『阿波名勝案内』 名西郡 石毛賢之助著、明治41年刊
名西郡 概要
東は名東郡と交わり、南は勝浦・那賀の両郡に接し、西北は斜めに麻植郡に連なり、北は板野郡と境界を接している。吉野川は阿波・麻植の両郡の間から流れ来て、郡の北端を経て第十村に至って分岐し、名東・板野の両郡に入る。徳島鉄道および伊予街道は郡の北部を通っており、鮎喰川は郡の中央を流れ、名東郡の一部を過ぎて吉野川に注いでいる。郡内は山岳が多く、北方の一部にわずかに平野を見る。面積は14方里56、人口は4万6200人。12ヶ町村、大字18ヶ町村を有している。
名所・旧跡
◎ 石井町
本郡の東北に位置し、徳島から約2里半(約10キロメートル)離れている。伊予街道が東西に貫通し、中央には高瀬街道があって十字形に市街地(街衢)を形成しており、郡役所、警察署、郵便局、税務署、登記所、町役場などがある。東西交通の要衝に当たっているため、市街地は非常に賑わっている。
◎ 曽我氏神社
石井町大字城ノ内村にあり、彦火火出見尊(ひこほほでみのみこと)、木花咲耶姫命(このはなさくやひめのみこと)を祀っている。元は曽我氏大明神と称していたが、明治元年に改称して曽我氏神社と呼ぶに至った。 言い伝えによれば、城ノ内村に武知姓の者がおり、その祖先は曽我十郎祐成、五郎時致の家臣で武智麿と呼び、同じく家臣である鬼王団三郎とともに諸国を巡って本村に来て、ついに足を留めるに至った。その際に祠を建て、曽我の氏神として曽我家において尊崇している彦火火出見尊(ひこほほでみのみこと)、木花咲耶姫命(このはなさくやひめのみこと)を祀り、これに配祀(合わせて祀る)するに、その主である曽我兄弟の霊をもってしているとのことである。また、この本社は元々駿河国(するがのくに)富士の山麓にあったものを移したものに関わっており、当時、佐夜(さよ)の中山寺の住職がある夜に富士山麓を通りかかったところ、石橋の下に赤ん坊の泣き声を聞き、不思議に思って下人に見に行かせたところ、若い婦人が斬り殺されており、その傷口から男の子を産み落としているのであった。
住職は世にも不憫なことだと思い、抱き帰って養育し、十四歳になった時に初めてその事情を語って聞かせ、僧侶にしようとしたところ、その子(児)はこれを聞いていとま(暇)を乞い、寺を出て箱根の町の研屋(とぎや)に奉公して奴(やっこ)となった。それから毎夜四つ時(午後10時頃)に曽我大明神に祈り、母の仇を討つことを願い求めた。ある日、店頭に客があり、主人がその客の刀を見ると、見事な業物(わざもの)であり、しかも生きている人間の胴体を試し斬りした血の腐った跡があった。これについて尋ねると、「先年、富士の麓で妊婦を斬った時によく切れた」と言う。
奴はこれを聞き、その刀を手に取って一目見て、親の仇であることを語り、名乗りを上げてその客を斬り、こうして長年の本望を遂げた。その後、中山寺に帰って僧侶となり、曽我兄弟の像を荷箱に納めて諸国を巡り、阿波国名西郡城ノ内村に来て、この地に勧請(かんじょう)した。この僧は後にこの地で病死した、などとある。当神社は古くから運の神として人々の信仰(尊信)が厚く、祭日には次々と群集する者が千を数える。その神踊りと飯盛(いいもり)の儀式は非常に珍しいものとすべきで、今なお伝えられて廃れていない。
◎ 童学寺(どうがくじ)
石井町大字城ノ内村にある。石井町から伊予街道を西に進むこと十丁余り、さらに左折して畑の中をたどること五、六丁、白亜の山門が見えてくる。これが童学寺である。門前には紺碧の瑠璃(るり)のような池があり、塔や堂、樹木がすべて逆さまに影を水面に浮かべ、さざ波がこれを刻んでおり、その景色や風情がすでに平凡でないことを感じさせる。 山門を入ると扁額があり、「東明山 童学寺」と題されている。ここから本堂まで一丁余り、境内は幽静で、別の世界(別乾坤)に入る趣がある。石段(石磴)を少し歩いて登ると正面に本堂がある。方丈の庭園は、泉と石の美しさで名高い。 童学寺の名の由来は、弘法大師が幼い時に筆や墨(翰墨)に親しんで学んだ場所であることによる。昔は塔や堂、伽藍が空にそびえ、童学寺の名は遠近に響き渡っていたが、長宗我部(長曾我部)の兵火にかかって、すべてが烏有に帰し(焼失し)てしまい、奥の院である薬師堂のみがわずかに無事を得たものの、刀の痕や斧の傷が今なお柱や木組み(柱機)に残っているのを見ると、当時いかに彼らが暴虐を極めたかを知るのに十分である。庭の前には、安政五年に江戸の昌平学校教官・安積信(あさかまこと)の撰による石碑があり、当寺の由来を記録していることは非常に詳しい。
◎ 釈迦堂(しゃかどう)
