつかり、荒れ狂っていた。しかし、岩の勢いが収まって退けば、水は微笑むように穏やかに流れ、岩盤を過ぎて深い青色の淵(蒼潭)へと入っていく。わずかな言葉を手がかりにこの景色を眺めてみると、まるで背後にある社会の世相を物語っているかのようである。
我々の川田の地がいつ生まれたのか、その正確な年代は分からないが、人間が足跡を残したのは、おおよそ三千年前と見るべきであろうか。しかし、古代の出来事は資料として伝わるものが非常に少なく、時代の流れとともに消え去って何も残っていないこともある。このような時代を「欠史時代」と呼ぶのである。
さて、川田の地に石器時代の人類が生活していたに違いないことは、高い台地からわずかではあるがサヌカイト(カンカン石と呼ばれる火山岩の破片。実際に麦原の山林や八幡山の西北高地で発見されている)が出土することから証明される。石器時代とは、まだ鉄製の道具を使わず、石で道具を作っていた時代のことである。この辺りには存在しない火山岩を使って日常の道具を作っていたということは、よそから輸入したに違いない。この時代には当然貨幣などはなく、物々交換が行われていた。一般的な学説に従えば、石器には「磨製」と「打製」がある。分かりやすく言えば、磨製はきれいに磨いて仕上げたもので、打製は打ち割っただけの荒作りの品であると言えばよかろう。常識的に考えても、わざわざ使いやすい形に作り上げなくても、自然にある石でそのまま使えるものもあったはずである。場合によっては、それらも使っていたと考えるのが自然であろう。これに名前をつけて「阿波式石器」などと呼び始めた。他と区別するにはなかなか良い思いつきであるが、ここには注意が必要である。たとえ石器時代の道具のような形をしていて、使ったような痕跡があったとしても、それだけで安易に「阿波式石器だ」と断定するのは非常に危険であり、その石が出土した周囲の遺物や、遺跡と思われる場所の状況から見て「どう考えてもその石を道具として使っていたに違いない」という確証に至らなければならないということを、十分に考慮しなければならない。したがって、世間ではよく、河原の石の中に石器時代の道具に似た形のものや、少し欠けたところがある石を見つけると石器だと騒ぐが、背景の状況などをふまえて条件に合わないものは、厳しく排除しなければならないのである。
この地方で最も重要な問題は、何をおいても忌部氏(いんべし)の問題であろう。では、忌部氏族がこの地方へ来る以前には人類は住んでいなかったのかと言えば、決してそうではないことは、石器を使用していた民族の遺物からも証明できる。それでは、そうした先住の人々はどうなっていったのか、という疑問が自然と湧いてくる。
民族の生存競争は、今も昔も少しも変わらない。この競争における落伍者(敗者)の末路はどうなるのかという問題である。この問題を解き明かすのに適した例が、台湾における原住民(蕃族)の歴史で、「生蕃」と「熟蕃」の区別がある。「熟蕃」は、自分たちより高度な文化を持つ他の種族と融合・同化した後、互いに結婚し、家を並べて生活するが、「生蕃」は、融合する時期を見つけられず、また融合しようとも思わずに敵対行為を連続する。彼らが融合しなければ、勢力の差から必ず絶滅することになるが、それは時間の問題である。こうした先住の種族が絶滅・衰退した場合、後世の人々が彼らに名付けた呼び名が「山姥(やまんば)」や「山男」などである。本町で有名な山彦大明神もその一つであろう。この山彦さんは正徳年間の停左エ門の霊だとされているが、「山彦」という言葉の中に、山姥や山男といった妖怪のような存在の記憶が人々の脳裏に潜んでいることは否定できない。後述する金突田(きんた田)の巨人の伝説もこの種族に入る。「山彦」という親しみやすい言葉であっても、その思想の背景には、この地方に大昔からすでに住民がいたという事実を考えなければならないのである。
こうした種族を、天孫種族(天皇の祖先)に対して「先住民族」と呼び、考古学的には「弥生式使用民族」などともいう。これを神様の系譜から言えば、天津神(あまつかみ)に対する国津神(くにつかみ)という言葉を使う。つまり、天孫が降臨した日本には、すでに国津神と呼ばれる先住の種族がいたことが分かる。字・朝日にある山神社の祭神である大山祇神(おおやまづみのかみ)も国津神の系統である。このような所へ天孫の降臨があり、その後この地方へ忌部氏族がやって来た。『古語拾遺』には次のように記されている。
「仍令天富命、奉日鷲命之孫、求肥饒地、遣阿波国殖穀麻種、其裔今在彼国、当大嘗三年貢木綿麻布及孫々物、所以那名為麻植之縁也」
とある。「肥饒(ひじょう)」とは土地が肥えて作物がよく育つ土地のことで、「阿波」は「粟」を意味し、これも作物がよく出来ることに由来している。粟だけでなく、他の穀類なども必ず見事に育ったはずである。忌部氏が阿波に入った第一の拠点は大麻山のふもと周辺で、次は本郡の飯尾川流域のような場所であり、最終的な永久の居住地は、その名が示す通り忌部山地方である。高越山の崇高で険しい峰は、常住地としてこれ以上ない背景であり、特に山岳崇拝の気風が強い古代の人々にとっては自然と憧れの的であった。現在我々が見ている平野の多くは、当時は吉野川の川底にあったに違いない。そのため、青木や麦原といった高い台地からの展望は、この上ない楽園だったことであろう。吉野川のこれより上流には、これほど条件の良い場所はない。この場所に祖先の霊を祀り、一族への奉仕とその加護を頼みにして発展していったのであろう。
「氏神」と「氏人」という言葉は、「氏神」と「産土神(うぶすながみ)」の違いとして解釈すればよいと思う。氏神は氏子(氏人)と同じ血筋の神であり、産土神は自分が生まれた土地を守る神で、血縁関係はない。つまり、天富命(あめのとみのみこと)が率いて来た忌部氏は天日鷲命(あめのひわしのみこと)の子孫だから、その祖先の英霊をここに祀ったわけである。そうであれば、『延喜式神名帖』に載るほどの神社が鎮座している場所には、当然その氏人も住んでいたはずであり、それがやがて氏族の分布を示すことになる。同じ古社をたどれば、その氏族がどう分布し、どのように発展していったかという歴史が物語られるのである。端山の忌部社などを例に考察すれば、麻植・美馬の両郡の山間部に偏って忌部氏が発展していったことが分かる。そして川田の地は、高越山がある上に居住地として自然環境が良いため、当然のように忌部氏族が入り込んだと考えられる。
種穂忌部(たなほいんべ)については世間の人々が常に口にするところである。寛保3年の神社帳の中には「去る酉年(寛保元年)8月より、多那穂忌部三神社と大々的に唱えるようになった」とあり、寛保2年には「多那穂」を「穂種」と改称した。「中川」という氏(名字)ができたのもその頃である。同帳簿には「今まで早雲と名乗ってまいりましたが、これからは中川と名乗りたい」とある。その後、山崎や端山の両地で忌部社の社地をめぐる争い(訴訟)が起きた時も、この稲穂忌部は渦中に巻き込まれ、一矢を報いたのであった。忌部山といい、忌部郷といい、ここが第三の忌部氏移住地であり、かつ永住の地であったことはもはや動かしようがない。しかし、その永住地であっても無限に一族が生活できるわけではなく、一族の一部はさらに良い土地を見つけ、現代の言葉で言えば「移民」を企て、そして最初に成功した場所に、再び自分たちの祖神を祀ったのである。麻植・美馬の両郡の山間部に古い忌部神社があるのはこのためである。台湾へ行けば台湾神社があり、奉天(満州)へ行けば奉天神社があるように、日本の民族がいる場所には必ず神殿を設けるというのが我が国民性の表れだと言えば、前述の各忌部神社があちこちにある理由も自然と理解できるのではないだろうか。このように順を追って説明すれば、社地をめぐる争いなどは本来起きるはずのないものである。どれも忌部神社であり、その祭神はすべて天日鷲命である。念のために言っておくが、天日鷲命はあくまで祭神であって、神様ご自身が阿波の土地に直接足跡を残した(降臨した)わけではない。『古語拾遺』にも「天富命が日鷲命の孫を率いて」とある。しかし、その後早くに忌部氏族が衰退してしまい、名族として認められなくなってしまったため、その不満を書き残したのが『古語拾遺』である。皇室の権威が衰えるとともに、足利時代には大嘗祭の儀式で「忌部代(いんべしろ)」という身代わりさえ京都に作られた有様であった。こうして次第に、阿波忌部に関する正確な歴史研究はできなくなってしまったのである。
古代のことは何事も不明瞭で、特に文献が乏しいため、自然に残された遺跡や遺物に頼るしか方法がない。遺跡や遺物の中で最も大切なものは「古墳」である。古墳とは古いお墓(塚)のことだが、これも多くは遠い昔に掘り起こされてしまい、痕跡すら留めていないものが多いのが実情である。そのような状況からすれば、鹿児島政明氏が書き残した『川田名跡志』は実に尊い記録である。同書は付録としてまとめられているので、ここではその見出しと要点だけを抜き出しておきたい。鹿児島氏の『川田名跡志』から抄録すると以下の通りである。
勘解由塚(かげゆづか) 東麦原の八子田という所にある。鹿児島家明の墓だと言われている。村の古老の言い伝えによると、恋の病に苦しむ人がこの墓にお参りして願掛けをすれば必ず治ると言う。鹿児島氏の末裔である丹右エ門という者がこの病にかかった。どうしても治らない時、道端の石神を縄で縛り、「病気が治ったらこの縄を解こう」というようなこともした。ある時、先祖である勘解由の霊に祈願しようとこの塚にお参りした。夢か現実か分からない状況で、一丈(約3メートル)あまりの大蛇が丹右エ門に向かってきたところ、突然、先祖の神霊が烏帽子(えぼし)と狩衣(かりぎぬ)姿で現れ、邪鬼を退けた。それ以来、この病に対して霊験(ご利益)があると言われるようになった。そこで、井田権現のそばに小さな祠を建ててこれを祀ったのである。
瓶が坪(かめがつぼ) 同書によると、これは地名である。奥田井土井の内の少し西にある。明和年間の洪水の際、川の堤防が切れ、田んぼが川のように崩れた口から、壺が数多く出てきた。どのような壺だったのだろうか。地名として呼ばれ続けてきたこともまた不思議なことである。
小石室(こいしむろ) 村の東、住吉名・西原名・八子田名・麦原名、あるいは野山の中など数カ所にある。俗に「塚穴」と呼ばれている。
猿塚 村の東の麦原という所にある。古い言い伝えによると、昔、一晩か二晩のうちに牛が数十頭も死ぬ病気が流行した。その時、「牛打ち」という者がやって来て、家々の牛を叩いて回ったと言う。この病気を呪術で鎮めるために、村の入り口に猿塚と名付けて塚を築いた。これ以降、このような牛の病気が流行することはなくなるという。
猫塚 同じ場所の少し南にある。由来は伝わっていない。
石石堂 これも地名である。川東の南の山にある。寛政元年の春、美馬氏がこの辺りの柴山を掘って畑にした。その際、そこに鉄くずのようなものが多くあり、焼き物なども多数出てきた。それが何であるかを知る人はいなかった。
黒墓 村の南の川東という所にある。誰の墓かは不明である。地名になっている。この土地を耕作する人が、この墓を取り除いて捨てたところ、ひどい祟りがあった。その後、再び小さな祠を造って神霊として祀り、お祝いするようになった。
同御墓(おんはか) 同書によると、田の裏の「御墓岡」と呼ばれる場所の上の山の峰にある。誰の墓かは不明である。考えるに、古代の身分の高い人の墓のようで、石の表面を四方に積み、その上に長さ八尺(約2.4メートル)余り、幅四尺(約1.2メートル)ほどの大きな石を置いている。
同御墓 同じ上の峰にある。周囲二間(約3.6メートル)四方ほど、大きな石を段々に積み重ねて巡らせている。
同御墓 同書の谷屋敷の項目によると、同じ場所の少し東の山の峰にある。造りは右の墓と同じである。この場所からは焼き物の器などが多く掘り出された。今は「幸神の丸」と呼んでいる。この場所に古い塚がある。時折、祟りをなすことがあった。「これによって小さな祠を建て、神霊を祀るべきだ」と考え、この古い塚を掘って見たところ、底の深い大きな石を重ねた中に、小さな壺が一つと土器が一枚あった。「これは谷殿の塚墓だろう」ということになり、その場所に石の壇を二重に築き、小さな祠を建て、玉垣を巡らせて「谷大権現」としてお祝いし、尊敬して祀った。毎年6月25日を祭日としている。鹿児島氏族たちが集まり、「この古い塚を掘って石壇を築こう」と、塚の小石を少しばかり崩した時、一尺(約30センチ)ほどで背中に黒白の横筋があり、目が大きく白い小さな蛇が出てきた。普段は見慣れない姿である。「これは亡霊が姿を変えて出てきたのだろうか、神社に祀ることを喜んでおられるのだろう」と、そばにあった藍の畑の中へ移してやったが、その後は姿を見せなくなった。
荒塚 『阿波国郡村誌』によると、本村の字・麦原にある。地元の人々は「カネ塚」と呼んでいる。四方約三間(約5.4メートル)で、中央に立っている石があり、高さは七尺(約2.1メートル)である。石の表面に文字はなく、誰の塚なのかは分からない。『阿波志』には「荒れた墓が川田村にある。大きいものは四方一尺余り、小さいものは六〜七尺。また猿塚と呼ばれるものもある」とある。記述が重複しているかもしれないが、その場所は照らし合わせて確認してもらいたいと思う。字・住吉の北端に二つの塚があって、土器や馬具も出たと言う。明治24、5年頃に取り崩された。麦原の北端にあった十個の塚穴も、明治40年頃に取り崩された。
