本稿では、郷土の歴史を伝える貴重な文献である『美郷村史』第二章の記述を正確に引用しつつ、現代の歴史学・史料学の観点から「史料批判」を加えます。過去の編纂者が記した郷土への熱い思いや独自の解釈を高く評価・尊重しつつも、当時の史観(階級闘争的解釈や中央集権的な視点)を相対化し、特定の「家わけ文書」に依存する危険性や、伝承と史実の切り分けを行い、阿波在地領主たちの真の姿により深く迫ります。
(一) 種野山庄の概略
国鉄徳島本線の山瀬駅の二キロほど東山麓に、忌部神社がある。その地は、麻植郡の西郭から美馬郡の東部にかけて勢力を張っていた阿波忌部氏によって開発され、その子孫たちが住んでいたとき、一族が農産物や布、紙のような手工業品を持ちよって交易した忌部市(山瀬市ともいう)の開かれていたところで、おそらく国内が、源氏と平氏の二大勢力に分かれて争っていたころから、もはや忌部市が開かれていたものと思われる。
私たちの祖先は、丹精こめてつくった作物や生糸、絹布などの手工業品をどのようにしてこの忌部市まで運んでいたのだろう。おそらく馬の背や、多くの下人たちの肩に負わせて、けわしい山道を運ばなければならなかったろう。種野山または東山からこの忌部市に通じる細くけわしい山道には、祖先たちの尊い汗が滲みこんでいるにちがいない。
山の峠から南を望むと、眼下に川田川の渓谷に沿って、わが美郷村の景観が美しく展開する。その奥には木屋平村の山々や名西郡神山町の連山が、屏風のようにそそり立っている。そんな環境こそ、わが郷土美郷村なのである。その道を西に降りると種野山である。
この地は、古代から木屋平村や山川町の川田山を含む、広大な国衙領荘園の種野山庄の中心で、そこには在町官人(ざいちょうかんじん)といわれる役人(代官ともいう)が阿波の国府から派遣され、代官所をかまえて、種野山庄全体の租税のとりたてや、在家(ざいけ)といわれていた農民を支配していたのであった。
しかし、承久元年(一二一九)におこった承久の変で、幕府の実権が執権の北条氏に移り、そのときまでは阿波は佐々木氏が守護であったが、守護の佐々木経高が後鳥羽上皇方に味方して敗れたので、小笠原氏が新しい守護として阿波に入った。このころから、諸国の荘園は急速に武士のはげしい侵略をうけるようになる。
種野山庄の場合にも例外でなく、荘園内部の在庁官人と、幕府から任命された守護との勢力関係に変化があらわれるのはもちろんであるが、その機会を利用して在地の名主たちも荘園内に勢力をひろげて、小領主として成長しようとする動きが、にわかに活発となって美郷の社会にも大きな社会的変化が見られるようになる。
それらの名主たちは、在家百姓と結束して、公家や地頭との二重支配に屈せず、力づよく生き抜こうとしたのである。
村史は冒頭で阿波忌部氏による開発や源平期の忌部市の存在を述べていますが、これらは後世の社伝・伝承に基づく推測の域を出ない部分が含まれており、当時の一次史料で実証されたものではない点に注意が必要です。「おそらく〜と思われる」という記述が示す通り、地域史特有の始祖伝説的要素が強く反映されています。
また、「公家や地頭との二重支配に屈せず、力づよく生き抜こうとした」という表現には、編纂当時の歴史学界で主流であった「領主(搾取者)対 名主・農民(被搾取者)」という二項対立的な階級闘争史観が色濃く反映されています。近年の荘園史研究においては、在地領主(名主)は単に中央に抵抗するだけでなく、逆に公家や武家権力を巧みに利用して自らの在地支配を正当化する「共犯関係」にあったことが指摘されており、単純な抵抗の物語として片付けるべきではありません。
(二) 名主の成長
そのころの種野山荘は、宗田山、別枝山、種野山、桁山(気多山)、川田山、中村山、東山、三ツ木、川井、木屋平の各名にわかれていて、それを総称して麻植山分十山(おえやまぶんとやま)といわれていた。この地名は、史料によって少しずつちがいがあるから、ほんとうに正確なところはわからない。時代によって多少「名」のよび方も変化していたのであろう。
この種野山庄の農民は、「阿波国種野山在家員数同御年貢御公事」という嘉暦二年(一三二七)三月八日に、政所(在庁官人の役所)が命じた貢租徴収の注進状によると、「惣本在家」が百二十三宇半となっている。「惣本在家」とは、すべての本在家、すなわち荘園領主から、土地の耕作権(作職)が認められた農家の全戸数のことである。
これらの在家はさらにその下に、名子や下人などを支配するとともに、またそれぞれの地方の名主(土豪であり、その地を開拓した大地主)に隷属していた。また名主は鎌倉末期から南北朝内乱期にかけて、荘園領主や地頭からの苛酷な年貢の徴収や夫役の徴発に対抗して、荘園のワクを越えて名主たちが団結した「惣」という自治組織をつくった。
この事実は、古い社会秩序に対して、農民が力強く立ち向かったことを意味するもので、このように在地の農民が武士化し実力をもつことは荘園領主にとって放置しがたいところである。元亨元年(一三二一)十一月十九日種野山庄の代官であった沙弥は番頭百姓の訴に対する下知状の中でそう(惣)のことをちゃうじ(停止)として惣の結束を禁止している。
しかし南北朝内乱期に入った正慶元年(南朝元弘二年・一三三二)十一月には、麻植郡の名主たちは、盗賊などの出没にそなえることを名目に、山崎市に寄合って、評定することを定め、評定は、十人寄れば七〜八人、五人寄れば三人の賛成で議決すること。年に二度、二月二十三日と九月二十三日に集まることを契約し、中橋西信、北野宗光、高如安行、高川原藤二郎太夫、名高河惣五郎太夫、今鞍進士、枝三郎、治野法橋、田方兵衛入道、赤松藤三郎太夫、永谷吉守、大坂兵六、三木氏村が、それぞれ署名している。そのように名主たちが、名田を自衛するために武装したことが、名主の武士化をはやめることになった。