浦庄村大字下浦村にある。縁起によれば、この本堂に安置されている大慈大悲の尊像は、聖武天皇の治世、天平十年(戊寅の年)に行基菩薩の作による座像であり、その名が広く世間に聞こえ渡っていたため、源氏が鎌倉に幕府(覇府)を開いた際、二位の尼(北条政子)が七堂伽藍を建立して深くこれに帰依した。 天正七年十一月十五日、長宗我部元親が乱入して尽城(じんじょう / つくしのしろ ※原文「盡城」)を襲い、時に当たり、城主の近藤勘右衛門尉正次(こんどうかんえもんのじょうまさつぐ)はよく戦い、十五日の夜に経の丸山に陣取っていた土佐勢を襲ってこれを打ち破ったが、翌十六日にはついに城が陥落するところとなり、その場所にあった釈迦堂に敵が立て籠もっているとして取り囲んだ土佐勢は、いつものように火を放って焼き払った。しかし不思議なことに尊像だけは二反(約2000平方メートル)ほど離れた池の水際(汀)にあって無事であったため、村民は歓呼してこれを迎え取り、仮堂を営んでこれをお入れ申し上げた。しかし、ついに昔の立派な姿(旧時の面目)に復することには至らず、それ以来いく年もの歳月(星霜)を経て連綿と今日に至っている、云々。 このように古くから有名な釈迦仏であるにも関わらず、現在においては堂宇の見るべきものもなく、かろうじて現在の状態(現態)を維持しているに過ぎない。里の俗人は無能で為すところがないという目で、「下浦のお釈迦様」と呼ぶに至った。その意味は、一人の庵の僧(庵坊)すらも養うことができないということにある。
◎ 多祁御奈刀彌神社(たけみなとみじんじゃ)
浦庄村大字諏訪村にあり、延喜式の小祀である。祀っているのは信濃国諏訪の御奈富神(みなとみのかみ)と全く同じで、昔は名方神(なかたのかみ)と称した。現在の本郡(名西郡)および名東の両郡は、旧名方郡と称し、阿波国の東寄りの中央を占めた大郡であったが、寛平八年に建治山を境にして東西に分割し、名東・名西の名で呼ぶに至った。その名方郡と称したのは、諏訪村の名方神に起因しているとのことである。
◎ 熊野神社
高原村大字中島村にあり、二つの祠がある。一つを本宮と称して伊弉冊尊(いざなみのみこと)を祀り、一つを新宮と称して速玉男命(はやたまのおのみこと)、事解男命(ことさかのおのみこと)を祀っている。言い伝えによれば、文治年中に平宗隆が本郡の諸村を領有し、子孫がやって来て中島に住んだ。そのためこの祠を置いたという。その祭祀に関わる者(氏子)は十六ヶ村の多数にわたり、祭事は盛んである。
◎ 月輪相国藤原兼実墓(つきのわしょうこく ふじわらのかねざね の はか)
高志村大字瀬部村の阿弥陀寺旧跡、字マンガンにあり、判別することはできない。土地の人の言い伝えによると、釈源空(法然)が讃岐国に流された時、兼実は元々これを信仰していたため、付き従って(従遊して)やって来て、ここに住んだと称している。(阿波志)
◎ 天目一神社(あめのまひとつじんじゃ)
高志村大字高瀬村にあり、天目一箇命(あめのまひとつのみこと)を祭り、金属加工(金作物)の祖神である。言い伝え(口碑)によると、大昔に本村の鋳物職人から朝廷へ鋳燈籠(鋳物の燈籠)を献納したことがあった。のちに人皇第七十六代・近衛天皇の治世、仁平三年(癸酉)四月、源三位頼政が紫宸殿で怪獣(鵺)を射た時、御殿の灯火はことごとく消えたが、ただ一つあの燈籠の火だけは消えなかったという。その後、本村の鋳物師である村七右衛門が先例に倣って鋳燈籠を朝廷に献納した。よってこれを褒め称えられ(嘉賞せられ)、知行を賜った。その写しおよび記録は以下の通りである。
いもじ村七右衛門知行地 慶長七年御帳の写し 荒本帳 田畑六反六畝十歩 高三石六斗二升二合 慶長七年三月廿二日
右は御山御帳(おやまみちょう)の写しと誠に合致し、奥書に加え置くものである。 阿部紋右衛門、多田三太夫、田村弥右衛門、東条清左衛門。寛政九年十一月 日。右の御帳の写しは、高瀬村へ御下渡しと相成った。この地所は旧藩士・宇野長治兵衛の給地に相当し、その子孫である村山安兵衛の代に召し上げられて御蔵地(おくらち)と相成った。右の地所の明細は天目一神記録にあり、また中興の御吉例により、享和二(戌)年に以前の形に倣って燈籠を鋳直し奉献上し、その折に鋳造人・六右衛門へ御嘉賞の御墨付きを頂戴し奉った。また、高瀬村の鋳造の始まりは天平年間であるとの申し伝えがあり、大昔から鋳物業者は天目一神社の氏子として本村に絶えず引き続いてこれあり。阿波国一国で最も第一の農耕器である鍬の鋒(さき)の鋳造営業者は、近頃あちこちにあるものの、天保年間までは高瀬村の特産物であった。これすなわち金物造りの祖神・天目一箇命(あめのまひとつのみこと)の御徳である。
◎ 第十堰(だいじゅうぜき)
吉野川の支流である別宮川の河口を遡ること約四里、石井駅から北に一里離れた吉野川にある。堰の南岸は名西郡藍畑村大字第十、北岸はすべて高志村大字第十新田であるため、この名がある。国初(※阿波国入国の当初)に水を導いて南に注がせたところ、北へ流れる川が次第に涸れてしまったため、これ(堰)を設置して水勢を分け、舟運や灌漑に供した。現在の堰は明治初年の工事によるもので、その大きなものが二つあり、一つは幅十数間、長さ十町余り、もう一つは幅十間余り、長さ八十間に達し、里の人は称して「八十八間のはね」と呼んでいる。この他に二、三の小堰があり、水は概ね堰の上を流れ越し、堰が水面に現れているのは稀であり、その様子はあたかも大瀑布(大滝)のようで、その音響は数十町の遠くまで達する。
◎ 桜間池(さくらまいけ)
高川原村大字桜間村にある。府中駅(こうえき)から見れば西北に約二十丁、八幡街道に沿った桜間村からは東南へ二、三丁、静かでひっそりとした野菜畑(寥闃菜圃)の間にある。夫木集(ふぼくしゅう)に詠み人知らずとして、
