阿波麻植郡の歴史:和紙生産と三木家の由緒

[source: 1]『阿波麻植両郡一昨年以来扱手懸御用方申上帳』より、当時の村ごとの和紙生産(紙漉き)の状況が比較されています。

三ツ木村(和紙産業の隆盛)

庄屋である天田元助が熱心に指導を行い、資金援助(元入銀の貸付)も行ったことで和紙生産が大きく発展しました。品質が良く、藩の紙専売役所(紙方)からの評判も高かったため、販路が拡大し職人も増加しました。女性を含め、村で紙漉きをしない家はないほどの盛況ぶりでした。

川井村(和紙生産の不調)

紙漉きは行っているものの、原料の植付面積が少なく出荷量も少ない状況でした。三ツ木村のような指導や発展は見られず、女性たちも紙漉きには参加していませんでした。

木屋平村(自給用・年貢用のみの生産)

奥山に位置して土地が広く、紙以外の産業が盛んであったため、三ツ木村のような和紙産業の隆盛は見られません。積雪により農業ができない冬から春にかけて専ら紙漉きを行っていましたが、すべて年貢として納めるためであり、商品として生産する者はいませんでした。

2.三木家の由緒と蜂須賀氏入国時の功績

三木家のルーツと、阿波藩成立期の出来事についての記述です。

忌部氏からの出自と「三木」姓の始まり

出自と南朝への忠誠

三木家の元祖は「忌部佐兵衛尉重村(いんべさへえのじょうしげむら)」です。元弘・建武の動乱(南北朝時代)において南朝方(宮方)として武功を立て、地領として種野山の内にある三ツ木村近郷を治めました。

三木姓の誕生と代々の栄誉

正平年間の頃から、在名(地名)をとって「三木佐兵衛尉重村」と名乗るようになりました。以降、2代目太郎左衛門尉から兵衛尉に至るまで代々領地を継承して忠義を尽くし、天皇から綸旨(りんじ)や宣旨(せんじ)を賜っています。

蜂須賀小六(蓬庵)入国時の反徒鎮圧

一揆の発生と代官の保護

阿波藩祖・蜂須賀小六が入国したのち、代官の黒部兵蔵と久代市兵衛が領内視察のため三ツ木村を訪れました。その際、仁宇・大粟の百姓たちが両名に従わず、抵抗の構えを見せました。

三木氏の活躍

これを見た曾祖父・三木兵衛尉の息子である長左衛門は、三ツ木・柏原の百姓を率いて上山村(神山)へ向かい、抵抗する百姓たちを鎮圧しました。

城下までの護衛

長左衛門は代官両名を自宅に匿ったのち、川田村まで護衛しました。親族筋にあたる西川田村の住友五郎右衛門宅に一泊させ、翌日には舟で徳島城下まで無事に見送りました。
(※原文後略部:この功績が耳に入り、三木家は蜂須賀家から名字帯刀の許可や無役(免税)、庄屋役への任命などの特権を認められました。)