そもそも仏や菩薩が数多くの山岳に姿を現し(垂迹)、国家を鎮護し、光を和らげて塵に交わり、遠く離れた民衆に利益をもたらし救済することは、その起源を探ると多く見られる。人々の求める心が異なるため、その性質や欲求に応じて別々に、あるいは明神として化身し、あるいは権現として姿を現す。本来の姿(本地)と化身(垂迹)の二つの体による教化の業は、大いなる慈悲の水が浸透するようなものであり、おおむねこれに由来する。
ここ阿波国麻植郡内にある摩尼珠山高越寺は、本来の姿を別の体とする千手千眼大悲観世音菩薩である。
さて、この山は周囲の山々から四方に平らかに突出しており、太陽が飛ぶように光を照らし、月が隠れるのは遅い場所である。冬至には雪が深く、夏でも暑気が来ることはない。春の陽気でも花の開花は遅く、秋の初めには葉が真っ先に紅葉する。山の姿が摩尼珠(如意宝珠)のようであるため「摩尼珠山」と号し、高く雲影を越えて空の高みにあるため「高越」と呼ぶ。
昔、権現が示現した場所はいくつかある。鳥の頭が懸かるほどの険しい場所で生き死にの無念を悲しんだとはいえ、権現は町下へ下りて履物を脱ぎ捨てた。最初の石はその形が沓のようであり(峯から町下へ下る途中にあり、これを沓石と呼ぶ)、神力の加持と方便をもって早く勉めれば、枯れる哀しみも無く、露が朽ちることも無いと言う。昔から今まで奇瑞で不思議な事であり、信仰によって契りを結ぶ。
一、役行者は修行の力が勇猛で、神通力に自在に達した化身の達人であるため、権現の奇瑞を感じてこの峯に登り、白檀・紫檀による阿祇你(アグニ)行者を拝み造った。衆生を救済する志があり、諸国を巡回して国ごとに一つの阿祇你峯を開いた。その数は六十カ所であり、これを「一国一峯」と名付けて呼ぶ。摩尼珠山もその一つとして配されている。
一、弘仁天皇の御代に、密教の祖である弘法大師が秘法の修行を願って、この山を尋ね詣でた。大師は三地の薩埵(菩薩)であり、久しくすでに真理に通達した人である。権現は感応し、彷彿として姿を現した。大師は精神集中(三昧)に入り、頭を垂れて心を指し、心を決定したため、仏の加護を蒙り、以後は袖の裏で御像を求めた。木を切って彫刻しようとしたが水源がなかった。谷水をどうして得られようかと、大師は自ら呪願した。すると岩石の間から法力が徹底して泉水が湧き出し、昼夜尽きることがなかった。ゆえに虚空蔵求聞持法を百万遍、日夜精進して唱え終え、大悲の地に二尺五寸の御本尊の像を彫刻した。これは行者の形像であり大師の御影である。その像は山を観るように安置されている。
一、醍醐天皇の御代、聖宝僧正(理源大師)は意を頼みとしてこの山に登り、ここで留まった。その辺りに至ると素晴らしい境地があったが、自身はまだ足をとどめていなかった。神徳の眼は優れていると思われたが、法は深く、結縁の志は深厚であり、手結の台の大きな第一の場所に二十八品の真言の文字を書いた仮の中に結界を建てようと欲した。二文字をもって法界の生きとし生けるものを教化しようと思い、還って地中に伏蔵し、これを名付けて経墓と呼ぶ(山上にあり、傍らには寂寥とした岩洞があり、僧正はここで明かした。昔の料を結んで突如として魔鬼降伏のための護法大聖明王を作ったことによる。不動窟の南の端に次ぐ)。
次に、僧の普身が自ら本尊を作り、以前の行師に準じて奇異を発し、徳を顕した。末代の世に広めるため、即ち鳥を捨て馬を取る神祇や人々の数が増え、威法は人により、信じる人も法も一体であるゆえに、神祖が明るく監察し、始めて奏請を以てしたことを計り知る。殊にこの山は一十八町の結界の地であり、大曼荼羅を踏み実践しているため、鳥の啼くことを禁じ、殺生を制している。愚かな目では測り知れず、罪を測ることもできない。速やかに信じるべきである。以上、記したことは要点を採ったものである。
本史料の前半には、役行者、弘法大師、聖宝僧正(理源大師)といった名だたる高僧が相次いで登頂し、霊験を現したという記述があります。これらは物理的な史実としての正誤を問う性質のものではなく、修験道の霊山に共通して見られる「寺社縁起」です。高越山が阿波において古くからいかに神聖な修験の場として権威づけられていたかを示す、信仰の歴史的記録としてそのまま読み解くべきものです。
史料中にある「阿波両州の刺史、光隆公」とは、徳島藩の第4代藩主である蜂須賀光隆(はちすか みつたか)を指します。「阿波両州」とは、徳島藩が領有していた阿波国と淡路国の両国を意味し、「刺史(しし)」は国守を表す漢語的表現です。記されている「寛文五年(1665年)」「寛文六年(1666年)」はまさに光隆の治世と完全に合致しており、当時の徳島藩主による寺社の庇護・修繕活動を裏付ける史実となっています。
後半の「高越寺名跡」に記された「川田市場」「中江」「穀谷」などの地名や旧跡・堂宇の配置状況は、山岳信仰の道筋や当時の人々の動線を現地踏査によって辿るための非常に価値の高い記録です。古跡の多くが現在どのように変化したかを比較検証するための、第一級の郷土地理史料と言えます。