の一首を伝え、古来名勝の地区として人々に広く知られていた(人口に膾炙した)が、歳月が流れ様変わりして、ついに荒廃に帰するに至った。これを文政年間に蜂須賀家において、その跡地が長く廃絶に帰してしまうことを憂い、海部郡由岐浦から巨石(高さ三間余り、幅二間半)を運搬してきて、池のほとりに土山を築き、その上に建て、桜や松を並べて植え、汚泥を取り除き(決疏し)、古池の美しさに復した。石の形がややヒキガエル(蟾蜍)がうずくまっている姿に似ているため、里の俗人はこれを蛙石(かえるいし)と呼び、石質は滑らかで光沢があり、朝の太陽(朝暾)がこれに映るとあたかも鏡のようである。昔は四方十余町の大池であったが、今はわずかに四方五、六間の小池となり、緑の松(翠松)が何株か桜の木々の間に点在して石碑を巡る小丘の麓に桜間神社があり、佐久真媛(さくまひめ)を祀っているとのことである。
桜間池石文(さくらまいけのいしぶみ)
夫木和歌集に懐中抄(かいちゅうしょう)を引く。「鏡ともみるべきものをはるくればちりのみかゝる桜間の池 阿波国」と注記されているのは、すなわち名西郡にあるこの池のことである。そもそも今の太守(藩主)は物事に対して非常に深く通じておられ、国政の合間に皇国の古事や儀式(故実)を好まれるあまり、千年万年(千代万世)の後までもこの池が干からびないようにと、今年、文政十一年の九月に石碑(石文)を建てさせなさるということで、私におあつらえになったがままに、この由緒を書きつけるのは、幕府の内史局直事(ないしきょくじきじ)である源弘賢(みなもとのひろかた)、時に年齢七十一歳である。
桜間池碑陰文(桜間池の石碑の裏面の碑文)
文政十一年八月二十八日、臣・武市信圭(たけちのぶかた)と臣・長浜長致(ながはまながむね)は命を奉じて、海部郡東由岐浦に石を探し、十一月二日に出発(起程)して海路を十五里ばかり運び(海運)、翌十二年十一月十四日に別宮口に到着した。口(別宮口)にあること二年、臣・斎藤惟裕(さいとうこれひろ)が調査(摸勘)の任務に当たり、その功績を告げ終わった。天保二年十月三日に再び出発し、陸路を四里ばかり運んで(陸運)桜間村(邑)に到着し、三年九月に建設の功績を告げ終わった。 最初に二人の臣(武市と長浜)がこの石を選んだ時、人々はその巨大で重いことから運搬は不可能だと疑ったが、二人の臣はこれに任じて非常に意気込み、その運搬には技術があった。載せるためには筏があり、車があり、浮かせるためには桶があり、引く(挽く)ためには舟があった。帆風(颿風)のために漂流し沈没しそうになったことが二度あり、一度は中島口で、もう一度は和山洋(和歌山沖)であった。それを引き上げるのにもまた技術があり、束ねるためには帯があり、起こすためには鈎(かぎ)があり、鉗(かなばさみ)があった。その他あらゆる応用器具はすべて臣・長致が創意工夫して製作し、臣・信圭がそれを助け(賛襄)処置したのである。長致は長く作事部(作部)にいてその巧妙な考え(巧思)で称賛され、信圭は国内外を経験して老練であり、今は民曹(民政担当)の官にある。ゆえに選ばれて任務に就き、みなその命令を辱めないためであった。 およそ必要としたのは、巨大な筏が三つ、巨大な車が一両、浮き桶が一千余り、鉄の帯が一つで長さは五丈あり、結び目(紐釦)がこれに伴う。鉄の鉗が二つで長さは三丈、柄の長さは七丈、引く舟(挽舟)は三千余双、引く人夫(挽夫)は六千余名であった。公(藩主)は群臣や諸役人の苦労と、民衆・人夫の尽力が多かったことを、その功績として埋没させたくないとお考えになり、臣・栄升(※筆者名)が不足ながらも筆を執り、ゆえにその一部始終(本末)を記録させ、併せて碑の裏面に彫り刻んで後世に告げるのである。
小倉 真坂(おぐらまさか)
水茎の跡(筆跡)に伝えて、言の葉(言葉)の花は石にも咲くであろう、桜間の池よ。
岩雲 花香(いわくもかこう)
春雨に濡れながら見ることよ、桜間の池の水に棲んでいる(澄んでいる)蛙石をば。
◎ 白鳥神社
石井町大字白鳥村にあり、日本武尊(やまとたけるのみこと)を祭っている。三代実録によれば、貞観三年三月六日(庚辰)に従五位下を授けられ、元慶七年十二月二日(甲午)に従五位上を授けられたとある。三好氏から社地二十貫を献上され、社域は七段余りあり、本殿、中殿、前殿、楼門など壮麗を極めている。現在、鳥坂(とさか)の北に宮田(みやだ)と呼ぶ土地があり、おそらくそこが祭田であると考えられ、古くからそこへの埋葬を禁じている。
◎ 佐々木経高
佐々木経高は相模国の人である。源頼朝が兵を起こして伊豆の目代・平兼隆を撃つに当たり、経高は兄弟とともにこれに従い、兼隆の党羽である堤信遠(つつみのぶとう)を射た。信遠が太刀を振るって出てきて経高と戦い、経高は敵の矢を多く受けたが、兄の定綱、弟の高綱が来てその矢を抜き、ついに信遠を斬り、平氏を討ち滅ぼすに至った。その功績によって、文治二年、阿波、土佐、淡路の三国の守護職となり、現在の石井町大字白鳥村字鳥坂に館を構えてここに居座った。正治二年八月、事情によって職を罷免され、出家して僧となり経蓮(きょうれん)と称した。承久三年、後鳥羽天皇の詔を奉じて兵を起こしてこれに応じたものの敗れ、鷲尾に隠れた。北条泰時が人を遣わして慰めようとしたが聞き入れず、ついに自殺した。彼の廟もまたその場所に存在している。
◎ 尼寺(あまでら)
