古語拾遺 現代語訳

従五位下 斎部宿禰広成 撰

はじめに:『古語拾遺』を読むにあたって

『古語拾遺(こごしゅうい)』は、平安時代初期(807年)に、神祇官であった斎部広成(いんべのひろなり)によって編纂・奏上された歴史書です。

本書が書かれた背景には、当時の祭祀を巡る氏族間の対立がありました。神代より中臣氏と共に朝廷の神事を司ってきた忌部(斎部)氏でしたが、時代が下るにつれて中臣氏が勢力を拡大し、祭祀の権限を独占するようになります。広成は、自らの氏族が排斥されていく現状に強い危機感を抱き、古来からの忌部氏の正統性と国家への功績を天皇に訴え、失われた職掌の回復を願ってこの書を著しました。この奏上の結果、斎部氏は一時的に一部の祭祀への復帰を果たしましたが、大勢を覆すには至らず、その後も忌部氏は歴史の中で衰退の道を辿ることになります。

そのため、ここに記されている内容は必ずしも客観的な「史実」のみに基づいているわけではありません。中臣氏の専断に対する強い抗議と、忌部氏の栄誉を取り戻したいという筆者・広成の切実な「願い」が色濃く反映されています。

本現代語訳をお読みになる際は、こうした広成の強い思いと無念を理解しつつも、その後の忌部氏の歴史的衰退という背景を考慮し、読者ご自身で内容をよく判断した上でご活用くださいますようお願いいたします。

序文

思うに、大昔の時代にはまだ文字がなく、身分の高い者も低い者も、老いも若きも、口から口へと伝え、昔の言葉や昔の行いを心に留めて忘れませんでした。文字(書契)が使われるようになってからは、昔のことを語るのを好まなくなり、軽薄なことが競って盛んになり、かえって古い時代のことを知る老人を笑うようになりました。その結果、時代を経るごとに人は新しいものを求め、物事は代を重ねるごとに変化し、昔のしきたり(故実)について尋ねても、その根源を知る者がいなくなってしまいました。国家の歴史書(国史や家牒)にその由来は載せられてはいますが、細かな事情についてはまだ漏れ落ちているところがあります。愚臣(私)が今ここで申し上げなければ、おそらく永遠に伝わらなくなってしまうことを恐れます。幸いにもお召しを受けて下問を賜りましたので、日頃心に抱いていた憤りを述べたいと思います。

ですから、古くからの言い伝えを書き留めて、あえて天皇のお耳に入れたいと思う次第です。

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天地開闢と神々の生成

一、天地開闢の初め、伊弉諾(いざなぎ)・伊弉册(いざなみ)の二柱の神が共に夫婦となり、大八洲国(日本列島)および山川草木をお生みになりました。次に日月神(天照大神・月読命)をお生みになりました。(この神々が神去りになられた後に素戔嗚神(すさのおのかみ)をお生みになりました)。しかし、素戔嗚神は常に泣き喚いてばかりいたため、人民は若死にし、青々とした山も枯れ果ててしまいました。そのため父母の二神は「お前はひどく道理に外れている。早く根の国(黄泉の国)へ退去しなさい」と命じられました。

また、天地が分かれた初めに、天の中心でお生まれになった神を天御中主神(あめのみなかぬしのかみ)といい、次に高皇産霊神(たかみむすびのかみ)、次に神皇産霊神(かみむすびのかみ)とおっしゃいます。その高皇産霊神がお生みになった娘の名を栲幡千千姫命(たくはたちぢひめのみこと)といい、また息子の名を天太玉命(あめのふとだまのみこと)といいます。またの名を天日鷲命(あめのひわしのみこと)、彦狭知命(ひこさしりのみこと)、天目一箇命(あめのまひとつのみこと)といいます。

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天岩戸神話と神々の誓約

そこで素戔嗚神は別れの挨拶を申し上げようと思い(素戔嗚神が)天に昇られた時、櫛明玉命(くしあかるたまのみこと)がお迎えして、立派な八坂瓊の曲玉(やさかにのまがたま)を献上しました。素戔嗚神はそれを受け取り、さらに日神(天照大神)に献上しました。そこで共に誓約(うけい)を行い、すぐさまその玉に感応して天祖である吾勝尊(あかつのみこと)がお生まれになりました。そのため天照大神は吾勝尊を育てるにあたり、とりわけ深く愛し、常に脇の下に抱いて「腋子(わきこ)」と呼びました(今、俗に子供を「わくご」と呼ぶのはこの言葉が変化したものです)。

