本『木屋平村史』が中世から近世への歴史的連続性を証明する拠り所としている「三木家文書」や「松家家文書」については、近年の古文書学や地域史研究(丸山氏に加え、中近世の阿波の在地土豪や忌部氏伝説の形成過程を検証する長谷川氏らをはじめとする専門家による史料批判など)において、その記述内容や成立背景について慎重な見解が示されています。
中世の輝かしい武功や南朝方としての忠節、忌部氏・平氏の末裔たる由緒を語るこれらの古文書群が、すべて当時の情勢をそのまま記録した純粋な「一次史料」とは限りません。その一部には、江戸時代という厳格な身分制社会の中で在地土豪が庄屋層として生き残り、特権的な家格や所領、あるいは宗教的権威(大嘗祭への麁服貢進など)を藩庁に認めてもらう過程で、後世に編纂・潤色された「由緒書(ゆいしょがき)」の性格を帯びているものが含まれる可能性が指摘されています。
さらに重要なのは、これらの史料を読み解いてきた過去の研究者や編纂者たちの「眼差し」です。明治・大正期の郷土史家や国学者、そして戦後の村史編纂者たちは、決して悪意を持って歴史を歪めたわけではありません。彼らの根底には、阿波忌部という古代の名族や南朝忠臣への極めて強い「忌部愛」や「郷土愛」がありました。その深い敬意と情熱ゆえに、史料の曖昧な記述や断片的な情報を最大限に好意的に解釈し、郷土の誇り高き物語として意味づけ、補強していった側面が多大にあると考えられます。
したがって、本稿を読み解くにあたっては、提示された系図や感状を文字通りの客観的史実として鵜呑みにするのではなく、「近世の先人たちがいかに激動の時代を生き抜き自らの権威を再構築したか」、そして「近代以降の研究者や村の人々が、いかに強い郷土愛をもってその歴史を顕彰し、一つの壮大な物語へと紡ぎ上げていったか」という、何重にも重なる“想いの連鎖”として捉える視座が不可欠となります。
本稿の末尾(第四項)で展開される史料批判は、そうした愛ゆえの拡大解釈が孕む軍事地理的な矛盾や文書解釈の再考を促すものです。以上の多層的な史料的背景を念頭に置いた上で、郷土史の大切な参考資料として本編をお読みください。
全国的な荘園の成立・武士団の発生の波は阿波にも及んだ。鎌倉幕府の守護・地頭による全国支配の力も、山深い木屋平の地には直接には及ばず、地元有力氏族の武士団化を促す結果になった。上古以来の阿波忌部氏の有力後裔とされる三木氏と、桓武平氏嫡流から出たと伝える木屋平(のちの松家)氏が、武士団として成長しはじめた時期は明らかではないが、平安末期からの全国的傾向に促されて、鎌倉時代には徐々に進行したと思われる。
大嘗会の麁服貢進(だいじょうえのあらたえこうしん)など御殿人(みどのびと)として、朝廷とのつながりが上古以来続いてきた阿波忌部氏の子孫と伝える三木氏は、次に示すように鎌倉時代以来の系図が知られ、古文書類も多い。それらによると、正平年間(一三四六~七〇)に活躍したとされる氏村が衛門尉・兵衛尉とあり、その父正則が衛門尉と書かれているので、鎌倉末期にはすでに武士団を率いていたと考えられる。氏村の子重村が左兵衛尉・左衛門尉、以下代を追って則村が左兵衛尉、盛村が帯刀尉、政村が右衛門尉、親村が左衛門尉と書かれているので、引き続いて戦国時代にいたるまで武士団の長であったと見ることができる。
(系図左端の記述) 一 中世系図及文書を失ひしかば、宗時以前は之を詳にすることを得ざるも、上に述たる如く阿波国忌部の神裔にして、歴世の大嘗祭に仕へ奉りき。所蔵の文書に徴するに、暦応の大嘗祭に奉仕を最終とし其後は兵乱の為廃絶せり。 一 南北朝時代自氏村至盛村には一族南朝に仕へ奉りぬ。 一 南北朝時代より室町時代を経て織田氏の治世自氏村至家村までは、三木村等を領知し、豊臣氏の治世蜂須賀氏封を阿波に受くるに及て、二郎左衛門より庶民に帰せり、然れども苗字帯刀は故の如くなりき。 <『麻植郷土史』(大正六年刊、久保忠男)による>
一方、木屋平氏も江戸時代には松家と称したが、次に示す同家系譜によると、鎌倉中期「修理介知親が木屋平を姓とし、正元元年(一二五九)鎌倉幕府の執権北条時頼の推挙によって宗尊親王に仕え、三百貫の地を領す」とある。武士団として成長するのはこの後と考えられるので、鎌倉中期以降であろう。知親の子重知、孫知政はともに越前守とだけ書かれているが、次の清道ははじめ木屋平右近左衛門を名乗り、のち「森園(森遠か)」を称したとある。このころには木屋平氏も武士団を擁して木屋平(森遠)に拠り、三ッ木の三木氏と並ぶ土豪に成長していたと考えられる。両氏は南北朝時代南朝方として活躍したが、のち細川頼之に従い、さらに阿波細川氏の被官として戦国時代にいたったと記録されている。
人皇五十四代桓武天皇、葛原親王、高見王、平高望寛平元年五月、良望、良茂、維義、正度、維成、正衡、正盛、忠盛、清盛、重盛、知盛、知忠従五位下伊賀守、長州より予州へ渡り阿波国に移る。
知経 右近大夫後伊賀守、阿波民部成良が子忌田内左衛門尉成直安徳帝を扶助し、平国盛と共に帝に供奉し此地に来り、菅葺の木屋を建て、帝此所に御座す、是れを木屋の内裏と云ふ。
知直
【系譜詳細】(系譜は徳島市大道町松家鹿之助氏蔵。『麻植郷土史』)
三木家文書のうち、正慶元年(一三三二)九月付けの文書によって足利尊氏が擁立した光厳天皇の大嘗会に、また暦応元年(一三三八)十二月付けの文書によって同じく北朝の光明天皇の大嘗会に、三木氏が奉仕したことが知られる。康永四年(一三四五)の口宣案は忌部(三木)重村を左兵衛尉に任ずとの叙任書で、三木氏はこの時期までは少なくとも表面上は北朝方、すなわちそれまで支配を受けてきた武家方にいたことが知られる。次に観応二年(一三五一、南朝の正平六年)の宛行(あてがい)状の年号は北朝のものであるが、この前年ごろから南朝とのつながりを深めたと思われる。翌年の正平七年七月付けで、南朝から安堵状を受けている。
木屋平氏についても同じことがいえる。松家氏の系譜によると、木屋平姓を森園(遠)と改めた清道の子蔵人は、貞和三年(一三四七)足利尊氏に従い、観応二年直義軍との戦に討ち死にしている。ところが、三年後の正平九年には木屋平五郎(系譜では新五左衛門知氏に当たる)が、南朝のために軍忠が認められるとの後村上天皇の綸旨を受けている。
以上から考えると、同地域で武士団を率いていた両氏は、常に協調を保ち、南北朝期の動乱に対処するに当たっても、同一行動をとったものと考えられる。このことは、次の室町時代に入っても同じであったといえよう。
南北朝時代の阿波は、足利氏の重臣細川氏の勢力下にあった。このような趨勢(すうせい)は阿波一国だけでなく、ほとんど四国全域が細川氏一族の支配に属していたのである。
