安政二年に野口年長所蔵本(写本)を書写した写本によると、計七九の一つ書きから成る。前書に元亀三年以降は見聞に基づき、永禄以降は古老からの聞取りに基づいたことが記される。本文中に天正一〇年の中富川の合戦について「此軍の事ハ道知か拾八歳にて御供申候故、能そんし候」とみえることから、道智(知)の作と知れる。道智は三好氏の被官で、のちに蜂須賀氏によって紺屋司に取立てられた仁木又五郎義治の法名で、二鬼島を名乗った。守護細川氏にも簡略に触れるが、記事の大半は阿波三好氏に関連するもので、最も新しい内容は蜂須賀氏の阿波入国の記事である。年代等の誤りもままあるが具体性に富み、戦国末期の阿波の情勢を知るうえで不可欠の記録である。なお類書に道智作とみられる「みよしき」があり、同書は本書作成の下書あるいは底本となったと推定される。
本書の著者は道知という者である。これについて、安政二年に野口年長が所蔵本を筆写した旨の奥書がある安政本『昔阿波物語』の冒頭には、「この書は道知という者の覚書と見受けられる。天正十年に十八歳で、勝瑞の三好政安殿に仕えたとのことである。蓬菴公(蜂須賀家政公)が阿波へ御入国された折には二十一歳であったと見える。御入国よりはるか後年に書かれたものである。実記と見受けられるが、所々に記憶違いもあるのではないかと思われる」「道知は永禄八年の生まれであり、元亀三年には八歳であった」と記されておる。ゆえに、蜂須賀家政公の阿波入国よりはるか後年になって、かつて三好(十河)存保殿に仕えていた道知が筆をとったものであることが相違なくわかる。
そして本文の巻頭に「元亀三年より後のことは、自ら見聞きし伝えたことである。永禄以前のことは、古人の語り伝えである」と記しておるように、永禄以前のことや、永禄末年から元亀年代の幼少の頃の事柄は、古老からの聞き書きとして記し、元亀三年以後のことは、自身の見聞したところを直接記したのである。
著述の時期は定かではないが、安政本の中に「表紙の無駄書き=慶長四年云々」との書き入れがあることや、蜂須賀家政公が関ヶ原の戦いにおいて秀頼公の命により阿波国を返上し、戦の圏外に立った後、子の至鎮公が東軍に属したため、戦後改めて阿波国を与えられて父子ともに入国したこと、さらに、宇喜多秀家公について本文中に「直家公は間もなく果て、子息の中納言殿(秀家公)は八丈島へ流され給うた」と書かれていることなどを考え合わせると、関ヶ原の戦いが終わり、宇喜多秀家公が八丈島に流された慶長十一年四月以降、さほど遠くない時期に、関ヶ原の戦いへの回想から細川・三好の昔日に思いを馳せて書いたものではなかろうか。
本書の内容は第一から第四に至る四部に分かれており、一つ書き(箇条書き)にて細川氏と三好氏との興亡盛衰の跡が叙述されておる。初めは編年体の体裁で書かれておるが、第三の「昔沙汰有事」以下の部分と第四部は順不同であり、回想的覚書や見聞したことを主として書いておる。安政本に「実記とみゆれども間々覚違もあるにやと思ふ」と記されているように、所々に記憶の誤りもある。文章も稚拙で洗練されてはおらぬが、これは覚書であるためであり、その方がかえって生々しく当時の情勢を伝えているとも言えよう。したがって記録としても『細川家記』や『三好記』とはまた違って強く訴えかけるものを持っておる。
中富川の合戦にて三好軍が敗走した折、三好存保殿に仕えていた本書の著者である道知は、この戦に従軍しており、「中富から勝瑞へは一里に満たぬ。早朝からの戦で、昼過ぎに勝瑞へとお退きなされた。政安殿は討死なさる覚悟であったが、馬を引き返しなされた時、二万人の兵が踏みとどまったゆえに、敵の手間を取らせることができた。この戦の事は、それがし(道知)が十八歳にて御供仕ったゆえ、よく存じておる。長宗我部元親がそのまま勝瑞へ攻め入っていれば、一人も残らず討ち果たされていたであろうが、池ぶらと申す所に陣を据え、二万人の衆に昼飯を食わせ、二時(ふたとき)ほど手間取ったため、夕景になってから勝瑞へ押し寄せてきた」と書いておる。この記述に見える「御供申候故、能ぞんじ候」の言葉が示すように、直接見聞したことであるだけに、史料としては「記憶違いもある」とはいえ、高い価値を有すると言ってよかろう。
ひそかに思うに、上から覆って外がないのは天の道であり、載せて偏りがないのは地の徳である。三界には疑わしき道理がある。欲界の衆生は報いを逃れることはできぬ。大事は小事から起こるものである。毒薬は口から入り、災いは口から出る。大尺の魔王には必ず祟りがあるものと見受けられる。元亀三年より後のことは、自ら見聞きし伝えたことである。永禄以前のことは、古人の語り伝えである。これによって、一つ書きには前後の乱れが生じている次第である。
一、昔の阿波国王の始まりは、細川光勝院殿と申された。秋月を主護所(守護所)と定められた。高氏将軍様の御一家であられるゆえ、阿波国に新京の造営を望まれ、在所を一条・二条・三条・四条・五条・六条・七条と名付けられたが、新京は成就せずして身罷られた。ご存命の折、連歌を催された。その折、天下に隠れなき宗祇と申す歌詠みが諸国修行をしておったが、ちょうど秋月の連歌の場へ参り、座敷の外に佇んでおられた。連歌衆はこれを不審に思い、「いかにも連歌の望みがあってのことであろう」と申し、「是非とも一句お詠みくだされ」と勧めた。宗祇は遠慮されたものの、結局一句詠まれることとなった。「秋月の光勝院の今宵哉」 と詠まれた。連歌衆は顔を見合わせて吟味した。宗祇は「御免あれ」と立ち去ろうとしたが、記録係が吟味したところ「一段と見事な発句である」と申し、宗祇を呼び戻して再び吟じられた。「秋の月ひかりすくなく今宵哉」 と直されたとのことである。良き発句として語り伝えられておる。
一、光勝院様の御子息を相模守殿と申す。これも将軍様の御一族であるゆえ、将軍の望みを受けられた。御舎弟を馬頭殿と申す。こちらは「将軍家に背くなどあってはならぬ事」として、色々とお諌めになった。ことに親が「断じて将軍に背くことなかれ」と遺言しておられたのに、相模守殿は聞き入れず、「亡霊の恨みは深く、末代まで名を汚すことになろうに、どうしてこのような事をするのか」と馬頭殿は申されたが、聞き分けなく合戦に及んだ。讃岐の白山の麓にて兄弟の合戦となり、相模守殿は討ち果たされ、四国は馬頭殿に従ったと言い伝えられておる。馬頭殿を新京院殿と申す。御子息を慈雲院殿と申す。勝浦郡の丈六寺を建立なされた。慈雲院殿の御子息を徳雲院殿と申す。代々の御知行は十二ヶ国であった。阿波・讃岐・伊予・淡路・和泉・河内・摂津・大和・山城・伊賀・近江・備中の十二ヶ国である。徳雲院殿の舅を大内介殿と申す。中国・西国の十六ヶ国を、十六代まで保ち伝えられたとのことである。
一、播磨の赤松殿は、徳雲院殿の妹婿である。赤松殿は備前・播磨・美作三ヶ国の主である。西国三十一ヶ国は、徳雲院殿の妹婿と舅とで固めておった。そのような中、阿波の三好と申す者は、徳雲院殿の家臣である。本来は信濃の小笠原氏である。上郡の三好郡が知行所であったため、その在名を名乗られた。西条の岡本美濃殿も小笠原氏である。阿波国にて、弓道の作法を伝えられた。海部殿も大西殿も小笠原氏である。いずれも在名を名乗っておられる。赤沢殿も川村殿も同様である。
一、三好殿は、初めは海雲殿と申された。この方は徳雲院殿の御内における七人の家老の筆頭であった。軍大将に定められておった。戦に負け、京にて切腹なされた。
一、海雲殿の御子息を喜雲殿と申す。これに関して一つの物語がある。親も子も高慢な武辺者であったため、慈雲院殿の御意に背き、祖谷山へと追いやられ、去年浪人となられた。そこへ勝瑞の町人共が見舞いに参り、酒樽・肴・饅頭を進上いたした。その頃まで祖谷山の者は人里に出てくることがなかったため、姿は人であっても心は獣のようであった。喜雲殿は百姓共を呼び集め、「饅頭を食らわせてやろう」と面白がり、高く上へと投げ上げた。すると「山の者は投げ上げて食うものか」と思い、皆も競って投げ上げたが、不調法なため誰一人として饅頭に喰らいつくことができず、座敷へ落ちた饅頭を「俺の饅頭だ」「人の饅頭だ」と奪い合ったという話を語り伝えておる。昔は祖谷山へは塩なども入り難かったため、里芋の茎を水で洗い拭って食らい、「くったり」と申しておったという。喜雲殿の語り伝えである。 その後、喜雲殿が病に伏せったと聞き、光勝院の院主様が慈雲院様へお詫びを入れられ、喜雲殿は勝瑞へお戻りになり、以前のように御奉公なされた。その後、和泉国の合戦にて敗れ、喜雲殿は堺の町の顕本寺と申す寺にて腹を切り、自らの腸を掴み出して天井へ投げつけられた。これを諸国の人が見物し、褒め称えぬ者はなかったというが、大坂落城の折に堺も焼け、その跡は失われてしまった。 喜雲殿には子が八人おられた。嫡男は河内国高屋と申す所に住み着き、三好と申された。次男は三好実休殿と申す。三男は淡路国の安宅殿と申す。四男は讃岐国の十河殿と申す。合わせて四人の男子である。女子は大西角用、上浦の有持道慶、一宮長門、海部宗寿の妻となった四人である。三好の身内衆は、三好宗三・同山城・同下野・同日向・同遠江。家老衆は、篠原駟雲・同自遁・同伊賀・同越前・同雅楽・加地六郎兵衛、岩成・川原林・池田・伊丹、そして山城・大和の侍衆であり、大略が河内国の高屋に属した。三好実休殿の同名・親類衆は、清雲院様の御分国を堅く守っておる。かくして三好殿は武功の者である。一家一門も多い。その高慢な様は並大抵のものではなかった。