その後、素戔嗚神が日神に対して行った振る舞いは極めて無礼なもので、様々な凌辱や侮辱を行いました。いわゆる、畔(あぜ)を壊す、溝を埋める、樋(ひ)を放つ、重ね蒔きをする、生きた馬の皮を剥ぐ、逆さまに皮を剥ぐ、戸に糞を塗る、といった行為です。(素戔嗚神は日神が種を蒔く時にこっそりその田へ行き、串を争い、重ねて種を蒔き、畔を壊し、溝を埋め、樋を放ちました。新嘗祭の日には戸に糞を塗り、機織りの部屋にいる時には生きた馬の皮を剥いで室内に投げ込みました。これらの天つ罪は、今の中臣の祓詞にある通りです)。

この時、天照大神は激しく怒り、天の石窟に入って磐戸を閉ざし、お隠れになってしまいました。すると天下は常に闇となり、昼と夜の区別もつかず、多くの神々は悩み迷って手足の置き場もわからないほどでした。あらゆる仕事は松明の火を頼りに行うしかありませんでした。

高皇産霊神は八十万(やそよろず)の神々を天の八湍(ややす)の河原に集め、どのようにお詫びを申し上げるべきか相談しました。そこで思兼神(おもいかねのかみ)が深く考えを巡らせて提案し、「太玉命(ふとだまのみこと)に諸部の神々を率いさせて、和幣(にぎて)を作らせるのが良いでしょう」と言いました。そこで石凝姥神(いしこりどめのかみ:天糠戸命の子)に天香山(あまのかぐやま)の銅を取って太陽の形をした鏡を鋳造させました。長白羽神(ながしらはのかみ:伊勢国の麻績の祖)には麻を種まき育てさせて青和幣(あおにぎて)を作らせました。天日鷲神(あめのひわしのかみ)には、津咋見神(つくいみのかみ)とともに穀(かじのき)の種を植えさせて白和幣(しろにぎて:これは木綿のことです)を作らせました。天羽槌雄神(あめのはづちのおのかみ:倭文(しどり)の遠祖)には文布(あやぬの)を織らせました。天棚機姫神(あめのたなばたひめのかみ)には神衣(かむみそ)、いわゆる和衣(にぎたえ)を織らせました。擣明玉神(くしあかるたまのかみ)には八坂瓊の五百箇の御統玉(みすまるのたま)を作らせました。手置帆負神(たおきほおいのかみ)と彦狭知神(ひこさしりのかみ)の二神には、天の御量(あまつみはかり:定規)を用いて大小の谷の木材を伐採させ、立派な御殿を造らせ、さらに笠や矛、盾を作らせました。天目一箇神(あめのまひとつのかみ)には、様々な刀や斧、鉄の鈴を作らせました。

これらの品々がすでに完成すると、天香山の五百箇の真賢木(まさかき)を根ごと掘り起こし、上の枝に玉を懸け、中ほどの枝に鏡を懸け、下の枝に青和幣と白和幣を懸けました。そして太玉命にこれを持たせて称え言葉を唱えさせ、天児屋命(あめのこやねのみこと)を付き添わせて祈祷させました。また、天鈿女命(あめのうずめのみこと:その神は気が強く勇ましい女神です)には、マサキカズラを髪飾りとしヒカゲカズラをたすき掛けにし、竹の葉やササの葉を手草(手に持つ草)とし、鈴をつけた矛を手にして、石窟の戸の前で誓槽(うけふね:伏せた桶)を踏み鳴らし、庭火を焚いて巧みに俳優(わざおぎ:神がかりの舞)を行い、共に歌い舞いました。

ここで思兼神の提案に従い、石凝姥神に太陽をかたどった鏡を鋳造させました。最初の度に鋳造したものは少し意に沿わないものでした(これは紀伊国の日前神(ひのくまのかみ)です)。二度目に鋳造したものはその形が美しいものでした(これが伊勢の天照大神のご神体です)。準備がすべて終わり、計画通りに揃いました。

そこで太玉命は広く厚い称え言葉を唱えて申し上げました。「私が捧げ持っている宝の鏡は明るく美しく、まさにあなた(天照大神)の御顔のようです。どうか戸を開けてご覧ください。」太玉命と天児屋命は共に祈祷を捧げました。

この時、天照大神は心の中で一人思いました。「私が隠れ籠もっているため、天下はすべて闇になっているはずなのに、どうして神々はこのように歌い楽しんでいるのだろうか。」そして少しだけ戸を開けて外の様子をうかがいました。すかさず天手力雄神(あめのたぢからおのかみ)に命じてその扉を引き開けさせ、新しい御殿にお遷りいただきました。