この辺りで非常に珍しいのは、吉田重雄氏邸の前にあった石棺である。なぜ珍しいかと言うと、このような石棺は人の注意を引くことが少ないため、一般に知られないうちにすぐ取り崩されてしまい、「なかなか良い平らな石があった」程度の認識で済まされてしまうからである。その石棺は現在のところ、内側の高さが一尺二寸、幅七寸、長さ五尺五寸ある。一部は崩されてしまったが、この上に宝殿さんがある。吉田氏の邸宅から南へ三十間ほどの所にあった塚からは鎧が出た。また、北へ百十間ほどの所にも石棺があり、蓋つきの土器が出た。これには「椀貸し伝説(お椀を貸してくれる塚の伝説)」がある。西原には塚穴が四つあったが、現在は二つだけ残っている。三木弥平氏の前にあった塚からは白骨が出た。丸い古墳(円墳)の破損は比較的少ない方である。今は「六郎シャク」を祀っている。一度鉦(かね)の音がしたそうだが、祀ってからは音がしなくなったと言う。川田東の川又忠右エ門氏の邸内にある塚は、物置として使われている。内部の構造を図で表せば上の図のようになる。
地名の上にその名前を留めているものとしては、種穂山に「探穴」という所がある。今は中に入ることができないと言う。慶長7年の川田(東)村の新開検地帳には「塚穴の本」、また元和10年の川田村の新開検地帳には「から戸」という記載がある。現在の字(あざ)の地名には、猫塚や乙女塚のほかに黒墓という名前もある。藤原初太郎翁の話によれば、氏の邸宅の近くに作りかけの四方五尺ほどの塚があり、平らな石が見えるそうである。以前、弁慶のような力持ちの男が発掘しようとしたところ、腹痛がひどくなり到底我慢ができなくなったため、近くにいた僧侶に祈祷してもらってようやく痛みが治まったと言う。中には完全な人骨があり、その脇に刀剣もあったので、ある人がそれを取り出してみたところ、錆なども全くなく実に立派なものであった。それをそのまま元の通りに埋め戻したということである。また、大峯の塚には「小判千両」が埋まっているという伝説があり、その辺りには少し変わった葛(くず)が生える。これを「金のつる」と呼び、ある山伏を呼んでお酒を供え、祈祷して掘りかけましたが、たくさんの小さな蛇が出てきて薄気味悪くなり、そのままにしておいたところ、流行神(はやりがみ)となった。次は潮光寺の裏山に二つ三つ塚があるが、その中から兜や刀剣が出た。西川田の山頂にも「塚穴」という地名がある。これは古墳の石室(塚穴)であるが、今は入ることができないそうである。また、古城の次の堂佐古という庚申塚がある場所にも五、六個の塚穴があり、役場の地図にも「乙女塚」という記載がある。翁の邸宅近くの大塚については、伝説の項目に記してある。その他にも、石堂の塚や、猫塚などもあるとのことである。
ここで面白いことがある。「椀貸伝説」と「黄金千両」の伝説である。椀貸伝説とは、十中八九「前日に頼んでおいて、翌朝に貸し出してもらった」という話である。つまり、「相手がたいてい夜中に行動した」という点が特徴である。そして、後で返却する時に借りたお椀のいくつかが不足していた(なくしてしまった)ため、それ以後は決して貸してくれなくなった、という筋書きである。それよりもさらに重要なのは、その品物が「木製」であるということである。このような点から、民俗学者の柳田国男先生は、「隠れ里」の話の中に出てくる椀貸しの主は「木地屋(山の中で木工品を作る職人)」だろうと推測した。一方、「黄金千両」の伝説は、そこに小判が千両も埋まっているというもので、その場所は「朝日も射し、夕日も輝く場所」だと言われている。古墳時代にはたくさんの宝物を死者に持たせて埋葬したため、それが時代とともに段々と美化されて生じた話である。ですから、黄金千両というのは、間違いなく古墳の副葬品が出土したことを意味している。
忌部神社の分布から見ても、この忌部氏族は大いに発展した。当時はお墓に関する制度(陵墓制)の制約があったため、勝手に古墳を築くことはできなかった。つまり、古墳を築けるほどの高い身分を持った人物の墓(奥津城)だということである。その場所が「朝日も射し、夕日も輝く景勝地」なのである。そして、天皇陛下でもない限り、生前の常住地のすぐ近くにお墓を造るのが普通だから、お墓のある場所から生前の常住地も自然と想像できると考えられる。しかも、農作業の邪魔にならない場所を選ぶのが理にかなっている。
神社を調べれば、その氏子の分布が分かるわけである。これに似ていて面白いのは、美馬郡の拝村が、我が川田の八幡神社の氏子だということである。そもそも「氏子の境界」とは何かというと、ある土地を境にして「ここまではこの神様の氏子だ」と言うのは、神様の領地(神封の地)であるべきだからである。のちの時代になって、封戸(領地)を持たない神様まで真似をしてそのようなことを言うのは、一体誰が許したのだろうか。「戦乱の世の中には、人も神も自分の思い通りに土地を領有したのだろう」という荻生徂徠の言葉はどうであろうか。八幡信仰が盛んだった時代、向こうから進んで八幡神の氏子になったのかもしれない。そして、氏子としても少しばかり権威を持っているのは、ある時代に彼らの富の程度が高かったことが原因かもしれない。伝承によれば、拝村は「川田四十二名(または六十三名)」の一つだと言うので、元々は川田村の一部だったのである。とすれば、村民が田畑の都合で集団移転したことがその起源かもしれない。いずれにしても、高越山を中心とした信仰の広がりだけは、決して見逃すことができない。
大化の改新と呼ばれるものは、我が国が古代から身分の貴賤を分け、主従の関係を定めて生業を立ててきた制度を大きく変えるものであった。良い家柄の者は人を使役し、身分の低い者を奴婢(ぬひ)とし、良い家柄に仕える者を家人とした。その身分制度は非常に厳しく、異なる身分間での結婚は許されなかった。しかし、こっそり通じ合って子供を作ったり、あるいは奴婢の主人が貧しくて権力者に奴婢を無理やり売られたりするなど、もめ事が頻繁に起こるようになった。また、国造(くにのみやつこ)などの豪族が私有の民を置いて山野を占領し、ますます土地の併合を進めたため、良い家柄の者も疲弊し、土地を売り、税を逃れ、自分の姓を売って奴婢に転落するなど、長年の悪弊が次第にひどくなっていた。大化改新は、このようなひどい状況を改めるために起きたのである。この頃、隋や唐の進んだ文明がすでに我が国にも伝わってきており、先見の明がある人々は早くこれを見習おうとしていた。そして蘇我氏が討たれた事件(乙巳の変)が、その改革の引き金となった。ここにおいて、従来の氏族による支配制度は、国や郡による行政区画制度(郡県制度)へと変わったのである。
大化2年に国と郡の制度を定めた時、本郡には四つの郷があったので、「中郡」とは三十里以下、四里以上の規模を指した。この「里」は後に「郷」と呼ばれるようになる。大宝律令で郡の制度を五段階に改め、八里以上でなければ中郡ではなく、四里以上は下郡とされたため、本郡は「下郡」となった。国司の下に属して郡内の政治を行う役所を「郡家(ぐんけ)」または「郡院」という。その長官が郡領である。郡領の支配を受ける行政区画が「郷」であり、当時の本町地方は「射立郷(いたちごう)」の中にあった。瀬詰には現在も「湯立(ゆたち)」という地名が残っている。『阿波国郷名考』には「射立(伊多知)が瀬結村の古い検地帳の脱字で瀬詰庄の湯立(ユタチ)となり、『イ』と『ユ』の音が通じるので、湯立は射立のことだろう」とある。別本の『阿波志』は射立という名称の起源について、「伊射冊(いざなみ)の神がいらっしゃるゆえの県(あがた)である」と書いてある。「県(あがた)」とは朝廷の直轄地のことである。『古事記伝』には「上田(アカリタ)」の意味で、諸国の朝廷の直轄地の名前になったと言われている。
山崎村は忌部神社の鎮座地として古い歴史を持っている。そうであれば、この辺りに忌部民族が住んでいたことは明らかである。ゆえにこの場所に「忌部郷」があったのは当然なのだが、『阿波国郷名考』の著者は、学村に「湯立」という地名があることに疑問を持ち、やがて西麻植村などの方面に忌部郷を割り当ててしまった。これは間違いであり、湯立は瀬詰の地名である。川島より東の本郡は呉島郷であり、川島郷の西が忌部郷、さらにその西側が射立郷である。この著者は、大体平野の面積を基準にして四つの郷を割り当てただけで、当時の郷を設置した本来の趣旨を無視してしまった。面積などは論外であり、どんな形であれ「五十戸」の集落があれば一つの「郷」を置いたのである。その一戸あたりの人口は、故・吉田東伍博士や喜田貞吉博士の見解を総合すると、二十人から三十人だったということなので、一郷の人口は千人から千五百人いたはずである。古代においてこの地方が本郡の中で最も発展していたことは、古墳がたくさんあることから分かる。古墳を築くほどの権力者は、たくさんの奴婢も抱えていたと思う。そうした関係から、この地方の文化は大いに進んでいたに違いない。自然と人口も他の地域に比べて密集していたわけである。そのような密集地に五十戸で一つの郷を形成したとすれば、川島郷と射立郷の間に挟まれた忌部郷の面積は非常に狭いことになる。このように見てくると、瀬詰や川田などの土地が「射立郷」に当たる。美馬郡へ麻植郡の土地を分割した記録もないので、射立郷の区域ははっきりするわけである。明治維新後に設置された大小区制の「第四区」という区割りは、なんだか古代の区画をそのまま物語っているような気がする。そして、射立郷の中心地はどこだったのかと言うと、当時の古墳が造られた場所は、その墓の主の住まいのすぐ近くに設けるのが普通だから、大体の想像はつくと思う。また、郷の下には「里」を置いた。『条里図帖考』には、「郷」という字は条里制の「里」と同じ字で紛らわしいため、「郷」に改めたのだと言っている。里、すなわち郷には「里長」を一人置いた。その里の百姓の中で適任な者をこれに当てた。万が一適任者がいなければ、隣の里から選任した。「郷は古代の村を合併・分割して新しい区画を作り、里を編成するために大変革があったことは明らかである」というのが故・内田銀蔵博士の学説である。
麦原の東に「青木」という字の地名が瀬詰村にある。この場所に城塞があったことは世間でもよく知られているが、「青木」の文字そのものがすでに城塞の意味を示しており、青木の「き」は城、宮垣、または柵のことである。柵とは、木をまばらに立てて横木を通して構えた城のことで、『和名抄』に「巨木柵」とあるように、元は城と同じく「キ」と読んだ。また、城塞の二文字を「キ」とも「キガキ」とも呼んでいたものを、中世頃から「城」も「柵」も音読みのまま言うようになった。細かく分ければ、土を築いて構えたものを「城」と言い、木を立てて構えたものを「柵」と呼んだのである。古墳の分布などから考えても、忌部氏のような強大な氏族が昔から居住し、一つの大きな文化が存在していたことが認められる。その後、忌部氏が衰退したとしても、彼らに代わる豪族が、この文化の盛んな土地に根拠地を設けるのは当然のことである。このように古い時代から豪族の根拠地として青木に城塞があったため、地名にまでその名が残っているのである。社会の進歩に伴って人口が増えるのは自然の勢いであり、それによって費用も増大し、従来の経済基盤では生活に不足が生じるのは必然の結果である。特に商業や工業が発達していない古代においては、生産力はひとえに土地に依存していたため、人々が土地を欲し、田園を望むのは自然な感情である。つまり、「荘園」とはこの経済規模の増大に従って発生したものなのである。今、荘園が発生した直接の主な原因については日本史の専門書に譲るが、「荘」とは田舎という意味で、田畑の間にある家屋を指す。「園」は垣根を設けている中で樹木を植えている場所を指す。つまり、本宅とは別の別荘や農園のことである。これには税を納める土地(輸租地)と、納めなくてよい土地(不輸租地)の二種類があった。
山崎の忌部神社の土地は神域であり、神霊が鎮座される場所で、これに従属する氏族はその周辺に居住していた。青木や麦原方面の台地は、住まいとして非常に適している。このことがやがて、古墳の分布によって証明されるのである。斎部広成(いんべのひろなり)が『古語拾遺』を書いて大いに憤慨しているが、これは一般的な忌部氏全体のことについてであり、阿波の忌部氏だけについて述べたものではない。忌部氏族の中でも阿波忌部氏は特に勢力の盛んな一派であった。社会の流れから言って、彼らが荘園を経営したのは当然のことである。世間で「忌部荘」もあったと言われるのはまさにこのことであり、その東端は学島村の字・庄境(しょうざかい)という地名が境界だったのだろうか。もちろん我々の地方もその荘園の中にあったに違いないと思う。故・吉田東伍博士の考えでは、『吾妻鏡』の建久元年の記述に「阿波国高越寺荘」が見え、建長2年の道家処分帳にも記載があることから、当時は藤原氏の領地であった。これが「忌部荘」の別名であり、忌部氏の管理者が藤原氏などの有力貴族と結びつき、その領地として認めてもらったものなのだろう。このような領地の確保の仕方はよくあることだが、「高越寺荘」という名前が、すでに寺が直接支配する荘園であったことを物語ってはいないだろうか。もしそうなら、藤原時代にはこの方面が寺の領地である荘園だったことを示している。そして文治6年4月には「伊勢神宮の修理費用に充てる」ともなり、建久7年に「右大臣・源頼朝が米を賜った地」とあるのは高越寺のことである。ところが、寺の勢力だけでは他から横槍が入るのを恐れて、藤原氏という有力貴族を頼って荘園内の安全を図ろうとした。そこで、この藤原氏と本家・本所(名義上の領主)の関係を保つだけでなく、権力者の傘下に入って威光を張ることができ、たちまち国司が立ち入れない特権(不入の権)を持ち、税を免除される土地(不輸租地)となった。そして本家へ利益のいくらかを納めて本家の領地とすることで、税の負担を軽くしようとしたのである。この高越寺荘の名前は吉野(南北朝)時代まで残っていたことが、次の文書で分かる。三木氏は本郡木屋平村の家である。