北朝は足利氏の勢力を背景として、威勢隆々たるものがあるのに反し、南朝は実に微力であった。しかしその時代に、極めて強力な四国管領細川氏の勢力圏内にあって、剣山を中心とする山岳武士の一団は、細川氏に対抗して永く節を曲げなかった。その主なものは九氏あって、三ッ木の三木氏、小屋平の木屋平氏のほか祖谷の菅生氏、小野寺氏、西山氏、徳善氏、小川氏、落合氏と渡部氏であった。
昭和十一年東京大学史料編纂所から古文書の調査に来県した渡辺世祐(せゆう)の講演要旨は、次のとおりであった。
(昭和十一年十月十六日『大阪毎日新聞』徳島版所載)
剣山山脈の天険によって細川の大軍と戦った山岳武士を見ると筆頭は麻植郡の三木氏である。これは大層有力な武士で大きな勲功をたてたとみえ南朝から御沙汰書を賜っている。有名な薄墨の綸旨で内容は「これまでよく忠勤にはげんだ、神妙に思う。いよいよ忠勤をつくせ」との意味で、三木氏の活動開始は正平七年である。その当時阿波に下って動皇軍の総指揮官として働いた栗野三位中将という人があり、この人を中心に阿波守為仲、出雲守時有らが盛んに奮闘した。三木氏は勲功によって種野山の三ッ木村を所領として賜わったのである。
次に小屋平氏がある。秘蔵する当時の古文書の中最も注目すべきは白綸旨だ。綸旨の用紙は大抵薄墨で白紙のいわゆる白綸旨は全くめずらしい。しかも殆ど綸旨の寸法は縦一尺位であるのに小屋平氏の白綸旨は縦二寸二、三分、横三寸位の小型である。
これは敵中を潜行して密使が届けなければならない為に特に小さくし頭のもとどりの中に忍ばしたり、笠のうらにかくしたりする便をはかったものでもとどりの綸旨とも称し当時の吉野朝の連絡がいかに困難であったかをよく物語るものである。(以下略)
建武中興によって政権が後醍醐天皇に返る前数年の京都は、天皇が隠岐に流されたこともあり、また北条氏が滅亡したこともあって世の中が大変混乱した。そのころ麻植郡の忌部の一族の結束を固めるために作られた次のような契約状が、三木家文書の中にある。
契約 阿波国御衣御殿人子細事(あわのくにみそえみどのおどしさいのこと)
右件御衣御代最初御衣殿人たるうゑ(上は)者相互御殿人中自然事あらば見訪聞妨(みはなちききはなち)べからず候此上者衆中ひやう定をかけ其可有儀(義)者也但十人あらば七、八人儀(義)につき五人あらば三人儀(義)付べきものなり但盗強盗山賊海賊夜打おき候ては更に相いろふべからず候上は不可口入(違乱)及所のほかのこと一座見妨(異議)べか(ら)ず候但この中ニいぎをも申しらんがましきこと申物あらば衆中をいだし(追出)候べきものなり此上ハ一年ニ二度よりあい(寄合)をくわえてひやうぢやう(評定)あるべく候会合二月廿三日やまさき(山崎)のいち(市)九月廿三日いち(市)を可定者也仍契約如件
正慶元年(一三三二)十一月 日
中橋西信(花押) 北野宗光(花押) 高如安行 高原藤次郎太夫 名高河惣五郎太夫 今鞍進士 藤三郎(花押) 治野法橋 田方兵衛入道 赤松藤三郎太夫 永谷吉守(花押) 大阪半六 三木氏村(花押)
右の文書の「御代最初御殿人」については「第二章麁服貢進」のはじめに述べたように、ここの場合は光厳天皇(元弘二年=一三三二=三月二十二日即位)の大嘗会に奉仕した人たちである。「見訪聞妨(みはなちききはなち)」は見放聞放の誤記であろう。「儀」は「議」と同じ使いかたである。「夜打」は夜間に徒党を組んで人家に打ち入り、脅迫して金品を奪うのをいう。「相いろふべからず候上は……」とは、当時は盗・強盗・山賊・海賊・夜打ちをした者ばかりでなく、それを見たり聞いたりして知りながら隠していた者も同罪というきまりであったので「相いろふべからず」(かかわってはならない)としたこの契約は矛盾する。そのため「口入(口ぞえ・とりもち)に及ばざる所」として除外したのである。
幕末以来、忌部神社の所在地が争われてきたが、「会合二月二十三日山崎の市……」の一項は、山崎こそ古来の忌部神社の所在地であるという有力な証拠になっている。山崎の市は古来の忌部神社の市であって、その市が立つ二月二十三日と九月二十三日に忌部御衣殿人の結束の会合日に定めたというのである。中橋西信以下一三人の署名を見ると、三人が「太夫」を称しているが、これは本来五位の人の通称である。また一人が「法橋」を称しているが、法橋は律師に相当する僧位で本来五位相当の僧官と同格である。さらに一人が称する「進士」は古くは大宝令で式部省の試験に合格した人をいい、のちには文章生をもいった。これらを考えると当時僭称(身分以上に自称する)が一般化していたことが知られる。
この契約の内容は、光厳天皇の大嘗会に御衣殿人として奉仕した中橋西信ら三木氏村を中心とする一三人が、盗・強盗・夜打ちなど犯罪行為は別にして、すべてにわたって今日流の民主的な手法で互いに助け合い、協力し合っていこうと結束を固め、結盟を確認し合ったものである。それゆえに、古来「忌部の契約」と呼ばれて尊ばれるのである。なお、この正慶元年という年号は北朝方の使用するものである。
次にその翌年には、南朝の元弘年号を使った、ほとんど同じ内容の契約がみられる。
阿波国御衣御殿人子細事
合 右御代最初御殿人にて候うえは、相たがいに大小をききはなち見はなちまいらせ候まじ。但山賊海賊夜打からうとう(強盗)においてハさらにききつくべからず候。其外はいかなる見聞(権門)せいきよ(勢家)の御りやうにて候とも、いささかの事ききつくべく候。ただし小事は内々にてひやうちやう(評定)あって惣(契約に加わった人たち)のきもう(議定)につくべし候仍けいやく状如件
元弘三年(一三三三)十一月 日
長者長村 赤松右満允 長谷吉定 千野法橋 名高河惣五郎太夫 田方兵衛入道 高原藤二郎太夫 中橋西信 今鞍進士 三木氏村 大坂半六 高如安行
これには長者長村の名が見えている。長者とは忌部氏族の長のこととで、氏族制度の時代にはどの氏にもそれぞれ氏の長者があった。長村は三木氏村の父で四郎太夫とも称した人のことである。また、忌部の諸氏は自己の姓名を記す場合、まず「忌部」と記し、続いて姓名を署名することが多くなると思われる。例えば「忌部三木氏村」といった具合となる。これを略して「忌部氏村」とすることもあった。
一年前(正慶元年)の契約にも一三人が署名しているが、それに出ている人物でこの元弘三年の文書に出ていない者が北野宗光と藤三郎で、元弘三年の文書に出ていて前の文書に出ていない者に長者長村がある。これがなぜか研究すべき余地はあるが、それは他の機会に任せるとして、これらの豪族(長者)の中、子孫のわかっている者、また出身地などを推察できる者などをあげてみたい。