一、徳雲院殿が腹を召された事件のことである。徳雲院殿が身罷られたのは、四宮与吉兵衛と御相談なされ、御供と触れを出して三好実休殿を呼び出し、討ち果たそうと企てられたのを、与吉兵衛が実休殿へ寝返り密告したためである。徳雲院殿は夢にもそのような裏切りを疑っておらず、御用意もないまま、勝瑞の北の川端にある竜音寺という禅寺へ遊山に出かけられた。そこへ実休殿が三日の内に兵二千人を呼び寄せ、竜音寺の辺りへ押し出したのである。徳雲院殿は肝を潰され、その並びにある堅昌寺という寺へ逃げ込まれた。御供の衆は藪へ隠れるなど方々へ逃げ散り、最後まで付き従ったのは星松殿と蓮池清助の二人だけであった。そこへ十河殿が無理矢理に踏み込み、「御腹を召されよ」と迫ったため、星松殿が介錯をして腹を召された。蓮池清助は不肖の者であり、日頃から素行の悪さをたしなめられ、「差し出がましい」と疎まれて扶持もギリギリに減らされていたが、「御供を仕る」と申して見事に腹を切って殉じた。これを褒めぬ者はなかったと伝わっておる。これは天文二年のことである。四宮与吉兵衛には、実休殿から知行が一所与えられた。一年間はそこを治めさせたが、その後処刑された。その折、実休殿は「誰の身の上であろうと、裏表をつかって主君を死に至らしめるような事は悪しき事なり」と仰せになり、諸人はこれを褒め称えた。そのため与吉兵衛を憎まぬ者はいなかったのである。 徳雲院殿の北の方(奥方)は、周防国の大内介殿の御息女であった。そのため、岡本美濃守殿の娘である小少将と申す者を、侍女として御奉公させておった。北の方様にはお子がおられず、徳雲院殿は小少将殿に目をかけられ、若君が一人お生まれになった。実休殿は「主君に切腹させたことは天道も恐ろしい事であるから、せめてこの若君を育て上げ、以前の如く主君と崇め奉ろう」と考え、小少将殿を実休殿の奥方として迎え入れた。そうして実休殿との間にも御子息がお生まれになった。千松殿と申し、烏帽子名を彦二郎殿、のちに長治様と名乗られた。男子・女子合わせて三人である。この事は後々の出来事である。
一、徳雲院殿が切腹なされた時、芝原と申す所に久米殿という侍がいた。実休殿の舅である。徳雲院殿の臣下であった。仁木日向守と申す人も、徳雲院殿の御一家である。佐野河内と申す在所の野田内蔵助という侍も、徳雲院殿の臣下である。蔵本の小倉太助と申す人も同臣下である。この四人が申し合わせ、「徳雲院殿に切腹させたことは無念極まりない。是が非でも三好実休を討ち果たし、本望を遂げよう」と密議を凝らした。久米殿は実休殿の舅ではあったが、「主君を討ち果たすなど言語道断」として、この企ての首謀者となったゆえに「久米殿の乱」と申し伝える。その時、実休殿は勝瑞の町に住んでおられた。小倉左助が実休殿の様子を探りに参り、帰りに勝瑞の野辺にて大言壮語を吐いて帰った。「実休を討ち果たすなど容易い事だ。年若き小姓衆が二十人ばかりいるだけで、台所人ばかりで役に立つ者は一人もおらぬ」と言うのを、町人の牛飼い共が聞きつけ、親方衆に語った。すると町人共はすぐさま具足や兜を身につけ、雑兵千人ばかりで実休殿の警護に就き、小倉左助の大言壮語の由を申し上げた。芝原と勝瑞の間は一里ばかりである。久米殿は町人共が出張ってきたと聞き、勝瑞へは攻め入らず、一宮長門殿のところへ夜討ちをかけた。その時、長門殿は下屋敷におられたが、四方は大竹藪であった。夜討ちは大勢であったため容易く門を打ち破って踏み込んだ。長門殿の臣下に森備前と申す者がおり、宿は十町ばかり離れていたが、いち早く聞きつけて駆けつけ、裏の大竹藪を潜り抜け、長門殿の寝所へ直に入って長門殿を引きずり出し、藪の中へ押し入れた。すでに夜討ちの兵が追い迫っており、後ろを振り返る暇もなく長門殿を押し立てて逃げる際、備前は背中を真っ二つに二太刀斬られたが、藪の中であったため何とか逃れおおせた。長門殿の奥方は実休殿の妹であったが、久米殿が生け捕りにし、芝原へ連れ去った。 三日の内に実休殿の軍勢三千人が、上郡と淡路から駆けつけた。久米方の軍勢は八百人である。方々の実休方の砦を打ち破り、黒田原へ軍勢を進めたところ、勝瑞からも三千人が出陣し、中富川原にて激突した。久米方の兵六百人が斬り込み、残るは二百人となった。彼らが死に物狂いで斬り込むのを、実休殿の三千人が取り囲み、一人残らず討ち果たした。久米方の野田内蔵助は七十人力と言い伝えられる剛の者であり、実休方の三千人のうち五百人が手負いとなったと伝わるが、大半はこの内蔵助に斬られたものであろう。内蔵助が数多の敵を相手に奮戦しているところへ、淡路国の住人で野口肥前と申す者が進み出た。二十人力と言われ、淡路一番の相撲取りである。内蔵助と組み合い、大腰にかけて内蔵助を投げ飛ばしたが、腕力の差で内蔵助が上に乗った。そこへ奥村新右衛門と申す者が加勢に参り、内蔵助の首を打ち落とそうとして、誤って肥前の組み付いた腕ごと切り落としてしまい、肥前は片腕になってしまったという。
一、三好実休殿、和泉国久米田にて討死の事。和泉国岸和田の城を淡路の安宅殿に守らせ、淡路一国の八百人を籠めておいたところ、紀州の広と申す在所に浪人しておられた畠山高政殿が、熊野の侍や根来の法師を駆り集め、二万の兵で押し寄せ岸和田城を攻めた。実休殿が阿波より後詰として海を渡りお登りになった時、まず堺へ軍勢を揃えられたのを見て、畠山殿は兵を退き、岸和田の上の山に陣取った。実休殿は久米田と申す所に陣を敷かれた。阿波・讃岐・伊予の兵は篠原右京進に付けられ、岸和田城の麓へ詰めさせた。実休殿の御手許には五畿内五ヶ国の兵を連れておられたが、篠原右京進の兵が進み出て、山坂に陣取る敵へ懸かった折、敵が少し退いたのを見て、実休殿の御手許の兵も右京進の方へ加勢に向かってしまった。そのため、実休殿の御手許には堺の町人と篠原左吉兵衛など六十人ばかりが残るのみとなった。山坂に陣取っていた敵はこれを見下ろし、一気に兵を下して実休殿を討ち果たしたのである。 阿波国の軍勢は堺へ逃げ込む道中、腰刀に至るまで地元の郷民に剥ぎ取られ、散々な有様であった。その時も一宮長門殿の家臣・森備前は数度の武功の者であり、長門殿の兵百人ばかりを一人も散らすことなくまとめ、武具を持たせ、長門殿を真ん中にして陣形を組み、群がる郷民を払い退けて無事に堺へ逃れ入ったと言い伝えられておる。堺の町人たちは細やかに阿波衆を助けてくれた。阿波勝瑞の町人たちも実休殿のために様々に手柄を立て役に立ったため、万事について税の免除がなされた。昔は戦の暇がなかったため、十人の子を持つ者でも知行は一人にしか与えられなかった。もし子の無い者は、被官の子に跡を継がせ、家を絶やさぬようにした。侍の生計は町人や職人から得るほかなかったため、武家が町人化したゆえである。
一、久米田で敗軍となった折、阿波へ皆下られ、篠原右京進は頭を丸めて駟雲と名乗った。篠原弾正は自遁と申す。三好長治殿は笑岩と申す。その他、阿波・讃岐・伊予・淡路の衆も残らず頭を丸め、弔い合戦に上洛し、強法師八百人を討ち果たして首を取り、岸和田城を堅固に持ちこたえたのである。篠原と申すは橘氏の侍である。四家の姓(源・平・藤・橘)というものは人の初めに取るもの。しかし零落して近江国篠原という所に住み着き、多賀の神主の荷物持ちをして阿波へ下ってきた折、肩に荷物の瘤が大きく盛り上がっており、単衣などを着る時は見苦しいほどであったが、三好喜雲殿へ御奉公に出た折には篠原宗半と名乗り、わずかな禄での奉公であった。しかし政務の裁きを見事にこなすとの噂をお聞きになり、すぐさま直々にお召し抱えられ、知行を一所与えられ、侍衛に任じられた。篠原宗半の御子息を大和守と申す。この子息は三人いる。長兄は四宮殿の養子となられた。次男を篠原孫四郎と申す。三男を篠原左橘殿と申す。孫四郎殿は実休様の御分国を一円に任され、作司(奉行)を命じられた。孫四郎と申すのが駟雲のことである。
一、上方より名人の兵法者、式部と申す者が下向し、孫四郎の師匠として兵法の稽古をつけられた。また阿波国には内藤太郎兵衛と申す者がおり、新当流を教えていたため、実休殿も十河殿も、家中の者たちも皆新当流を稽古しておられたが、式部が「新当流など役に立たぬ」と申すにつき、実休殿は「ならば孫四郎と立合いをしてみよ」と命じられた。互いに木刀を取り合い、孫四郎が容易く勝ちを収めた。 その後、十河殿が妙永寺という法華宗の寺の警護に就いておられた時、式部が挨拶に参上した。十河殿の家臣に十河新左衛門という侍がおったが、彼に向かって「どうか、立合いをしてみぬか」と声をかけた。無法な事であると合点がいかず、「断りきれまい」と心得て、妙永寺の仏壇の前に式部が座っていたところへ、新左衛門は寺の縁側から刀を抜き放ち、後ろから袈裟懸けに式部を斬り捨てた。これに孫四郎殿は腹を立て、「十河殿を討ち果たす」と申されたため、二日の間に孫四郎のもとへ五十騎が集まり、十河殿へ攻めかかろうとした。これが実休殿の耳に入り、孫四郎へ「いかようにも腹の虫が治まるよう申し付けるから、ここは堪忍せよ」と仰せ出された。ことに十河殿は実休殿の舎弟であるため、孫四郎も堪忍した。孫四郎は全侍の頭に任じられていたため、家中は残らず孫四郎のもとに集まった。十河殿のもとには一人も寄らなかったため、実休殿も分別なされ、その後は権限を二つに分け、三好山城殿へ半分を任せられた。皆、永禄四年三月三日に実休殿が和泉久米田にて討ち死になされた後は、大略が駟雲の配下についた。