すると天児屋命と太玉命は日御綱(ひのみつな:今の注連縄のことで、太陽の光をかたどったもの)をその御殿の周りに張り巡らしました。大宮売神(おおみやのめのかみ:太玉命の生んだ神。今の世の内侍のように君臣の間を和らげ、天皇の心を喜ばせる神)を御前に仕えさせ、豊磐間戸命(とよいわまとのみこと)と櫛磐間戸命(くしいわまとのみこと)の二神(共に太玉命の子)に殿の門を警護させました。

この時、天上は初めて晴れわたり、神々は互いの顔が見えるようになり、皆顔がはっきりと白く見え、手を伸ばして歌い舞い、共に口々に称えて言いました。「あはれ(天が晴れたこと)」「あなおもしろ(顔がはっきりと白く見えたこと)」「あなたのし(手を伸ばして舞うこと)」「あなさやけ(木々の葉がさわやかに鳴る様子)」。

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素戔嗚尊の追放と八岐大蛇退治

そこで、(天児屋命と太玉命の)二神は共に「もう二度とお隠れにならないでください」とお願いしました。そして、すべての罪過を素戔嗚神に帰し、千座の置戸(ちくらのおきど:多くの供物を罰金として科すこと)を科し、髪の毛を抜き、手足の爪を剥いで罪の償いとさせました。こうして罪を祓い清め、天から追放しました。

素戔嗚神は天から降って出雲国の簸之川(ひのかわ)の上流に至り、天の十握の剣(あめのとつかのつるぎ)で八岐大蛇(やまたのおろち)を斬り殺しました。その尾の中から一振りの霊剣を得ました。その名を天叢雲(あめのむらくも)の剣といいます(大蛇の上に常に雲気があったため、こう名付けられました。後に倭武尊(やまとたけるのみこと)が東征の年、相模国に至って野火の難に遭った際、この剣で草を薙ぎ払って難を逃れたため、名を草薙剣と改めました)。これを天神に献上しました。

その後、素戔嗚神は国神の娘を娶り、大己貴神(おおなむちのかみ:別名を大物主神、または大国魂神といい、今の大和国の大神神社の神です)を生みました。大己貴神は少彦名神(すくなひこなのかみ:高皇産霊尊の子)と共に力を合わせ心を一つにして天下を治め、人民や家畜のために病気を治療する方法を定め、また鳥獣や昆虫による災害を払うための禁厭(まじない)の法を定めました。人々は今日に至るまでみなその恩恵を受け、すべて効果が表れています。

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天孫降臨と三種神器

天祖である吾勝尊は高皇産霊神の娘である栲幡千千姫命を妻に迎え、天津彦尊(あまつひこのみこと)をお生みになりました。これを皇孫命(すめみまのみこと)と号しました(天照大神と高皇産霊神の二神の孫であるため、皇孫と呼びます)。

やがて天照大神と高皇産霊尊は皇孫を大切に養育し、天下りさせて豊葦原の中国(日本)の主としようとされました。そこで経津主神(ふつぬしのかみ:磐筒女神の子で、今の香取の神です)と武甕槌神(たけみかづちのかみ:甕速日神の子で、今の常陸国鹿島神です)を遣わし、駆逐し平定させました。

これに対し、大己貴神とその子である事代主神(ことしろぬしのかみ)は共に(国譲りを)承諾し退きました。そして国を平定した矛を二神に授けて言いました。「私はこの矛を用いて国を治める功績を上げました。天孫がもしこの矛を用いて国を治めるならば、必ずや平安になるでしょう。私は今から隠退します。」と言い終わり、ついに隠れました。

こうして二神は従わない鬼神などを討服従させ、その結果を天神に復命しました。

この時、天祖である天照大神と高皇産霊尊は互いに語り合いました。「葦原の瑞穂の国は、私たちの子孫が王として治めるべき地である。皇孫よ、行って治めなさい。皇位が栄えることはまさしく天と地と共に永遠に極まりないであろう。」

そして、八咫鏡(やたのかがみ)と草薙剣の二種の神宝を皇孫に授け与え、永遠に天皇の印(天の璽)としました(いわゆる神璽の矛と玉はおのずから備わっていました)。そして、「我が子よ、この宝の鏡を見る時は、まさに私を見るのと同じようにしなさい。同じ床に置き、同じ殿に置いて、お祀りする斎鏡(いつきのかがみ)としなさい」と言いました。そこで天児屋命、太玉命、天鈿女命の三神を付き従わせました。

さらに命令を下して、「私は天津神籬(あまつひもろぎ:神籬は古語でヒモロギという)と天津磐境(あまついわさか)を立てて、我が孫のためにお祀りしよう。お前たち、天児屋命と太玉命の二神は、天津神籬を持って葦原の中国に降り、同じように我が孫のためにお祀りしなさい。お前たち二神は共に殿の内に仕え、よく防衛しなさい。また私が高天原で育てている斎庭(ゆにわ)の穂(稲の種のこと)を我が子に与えよう。太玉命は諸部の神々を率いて、天上の儀式と同じようにその職務を供奉しなさい」と言いました。そして諸神も同じように陪従させました。