まず長者長村、三木氏村親子が現在の三ツ木の三木家の祖であることは確実、また今鞍進士は元美郷村住で現在は東京都多摩市に住み東山病院を経営する後藤田圭博家の祖であることも一般に認められているところである(注1)。また赤松藤三郎太夫(赤松右満允と同一人物か)は二字の赤松地域を支配した赤松氏ではないかといわれ、さらに治野(知野)及び田方なる地域が現在も穴吹町口山にあり、治野氏、田方氏はそうした地域を支配した人物ではないかと考えられ(注2)る。
忌部の諸氏は本来各地で勢力を張っていた豪族で、お互いに地縁関係で結ばれていたものと思われる。しかし、鎌倉時代の末期になって世の中が乱れ、さらに南北朝時代に入って一層社会の混乱がましたため、彼らはお互いに団結して自己の立場を守ろうとする。その表れがすでに述べた「忌部の契約」等に見られる。従来豪族間の結合の中心となっていたのは主として地縁関係であったが、以後彼らは自分たちの意識の中に血縁関係を打ち立てることによって自分たちの関係をより強固なものにしようとする。事実、以後相互間の結婚も多くなるはずである。また、現実に目にすることによって意識を高め得るものとして家紋の統一があった。忌部の祖は天日鷲命とされているが、この命の名の中に見える「鷲」をもって命を示すこともある。しかし鷲は数が少ないこともあって、代わりに鷹を用いてその羽根二枚を中央で交わらせる「鷹の羽ちがい」が共通の家紋として利用された。彼らの着衣等には必ずこの紋が付いていてそれをお互いが確かめ合い、彼らの団結を誇示したのである。本村の忌部氏も多く右の「家紋」を用いた。
元弘三年の契約があった翌年建武中興(一三三四)がなされたが、建武二年には足利尊氏が離反して南北朝が対立し、延元三年(一三三八、北朝は暦応元年)八月には尊氏が征夷大将軍となって、京都に幕府を開いた。阿波では細川和氏が守護となり、秋月城に拠った。吉野川平野の豪族や武士は、小野寺氏など一部を除いては細川氏に服したが、剣山を中心とした山岳武士は細川氏に対する抗争を始めた。
吉野からの連絡路は、紀州湯浅の港から小松島や橘の港を経て名東郡一宮城の小笠原氏へ通じ、名西の山分を抜けて川井峠または野々脇峠を越え、麻植山分の三木氏・小屋平氏と結び、穴吹川に沿って剣山の麓の見ノ越を通り名頃を経て東祖谷の菅生・西山・徳善氏などと結び川口から伊予へ通じ、伊予の宮方と結ぶ忽那(くつな)島を経て九州の菊池氏に及んだものである。木屋平村から東祖谷へ通ずる第二の道は、太合から保賀山峠を経て一宇村へ出て、さらに小島峠を越えて菅生へ出る方法である。第三のコースとしては森遠城から中尾山・丸笹山・塔ノ丸を経て菅生へ出ることも考えられる。交通路の発達していなかった時代は、川に沿い谷に沿うというだけでなく、峰から峰へと山の尾根を越えるのが普通であったことから、これらのコースが考えられるのである。
一宮城へは川井峠を越すのが普通考えられる道であるが、三木氏との連絡には名西山分から東宮山に登り、杖立峠を下って小日浦に出て川を渡り、三木家へ登った。
一族である河村氏については次の文書がある。これは豊後国(現大分県)『硯田叢書』にある飯尾家に関するものの中で、観応三年(一三五二、北朝の文和元年)五月二十日、沙弥心蔵という人物が奉行所へあてたもので「観応二年十月三日押寄河村四郎城山手迄同十三日抽軍忠(以下略)」とあり、河村氏が敗北していることがわかる。『阿波志』に、
忌部久家 神祇伯仲資王記云 建久五年六月十二日辛丑 還補氏長者 其裔河村氏元文中宥故出亡 而大祀之時忌部氏 上荒服御衣
とあるが、これでみると忌部久家は建久五年(一一九四)忌部氏長者に補されており、その子孫河村氏が南北朝・室町時代にわたって活躍したことが知られている。三木家文書に、次の宛行状がある。
宛行 種野山国衙分三木内在家弐処之事
右於御方依致忠彼在家所補任之状如件
観応二年七月廿二日 (花押) 三木衛門尉殿
「在家(ざいけ)所補任」とは名主職に任命すること、観応二年(一三五一)は北朝崇光天皇の年号である。
観応二年は南朝の正平六年に当たるが、その翌年には南朝年号の次の文書をもらっている。
(花押) 阿波国種野山内三木村 事 為本知行 不可有相違軍之旨 依仰執達如件
正平七年七月 日 阿波守為仲奉 三木左衛門尉殿
これは南朝方の阿波守為仲から三木氏村(重村の父)に、戦功を賞して出されたもので、三ッ木村を知行させるとの宛行状である。阿波守為仲と出雲守時有は、共に栗野三位中将に属して南朝方で活躍したとされるが、詳細は知られていない。
『阿波国徴古雑抄』に小杉榲邨(すぎむら)は「太平記二十二巻暦応三年(一三四〇)五月四日の条に、此陣は三木板東板西の兵共云々といへる板東板西は板野分割以後の二郡なれば三木とあるも三木氏なることを知りぬべし」と書き、『太平記』の文中の「三木」は木屋平の三木を指すとしている。またこの時に活動した三木氏村―重村―盛村の中でも三木氏村がとくに傑出していたものと思われ、『阿波志』にも次のように書かれている。
任左衛門尉 居種野山三木任南朝正平七年賜本村 二十二年勤王有功賜書以賞戦正平文応文書若干通及匕首又義文保二年宣旨案時貢荒服御衣 忌部大税之時例儀麁服斎服也 三木氏皆忌部乎
軍忠之次第被聞召了 尤以神妙 猶弥可抽忠節 者 天気如此悉之以状
正平九年九月廿三日 左兵衛督(花押) 三木兵衛尉殿
三木氏村を兵衛尉とも呼んでいる。前述の系図のように当時は諱(いみな)や官職名は幾通りもの名が使われている。この文書は小型の白綸旨で、有名な「髻(もとどり)の綸旨」である。「戦功のあったことは天皇のお耳に達した。まことに神妙なことである。なおますます忠節を尽くしてくれよ。このような天皇(後村上)のおぼしめしを、この状で十分にくみとって欲しい」との意味である。
これと同文のものが同日付で、森遠の小屋平五郎と小屋平弥三郎の両人にも出されている。紙の大きさも筆者も同じである。小屋平氏はその祖先は平氏と伝えられ、森遠に塁を構えていたが、五郎と弥三郎は親子であるか兄弟であるか不明で、このころは一族の分家が数軒あった。小屋平五郎については『阿陽忠功伝』に、
文和二年に当る此年山名時氏其の子師氏謀反して南朝方となる。子細は去年八幡の合戦に師氏軍功あるによって佐々木道誉を頼りて賞を望む。道誉対面せず。師氏怒って本国伯耆へ帰りて父時氏を勧めて軍を起し、五月伯耆を出て六月吉野の官軍と牒(しめ)し合せて都へ攻め上る。足利義詮敗軍し主上を守り奉り江州坂本へ落ちつき、それより東国へ行幸、敵迫り来りければ路にて道誉が子秀綱討死す。
主上を細川清氏背に負ひ奉り美濃国に暫く皇居を定めて義詮守護し諸国の勢を集めて山名を討たんわす。山名父子勢尽き伯耆へ帰る。義詮主上を守護して都へ還幸あり、此の時小屋平五郎も南朝へ御味方に参り山名が勢に加り軍忠を致しけるにや。