第四十五代・聖武天皇の治世、国中に命じて国ごとに国分寺および尼寺を建てさせた時、阿波国においては名東郡国府村大字矢野村に国分寺を、石井町大字尼寺村には法華滅罪寺を建立した。藤原純友の乱が起きた時に戦火(兵燹)にかかり、今は廃寺となって小さな庵を一つ残すに過ぎない。
◎ 天石門別八倉比売神社(あまのいわとわけやくらひめじんじゃ)
入田村大字矢野村にあり、里の俗人はこれを矢野の神山と呼び、また杉尾大明神とも称していたが、明治三年に現在の名に改められ、県社に列せられた。観音寺村の伊予街道を南に折れ、田んぼの間を行くこと十余町にして山麓に達すると、まず鳥居(華表)が見える。ここからよじ登り、石段を数百段登って本社に達する。石段の両側は古木が鬱蒼と茂り、風の音(龍吟の声)が妙に響き、社祠はそれほど大きくないものの、森厳な空気がおのずと人に迫る威厳がある。 大昔(上古)においては本社の事歴を伝えるものは少なくないものの、中世以降はこれに反して聞くところが少ない。延喜式には「天石門別八倉比売神社 大 月次 新嘗」、続日本後記の第十巻には「仁明天皇の承和八年八月戊午、阿波国正八位の天石門和氣八倉比売神社に従五位下を授け奉る」、類聚国史には「清和天皇の十三年二月二十六日、阿波国従四位下の天石門和氣八倉比売神社に従四位上を授く、十六年二月十四日癸酉、阿波国従四位上の天石門和氣八倉比売神社に正四位下を授く」、三代実録には「陽成天皇の元慶三年六月二十三日壬午、阿波国正四位下の天石門和氣八倉比売神社に正四位上を授く」、神祇部の源平盛衰記には「崇徳天皇の永治二年二月七日、天石門和氣八倉比売神社に従二位下を授け奉り、元暦二年三月三日、天石門和氣八倉比売神社に正一位を授け奉る」とある。このように県下でも有数の古社であるため、古来から歌人の詩歌(吟味)の題材にのぼる者も少なくない。今、左にこれらを抄録しよう。
つまこもる 矢野の神山 露霜に にほひそめたり 散らまくも惜し
雁鳴きて 寒き朝気の 露霜に 矢野の神山 色づきにけり
梓弓 矢野の神山 春かけて 霞は空に たなびきにけり
梓弓 春立ちけらし 武士(もののふ)の 矢野の神山 霞たなびく
「妻隠す 矢野の神山 立ち迷う 夕べの霧に 鹿ぞ鳴くなる」
その地は、中央山脈がクモの足のように伸びた末端にあり、広大な(万頃の)平野に接しているため、眺望が開けていて広々としている。本社の祭神は、神領村字西上角に鎮座する郷社・上一宮大粟神社の祭神と全く同一であり、両社ともそれぞれ由来や伝説を持っている。『大日本地名辞書』には「矢野の杉尾明神は神山にあり、言い伝えによって天石門別八倉比売の祠としているが疑わしい。紀州石垣庄の中尾氏文書に、承平六年八月十六日、阿波国北方の杉尾から明神の兄(二十三歳)と弟(十九歳)が紀伊国石垣中村へ渡り、その地で中尾大明神として崇められたという由緒が載っている。この矢野の杉尾社はすなわちその明神であるべきだ。一説には、杉尾社を延喜式内の天石門別豊玉比売神社かと言うが、これもまた憶測の域を免れない。大御和神(おおみわのかみ)と申し上げるべきだろうか」とある。
◎ 矢野城址(やのじょうし)
矢野神山にある。西南は諸山に接し、東北は平野を臨み、要害の地と称されている。永禄から天正の間に藤原国方がここに拠った。壕や塁(砦の跡)がなお存続している。また、大泉と小泉があり、その水は清らかで冷たく(清冽)、すくって飲むのに十分である。
◎ 兎谷(うさぎだに)
矢野村の矢野神山の西麓にある。昔、兎を産出したことによってこの名がある。今もなお古色を帯びた古い瓦(敗瓦)を発掘する。
◎ 建治滝(こんじたき)
徳島市から西方に三里離れた入田村の西南の境界に一つの秀でた峰があり、龍王岳という。高さは三千六百余尺。その中腹以下を建治山と呼び、建治滝はその山腹にかかっており、高さは八丈、幅は四尺ばかりである。平時は水が少ないが、雨が降った後の壮観は見ごたえがある。老樹が鬱蒼と茂り、昼でもなお暗い場所で、滝(飛泉)が絶壁から落ちてきて奇石や怪岩に当たって砕け、飛び散る雪のようになり、流れて激しい泉(奔泉)となる。滝より上はやや険しさを増し、長さ十間ばかりの一本の鉄の鎖を設けて登攀(よじ登ること)を助けている。さらに登ること四丁余り、ようやく建治寺の跡に達する。石の祠があり、蔵王権現を安置している。建治寺は天正年間に蜂須賀氏が入国した後にこれを廃止し、安置されていた薬師如来を徳島に移し、お堂を作ってこれを安置したことは、徳島市の部にある薬師堂の項目に記した通りである。 明治十一年に加賀の人である貞阿(ていあ)がこれを再興して建治庵と称し、高野山金剛峯寺に属したが、翌十二年に称号を昇格して(登号して)大滝山来迎院建治寺と称し、もって今日に至ったという。そもそも本山は弘仁年間に弘法大師が四国修行の際に登ってこれを開いたものであり、本尊の金剛蔵王は大師が自ら彫刻して、もって四国第十三番札所・一宮大日寺の奥の院と定められたという縁起を伝えている。 もしその眺め(眺矚)について言えば、鮎喰川が帯のように山麓を巡って吉野川に注ぐあたり、広大な(万頃の)肥沃な田んぼがはるか彼方まで展開し、見渡す限り果てがなく、吉野川の尽きる所からさらに海原(洋海)を望んで、紀伊・淡路の秀でた峰や高い山々をも数えることができるであろう。
◎ 二秀峯(ふたつとんこう)