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猿田彦大神と天鈿女命

また大物主神に復命して、「八十万の神を統率して、永遠に皇孫をお護りしなさい」と言いました。そこで大伴氏の遠祖である天忍日命(あめのおしひのみこと)に、来目部の遠祖である天槵津大来目(あめのくしつおおくめ)を率いさせ、武器を帯びて先払いをさせました。いざ天降ろうとする間、先払いが戻ってきて報告しました。「天の八つ辻(天の八達の衢)に一柱の神がおり、その鼻の長さは七咫、背の高さは七尺余りあります。口の端は明るく光り、目は八咫鏡のように輝いています。」そこで、お供の神を遣わしてその名前を尋ねさせましたが、八十万(やそよろず)の神々は皆、恐れて顔を見ることができませんでした。

そこで天鈿女命(あめのうずめのみこと)に対して、「お前は、圧倒されるような神であっても、正面から立ち向かって笑いかけることができる神である。だから、お前が行って尋ねなさい」と仰せられました。天鈿女命が神命を受けて赴き、胸をあらわにして、裳の紐を臍(へそ)の下まで押し下げて、あざ笑いながら向かって立ちました。すると衢神(ちまたのかみ)が尋ねて「お前はどうしてそのようなことをするのか」と言いました。天鈿女命は逆に尋ねて、「天孫が降臨される道にいる者は誰ですか」と言いました。衢神が答えて、「私は天孫が降臨されると聞いたので、お迎えしてお待ちしておりました。私の名は猿田彦大神(さるたひこのおおかみ)といいます」と言いました。天鈿女命がまた尋ねて、「お前が先に行くのか、私が先に行くのか」と言うと、答えて、「私が先に行きましょう」と言いました。天鈿女命がまた尋ねて、「お前はどこへ行くのか。天孫はどこへ行かれるのか」と言うと、答えて、「天孫は筑紫の日向の高千穂の槵觸(くじふる)の峯に行かれるのがよいでしょう。私は伊勢の五十鈴の川上へ行きましょう」と言いました。そして、「私の正体を明らかにした者はお前である。お前が私を送ってきなさい」と言いました。

天鈿女命は戻ってきて、天孫に報告しました。天孫は、約束通り降臨されました。皆、天鈿女命が先導しました。猿田彦大神を送っていった縁によって、その名前を氏の名として名乗ることになりました。これが猿女君(さるめのきみ)の氏の由来です。(今の猿女君の男女が皆、猿女君と呼ばれるのはこのためです)。

このようにして、群神は天孫の降臨に供奉し、代々受け継いで、それぞれその職務に就きました。

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海神の宮と神武東征

天祖である彦火尊(ひこほのみこと:火折尊、山幸彦)は、海神の娘である豊玉姫命(とよたまひめのみこと)を妻とし、鸕鶿草葺不合尊(うがやふきあえずのみこと)をお生みになりました。そのお産みの時、海辺に産屋を建てました。その際、掃守連(かにもりのむらじ)の遠祖である天忍人命(あめのおしひとのみこと)がお供をして箒(ほうき)を作り、蟹を掃き払いました。その職務の縁により、蟹守(かにもり)と呼ばれました。(今の俗語で「かむもり」と言うのは、これがなまったものです)。

神武天皇が東征された年、大伴氏の遠祖である日臣命(ひのおみのみこと)が将軍を統率し、荒ぶる神々や逆賊を討ち平らげました。道臣命(みちのおみのみこと)の武勲に比肩する者はいませんでした。物部氏の遠祖である饒速日命(にぎはやひのみこと)は、賊軍の長である長髄彦(ながすねひこ)を殺して帰順しました。官軍に忠誠を尽くした功績により、特別に厚い寵愛を受けました。大和氏の遠祖である椎根津彦(しいねつひこ)は、天皇の船を迎え導き、香山(かぐやま)の頂上にお祀りしました。賀茂県主(かものあがたぬし)の遠祖である八咫烏(やたがらす)は、案内をして天皇の軍を導きました。見事に霊瑞を顕し、すでに妖気も晴れ、風塵の乱れもなくなりました。そこで橿原(かしはら)に都を建てて、宮殿を造営することになりました。