とある。文和二年(一三五三)は北朝年号で、南朝の正平八年にあたる。この年、尊氏・義詮は後光厳院を奉じて入京している。前年の正平七年には阿波の守護である細川和氏の弟、四国管領頼春が京都で楠正儀の急襲によって討ち死にしている。三好郡大西(現池田)を本拠としていた小笠原義盛も、頼春とともに討ち死にして北朝方が痛手を受けたので、この機に阿波山岳武士の活動は活発になったようである。
とくに阿波郡朽田庄(くちだ)にいた小野寺八郎が、平野武士の中にあって山岳武士に呼応したことは、次の文書によって明らかである。
花押 於上郡御軍忠之由承及候之条目出度候此等之存細早々可注進事御状如 件
正平七年七月十一日 宮内大輔(花押) 小野寺八郎殿一族御中
この文書の宮内大輔は、一宮城にいた小笠原成宗のことである。一宮と朽田の庄にいた小野寺氏の提携がわかる。
また正平十五年(一三六〇)に三木氏は戦功によって、高越寺西庄を賜ったことが次の文書によってわかる。
高越寺西之庄というのは、現在西条と呼ばれている中村山の一部である。
(花押) 阿波国高越寺庄内西庄為御恩可知行之旨依仰執達如件
正平十五年八月三日 出雲守時有奉 三木太郎兵衛殿
他方小屋平氏も三木氏も連絡を密にして活動をしていて次の綸旨によって戦功が賞されている。
致忠節之由被聞食畢 尤以神妙此時分弥抽軍忠者 宜有褒賞由 天気 如此悉之以状
正平十五年五月十六日 勘解由次官(花押) 小屋平右兵衛尉館
度々合戦致忠節之由 被聞食了 尤神妙者 天気如此悉之以状
正平十六年七月廿二日 少納言(花押) 大浦兵衛尉館
この綸旨も「髻(もとどり)の綸旨」で、横一〇・九糎、縦八・二糎、紙は白色で薄墨(宿紙)でなく雁皮(がんぴ)紙のような薄手のものである。吉野からの送付に、小型で敵の目を避けるのに都合がよいといわれているが、紙の貴重な時代でもあり、これによって吉野朝廷の経済状態を知ることができると解釈している史家もある。小型の綸旨はこのほかに、前述の正平九年小屋平五郎と同弥三郎にあてた同文同日付のものと合わせて、小屋平氏に計三通ある。 さらに、前述したとおりこれと同様なものが三木兵衛尉(氏村)にも出されているので、小屋平(松家)・三木の両家の綸旨を合わせると四通となる。文学博士渡辺世祐はこれについて、次のように述べている。
此種のものは宮城県にある結城白川氏に残るもの二通、福岡県筑後矢部の五条氏に二通、熊本県肥後の阿蘇氏に二通ある。之を世に髻(もとどり)の綸旨という。普通に捧げ持って下ることが困難なので髻の中に忍ばして持ったり、ずたずたに切ったものを綴って冠や笠の緒に綴りこんだりまたは笠の裏に巻いて持ったもので、敵に捕えられた時の事を考えて作られたのである。これによって連絡の困難と吉野朝の状態、即ち財政困難な事を知るのである。
一部にいわれている「松家氏に四通」はまちがいであって、松家氏に三通、三木氏に一通であり、全国では九通である。 さてここで問題となるのは、三木氏・小屋平氏はどこで細川勢と戦ったかということであるが、川上の梅津多金美の話によると、梅津氏の祖先梅津六郎左衛門輝政は小屋平氏に従って一宮城に出陣、戦没したといい伝えていることから、細川軍と相対峙(あいたいじ)した一宮城付近で戦ったと考えられる。木屋平村内では戦ったという伝説もなく証明するような資料もない。
(花押) 種野山内三木半分 不可有相違旨 依仰執達如件
正平十八年六月 日 阿波守為仲奉 三木九郎兵衛尉殿
この正平十八年(一三六三)には山岳武士として活動していた一宮城主が、讃岐白峰に拠って吉野方に呼応した細川氏の一族細川清氏を援けるために出兵したが、目的を達せず敵将細川頼之と和睦(わぼく)し、一宮城をあけわたしている。
一宮城は、四国山脈を要所要所で点々と固めた山岳武士が、この域を平野へ出口の拠点とし、また吉野からの連絡の東の入り口とした所である。もちろん細川氏が山岳武士壊滅の戦略上、第一に着目した城でもあった。一宮城主成宗は、城をあけわたして美馬郡の重清に隠退したと伝えられる。こうしていよいよ阿波山岳武士の衰えが見え始めたのである。一宮城付近の板碑に、これ以後北朝年号銘のものが多く見られる事実からも、一宮落城を境として細川氏の勢力が強くなっていったことが知られよう。
しかしその後正平二十二年(一三六七)になって、三木重村は次の綸旨を受けた。
忠節之次第被聞食了 尤以神妙 弥可守其節者 天気如此悉之
正平廿二年三月廿三日 左少辨(花押) 三木太郎左衛門尉
これは後村上天皇の薄墨の綸旨である。同年重村の子盛村も次の綸旨を受けた。
(花押) 親父太郎左衛門重村同致軍忠之由被聞食了 尤以神妙次第也 別可有賞之旨依執達如件
正平二十二年卯月十四日 阿波守為仲奉 三木帯刀允殿
また、同年祖谷の菅生氏にも次の綸旨が出されている。
多年軍忠次第殊更以神妙也 弥可被致忠節之旨 依仰執達如件
正平二十二年十二月二十七日 右馬允光興奉 菅生大炊殿
正平十八年(一三六三)に一宮城が細川氏の手に落ちたために、直接細川勢に相対する場所が神山町になり、一宮方面を通り抜けることが出来ず吉野との連絡がだんだんと困難な情勢になってきた。 しかし忠節を守って、四年後の正平二十二年に以上の綸旨を後村上天皇から受けたのである。三木・小屋平・菅生の諸氏が、宮方から受けた綸旨はこれが最後である。つまり一宮の落城を機として、宮方の勢力は衰えはじめた。
剣山周辺の山岳武士は、宮方にとって主としてどんな役割を果たしていたのかと考えてみると、当時の吉野へ通ずる阿波の港は橘港で、伊島を通って和泉の境港・紀伊の湯浅の港に連絡したと思われる。一宮城の落城の前までは、一宮城から鮎喰川をさかのぼって入田・広野・寄井・川又を通り、野々脇峠を越えて三木氏と連絡したであろうし、一部は川井峠を越えて小屋平氏と連絡したと思われる。小屋平から菅生への連絡路であるが、これは最短距離である川上から見ノ越へ谷に沿って上り、名頃へ出て菅生へ至る道が自然であると考えられる。
一方、太合から保賀山峠を越えて、一宇村へ出て小島峠を越え菅生へ通じる道もあるが、距離的に大変遠いことと、人目につきやすい欠点がある。菅生からは祖谷川に沿って善徳・徳善・榎・川口・佐野を経て、伊予の宮方に通じたといわれる。伊予からは九州の宮方に連絡をつけたので、吉野と九州を結ぶ連絡路の役を果たしたのが、剣山周辺の山岳武士の功績であった。