一、訴訟事があれば、駟雲は物知りを置いて目を光らせて裁いたため、負けた方も腹を立てず、勝った方も浮かれず、少しも恨みが残らなかった。然る所に、実休殿が身罷られた後、小少将殿が寡婦の身をお守りにならず、篠原自遁を腰揉み(愛人)として呼び寄せるようになられた。初めは固く辞退し、夜陰に紛れてこっそりお召しになっていたが、後には昼間も堂々とお呼びになるようになり、阿波・讃岐の侍や百姓に至るまでこの噂が広まり、大変見苦しい状態となった。大方殿の耳にも入り、「自遁は国司を務めながら、このような噂を立てられるとは言語道断」とお怒りになった。御屋形様である三好長治殿はご兄弟を連れ、自遁を供にして淡路へ退かれ、国々へ廻文を回された。「駟雲に不届きな振る舞いがあるゆえ敵とする。国々の者は皆、御屋形三好の被官であるから、この度は忠義を尽くせ」と命じられた。しかし駟雲には少しも罪がなかったため、誰も畏まって従う者はいなかった。駟雲は「いかにしても主君に弓を引くなどあってはならぬ事である。是非とも弁明し、お許しをいただこう」と申し、川島の上桜の山へ立て籠もったが、聞き入れられず討ち果たされてしまった。 駟雲の嫡男は二十歳になられておった。真っ先に斬り出て討ち死になされた。長治殿の姉君が正室であった。(元亀三年六月十六日、後の追記:天正元年五月十三日の事なり)お名前を大和守と申された。残るは腹違いの子息四人と娘一人、五人の母親は門跡様の御息女であった。上桜を攻め落とした折には、紀州から鉄砲三千丁が下ってきていたため、子供たちや奥方は紀州衆が貰い受けた。兄の子は松光殿と申して八歳。次男は梅松殿と申して七歳。三男は吉松殿と申して六歳。その次は小法師殿と申して五歳であった。紀州衆は御門跡様の旦那寺であるゆえ、貰い受けて助けたのである。 鶴石殿と申すのは十一歳になられていた。駟雲の甥である。親は篠原左吉兵衛といい、永禄四年の久米田における実休殿討ち死にの際に共に果てられた。そのため、八万と渋野・立江の汗田の三ヶ所を領していたが、左吉兵衛が果てた年に生まれた子であったため、その知行は林石見という者が預かって十一歳まで育てておった。駟雲が上桜にて庄野和泉に「我が子らは紀州衆が助けてくれるが、鶴石は十一歳になる。これを助けてやってくれ」と頼まれた。庄野和泉は駟雲にお供して討ち死にする覚悟であったが、「是非とも鶴石を助けよ」と命じられたため、鶴石殿を駟雲の御子息らと共に抱き抱えて落ち延びた。幸いにも敵軍の中にいた伊沢越前と申す者は、鶴石殿にとっては母方の叔父にあたったため、大変喜んで知行を和泉に添えて下さり、鶴石を育ててくれた。 こうして駟雲は家に火を放ち、切腹して果てられた。御供をして殉じた者は六十人、このように御伽(殉死者)が多いのは前代未聞であると沙汰された。駟雲は背の高い人であったため、果てられた後も讃岐や伊予で姿を見かけたなどと噂された。赤沢宗伝と申す者は、御屋形様の家老であり実休殿と同格の身分であったが、駟雲とは格別に懇意にしていたため、「道理なき討ち死には痛ましい」と仰せられ、高野山に三年籠もられたという。
一、一宮殿と長治殿とは従兄弟同士であったが、「無理な理由で果てられたのは痛ましい」と仰せられ、一宮殿は駟雲と一味であったため、駟雲が果てた後に一宮の城を攻められ、のちに和議を結ぶこととなった。
一、駟雲の遺言に「私が果てたとしても、五年は長治様が阿波国を治められるであろう。しかし五年を過ぎれば、他人の国になろう」と言い残された。少しの狂いもなくその通りになったため、つくづく不思議なことを言い残されたものだと沙汰された。
一、篠原自遁の先妻の子息に玄蕃允と申す者がおり、長治殿とは義理の兄弟にあたった。大酒飲みであり、夜昼問わず酒盛りをしておった。長治殿の小姓に山井図書と申す者など、一日に一升、二升と酒を飲む者であった。まことに正気など少しもなく、青果屋などに名字を与えたりした。その他の小姓衆も、酒を飲まぬ者は御意に背くとして、夜昼の区別なく酒盛りをしていたため、公の政務を執り行う者は誰もいなかった。玄蕃殿へ申し上げても、酒で正気が抜け果てており、理非をわきまえることがないため、道理を非とし、非を道理とし、腹を立てる者ばかりで、国中に恨みを持たぬ者はいなかった。
一、天正四年に尾張国の信長公が都へ上られた。その時まで阿波の侍衆は、河内国におられる三好山城殿を大将とし、三好の一族も皆ことごとく信長様へ降参なされた。松永弾正と申す者は三好殿のお守り役であった。この者は信長公に従わなかったため、これを討ち果たし、山城殿は信長殿に降参したのである。 また加地又五郎と申す者は、実休様のお守り役であった加地六郎兵衛と申す者の子である。齢は十五歳であった。信長公に従わず、河内国のしほりと申す城を奪って籠城した。信長殿に攻められ、塀一重になるまで追い詰められて和議を結び、阿波へ下って十七歳で長治様のお供をして討ち死になされた。
一、天正三年に、阿波一国、老若男女に至るまで一人残らず日蓮宗に改宗させ、法華経を頂かせた。上郡の滝寺と申すのは三好殿の氏寺である。真言宗であった。その僧侶にも法華経を頂かせ、日蓮宗に改宗させた。郡里の願勝寺も真言宗であったが、日蓮宗になれと命じられたため、寺を挙げて高野山へ上ってしまった。これこそ僧侶らしい立派な行いであると、諸人は褒め称えた。 この時、堺から妙国寺・経王寺・酒しを寺の三ヶ寺が下ってきた。同宿の者も数多下り、北方・南方と手分けして、侍・百姓の一人残らずお経を頂かせたため、阿波の禅宗・真言宗は旦那(信者)を奪われ、大迷惑に及んだ。そこで阿波一国の真言宗の山伏三千人が持明院へ集まり、「仏法のことにつき、国中を日蓮宗になされる由ですが、どうか宗論をお命じ下され」と訴え出た。この訴訟が叶い、持明院からねこびの円正という者を呼び下し、まず円正の書物を取り寄せ、三玉うてん坊に持たせて遣わした。その時、堺の妙国寺・経王寺の者は本行寺におられたが、書物の返答ができなかったため、「法度の通り、返答できぬ時は打ち潰す」と宣言し、三千人の僧侶たちは「信者を奪われるくらいなら命など惜しくない」と我先にと進み出た。鬼神のような声を上げ、攻めかかろうとした時、篠原自遁が間に入ってかばい、妙国寺・経王寺、その他の僧侶たちを森志摩守が引き受けて堺へ送り返した。その当座は真言宗の勝ちとなったが、日蓮宗をやめるという沙汰はなく、諸宗は皆迷惑を被ったままであった。
一、そうした折に、長治様の御家に怪異が起こり始めた。夜な夜な山伏が屋形の中を歩き回り、実休様の数寄屋(藁屋)にて、馬場彦兵衛らが二人で番をしていたところ、夜に山伏が来て戸を押し倒し、二人の番衆を押さえつけたという。物騒であると番衆を替えても、怪異は収まらなかった。また、屋形の上に五間ばかりに見える巨大な人形などが現れた。また、天正十四年十二月半ばに、長治殿が気随な振る舞いをなされたため、本来の主君である御屋形様はお腹立ちになり、馬にも乗らず身を忍んで、久米源三郎という小人とその弟の喜四郎という草履取りの二人に手を引かせ、夜中に勝瑞の館を脱出なされた。飯谷という所に福浦出羽という者がいた。この者は御屋形様の奉行であったため、ここへお越しになられた。ここは人里に近いため、出羽は仁宇へとお送り申し上げた。 長治様はこれを聞きつけ、仁宇へ攻め入ろうと兵を催し、荒田野に陣を敷かれたが、仁宇は険阻な要害ゆえに叶わなかった。そこへ、一宮殿・伊沢殿らが以前からの遺恨もあり、方々で本来の主君である御屋形様のために奔走して加勢したため、長治様は敗軍となられたのである。
一、一宮殿の遺恨というのはこういうことである。源平の合戦より以前は、日本国は帝王様が国々に国司を置かれ、その下知を受けていたが、源氏の世からは国々に守護が置かれるようになったため、帝王様の直接の統治はなくなったが、国司の知行は相違なく残っていた。その国司に男子がいなかったため、一宮成助の三男・孫七郎殿を養子に入れる約束をしていたにもかかわらず、それが反故にされ、他人に知行を与えられてしまった。一宮殿は面目を失い、何の申し開きもなかったため、これを深く恨んでいたのである。
一、伊沢殿の遺恨とはこういうことである。長治様の臣下である篠原自遁の子息・篠原玄蕃は、伊沢越前と車の両輪のように国政を担っていた。しかし自遁が長治様の継父となったため、伊沢越前を排斥し、玄蕃一人が国を牛耳るようになり、越前は無力な有り様となってしまった。折しも讃岐国に滝野宮豊後と申す侍がいた。伊沢越前にとっては叔父にあたる。豊後殿に訴訟事が起きた際、理を非に曲げて判決を下し、その場で切腹させようとした。越前が異見を唱えて一時延期させたが、この公事の裁定は玄蕃の仕業であった。しかし長治様は少しも聞き分けられなかったため、深く遺恨を抱き、敵となったのである。