鬼籠野村(おろのむら)の一坂にある。二つの峰が向かい合って(相対して)おり、端正な岩壁(端巌)は見ごたえがある。その麓に大人石(おとな石)と呼ぶものがあり、石の表面が陥没していて巨人の足跡(蹟)に似ている。
四宮 石田
嶽のひさし(檐)に懸かる滝は玫瑰(まいかい / 美しい石)のように水しぶきをあげて飛び散り、走る路や走る雲は合わさってはまた開く。一時(いっとき)の遊興の意が旺盛であったわけではないが、山に満ちる風雨によくぞ衝き入って来たものだ。
◎ 弓折(ゆみおれ)
阿波・土佐・淡路の守護職として白鳥村の鳥坂に居城していた佐々木経高が、承久の乱で朝廷(王事)のために尽力して敗れ自殺すると、その一族は鳥坂から鬼籠野の弓折に逃げて(走りて)死んだという。
◎ 上瓦崖(うわがわらがけ)
阿野村大字広町村の大きな地名にある。切り立っていること(斗絶)十丈(約30メートル)ばかり、その上に百余歩の広さの石窟(石の洞窟)があり、言い伝えによると昔、佐々木氏の生き残り(遺類)が逃れてこの中にいたという。
◎ 持部鉱山(もちべこうざん)
阿野村大字阿川村にある。西は東山鉱山と隣接し、南は鮎喰川を隔ててはるかに神領鉱山と向かい合っている。徳島鉄道の鴨島駅から一里二十丁(約7.1キロ)で到達することができ、この間、停車場(駅)から三谷駐鉱場に至る二十四丁は車馬を通すことができるが、三谷から鉱山までの間の一里弱は急峻な坂道をよじ登らなければならない。 発見の時代については古い記録(旧記)で証明すべきものがないが、言い伝え(口碑)の伝えるところによれば、今から約二百余年前においては五郎鉱山と称し、東山鉱山、神領鉱山と共に阿波三大鉱山の一つに数えられ、一時は盛んに発掘されたが、中途で廃絶に帰し、人がまた顧みる者が無くなるに至った。明治十六年中に一宮善吉ほか二名がこの再興を計画したが、わずかに一、二年で休止し、同三十五年に至って新井福三郎が新たに採掘の特許を得て坑道を開き、後に阿州鉱山合資会社の名義となったものを、さらに明治三十九年末に至って島徳蔵の所有に帰するに至り、にわかにその規模を拡大して盛んに発掘を行い、今日では全国有数の銅鉱として国の内外にその名を知られるに至った。
◎ 阿川の石風呂(あがわのいしぶろ)
阿野村大字阿川村字代次にある二宮八幡宮の馬場留にある。土地の人(土人)が言うところによれば、昔、弘法大師が人々の病苦を救うために作り、遠近でその功徳を浴した者は数え切れないほどであった(挙げて数うべからず)。時の国主が姫君の病気(病痾)を治そう(医せん)とするため、特にこの石風呂を焚かせて入浴させたところ、風呂の立石がにわかに震動して凄まじい響きを発して破損してしまい、ついに入浴に供することができなくなった。村民は恐れおののいて(畏怖して)そのまま遺棄していたのを、後に二宮八幡の祠官である多田刑部という者がこれを今の八幡宮の森の中に移したまま、修繕を加えることもなく、この奇怪な言い伝え(口碑)と共に依然として存在している。
◎ 平家の滝(へいけのたき)
阿川村にある。石の崖が三十丈(約90メートル)あり、滝(飛泉)があって平家の滝と呼ぶ。その上に石の洞窟(石洞)があり、言い伝えによると昔、平家の一族(平族)がこの中に隠れたという。
◎ 鏡石(かがみいし)
阿川村の長代名(ながしろみょう)にある。青黒く(蒼黒にして)滑らかで、四方六尺ばかりである。また袖石があり、渓流の中に単独で立っている。
上一宮大粟神社(かみいちのみやおおあわじんじゃ)
神領村字西上角にあり、大宜都比売命(おおげつひめのみこと)を祀る。現在、郷社の格にあるが、その由緒は最も正しいので県社に進み、追っては国幣社にも列せられるべきものであるとして、同村から社格昇進の事を願い出た。その理由書によれば、名東郡一宮村の一宮神社とは元々全く一体であり、また矢野村の八倉比売神社(やくらひめじんじゃ)とはその祭神を同じくしている。すなわち一国一宮とすれば、二社のうちその一社はまさに除かれるべきものである。その考証の大要は以下の通りである。
緒言(しょげん)
旧記によれば、阿波国名西郡神領村の大粟山に鎮座する上一宮大粟神社は、あるいは田口神と言い、あるいは大宜都比売命(おおげつひめのみこと)と言い、あるいは上一宮神社と称して神田および林を賜ったとある。また祭神を大宜都比売命と称し、あるいは大粟比売命と唱え、あるいは天石門別八倉比売命(あまのいわとわけやくらひめのみこと)と言うとある。そして元暦二年に位階を正一位に進められ、正一宮大明神と敬称した。そもそも大宜都比売命は実に阿波国唯一無二の祖神であるため阿波国魂と言い、また一宮と称するのは、おそらく偶然ではない。古事記に阿波を大宜都比売と言うと記されていることをもって、前説が確実であることを証明する。請う、左に本社の由来や伝説等を叙列しよう。
一宮の称号