(列) 阿波国高越寺庄内西庄為御恩可知行旨依執達如件 正平15年8月3日 出雲守時挙(花押) 三木太郎兵衛尉殿
この太郎兵衛尉は、康永4年6月の天皇の命令書(宣旨)に「忌部重村、宜しく左兵衛尉に任ずべし」とある人物のことだろう。康永4年は10月で「貞和」と年号が変わった。どちらも武家方(北朝)の年号であり、宮方(南朝)の興国6年に当たる。高越寺荘の領内がどれほどの広さだったかと言うと、まず次の慶長9年(甲辰年)の麻植郡河田村の検地帳の中に、
「阿波国麻植郡之内河田村 河田山 川井山 三木山 木屋平山 柏原」
とある。柏原は現在は木屋平村の三ツ木にある一つの地名となっている。「河田村」というものが、現在の我々の川田町から三山村のうちの川田山を含み、中心となる中枝村を飛び越えて木屋平まで繋がっていることになる。ここでどうしても言わなければならないのは、「高越山」というこの名前についてである。故・吉田東伍博士は共著の中で次のように述べている。
「高越山は穀山(こうぞやま)の意味であり、穀を『加知』または『加宇曾(こうぞ)』と読む。忌部の祠が鎮座しているのはおそらくこの辺りだろう。『和訓栞』によれば、『新撰字鏡』に穀また楮(こうぞ)を「カデ」と読ませている。同じく頭注には、延喜式に「およそ紙を造るには穀の皮を煮る」とある。『著聞集』には楮の皮を取って紙をすかせ、経文を書いて奉納したともある。今の「こうぞ」と言うのと同じである。また考えるに、加宇曾(こうぞ)は加美衣(紙の衣)の意味が変化して加宇都となったのだろうか。また『霊記』に『東国の名方郡(名東・名西両郡が一つの郡だった時の呼び名)の壇村に女人忌部の首(おびと)であり字は日多夜須子という者がいた。白壁天皇(光仁天皇)の時代、この女が法華経を写して麻苑山寺に奉納した。その時、麻植郡の忌部連板屋がこの女の過失を指摘し、非難したため、口が曲がって後ろを向き、決して元に戻らなかった』とある。この麻苑山寺はすなわち穀山と同じだろう。しかし、辞書には「茂苑」とあり、草木が茂るという意味だけで穀の意味には通じず疑問が残る。また薬の名前に紫苑がある。袁山寺の意味だろう。麻は古い言葉で薗(その)とも袁(その)とも呼んだ」
これで「高越」という文字の意味も理解できたかと思う。どうしても忌部氏族と高越山の関係がますます色濃くなるわけである。なぜ忌部荘と言わずに高越寺荘と呼ぶのかと言えば、高越寺の名前を冠するほどその中心が(氏族から寺へと)変化したということであり、それがやがて忌部荘が衰退期に入ったことを示している。たとえそれが後世の記録に見えたとしても、忌部荘などと言うよりも、忌部荘という存在が滅亡していく時期を表しているように思える。高越寺荘というものは寺の領地として発達したもので、どれくらいの範囲にあったかと言うと、湯立の少し西にある「庄境」という地名がこの荘園の東の端を表している。そうした関係からだろうか、大須賀は今は瀬詰村に属しているが、寛永13年の川田村の新開検地帳では本町の管轄になっている。また『阿波志資料』には、土肥・市原の両氏による大須賀の領地交換問題の記載がある。ここにおいて、前述の慶長9年の検地帳に「河田村の内に河田山がある」というのは、文字通り当然のことなのである。前にも述べた通り、現在の中枝村を除いて現在の木屋平村が河田山の内にあるというのは、先ほどの正平15年の文書で三木氏に高越寺荘の西庄が与えられたために、三木氏が三木山などの方面とともにその支配下にあった関係が、慶長9年頃まで一つの場所のように見なされていたからであろうか。嘉暦2年の政所からの命令書(下知状)に「麻植山の加志原、大窪の在家…」と記されている。
高越寺荘に「西庄」があるからには、「東庄」もあるはずである。忌部氏が鎌倉時代の終わりまで麻植郡の山間部までを所管していたことは、嘉暦2年の「種野山在家員数ならびに御年貢御公事」と題する文書に「忌部行正」とあることで分かる。いくら宮方(南朝)と武家方(北朝)が争っていた時代とはいえ、たとえその一部であっても三木氏に領地を与えるのは少し変に思えるかもしれないが、鎌倉時代の後期には武士の勢力が最も盛んになり、年を追うごとに国や権門(貴族や大寺社)の領地を横領していったため、荘園における勢力は完全に武士の手に移っていた。このような有様なので、藤原氏という有力貴族を本家(スポンサー)としていた忌部氏はおそらく武士の勢力に圧倒され、他の者たちと同様にほとんど臣下や使用人のようになってしまったのだろう。では、一体誰にこの荘園を横領されたのかと言えば、土肥氏だろうと思う。まだその根本的な史料は見つかっていないが、『阿波志』に「明王院は貞和年間に土肥氏が香光院として建てた」とある。たとえこれが土肥氏でなかったとしても、それに相当する武士の人物がいたに違いない。三木氏が高越寺荘の西庄をもらったのは正平15年である。この年は武家方の年号で言えば延文5年である。この頃は阿波国内の大勢も武家方の勝利に帰していた時期で、特にこの辺りでは、飯尾文書によれば、飯尾氏が別司(べっし)山の上の城戸・下の城戸を根拠地としていた河村氏に大攻撃を加えて致命傷を与えたとあり、それは観応2年(正平6年)から9年後のことである。吉野川下流地方の大物である名東郡の一宮成宗が、矢も尽き力も尽きて城を開け渡し、自ら美馬郡の重清城へ退却した正平18年(貞治2年)まではわずか3年を残すのみであった。板碑(石の卒塔婆)の記録によれば、本町で最も古いものは土井ノ内にある延元3年、つまり武家方の暦応元年のものである。文字通りに解釈すれば、延元という南朝の年号を使っている以上、やはり宮方(南朝)に味方する者がいたと考えなければならない。西川田の大坊跡にある貞和2年のものも、上述の状況からして当然のものである。武家方の貞治の年号を用いているものは、隣村などにもいくつかある。単なる石碑の文字一つで地方の大きな情勢が分かるわけではないが、明王院を貞和年間に建てた土肥氏が関わっていることは、大いに考えなければならないと思う。飯尾氏が別村の河村氏に大攻撃を加えた観応2年は、宮方の正平6年であり、貞和は6年(正平5年)に観応と年号が変わった。土肥氏もこの地に自分の基盤が弱ければ、わざわざ香火院(先祖を祀る寺)まで設ける必要はない。必ずや安全な根拠地があったに違いない。万が一にも土肥氏が宮方(南朝)の一勢力であったとすれば、飯尾氏が別司の河村氏を攻撃した際、敵はその側面か背後にいると考えなければならない。しかも河村氏は、この地方の宮方における一大勢力であり、その上、軍隊を進めるには非常に不便な山岳地帯にいた。ゆえに土肥氏は、河村氏が飯尾氏から攻撃された際、この方面から援軍を入れるのに便利な場所にいた宮方に対する敵国であり、また飯尾氏にとっては側面・背面の防御線上にある大きな砦のような位置にあったに違いない。平家の伝説にある「旗見(幡見)」という地名は、平氏が寿永の昔に麻植の山中へ逃げ込んだはずはないので、飯尾氏が軍隊を進める際の連絡用の旗を見る場所くらいだったのかもしれない。これはもちろん一つの想像である。
三木氏に高越寺荘の内の西庄が与えられ、西庄があると言うなら、必ず東庄もあるはずである。『阿波国郡村誌』の著者は「川田村、川田山村、山村を高越寺庄と呼ぶ」と書いているが、何の書物を根拠にしたのかと疑っていた。しかし、三木家の文書によれば、種野山(現在の東山村中枝村)はその内にあるのだから、前述の慶長9年の川田村検地帳と照らし合わせれば、東庄は種野山の方面に相当することになる。そうすると、中村山という呼び名や府殿といった地名は、河村氏によって一時的に独立した荘園(庄保)のように見なされていたのだろうか。そうした関係で、あるいは「東庄」という名称は特に使わなかったのかもしれない。「氏子の境界」についてはすでに述べたが、拝村について『阿波志』には「拝村の古い名前は政宗名であり、麻植郡川田に属する」とある。古老の言い伝えに「川田村と川田山村は昔は一つの村で、四十二の『名(みょう:徴税区画)』があった。拝村はすなわち正宗名と称したと言う。忌部神社を遠くから拝む(遙拝する)べき場所だから拝村と名付けたというのがあるが、これはひとまず置くとして、これは拝原村、東林村、西林村と一緒に考えるべきだろう。そうして昔は我が川田村が「一つの名(行政区画)」の土地だったのだが、前述の慶長9年の川田村検地帳の末尾には「枝村 岩津村」とある。枝村とは河田村から分かれた村のことだった。また拝村も川田村の内であった。これは付け足しであるが、寛政年間の『川田村誌』に「境石」と題して、
寛永11年(甲戌年)6月吉日、ここより上は多那穂(種穂)の権現道、またわらかけを伝い、山は昔のように入会(いりあい:共同利用)とする。この境界の石の辺りの地名を鼓山(地元では「つづみのやま」と呼ぶ)と申す。上郡(美馬・三好郡方面)へ向かう街道で、南は稲穂山、北は西林・東林・沼町などで、吉野川の上下三里の間、阿波と美馬の広大な景色が見渡せる。岩津の淵は緑の竹の色のように水が青く、心涼しく景色が大変良いところである。
その次に「西行法師もしばらく休息なされ、一首の歌を残されたと伝えられている。『鼓山 うち出で見れば 西はやし 岩津といふは おしのすみかよ』」。これは後世に作られた偽作で、西行法師の物語などから判断しても、西行が阿波に入ったというのは事実ではないと思われる。享保13年の東川田村の新開検地帳に「げししゃう」という地名がある。これはおそらく「下司しょう」ではないかと思う。下司(げす)とは荘園の役人のことで、荘官の中には下司、代官、下司と呼ばれる者もいたが、鎌倉時代以降には下司、公文、田所、案主、追捕使の五つの役職があったので、我々の地方の下司の役職のことではないかと思う。そして字(あざ)の地名であるならば、その下司の屋敷があった場所か、その給与として与えられた土地(俸給地)だろう。
川田村には四十二名、または六十六名があったと言う。この「名(みょう)」というものは、我が国が古代から名前を重んじ、これを永久に伝えようとして「御名代(みなしろ)」があったように、後世になってもその名前で伝えたいと望み、その土地に自分の名前を付けたものであろう。そうであれば、開墾を許可し土地の私有を認めた時代からあったことは疑いはないが、古代の記録にはその名前が見当たらず、保安(1120年代)の頃になってようやくその名目が見えるようになった。「名主(なぬし)」は「名田(みょうでん)」の発生とともに生まれた。名主という役職は、領主に代わって名田を支配し、年貢などを納めることを担当したものである。豊臣秀吉が全国の荘園や郷保を廃止するに及んで、名主の役職も自然となくなったが、徳川時代には一般的に「名主(なぬし)」は村の役人の呼び名となり、名東郡の山城屋浜や那賀郡の和田津新田などでは「庄屋」と「名主」が対立して存在していた。元のようにこれを「名主(みょうしゅ)」と読むのは美馬郡の祖谷山に残っているが、これは庄屋などとは少し違う。しかし、「名(みょう)」に従属して耕作する者を「名子(なこ)」と呼ぶが、これは本町に現存する検地帳などにもちらほらと見られ、百姓の一つの資格として残り、明治以降になって廃止された。
次は「土肥」という名字についてである。土肥氏は、戸井、土居、土井と同じであり、現在も翁台に「土井ノ内」という地名もある。土居は古くは「ツチ井」と言い、城の土の垣根(城の砦)、その周囲をめぐるお堀を土居堀と言った。この「土井ノ内」について、寛政年間の『川田村誌』には、
「土井之内 右は当村の内の億代(おくたい)と申す田んぼの中に、南北三十〜四十間ほどの石垣があり、高さは六尺(約1.8メートル)ほどで、東西は石垣が崩れて十四、五間残っている。この場所に土井右エ門督が讃岐の寒川から移住してきた跡だと伝えられている」
とある。井上城を「大土肥」と言う。とすれば、土井ノ内は「小土井」に当たる。これで主客(本城と支城)の関係が分かるだろう。少し付け足すが、川東の字の地名「柿内」は、本当なら「カキナイ」と読み、屋敷構えから来た言葉である。普通の場合の名字の付け方からすれば、右エ門督がこの「土井」の地へ来たから「土井」と名乗ったのだろう。
ここにおいて城塞のことを語るべき順序となった。青木が古い城塞であったことはすでに述べたが、次に歴史に出てくる城塞は「城(ジョウ)」という地名で、城、城ヶ丸、城屋敷、城多尾などというのがある。寛政年間に書かれた『川田村誌』に、