一、天正四年十一月末に、長治様が矢三村で鷹狩りをなされた時、潮が満ちてきた。折しも別宮の者が小舟に乗って居合わせたため、「御供の衆を渡せ」と命じられた。「舟に垢(水)が溜まっておりますが、いかがいたしましょう」と申し上げたところ、「言語道断」と腹を立てられ、即座に縄を掛けさせて処刑を命じられた。鹿の式部と申す者が御膳を差し上げながら命乞いをしたが、お許しなく成敗なされてしまった。 その後、仁宇からの敗走の時、長治様はまず勝瑞へ逃げ帰られたが、「玄蕃殿と一緒に居るべきだ」と、今切と申す在所で玄蕃殿が少し陣を構えていた所へ入られた。一宮殿は矢三村に陣を取った。矢三村と今切の間には深い江川があり、それを頼りに二、三日戦ったが、玄蕃殿の兵も皆逃げ去り、長治様の兵も皆退却してしまい、籠城も叶わなくなった。玄蕃殿は、大墓村の郡勘助という者が自らの被官であったため、勘助の元へ逃げたが、無情な者であったため泉の中へ隠し置かれた。そして勘助はすぐさま一宮殿へ密告し、兵を寄せて泉から玄蕃殿を引きずり出し、討ち果たしたのである。 長治様は、森志摩守がお迎えの舟を出して前宮(別宮)を目指して参ると約束していたため、別宮へと落ち延びようとされた。その時の御供は加地又五郎と姫田佐渡の二人だけであった。 ところが、矢三村で成敗された別宮の船頭の親類共がこれを見つけ、一宮殿へ密告した。一宮殿から軍勢が遣わされ包囲された時、お迎えの舟が到着したが、寄せ手は大勢であり到底逃げ切れぬと悟り、長治様はついに御腹を召されたのである。御伽は加地(以下略)
一、長春様が別宮で切腹なされた時、御供として加地又五郎と姫田佐渡の二人のみが付き従っておった。森志摩守も「御供をして腹を切るべきだ」と申されたが、一宮殿の寄せ手衆が申すには「御迎えに参られたこと、誠に頼もしい次第である。長治様のご一門やご親類、ご被官衆の歴々たる方々が多くおられるというのに、この二人の他に付き従う者がなく、志摩守殿は新参であるにもかかわらず最後まで見届けられたことは、末代まで類稀なる忠義である」と称賛し、命を助けたのである。
一、長春様が別宮にて御腹を召されたのは、天正四年十二月二十七日のことである。長春様は日蓮宗を信仰しておられたため、本行寺より円教坊とその同宿の者が御遺骸を迎えに、平田舟(底が平たく長い小舟)に乗って別宮へ参った。長春様の御遺骸を舟へ納め申し上げた後から、竜音寺という禅寺の東蔵主と申す僧が参り、「一国を治めた侍の遺骸を、日蓮宗の者などに任せておくわけにはいかぬ。無法なことを申すならば、皆斬り捨てる」と申して、本行寺の衆を追い払い、御遺骸を自らの舟へ移して竜音寺へと持ち帰り、手厚く葬り申し上げた。
一、実休様が和泉の久米田にて討死なされたのは、永禄四年三月三日のことである。その同じ三月朔日(一日)に、山伏の老人が現れてこう申した。「実休様は久米田にて討死なされた。御供をして六十人が果てた。堺の禅門衆である篠原左吉兵衛も果てられた」と。台所におった下働きの者がこれを聞き、泣き叫んだ。広間の番衆が「何事だ」と尋ねると、「実休様が討死なされたと、山伏が申しております」と答えた。「その山伏はどこにおる」と問うと、「今、在官町を指して行きました」と答える。すぐさま追いかけ、勝瑞の千軒の家々を尋ね回ったが、どうしても見つけることができなかった。 知る者も知らぬ者も皆泣き叫び、山伏を捜し回っても跡形もなかったのである。しかるに、三月三日の出来事が、その日の夜明け方に(阿波へ)聞こえてきたのであるから、これは人間の仕業ではあるまい。魔王の仕業であったに違いないと沙汰された。
一、三好殿(長治殿)の御世は、大方殿(長治の母)の威勢が強く、おだ様(長治の弟か)や長治様はひ弱な方であった。弓馬の道、仏法のこと、日取り(吉凶占い)、軍配、連歌など、何事についてお尋ねしてもご存知ないことはなかった。天正四年十二月半ば、御屋形様(細川真之)が仁宇へお隠れになった折、大方殿は「なんと愚かな鳥よ」と仰せになった。「大方が実体であり、御屋形様と三好殿は二つの嘴(くちばし)である。鴫(しぎ)が餌を争う時、一方の嘴が毒を食らえば、毒とは知らずとも共に死ぬことになる。胴体は一つであるゆえ、どちらも死ぬのだ」と仰せられたが、その言葉通り少しも違わなかった。 同年霜月(十一月)に、加地又五郎のもとへ川村殿の娘が嫁入りした時、「これは死に別れるようなものだ」と仰せになったが、これもまた少しも違わず、明けて十二月二十七日には、別宮にて加地又五郎は長治様の御供をして討死なされた。このような日取りの占いが数限りなく的中し、一つも外れることがなかった。
一、弓術に関しては、「戦における駆け引きが第一である」と、普段から伊沢越前殿(あるいは卜世という者か)が申しておられた。日々戦が絶えなかったため、「今日は敵が負ける」と予言すれば、必ずその通りになった。卜世は勝瑞に住み着いておられたので、碁を好まれ、日ごとにお越しになるため、様々なお話を伺った。卜世と申すのは、新乗院殿の住職であったが、寺をお捨てになり、その寺は赤沢殿のご舎弟が住職となられた。
一、光勝院という寺、また新乗院という寺は、御屋形様の御一門や家老衆でなければ住職になれなかった。この二ヶ寺は共に破滅してしまった。秋月の光勝院を萩原へお移しになり、蜂須賀公の御入国以降も存続していたが、火事によりことごとく焼失してしまった。以前は京の東福寺ほどの立派な伽藍であった。
一、慈雲院は街道沿いにあり、戦乱によって破滅してもおかしくない寺であったが、才覚のある住職であったため、天正六年に土佐へ使僧を遣わし、長宗我部元親公から制札を賜り、難を逃れた。また天正十年に、織田信長公の名代として三好山城殿が三千の兵で下向し、阿波の様子を探られた時も、即座に使僧を上らせて制札を賜り、軍勢の陣地となったものの被害はなかった。国が乱れれば寺々も破滅するものなのである。
一、光勝院という寺は、三千貫の寺領を持っていた。国内でいさかいが起きた時も、光勝院の院主の乗り物が出向くことで、互いに矢を収め事なきを得た。人を殺した者であっても、寺の門内へ逃げ込めば命を助けられたのである。
一、林丸光寺と申すのは比丘尼寺(尼寺)である。御屋形様のご兄弟が開かれた寺である。知行は五百貫である。この寺もまた、罪を犯した女を助け置かれた。ここで処刑される者は稀であった。
一、天正五年正月早々、篠原駟雲の子息たちが阿波へ報復を企て、別宮へ押し入った。挨拶もなく強引に押し入ったため、一宮殿と伊沢殿は腹を立て、追い返された。紀伊湊の大将分は、植松ノ平大夫、久保町の才助、湊の刑部、森土橋、鷺森の源左衛門、加太の向かいの者たちである。この者たちが、元亀三年に上桜の戦いで駟雲の子息たちや御袋様を貰い受けて養っておったのである。その他、内衆の篠原伊賀、庄野右近、寄金和泉、同名又丞など、人数七十人ばかりを抱え置いたことは、百姓の身分としては殊勝な行いであった。織田信長公の時代以前は、阿波には守護がおらず、百姓持ちの国であった。紀州の衆は鉄砲を拵えて勢力を広げていた。 その理由は、阿波の守護は数ヶ国を治めていたが、それに従わず、紀州一国として細々と合戦はしていたものの、紀州へ本格的に攻め入られることはついになかった。結局、和泉国へ陣を張り、岸和田城を押さえるための軍備として、阿波から持ち込んだ鉄砲は薩摩国から手に入れたものであった。紀州の者たちは土佐沖を船で渡り、薩摩との商売ばかりしていたため、紀伊湊の商人たちは皆一丁ずつ鉄砲を持っており、湊だけで三千丁もの鉄砲があった。そのため、度々阿波へも傭兵として下ってきたのである。
一、同年の五月、伊沢越前殿が板野郡坂西に城を築こうとし、坂西の町屋に滞在していた。その時、矢野駿河、矢野備後、三好越後らが談合し、「伊沢が我々を助けてくれるはずもないから、夜討ちをかけて討ち果たそう」と企てた。庄野久右衛門という者は、弁舌爽やかで人を騙す名人であったため、彼に頼んで夜半に伊沢殿の元へ潜り込ませた。伊沢殿が満足するように巧みに取り入り、酒宴となって伊沢殿が正体もなく酔い潰れたところを見計らい、久右衛門が宿を出るや否や、弓六十張で射掛けた。伊沢殿の軍勢は千五百人いたが、夜半のことであり、町屋から飛び出してくるところを次々と射倒されたため、千五百人も役に立たず、皆町屋の裏から逃げ出し、伊沢殿の宿ばかりが残ったところへ火を放ち、焼き殺してしまった。 一宮殿は夜が明けるとそのまま奥野まで追討軍を出したが、角瀬川・住吉川の水深が深かったため、勝瑞の町人たちが川端に出て勝瑞を堅く守った。町人たちは高い税を取られていたため、一宮殿に負ければ死活問題であったゆえ、日々早鐘を突いては精を出して戦った。 矢野駿河、矢野備後、三好越後、木村飛騨、赤沢信濃といった者たちは、勝瑞の町を頼りとして住吉川の辺りで戦を行っていた。讃岐国東方の安富は東方半国の大将であり、伊沢越前殿の叔父にあたるため、五千の軍勢を率いて大山へ攻め上がり、一宮殿と合流した。勝瑞の町は一宮殿だけを敵として大事に構えていたが、讃岐の大軍を見て肝を潰した。その時、矢野駿河殿が「讃岐の者は大坂(大山)を一足も下りてはこない。気遣い無用だ。敵は一宮だけだ」と申された。少しも違わず、讃岐の軍勢はすぐに引き返していった。この間に、篠原自遁は淡路の軍勢を引き連れて勝瑞へお入りになった。