さらに翌元弘三年(一三三三)十一月の文書があるが、それによると、御殿人(名主)である以上は、山賊、海賊、夜打ち、強盗のいうことを聞きいれてはならないことはもちろん、権門勢家の荘園内で、領主の命令が出されても、惣の議定に反することであれば、拒否しなければならないとしている。それほど惣の結束を固めていくのである。この契約書に署名しているのは、前年の正慶元年文書の中の藤三郎がなく、長者長村が入り赤松藤三郎太夫が赤松右満允となり他は同名でやはり十三人である。
ここで言及されている正慶元年(一三三二)十一月の契約状は、有名な「阿波国御衣御殿人契約状(あわのくにみえみうどとにんけいやくじょう)」(三木家文書)を指しています。一般的にこの史料は、大嘗祭に供えられた麻布「荒妙(あらたえ)」の調進に関わる特権的な職能集団(御衣御殿人)が、自らの特権の維持や集団の結束を固めるために交わした契約として、神事や忌部氏の歴史と結びつけて権威的に解説されます。
しかし、この『美郷村史』では「荒妙」や「天皇即位儀礼」といった宗教的・神秘的な要素を意図的に捨象しています。署名した三木氏や周辺の人物たちを純粋な「在地の名主(小領主)」として捉え、自らの土地(名田)を防衛するために団結した「在地武士化のプロセス(惣の結成)」としてのみ描いている点が非常にユニークです。
この独自の視点は、郷土史の叙述として高く評価できる魅力を持っています。従来、権威的な文脈で語られがちであった三木家文書のオーラを取り払い、彼らを「南北朝という過酷な弱肉強食の動乱期を生き抜くため、知恵を絞り、時には武装して権力(代官や守護)に立ち向かった生身の人間(農業経営者)」として泥臭く描き出しています。特権階級の神事の歴史としてではなく、村に生きる人々を主役とした「在地社会史・民衆史」の視座から歴史をダイナミックに再構築しようとした点に、著者の優れた手腕と郷土への温かい眼差しが光っています。
一方で、客観的な史料解釈としては慎重な批判も必要です。第一に、彼らが強力な権力に対抗して一揆や惣を結成できたのは、単なる武装化ではなく、「天皇家の神事に関わる神聖な集団である」という不可侵の権威を盾にしたからです。この「荒妙」という宗教的権威こそが彼らの最大の「武器」であったという実態を無視し、純粋な武力闘争(武士化)に還元してしまうのは、唯物史観的な意図による史料の切り取りであり、本質を見誤る危険性があります。
第二に、「盗賊などの出没にそなえることを名目に」と、これが建前であることを見抜いている点は鋭いものの、これを直ちに「自衛のための武装=武士化」へと一直線に結びつけるのは論理の飛躍です。中世の契約状において「夜討ち・強盗・山賊の防衛」を掲げるのは、私的な徒党(一揆)を正当化するための常套句であり、実態は新たに赴任してきた代官や守護などの「外部権力による不当な介入・搾取」を排除するための政治的・法的な同盟であったと考えるのが妥当です。彼らは純粋な「武士」になりたかったのではなく、朝廷と結びついた「特権的な農業経営者」としての既得権益を維持したかったというのが歴史的実像に近いでしょう。
そのうち三木氏は、木屋平の三ツ木名主として、次第にその勢力をのばしていったが、文永三年(一二六六)二月に、代官と思われる正意から、「つたつりや」という地の内に、所領が与えられているが、その文面によると、新次郎太夫安村は、百姓であるが、志があるので所領を与える。と書かれている。
志とは何のことであるのか明らかではないが、おそらく三木名での名主としての安村の力が無視できなくなってきたことを認めなくてはならなくなったものと解釈し、そうして嘉暦二年(一三二七)三月十二日に、三木氏は、代官の願仏、御使の広氏の署名がある「三ツ木名番頭職事」という下知状によって、三ツ木名の番頭職に任ぜられ、代官の監理のもとで三ツ木名の在家を支配させ、年貢や公事の収納の権限が与えられたのである。このように種野山庄では、各地の名主に、三木氏と同じように番頭職が与えられ、年貢や公事を請負わせたものと思われる。
このような体制をとる荘園を番頭名荘園といい、先進地帯であった畿内型荘園に対する一つの特色である。九州大学教授の渡辺澄夫博士は、種野山庄がそのような特色をもっていた番頭名制荘園のうちでも、わが国の南の端に当たるといっている。その意味からいって、種野山庄は、学界でも注目されている荘園である。
三木氏が実力をそなえた名主として、領主から番頭職を与えられたということは、その三木氏を番頭に押し出すだけの武力と経済力の背景がなくてはならない。三木氏の武力や経済力を支えていたのは三木氏の支配をうけていた在家すなわち農民であり、その意味で、農民の存在を無視できない。
村史は文永三年(一二六六)の文書を引き、新次郎太夫安村が「百姓であるが、志があるので所領を与える」とされたことをもって、「安村の力が無視できなくなってきた」と解釈し、三木家がこの時点でかなり力を持ってきているように描いています。
しかし、この解釈には注意が必要です。この記述はあくまで「三木家文書」という、三木氏自身の家に伝承されてきた文書の中で示されている事柄に過ぎません。特定の家に残る「家分け文書」は、自らの所領の支配の正当性や権威を高めるために、一族の活躍や上位権力からの特別な評価(「志がある」「番頭職に任ぜられた」等)が過大に記録・保存される傾向があります。
実態としての三木家が、当時本当に代官を屈服させるほどの支配力や実力を持っていたかどうかは疑問が残ります。実際には、上位の代官や巨大な守護権力に依存し、時には翻弄されながら必死に所領を維持しようとする「弱小豪族」の一つに過ぎなかった可能性も十分に考慮して史料を読むべきです。