「大室山城の丸 右は当村の大室山にある御杉林(官有林)の中に、一反(約1000平米)ほどの平らな土地がある。この場所は井上城の物見(監視所)であったと伝えられている。今でも瓦の破片や石垣など、土地の形が少し残っている。もっとも、井上城跡より十丁(約1キロ)ほど山の中へ登り、麻植、阿波、板野、名西などの四つの郡の様子を見渡すことができる場所である」
とあり、大室山は井上城の「物見」だと書かれている。大体、安土桃山時代から現れた山城は、半分は自然の険しい山を利用し、半分は平地に人工の手を加えて要塞を形作る「平山城」の形式だが、それ以前の城塞はすべて自然の険しさを頼る主義であり、大室山の城の丸もやはりそれに属する。そして大室山は井上城の物見などではなく、後世に現れた天守閣ぐらいに考えればよく、いわゆる「本丸」なのである。そうであれば、井上城(広く流布している本には川田城とある)の主将が普段住んでいた場所を「里城」と言う。本丸には常に人がいるわけではなく、いたとしても見張りの兵(番兵)的なものである。阿波国内で有数の巨大な城である一宮城でさえ、里城の垣根は竹藪だったようである。このようなものであれば、これだけで十分に敵を防ぐわけにはいかない。だから、有事に立てこもる時だけのもので、普段は使うことがない。高い場所にあるため、世間の人が後世の感覚で考えて「物見」などと言ったのだろう。
道三屋敷や谷屋敷は、今のところ付属の館だとしても、泉屋形は「里城」である。「屋形」と言うくらいだから、おそらくその構造に少しは柔らかい(居住用の)ところがあったとしても、それで良いのである。さらに言わなければならないのは、当時の城の造り方は、いくつかの小さな砦(堡塁)を結びつけて一つの大きな要塞を形成したということである。あの新田義貞の藤島城は「足羽七城」と呼ばれ、足羽郡にある七つの砦を結びつけて要塞を作ったもので、それが藤島城であった。阿波国内でも海部郡内(海部川流域)に「海部七城」というのがあるように、この井上城にも前述の「何々丸」という砦を連結して一つの要塞を設けたのである。その本丸が大室山である。大体、日本の戦争は兄弟喧嘩のようなもので、大陸地方の戦争とは違う。城に立てこもった後、落城を覚悟して戦死する時に、主将の一族が最期を遂げるだけの場所があればよいのだから、大室山の山頂に平地がそれだけあれば「大城」の部類に入るわけである。ここで注意しなければならないのは、中郷にある「城の台」である。「塔の跡」などというのは間違いで、これも城塞である。東西二十間、南北十間(どちらも目測)ほどで、東と北の側にはくぼみ(鞍部)を設けていた。また、この辺りに「覗岩(のぞきいわ)」というのもある。川田山や桁山の辺りは目の前にあるので、これこそが「物見台」であろう。今、これを大楠公(楠木正成)の城塞に例えれば、大室山は赤坂城で、中郷の城台は千早城に見立てられる。とすれば、井上城は大楠公の邸宅のようなものだったのだろうか。
この井上城の城塞はこれだけではない。稲穂山方面に「木戸口」という地名がある。木戸とは城の出入り口(城戸口)のことである。拝村の字の地名には「鶴ノ丸」がある。同じく字の地名「遠見」という名前も、なんだか城に関連して聞こえる。特に姥神(うばがみ)信仰がある字の地名「姥が懐(うばがふところ)」は、城塞に関係していた時代、城に急を告げる時に女性や子供が難を避ける場所で、「おばあさんの懐に抱き込まれるように安全に保護される」という意味からこの地名が起こったなどと言われている。城を「丸」と呼ぶのは、城の区画(廓)の内側を「何丸」と言い、主将がいる区画を「本丸」、その外側を囲む区画を「二ノ丸」、さらにその外にあるものを「三ノ丸」と呼ぶ。また、城から離れて築かれた付属の城を「月城(附城)」または「出丸」と言う。井上城は、明王院の北の高い台地に本拠を置き、大室山を本丸として他の砦をその付近に配置し、中郷の城台を引城(後方の城)とし、拝村や船戸などの背中や側面に防御を施したとすれば、結局は高越寺を詰めの城(爪)としたもので、言ってみれば高越山一帯を使って大要塞を組織したものなのである。だから、「丸」などと呼ばれる砦を一つずつ切り離して現代人の目で見れば、「これが城なのか」と疑うのはもっともなことである。このように考えてみれば、土井ノ内にある「億代の城」は、井上城と切り離して見るのは良くなく、億代城は言うまでもなく井上城の月城、いわゆる出丸なのである。出丸は敵に対して向かっていくので「対城」または「向城」とも言う。字・北島の南方にある字の地名「古城」も、やはり井上城の月城と考えなければならないだろう。なぜ土井ノ内が土肥氏の住まいだったと言われるのかというと、普段生活する場所として都合が良かったためかと思う。「古城」がわずかに字の地名に残っているだけで何も伝わっていないのは、この井上城の要塞が縮小した結果か、あるいはこの要塞が崩壊して形を変えられたために、古い城に対する記憶が失われたからかと思う。また北島には「殿屋敷」という地名があり、寛政年間の『川田村誌』には、
「殿屋敷、または十二騎原とも申す。ただし、当村の内の『原』と申す所にある。右の場所は、初めは土肥因幡守殿の隠居所であったが、次男の土肥久右エ門尉(号は出羽守)の知行として川田の内の友松にて三百貫(これはどうであろうか)、讃岐の三木郡にて三千貫が分け与えられたとのことで、その子息の伊賀守殿、その嫡男の次男・備後殿などが代々住居したとのことである。もっとも、土佐の乱の際、伊賀守は土佐方(長宗我部側)につき、本家の土肥新右エ門尉と不仲になったとのことで、天正年間に病死したため、墓所が現在の『十二騎』と申す所にある。久保忠同氏所蔵」
原氏の付け足しとして、殿屋敷は川田村の宮島・住友甚一氏邸の西にあり、元は住友豊蔵氏の旧宅である。十二騎は住友甚一氏の裏側にあり、竹林の中に土でできた五輪塔がある。これが土肥伊賀守の墓であろう。また同じ場所から昔、名剣が一振り土中から発掘された。
「十二騎」については特に説を聞かないが、本郡の森山村に十二騎小路という場所がある。もう一つ、別の場所にも十二騎という地名があった。『古城諸将記』に、本郡の川島城の川島兵衛之進の一族の九人が隣村に分かれて住んだとある。これに「朋友」とか「浪人」という名目を付けたようである。板野郡の板西城にも「十二人衆」という名称があることから、この「十二騎」というのは十二人の「寄騎(よりき:後世では与力と書く)」という意味ではないだろうか。寄騎とは、家臣として付き従う武士のことである。寄騎に対して「寄親(よりおや)」がいる。
さて、木戸口と字名の古城を見合わせ、また王子山に向かい合ってみれば、一時期この北島は最前線の出丸の一つの砦として、守将がいたに違いないと考えられる。大きく見れば、井上城は高越山を中心として川田村の全体をその縄張り(廓内)に入れたものである。これが統一的に真に活躍した時代は、城の性質として吉野(南北朝)時代としなければならない。鹿児島政明の『川田名跡志』から要点を抜き出すと、
刑部太輔屋敷:谷屋敷の井ノ上、井田権現の辺りの地名である。
泉屋形:古老の言い伝えによると、泉屋形の留守居である谷右馬助が居住した土地である。谷殿の事については、屋形の下に詳しく書いてある。
御館:地名である。御館と言う地名である。井上の南にある。
城ノ丸:泉屋形の西南、大室山にある。山の頂上に少し平らな土地がある。
セッカウ台:言い伝えによると、泉屋形のセッカウ台と言う。人数をこめておく(兵を配置する)場所である。石垣だけが今に残っている。最近でも、草刈りをする身分の低い男が矢を拾って帰ったことがあった。
堀切ノ丸:同じ場所の東にある。明和の頃、杉原氏の瀬吉がカブラ根(矢の根の一種)を拾い、同じ苗字の徳三郎がカリマタの矢の根を拾った。ここも軍用のために兵を配置した場所である。
陸地ノ丸:同じく東。△この地点は少し不明である。
蛇ノ枕:蛇の枕というものがある。御館の滝は絶景である。
花ノ丸:同じく東。刑部太輔の屋敷の上にある。
猪丸:同じ場所。
道三屋敷:同じ場所。刑部太輔屋敷の東。
土居ノ内・殿屋敷はすでに出ているため省略した。
「堀切」という名称は城塞につきもので、この堀切は大室山の本丸の背後を守るために使われたものである。現在「丸」の字が付いている場所は、高越寺の北に塔ヶ丸、中郷の辺りに仏丸(地蔵丸)、高丸、幸神丸(庚申丸)がある。大阪府の泉州堺城などの遺跡から見ても、山城という純粋に自然の険しさを頼る作り方が、武器や戦術の進歩によって半分は人工を利用した平山城の形式になってからは、いわゆる「井上城」という特定の場所だけが人々の意識に強く残り、他の砦はたいてい意識の底に隠れてしまった時の考えが、現代人によって物語られているのである。だからこそ、井上城と億代城を別のものとして扱い始めたのである。そして、この井上城の周辺でも戦争はあったと思う。『川田名跡考』に矢の根を掘り出すなどの話があるのはその名残だが、今では文字によってわずかに伝わるだけで、矢の根の図版などもないため、この戦争がいつ頃のものだったのかという考古学的な批判(検証)ができないのは残念なことである。
次に、この辺りには名水がいくつかある。古代の石器時代の人類でさえ、住まいには必ず飲み水を必要とした。城塞であっても同じで、常に住む場所や長く戦う場所には飲み水が必要である。そうであれば、本丸である大室山の山頂近くの水はどうだったのかという問題になるが、ここの水は、場合によっては最期の籠城戦の時に溜めた水だけで事足りる。徳島城の山頂には水がないため、その用水は溜め池であったが、今でもその名残がある。大室山には城の台の引城もあるので、いくらかこの辺りは安全である。そして平山城の形式である徳島城でさえこの程度なのだから、井上城はさらに簡単なものでよかったはずである。現代の言葉で言えば、バケツほどの水をいくつか持ち上げておけばよかったのである。この名水について『川田名跡考』には、
「井上の柳井 古老の言い伝えによると、この泉は鎌倉の草紙に載っていると言う。泉の屋形と呼び、また井上城と呼ぶのも、この井戸にちなんだ名前だろう」
とある。全体の「名水」の項目を見ていただきたい。広く出回っている本に「河田城」とある井上城の呼び名は、この説が最も理にかなっている。ここで注意すべきは「新田谷」という地名である。これが、ひそかに宮方(南朝)がいた名残ではないかと思う。南朝はついに敗れ、世の中は武家方(北朝)の天下となり、井上城にはその系統の者が住んだ。細川侯爵家の家譜によれば、吉野時代から細川頼春の子である頼有がこの地を領有したとある。
頼有は十郎掃部頭・右馬頭と名乗り、細川頼春の子である頼之の弟で、阿波・讃岐・伊予の三カ国に領地があった。讃岐の香川郡の下勝瑞城に住み、常有に至るまで五代にわたってこの城に住んだ。高越荘はその領地である。嘉慶2年に川田八幡宮を再建した。明治(明徳)2年9月3日に亡くなった。享年六十。
頼長は刑部太輔・播磨守と名乗り、頼有の次男で頼有の遺領を継ぎ、その後、応永15年に和泉の守護職に任命されたため、岸和田にも居城を構えた。後になって川田の細川氏を「和泉屋形」と呼ぶのはこのためである。
持有は刑部少輔九郎と名乗り、永享10年9月1日に亡くなった(最勝院)。
教春は民部少輔で、宝徳2年4月27日に亡くなった。
常有は播磨守弥九郎・刑部少輔と名乗った。文明12年10月7日に亡くなった。宝徳年間に頼有の遺領である高越庄を領有したので、常にこの地にいた。讃岐の下勝瑞から移住してきた有常は、三木・松家の文書にその名が見える。
政有は刑部少輔と名乗った。文明12年4月24日に亡くなった(慈勝院)。
元有は刑部少輔と名乗った。享禄4年6月、細川高国が自害した時に戦死した(善法寺雪渓献公)。
元常は播磨守で、将軍である足利義晴・義輝に仕えた。天文23年6月16日に亡くなった(仏恩院実翁真公)が、頼有から九代目の子孫である。この地には代官として丹治常直を置いた。常直はその家臣である土肥綱真に支配を任せた。後に元常は将軍・義晴に従って穴太(あのう)に亡命し、その領地はすべて三好氏に没収され、川田はついに土肥の所有となった。その後、元常は三好氏に身を寄せ、井上城の一角にひっそりと隠居した。今、井上城跡から三丁(約300メートル)ほど南にその旧跡があり、お墓(塚)もあったが今は消滅してしまった。天文23年6月16日に亡くなった。あの有名な細川幽斎はその養子である。永正9年の三木文書に元常の名前が見える。
(永正9年の文書) (縦八寸七分、横一尺二寸三分)
「中官途の事、その意を得候なり、謹言。 永正9年8月8日 元常(花押) 三木左京進殿」
棟札に曰く、伊勢太神宮の神主・岡田経竈が所蔵する天文11年7月19日の国々の乱れが静まることを祈る文書があり、伊勢国の文書へ行って調べた。細川・丹治・土肥の三氏の関係は、まさに「下剋上」の象徴である。下剋上とは室町時代の一般的な言葉で、下の者が上の者を凌ぐという意味である。「剋」は「割る」「殺す」という意味があり、つまり「下剋上」とは上の者を削り取ることから起きた言葉である。これがいわゆる戦国の時代であり、門閥政治がその弊害を極め、天子は将軍に倒され、将軍は管領に抑えられ、管領や守護もまたそれぞれの重臣に抑えられ、制度はすべて名ばかりとなり、お互いに私利私欲を争った。元常は常直に抑えられ、常直は綱真に倒され、ついに元常は幽閉されて、土地は土肥綱真のものとなったのである。