ただしこの連絡に直接当たったのは、吉野大峰の修験道の山伏であったと推測されている。修験道は真言や天台の密教の中に神道をも取り入れた、日本化された宗教で、その教義も実践の中にみるという実際的なものであり、宗教の革新化にふさわしい存在であった。後醍醐天皇の吉野行幸や護良親王の吉野挙兵も修験道と関係が深いし、吉野大峰はその本山である。高越寺は吉野山に対して西山上という呼び名もあり、高越寺を再興したと伝える聖宝は、大峰山信仰を中興した人でもある。高越寺の開山縁起によると、忌部の祖神天日鷲命が修験道の本尊蔵王権現として高越寺に現れたと伝えられるほど忌部氏との交渉があり、三木氏は高越寺庄を宛行われたこともあり、山岳武士は高越寺ひいては修験道と深い関係があると考えられる。三木重村を主人公に『阿波山岳党』という小説を書いた中沢実夫も、小説のあと書きとして次のようにいっている。
吉野川に沿った平野は細川氏の勢力範囲になったので、やむなく山岳が連絡路に使われたと解する山岳武士各々の心中には、宮方に対する忠誠が強く燃きつけられていたに違いない。
特に三木氏は御衣御殿人として朝廷に関係があったので、他の豪族以上に宮方への接触が深かったもので、自然に心から忠誠を誓うようになったのであろう。
川井の麻衣(あさぎぬ)に新田の滝というのがあり、また新田神社もある。ことに極楽寺には新田義宗の像と伝えられる小さな木像もある。さらに義宗の位牌(いはい)と称せられるものまであるが、田所眉東著『阿波新田氏』によると徳島県下に新田神社が六十余社あるとのことである。これについて同氏は、何故新田系の人をまつったのかという解明に、祖先でもなくまたその人に世話になったという功績をたたえるためでもなく、新田氏をまつることで自分たちの主義主張をあらわしたのであろうとしている。
なお、南朝の使者金昌がこの地に来たが、吉野の勢力が衰えたため帰ることができず、この地に住みついたとされる。墓が極楽寺南の山中にあり、『阿波志』に「金昌塚、川井山に在り塚上古槻(実は榎)あり」と書かれている。川井伊藤家には、金昌が寄進したと伝えられる椀がある(民俗資料館に保管)。
『麻植郡誌』(大正十一年、麻植郡教育会編)には次のように書かれている。
川井村麻衣に新田氏が来ておったので、そこの極楽寺というお寺には新田義宗の木像と位牌がある。そのほか付近には新田滝・新田森・新田神社等があり、また寺の背後に義宗の墓と伝へてゐるものがある。小形の板碑である。
阿波の宮方は、東の方からだんだん衰えていった。第一に一宮城が屈し、三木・小屋平・菅生も細川氏に属することになったのが、次の松家家文書二通、三木家文書一通によって証明された。
『細川頼之預ヶ状』
阿波国種野山大浦内地頭国(衙)弐名之事 参(みかた)御方致忠節所預置也守先例可致沙汰之状如件
応安五年十一月廿一日 武蔵守(花押) 小屋平新左衛門尉殿
「阿波国種野山大浦内にある国司支配の土地二名(みょう)(大浦名と焼尾名)については、味方となって忠義を尽くしているその方に支配を任せる。行政処理に当たっては、先例を守るようにせよ」との意味である。名(みょう)とは名田で、元来は所有者の名を冠して呼んだことから、地名のついている土地一区画を指す。以下の二通も同じ内容のものである。
『細川頼有預ヶ状』
阿波国種野山大浦内地頭国(衙)弐名之事 所預置也守先例可致沙汰之状如件
応安六年四月廿二日 右馬頭(花押) 小屋平新左衛門尉殿
『細川頼有預ヶ状』
阿波国種野山国(衙)ヶ方内三木名事 所預置也守先例可致沙汰之状如件
応安六年七月廿五日 右馬頭(花押) 三木太郎左衛門(親村)殿
武蔵守は細川頼之であり、右馬頭は応安六年(一三七三)に阿波守護職になった細川頼有(頼之の弟)で、応安(一三六八〜七五)は北朝年号である。この預け状によって、小屋平氏・三木氏ともに北朝方についたことが知られる。正平九年(一三五四)宮方の綸旨を受けてから、二〇年目に小屋平氏が北朝に従ったことになるが、同じころ三木氏も北朝に従ったことを示す文書を得ているので、山岳武士の活動が事実上とまったのは、小屋平氏が北朝に従った応安五年(一三七二)ころであろう。
阿波郡市場の八幡神社から当村に分霊を勧請して新八幡宮ととなえ、その地名も市場の場合と同じく八幡(やわた)と呼ばれるようになった。その時期は三木・小屋平両氏が細川頼有の宛行状を受けた応安五(一三七二)・六年から間もなくであったと思われる。同社社宝のうち鰐口の銘に「明徳二年(一三九一)七月二十三日大工伴正光、奉懸新八幡宮打鳴、大願主忌部義行敬白」とある。また薙刀大小二口があり、いずれも全面黒錆で厚く覆われて地鉄・刃文は不明であるが、大は刃長八三・四糎、茎(なかご)長六一・八糎の大薙刀である。小は刃長四四・三糎、茎長三七・五糎で後世の普通の大きさのものである。大小ともに長さの割りには身幅が後世のもののように広くなく反りも浅く、先が大きくは張らず古様を示し、南北朝期によく見られる形状である。また冑(かぶと)があって面頬(めんぽお)が添えられているが、錣(しころ)・吹返(ふきかえし)・鍬形など部品はすべて欠失し、赤錆びた鉢の本体だけである。『蒙古襲来絵図』の例など鎌倉後期までのものによく見られる三二間(三二枚合わせ)ないし三八間(三八枚合わせ)の星冑でなく、筋冑である。しかも矧(はぎ)合わせの板は一二枚と少なく、形もほぼ正円形で比較的に口の開いたもので、後世戦国時代の物などのような後頭部のふくらみも見られない。これから考えると筋冑としては古い様式で、薙刀と同じく南北朝時代のものと見られるものである。
次に室町時代における活動を、古文書にもとづいて見ていくことにする。次のものも三木家文書の一である。
「細川常有感状」
就畠山右衛門御対治永々在陣之条尤神妙候仍官途之事不可有子細候也 謹言
寛正四年三月廿三日 刑部少輔(花押) 三木帯刀丞殿
寛正四年(一四六三)に、三木帯刀丞の出陣について刑部少輔から出された文書であるが、刑部少輔とは川田和泉屋形の細川常有のことで、帯刀丞は三木英村のことである。重村―盛村―政村―英村と続いている。
これは、寛正三年に三木帯刀丞が畠山政長・細川成之と共に畠山義就を攻めたことに対する賞詞で、この戦いで義就は熊野へ走りさらに高野山へ逃げたとされている。畠山義就とは畠山右衛門のことである。『南海治乱記』によると、この争いは細川勝元と山名宗全の勢力争いにかかるもので、山名宗全が畠山義就とその兄政長との家督争いを利用して斯波・畠山両家を自分の味方とするために策動したため生じたもので、川田和泉屋形の細川常有が、細川勝元方となって宗全・義就に対抗したのである。文の意味は「畠山右衛門義就との戦いに、永らく出陣されたことはもっとも神妙である。望んでいた官途につくことは、故障なく達せられるであろう。謹言」で、三木英村はこの戦いで、河内国岳山城に出陣したと考えられる。
さらに次の文書がある。