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橿原宮造営と阿波・安房の開拓

そこで天富命に命じて、手置帆負(たおきほおい)・彦狭知(ひこさしり)の二神の孫を率いさせ、斎斧(いみおの)・斎鉏(いみすき)を用いて、初めて山の木材を伐採し、正殿を建てさせました。(いわゆる底つ磐根に宮柱太敷き立て、高天の原に千木高知りて……というものです)。その斎(いみ)の功績により、今も紀伊国(きいのくに)の名草郡(なくさのこおり)に御木(みき)・麁香(あらか)の二郷があります。(古語では正殿を「あらか」と言います)。木材を採り、斎(いみ)部(忌部)が居住した場所を「御木造(みきつくり)」といい、斎部(いんべ)が居住した場所を「麁香(あらか)」といいます。これがその証拠です。

また、天富命に命じて、斎部の諸氏を率いて、様々な神宝である鏡、玉、矛、盾、木綿(ゆう)、麻などを作らせました。櫛明玉命(くしあかるたまのみこと)の孫には御祈玉(みほぎのたま)を作らせました。(古語では祈祷することを「ほぎ」と言います。その末裔は今、出雲国にいて、毎年、調の品と共にその玉を貢進しています)。天日鷲命(あめのひわしのみこと)の孫には木綿および麻、そして織布(たえ)を作らせました。(古語では麻を総じて「たえ」と言います)。

そこで天富命に命じて、日鷲命の孫を率いて、肥沃な土地を求めて阿波国(あわのくに)に遣わし、穀(かじのき)や麻の種を植えさせました。その末裔は今、かの国(阿波国)におり、大嘗祭(だいじょうさい)の年には木綿・麻布および様々な貢物を納めます。そのため、郡の名を「麻殖(おえ)」といいます。

天富命は、さらに肥沃な土地を求めて、阿波の斎部を分けて東国に赴かせ、麻や穀を播き植えさせました。良い麻が生えた場所なので、そこを総国(ふさのくに)といいます。(古語では麻のことを総(ふさ)といいます。今の上の総、下の総の国がこれです)。穀の木が生えた場所の郡を、結城郡(ゆうきのこおり)といいます。(古語では麻を総という理由からです)。阿波の斎部が住んだ場所であるため、安房郡(あわのこおり)と名付けられました。(今の安房国がこれです)。天富命はそこで、太玉命の社を建てました。これが今の安房の社です。(そのため、その神戸には斎部氏がいます)。

また、手置帆負命(たおきほおいのみこと)の孫には矛の竿を造らせました。その末裔は今、讃岐国(さぬきのくに)分かれて住んでおり、毎年、調として(八百竿の矛を(調の庸の)ほかに八百竿の矛を貢進しています。これらがその出来事などの証拠です。

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天津神籬と宮中祭祀の成立

ここに皇天の二祖(天照大神・高皇産霊神)の詔(みことのり)を仰ぎ従い、神籬(ひもろぎ)を建て、高皇産霊(たかみむすび)、神皇産霊(かみむすび)、魂留産霊(たまつめむすび)、生産霊(いくむすび)、足産霊(たるむすび)、大宮売神(おおみやのめのかみ)、事代主神(ことしろぬしのかみ)、御膳神(みけつかみ)をお祀りしました。(以上は、今御巫(みかんなぎ)が奉斎しています)。櫛磐間戸神(くしいわまとかみ)、豊磐間戸神(とよいわまとかみ)を祀りました。(以上は、今御門の巫が奉斎しています)。生嶋(いくしま:これは大八洲の霊(みたま)です。今、生嶋の巫が奉斎しています)、坐摩(いかすり:これは大宮地の霊です。今、坐摩の巫が奉斎しています)。

日臣命が来目部(くめべ)を率いて宮門を警護し、開閉を司りました。鏡造・玉作・盾・矛・その他の品々もすでに備わり、天富命が諸々の斎部を率いて、天の璽(あまつしるし)である鏡と剣を奉り、正殿に安置して、玉を懸け、幣物を陳列して、祝詞(のりと)を祭りました。(その祝詞文は別巻にあります)。次に祭りを終えて、物部が矛と盾を立て、大伴氏が矛と盾を立て、大伴・来目部が建杖(たてづえ)を立てて門を開き、四方の国々に(天皇を)お披露目しました。天皇と神が共にある時代であったため、天皇の御殿と神の御殿はまだ分かれておらず、同じ殿の内にありました。このように神の物と官の物はまだ区別されておらず、内蔵(うちつくら)と神蔵(ほくら)を立てて、斎部氏に永遠にその職務を任せました。また、天富命に命じて、神饌を作り供えさせました。諸氏が作る大幣(おおぬさ)を記録し、天種子命(あめのたねこのみこと:天児屋命の孫)に、天罪(あまつつみ)・国罪(くにつつみ)の事柄を祓い除かせました。(天罪・国罪とは、国中の人民が犯す罪のことです)。そして、鳥見山(とみやま)の霊畤(まつりのにわ)を立てて、天富命に命じて幣物を陳列し、祝詞を唱えて皇天を祀りました。群望(多くの神々への祭祀)の恩に報いるためです。このようにして、中臣(なかとみ)と斎部(いんべ)の二氏は共に神祇(祭祀)の職務を掌ることになりました。猿女君氏が神楽(かぐら)を供奉すること、その他諸氏がそれぞれその職務を持つことなども、同じように(定められました)。