一、一宮殿からは「土佐へ援軍を出してほしい」と要請し、土佐からは海部まで兵が送られたが、間に合わなかったため、一宮殿は庄野和泉を紀州へ遣わし、「一円の知行を差し上げるので、援軍を下してほしい」と要請した。勝瑞からは淡路の安宅殿を頼み、互いに調略し合ったが、結局紀州勢が若宮まで下ってきた時、敵が追い上げてきたため勝瑞へ退却し、事なきを得た。
一、天正五年の秋、一宮殿が高崎へ出兵なされた。淡路衆がこれを聞きつけ、そのまま住吉川を渡って新居へと進軍してきたため、一宮殿は名東山に兵を配置し、淡路衆の出方を見ようと待機された。一宮殿の家臣に梅雲という軍配繰りがおり、彼が「今日は西へ向かって戦えば勝てますゆえ、名東にて陣をお構えくだされ。必ず勝利できましょう」と申したため、名東で待ち受けておられた。 そこへ淡路衆が進んできて、早淵川へ差し掛かった。杉ノ宮主計殿はいち早く一宮へ帰られていたが、淡路衆の進軍を見て、大栗山から五百張の弓で駆けつけた。まだ戦が始まらぬ内に、壇の原へ駆け出された。 淡路の安宅市之助と申す者が血気にはやり、老人を差し置いて真っ先に駆け出し、名東を目指して攻めかかってきた。名東と早淵の間には川が一つ隔たっており、そこへ一宮殿の家臣・伊頓衆の採女と申す鉄砲の名人が待ち構えておった。そこへ安宅市之助が矢も盾もたまらず槍を持って突撃してきた。採女は狙い澄まし、五、六間(約10メートル)まで引き付けて撃ち落とした。そこへ三箇浦の箕輪新右衛門と申す者が走り寄り、首を取った。 これを機に、一宮殿ご自身が槍を持って突撃なされた。主計殿は山の衆に五百張の弓で射掛けさせたため、淡路衆はたまらず崩れ立った。新居川へ逃げ惑う内に、淡路衆は二百五十の首を取られた。その他、阿波の町人衆も百の首を取り、合わせて三百五十の首が一宮殿のもとへ上げられた。その時の淡路衆の精鋭は五百人であったが、二百五十が首を取られ、残る二百五十人も傷を負わぬ者は一人もいなかった。背中を二太刀、三太刀と斬られた者や、腕を後ろから斬り落とされた者もいた。生き残った者も、斬られぬ者はなかったのである。 淡路では震え上がって恐れおののき、「一宮殿の名を聞けば、どんな熱病(おこり)も落ちる(治る)」と言い伝えられたほどである。
一、同じ日、矢野駿河殿は三千の兵で南方へ出兵しておられたが、淡路衆が敗北したと聞き、南方から兵を引こうとされた。南方の軍勢は五百ばかりで跡を追ってきた。駿河殿は、一宮から八万へ兵が出ているため勝瑞へは戻れまいと覚悟を決め、柴山へ登り、そこから船で津田へ渡ろうと企てられた。 篠原自遁は町人を連れて北浜まで落ち延びていた。駿河殿は南方衆が勝浦川まで追ってきているのを見て、柴山から一気に打ち下り、南方衆を丈六寺へ追い込んで百五十の首を打ち取り、再び柴山へ登って船で津田へ渡り、自遁と合流して無事に勝瑞へ戻られた。 その後、紀州から援軍が下って一宮城を取り囲んだため、一宮殿は持ち堪えられず、大栗山の焼山寺と申す山へ逃げ込まれた。その頃の大栗山は大木が生い茂り、道は険しい岩山であったため、どれほど大軍であっても容易に攻め入ることはできなかった。上郡山・仁宇山・勝浦山・海部山はみな一宮殿に味方した。里方は北方(三好方)に従った。しかし「大将がいなければ戦にならぬ」ということで、讃岐の十河存保殿を勝瑞へ迎え入れたのである。三好政安(存保)と申された。
一、大西殿(大西覚養)というお方は、実休様の妹君を妻に迎えておられたが、土佐(長宗我部)と手を結び、三好家に敵対された。重清(長政)という者は、城を構えて百ばかりの兵を持つ侍であった。その城は山の尾根の先端にあり、岩山で背後は切り立った崖、さらに川もあって、容易に攻め落とせるような城ではなかった。そこで大西殿は計略を巡らし、大西七郎兵衛(覚養の弟)と久米刑馬の二人を城へ潜入させた。大勢の中では暗殺も難しいため、「奥の座敷で重清親子と密談がある」と偽って入り込み、七郎兵衛と刑馬の二人で重清を殺害した。大将が討たれたため、重清の家臣たちも退却した。そしてすぐさま大西殿のもとから矢野武衛(頼武)が城へ入り込んだ。 その後、三好政安殿が大西へと攻め上り、城を攻めて頼武を討ち果たした。その時の狂歌に、 「大西の年寄り(頼武)と竹の末の子(重清)は 討ち砕かれて恥をかく(角用)」 と歌われた。 その頃、岩倉は三好山城殿の知行地であった。山城殿は河内国に住んでおられたが、子息は故郷であるため降参したものの、思い煩ってほどなく身罷られた。とにかく、主君を裏切って長く生き永らえた者はいないと見える。 久米刑馬と申す者は、近頃まで蓬菴様(蜂須賀家政公)から扶持を頂いていた者のことである。天正六年以降は、盗人の世となり、道を通ることもならぬほどであった。
一、天正五年の秋から同七年の十二月まで、一宮殿は大栗山に浪人としてお隠れになっていた。海部山・勝浦山・上郡山の一帯は一宮殿の味方であった。里方は三好政安殿の領国であった。里方から大栗山の麓までは、度々小競り合いがあった。佐野河内に「おさかひ(境界)」と呼ばれる場所があった。山の尾根の先端に大きな岩がそびえ立ち、登る道はなく、西側に少し這い上がる道があるのみであった。南には川が流れていた。ここに左衛門丞という者がいた。この者は一宮殿に従わず、逆茂木(防禦柵)を堅く結わえて立て籠もっていた。山の入り口であるため、一宮殿は山方の兵二千人を集めてここを取り囲んだ。左衛門丞と甥の二人、合わせて三人で弓を三張構えていたが、大軍とはいえ険しい要害であるため、一気に攻め込むこともできず、この三人が次々と矢をつがえて射掛けてきた。この者たちは走る鹿でさえ射貫くほどの腕前であったため、人など外すはずもなく、先へ進もうとする歴々たる武者たちに次々と矢を命中させた。さらに逆茂木を堅く結い、その隙間から矢を放ってくるため、どうすることもできない状況であった。 その時、北方の高山へ、樋口の九郎右衛門、はなはさ(地名か)の伊賀井久兵衛・三郎兵衛、西谷の市兵衛らが下人を引き連れて五十人ばかりで登っていくのを、一宮衆が見つけた。「いかにも里方から援軍が集まってきたか」と思い、一時軍を引いたところ、「後から追いすがり、数多の矢を射掛けてきた」という。これも険しい要害ゆえのことであった。
一、天正六年には国が静まり、政安公(十河存保)は細やかに政務を執り行われた。篠原右京進なども心を鎮められた。
一、天正七年十二月二十七日、上郡の岩倉衆が森飛騨守殿に頼み込んできた。「岩倉は本来三好家の領分であるのに、土佐へ降参するのはいかがなものかと思う。ついては、今すぐ軍勢を遣わしてくだされ。味方いたす」とのことであった。そこで急遽思い立ち、日帰りの用意と兵糧だけを持って出陣したところ、これは罠であり、大西の城から鉄砲を撃ちかけられた。引き返そうにも、その頃の脇(地名)の下道は細く、両脇には茨が群生して茂っており、細い道で陣形を立て直すこともできず、持ちこたえられずに軍勢は急ぎ崩れ立ち、大将を置き去りにしてしまった。そのため、森飛騨守殿・三好越後殿・矢野駿河殿・森孫太郎の四名が討ち死にを遂げた。 岩倉が堅固であったうちは一宮殿も大西に留まっておられたが、七年十二月二十七日に右の者たちが討ち死にしたため、その日のうちに一宮殿は一宮城へお入りになった。
一、天正八年の元日、庄野和泉が勝瑞へ参り、庄野右近に会ってこう申した。「篠原駟雲殿は自遁の仕業で非業の死を遂げられたのに、朝夕親の仇(自遁)と顔を合わせているのは沙汰の限りである。この度、一宮成助殿と味方になられたことはもっともなことである。そのようにされれば、阿波一国は一宮殿と右京進殿の采配となりましょう」と説き伏せ、その旨を相談しているのを、三好政安公(存保)が聞きつけられ、正月三日に讃岐へ退かれた。 その時、勝瑞へは一宮殿の軍勢が進駐した。篠原殿も一宮殿へ合流し、その後、篠原自遁は木津の山へ逃げ込んだが、これも一宮殿の仲介で密かに和議を結んだ。 庄野和泉が調略に動いていた時、篠原久兵衛は病に伏せっており、この事態をご存知なかった。平癒された後、これを聞きつけて「三好政安公は主君であるのに、弓を引くとは天道に背く行いである」と仰せられ、篠原右京進を讃岐へ連れて行き、政安公へ詫び言を入れ、讃岐に詰めて御奉公なされた。
天正九年、早くも政安公は阿波へお戻りになり、また紀州から鉄砲三千丁を雇い入れて一宮城を取り囲んだ。九月八日に、土佐から長宗我部元親の名代として久竹彦七が、上郡の口から三万ばかりの軍勢を引き連れてやって来ると聞いた紀州勢は、九月九日の夜に敗走した。明けて九月十日、一宮殿は久竹彦七を出迎えるため、中島までお出迎えに出られた。 一宮殿の軍勢は中富の尾まで出陣したが、兵数は七百であった。一方、政安公の兵数は鉄砲三千丁、淡路の田村殿の兵数はおよそ百ばかりで、奥野の地を固めていた。篠原自遁は勝興寺(せうごうし)から二千ばかりの兵で駆けつけた。一宮の籠城衆は七百ばかりであったため叶わず、五十の首を取られて黒田原へ逃げ上った。 一宮殿の家臣に和田六大夫と申す者がいた。三人力の大力を持つ剛の者であった。母衣武者であり、兜の前立ては手先ほどの長さの半月であった。黒田原で待ち構えていた時、紀州の鉄砲衆が引き返してきたところへ駆けつけ、十五の首を打ち取った。 そのうちに一宮殿は土佐の二万の軍勢を引き連れて黒田原へ到着されたが、合戦には至らず、互いに兵を引き、土佐の軍勢は付け城(敵を包囲するための城)を築き、番手を置いて土佐へ引き揚げた。