去五日於河内西郡山致合戦被疵候之条祝着候殊ニ一族六郎左衛門尉討死候弥以神妙無極候仍官途事心得候次太刀一腰遣候謹言
三月八日 常有(花押) 木屋平新左衛門尉殿
「去る五日河内国西郡山で合戦し、負傷までして名を挙げたのはめでたいことである。とくに、その方の一族六郎左衛門尉が討ち死にしたことは格別の働きである。したがって、それにふさわしい官職が得られるよう心がけておく。また太刀一腰を与える」との意味である。前の三木帯刀丞あてのものと同じく細川常有からの書状で、河内国西郡山合戦における木屋平氏の軍功を賞し、官職を保証した内容である。南北朝時代の小屋平でなく、木屋平になっていることが注目される。
右の時から五〇年ほど経過しているが、三木文書の一に細川元常からのものがある。
「細川元常官途状」
望申官途之事得其意候也謹言
永正九年八月八日 元常(花押) 三木左京進殿
永正九年(一五一二)の文書で、三木左京進は英村の孫宗村である。元常は細川頼有から九代の子孫で阿波守護職、のち将軍義晴について亡命し、所領は三好氏に没収された。この文書は「あなたの希望している官途については承知した」とのことである。
三木氏・木屋平氏いずれも戦功の賞として望むことは官職であることが共通している。官職は本来朝廷から補任されるものであるが、世の乱れとともに守護職などが配下に官職名を称する許可を与えることが、広く行われた。
天正三年(一五七五)に長篠の合戦があり、織田信長が全盛期を迎えようとしていた。当時の阿波国は三好豊前守義賢(実休)が戦死したあと、子の長治が勝瑞城で跡目を継いでいたが、年が若いために篠原紫雲長房が国政を執っていた。紫雲はまた岫雲とも号した。紫雲は優れた政治家で、薬師という賢者を顧問として政治について相談もし、公平に政治を行ったので、人びとは悦び服して国中が大変よく治まっていたということである。
長治の母は小少将の局(大形殿とも呼ばれた)といって阿波守護細川持隆の愛妾であったが、家臣三好実休は兄の三好長慶が勢力を得るにつれて、だんだんと力を得てきたために、主人の持隆をしのぐようになってきた。こんな理由で持隆と実休の間柄がしだいに悪くなり、実休はついに天文二十一年(一五五二)に主人の持隆を殺したばかりでなく、小少将の局を自分の妻としてしまった。小少将の局は持隆との間に真之という子を産んでいるが、実休との間にも長治・存保の二児を産んだ。したがって真之と長治は異父同腹の兄弟である。
永禄五年(一五六二)泉州(現大阪府)久米田の戦いで三好実休は陣没したので、夫を失った小少将の局は第三の夫として篠原肥前入道自遁と通じた。その以前に篠原紫雲に心を寄せていたが、紫雲が相手にしないので自遁のもとへ走り、その腹いせに紫雲のことを子の長治に讒言したのであるとの説がある。長治は怒り、紫雲は勝瑞城から川島の上桜城に帰った。長治・存保兄弟がこれを攻めることになった。
松家家文書の中に三好長治・存保・細川真之に加勢して上桜城を攻め戦功をたてた木屋平氏に対して、細川真之と三好長治両人がそれぞれ出した手紙がある。のちには長治は義兄である真之を敵視する間柄になるが、この当時は相共に手をたずさえてはかりごとを練っていたことが次の二通によってわかる。
<第一通>細川真之からの文書
岫雲父子成敗之儀長治同前候 仍先日河島相動処ニ無比類仕立神妙候 然者来十八日ニ彼表江可打越候条可得其意候 尚様躰従長治可被申候 恐々謹言
五月十五日 真之(花押) 木屋平刑部丞殿 木屋平越前守殿
文書の内容は「篠原岫雲父子を征伐するについては、三好長治とも同じ考えです。したがって、先日川島方の動きに対し抜群の働きをされたことはすばらしいことです。それで、きたる十八日に川島へ出かけていきますので、面談したく思います。なお詳しい状況は長治から申すでしょう」というものである。
<第二通>三好長治からの文書
先日者従河島相動候処早速被懸合即時被追崩之由伊右 篠玄迄注進之候 誠無比類仕立候 然者一昨日至引田御屋形御供申着岸候来十八日彼表 江可打越候条被得其意当日可被相動事肝要候 尚様躰年寄共可申候恐々謹言
五月十五日 長治(花押) 木屋平刑部丞殿 木屋平越前守殿
この手紙も真之のものと同日付で、この中にある「伊右」は伊沢右近大輔、篠玄は篠原玄蕃のことで、玄蕃は自遁の子息である。上桜城の戦は天正三年(一五七五)七月十六日であったから、この戦に備えて準備のために五月十八日に川島へ集まったのである。文書の内容は「先日は川島勢が動いたのに対し、早速立ち向かい、打ち退けられたとのこと、伊沢右近から篠原玄蕃の所へ報告がありました。誠に抜群の働きであります。それで一昨日引田に行き、お屋形(細川真之)のお供をしてこちらへ着岸しました。十八日にはむこう(川島)へ出かけていきますので、そのお積もりで、当日は出動たさらないことが肝要です。さらに詳しいことは重臣共から申すでありましょう」というもので、この戦いに勝利したあと、真之と長治の間はうまくいかなくなり、天正四年の十二月には真之はひそかに勝瑞城を出て勝浦へのがれた。長治は真之を攻めようとしたが、一宮氏らの反撃を受け、別宮川で自刃した。天正五年三月二十八日のことであった。
上桜城の戦いと時を同じくして、長宗我部元親が海部郡から阿波侵略の火ぶたを切っている。その長宗我部氏に呼応して働いた木屋平氏への書状が、松家家文書中にある。
「長宗我部元親書状」
今春慶事珍重々々 去冬岩倉伝ニ預音信候 両国武略付而此表在陣候処 今度於岩倉 敵及一戦彼表存分無比類手柄共候 定而 可有其聞候条 具不及申候 弥相談下郡表 可及行評儀候条 相応之御働尤可為此時候 当表居陣候間 互切々可申通候 恐々謹言
正月三日 長宮元親(花押) 木部御返報
差出人の「長宮」は長宗我部宮内少輔、「木部」は木屋平越前守の略である。文中の「存分」はしわざ、ふるまいで、「行評儀」は作戦を練ることを指す。書状の内容は「新しい年を迎えおめでたい限りです。去年冬岩倉を通じてのお便り頂きました。土佐・阿波両国統一作戦のためこちらに陣を構えていますが、あなたの方では今度岩倉において一戦をまじえ、その際方々は抜群の軍功を立ててくれました。定めし評判になって聞こえてくるでしょうから詳しい報告は不要です。さらによく打ち合わせた上で下郡平定戦略について軍議を行うことになるので、力を発揮してくれるのはこの際です。私はこちらに陣を構えているので、お互いに緊密な連絡をとり合うことにしましょう」の意である。