このころの史料として、三木氏に関するものだけしか残っていないことは残念でならないが、種野山、桁山、別枝山、中村山、東山などの各名でも同じように、名主を中心とし主として血縁関係によって結ばれた家父長制的な共同社会としての「名」が形成されていて、名主の屋敷とその周囲に開発された畠からなる中世村落(名西郡神山町神領では垣内という)が、村内各地の山腹から上の傾斜地に散在していたものと考えられる。
さて、それらの各名で、その当時どのような農作物や手工業品が生産されていたであろうか。それを探るため前出の「阿波国種野山在家員数同御年貢御公事」と「麻植郡内三木村番頭等訴申条々下知事」によれば、米、栗、麦、大豆などの穀物、皮(紙の原料をいう)、養蚕、絹布、材木、瓦、うるしなどを産していたことが記されており、代官所に納める年貢は、これらの産物を忌部市で売却し、そのなかから貨幣によって納入していた状況を知ることができる。
武士化する名主たちは、名子、下人を従え、広い耕地と生産用具をもって、これらの産物を生産させて、武力と経済力とを充実させていったのであった。
当時の種野山庄に勢力を張っていた名主たちの農業経営を紹介する史料がないので、江戸時代初期の明暦四年(一六五八)二月の「麻植郡之内種野山検付人政御帳」のなかから、中世以来の名主として大きな勢力を誇っていた明石加右衛門の家族構成によって、推定してみよう。この史料によると、加右衛門の屋敷内に住みこんでいる抱え下人が二戸、小家として別に屋敷を構えている下人が五戸、その家族が十二人(これは男子のみの数で女子は含まない)で合せて十九人、血縁小家が六戸、その他が一戸となって都合十四戸の小家を支配している。
そうして明石家の経営面積は、さらに時代が降るが、宝永元年(一七〇四)十二月の「麻植郡種野山御検地帳」によると、約十町歩となっている。そのうち水田の二町一反は、中世の開発は無理なように思われるので、当時の耕地は約六〜七町歩と推定できそうである。
種野山には、もう一軒、五戸の名子と八戸の小家をもった五郎八家がある。この五郎八家も名主の家柄と考えられるが、「阿波国種野山在家員数同御年貢御公事」に、在家数として戸山地頭名が十字(戸)、同預名が十九字半と書いている。この戸山名というのは、種野山庄の荘域を麻植十山ということは前に述べたが、その十山を戸山と書かれたもので、種野山庄の中心で、在庁官人の政所の所在地である種野山名のことであるから、鎌倉末期の二十九戸半と近世の二十九戸という数字は、必ずしも偶然の一致とはいえない。そのように考えてくると、鎌倉末期の美郷村における名主の勢力を支えた家族構成と農業経営の規模は、明石家の場合と大きな差異はないように思われる。
「このころの史料として、三木氏に関するものだけしか残っていない」と村史が認めている通り、三木家文書の特異な事例を、無批判に他の名(村落)にも「同じように形成されていたと考えられる」と敷衍するのは、推測として論理の飛躍を含んでいます。
また、中世の農業経営規模を、数百年も後の江戸初期・中期の検地帳(明暦四年や宝永元年)から「逆算」して推定している点にも慎重な批判が必要です。中世と近世では石高制の成立や農業技術、家族形態(名子・被官層の自立)が決定的に異なっており、江戸期の十四戸という数字や六〜七町歩という面積を鎌倉末期にそのまま当てはめるのは、史料学的に不確かな類推と言わざるを得ません。
(三) 在家と村落社会
前節で明らかにした名主たちを中心として、荘園内の各地に名体制すなわち中世村落が成立していったが、その場合、高い生産力を誇る畿内荘園などでは、名主に支配されていた名子たちが、作職という田畑の耕作権を名主から買い取って、次第に小農(単婚小家族)として自立していくものが少なくなかったが、種野山庄のように、山の傾斜面を利用した生産力の低い辺境の荘園では、自立するだけの耕地をひろげて経済力を高めることはなみ大ていのことではなかった。そのような後進的荘園の村落では、農民のくらしも苦しく、代官所に納めなければならない年貢や公事の負担が重くその肩にのしかかってくる。そのようにして私たちの土地を守り育ててくれた当時の農民を在家とよんでいた。
「阿波国種野山在家員数同御年貢御公事」によると、当時の種野山庄に本在家が一二三字半とある。この在家については、学界でもその解釈をめぐって論議が対立しているところで、法政大学の石母田正教授は「在家役賦課という観点から見た百姓の一側面の表現」とされ、東北大学教授の豊田武博士は「在家が独立の農業経営体であり、本在家主が名主と同様の資力をもつ」と定義づけられる。前者は、荘園領主に対して、年貢や公事銭などの貢租を負担する農民を在家であると考え、後者は、耕地を持ち、農業経営を維持している自立農民というように解釈している。
そのいずれの説に立つにしろ、本来の在家とは、一種の職(株のこと)として領主から与えられるもので、その条件として年貢や公事(本役)を負担しなくてはならない。その代償として屋敷地と山林の入会権とが付与されていたから、耕地が自分の住んでいる村になくても在家は成立する。しかし年貢や公事銭を生み出す耕地がまったくなくければ、現実に在家の職を得ることはできなかったのだから、現実には豊田氏のいうように、独立した農業経営者であるとともに、荘園領主との関係という面からみれば、石母田氏のいうように本役の負担者でなくてはならないということになろう。
そんなことから種野山庄では、本在家一二三字半のうち、別納といって公方(朝廷のこと)や地頭に本役を負担していた在家を除いて、国衙(代官を通して)に本役を納めていた荘園内の中軸的在家を定在家(じょうざいけ)といい、その数が七四字となっていて、その地域的分布の内訳は第1表のようになっている。