上一宮大粟神社を一宮と号するのは、一国一宮であることから称するものであり、昔はその神領をも一宮領と言った。後に上下に二分して上一宮、下一宮と呼ぶに及んで、上一宮大粟神社を上一宮大明神と称し、下一宮と分別した。おそらく祭神である大宜比売命(おおげつひめのみこと)、またの名を大粟比売命が阿波の祖神であるからというだけでなく、『延喜式神名帳』によれば、阿波国名方郡九座のうち一座は大社であり、八座は小社である。そしてその大社とはすなわち天石門別八倉比売神社であり、月次祭、神嘗祭には奉幣使が参向するしきたりであった。この名方郡は今の名東・名西両郡の古い名であるから、名東・名西両郡中で唯一、八倉比売命のみが大社として正一位の極位までお進みになったのを見れば、上一宮大粟神社が一国一宮であることは論を待たない。これが古来から神禄を有し、国造(くにのみやつこ)が奉仕したゆえんであり、実に阿波国中で並ぶもののない大社であるとする。すなわち一宮と称する理屈も明らかであろう。
大粟山の由来
『阿波志』にいわゆる大粟山は、今の神領村の上一宮大粟神社が所在する山の名である。ゆえに名西の山村の諸山を総称して大粟山と言い、その各村を大粟郷と言った。かつ神領村を中心として、それより西にある現在の下分上山村、上分上山村の二村を大粟上山と言い、その東北に位置する阿野村を大粟下山と言った。また、言い伝え(口碑伝説)によれば、大粟山は大宜都比売命が初めてこの山に粟を播いたことからこの名があり、また大昔に我が阿波国を「粟国」と記していることは、古史や旧記に散見されるところである。そうであるならば、大宜都比売命は我が阿波国の祖神であり、この祖神がこの粟国(あわのくに)に粟を播きなさった霊境(神聖な土地)は、すなわち神領村の上一宮大粟山であることが明白である。これによって大宜都比売命(おおげつひめのみこと)を大粟比売命と敬称し奉り、また阿波国の古い名称を粟国と唱えたゆえんであり、大粟山の名が長く存在していることは、多くを語るまでもなく明らかであろう。
神領村名の由来
大昔(上古)は、今の名東・名西の二郡を名方郡と称し、名西郡神領村、鬼籠野村および名東郡上八万村大字一宮村を合わせて一宮領と言い、古来から神禄の地であった。その後、一宮領は上下に二分して上一宮および下一宮となり、今の神領村および鬼籠野村の二村は上一宮となり、今の一宮村は下一宮となった。続いて名方郡を二分して名東・名西の二郡を置くに及び、下一宮村は名東郡に属した。思うに、上一宮大粟神社の本地、すなわち神領を上一宮と称したため、これに対して下一宮の名称を付けたのである。
嘉慶二年以降、阿野村大字阿川村の二宮八幡宮に奉納された大般若経写本の第百二十一巻の奥書に「阿州名西郡大粟山上一宮長満寺云々」とあるのは動かすことのできない確証であり、この他にも同じ写本に上一宮と記されているものは数え切れないほどある(枚挙にいとまなし)。また、慶長十三年五月十一日付の検地帳によれば、「名西郡大粟谷上一宮神領分御検地帳」と記し、今の神領・鬼籠野の二村を合わせて単に神領分と称している(この検地帳は全部で十六冊から成り、後年その半数ずつを神領・鬼籠野の両村に配分し、今なお現存している)。時代が下って、万治元年十二月二日付の棟附帳によれば、「名西郡神領村棟附人数御帳」と称し、鬼籠野は別冊になっている(この棟附帳は今なお現存している)。そうであるならば、いわゆる神領分を神領村・鬼籠野村の二村に分割したのは、おそらく万治前後の頃であるはずだ。
これを要約するに、始め一宮領と称し、続いて上下の一宮となり、上一宮が分村して、一つは神領の本地であるために神領村と称し、一つは鬼籠野村という新しい村名を付けた。かえって一宮の名は今の上八万村大字一宮村に移り、かつ昔は上一宮に対して下一宮と称していたものの、上一宮がすでに分村して全く一宮の名称が廃絶してしまったため、「下」の一文字を省略して一宮村と単称するに至ったのである。
これによって見れば、神領とは神の領分の本地と言う意味であり、その神領村に鎮座している上一宮大粟神社こそ、実に一国一宮である大宜都比売命を奉祀している明証である。
兵乱と神禄
前記のように、上一宮大粟神社は上下の一宮を挙げて神禄であったが、その後、兵乱がこもごも起こり、北朝の暦応年間に至って、小笠原長宗(おがさわらながむね)が武族をもって祭官を兼ね、一宮氏と称して上下の一宮を領有すること三代、成行(なりゆき)に及んで城主と祭官を二分し、下一宮を城主領として長男の成真(なりざね)がこれを領有し、子孫が代々伝えて長門守成助(ながとのかみなりすけ)に及んだ。そして、上一宮を神領分として二男の成直(なりなお)が祭官となってこれを管理し、一宮殿と称した。その子孫が代々受け継いで数代にして長曾我部元親が城主・成助を殺してその地を横領すると、一宮殿もまた木屋平常行(こやだいらつねゆき)によって滅ぼされ、ことごとく神禄(神社の領地)を没収されて、ついに神領という名前(空名)を残すのみとなってしまった。その後、蜂須賀氏の領地に帰属するに及んで、(蜂須賀)家政は深く大粟山の由緒を尊重し、その神禄の悲惨な状況を嘆いて、そこで新たに御供田(神に供える田)および薪山(薪をとる山)を寄付した。古い記録に「神田および林を賜う」とあるのはすなわちこれである。そして慶長以降の検地帳によれば、この御供田は青井夫名(あおいぶみょう)の内の「神田」と称する土地であり、今なおその名前を残している。しかしながら、その後幾多の変遷があって、明治維新前までは単に神領と称し、旧藩主から現米三石を納めることとなっていた。この事実は、万治、寛文、延宝、享保年間の棟附帳および延宝年間の阿淡分限帳、社寺領の部に明記されているところである。また、薪山は本社の左右にある一町八反二畝二十一歩の山林であり、現在も官有地に属している。これによって考えるに、昔は広大な神禄を有しており、実に一国一宮という社格にふさわしいものであったと推し量るのに十分である。