一、鳥井(といろ)と申す在所がある。北は川、南は山である。山腹を切り開いて城を構え、近藤勘右衛門と申す者、同名孫二郎、その他の一族二十人ばかりが立て籠もっていた。一宮方からは、土佐の西寺の堅斎・池内肥前・野中三郎左衛門ら七千人の軍勢で城を取り囲んだ。これに対し勝瑞から政安公が後詰(援軍)に赴こうとされたが、兵数がわずか千人しか集まらず、為す術もなかった。しかし、籠城している者たちが見殺しにされるのを黙って見ているわけにはいかぬと思し召し、町人や百姓を狩り集めて二千人ばかりの軍勢となった。 里を見回すと、味方の少なさが明らかであった。後詰が来たと知った一宮勢は山へ登り、後詰の軍勢の様子を伺っていた。政安公は一宮の城を目指して進軍し、矢野・延命の山へ登り、峰伝いに鳥井の原へ差し掛かった時、一宮方は鳥井の上の山に陣取っていた。政安公が東から接近する内に、谷間を隔てて鉄砲での撃ち合いとなり、やがて日が暮れた。 その日は闇夜であり、ひどく暗い夜であった。互いに睨み合っている内に、鳥井の城に立て籠もっていた二十人ばかりの者が、一宮殿が陣取る山へ攻め上った。暗闇のため敵の数が分からず、七千人の土佐勢は崩れ去った。とにかく、戦は計略が第一であると言い伝えられている。一丸となって強く決意すれば、兵数が少なくても勝利を得ることが多いと見受けられる。
一、天正八年から天正十年までは、阿波国は盗賊の世の中となった。貞方と申す在所に、日下又之進と申す者がいた。忍び込んで人の財物を盗み取っていた。のちに同類が多数になり、昼間は道行く者の身ぐるみを剥ぎ、夜は牛馬を盗み取った。又之進に頼めば、盗品の半分の代金で請け負い、次々と盗人稼業が繁盛していった。日が暮れれば二百人が揃って門を打ち破り、裏から逃げる者を捕まえ、ほしいままに財物を奪い取った。在郷はすっかり盗人が我が物顔で歩き回るようになり、まともな商売は少なくなった。
一、勝瑞の町に市が立った。盗人も市を立てた。在郷の者の売り物は、筵(むしろ)を敷き並べて、綿や紅葉(染物か)などを置いているだけであったが、盗人共は二十人ばかりで、仲間同士で喧嘩をしているように装って刀を抜いて振り回した。商人たちは「斬られてはたまらぬ」と売り物を捨てて逃げ出し、盗人共はそれを根こそぎ奪い取った。 これは彼らの手口であったため、町人共が「忌々しいことだ」と憤り、堅い棒を用意して百五十人の若者が家へ隠れて待ち伏せした。いつものように盗人共が刀を抜いて振り回した時、町人が飛び出して棒で打ちのめしたため、人の家へ逃げ込む者や、在郷へ逃げ去る者もいた。その内、大将の日下又之進を町屋に追い詰めたところ、盗人の仲間が二千人ばかり勝瑞へ押し寄せてきた。勝瑞の町衆も出撃して合戦となり、互いに手負いが出た。 その時、政安公は勝瑞におられたが、一言も仰せにならなかった。結局、御側近の中にも盗人の仲間が多くいたため、次第に盗人の力が強くなれば、人の物を奪っても平気で進上するようになったからである。町人は一夜も眠れず、早鐘を突かない時もなく、まともな世になることを乞い願っていた。このような盗人に苦しめられ、辛い思いをしたことは、年寄り以外は知らぬことである。 天正十年に三好山城殿が下向された時、日下又之進は成敗され、盗人の騒ぎは治まった。
一、天正十年に三好山城殿が下向された時、阿波の侍衆も大半が山城殿へ降参した。八多の麻植殿、八万の新蔵、一宮殿の内衆など、大半が降参したのである。その様子を聞き、一宮殿は人質を取り、土佐の西寺の堅斎・池内肥前・野中三郎左衛門ら一両具足(農民的武士)の衆二百ばかりで、一宮殿にも知らせず一人で坂を回って牟岐まで逃れた。また八万の庄野和泉は、池田甚兵衛・くれた五郎左衛門ら一両具足百人を率い、和泉を人質として牟岐へ逃れた。すぐさま一宮殿の城へも勝瑞から番衆が入り、八万の夷山へも勝瑞から番衆が入った。 この事について、土佐では普段の物語の中で「合戦をするほど本気で取り組むことはない。ただ和議と称して騙し討ちにするほどのことでもない」と雑談しており、その言葉通り、牟岐の新開道喜と申す侍も味方にしておきながら討ち果たした。川村殿なども味方にして殺した。その他、どれほどのことをするつもりもなかった。 このような話を聞いて、一宮殿の内衆も「出迎えれば殺される」と思い、山城殿へ降参したと聞こえている。 そうした折に、京にて明智が織田信長公を討ち果たし、山城殿は急ぎ上洛なされた。そのため土佐の長宗我部元親は、八月二十七日に上郡の口と南方への二手に分かれ、二万の軍勢を中島まで差し向けた。その時、一宮の城は勝瑞からの番衆が守っていたが、二十七日の夜明けに城を空けて退却した。八万の夷山もその夜に城を空けて退却した。 明けて二十八日には、土佐の二万人の先鋒として、一宮殿と桑野殿が黒田原まで出陣なされた。政安公は勝瑞におられたが、兵数は千に満たず、中富と勝興寺との間に陣を敷かれた。先鋒の百ばかりの兵は中富川端まで押し寄せたが、土佐の二万人は川の深い所も浅い所も構わず、中富の地へ押し渡ってきた。これを見て三好政安公は中富の尾まで馬を進められた。 先鋒の百の衆は「もはや退く場所もない。討ち死にしよう」と刀を抜き、鐘を打ち鳴らして川の中へ進み入った。政安公も先鋒の衆より一町ばかり東へ馬を進め、「共に討ち死にしよう」と仰せられたが、家臣の東村備後と申す五十余りの者が一人お諫めし、お退きになられた。残る衆は二十四、五歳以上の小姓衆はおらず、勝瑞の町人二十人が集まり、御供は八十人に過ぎなかったが、元親はあくまで静かに後を追ってきた。 中富から勝瑞へは一里に満たない。早朝の合戦から昼過ぎに勝瑞へ退却なされた。政安公は討ち死にの覚悟であられたが、度々馬を引き返しなされたため、二万人の敵兵も足を止め、手間取ったのである。この戦のことは、道知が十八歳で御供仕ったゆえによく存じておる。 元親がそのまま勝瑞へ攻め入っていれば、一人残らず討ち果たされていたであろうが、池ぶちと申す所に陣を据え、二万人の兵に昼飯を食わせ、二時(ふたとき)ほど手間取ったため、夕景になってから勝瑞へ押し寄せてきた。 政安公の御城は、築地塀の中が十間四方であった。籠城の覚悟を決める者もいれば、北方へ落ち延びる者もいた。正体もなく騒ぎ立て、持ちこたえることは難しいと見えた時、木村新丞と申す者が城を出て、勝瑞の町を一軒も残らず焼き払った。慌てふためいていた籠城衆も、町中が煙に包まれて人の顔も見えなくなったため、「もはや元親が城を取り囲んだのだ」と覚悟を決め、静まり返った。 五日が過ぎた。勝瑞は木や竹が豊富にある場所であったため、元親は木や竹をことごとく切り集め、粗末な城ゆえに焼き殺す計略を立てた。その時、政安公は「木村新丞が町を焼かなければ、町屋を取り壊して寄せ集め、火を放てば一日で城を焼き落とせただろうに。それにしても新丞の手柄で、今日まで持ちこたえた」と仰せになった。 ところが九月五日に大雨が降り、大水が出た。元親は勝瑞の町の北の川端にある竜音寺という瓦葺きの大きな寺を本陣とし、全軍は勝瑞の町の焼け跡に陣取っていたが、水窪(低地)であったため元親の陣所へ身を寄せる場所もなくなった。そこへ森志摩守が船五艘で兵糧を運び込んだため、二万の土佐勢は船もなく、陸地は水深が深く、大変気遣いをした。水が引くとすぐに和議を申し入れ、政安公は城を退去なされた。 木津の山は篠原自遁の居城であったが、持ちこたえられず淡路へ退却なされた。木津の山は土佐方が改修し、東条関之兵衛殿を城番として置いた。讃岐国も皆元親の領国となり、四国はことごとく手に入ったが、森志摩守だけは撫養の脇にある土佐泊と申す山に立て籠もり、阿波の浪人衆を抱え置いた。志和岐、小豆島、播磨灘、和泉灘へ出兵して海路を封鎖し、兵糧を奪って浪人衆を散らすことなく養った。唐国(中国)のことは知らぬが、志摩守のような軍略家は日本には他にいないと聞いている。
一、立江・羽ノ浦へ志摩守が出兵した時、櫛淵(次郎五郎)は十四歳であった。裸馬に乗り駆けてきたため、志摩守の衆が首を取った。この時、櫛淵次郎五郎はまだ年端もいかぬ者であった。ことに裸馬で駆けつけたその勇気を、国中の人が褒め称えた。
一、木津の上流へ船十艘ばかりが進み、三軒屋まで乱暴を働いた時、一宮殿の家臣・三寺の弥三大夫と申す者が、方ノ上の在所を抜け出し、大通りで一人待ち伏せをして、出兵してきた衆を三人斬り倒した。残る二百人ばかりは本道を通らず、深い田んぼを漕ぐようにして逃げ去った。これも皆、弥三大夫は手柄の者だと語り伝えている。
一、天正十年、元親は四ヶ国の主護となり、霜月(十一月)に一宮成助殿を「調停の事がある」と偽って八万の夷山へ呼び出した。御供は星合六進・一宮主水ら三人だけであったが、城へ呼び上げて討ち果たした。庄野和泉は少しも裏表のない人物であったため、本知行二十二町を夷山の辺りで下賜された。天正十三年、殿様(蜂須賀家政公)が御入国された時、土佐へ落ち延びたが、土佐一国だけでは阿波・讃岐・伊予の国を召し上げられたため、和泉に別に与える知行もなく、隠居の身となった。 東条関野兵衛殿は木津の山に籠城していた。天正十三年に当殿様(蜂須賀公)が二十万石で阿波へ入国された時、まず木津の山を包囲なされた。大軍であったため、隙間もなく城も持ちこたえられず、窮地に陥った。そこへ、関白様(秀吉、あるいは秀次か)の配下に東条紀伊守という者がおり、彼は東条関野兵衛の伯父にあたるため、お取り成しを申し上げた。関野兵衛と家老衆の子ら五人を人質として差し出して降参し、木津の城を明け渡して桑野へ戻った。 しかし、土佐へは東条唯右衛門という関野兵衛の弟を人質として差し出していたため、家老共の人質を見捨てて土佐へ逃亡した。そのため、土佐にて関野兵衛は討ち果たされた。人質となっていた唯右衛門も土佐で処刑された。