| 名別 | 在家数 |
|---|---|
| 司下 | 10字半 |
| 別名 | 11 0 |
| 気名 | 11 0 |
| 地頭所 | 11 0 |
| 預所 | 11 0 |
| 別司 | 15 0 |
| 木上 | 5 0 |
| 三河 | 5 0 |
| 計 | 80 大 |
しかしこの表の定在家の合計は八〇字大となるから、そこに六字の差を生じている。その理由は、在家職が、必ずしも農民の土地保有の形態を示すものではなく、一人で二〜三の在家職を取得していたものがあることを示しているのに対し、本文記載の七四字という数字は、在家の戸数であると理解しておこう。
この史料は、鎌倉末期のものであるが、この時期には、種野山庄の年貢、公事の負担者であり、農業生産の主な担い手であった定在家から、血縁のものや下人などが耕地を得て自立し、荘園領主に対して本役を負担しないから、定在家の職は取得できないが、それまで隷属していた定在家から一応独立した農業経営を行なう分在家(ぶざいけ)がつぎつぎに生まれていった。その数は五三字半で、一字について分銭として春と秋に二貫五十文ずつを領主に分納していた。そのように、分在家が立てられるということは、耕地の開発と農業技術の進歩があって、はじめて可能なことであり、当時における農業の発達を裏づける重要な証拠ともなる。
さてこれらの在家は、それぞれ自立した農業経営者であるとともに、村落のなかでは、山賊や盗賊の侵入や、隣村との境目争い、領主の苛政に対する抵抗、さらに労働力の需給などの必要から、共同体的結合を強めていったが、そのしくみは、在家のなかでも、もっとも有力なものが番頭として、名子にあたる他の在家を統制するものであったが、今日の美郷村の山々を歩くと、山腹のよく開かれた畑地に農家が点在して集落を形成しているが、それらの部落を一望できるような絶好の場所に、必ずといってよいほど古い五輪塔や板碑、そうして神社というには、あまりにもみすぼらしい祠がポツンと祀られている。それらの祠には、きまってその部落の開発者=名主といわれる人びとが土地の子孫によって祀られているのだが、それらの祠とは別に各部落には必ず神社があり、また四足堂という一種の仏堂が、その前にかなりの広さをもつ庭をもって建てられてある。
これらの神社は、村落の成員の共同体の基礎であって、名主を中心とし、在家を構成員とする宮座がつくられていて、名主と在家の間における主従関係と宮座のしくみとは一致するものであった。当時の村落社会は、農業を基礎として成立していたから、作物の豊凶は直接に農民の生活を左右する。当時の技術の未発達な農村では、毎年の豊作を神に祈ることは大きな行事であったから、収穫のときに感謝を捧げる春と秋の祭礼は、村の年中行事でも、最大の規模で行なわれ、その祭祀に必要な経費は、氏子が分担していたことはいうまでもない。当時はその土地に居住するものが、そのまま氏子となったが、その祭礼行事に参加したり、神事の席に列なることは、在家の特権と考えられていて、定在家だけにしか宮座の特権が許されず、新しく在家となった分在家や、名子、下人などはもちろん宮座に名を列ねることが許されなかったから、それはそのまま名主と農民の間における封建的な階級の序列を示すものとなっていた。
この宮座は、名主が祭主となり、氏神は中世における村落共同体の精神的結束の支柱で、多分に排他性の意識を育てるものであったので、だんだん土地の開発が盛んになるにつれ、隣り名との境界争いがおき、他の地方から名に入りこむものが多くなると座をつくって団結し、他からの侵入を拒否するという、たたかいの組織でもあった。
その当時の美郷村は大きく六つの邑(村)になり、村の中が七十八の小さい名に分かれていた。それを示すとつぎのとおりである。
中村山=野脇、木中、二戸、南二戸、今丸、向、竹老、狂屋、東、西巻山、北、谷、幡平、奥、大宮……一五名。
気多邑=大宮、高野尾、西峯、信濃、桁、小竹、奥地…………七名
別司邑=穴地、井頭、古井頭、鍛冶屋、長五、城戸東、城戸上、下裏、枝河内、打火、鷹飼、長四郎、中尾、大神、上平、平、勘蔵、張、日裏、中古井、古井、倉羅、遠地野、四松、寺尾、宗田、市野、重尾、愛後、松尾、桁谷……三二名
東山名=小栃、大鹿、月野、上谷、野瀬、湯下、蛭子、中畠、中西、栗木、樋山路、栃谷、丸山、立岩、中尾、木屋浦、来見坂…………一七名
川田山=峠背、楠根野、大張、苧原、久宗、奥井…………六名(現山川町)
種野山(戸山名)。
これらの名ごとに、宮座によって祖先神が祀られていたが、その宮座を基礎とする同族集団の存在形態を知る手がかりとなる史料として、「麻植郡内三木村番頭百姓等訴申条々下知事」のなかに「一、ところかいの事、またくしろしめされざる事社かのきうは地ぬしにかへすべし、きようとうちやうし」という一文がある。この「ところ」というのは、漢字では「解」とか「野老」と書き、山いもに似た一種の食料植物で、それを買い付ける商人が、村に入って屋敷地を与えられているので、農民たちが迷惑している、そのため禁止を代官に訴えたのに対し、代官から、当方ではまったく知らないことであるから、屋敷地(農民が代官から与えられた知行地と考えている)を地主(名主)に返させ、「ところかい」は「きやうこう」(今後)禁止すると下知している。このことは、名の排他的性格をよくあらわしている史料であると思われる。