蜂須賀氏の崇敬
旧藩主である蜂須賀氏は、代々上一宮大粟神社を崇敬し、その由緒を尊重したことは、その神禄を寄付したことを見ても明らかである。その上、藩主は例祭の日には必ず「国家安全のため」と称して、特に二頭の騎馬を派遣して神輿にお供させる(扈従せしむる)ことを恒例とし、三百年もの間、いまだかつてその儀式を廃止することはなかった。とりわけ四代藩主の光隆は深く同神社を尊信し、当時同神社に奉仕していた別当・神宮寺に金の燈籠一対および定紋付きの幕一張を寄付した。これは当時にあっては実に並外れた待遇(異数)であった。また藩の制度を調べるに、藩主が祭日に騎馬二頭を派遣して神輿にお供させることは、特に尊信・崇敬の意を表する格別な(出格の)異例に属するものであった。これはまさに、上一宮大粟神社が他の神社とは異なる由緒を有していることの明らかな証拠ではないだろうか。
祭官および分霊
大昔(上古)、上一宮大粟神社の祭官は粟国造(あわのくにのみやつこ)の奉仕であり、これを宮主(みやず)と称して三十四代伝わって滅びた。中古に至り、時の豪族である小笠原氏(長宗、成宗、成行)が代々祭官となり、一宮大宮司と称した。これは現に神領村字上角に存在している小笠原氏の墳墓および伝説が証明するところである。しかしながら、前に述べたように小笠原長宗が上下の一宮を領有するに当たり、その子・成宗が城郭を下一宮に築いてそこに移ると、自分が祭官として奉仕すべき上一宮大粟神社の分霊をその城内に祀り(奉祠し)、遥拝所とした。後に祭官と城主の二派に分かれるに及んで、神宮寺の奉仕に一任するに至った。この分霊がおそらく今の名東郡上八万村大字一宮村の一宮神社である。この一宮神社は、寛延二年の一宮大明神神輿勧進帳によれば天石門別八倉比売命(あまのいわとわけやくらひめのみこと)とあり、またその他の古い記録と照らし合わせても祭神は八倉比売命とある。そうであるならば、前記の各考証に照らし合わせると、上一宮大粟神社の分霊であるべきである。
◎ 蛭子岩(ひるこいわ)
神領村にあり、対岸の道路から渓谷を隔ててこれを見ると、蛭子(えびす)の顔に酷似している。その面積は五坪ばかりであり、この石は晴天の日にはにっこりとした笑み(嫣然たる笑み)を浮かべ、今にも雨が降ろうとする時には悲しげな泣き顔(愁然たる泣き顔)に変わるとのことである。
◎ 瀧洲山(たきすやま)
神領村字小野にあり、石壁がそそり立ち、上に上池があり、下に上山川(かみやまがわ)を帯びており、この間の優れた景色は比類ないと称されている。なお、剣神社の小さな祠がある。
◎ 焼山寺(しょうざんじ)
下分上山村大字左右内村にあり、摩廬山焼山寺と号し、四国第十二番の名高い霊場(名場)である。土佐国境から来る中央山脈の北側の連なりが尽きる所にあり、険しい峰は雲を摩し、名東・名西の諸山脈を見下ろしている。山上は古い杉や巨大な檜が鬱蒼と茂り、千古の緑を滴らせている。近年、道路の改修が完成して山麓まで人や車が通れるようになったが、山道は狭く、曲がりくねって非常に険しい。
山の中腹には杖杉庵(じょうしんあん)の古跡があり、古い杉の木の下に「右衛門三郎之墓」と記された石碑が見える。右衛門三郎は伊予国(予州)の大長者の家に生まれ、国守・河野家の御用達として栄えていたが、弘法大師が四国霊場を創建された折、三郎の門前を通りかかって布施を乞うたところ、心が卑しい者(鄙客)である三郎は拒んで応じなかった。大師が三度来て乞うた時、三郎は自ら立ち出て大師を罵り、かつ携えていた鉄鉢を奪って地面に投げつけた。すると鉢は八つに砕けて、はるか虚空へと飛び去ってしまった。ところが、その翌日から、三郎の子供八人が八日の間に一人も残らず病のためにこの世を去ってしまったので、三郎ほどの者も我が子への愛情(恩愛の情)に頭を打ち付け、別離の悲しみに腸(はらわた)を裂き、悲哀はその極みに達してほとんど狂人のようになったが、ついに発心(仏道に入る決心を)し、長年蓄積した財産は寺院に寄付し、一族に与え、なお余りあるものは貧しい人々に施した。そして自身は破れた衣(裂衣)のまま、わずかに雨露をしのぐ程度の修行の道具(行具)だけを背負って、一つの所に留まらない行脚の身となり、四国霊場を巡拝すること二十回。この間、どうにかして以前に非礼を働いた大師に巡り会おう(邂逅せん)と苦心し焦燥したが、その甲斐もなく失望し、十番札所の切幡寺から逆打ち(逆回りに巡礼すること)で讃岐、伊予、土佐を過ぎて焼山寺に来て、長い旅路の疲労で息も絶え絶えとなり(気息奄々)、ついに悶絶してしまった。