この手紙にある岩倉の戦いは、元親が池田から吉野川に沿って東へ進み、三好氏の居城である勝瑞をねらって起こしたものである。天正七年(一五七九)十二月末に岩倉の城主三好徳太郎は、和を講じて元親方となっていたにもかかわらず、三好の一族である森飛騨守へ使いをもって「明日土佐勢が本国に帰る準備をしているので、兵をさしむけてくれるならお味方をする」といってきたので、森飛騨守は三好越後守・矢野駿河守・河村左馬允などと共に岩倉に迫ったが、脇城の陰から伏兵が起こって散々に破られ、多くの武士が討ち死にした。河村左馬允は美郷村別枝の豪族である。そのほか出陣した麻植郡内の諸城主もみな敗死している。鴨島大之進・川島兵衛進・麻植志摩守・飯尾久左衛門らである。ところが、木屋平氏は元親方となって手柄をたてていることが、この手紙でわかる。また「弥相談下郡表可及」とあるので、これからいよいよ三好氏の本拠である勝瑞をつく準備をしていることもわかる。正月三日とあるのは、岩倉の戦の翌年、天正八年の一月三日である。
天正七年に元親が那賀郡の大龍寺に陣を布いた時に、使いをもって木屋平氏を招いた。木屋平氏は元親に忠誠を誓うとともに、一宮長門守を一宮城に訪ねて元親方への降参勧告の使者ともなったのである。一宮氏はその勧告に応じて元親方に下ったので、木屋平氏はその賞として元親から馬・鑓などを与えられている。
また、次の書状が同じく松家家に残っている文書中にある。
「長宗我部元親書状」
態音信本望候 誠今度一宮語口之儀 可被払諸本意向候処 後巻不特 付徴敗北無是非候 殊御一類中御籠城所々即時被砕陣珍重候向後弥御働専一可為肝要候委細使者可申候条 不能子細候 恐々謹言
九月十日 長宮元親(花押) 木上 木越入 御返報
木屋平氏あての元親からの返信で「木上」は木屋平上野介、「木越入」は木屋平越前入道のことである。「わざわざのお便り、ありがたいことです。実のところ、今度一宮城を敵が包囲したのに対し、それを追い払うためわが軍が到着したところ、敵はわが軍をさらに外から攻め囲む軍勢を持たないため、敗退したのは当然のことでした。中でもあなたの一党は籠城しておられたのに、あちらこちらですばやく勝利をおさめ、すばらしい働きでした。これからもますます尽力してくれることがたいせつです。こちらから連絡しますので懸念ありません」の文意。「今度一宮語口之儀」とあるのは、元親に敗れて讃岐十河に退いていた十河存保が、今度は信長の命を奉じて元親方である一宮城を攻めたことを指している。そのさい一宮城に入った木屋平軍が、存保軍を打ち破ったことが賞されているのである。
しかし、この時の十河存保の攻撃には、紀伊国から海路で引き入れられた鉄砲傭兵集団「雑賀衆」が加わっていた。彼らを斡旋したのは、阿波と紀伊を結ぶ広大な修験・海運ネットワークであったと考えられる。阿波の戦国史は、平野部の武将間の争いであると同時に、背後に控える宗教ネットワークの代理戦争という複雑な構造を持っていたのである。木屋平軍はおそらく川井峠を越えて、神山へ出て一宮城へ通じたものと思われる。手紙の日付は天正八年九月十日である。八月には大雨で洪水が各所に起こり、また悪疫の流行もあって治安が乱れ、盗賊が横行したと記録が残されている。
【考証】『入田村史』が示す一宮城の「水断ち」と山岳勢力の暗躍さらに、『入田村史』に残る伝承を交差させることで、阿波の山岳・修験ネットワークが戦国期の軍事行動にいかに深く関与していたかがより浮き彫りとなる。同村史には、長宗我部元親が一宮城を攻める際、雲早山の山頂から大砲で撃ち、矢那谷から人を侵入させて水源を絶ったという「水断ち」の劇的な伝承が記録されている。
しかし史料的観点から推測すると、この水攻めの伝承は、天正十三年(一五八五)の豊臣軍(羽柴秀長)による一宮城攻め(このとき籠城したのは長宗我部方の谷忠澄ら)の記憶と混同された可能性が高い。ここで特筆すべきは、阿波の山間部において「長宗我部の一宮城攻めの際、水の手を切って落城に貢献した」という伝承が、修験ネットワークであった小屋平氏(木屋平氏)らの間でも語り継がれている点である。これは、複雑な地形や水脈、矢那谷のような間道を熟知していた地元の山岳勢力が、実際に侵攻軍へ地理案内などで協力した事実が、後年の「水断ち」の記憶と結びつき、一族の武功として語り継がれたものと推測される。木屋平氏ら在地土豪は、単なる兵力としてではなく、地勢を掌握するスペシャリストとして暗躍していたのである。これらの主体的な動向は、後の蜂須賀氏入部時に木屋平氏らが起こした一揆と、その慰留・鎮圧という吉野川流域における在地勢力の複雑な再編過程へと直接リンクしていく重要な背景となっている。
ところがその五年後、豊臣軍の四国攻略が始まり、元親勢はその防備のため結束を要請する。木屋平氏あての次の文書が残っている。
「長宗我部元親書状」
上勢急度渡海之聞在之付而 両国為下知 一昨日大西相着 昨日岩倉相越弥面々覚悟堅固極之条 防戦一途迄候 先為御音信申入候 委曲期面候 恐々謹言
五月十九日 元親(花押) 木屋平殿 御宿所
この手紙は、岩倉へ迫る羽柴秀長の大軍を迎え討つために、元親が大西(池田)を経て岩倉に着き、将士を激励した時の様子を書き送ったもので、天正十三年五月十九日付けである。「両国為下知」とあるのは阿波と讃岐へ号令するため、「一昨日大西城へ着いて昨日は岩倉へ来たが、一同の決意は固い。詳細については面談の上で申し上げる」との内容である。「御宿所」あてになっているので、この時木屋平氏は出陣してどこかに陣を構えていたのであろう。しかし豊臣軍との戦いにはもちろん元親に利があるはずはなく、ついに秀長に城を明け渡して阿波を退去する結果になった。
豊臣秀吉の四国征伐の時に、蜂須賀正勝・家政は黒田孝高(よしたか)と共に宇喜多秀家の軍に加わって讃岐から阿波に入り、正勝は木津城・一宮城と転戦し、家政は秀長と共に岩倉城を攻略した。もちろん木屋平氏もここで戦っているわけであるが、のち蜂須賀氏阿波入国の時には蜂須賀氏に帰順している。
この戦いで正勝・家政の功が大きかったため、天正十三年六月秀吉は家政に阿波一国を与えた。父の正勝は、秀吉に仕えるべく大坂城に帰ったのである。家政は阿波を治めるために、細川・三好時代からの旧慣を重んじて善政をしいたが、祖谷・大粟・仁宇谷(丹生谷)らの豪族は蜂須賀氏の新政をこころよしとせず、一揆を起こした。九月に起きた祖谷の一揆に対して、家政は兼松惣右衛門を代官として治めさせ、また麻植郡へは黒部兵蔵・久代市兵衛を遣わして説得させている。
この時、木屋平越前守と川井村の梅津左馬之丞・上山邑の金泉兵左衛門らが最も強く反抗した。しかし越前守の弟伊賀守は蜂須賀氏に下り、越前守は祖谷勢と共に蜂須賀軍に抵抗した。伊賀守は川田村の住友彦兵衛・上山村の東條原九右衛門・伊沢村の伊沢志摩守・祖谷の菅生善内らと共に、一揆を鎮めるために各所で働いた。次の木屋平氏あての文書はそのことを認めた一通であるとされる。