これまで見てきたような、各名の祖先神の祭祀に対して、荘園内の全域の農民を氏子とする総氏神として、種野山に稲荷神社が建てられ、代官によって祀られていた。この神社はいまも種野山にあるが、これは荘園領主が、荘内農民を統制するために勧進されたものと考えられ、その目的からいって、この神社の宮座は、代官のもとに荘内の大名主によって構成されていたものであろう。同じ「下知状」のなかに、農民たちが白米または粟の粉を御供物として負担していたことがわかる。そのように、稲荷神社の宮座は、代官にとって、農民支配の重要な組織でもあった。
それらの神事に対して、仏事はどのように行なわれていたであろうか。いま美郷村のあちこちに部落(名)をたずねると、必ずそこに四足堂がある。正面に素朴な本尊仏を安置し、三方は壁を用いず、柱だけがムキ出しになっている上に、古めかしい草葺きの大きい屋根が掛けられていて、谷ノ堂とか宗田のお堂とか、その所在地の地形や、名の地名をつけて呼ばれている。この四足堂では、盆や彼岸をはじめ、大師講や三日講が行なわれ、とくに盆には、仏念おどりなどがあって、祖先の霊をなぐさめながら、日ごろの苦しい労働を忘れて、あすへの力をたくわえたのであった。それらの四足堂も、いまはさびれて、そこでのおどりもむかしほど盛んでないが、郷土の山や谷にひびきわたる一心の声が聞こえてこないだろうか。耳をすませば、七百年前の私たちの祖先たちの歌や手拍子や歓声の入り混ったどよめきが、
「在家」の解釈において、石母田正氏と豊田武氏の学説が対置されています。これは戦後日本の歴史学(1950〜60年代)を象徴する著名な論争ですが、今日の中世史研究において「在家」は、単なる収取単位(石母田説)や独立経営体(豊田説)という二元論に収まらず、在地における重層的なネットワークや、名主と被官の流動的な関係性を示す実態的な「屋敷地とそれに付随する権利の束」として理解されています。
村史は美郷村を「後進的」な辺境と位置づけ、「農民のくらしも苦しく」と総括していますが、これも畿内を基準とした発展史観のバイアスがかかっています。山間部であっても林野資源の利用や「ところ(野老)」などの商品作物の交易によって、独自で豊かな経済圏(自立性)を築いていた可能性を、史料の行間から読み取ることが現代の地域史研究には求められます。
四 年貢と公事
私たちの祖先は、いま私たちが住んでいる美郷村の土地にしがみついて、代官や地頭の支配を受けながら、どのような生活を営んでいたのだろう。それを当時の農民が領主に納めねばならなかった年貢や公事銭、その他の賦役を、どんな形で、どれほど負担しなければならなかったかという観点から見ることにしよう。
古代の末期からこのかた、荘園領主は、その荘民に対して、およそ二とおりの地代を納めさせていた。その一つは生産物地代で、それは田畑に対して賦課する年貢と、田畑以外の手工業品などに対して賦課する公事銭とである。他の一つは、荘民の一人ひとりに賦課する人頭税ともいうべき夫役労働として動員されるもので、この方は労働地代といっている。種野山庄の荘民、すなわち私たちの祖先たちが負担させられていたものも、この二つの種類の地代であった。
領主はその場合、何よりも重要なことは、毎年の年貢をどれだけ取りたてることができるかということである。そこで荘園内の田畑の面積と、土地の良し悪しとを調査し、毎年農民が領主に納めねばならない年貢の額を決定する必要がある。このような土地の基本的調査のことを、古代から中世にかけては「検注」といい、毎年の生産基準額と年貢の負担額を登録して、年貢収取のための基本台帳としたものを「検注帳」といい、さらに荘民に対して年貢その他の負担を命じた文書を「注交書」という。
たびたび出てくる「麻植郡内三木村番頭百姓等訴申条々下知事」のなかに「註するところ、検地等のとき、はかりをもって、番頭のさたとして、懸け進ずべきなり」(原文はかな書き)という一条がある。「検地」は、あるいは「検注」と読まねばならないのかも知れない。しかも「量をもって」測定したことが出ていることから、明らかなように、種野山庄でも、領主によって「検注」が行なわれたことは、疑いの余地がない。
当時、領主が「検注」を実施する場合、その方法として、「正検」と「内検」という性格のちがった二つの方法で行なわれた。中世の量制史の権威である東洋大学の宝月圭吾博士は、「正検」は、領主が一代に一度やるかやらないかという大規模なもので、その地に置かれている代官などにやらせると、荘民との慣れあいから、不正な丈量も行なわれるとして、わざわざ多数の家人を「検注使」として現地に派遣し、仮の屋敷を建てて行なうから、隠し田や伏せ田も摘発して、年貢を収取する田畑を拡大することに努力する。そのうえ「検注」に必要なすべての費用を荘民に負担させたのだから、農民にとっても、また在地の代官にとっても、不利だから、「正検」が行なわれることに反対する動きが強かった。それにひきかえ「内検」は、水害などで被害をうけた田畑を、代官が調査して「川成地」とし、年貢の負担を免除するために行なわれるものだから、農民にとっても有利なうえに、代官にとって「川成地」と報告しておいて、内密に農民とその収穫を折半するという不正が行なわれることもあった。史料によると、大浦名の三百六十文の地が、川成地の取扱いを受けたという記事がある。そのようにして確定した年貢その他の負担が、農民の肩に重くのしかかってきたのだが、いまそれらの「検注帳」は亡失しているからこの美郷村からのどの程度の田畑が収取の対象にされていたかは全くわからない。