一、野根・甲浦は、天正二年までは阿波の領分であり、野根山が国境であった。国境であるため、野根殿の城があった。そこへ元親の意に沿わず浪人となった者が、野根を頼って身を寄せていたが、元親へ「お許しいただき、お召し抱え下さるなら、野根の城を奪って進上いたします」と訴え出た。元親は天正二年に伊予国の端を少し切り取ったばかりであったため、これを喜び、「野根の城さえ奪う手立てをしてくれるなら、召し抱えよう」と約束した。 土佐から腕に覚えのある兵士を十六人、密かに野根山へ隠しておき、かの浪人は合図をして夜間に彼らを城へ引き入れ、野根の城を奪い取った。土佐からは次々と軍勢が送り込まれ、野根・甲浦は土佐の領国となった。 その後、かつての阿波国御屋形様(細川真之)と三好長春様の仲が悪くなり、内乱が起きたため、土佐から野根を足がかりにして海部を奪い取り、海部までを天正四年までは領有していた。これより先は右の通りである。
一、近藤孫太郎と申す者は、十三歳にして親の仇を二尺三寸の刀で斬り殺した。敵は宮当と申す者で、年は四十ばかりの大男であった。
一、井ノ内越前と申す者は十六歳であった。同名の孫六という者が三好実休様へ直訴に参り、広間の縁側へ上がったところを、好機を逃さず中島から駆けつけ、十六太刀斬り下ろし、四宮殿を人質に取って無事に逃げおおせた。孫六は働き盛りの剛の者であり、大刀を差していた。
一、天文の初め頃、七条堅通と申す者がいた。大山観音に怪力を祈願し、七十人力を得たという。備中国は昔、阿波の屋形様の本領であった。百姓が謀反を起こして年貢を納めないため、二千ばかりの兵で討伐に赴いた。しかし滞在中に兵が阿波へ戻ってしまい、手勢が少なくなったところへ、また百姓が攻めかかってきた。 清雲院様(細川持隆か)の太刀は長さ三間(約5.4メートル)もあった。七条の太刀も長さ三間あった。いずれも三人力の男でなければ担ぐことすらできなかったと言い伝えられている。清雲院様の怪力も七十人力であり、背丈は六尺五寸(約197センチ)あった。主君と七条堅通の二人が太刀を振るって敵を払い除け、無事に阿波へお戻りになった。 その後、代官を遣わして少しずつ年貢を取り立てるようにした。その後、三好実休様が備中国の鎮圧に赴かれたが、百姓の抵抗が強く敗軍となり、兵はちりぢりに退却した。実休様が置き去りにされた時、吉助と申す者が実休様を草履取りの姿に変装させ、古い着物を着せて「松永」と名乗らせ、上方へお供して無事に阿波へ帰り着いた。すぐさま吉助には一かどの知行が与えられ、大名になったという。実休様が十六歳の時のことである。七条堅通は日光山にて名声を得て、日本に隠れなき人物となった。
一、大内介殿のことは、中国・西国十六ヶ国を十六代まで領した大名である。徳雲院様(細川持隆)の舅にあたる。この方は茶の湯によってお家が滅んだのである。 その理由は、堺に紹鷗(武野紹鷗)という茶の湯の名人がいた。大内介殿は紹鷗を呼び下したが、その時まで茶室は四畳半であった。大内介殿の家老に陶殿(陶隆房)という者がいた。大内介殿が茶の湯に傾倒しすぎるのを憂い、陶殿は広間に薄茶の茶碗を数多並べ、大勢に茶を挽かせ、大勢に茶を点てさせ、大勢の大名衆を並んで座らせ、堺の紹鷗をも呼び入れ、「陶の茶の湯はこの通りである」と申した。すると堺の紹鷗は面目を失い、挨拶もせずに堺へ帰ってしまった。 「十六ヶ国の主君に四畳半は似合わない」と申して、大内介殿(大内義隆)に腹を召させ、十六ヶ国は陶殿に従った。その時、毛利輝元(毛利元就)だけが陶殿に従わず、城を構えて立て籠もった。陶殿が毛利殿の城を攻めた時、伊予国の野島・来島と申す海賊衆が毛利殿に加勢し、陶殿の兵糧を海上で封鎖したため、兵糧攻めに遭って敗軍となった。毛利殿は追撃して陶殿を討ち果たした。その後、十三ヶ国は毛利殿に従い、太閤様(豊臣秀吉)の御代まで相違なく治められた。主君の仇を討ち果たしたゆえ、天道に叶ったのだと昔の人は噂したものである。
一、備前の直家(宇喜多直家)は一門が多く、皆心を一つにして主君の浦上宗景を追い出し、備前・備中二ヶ国を我が物とした。直家は間もなく果て、子息の中納言殿(宇喜多秀家)は八丈島へ流され給うたが、これは天罰と見受けられる。主君への背信の罰である。
一、土佐国は一条殿の領国であった。長宗我部元親はよく奉公し、扶持も手放して忠勤を励んだため、万事元親に任せられるようになった。土佐一国は元親の配下となり、下知に背く者はいなくなった。天正元年に伊予国の端を少し切り取り、かつては同格であった豪族たちに知行の加増を行ったため、誰一人として元親の命令に従わない者はいなくなった。 天正四年に阿波国内が内輪揉めで乱れると、土佐を頼って引き入れられ、五年、六年の内に阿波・讃岐・伊予・土佐四ヶ国の主君となった。そしてついに一条殿(兼定)を討ち果たし、主君を持たぬ身となったが、元親も間もなく果てた。子孫も滅びたことは、一条殿を討ち果たした天罰と見受けられる。親と主君とは天道と同じである。
一、三好刑部右衛門と申す者は、三人力の大力であった。背丈は六尺(約180センチ)あり、見事な髭を蓄えていた。しかし、罪人の首を斬れと命じられた際、ガタガタと震えて後退りし、首を落とすことができなかった。そのため「臆病者」と罵られ、皆の笑い者となった。 いたたまれず、和泉の岸和田に十河殿がおられたため、奉公に赴いた。十河殿の家臣たちは阿波での一件を知っていたため「おやめなされ」と諫めたが、とりあえず召し抱えられることとなった。 根来の法師が三千ばかりで岸和田へ攻め寄せてきた時、三好刑部右衛門は敵を見るや否や城の中へ逃げ込んだ。十河殿は盃を飲ませてやり、「武者震いということもある。苦しからず」と仰せになった。その後、度々の手柄を立てて名声を得た。「臆病者の立ち直り」というのはこの事であると沙汰された。
一、公方様(足利義冬)が阿波へ下向されたのは、昔の阿波の御屋形様が御一門であったからである。そこで平島の五百石の領地を進上された。天正七年に南方一帯が土佐に切り取られ、公方様の知行は失われてしまった。
一、伊勢国の仁木左京大夫は、天下の政治を補佐する身分であったが、戦に敗れて阿波へ下向された時、下八万と渋野、立江の汗田を与えられた。これも御屋形様の御一門であったゆえ、阿波へ下向されたのである。御子息を仁木日向殿と申す。天正十三年まではご存命であった。天文二十二年、徳雲院様(細川持隆)を三好実休が腹を切らせた時、久米殿と一味して実休を討ち果たそうと企てたが、叶わずに浪人となられた。 東条関野兵衛殿の父親である三郎兵衛と申す者は、関白様の内臣・東条信濃守の兄である。三郎兵衛も久米殿の味方であったが、中富の戦場へは出向かなかったため、十年ばかりの浪人を経て本知行を与えられた。
一、仁木日向殿の知行三ヶ所は、篠原大和殿へ与えられた。仁木殿の一族の者は、老人も浪人することなく在郷に留まり、篠原殿に奉公した。大和殿にはご配慮があり、子息を左橘殿と名乗らせた。実休様が久米田で討ち死になされた時に彼も果てた。知行は林石見と申す者が預かっていたため、仁木日向殿の一族も仁木と名乗り、やがて林と名乗るようになった。
一、仁木殿の家老に庄野伊賀と申す者がいた。仁木殿のお家を取り仕切っていた者であったが、八万に留まり、主君と同じ名乗りとなったため、和泉を養子として庄野和泉と名乗らせた。昔は縁を結んだが、姓を調べて家系を組み立てた。 上浦の有持道慶と申す者は、三好実休の妹婿である。下浦に田村道安と申す侍がいた。道安の子息は田村彦左衛門と申す。有持道慶の孫にあたる。三好長春様とは従兄弟である。
一、昔、阿波国から天下を治めたこともあり、武辺を重んじる気風であったため、皆禅宗を信仰していた。他宗を信仰する者は一人もいなかった。合戦の時も「禅宗の心得を見る」と言われたものである。仏の加護を望むと悪しき死に方をして末代までの恥になる、という教えである。禅宗は「死後に何ものも残らない」という教えを示すため、遺骸を焼き捨てるのである。 「焼けば灰、埋めれば土となるものを、何が残って仏になるというのか。罪となるであろうに」
一、侍の寺について。海部殿は東光寺、桑野殿は高堅寺、櫛淵殿は福常寺、新開殿は桂国寺である。丈六寺は仏像の高さが一丈六尺あるため、丈六と申すのである。本来は比丘尼寺(尼寺)であった。慈雲院殿がこれを寺となされた。中田の豊林寺の住職が智者であったため丈六寺に入り、それから禅宗となった。中田の侍が絶えて禅宗の寺が育たなくなったため、真言宗の寺となったのである。