(高越寺の棟札) 厚さ右二分、四寸
(表) 四分分
「右の趣旨は、天皇陛下の御寿命が長く続き、国家が安泰であることを願うものである。蔵王権現の御社一宇を再建し上棟する。荘園が平和であり、特に寄進者たちの一家が繁栄し、子孫が長く続くことを願ってこれを造るものである。 丈五尺九寸。 大檀那・刑部源朝臣元常、ならびに御代官・常直。 永正11年(甲戌年)卯月10日。 当住持・大法師清誉。 大願主・勧進沙門慶善。 大工・貝橋兼光」
(裏)
「刑部源朝臣元常(花押) 丹治朝臣常直(花押) 御社の造立には総勢五百六十三人が共に携わった」
四分 分炒四 丈六尺四分
「蔵王権現の御社一宇を再建し奉る。 元亀2年11月15日。 土肥新右エ門尉源朝臣秀真(花押)」
この二枚の棟札は、この地方における完璧な下剋上の歴史を示している。元常のお墓については『阿波国郡村誌』に
「細川元常塚 本村の南の方、字・ヨクヤにある。四方は耕地で、石碑は高さ五尺、幅二尺五寸、厚さ八寸だが、文字は見えない。『阿波志』には『井上城の西南、百八十歩ほどの所にあり、四方四尺。元常は播磨守、刑部太輔・頼有の子と称し、永正年中に京都に後帰りして川田で亡くなった』とある」
とある。土肥氏のことについては、何はともあれ書かなければならない。『阿波志資料書』には、
「土肥因幡守源綱真は、初め与七と名乗り、父の秀行とともに讃岐国の神崎城に居住していたが、後に天文年間に川田の井上城に移り住んだ。綱真には三人の子がおり、長男を房実(後に紀伊守)、次男を康信(出羽守)、三男を秀実(新右エ門)と名乗り、拝村に分かれて住み、次男の康信は父とともに北島に分かれて住んだ。新右エ門秀実は、天正7年に脇城の戦いで長宗我部軍と戦って戦死した。その後裔は拝村に居住した。房実には二人の子がおり、長男を康吉(後に紀伊守)、次男を庄五郎と言った。関白・豊臣秀次公に仕え、後に姓を鹿児島と改めた。川田村の里正(庄屋)である住友某は、房実の末裔である」
とある。同村の住友豊蔵、住友三十郎、住友幸平らは綱真の末裔だろうが、記録がないためにはっきりさせることはできない。寛政年間の『川田村誌』にはまた、「東川田村の小高取(少しの知行を取る武士身分)である彦兵衛(寛政の頃で十五代)および西川田村の組頭・庄屋である住友五郎右エ門(同じく十二代)、この両名は古い家柄であり、系図の件については昨年御前(藩)へ差し上げているが、まだお下げ渡しを仰せ付けられておらず、他に控えもないので、今回は差し上げるのを控えさせていただく。お下げ渡しが仰せ付けられ次第、書き写して差し上げる」とある。そのほか、住友五郎右エ門家の長年の記録のうち、以下に書き写す。
一、天正18年10月5日、蓬花様(蜂須賀家政公)が大西(三好郡池田)へお越しの際、五郎右エ門の宅にてお昼休みをなされた。また、同年19年9月24日、高越山へご参詣の際にもお宿を仰せ付けられた。その後、文禄3年4月4日にも高越山へご参詣の際にお宿を仰せ付けられた。
一、慶安3年、忠英様(蜂須賀忠英公)が国を巡回された際、10月大晦日に五郎右エ門の宅でお泊りになり、翌閏10月1日に高越山へご参詣され、明けて2日も五郎右エ門宅にご滞在なされ、お囃子(音楽)を仰せ付けられて翌3日にご出発された。
一、承応元年2月13日、光隆様(蜂須賀光隆公)が川田村の山間部へ鹿狩りにお出ましになった際、五郎右エ門宅にお宿を仰せ付けられた。
一、現代の太守様(藩主)のお宿も、二度五郎右エ門宅に仰せ付けられた。
一、慶長13年8月15日から9月15日まで、讃岐の生駒壱岐守様が住友五郎右エ門宅にご滞在され、京都の大仏殿の御用木を七本、川田村で伐採なされた。
一、寛永10年(丙の年)4月、街道を三十六町(一里)にまっすぐ直す際、川田村に道がある田んぼを引いた(買い上げた)証文がある。この時の奉行は箕村市太夫・山川次右エ門様であった。
一、瀬詰村の「青木」と申す場所は、元々天文の頃まで川田村六十六名の中の「喜来名」と申す場所であったが、瀬詰の領主である市原岩見守殿がこの喜来名に居城をお築きになったため、川田村の領主である土肥因幡守殿と土地の交換をなされ、瀬詰村の内の「大塚二町地」と申す場所を因幡守殿へお渡しになって川田村のものとなったと伝わっている。
一、昔は、川田村から木屋平村までの十ヶ村の御年貢米を取り立てる役目を現在の住友五郎右エ門の先祖が仰せ付けられ、五郎右エ門の屋敷に御蔵を三ヶ所お建てになった。その後、諸々の給人様(家臣)へお渡しになった。川田村の分は長谷川孫右エ門、樋口道喜、林道感様方の知行地となったため、三ヶ所の御蔵のうち一つを五郎右エ門が拝領して現在まで持ち伝え、二つは取り壊しを仰せ付けられた。
とあるが、明王院を香光院にした土肥氏のことには少しも触れられていない。『阿波国郡村誌』の以下の記録を出す。
「土肥紀伊守康吉の墓、土肥右衛門尉昌秀の墓。 本村の南の方、字・井上の古城跡の中央にある。塚の長さは二間、幅は一間二尺、高さは一尺五寸である。中央に石碑があり、高さ五尺、幅二尺。左に並んで石碑があり、高さ四尺、幅一尺八寸。中央の石碑には『清昌院殿護岳啓宥大居士 天正3年(乙亥年)3月24日 土肥紀伊守藤原朝臣康吉』とある。また左の石碑には『慶与院晴雲観空居士 慶長12年(丁未年)8月14日前日 土肥右衛門尉藤原昌秀』とあり、裏には『寛正2年(度戌年)8月14日にこれを建てる』とある。土肥紀伊守は本村の北島の砦に住み、土肥右衛門は億代の砦に住んだと言われている。『阿波志』には『藤原昌秀は伊予の人で土井因幡守と名乗り、父の昌吉は平八郎と名乗って仏殿城に拠った。昌秀はその弟と二人の子を養い、川田村に来て住み、細川氏に仕えた。その後、康吉は紀伊守と名乗り、一説には兵部大輔と言った』とある」
次に、とにかく住友豊蔵氏が所蔵している系図を出すが、第二編に収めた住友彦兵衛の財産没収(闕所)事件があったため、この系図は後世に作られたものである。
「当家は新羅源氏(しんらげんじ)の嫡流であり、土井紀伊守である。元祖である小笠原長政が、東国の下野国・足利領の土井郡住友村に城を構え、嫡男の政直が姓を土井と改め、名前を内蔵頭と名乗って足利氏に従い京都に移った。細川頼春が四国の管領だった時、その旗下に属して讃岐の寒川側に城を構え、代々戦功があって領地を加増された。元祖・長政から八代目の孫である土井五郎左エ門尉正真に至る。天文年間に細川氏の命令によって川田村へ城を移し、川田村の三百五十貫、大州古茂田庄の全域、讃岐三木郡の全域を領有した。その子の与三次郎正守、家臣の入交長右エ門、宮田小七郎ほか四名が、一宮の合戦の際に戦死し、正守には男子がいなかったため、いとこの与右エ門正勝を養子とし、姓を住友と改めて京都で勤めた。天正の頃、長宗我部軍のために居城が陥落し、正勝は戦死した。嫡男の住友正家は幼かったため、縁戚である同郡の三ツ木村の三木某に預けられて養育され、成長した後に旧領地に再び住み、嫡男の十郎が後に彦兵衛と改名し、天正13年に蜂須賀氏に従った、云々」
また、仁宇(那賀郡)や大栗(名西郡)の者たちが、新しく入ってきた藩主である蜂須賀氏に反抗した時の文書に、次のようにある。
(住友豊蔵氏蔵)
恐れながら願い奉る覚書(草案)
一、天正13年に蓬花様(家政公)がお国入りなされ、同年10月に国中のあちこちを統治されるため、代官の兼松孫左エ門様を派遣されたところ、那賀郡の仁宇山、名西郡の大粟山の両所で一揆が起き、大粟山の内の金泉で切腹なさいました。その際、麻植郡木屋平山の松家上野助、川井山の左馬之亟、大粟山の者たちが申し合わせて一揆を企て、久代市兵衛様・黒部兵蔵様の両名へも「応援してほしい」と呼びかけました。しかし、上野助の弟である松家伊賀、三ツ木村の兵衛之丞はこれに同調せず、飛脚を使って報告いたしました。そこで、右の両名様から「加勢をお願いしたい」とのお言葉を下されましたので、私の先祖である住友彦兵衛と、弟の住友五郎右エ門、阿波郡伊沢村の伊沢志摩が申し合わせ、早速駆けつけて一揆の者たちを追い払い、右の両名様を無事に当村へ引き取らせていただきました。これにより、彦兵衛・五郎右エ門・志摩の三人はともにお城へ呼び寄せられ、ご褒美のお言葉を賜り、次に先祖の次第をお尋ねになられました。ありがたいお言葉で、右の三人を一緒に「御目見」の身分に仰せ付けられ、私に至るまで八代の間、現在に至るまで御目見を仰せ付けられており、神仏のご加護(冥加)の極みであり、ありがたい巡り合わせであると存じております。
一、組頭や庄屋の者たちが皆、御目見を仰せ付けられたのは延宝6年に初めて仰せ付けられ、今年まで八十数年になります。これは私の家柄についての儀でございます。右に申し上げた通り、天正13年の右の功績によって御目見を仰せ付けられ、天正18年3月には彦兵衛が政所(村役人)に仰せ付けられ、以来百七十余年、九ヶ村の組頭役を勤めております。先祖代々、他郡との訴訟や揉め事、その他のご用事なども、これまで絶え間なく勤めております。また、私の組の村は遠い山奥であり、ことのほか広く、村の性質も悪く、理屈が通じない強情な者たちばかりでございます。その上、夫役(労役)を勤める百姓たちは麻植郡の他の五つの組と一緒に申し合わせる人数であるため、諸々の用事がなかなか収まりません。ご慈悲をもって、先祖代々の功績をお立てくださり、私は東川田村にて御蔵入りの控高を六石六斗一升一合所持しておりますが、その石高の多い少ないにかかわらずお下げ渡しいただき、「郷高取」に仰せ付けくだされば、その御威光をもって村もいよいよ治まることと、ありがたく存じます。そうしていただけるのであれば、さらにまた冥加として銀二十貫目を差し上げたく存じます。恐れながら、ご慈悲をもってお聞き届けくださりますれば、重々ありがたく存じます。以上。
仁宇や大栗の百姓たちが道に外れた行動をした際に、そちらの者たちが少しも異論なく駆けつけて奔走してくれたこと、黒部や久代から聞いた通りであり、大変満足している。いよいよそちらの相談と世話が肝心である。何事も両名に申し伝えること。恐々謹言。
天正13年9月2日 住友彦五郎殿 住友五郎右衛門殿 伊沢志摩殿
とある。三百五十貫という知行高(給与)がある。一貫は阿波では五石だから、一千七百五十石になる。そして、川田のこの土肥と土井とは、川田に入った事情が少し似ており、同じく紀伊守である。また井上城を「大土肥」、億代の城が「土井の内」である。また、土肥新右衛門秀実が戦死し、その次男である庄五郎が関白・豊臣秀次に仕えたと言う。東川田村の小高取である住友彦兵衛(文化5年の戸籍)の「小高取」は献金によるものだが、その祖父である組頭庄屋の住友善之丞(元文3年の戸籍)には何も書かれていない。たいていこのような家は、さまざまな形でその由緒を記すのが普通である。西川田村の住友五郎右衛門方は、寛文13年の戸籍には「庄屋五郎右衛門」とあって、まだ名字がない。文化5年の戸籍になって初めて「小高取 住友三十郎……この者の先祖である五郎右衛門は、明暦3年の戸籍に肩書が庄屋と付いている」とある。東川田の庄屋である善之丞(住友の先祖)の石高は八十二石六斗三升五合、西川田の庄屋である治五右衛門(住友の先祖)の石高は百十八石五斗四合五夕であり、どちらも古い金持ち(金穴)である。「衣食足りて礼節を知る」状態だったのではないだろうか。もしそうなら、城主という時代の土肥・土井の両氏は、下剋上の結果として現れたものだと見たいと思う。
元亀3年(壬申年)正月とある『故城記』の麻植郡の分に
一、河田殿 兵部太夫
元亀4年(壬酉年)2月18日記入とある『太田文』麻植郡の分に
河田殿 『古城諸将記』に
一、川田城 土肥 源 矢筈(別本では三ツ)
『城跡記』に
川田城 主将 戸井兵部大輔 同じく新左衛門。脇城外において討ち死にする。時代は天正年間。
東宮城 源氏、十五貫、家紋は矢筈三ツ、源氏で家紋は矢筈車。
中村山 時代は不明。
瀬詰城 主将は市原で不明。枝別氏、元亀年間。家紋は塁扇子丸。とある。
すでに述べた住友家の家譜の中には「三百五十貫」とあるのに、『古城諸将記』には「十五貫」とある。あまりにも差が大きすぎる。別本の『阿州諸将古城記』には「川田城の土肥兵部大輔は百五十貫なり」、また他の別本には「十五貫」とある。川島城の川島兵衛之進は二百貫である。これより少し前の、桑村上桜の城主である篠原紫雲でさえ三百貫、あるいは三千貫というくらいだから、土肥氏が百五十貫というのが妥当かと考える。そうであれば、石高に直せば七百五十石である。『阿波国旧士姓氏録』には土肥を「戸井」と書いている。『城跡記』の川田城の頭に○印があるのは主城であることを意味する。同書には国内に百二十八の城があり、そのうち二十八城が主城で、百城は出城だとある。この本は寛文4年以降に書かれたものである。
脇城外の合戦についてだが、土佐の長宗我部元親は天下取りの大志があったが、まず四国を掌握することがその第一段階であった。天正5年、三好長治は亡くなり、国中の内乱に乗じて大西(三好郡池田)城にやって来て、同6年には元親の勢力が大きくなった。この夏、美馬郡の重清の合戦によって重清城と岩倉城の両城を占領した。次に讃岐の財田城などを従わせた。『南海治乱記』に「三好家忠臣戦死記」と題して、