「蜂須賀正勝(家政)書状」(※署名に小六とあるので木屋平村史の著者が正勝と勘違いしたのだろうが、小六は蜂須賀氏の通称であり家政も名乗っていた。天正十三年の阿波入国という時代背景から、この書状の「小六」は明確に家政である)
今度仁宇大粟の百姓共非儀働致に其元の者共少も無別儀馳走候由黒部 久代申聞之通一段満足此事候 弥其元相談肝煎簡要候 尚両人可申者也 恐々謹言
九月二日 小六 みつきかし原名主百姓中
これは三木義村に蜂須賀正勝(家政)が出した書状で、三木家系図によると義村は「天文十年丑年二月二十日生 弥兵衛尉 領三木 天正十三年討賊於仁宇大粟 書以被賞元和丙辰年三月五日没 年七十六」とある。「かし原」は現在の樫原、「大粟」は神山町で、「仁宇」は那賀郡の仁宇谷である。内容は「このたび大粟の百姓どもが反抗したが、その方たちは少しも動揺せず、よくがんばってくれたとのこと、黒部久代が伝えるとおり大いに満足している。そのほうたちがますます結束して、奔走(ほんそう)してくれることがたいせつである。詳しいことは使いの両人が申し伝えるはずである」というもので、義村の子二郎左衛門は、政所(まんどころ)となって三ツ木村を治めている。政所はのちの庄屋のことである。川井村は、豪族梅津左馬之丞の一族が庄屋となった。藩政時代の幕あけである。
村史は、木屋平氏が川井峠を越え、木沢村を経て仁宇まで下って反徒を説伏した功により蜂須賀氏から「松家」の姓と禄五十石を受けたと結論づけています。しかし、ここに一つの解釈の余地が生じてきます。
『木屋平村史』が描く「松家の姓を賜った」という輝かしい活躍の叙述。しかし、当時の軍事地理や周辺の古文書と照らし合わせると、そこにはいくつかの記述の矛盾が見受けられます。史料の行間を精緻に読み解くことで、村史の記述の裏に隠された一族の苦難と、それを誇り高き物語として編纂しようとした後世の人々の切実な思いが浮かび上がってきます。
第一の矛盾:軍事地理が示す「仁宇(丹生谷)遠征」の困難性木屋平氏が川井峠を越えてまず大粟(神山)へ出たのち、さらに峻険な土須峠を越え、木沢村を経て仁宇(丹生谷)まで一揆の鎮圧に向かったという記述は、当時の地理的・軍事的状況からみて極めて非現実的です。現在でこそ雲早トンネルが通っていますが、当時は川又から険しい神通谷を這い上がって土須峠を越えなければなりませんでした。しかも、その神通谷への入り口付近には、莫大な鉱山利権を死守せんとする金泉氏らが陣取り、検地役人を殺害してルートを強固に封鎖していました。
さらに丹生谷の一揆には、蜂須賀家の筆頭家老である歴戦の猛将・山田織部佐率いる正規軍が投入され、死闘を繰り広げていました。木屋平の小勢が、山岳鉱山勢力が封鎖する谷筋や険しい峠を突破し、正規軍の激戦地帯へと割り込むことは、地理的・軍事的に成り立ち難いと言わざるを得ません。
蜂須賀氏に反抗した木屋平越前守らの狙いは、無差別な暴動ではありませんでした。彼らはかつて自分たちが属していた阿波の山岳ネットワークの象徴である「上一宮大粟神社」だけをピンポイントで標的とし、神宮寺は焼かずに撤収しています。これは新体制下での宗教的権威の再編に向けた、極めて限定的な示威行動であったと推測されます。大粟は蜂須賀の居城(一宮城)の目と鼻の先であり、大規模な一揆への拡大は難しく、樋口内蔵助の部隊によって局地的に収束させられています。
第三の矛盾:古文書の拡大解釈(「非儀働致に」の真意)村史は、蜂須賀家政の書状にある「今度仁宇大粟の百姓共非儀働致に」という一文を、木屋平氏が遠く木沢村を越えて仁宇まで出向いて一揆の鎮圧に「働いた(対応した)」証拠として扱っています。しかし、これは編纂者による独自の文脈解釈であると言えます。この文言は単に「このたび、仁宇や大粟の者たちが一揆(非儀)を起こした状況下において(その際)」という時代背景やタイミングを示しているに過ぎず、書状のどこにも「小屋平氏が仁宇(丹生)へ赴いた」とは明記されていません。
第四の矛盾:他村宛文書との混同と実際の功労者村史は小六の感謝状を最大の証拠としていますが、そもそもその宛名は「みつきかし原名主百姓中」であり、直接木屋平氏(松家氏)に宛てられたものではありません。編纂者が、他村の百姓宛ての労い状を自家の物語のなかに組み込み解釈したと考えられます。
一方で、一揆鎮圧における功労者を示す史料が、阿波川田の在地領主である住友家に伝わる『住友家文書』に残されています。その「小六の感状」は、明らかに「住友彦兵衛殿、住友五郎右衛門殿、伊澤志摩殿」宛てとなっています。
【参考:住友家文書における小六の感状の現代語訳】
このたび、仁宇や大粟の百姓らが法外な振る舞い(一揆)に及んだことは、言語道断である。そなたたち(住友氏ら)が、少しも手を抜かずに(鎮圧のために)尽力してくれたことについて、黒部や久代から報告を受けており、これについて一段と満足している。いよいよそちらで相談し、世話を焼く(采配を振るう)ことが肝要である。なお、詳細は両名から申し伝える。
この史料が示す通り、蜂須賀氏から直接賛辞を贈られたのは、郷土の安定のために尽力した住友家や伊澤志摩らでした。事実、同宛名に名を連ねる伊澤志摩もまた、この大粟騒動鎮圧の功績によって、後に蜂須賀家より苗字帯刀や藩主への拝謁を許される特権を賜っています。
そして同時に、この動乱において松家(木屋平)氏や三木氏が直面していた厳しい現実も浮かび上がってきます。彼らは木屋平村内で徹底抗戦を叫ぶ兄(越前守)の派閥と、蜂須賀方に恭順する弟(伊賀守)の派閥とに真っ二つに分かれ、対応に窮していたのです。蜂須賀方についた弟らは、外部の実力者である住友氏や伊澤氏へ「村内での一族の分裂と対立の収拾」を要請するSOS(飛脚)を出したというのが、複数の史料から読み解ける生々しい実態であったと考えられます。
中世の誇り高き山岳武士から、刀を捨てて近世の「庄屋」へと移行していく過酷な時代。松家(木屋平)氏ら在地土豪の中には、実の兄が起こした一揆に対して一族が分断されるという、苦渋の過去がありました。
後世、『木屋平村史』が編纂されるにあたり、編纂者たちは郷土の先人たちの名誉を守り、その活躍を顕彰したいという強い思いを抱いていたはずです。そこで、村内に残されていた他村宛ての文書などを結びつけ、「我々は丹生谷まで一揆鎮圧に赴いた」という、より大義名分にかなう英雄的な物語へと伝承を整えていったと推測されます。
古文書の記述の矛盾や現地の地形を複合的に読み解くことで見えてくるのは、決して捏造された虚構ではなく、戦国末期の阿波山岳地帯を必死に生き抜こうとした人々の等身大の姿と、彼らを誇りに思おうとした後世の人々の切実な愛情なのです。