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崇神・垂仁天皇と伊勢神宮の創建

磯城(しき)の瑞垣(みずがき:崇神天皇)の朝(みかど)に至り、ますます神威を畏れ、神と天皇が同じ殿に住むことを不安に思いました。そこで、改めて斎部氏に命じて、石凝姥神(いしこりどめのかみ)の末裔である天目一箇神(あめのまひとつのかみ)の末裔の二氏を率いて、さらに鏡を鋳造させ、剣を造らせて、護身の御璽(みしるし)としました。これが今、踐祚(せんそ)の日に献上される神璽の鏡と剣です。そして、倭(やまと)の笠縫邑(かさぬいのむら)に神籬(ひもろぎ)を建て、天照大神と草薙剣を遷し祀り、皇女の豊鍬入姫命(とよすきいりひめのみこと)に命じて奉斎させました。その遷祭(せんさい)の夕べ、宮中の人々は皆一晩中宴を開き、歌を歌いました。「美しい夜だよ、さあ夜通し楽しもう。我が良き友よ、伊佐登保志(いさとほし:古語で楽しむことを言う)我が良き友よ」と。(俗に歌って「美夜比佐止保利知侶」と言うのは、伊佐登保志の訛りです)。

また、六年の祭りに、八十万の群神を祀り、そして天社(あまつやしろ)・国社(くにつやしろ)および神地(かんち)・神戸(かんべ)を定めました。初めて男には弓弭(ゆはず)の調(狩猟による獲物)を、女には手末(たなすえ)の調(機織りによる布)を貢進させました。今、神祇の祭りに用いる熊や鹿の皮、角、布などは、この縁起によるものです。

纏向(まきむく:垂仁天皇)の朝に至り、皇女の倭姫命(やまとひめのみこと)に命じて、大照大神に奉仕させました。天照大神の教えに従って、その祠(ほこら)を伊勢国の五十鈴川の川上に建てました。そこで斎宮(さいくう)を建て、倭姫命を居住させました。これが天上において結ばれた神聖な契り(幽契)に基づくものです。神が先に降り、後からこれに伴って居住するのは、これ(天孫降臨)が始まりです。御世(天皇の代)の初めに弓矢・刀を使って神祇を祭るのは、改めて神地神戸を定めるためです。

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日本武尊の東征と草薙剣

また新羅の王子の天日槍(あめのひぼこ)が帰化して来ました。今は但馬国(たじまのくに)の出石郡(いずしのこおり)にある大社がそれです。

日代(ひしろ:景行天皇)の朝に至り、日本武命(やまとたけるのみこと)に命じて東夷(あずまえびす)を征伐させました。そこで道を迂回して伊勢神宮に参詣し、辞見(お別れの挨拶)をしました。倭姫命は草薙の剣を日本武命に授けて教え、「慎んで怠ることがないように」と言いました。日本武命は東国を平定し、尾張国に帰ってきました。そして宮簀媛(みやすひめ)を妻とし、ひと月ほど滞在しました。剣をそこに置いたまま、徒行(徒歩)で伊吹山(いぶきやま)に登りましたが、山神の毒気にあって亡くなりました。その草薙の剣は、今、尾張国の熱田社(あつたのやしろ)にあります。しかしその神祇(祭祀)の簿(名簿)には載っておらず、明らかな定めもないため、祭祀の序列(位階)の礼遇はまだ制定されていません。叙位・叙勲の典礼もないのです。

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応神〜雄略天皇と渡来人の功績

磐余(いわれ)の稚桜(わかざくら:履中天皇)の朝に至り、住吉大神が霊験を顕し(神功皇后が)新羅を征伏し、三韓が初めて朝貢しました。百済の国王は誠意を尽くし、最後まで背き欺くことはありませんでした。

軽島(かるしま:応神天皇)の豊明(とよあきら)の朝に至り、百済王が博士の王仁(わに)を貢進してきました。これが河内文(かわちのふみ)の首(おびと)の始祖です。また秦公(はたのきみ)の祖である阿知使主(あちのおみ)が十七県の民を率いて来朝しました。これが秦(はた)・漢(あや)の両氏および百済の内附(帰化)した民です。皆数万にも上り、充分に恩賞を与えることができるほどの数でした。彼らにはその賦役(調)はなく、預り幣(あずかりぬさ:特別な役)の例です。