「天正7年、讃岐の香川信景も元親と和睦し、その夏には同国の羽床伊豆守も元親に降伏した。三好存保(まさやす)の頼みが少なくなったため、阿波の岩倉城の城主である三好式部少輔は、なんとか一つ手柄を立てて元親に称賛されようと考え、同年(『土佐物語』では9年となっている)12月26日、森飛騨守・矢野駿河守・三好越後守の方へ使者を遣わして次のように言った。『この岩倉は三好家の代々の家臣であり、同姓であり、先祖からの土地でもあり、存保公に反逆するような理由は全くないのだが、近年の土佐方(長宗我部)の勢いによりやむを得ず降伏してしまった。明日の27日、土佐側の番兵が引き上げるという話なので、ここまで兵隊を差し向けていただければ、私は土佐側を裏切ろう』と伝えた。各自これを聞いて同意し、『誰もがそう思うはずだ』と、森飛騨守・三好駿河守・河村左馬助らは急いで兵士を整え、27日の早朝に岩倉の城に向かった。城の中ではあらかじめ計略を立てていたため、城から出ずに敵を引き付けた。この城は北が駿高の山で、南は大きな川が流れる険しい場所である。川と城の間に敵を誘い込んで合戦を始めようと待ち構えていたところへ、案の定、城の城下町へ攻め込んできた。昨日は戦いがなかったのを不審に思っていたところに、その兵の半分ほどが川上の方へ攻め上った時、城から兵を下ろして鉄砲で撃ち立てた。味方は後ろから崩れ立ち、川上へ上った兵は皆、川へ追い落とされた。大軍は乱れ立ち、踏みとどまる方法もなく、岩倉の城から半里(約2キロ)ほど川下を渡って退却しようとするところに、脇の城は武田上野介が守る場所であった。土佐からの援軍である大西上野介の兵もこの城におったが、早淵や柳原に出て兵を伏せ、三好家の武将の顔を見知っている者を配置して、『あれが誰だ』と指差させ、矢野駿河守とその子の太郎・次郎、森飛騨守の三人を鉄砲で撃ち落とした。伏兵が立ち上がって斬りかかり、多くの兵を討ち取った。右の三人のほかに、部将では三好越後守や河村左馬助も討たれてしまったため、覚悟を決めた忠臣たちに逃げとどまる様子もなく、戸井新右衛門・鴨島六之進をはじめ、義士数百人が戦死した、云々」
『阿波古城記』には
「市原氏 瀬詰の市原造酒守(みきのかみ)(『栗拾穂』には『守』を『正』としている)。造酒守は強い弓を引く精鋭であり、遠矢を射るのが得意であった。矢塚(古墳だろうか)がこの地にある。造酒寺の川田山にて自害した。その場所に墓がある」
『阿波志』には
「喜来の砦は瀬詰村の青木の砦にある。青木は昔の呼び名を『喜来名』と言い、川田村に属していた。市原石見守易之が、大塚の二町に砦を築いて立てこもった。溝のほとりに塚があり、言い伝えによれば、彼の矢を奉納した場所だと言う。南に池があり菰池(こもいけ)と呼ぶ。また甕城(かめじょう:防御用の半円形の砦)がある。昔の川田の東から砦まで八十尋(約144メートル)離れている」 とある。
市原氏も、富岡城の城主である新開道喜の家の分かれで、元は土肥氏であったが、この地に来たので「市原」と名乗った。土肥氏はこの地方でかえって発展したため、後世の人がこの姓氏にちなんで名乗るのはもっともなことである。造酒守が自害したのは、主将が戦死したからである。市原氏の血筋が絶えた後、山崎村にいる市原氏は血統的な関係はない。
『阿波国郡村誌』の以下の記録を出す。
「市原讃岐守象胤の墓 本村の南の方、川田村の境である字・加久の内の長地にある。市塚と言い、四方四尺で上に小さな祠があるが、石碑はない。言い伝えによれば、法名は涼照院殿雪窓幽元大禅定門、永正6年(己年)12月3日に亡くなった。
市原市兵衛尉光厳の墓 本村の南東の方、川東の内の南山の麓にある。四方一尺五寸、高さ一尺七寸の塚で石碑はない。位牌がある。記録によれば高明院殿秋誉帰観大居士、弘治3年(己年)8月14日に亡くなった。言い伝えでは、市原造酒正象胤の次男で市正とも言い、享年七十五歳である。
市原兵衛尉光厳の妻の墓 本村の南東の方、川東の内の字・南山の麓にある。四方一尺五寸、高さ一尺七寸の塚で石碑はない。位牌がある。記録によれば高離院善賢実願大禅定尼、弘治2年(辰年)8月30日に没。市原市正の妻であり、戸井兵部少輔の次女で、享年五十二。
市原造酒正象胤の塚 本村の南の方、字・奥川田にある。石碑はない。小石を積んでいる。『阿波志』には『三吉塚と呼ぶ』とある」
蜂須賀氏が阿波へ入ってきた。神仏篇で紹介した西川田村の福生寺の「辺路屋(へろや)」は定め書きにも見える「駅路寺(えきろじ)」であり、これは公設の旅籠屋(宿屋)のことである。なぜこのようなものを設置したのかと言うと、安土桃山時代から現れた平山城は、もちろん武器や戦術の進歩によるものだが、中央集権的で小さな国のような体制を作るためであった。これは文明・応仁の大乱から学んだ「富国強兵策」から出たものである。阿波のように山が七割、平地が三割の土地では、小規模な産業振興ではダメで、大規模に計画しなければならない。そのためには交通の利便性を良くする必要がある。仁宇や大栗などの反乱があった時に、藩の政策としてこのような手段をとったのは大胆なことである。この政策の趣旨の中で最も巨大なものは「阿波藍」である。そして、それに次いでこの土地で川田の紙や高越の豆腐などに保護や奨励を加えたのはそのためである。福生寺の辺路屋は交通の「ステーション」であった。「岩津の津」は渡し場(津済)であり、時には税(運上)も徴収したことであろう。「船戸」は船着場ではなく、フナトは「久那斗(くなと)」であり、村の境を守る神である道祖神のことである。これがやがて通行の安全を守る神となる。岩津と呼応してこの場所に塞の神(村を守る神)の信仰があるということは、かえって面白いことではないだろうか。塞神の「塞」は、斎、才、幸とも書く。田の裏の御墓の場所に「幸神の丸(さいのかみのまる)」というのがある。また、東川田の「花折」は、よそでは「柴折さん」とも呼ぶこの柴神信仰から来たもので、山麓の山口などにある。これに柴や花を手向け、「行く先の道で怪我がないように」と通行の安全を祈る。そうなれば、船戸やオフナッァン、花折などをたどっていけば、昔の交通路が分かる。地理的な関係でも、川田駅周辺の舟戸の地帯は世間によく知られているが、川東の舟戸はわずかに小さな字の地名に残るのみである。「袖モギ田」ということが『川田名跡志』に見えた。
「金突田(きんたつだ) 神投田とも言う。またキンタ田とも言う。加久田にある。
古老の言い伝えによると、巨人が川田山の片山という所から川田の旗見という所へ一足でまたごうとして、転んで尻をついた。その後、金突田と言うようになったそうである。通行人がこの場所で転ぶと縁起が悪いとされる。その時は、着ている着物の片袖をもぎ取って捨てなければならないと言い伝えている。怪しげな伝説だが、記しておく」 とある。
これは「袖モギ信仰」から起きたことで、この考え方は非常に古い信仰である。『万葉集』に「着ている着物の袖を解いておやりなさい」とあり、『古今和歌集』に「手向(神仏への供え物)には、濡れた袖も切るべきだ」などとある。沖縄の言葉で「恥」とは内地で言う恥ずかしい場所(局所)のことなので、「恥撃坂(ハゲオンヒビラと読む)」という地名は、女性が死ねばその局所を覆ってやるという意味である。大昔の人々は、このように行き倒れになった人の死に対して非常に強い恐怖心を抱いていた。これは一人で行き倒れた時だけでなく、すべての不自然な死(変死)に対してもそうであったが、特に道端で亡くなった人(行路死者)に関してはその度合いが一層深かったのである。したがって、そうした行路死者が出た場所を通行する際には、通行人は必ず柴の葉を取って手向けるか、または木の枝を折って供えたものであった。しかしそれは後世になって形式が変化したもので、古くは恥撃坂のように衣服をかけたのが元の姿である。要するに、行き倒れの病人がいて、その人が死にそうな状態にあっても、息があるうちは世話などしそうにないと言わせず、どちらかと言えば「早く死んでしまえ」と扱っておきながら——もちろんこれには様々な事情が存在しているが——一度息絶えると、その死霊を恐れ、死霊が祟って荒ぶるのを防ぐために、これを慰めて祀る風習があった。これによって通行の安全を守らせたのである。この場所でつまずいて倒れるということは、すなわちその守護神の怒りに触れたか、あるいは不吉なことがやがてやって来ることを予知されたものと考え、これを逃れるための呪術(禁厭)として、その守護神となった死者に対して行った行為、すなわち片袖を解いて手向けるのだろう。片袖は衣服全体を代表したものである。『川田名跡志』の文章によれば、袖モギ信仰のあった場所で巨人が尻餅をついた時、金丸(きんたま)が地面についたとのことである。そのため「金突田」というのは後から付けられた名前である。県下で有名なのは、名東郡一宮の袖モギである。これも古代の交通路を示してはいないだろうか。
延喜式内社である「天村雲伊自夜比売(あめのむらくもいじやひめ)神社」は、射立郷の名前が残っていることから、そこに小さな社があれば必ずこれだろうと言われている。また、川田の枝村に「村雲」という場所がある。その地に社を建て、鳥居の額にも「天村雲神云々」と書いてあった。「しかし、川田にある神宮は、どれも新しいことを古めかしく見せかけようと構えているため信用しがたく、やむを得ず湯立の社とひとまず定めておくべきだ」と『阿波国式社考』には書かれている。『阿波志』には「忌部山の麓の地名・叢雲(むらくも)にある」とある。様々な説がこのようになっているので、正確な資料が出るのを待つことにするが、大きく見れば差し支えないことである。本町は元々、射立郷の中にあったからである。式内社とは『延喜式神名帖』に記された大小の由緒ある神社のことを言うのである。
(棟札の記述)
「上棟 天村雲命 伊自波夜姫命 建久9年(己年)9月7日。 三尺六寸七分、厚さ五分弱の杉材である。 発願の大檀那は小笠原弥太郎長経、御代官は元春。 趣旨は、天皇陛下の御寿命が長く続き、国家が安泰であること。天皇陛下の御身が安泰であること。新しく建立し奉る妙見大明神の宮殿一宇。社内が安全であり、祭礼がいや増しに進むこと、特に御檀越(寄進者)などが守られ、武運が長久であること。右大将軍・頼朝公のご一門が繁栄し、子孫が豊かに楽しむこと。 斎部の孫・早雲高房太夫。 大工・橋元方」
「天村雲命。右の趣旨は、天皇陛下の御寿命が長く続き、国家が安泰であることを願う。 伊自波屋売命。 三尺四寸一分、厚さ三分五厘の杉材である。 五穀豊穣、人々が快く楽しみ、富貴自在であること。御檀那は土肥八左エ門尉源安口。 時に永仁元年(戊午年)6月26日。 本願は住友藤次。 子孫が連続し、心の中の願いが思い通りに満足することのみ。 大工・市右エ門、橋義元」
八幡神社については、神仏篇にその大まかな内容を示した。八幡信仰というものは古いだが、この祭神を「応神天皇を祀る」としたのは間違いである。栗田博士は『神秘拾遺神書抄』の中で、「正八幡神はすなわち彦火火出見尊(ひこほほでみのみこと)であり、比売神はその妃である豊玉姫とするのが正しい説だろう」と言った。八幡神を応神天皇としたのは、『宇佐託宣集』にその説が初めて出たためである。宇佐神宮の社家である大神比義(おおがみのひぎ)が神がかりを装った言葉に由来するものである。しかし朝廷はこれを信じなかった。弘仁14年に神功皇后を一緒に祀ったことにより、少しは比義の言葉を取り入れても、応神天皇だと明確にはしなかった。貞観年間に石清水八幡宮に八幡神を移してからも、まだ公然とは応神天皇だとは言わなかったが、これ以降、八幡神は応神天皇とされ、世間の人々の信仰が高まり、土地を奉納する者が現れ、清和源氏の武将たちが弓矢の神として厚く尊崇するようになり、全国的なものとなった。この地の八幡宮は棟札と考え合わせれば、大体本当の建立時代の見当がつく。建久の棟札は、棟札として多少研究の余地がある。
(八幡神社の棟札記録)
「上棟 天皇陛下の御身が安泰であること。 建久8年(丁巳年)11月5日。 三尺七寸の杉材である。 右大将軍・頼朝公のご一門が繁栄し、子孫が豊かに楽しむこと。 特に大檀那は小笠原弥太郎長経、御代官。 忌部大将 神主 早雲高房太夫。 大工の国は見えず」
「上棟の趣旨は、天皇陛下の御身が安泰であり、特に大施主である左京権大輔・義盛の家門が繁昌し、子孫が豊かに楽しむこと。 嘉元3年(乙巳年)正月25日。 地頭・御代官の沙弥空観。 早雲高房太夫、高次。 大工・沙弥空観」
「上棟、右の趣旨は、天皇陛下の御身が安泰であり、特に信心深い大施主・頼有の家門が繁栄し、子孫が豊かに楽しむことを奉為(おんため)とする。 趣旨はくだんの如し。 嘉慶2年(戊辰年)2月10日。 従五位下・行源頼有。 大工・兵衛尉包光。 (『徴古雑抄』にはない)」
「上棟、右の趣旨は、永享11年(己未年)4月19日、天皇陛下の御身が安泰であり、御寿命が長く続き、願いが円満に叶うことを奉為とする。 特に信心深い大施主・殿下のご一家が安全であり、子孫が繁昌すること。 大工・橋包光。 源朝臣教春。 藤原長房。 同じく有秀。 四尺五寸、厚さ四分の杉材である」
「上棟、八幡宮の宮殿一宇を再興し奉る。 右の趣旨は、天皇陛下の御身が安全であり、御寿命が長く続き、願いが円満に叶うこと、特に 天文2年2月12日、武運が長久であり、子孫が連続し、同じく荘園が安穏であり、人々がともに楽しみ、五穀が成就し、思い通りに満足することのみである。 信心の御檀越(寄進者)など。 長者・御檀那 源朝臣播磨守元常。 同じく御代官丹治右京亮常直。 代わりとして土肥与七綱真。 大工・橋兵衛尉包光。 小工・太郎左エ門。 四尺四寸一分、厚さ三分の杉材である」