そこで、農民が納めていた年貢について見ておくと、三木文書のなかにある「はる御ねんぐ色々事、あきのぶん」によって、つくったのが第2表で、三ツ木名として、春と秋を合せて一八貫六二五文の負担となるから、「阿波国種野山在家員数同御年貢御公事」のなかにでてくる「定在家七十四字ノ内、五字半三木」とあるから、この年貢を三木名の五・五字が負担したことになる。だから一字平均として、その負担は約三貫六百文ほどであった。そうすると、農民たちにとって、この負担は収穫の全体のうちの、どの程度に当るのだろうか。皇室領荘園の女楽寿院領(鳥羽上皇)のうちに名東庄(現徳島市)がある。ここでは百五十町二反二十六歩の田畑に対して二百八十三石九斗の年貢を収取している。その年貢負担の率は約三〇パーセントとなる。そこで、ごく大雑把に、一反の米の生産額を一石とし、一石の代銀が一貫とすれば、三木名の在家一戸当り、三貫六百文、米に換算して三石六斗、さらにその三石六斗を名東庄と同じように、三〇パーセントの年貢負担率と考えれば、その年間の収穫が十二石で、田畑の面積が一町二反ほどという推定もできるが、名東庄よりも、土地の生産力が低いこととも、養蚕や綿打ちのような手工業品をも年貢賦課の対象にしていることを勘案すれば、結局は、その程度の田畑を耕作し、経営していたと考えて、あまり大きい間ちがいばなかろう。
そのような年貢のなかには、代官が行なう正月の行事の負担金としての「弓正月廻り」や年貢米の付加税として(※ここでページが飛んでいます)
| 種別 \ 納期 | 春の分 | 秋の分 | 計 |
|---|---|---|---|
| 弓正月廻り | 1貫600文 | - | 1貫600文 |
| 年貢の夫賃 | 6貫100文 | 6貫200文 | 12貫300文 |
| 納分用途 | 560文 | 510文 | 1貫070文 |
| 繊絹の代 | 600文 | 600文 | 1貫200文 |
| まゆの代 | - | 965文 | 965文 |
| 糸の代 | 325文 | - | 325文 |
| 打綿の代 | 465文 | - | 465文 |
| その他 | - | 600文 | 600文 |
| 計 | 9貫650文 | 8貫975文 | 18貫625文 |
三木家文書の「はる御ねんぐ色々事」から春と秋の年貢を合計し、名東庄(平野部の有力荘園)の負担率「30%」を仮定して逆算することで、1戸あたり12石・約1町2反の経営面積を導き出していますが、この推論プロセスには重大な飛躍が含まれます。
山間部と平野部では生産構造が全く異なり、名東庄の収取率を無批判に美郷村に援用することはできません。手工業品(まゆ、糸など)の代用納入が極めて大きな比重を占める表2のデータからも、米を基準とした単線的な石高換算は、当時の複合的な山の生業(畑作や山林労働、交易)の実態を見誤らせる危険性を孕んでいます。
二、南北朝内乱と在地武士
(一) 在地武士団の成長
さしもの勢力を誇ってきた北条氏の執権政治も、あの蒙古の二度(一二七四と一二八一)の襲来によって、財政にゆるみが生じ、御家人たちの不満もつのるばかりであった。そのような幕府の力の衰えを背景として、文保二年(一三一八)に即位した後醍醐天皇は、この機に乗じて討幕の計画をすすめて、一度は失敗(正中・元弘の変)するが、その後、足利・新田氏という有力な御家人をはじめ、多くの豪族たちが、天皇の倒幕計画に参加することになり、元弘三年(一三三三)ついに鎌倉幕府は滅亡した。目的を達した天皇は、その翌年に年号を建武と改め、天皇親政による公家と武士との統一政治を実現しようとした。
この討幕戦の殊勲者は、足利尊氏・新田義貞らの有力な武士団や河内の在地武士楠木正成らであった。しかし建武の新政は、源頼朝以来、武士によって押えられていた公家の権力と、荘園の支配権を回復することばかりに努力したので、倒幕に応じて、生命を的に戦った武士たちが、荘園内で得ていた領地を、かえって新政で取りあげられるというようなことも行なわれた。このような公家と武士の間に生じた矛盾から、公武両勢力がはげしく反目しあい、新政は、その目的を達しないままに、不満をもった多くの武士たちに擁せられた足利尊氏が離反したため、建武の新政は、わずか三年で崩壊し、建武三年(一三三六)に九州から京都に入った尊氏は、光厳天皇を擁立(北朝)した。そのため後醍醐天皇は、京都を逃れて吉野山に拠って(南朝)、その正統を守ろうとする。その後、元中九年(一三九二)三代将軍の足利義満のとき、南北朝合一が実現するまでの約六十年の間、南朝方と北朝方とに分かれて争ったので、この時代を南北朝内乱期という。
そのころ、種野山庄では、明石、河村、藤原、三木、木屋平などの有力な名主たちは、それぞれの周囲にいた小名主たちを支配しながら、徐々に大きい在地武士団に成長していたものと思われる。そうして種野山庄が国衙領であり、南朝からの強い働きかけもあって、この内乱の初期には、河村・三木氏などの有力な名主たちは南朝方となり、一方、吉野川流域の平野部を支配している北朝方(細川氏)の一大敵国となった。
当時美郷村は河村氏の支配下にあり、河村氏は別枝山の蔭の城に拠って南朝方を結集していたが、観応二年(南朝年号正平六年、一三五一)に入って、その十月三日、細川氏の有力な被官で、建武三年(南朝年号延元元年、一三三六)以来、麻植庄西方(鴨島町飯尾付近)の地頭であった飯尾光吉は、河村小四郎の城に押寄せて、城を破ったということを、細川家の御奉行所に報告している。
それを実証するために、二〜三の証拠を紹介してみよう。その一つは、東山の蛭子に新田神社が祀られていることであり、二つには、閑定谷(かんじょうだに)のオノサンという祠を河村一族のものが拝むと、たちまち腹痛がおこるという伝説、三つには、宗田山の宗田肥前守と、その向いの桁山に勢力をもうていた武田権頭とは、いつも戦いが絶えず、桁山方の射る矢が、川田川の渓谷を越えて宗田山に飛んできたという口碑などがそれである。
(二) 河村武士団の活躍