後磐余(のちのいわれ)の稚桜(わかざくら:清寧天皇)の朝に至り、三韓が貢ぎ物を献上しました。代々途絶えることはありませんでした。斎蔵(いみくら)の傍らに、さらに内蔵(うちくら)を建てて官物を収め、阿知使主と百済博士の王仁に記録させました。その出納は、改めて蔵部(くらべ)を定めて行わせました。

長谷(はつせ:雄略天皇)の朝に至り、秦氏を分けて他の氏族(他族)に寄託させました。秦酒公(はたのさけのきみ)は仕え奉って寵愛を受け、詔によって秦氏を聚(あつ)め、酒公に賜りました。そこで百八十種の勝部(すぐりべ)を統率して、蚕織(養蚕と機織り)や調貢(貢ぎ物)の布帛(ふはく:絹や綿)を充てました。庭中にうず高く積み上げられたため、姓を宇豆麻佐(うずまさ:太秦)と賜りました。(言(こと)の波だち、と俗に言うのはこれです)。以って秦氏が貢ぎ進める絹・絁(あしぎぬ)などの調(みつぎもの)により、神宮(天照大神)の祭りごとに用いることとなりました。(今の俗で「神に絹を着せる」というのはこの縁起です)。これ以後、諸国から貢進される年々の溢(あまり:余剰)の調を大蔵に立て、我が麻智宿禰(まちのすくね:斎部氏の祖)に検校(監督)させました。そして三蔵(斎蔵・内蔵・大蔵)を統括し内蔵の物を秦氏が出納し、東西の文氏(ふみうじ)がその帳簿を記録しました。このため漢氏に内蔵・大蔵の姓を賜ったのはこれが由来です。秦・漢の二氏に内蔵・大蔵の鍵を管理させたのは蔵部の由来です。

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推古〜天武天皇の御代と八色の姓

小治田(おはりだ:推古天皇)の朝に至り、太玉命の末裔は細々と帯のように途絶えずにいましたが、天恩は廃れ、その職務を継ぐことができず、衰微して現在に至っています。

難波の長柄豊碕(孝徳天皇)の朝、白雉四年(注:白鳳とあるのは白雉の誤り)に至り、小華下(しょうかげ)の神祇部首である作賀斯(さがし)が神祇頭(じんぎのかみ)に任命されました。神祇官が王族の叙位、宮内の礼儀、婚姻、卜筮を掌るようになったことや、夏・冬の二季の御卜(みうら)の儀式は、この時に始まりました。作賀斯は今の東文氏の祖先です。

浄御原(きよみはら:天武天皇)の朝に至り、天下の万姓を改めて八等に分けました。ただその年の功労のみを順序付け、本来の天降りの業績を根本としませんでした。その二日には中臣氏に朝臣の姓を賜り、太刀を授けました。三日には斎部氏に宿禰の姓を賜り、小刀を授けました。四日には忌寸の姓を秦・漢の両氏、および百済・文氏等の姓に賜りました。(これは斎部と共に神事に預かっている縁で姓としたのです)。

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神名帳編纂と中臣氏専断への批判

大宝年中(文武天皇)に至り、初めて神祇の簿が記録されましたが、明確な規定はなく、神々を祀る望秩(ぼうちつ)の礼もまだ制定されておらず……

天平年間(729年〜)より、神帳(神々の記録)の造作は中臣氏が専権して任意に行い、あるべき由緒を捨て、あるべきではないことを採用しました。小規模な祭祀はすべてこの中臣氏が列席し、縁のない社にまで封禄(神社の領地)を総じて取り込みました。一門が天皇の恩寵を承り、神殿の守護や、あるいは国家の重要な祭りにも関与し、功績のない者まで官位を与えられ、祭礼の例にないことまで行っています。これは草薙神剣(くさなぎのかみつるぎ)の神威を軽んじるものであり、天の重大な秘密を推し量るような振る舞いです。ましてや日本武命が東征の年に尾張国の熱田に留まり、賊が逃げ去って国境から出られず、神物の霊験によって(危機を)免れた功績は、この社外賊(東国の賊)のことは、神物の霊験といってもよいものです。これを観れば、幣帛(へいはく)を奉るべき日は、(中臣氏の独断ではなく)同列に敬うべきではないでしょうか。長年、時代が変わっても礼が修められないのは、聖皇(天皇)が極められた文祖(先代の天皇の定めた礼)を、帝(天照大神)の教えや上帝(天神)の礼、そして群神の教えに従って、天照大神の末裔である皇孫の系譜に基づき、余すところなく正すべきです。なぜ神祇官が幣帛の授与を(中臣氏が)専権的に行い、諸神を軽んじることができるでしょうか。