「上棟、八幡宮の宮殿一宇を再興し奉る。 右の趣旨は、天皇陛下の御身が安全であり、御寿命が長く続き、願いが円満に叶うこと、特に信心深い御檀越など 元亀元年11月16日、御檀那・土肥新左エ門秀真の武運が長久であり、子孫が連続し、同じく荘園内が安穏であり、人々がともに楽しみ、五穀が成就し、思い通りに満足することのみである。 本願は早雲千市高亮。 大工・藤原友次。 小工・井藤宇近。 四尺五寸の杉材である」
「上棟、八幡宮の一宇を再興し奉る。 右の趣旨は、天皇陛下の御身が安全であり、御寿命が長く続き、願いが円満に叶うこと、特に御檀越など 元和3年9月20日、御檀那・住友友右エ門正大の武運が長久であり、子孫が連続し、荘園内が安穏であり、人々がともに楽しみ、五穀が成就し、思い通りに満足することのみである。 大工・家友。 小工・喜七郎。 四尺五寸二分、厚さ二分強の檜材である」
「上棟、八幡宮の一宇を再興し奉る。 右の趣旨は、天皇陛下の御身が安全であり、御寿命が長く続き、願いが円満に叶うこと、特に信心深い諸々の檀越など 慶安元年4月11日。 本願は早雲左近のみである。 大工・家次。 小工・九兵衛。 四尺五寸、厚さ五分五厘の杉材である」
「天和以降は省略。 遷宮の導師は摩尼珠山高越寺の法印・宥保上人。 本願は住友善之丞正春、住友五郎正常。 神主は早雲兵部之丞高次。 宮大工は藤原横田宅左エ門、小工は加兵衛」
高越の蔵王権現は、大和国(奈良県)の金峰山寺の流れであり、蔵王権現堂とも、単に蔵王堂とも言う。元は金輪王寺という天台・真言の両派があった本寺で、大峯山の山上・山下にある伽藍や僧坊の総称である。役小角(えんのおづぬ)が開いたとされるその分身であると伝えられた。寺の記録はそのまま出しておく。宇多天皇の時代、信聖宝が名山や霊地を歩き回ることを好み、役小角の足跡をたどって大峯を開拓し、この「修験(しゅげん)」というものを再興した。これには当山派(真言修験、いわゆる三宝院派)と本山派(天台修験、いわゆる聖護院派)があった。そしてその髪の形は、本山派は役小角の姿に倣って髪を伸ばしたまま(有髪)である。これには色々な呼び名がある。修験とは、山岳に寝泊まりして修行することを目的とし、本尊は不動明王である。この道に入って修行する者を「修験者」または「山伏」と言う。その後、修験と言えば山伏のことを指すようになった。高越山はその名前の起源が物語るように、古代から信仰の標的であった上に、修験道の道場としてさらに神秘と荘厳さを付け加えた。特に吉野時代(南北朝時代)の動乱は交通に支障をきたし、修験者は代わりとなる道場(経巻の記録を参照)を求めるようになり、「西の山上」という呼び名はそこに一種の色合いを生み出した。名西郡阿野村の「行者野」という地名が修験者の苦行の最初の場所であり、第二の場所は本郡東山村の石槌山の辺りのようである。三山村の「三十竈床」は天皇に関係するものではなくて、行者に関係するもののようである。
高越山の裏の行場(修行場)はいつ頃にできたのだろうか。縁起が示す内容はひとまず置くとして、建久年間には高越寺があったことは明らかだが、荘園まで成立したと言うのだから、藤原時代には明らかにこの寺院の存在を認めて差し支えないと思う。経巻にある保安3年という年号は、経巻との関係では高越寺と直接結びつけるのは少し遠慮しなければならないかと思う。役小角がこの山に登ったという証拠はないが、山岳崇拝の思想が修験道と結びついた結果が、高越信仰の出発点ではないかと考える。いずれにしても高越信仰は古い。しかも時代が下るに従ってますます発達した。神仏篇に記した山伏のように、時代が後になった近世においてもたくさんの山伏がいたことで分かる。その中でも「良蔵院」は一番目立つ。同院の文書に、
「行き手、譲り渡す諸檀那の名の事。 右の檀那は、弟子の「大輔房」に譲り渡す候。
一、有用殿のご一族。一、近久の一族、同じく御前のご一族。一、いのひの四郎入道殿の一族。一、安行ひし入道殿の一族、同じく御前のご一族。一、河端殿のご一族。一、原の左エ門入道殿の一族。一、小嶋殿のご一族、同じく御前の一族。一、牛嶋の騎来のゑん点・ちゑんしゅう兄弟の一族、同じく妻女の一族ともに。一、牛嶋の中村のけうれんの一族、同じく妻女の一族ともに。
右の檀那は、弟子の「大輔房」に譲り渡し候。誰の弟子であっても、不要な口出し(いらんわずらい)を申すまじく候。 貞治3年3月吉日 善智(花押)」
「行き手、譲り渡す諸々の事。 右の檀那は、弟子「大輔房」に行き手、譲り渡し候の。
一、あてもちのご一族、同じく妻女の一族ともに。一、ちかひさとの一族。一、かつは私との一族、同じく妻女の一族ともに。一、七郎左エ門殿のご一族。一、氷まいの一族ともに。一、牛嶋道見の一族。一、牛嶋さらのゑんえんしゅうの一族、妻女の一族ともに。一、中村玄うし入道・けれんの一族ともに。一、妻女の一族ともに。一、片はら・とう三郎入道の一族ともに、同じく妻女の一族。
右の檀那は弟子の大輔房に譲り渡し候。誰の弟子であっても口出し(さい)をするまじく候。 応安元年3月13日 善智(花押)」
二件とも、檀那(スポンサー)の株を譲り渡す証文である。宗教的なものは檀那がいてこそ成り立つものである。檀那とは仏教の言葉で施主(寄進者)のことである。彼らにして、施主からの喜捨(寄付)がなかったならば、その維持に困窮しなければならない。喜捨の多い少ないは、必ずその寺院の盛衰に影響する。今、検地帳の字の地名を見れば、慶長7年の東川田村の新開検地帳に「好円寺」とある。伝説で攻められたのはその寺で、この辺りには長宗我部軍による兵火はなかった。これは檀那の信仰が衰退したことを示している。神仏篇に収めた文化5年の東川田村棟附帳の良蔵院を見ると、その先祖は泉勝院であり、元文3年の棟附には「来人山伏」とある。そして文化年間のものには「この者の祖父・良蔵院は、元々当郡の中村山伏である云々」とある。元文3年の棟附には、泉勝院の所の張り紙に「この者の先祖・良蔵院が跡継ぎをお願いしたい旨云々」、また「この者は麻植郡中村山の良蔵院と申す山伏」とあって、川田村の良蔵院ではない。寛政2年の寺跡遺跡の事についての書物は、焼失したことなどから少し研究の余地がある。また、川田村の地蔵寺は瀬詰(元和10年の検地帳には瀬津村とある)にあったが、わずかに地名にその名を留めているだけである。川東名に石堂跡に昔、大寺があったと言う。
すなわち大坊である。寛政年間の『川田村誌』には
「一つの大坊は総持院。 山号は宝珠山、寺号は宿因寺、真言宗であり、昔は細川家ならびに土肥家の御祈願寺であった。両家から寺の領地をご寄附いただき、建立や修復などがなされて寺が相続してまいったが、右の両家が断絶した後は次第に衰微し、寛永11年の頃までは高野山の随心院から兼帯(兼任)となっていた。しかし、追って大破するに至り退転(廃絶)した。兼帯であったため再興もなかなか整わず年月を経ていたところ、公儀(幕府)より『全国一斉に退転した寺の再興はまかりならぬ』というお達しがあったとのことで、そのままになり、現在は表面は寺跡の畑となっており、その場所を今でも『大坊』と申している」
『川田名跡志』にある現存の文書では、観応の飯尾文書に勝浦郡中津峯合戦の記述の次に「総持院を焼き払い、囚徒を在所に置く」とある。文書の文面から、『勝浦郡志』では現在の多家良村八多の地名である「金堂」を総持院になぞらえた。この総持院は、あるいは飯尾文書のそれではないかと疑うまでには至らないが、注意しておく。
市久保 地名である。村の北、吉野川のほとりである。昔は月に六度の市が立ったと言う。恵美神社もある。
川田市 地名である。市久保の少し西にあり、的場や横矢などの地名もこの辺りにある。
古老の言い伝えによると、昔、忌部高越の祭礼の際、国中および隣国の産物がこの場所に集まって売買された大市場だったと言う。その後、現在の高越市場に移したと言う。今の市場からは二十丁(約2キロ)余りも離れている。西町の恵美寿神社は、市久保から移したと伝えられている。
市とは、日を決めて売る人と買う人が集まり、物品を売買する場所のことである。四日市、八日市、十日市、辰の市などの呼び名は、その定まった日によって名付けられたもので、川田市の起源は「恵美寿市」である。その後、社会が発達して常設の市ができてからこれを「町」と呼んだ。市は昔も今もたいてい神社の祭りの日に行われるため、祭りを略して「マチ」と呼ぶ。マツリの転じた言葉がマチである。例えば、庚申まち、風まちの如きものだが、その時の役人として「市司」などもできた。次の記事には高越市の監督役人も見える。このような市は「楽市」である。これが特権を持った組織(株立)になれば「座」と言う。川田の紙と関係がある徳島の紙屋町には「紙座」があった。だから寛政年間の『川田村誌』に
「右は西町・東町と申し、長さは四、五丁もございまして、町並みや小路にいたるまで現在も残っており、道幅は一丈(約3メートル)ほどで、昔、井上城があった時代に市中だった跡でございます」
『川田村誌』に「川田村」とあるのは間違いで「市の町」のことである。これによって、昔はこの市がどれほど盛大であったかが偲ばれる。そして、誰が高越の市に変えたのかと言えば、恵美寿神社の信仰が衰え、それが市に影響し、高越の勢力によって占領されたからである。このように考えれば、大きな社寺の門前には町が作られている。本県でも切幡、羅漢、立江、日和佐などのような場所はこれを「門前町」と呼ぶ。讃岐の金毘羅や善通寺もその通りである。ゆえに高越を大きく見れば、川田の町は高越の門前町となったように思う。寛政年間の『川田村誌』には「また高越市とも申す。ただし高越権現の祭礼は毎年9月19日から10月1日までの数日間で、昔は農具、お膳やお椀、家具、小間物、荒物、牛馬などに至るまで、四国、中国地方、紀州、大阪周辺から商人がやって来て、ことのほか賑わう市が立っていた。そのため、その時期は市を取り締まる役人として鉄砲頭様が二人の部下を引き連れてお越しになり、市の間は脇差を差すことを許可されて警護をしていた。後に仰せ付けられたことである。もっとも昔は前述の通り賑わう市であったが、年々衰え、現在では昔の面影を残す市の名残が少しあるだけで、様々な品物を売買するような状態ではない。中でも右の川田市だけでなく、高越祭礼の際には昔は高越山の西の麓、美馬郡拝原村ならびに拝村の所にも市が立っており、それ相応に賑わっていたと語り伝えられている。右の村に現在も『市場』と申す場所がある」。『川田名跡志』に「踊堂」というのがある。これは「氏堂」と呼ぶべきものである。精霊踊り(盆踊り)のことである。その場所は麦原、川東、北島、山路、奥川田の五ヶ所で、本尊は阿弥陀如来だと言う。板碑とは、鎌倉時代から足利時代にかけて作られた墓碑の一種である。阿波国は関西地方における板碑の本場である。これが最も盛んだったのは吉野(南北朝)時代頃である。本町内にある板碑は次の通りだが、「阿種」は阿弥陀三尊の種子(梵字)が刻まれたもの、「大日種」は大日如来の種子が刻まれたもので、横線二というのは二本線の……
徳川家康は豊臣秀吉の後を受け継ぎ、次第に仏教に圧迫を加え、また仏教を統治の一つの道具であると認めた。その極みが、いわゆる「幕府仏教」の成立であった。仏教に対する方針は、第一に秩序の保全、すなわち本寺と末寺の区別を確定することであり、第二は学問の奨励である。あの「宗門改(しゅうもんあらため)」という制度によって、寺院と檀家の関係が固定された。これが成立したことにより、徳川時代の仏教の組織が完成したのである。つまり、本寺・末寺の関係と、寺院・檀家の関係という二段構えの組織が成立したのである。このような背景を持つ僧侶は、人々の信仰と相まって大きな勢力を得た。特に知識や知能において、神職は僧侶に遠く及ばない状態であった。そのため、仏教徒に勢力を握られ、寺の僧侶が神社の「別当」や「社僧」となって遷宮やその他の神事を我が物顔で仕切り、神社、すなわち「太夫(神主)」を圧迫した。祭礼の時などには自分が本殿の前で読経し、神主たちにはその下で祝詞を唱えさせるような有様であった。山伏、すなわち修験道もこの時代に入り、三宝院と聖護院の二つの院に分けて所属・支配させられたが、寛政から文化の時代になってようやく衰え、明治5年11月に至って太政官布達によってついに廃止された。しかし近年になって再興し、天台修験は大和国の金峯山寺を本山として昔の通り「修験道」と名乗っている。真言修験は三宝院に所属しているが、まだ独立した体制にはなっていない。また、山伏は半分俗人、半分僧侶のような存在であったが、僧侶としては扱われなかった。現在は俗人として扱われている。神主である中川家にある証書のようなものは「補任状(任命書)」であり、これは京都の吉田家から出されたものである。また、山伏の院号は、その本山から出された補任状によって名乗ったものである。