一、八万の川南は丈六寺の檀家である。この人は三学(戒・定・慧)を修め、柴山と津田との間の川に「籠の口」と名付けた。臨終の時、「この川の魚を常に捕って食い、罪障を逃れることはできない。遺骸を籠の中に入れて魚の餌にせよ」と遺言した。遺言の通りに籠に入れて川へ沈めたため、「籠の口」と呼ぶようになった。 百五十年も前のことであるが、この由来を知らずに、今は「内籠」「外籠」「籠の口」と三ヶ所あるように言われている。船を繋ぐ時、籠の口より内側に繋ぐことがある。今は言葉として残っているため、三ヶ所あるように聞こえるのである。過去・現在・未来と言うのに似ている。「三世の跡」と言う時は、現世の一つに聞こえるものだ。
一、一宮殿の寺は長楽寺と申す。小倉殿の寺は見谷(宮谷)と申す所にある。
一、秋月の光勝院は萩原へ移されたが、御入国以後に火事で破滅した。勝瑞には新乗院・最勝院・竜音寺・堅昌寺・正貴寺・宗知寺・永昌院があるが、これらは皆禅宗である。昔は国中の侍は禅宗以外はいなかった。日蓮宗は仁木法善と石瀬帯刀の二人が取り立てたものである。百五十年以前のことである。
一、浄土宗は百年以前に出来た。勝瑞に鎮西宗と申して、門で鐘を叩き、歌念仏などを唱える寺を常知寺と申す。京の百万遍(知恩寺)から僧が下向して説法をなされた。その説法の様子は、「浄土宗は『南無阿弥陀仏』と唱えれば極楽へ迎え取られるが、禅宗や真言宗は何と唱えて仏になるのか」と説き、地獄の絵を掛けて見せた。 火の燃える所へ人を裸にして入れ、周りには鬼を描き、顔は赤く頭に角を生やし、目を大きく黄色にして、口は広く、手足を太く描き、いかにも恐ろしげにして人を引き裂く場面もある。人を鋸(のこぎり)で挽く場面もある。どれも目も当てられない恐ろしい有様である。 また極楽の様子は、いかにも立派な堂の中に金仏が見事に安置されている。「念仏を申す者はこの仏のようになり、寒いことも暑いこともない」と説かれたため、勝瑞の町人は皆浄土宗に改宗してしまった。 この時、禅宗と真言宗は檀家を奪われ迷惑した。その時、学問を修めていた者として、一宮殿の家臣・坂東一無と申す者が丈六寺で学問をしており、また勝瑞では竹之内道二・竹内甚太夫・二鬼島与助の三人がいた。この三人の念仏は「南無どんぐりく」と唱えるものであった。少し心ある町人が不審に思い、「どうして『南無どんぐり』などと唱えるのか」と尋ねた。三人が答えて言うには、「どんぐりというものは栗に似ているが、食うこともできず何の役にも立たないものだ。これと同じような念仏である」と申したため、皆以前のように禅宗や真言宗に戻ってしまった。そのため浄地寺と申す寺が一ヶ寺ばかり残るのみとなった。
一、まことに唱え事によって仏になれるのであれば、天台宗・真言宗・禅宗にも唱え事があるはずである。真言とは「真実の言葉」と読む。禅宗は無い事を言うのを殊の外嫌い、「松は直く荊は曲がり、烏は黒く鷺は白し、柳は緑で花は紅、ああ面白い春の景色や、目がない者同士声に付いて参りませ」などと言う。皆が悟りというものを言いたがるが、そもそも「父母もいなかった遥か以前の我が身は何者か」と問う。本来の面目は本分の田地一女、大光明蔵三昧であり、万事が定まることには「女」という字を証拠とする。「如此(かくのごとく)」とは「この女」と読む。天地開闢と言うのも女の道具である。暦の中段に「ひらく」とある。万吉日と言うのも、男女の交合によって生まれるのである。
一、詩には「濁水湖沼の中より法の蓮を開き出す。蓮は仏のことなり。濁った泥水の中から生えても、濁りに染まらぬということなり」とある。妙法蓮華経もこれと同じ意味である。
一、開詩。「元来口ありて物言わず、三世の仏出世の門なり」。太閤様(豊臣秀吉)の狂歌に、 「上人は霞の衣霧の繻子(しゅす) 雨が降らねど穴むしり哉」 「水鳥の水に棲むとて身も濡れず 海の魚とて塩も染まばや」 これも蓮の花のように濁りに染まらぬという意味である。
一、赤松政則様と申された方は、背丈が三尺五寸(約106センチ)であった。備前・播磨・美作三ヶ国の主である。御子息(義村)が幼少の時に政則様が身罷られたため、備前の浦上方(浦上村宗)が後見役となったが、他の家臣たちが敬わず、浦上殿は腹を立てた。阿波の御屋形様は舅殿であったため相談なされ、阿波と播磨とで合戦の約束を結んだ。 阿波の軍勢は堺へ揃い、播磨の軍勢は天王寺へ揃った時、浦上殿は兵庫の高山に狼煙(のろし)を上げられたため、天王寺に陣取っていた播磨衆は崩れ立ち、大物浦・西宮の横川で皆討ち死にしてしまった。その数は一万人と言い伝えられている。その時の軍配者を島村と申した。皆「蟹になる」と申して、蟹の甲羅が人の顔のようになっていると言う。今もそのような蟹がいると言う。島村念仏と申して、歌念仏に作られた。
一、赤松殿は三ヶ国の主であったため、奥方に仕える局(女官)となる者は、源氏物語や歌草子など万事に通じていなければ召し抱えられず、国中を探し求めていた。下八万に仁木右京之進と申す者がいた。仁木日向守殿の従弟である。右京之進の妻が局として召し出された。源氏物語や古い和歌など、万能に覚えのある人であった。その子は仁木の姓を捨てて林杢右衛門と名乗り、庄野和泉の養子となった。この国へ一万石の約束で配置された赤松則房様の乳母となった。佐古におられた時は出入りしていた。赤松殿は三ヶ国の主であったが、当国へ一万石で下向されたのは内輪揉めで家が破滅したためである。
一、兵法者は誰もが恐れるものである。元亀元年に伊予国から真辺近江と申す者が奉公を望んで下向してきたのを、篠原駟雲殿が召し抱えられた。機転が利き、分別があった。弓は三人張りを引く剛の者であった。当国で真辺流と申すのは、その人の弟子の流れである。
一、摂津国の池田殿のお家が真っ二つに割れた時、当方へ援軍を乞うてきた。三好家の老中衆が集まって談合なされたが、「どちらへ味方すれば良いか」分別がつかなかった。以前から使者を留め置いていた時、真辺近江に意見を尋ねたところ、手紙を書いて両方へ同じ文面で差し出した。老中衆は皆舌を巻いた。 その後また彼が申すには、「三好長春様を信長様と縁組させ、天下の半分の主君になさるべきだ」と提案した。老中の談合では「とにかく彼を生かしておいては、どんな計略を巡らすか分からぬ。成敗するべきだ」ということになり、大坂へ上らせて茶の湯の振る舞いがある時、潜り戸を通るところを成敗した。三人力の大力で、背丈も高く分別も良く、人が彼を恐れることは限りなかった。
一、昔、阿波の衆を「槍突き」と京や堺の衆が呼んだ理由はこういうことである。越前の光輪(朝倉宗滴か)と申す者が二万人の兵で京へ出兵してきた時、阿波の軍勢は三千人であったが合戦に勝ったのである。 その合戦の様子は、越前衆は槍の柄を樫の木で太く強くし、長さ一間半(約2.7メートル)に拵え、黒く塗った鉄菱を一つずつ持ち、戦場で引き下がるふりをして鉄菱を撒き捨て、敵に踏ませるという計略を立てていた。一方、阿波衆は槍の柄を四方竹でいかにも軽く拵え、長さ三間(約5.4メートル)にして、合戦の時に打ち倒すように工夫していた。 越前の二万人の軍勢は、阿波の兵数が少ないのを見て「鉄菱など撒くまでもない」と侮り、捨て身で攻めかかってきた。阿波衆はわずか三千人であり、到底叶う相手ではなかったため、「逃げてはかえって殺される」と覚悟を決め、死に物狂いで合戦に及んだ。 越前衆の槍は一間半で、樫の木であるため重く、身幅も広く、一度打ち下ろすとなかなか持ち上げられないような代物であった。阿波衆の槍は四方竹で三間もあり、非常に軽かった。手元へ寄せ付けず、遠くから突き倒したため、前に進み出た越前衆を次々と突き倒し、ついに総崩れとなった。三千人で一万人を殺した時、越前衆は自ら捨てた鉄菱に貫かれ、阿波衆は手を下すまでもなく殺すことができ、首も取らずに打ち捨てにしたと言い伝えられている。 昔、阿波衆が戦の時に大半が四方竹の槍を用いたのは、この越前衆との合戦に勝った例に倣ってのことだと言い伝えられている。
一、大和国の筒井喜蔵と申す者が挙兵し、阿波衆は合戦に敗れて喜蔵に切り崩され、五畿内を奪い取られて将軍の地位に就いた。それは永禄の末のことであった。 阿波衆は堺の辺りへ逃げ集まり、度々追い詰められていたが、「喜蔵と決戦しよう」と申す者もいなかった。その時、三好宗三と申す六十余りの老巧な武者が申されるには、「とにかく喜蔵との合戦は、特別な計略を用いなければ勝ち目はあるまい」と仰せられ、幾度も戦場を潜り抜けた精鋭の兵二百人を選りすぐり、物陰に隠しておいた。 その時、喜蔵は大和から出兵し、河内国の木本と申す所に陣取った。阿波衆が堺の辺りから出撃して合戦に及び、負けたふりをして逃げ出した時、喜蔵の軍勢は阿波衆が逃げるのを面白がり、喜蔵の傍には小姓の若衆二十人ばかりと、奈良の禅門衆五十人ばかりを残し、残りの兵は皆堺を目指して追いかけていった。 そこへ三好宗三が隠しておいた二百人が飛び出し、手薄になった喜蔵を討ち果たし、再び阿波から天下を治めることとなった。三好宗三の子息の名を右衛門大夫と申した。武道において度々手柄を立てた者であったが、「右衛門大夫はどうした」と探すと、堺へ逃げ込んで合戦に加わっていなかった。 その時の小唄に、 「宗三は掛け金(鍵)、右衛門大夫は突板(雨戸)、木本の陣をば突いた」 と歌われた。このように臆病な振る舞いをし、そのまま歌にされてしまったため、武辺を第一と心掛けるようになったのである。
一、御入国は天正十三年である。蓬菴様(蜂須賀家政公)の御年は二十八歳であられた。