その後、伊勢神宮に遣わされる幣帛の使者は、天照大神が帝と同殿(中臣氏と共に祀られる)であるという説がありますが、これは天上の儀式に依るものです。しかし、天児屋命と太玉命の二氏が相副えて奉斎した(神と一柱で祀った)のは、神が去った後のことです。今、伊勢宮司は独り中臣氏のみに任せて、斎部氏の職を預かれないというのは、神代からの職分ではないはずです。およそ神殿を造る際は、斎部官が御木(みき)・麁香(あらか)を率いて、斎斧をもって木を伐採し、斎部が正殿と門祭(もんさい)を造り、祭りの際には御座を設けて造営しました。伊勢宮および太玉命の神社は、すべて斎部氏の役目ではなかったでしょうか。しかし(現実は)中臣斎部(中臣氏が斎部の職を奪っている状態)が共に任に当たっており、神祇官の祭りにおいて、中臣氏が斎部氏の職務を兼任して供奉しています。かつて宮内省が奏言した際、供奉は神祇官が掌るとのことであり、宝亀年中に初めて中臣氏が中臣斎部の職に就き、今の中臣氏が率いて(祭りの)門に座るのは、かつての宮内の例に依り、永遠に今の例として変えてはならないのです。(また、神代より中臣斎部と称して中臣氏が斎部氏の職を代行していた例などありません。かつて、七位の官人が宮寮(神宮司など)に仕えていた時代、中臣斎部といわれた人々は、元は同位の官人でした。延暦の初め、内の親王が斎部の日々の祭祀の幣帛を掌ってから、未だその例は復活していません。また太宰・神司は独任制であり、中臣氏が斎部氏の職を預かるという例はありません。諸国の大社もまた中臣氏に任されており、斎部氏の職務を預かっている例はありません)。

およそ鎮魂の儀式は、天鈿女命の足跡によるものです。それならば、神祇官・神部(かむべ)は、中臣斎部が(祭祀を)供奉して作った大幣を基準としなければなりません。例を造り、神代の職務を整然と行うべきです。神服(かむみそ:神事の装束)は、倭文(しどり)や麻績(おみ)などが作るべきであり、今、中臣斎部がそれを掌るのは、唯一、中臣氏がその職を選んでいるためです。神事に携わる斎部氏などは、他の諸氏とともに絶えてしまい、その職務を失ってしまいました。

(かつて)神祇官は、今後は伊勢大神宮へ幣帛の使者を遣わす際に、中臣氏が(独断で)他の氏姓を差配してはならないと決めました。

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御歳神への祭祀の縁起

古の神代の大地主神の営田(稲作の田)の日に、牛を食らってしまった田人がいた時、歳神(としがみ)が怒ってその田に稲の苗を放ち、たちまち枯らしてしまいました。その神の怒りを解くために、歳神の教えに従って、白馬・白鶏を解いてその怒りを解きました。これを「御歳神への感謝の法」といいます。(今も、白馬・白鶏を用いるのは、その時の先例に依るものです)。神が「意のままにせよ」と仰ったので、麻の茎で柄を作ってその葉を垂らし、鳥の羽の扇のようにして、これを天の押草(おしくさ:神への捧げ物)として供えるのが宜しいでしょう。牛を完治させ、溝の口に男茎(おとこはぎ)の形を置いて、その場所(怒りの場所)に、薏苡(ハトムギ)、蜀椒(サンショウ)、桃の葉、および塩を置きました。これにより、その年(凶作)の苗は(再び育ち)豊作となりました。これが今の「神祇官による白猪・白馬・白鶏の、御歳神への祭祀」の縁起です。

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跋文(神代伝承は虚構ではない)

前件の神代の出来事は、盤古(天地開闢)のように疑わしいところもありますが、信じるべきです。わが国は神物の霊験が今も全て残っており、当時の祭礼の仕組みは未だ制度化されていません。古きこと(神代)を漏らさず記載しました。今は聖皇(天皇)の御世であり、祭祀は天照大神の恩寵を仰ぎ、四方の国が交流して俗風が改まり、今の祭政(政治)もまた当時の制に随っています。万世に流れる典礼を千載に補い、今、この望秩の礼(神々の祭祀の礼)を制定しなければ、後の世の人々が(今の礼を)見た時、何を頼りにすればよいでしょうか。

今、古きを見れば、愚臣である広成は、朽ち果てんとする老い先短い身ですが、ひそかに世の移り変わりを思い、切に(伝統が失われることを)危惧しております。卑しい街角の話を聞き、あるいは神の運に巡り会うことを求めても、深い喜びは口ごもるばかりで、天照大神の御心に沿うことは叶いません。

大同三年二月十三日

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