徳島県には、けわしい四国山地の各所に、新田義宗や脇屋義助(いずれも義貞の弟)が南朝に味方する山間の土豪たちを組織し、指揮したという伝説があるし、またそれらの各地には、七十という多くの新田神社が祀られている。そこに南朝の勢力が、新田氏を通じて阿波に伸びている状況を見ることができるとともに、徐々に在地で実力をもつようになった大名主たちが、新田氏と結ぶことによって一旗あげて、自らの領主的成長を図ろうとしたのであろうし、また一宮松次氏は「当時の名主がこれを公認し、祭資を寄せて社殿を造営せしめたのは、古代的仏教をすてて神祗信仰によって武士団の族的結合の精神的紐帯としたもの」とみているように、新田神社を祀ることによって、一族の結束を固め、領主としての成長を図る精神的な拠り所としたのであろうことは、容易に推測できよう。それでは、本県に祀られた七十の新田神社は、どのように分布しているだろうか。第1表は、田村左源太著「四国新田神社」によってつくったものである。
そのうちで、美郷村の二社は、東山の蛭子と同じく山王の二か所に祀られ、別枝山の新田神社は、この地の河村氏の武士団の存在と照応している。
上述の閑定谷に祀られるオノサンという祠は、河村氏と敵対関係にあった細川氏または飯尾氏の支配をうけていた土豪が祀っていたものと思われ、河村一族の団結を図るために、敵方の祀る神を拒否したことが、後の世まで伝説として残ったものと考えられ、そこに南北朝内乱の縮図が見られる思いがする。
宗田山も、当時はおそらく河村氏の勢力圏に入っていたことは、地形のうえからもごく自然なことである。この宗田山の名主宗田肥前守が拠っていた一帯には、桁山との戦いにまつわる口碑が伝えられている。おそらく桁山は、北朝勢力に入っていたものであろう。
そのように、観応二年(一三五一)の飯尾光吉の軍忠状と考えあわせて、河村一族の武士団が、別枝山を拠点とし、木屋平の三木氏や木屋平氏などとも連絡しながら南朝の側に立って活躍したのである。
この河村氏の山間部の動きは、平野部にある桑村(川島町)の支族をも南朝方として蜂起させ、細川氏や飯尾氏と対決するが、河村氏のそのような行動を支えたのは、黙々と働いた農民たちであったことを忘れてはならない。
しかし、飯尾氏の攻撃によって、別枝山の河村氏はわずか一日で城を明け渡したようであるが、この戦いによって降伏したのではなく、さらにその後、七〜八年の間にわたって南朝方として細川氏と対峙していたらしい。
一方、東山の山王にある新田神社と、飯尾氏の侵入について、少し眺めてみよう。東山の人びとの間に語り伝えられている伝説によると、当時この地に勢力をもっていた豪族は、後藤田家の祖先にあたる、忌部の後裔といわれる今鞍進士で、この地の月野名にあった鎌倉邸に城を構えていたが、飯尾氏の軍勢は、川島付近から東山に進出し、今鞍氏の守る鎌倉邸を攻め落した後、別枝山の河村氏を攻撃したという。おそらく飯尾氏の進出は、そのようなコースを選んで行なわれたものと思われるが、この地に新田神社が祀られていたということとも、その時点には東山が南朝方の拠点の一つであったことを暗示する伝説であろう。
激化する種野山庄内の対立
私たちの祖先である河村氏や今鞍氏を頂点とする小名主や、農民たちが武装して、優勢な飯尾氏の軍勢を向うにまわして、七〜八年にもわたって戦った反骨精神は、高く評価しなくてはならないし、また私たちの誇りでもある。ところで、山岳武士といわれる四国山地の在地武士たちは、一体なにを目的として優勢な細川氏の軍勢と戦わなくてはならなかったのであろうか。
別枝山の背後に勢力を張っていた三木氏は、河村氏が飯尾氏と戦っていたころ、北朝方に立って、その功績が認められて、所領が与えられている。「種野山国衙領三木村のうち在家を二か所与える」という観応二年(北朝・一三五一)七月二十二日付の補任状をもらっている。その年の十月三日には、飯尾氏が河村氏の本拠を攻撃しているから、そのときには、北朝方として別枝山を背後からおびやかしていたことは間違いないし、また七月の補任状に「その方の地において、忠を励んだことによって」と所領を与える理由を書いてあるが、この「忠を励んだ」行動は、河村氏と戦ったことをいっているのかも知れない。
このような三木氏の動きに対して、河村氏の方は、延文・貞治期には、北朝方に味方するようになったものと考えられる。ただその事実を証拠づけるものが乏しいのは残念なことであるが、別枝山の古井には延文五年(南朝年号正平一五・一三六〇)と、同じく谷の堂には、貞治二年(南朝年号正平一八・一三六三)のそれぞれ北朝年号が刻まれた板碑があること。さらに東山の古土地には、飯尾氏による攻撃があった翌年の観応三年(一三五二)に、すでに二基の北朝紀年板碑が発見されている。
板碑は、正しくは板石塔婆といって、鎌倉時代から室町時代にかけて、死者の追善や供養のためにつくられたもので、その当時の仏教文化を知るうえに、大へん重要な手がかりとなる。しかも南北朝内乱期の板碑がある地方では、そこに刻まれている年号が、南朝年号か、北朝年号かによって、その地域が南朝方の勢力圏にあるのか、または北朝方の支配圏に入っていたかを知ることができるので、政治史のうえからも、他にかけがえのない大切な史料となっている。