宗教というものは、人々の帰依(信仰して従うこと)によって成り立つものである。帰依すれば喜捨(寄付)をするのが当然の流れである。喜捨が多いということは、信仰が盛んであることを意味する。信仰が衰退すれば当然喜捨も自然に減少し、その果てはついに廃絶する運命となり、わずかに地名などにその名を残すだけになってしまうものである。本町は高越山に対する信仰が盛んであったために、今日忘れられてしまった寺院は左の一寺のようである。慶長7年の東川田村新開検地帳の字名に「好円寺」とあるが、これも山伏系であるかもしれない。
『阿波志』の「祠廟」の項目に
「種穂祠 東川田村の種野山の上にある。ある説によれば天種子命である。旧事記では種岐命と言う。元文年中に、山崎の貞光が村の祠官と争った。忌部祠、八幡祠と。藩の命令で中川式部がここに祀った。
八幡祠 本川田村にある。建久8年、嘉元3年の棟札がある。これを度々造営した者は、嘉慶2年に源頼有、永享11年に源教春、天文2年に源元常、元亀元年に土肥秀実である。代々絶えることがない。日照りが続いたり雨が降らなかったりすれば、笠をかぶり太鼓を鳴らし、楊扇を持って歌い舞う。その曲は全部で八曲あり、物悲しく美しいが、ひどく俗っぽくはない。第八曲は『御宝』と言う。必ず高越の頂上で歌う。その祝(神主)は早雲刑部である。天正13年に召し出され謁見した。孫の左近が高越寺と訴訟を起こし、これをやめた。二人の子があり、長男は高次、高貞。享年3年、城府(徳島城下)へ行き、富田八幡祠を管轄した。次男の高重が復職して職務を視た。二人の子があり、長男の高顕は治郎と称し跡継ぎとなった。次男の某は民部。享保15年に種穂祠を管轄した。寛保3年に中川と改めた。また柏井祠、天一祠、山王祠、蔵王祠、二十一社などがある。
脇星 東川田村の北島の里。永禄元年6月、土肥氏が置いた。十河元清がある。永仁年中の文書に祭祀のことが記されているが、雑多で読みにくい。
東川田村 文治5年に右大将・源頼朝が造営を重ねた。造った者は、建久8年11月に源長経、嘉元3年に沙弥空観、嘉慶2年に右馬頭・源頼朝、永享11年に源教春、天文2年に源元常、元亀元年に土肥秀実。それぞれに棟札がある。毎年1月9日に集まって弓を射る。百手的(百射の的)と言う。その名は7日で、井上曰く、井田曰く、良賢曰く、有吉曰く、時宗曰く、宗安。8月25日に神の祭りがあり、人々が集まって市をなす」
『阿波国郡村誌』に
「八幡神社(郷社) 社地の東西は五十三間、南北は三十三間三尺。面積は千七百五十九坪。本村の西の方、八幡に鎮座する。誉田別命(ほんだわけのみこと)、足仲彦命(たらしなかつひこのみこと)、気長足姫命(おきながたらしひめのみこと)、田心姫命(たごりひめのみこと)、市杵島命(いちきしまひめのみこと)、湍津姫命(たぎつひめのみこと)を祭る。神職による祭祀が始まった年代は詳しく分からない。祭日は8月25日。考えるに、祝祭の年月は詳しく分からないとは言え、建久、嘉元、嘉慶、永享、天文、元亀などの棟札や、永仁元年の置文を記録していることから、古い社であることは知ることができる。『阿波志』には『八幡祠は川田村にある。建久8年、嘉元3年の棟札がある。これを度々造営した者は、嘉慶2年に源有頼、永享11年に源教有、天文2年に源元常、元亀元年に土肥秀実である。代々絶えることがない。日照りが続けば笠をかぶり太鼓を鳴らし、楊扇を持って歌い舞う。その曲は全部で八曲あり、物悲しく美しいが俗っぽくはない。第八曲は御宝と言う。高越の頂上で歌う。その祝は早雲刑部である。天正13年に召し出され云々』とある」
※(附記)には「寛保以降のものを要求された際に提供されたものからの抄録」とある。
※以下、中川式部住郷から続く一族(中川家関係者)
当時の戸籍調査である「棟附(むねつけ)」・宗門改の帳簿に基づく、世帯(一家・小家)ごとの詳細な構成と由緒である。
川田の八幡宮の石段は、天保年間に悪教法師(第三編に出てくる人物)が石段を築造するという大きな願いを起こし、数年間村中を一日おきに回って鉦を打ち、寄付を受けて現在の社殿の南東(巽)の方面から上がるようにしたが、明治5年に氏子からさらに寄付を募り、現在のように正面から上がるようにした。 高越神社(村社)の社地は東西二十四間、南北一町で、面積は千四百六十四坪。本村の南の方、高越山に鎮座し、天日鷲命を祀る。神職による祭祀が始まった年代は詳しく分からない。祭日は9月24日である。 種穂神社(村社)の社地は東西一町十五間、南北一町十間で、面積は五千二百七十七坪。本村の北西の方、字・忌部山に鎮座し、天太玉命、天日鷲命、長白羽命、栲機千々姫神を祀り、天日咋見命を一緒に祀っている。祭祀が始まった年代は詳しく分からない。祭日は9月9日である。 天村雲神社(無格社)は本村の北の方、字・村雲に鎮座し、天村雲命と伊志波夜比女命を祀る。寛保3年の神社帳にも見える。
高越山を中心として、古くから「川田踊り」と称するものがある。原田武一郎翁が収集した資料によれば「神代御宝踊」とある。鹿児島正明の『川田村名跡記』には
「神代御宝踊の番組の次第は、十二番の歌で踊る。中古より八番の歌までで踊り、もし雨が降らない時は御宝踊の第一番を残し、他の七番を踊って雨乞いをするのである。雨が降った後、お礼として八番の歌で踊るのが古いしきたりであるとある(歌は後に出す)。」
これを詳しく説明すれば、日照りの年は昔から多く、村人が集まって相談し、諸々の神に祈願する。まず高越権現の御社へは高越寺の院主が、忌部の社へは中川氏が、八幡宮へは早雲氏が参籠し(お籠りし)、お酒や御供米を村中から献上し、三日、一七日(七日間)のそれぞれの参籠の間、特に神主へはお見舞いとして素麺などを贈る。祈祷の初めから七日目を満願(結願)の日として、川田村の氏子たちが踊りを奉納する。まず中老の音頭取りが菅笠あるいは皮笠に帷子(かたびら)を着て太鼓を持ち、腕抜き、脚絆、鉢巻、綿のたすきなど衣類は様々である。鉦を打つ役人は頭巾に僧衣を着け、「中踊り」と呼ばれる者は扇を三本合わせて丸い笠に作り、白い帷子を着る。七、八歳から十五、六歳の子供は「側踊り」と称して花笠をかぶり、白い帷子を着る。道具類は鉾、毛槍、花籠、または傘鉾という差し物(竹で傘のように骨組みを作り、その上に小袖を二つ向かい合わせにかけるもの)を使う。おおよその人数は千人余りに及ぶ。これに先立って「笠揃え」と称して、八幡の能場へ村中の踊り子や役人が揃い、踊りの大ならし(リハーサル)をする。祈願の夜から各自で踊りを練習する。 次に、中ノ宮権現に勢揃いをする。ここから高越権現の神前、観音堂、大明神、護摩堂(高越山から下ると御麻田という場所があり、ここで昼食としてご飯を天目椀ほどの丸い形に握って渡す)、様々な塚には、雨が降らない時はここに登って踊り、天の神や地の神に奉納して雨乞いをする。その時の言葉に「雨をたもれ、竜王の水を、竜王イノー」と言って扇を開いて天を招く。この時は極めて不思議な兆し(奇瑞)があり、雨が降った後に踊る時は、その場所へは登らない(この言葉は高越寺の本堂でも唱えながら、回って戸を叩くと寺の僧侶は言う)。 忌部の社、杵築の大社、苧山原竜神へも奉納する。また八幡宮、能場、この場所で十一社、二十一社、天村雲の社にも奉納する。
また、寛政5年(丑年)2月の『麻植郡東西川田村神社記』には天村雲神社について
「日照りの年は、東西の川田村で雨乞いをいたします。その時期には当社へ諸役人衆が集まって相談するというのが、昔からのしきたりでございます。これは、水の徳を司る両神様であるためです。もし他の場所で集まって相談をした場合は、不思議なことに雨が降りません。また島、友松、北島の氏子が当社で雨乞いをすれば、雨が降ることは不思議なほどであると語り伝えられております」
とある。そしてこの踊りに取り掛かる以前に、まず八幡、高越、稲穂の三社へ社人や社僧などに依頼して祈願をすれば、彼らは七日間神前にお籠りをする。村中は皆、身を清めて精進潔斎している。すでに満願になれば郡奉行に出願して許可を得た上で決行するが、その出立は老若数百人で、男子は思い思いの装束で、花笠、扇笠、あるいは鉢巻やたすき姿などで神社の広場に集まる。もっとも古くは規定があって、老人は菅笠をかぶって帷子を着て、壮年の者は扇子の笠に晒(さらし)の帷子を着て黒い帯を結び、若年の者は花笠に晒の帷子を着ていた。明和年間から思い思いの装束になったのである。集まった人たちは「入場(オッハ)」と言って行列の順番を立てる。すなわち八幡、高越、稲穂の各神号を入れた幟を三本立て、その他は弓、鉄砲、槍、長刀、花籠、母衣鉾、台傘、立傘の大鳥毛、ほら貝六個、太鼓各数百張を用いて、入端の歌を歌いながら螺旋状に幾重にも輪になる。踊り手は各々扇を持って歌に合わせて踊る。その入端の歌は三拍子と二拍子である。
高越寺の僧の説によれば、同山の山頂の経塚が最後の踊り場のようである。岩津側の経石は御蔵踊りの場所のように言われている。これに付け加えるべきこととして、経塚で表面に積石を葺石にしてある「一字一石(小石一つ一つに経文を一文字ずつ書いたもの)」があることから、たとえ古いと言ってもその年代はある程度分かるが、実物を手にしない限りは築造された時代は断定できない。踊りの歌詞は、原田武一郎翁が収集して『御大典記念御宝踊栞』という小冊子を出版し、原儀平氏(八十四歳)とその弟の理三郎氏の二名の指導により、昨年の御大典で実演した。そして御宝踊りを再興したのは故・工藤貫一氏である。昭和3年8月21日より復興練習場を川東に設け、その集団を「江東温故会」と称したが、同年11月18日に「越麓温故会」と改称した。この小冊子の緒言(まえがき)は伝説として面白いが、ここでは置いておき、歌詞のみを出しておく。
「神代御宝踊の音譜。 皆が一緒に並んで、いかにもゆったりと(応揚に)一踊りずつ。 打切〇〇〇
第一 雪掻道行すり足
・雪降らば 忍ぶ細道 竹たわむ/\ 雪掻こ ゆきかこふ
・紅葉やヒョウ/\(『濃きは我が身の思ひにて薄きは人の情となるらん』) 雪掻こふ又雪掻こふ
・鳴る神がヨー/\ア 雲の絶え間に落されて 内裏の御門に夕立ぞするヒョウ/\ 雪掻こふ又雪掻こふ
第二 虎松雨開返り
・おれが子息の虎松はヨー/\ まだ十五にはならねども こくちを吉事と嗜む/\ 虎松踊は一ト踊
◎具足は何と好せたヨー 上七段は韓紅なひよ 下六段は紫色よ 綾のさすがで十三段でおどしたヨー /\虎松踊りは一ト踊り イヤ一ト踊り
◎兜は何と好せたヨー かぶとは同じ毛色にて 四方のしのだれ吹返し 大将鍬形うたせたヨー 虎松踊は一ト踊り しころ打切
第三 花見ねじ
・東寺とヨー 塔下の花が今が盛り いざ立ち寄って花ながめうヨー 花ながめう/\花み踊を踊りやよう
◎北ゆめさめて又ゆめに/\ こなたの御庭に倉建て 乙子にゆづるとゆめに見たく/\
(以上は明治3年の大旱魃による雨乞いの時、工藤謙太郎の手記)」
この神宝踊りというものは、盆踊りにその源を発したものであることは明らかで、当町には昔「踊堂(本尊は阿弥陀如来)」と称するものが麦原、川東(今の中野別邸前)、島、山路、奥川田の五ヶ所などにあり、お盆の13日の夜に「踊揃え」と申し、それから14日、15日の夜に踊り、16日の夜は「堂破り」と称して男女が最寄りの堂に群衆し、男子が歌えば女子がこれを受けて歌い、女子が歌えば男子が互いに受けて歌い、お互いに声を隠して踊り明かした。これはまさに「歌垣(うたがき:男女が集まって求愛の歌を掛け合う行事)」である。新しく亡くなった人が出た家には、15日の夜に多くの男女を雇い入れ、その家の庭で精霊踊り(盆踊り)をすることは非常に古い慣習である。盆踊りというものは、明徳の頃にはすでに盛んであった阿波にも、古くからあったに違いない。徳島のあの「狂踊り(阿波踊り)」は、円になって踊る形(円踊)がさらに砕けて移動するようになったものであろう。これを天正年間の徳島城落成のお祝いに利用したのである。そして高い場所で天にいる神霊に祈願するのは我が国の古い習わしである。また精霊踊りもこの祭りと関連したのは自然の成り行きである。そう言えば、宝踊りの起源も大体の想像がつくと思う。最後に付け加えておくべきことは、『阿洲奇事難話』の「岩津の淵笠」と題する中に「七つの村(勝命村より西の村)の踊り手は皆、一つの場所に集まり、西林村の岩津の淵の平らな石に登って踊り、笠を流せば必ず雨が降る」という記述があることから、雨乞いの折には岩津の淵の平石に行くのだろう。
『川田名跡志』に以下の事がある。
「雨乞畠(あまごいばたけ) 賀名にある。 古老の言い伝えによると、日照りの年にこの畑を作っている人の家にある鍋の蓋を盗み出し、川田山の銚子の淵という所につければ、たちまち雨が降ると言う。しかし、あの鍋の蓋を盗んだ人も、盗まれた人も悪い事が起きると言い伝えられており、今はこのような事はしなくなったそうである」
同書に以下の記事がある。元はこの田んぼから上がる年貢米をこの費用に使ったものである。「徳光」の文字は「特鉢」で、仏具から来た言葉である。 また曰く、苧延原(おのべばら)は川田市の北、吉野川のほとりの地名である。俗に「宇延(うのべ)」と言う。川田の村の雨乞いの際に、この場所で竜神へ踊りを奉納する場所である。 徳光田は地名である。今は「斎(さい)こう田」と書き替えたのだろうか。 古老の言い伝えに曰く、昔「斎講堂(さいこうどう)」というものがあり、村人がお清めの米(斎米)を持ち寄り、念仏を唱えるお堂があったと言う。今の念仏講中はその名残だと言う。俗説ではあるが、大いなる説であろう。永仁の書には「徳光」とある。いつの頃か「斎講」と文字を書き違えたのだろうか。