秋の里山 気延山 卑弥呼の墓  2025年12月28日  2
里山倶楽部四国編 

- 気延山 -

風邪を引いたのか喉が痛い。

薬を飲み始めて10日になるが治らない。

熱もないし咳も出ない。

1週間以上安静にしていたが体がなまるばかりだ。

ちょっと気延山に行ってみよう。

一ヶ月くらい前から、気延山の五角形の御陵と八倉姫について論文を書いている。

その現地確認もしてみたい。



園内にはロウバイの甘い香りが漂っている。



まずは大泉神社。

此の五角形の井戸は真名井の井戸と言って、御神田へと水を供給していたそうだ。

此の井戸は五角形の神陵と共に気延山のシンボルだ。



ヒマラヤザクラが少し咲き残っていた。

去年は1月初めまで綺麗に咲いていたのに。

五差路には今日も誰もいない。



タマミズキが真っ赤に熟れている。



頂上直下の東の峰に寄ってみる。

卑弥呼の墓説の人たちが、杉尾山の古墳は、年代が4世紀末の建立で規模も小さいとの意見に対して

卑弥呼の古墳は此の気延山山頂にあったとの異説を言い出している。

此の頂上部全体が古墳だと。



此処には古い祠があるが緑色片岩の欠片を積み重ねて上に建てられている。

その下は同じ緑色片岩の岩塊だ。

実は此の気延山頂上部は緑色片岩の塊でできている。

墓を作るにも深く掘ることは出来ず、上に積むしか無い。

従って此の岩塊の山が古墳だとは思えない。

ただ山の女神を此処に祀るのには適したところだ。

矢野の町や鮎喰川そして眉山が一望できる。

古史料にある女神が最初に鎮座したところには最適だ。

八倉比売神社御本記で神々が集まりエラキを行ったという場所だ。

一部の人はそれが葬儀だというが、エラキは神を迎えて喜ぶ宴のことだ。

なんで葬儀だという説が出たのだろうか。



テイカカズラの種がたくさん舞ってきている。



気延山山頂。

森本院の祠と役行者像が3体ある。

二体しか無いじゃないかと言うのもごもっとも。



上半身が壊れてないのが一体転がっている。



ゴンズイの実がもう殆ど落ちている。



頂上直下の壊れた祠跡と不動明王。



日曜日なので太いタイヤの自転車に乗っている人たちが次々とやってくる。



三角点をすぎるとサザンカが満開。



天保二年のお地蔵さん。



冬いちごの身が美味しそうだ。



地蔵峠に着く。

剣山は例年だと真っ白に冠雪しているのだが今年は白く見えない。



広場にはマーク2が止まっていた。

まさか山の大先輩のマーク2さんが来ているのではないだろうねえ。



石仏にお参り。

広場のロウバイは今年も咲いていない。

以前は綺麗に咲いていたのだが、剪定が悪かったのか咲かなくなってしまった。



テーブルで食事をしていると可愛い子がやってきた。

ポメラニアンとチワワの混血だそうだ。



食後ひたすら帰る。

長く歩いていなかったので股関節が痛くなった。



五差路に返ってきた。



赤玉が埋められたという八倉姫第二古墳。



五角形の祭壇がある八倉比売第一古墳



八倉比売神社拝殿。



本殿の玉垣の中には藍商の盛氏が寄進した灯籠が一対ある。

石灯籠には元文3年(1738年)と刻まれている。

本殿は江戸期末に寄進されたという人がいるが、この石灯籠は少なくとも1738年には本殿が建っていたことを示している。



石灯籠の脇には崩れかかった狛犬の残骸が。

狛犬は泥岩などに彫られるので痛むのが早いのかも。



本殿は今年、茨木の人が木材から宮大工まで手配して修復してくれた。



宮司さんの話によると100年くらい前にやはり県外の人の寄進で建てられたとか。



玉垣は紀元2600年の記念に建て替えられている。

本殿の前の石には謂れがあるそうだが忘れた。



本殿右の石段を上がるとサルタヒコを祀る祠がある。

更に登ると五角形の祭壇があるが今日は寄らない。



問題の嘘っぱちばかり書かれている案内板。



葬儀であると言い切っているが、そんなことは古文書(八倉比売神社御本記)には書いていない。

年代の算定もいい加減で、古文書には鎮座は推古期と明確に書いてある。

推古期だと6世紀末から7世紀なので卑弥呼の墓説にはソグワナイので書き換えたのだろう。

下記のホームページに古文書の全文を載せているので読んでみてください。

ttps://satoyamashikoku.web.fc2.com/yakurahimehonki.pdf



此の狛犬の寄進者にも盛氏の名前がある。



新しい狛犬は大勢の人が寄進している。



明治に大坂屋が寄進した石柱



森善右衛門が寄進した石灯籠。



明和6年と書いてある。



他にも沢山の石灯籠がある。



すべて記録しながら石段を下る。



殆どが盛氏一族の寄進だ。



盛氏一族6名が寄進した石灯籠もある。



安永2年の石灯籠。



100年くらい続けて寄進を行ったようだ。



安永6年



大坂阿波屋寄進の石灯籠。



安永3年



安永3年の石灯籠には八倉姫と刻まれている。

八倉比売神社は江戸の初めは杉尾神社と呼ばれて杉尾大明神が祀られていた。

蜂須賀氏の信仰が深くなった安永3年頃に八倉姫神社に改名されたようだ。



一番下の盛六郎右衛門寄進の石灯籠。

ほとんどの書物は此の一番下の石灯籠を見て盛六郎右衛門が全てを幕末に寄進したと書いてある。

今見てきた通り100年にわたって継続的に寄進されたことがわかる。



石段下から振り返る。



此の石段は明治16年に信徒中と個人の寄進ではなく氏子の講で建てられている。

八倉姫神社が八倉比売神社に改名されたのは明治初期の明治政府によるもの。

石段寄進者一覧

元文3年 1738

盛 孫兵衛 盛 茂兵衛

寛延2年 1749年 

盛 源助

明和5年 1765

盛 善左衛門

明和6年 1769

山端 総兵衛 盛 善左衛門

明和5年 1765

盛 六郎右衛門

安永2年 1773

盛 惣八 他6

安永2年 1773

盛 弥兵衛 他6

安永2年 1773

幸田 興右衛門 他2

安永2年 1773

佐藤 平尾 他3

安永3年 1774

盛 六郎右衛門

安永3年 1774

阿波屋大坂

安永4年 1775

米原 周左衛門

文化10年 1813

文政13年 1830

美馬 壱左衛門




公園に向かうと正面に矢野城址

気延山頂上を振り仰ぐ。



ロウバイに日が差して輝いている。



ロウバイの黄葉がこんなに綺麗だとは知らなかった。



犬の散歩に多くの人が訪れている。

今日は、卑弥呼の墓説のある気延山を歩いた。

しかし、八倉姫について書かれている「本記」は神が鮎喰川のそばに降臨。

地元の神々に迎えられて杉の小山を経由して気延山の峰に鎮座。

そして2150年後に杉の小山(五角形の祭壇がある所)にお移りになったロマンある物語だ。

はるか古のロマン物語を感じながら気延山を歩いて欲しい。




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