そのように考えると、東山では観応三年、別枝山では延文五年には、北朝年号が刻まれている板碑があるので、いずれもその時期には、北朝に味方するようになったことを教えてくれる。こんなにして別枝山の河村氏と、その一族や、東山の武士たち、すなわち私たちの祖先たちが、それまで戦ってきた飯尾氏と和睦して、阿波の守護細川頼之の支配の下に参じて、南朝方に反旗をひるがえしたころ、奇妙なことに、それまで河村氏に敵対してきた木屋平の三木一族は、北朝方から南朝方に転向している。そのことを伝える史料は、正平七年(北朝年号観応三年・一三五二)に阿波守為仲が三木左衛門に与えた知行宛行の文書に「種野山のうち三木村を知行所として与える」ことを記している。また翌年(一三五三)には、木屋平の豪族小屋平五郎・弥三郎が、南朝の命令をうけて、種野山に出撃している。それはおそらく北朝方についた河村一族と戦ったものと考えられる。そんなにして、当時の土豪名主たちは、あるいは南朝、あるいは北朝方について自らの勢力を強めながら、その支配地をひろげ、封建的領主として成長を図ろうとしたのであって、決して自ら信じる思想や信念によって行動し、戦おうとしたのではなかった。つまり自分の軍忠が認められるなら、そうして所領が与えられるなら、南朝でも北朝でも、どちらの味方になってもよかったと考えられる。
山岳武士のそのような動きは、交通の不便な山間の辺地にいたため、畿内の公家や武士の動向がわからず、自ら荘園領主の支配から脱して、封建的な小領主として成長しようとするときに、南朝を選ぶか、北朝を選ぶか、どちらが有利であるか判断のできなかった政治感覚のおくれが、そのような曲折の道を歩まなくてはならなかった最大の原因であった。そのような意味からいって、吉野川流域や那賀郡の海岸平野の名主たちが、いち早く細川氏の被官となって北朝の旗をひるがえしたのとは、ひじょうに好対照であった。
三木氏などは、その後一三六〇年に高越寺庄内に、一三六三年に三木村半分、一三六七年にこれまた三分の一、一三六七年に軍忠によって恩賞、一三七〇年に名東庄内の十四条郷にそれぞれ南朝より所領が与えられているが、さらに応安六年(一三七三)には細川頼之から三木名が改めて与えられていて、このころから三木氏は、再び細川氏の支配をうけるようになったし、また小屋平氏も、同じころから南朝に反旗をひるがえし、ここに種野山庄の全域が細川氏の勢力下に入ったものと考えられる。
河村氏や三木氏などの山岳武士にみられるような、こうした曲折の道をたどった状況について、一橋大学教授の永原慶二氏は「一方が南党を称すれば他方が北党をとなえるのであって、そうした動向は、すでに北畠親房が常陸でもっとも期待を寄せた結城親朝の場合においてさえみられたところである……当時の地方武士の動向は、地域的な領主制展開の武士たちが不可避的にえらばねばならなかった道であって、幕府上層部の分裂や守護たちの運命もまた彼らの動向によって左右されていたのである」とし、その動向のなかに荘園内における存在を脱して、直接内乱に参加することによって、自らの政治的要求を実現させようとするところに大きな特色が発見できる。美郷村の歴史は、そのような事情を実によく表現している。
しかし細川氏は、守護として阿波の小領主を、あるいは武力によって、あるいは懐柔策によって、次第に被官化しながら、守護大名として大きく成長を遂げていく。
そのようにして、ながくつづいた南北朝内乱は、わが国の社会体制に大きな変化をもたらした。すなわち武士の勢力が、ますます公家の勢力を追いつめ、公家の権力を支えていた経済的基盤である荘園に対する武士の侵略が激化してきたこと、名主たちは、領家(公家)よりも力に勝り、また自らの名田を保護してくれる守護大名や有力地頭の被官となることを望むようになったこと、有力武士と名主層との間に、名田を媒介とする封建的な主従関係が結ばれるようになったこと、等の状況を考えれば、すぐれて古代的な土地制度であった荘園制が、徐々に封建的土地所有制へと変質を遂げていたのである。そのような歴史的時代としての南北朝内乱期は、室町幕府の三代将軍足利義満のとき、南朝との間に和議が成立したので、後亀山天皇は吉野から京都に帰り、元中九年(北朝年号明徳三、一三九二年)に皇位を後小松天皇に譲って約六十年の内乱に終止符がうたれた。これを一般に南北朝の合一といっている。
そのころから、この種野山庄は、阿波の初代の守護である細川頼春の子細川頼有が地頭となって、川田村に屋形を置き、高越寺庄とともにこの地を領有するようになった。この地頭である細川氏は、後に和泉国にも地頭職を得たので、この館を和泉屋形といって、種野山庄の名主たちを被官とすることによって、麻植山分一円に大きな支配権をうち立てていくのである。
以上のような六十年におよぶ南北朝内乱の歴史過程のなかで、種野山庄も大きな社会的変動に巻きこまれたが、ことに河村氏や三木氏の動きのなかに、当時における在地小領主の歴史的なあり方を知るとともに、また私たちの祖先が力強く生き抜こうとしたたくましい姿をダイナミックに再現できるように思われる。ともあれ、内乱が終り、種野山庄にも、いよいよ細川氏の強い支配権がおよんでくるのである。
村史では、南朝と北朝の間で帰属を翻す山岳武士たちの行動を「どちらが有利であるか判断のできなかった政治感覚のおくれ」と断じています。しかし、現代の中世史研究の観点から見れば、これは中央の政治イデオロギー(皇国史観的枠組み)を無理に地方に当てはめた結果生じる誤謬です。
在地領主たちにとって至上命題は「自らの所領(一族の生存基盤)の維持と拡大」であり、守護・細川氏の圧迫や近隣のライバル(河村氏対三木氏など)との力関係に応じて、有利な陣営(あるいは相手の逆の陣営)に属することは、極めて合理的かつ高度な外交戦略でした。彼らの行動を「遅れ」と見なすのではなく、過酷な乱世において在地権力を守り抜くための「主体的な選択」であったと再評価すべきです。
また、板碑の年号(南朝年号か北朝年号か)をもって直ちに陣営の帰属を決定づける手法についても、在地では単に彫り師が慣用的に使っていた年号を使用したケースや、両属的な態度を取るためのカモフラージュであった可能性も考慮する必要があり、史料の文面のみを鵜呑みにしない慎重な姿勢が求められます。