この時大師が現れ、三郎の重罪もその懺悔と修行(勤行)によって消滅したことを告げ、さらに三郎の死に際(今際)の念願をあわれとお聞き届けになり、「右衛門三郎」と小石に記したものを左手に握らせて五古(五鈷杵)で加持なされた。その功徳により、後に国主である河野左衛門介息利(おきとし)の正室が、石を握ったままの三郎(の生まれ変わり)を産み、その家を継がせたとのことである。その三郎の遺体を埋めたのがすなわちこの墓であり、ここまで携えてきた金剛杖を地上に突き立てておいたところ、いつの間にか芽が出て天を覆うばかりの巨大な杉となったが、享保年間に自然に火が出て七日七夜にわたって焼失してしまったのは、三郎の悪業がこれによって全く尽きたためであろう。現在あるものはその後に生えてきたものである云々、とは縁起に記されているところである。なお上ること十余丁(約1キロメートル余り)にして、ようやく境内に達する。仁王門を入れば通夜堂があり、石段を登って茶堂を左にして再び少しばかり石段を登ると、多宝堂、大師堂、本堂、方丈、庫裏、その他の建物が一斉に展開して現れ、目の前の視界が一変し、景色や雰囲気は変化に富むものとなる。登山の疲労はこの瞬間において痕跡をとどめなくなるに至る。本堂の左側へ少しばかり(行くと)十二枝神社、熱田神社があり、境内に美観を添えている。さらに役の行者(えんのぎょうじゃ)を祀っている奥の院・蔵王権現などに登攀(とうはん)すれば、その景色はさらに雄大にして、羽化登仙(仙人になること)の思いがある。当寺は弘法大師の再興にして、虚空蔵菩薩を本尊として祀り、その霊験があらたかであることから、正中年間に後醍醐天皇の勅願の綸旨(天皇の命令書)を賜ったことがあり、蜂須賀家もまた帰依が浅からず、累代の祈願所として本堂を再建し、巨大な鐘を鋳造したという。
焼山寺で免除すべきこと
合田の二段のうち、一段は権現への新免、一段は虚空(蔵菩薩)への新免。坪の鍋岩にある。 蔵王権現のある上の山内に寄せて来る、山の島内の古い坊(古房)の野の東側を、先例に任せて蔵王権現の敷地とするために、境界を指し示して打ち渡したこと。 ただし、四方の境界については、使者たちが先だって補任状を持っている。 右の通りであるから、すべての雑工(雑役)を停止せしめ、御祈祷の忠勤を致すべきである。状はこの通りである。
正中二年二月 日
宗 秀 奉
後の世を思えば苦行焼山寺、死出の山や三途の川の難所があろうとも
高い峰を長く白雲の間に認める。
村を出るとすぐにこの山を望み見る。
仙人との縁にも終わる時があることを知っている。
かえって査箒(さそう)を手にして、人間の住む世界を指し示す。
◎ 雨乞瀧 (雨乞の滝)
神領村にあり、高根山が天空を摩するようにそびえ、大栗山と相対している間に、巨大な滝が数ヶ所にかかっているのを見る。その大きなものを雨乞瀑(雨乞の滝)といい、高さは二十余丈(約60メートル余り)、幅は一丈余り(約3メートル余り)である。老杉や巨大な檜が鬱蒼と茂っている場所で、これを見上げれば、削り出したような石壁には少しも遮るものがなく、凄まじい大瀑布は川をひっくり返したかのように落下して来て、滝の下の石に激突して飛沫となり濃霧となる。水は乱雑に転がる石の間を曲がりくねって低い方へと走り、鮎喰川に注ぐ。さらに鉄の鎖をよじ登ること百尺(約30メートル)にして、一つの滝を見る。高さは五十余尺(約15メートル余り)で、幅はこれにふさわしい。地元の俗習では、この二つの滝に対して雌雄の名を与えている。
ひんやりとした風が顔に吹き付ける、幾層にも重なる峰々。
百尺の高さから懸かる滝は、雪のような水しぶきを噴き出して寒々としている。
霊なる龍が、四方の天空の雨をすべて注ぎ尽くしているかのようだ。
たとえ(殷の湯王の時代のような)大干ばつに遭ったとしても、決して乾くことはないだろう。
二つの滝が向かい合って飛び、一つの淵に注ぎ込んでいる。
走る雲が雪を擁するような、千尋(非常に深い・高い)の勢いである。
人々は下に神の龍が潜んでいると伝える。
時に人民のために起き上がって、恵みの雨を降らせるのだ。
◎ 神通瀧 (神通の滝)
上分上山村にあり、滝は源を雲早山に発し、大きな谷や小さな谷の流れを集めて北へと走り、本村の字中津名の山中に集まり、まっすぐに流れ落ちること約二百尺(約60メートル)、水の音は百の雷が一度に落ちるかのようであるがごとく天地が鳴り動いて、人の言葉はそのために奪われ、互いに近づき合わなければ話すことができない。滝壺は約五間(約9メートル)四方ほどで、深さは人の肩が沈む程度にすぎない。岩に当たる水は砕けて霧となり、あっという間に(須臾にして)着物の袖を濡らし、夏であってもなお長く居ることはできない。県下でも有数の大瀑布である。 伝えによると、神通の滝は、その前面に渓水がたたえられている様子や、岩石がそびえ立っている状況が、自然に「心」の字に似ていることから「心通(しんつう)の滝」と呼び、小字(こあざ)も「キノビケ」と唱えていたが、近世になって「心」を「神」に改めて「神通の滝」と称するに至り、同時に小字をも「神通」と改めたものであり、その当時はまだ広く世間に知られていなかった。しかし、嘉永年間に幕府において諸国の名勝や旧跡を調査した際、当時の庄屋である粟飯原(あいはら)某が、滝に関する由来を詳しく記して上申するとともに、石の祠を建立して昔の景観を一変させた。ついで安政年間になって、蜂須賀侯がわざわざ足を運んで(駕を枉げて)滝を見物することがあってから、にわかにその名を知られるに至ったのであるという。
石壁は仏を納める厨子のように(窪んでおり)、誰が削り開いたのだろうか。
千仞(非常に高いところ)から懸かる滝は、激しく走る雷のようである。
巨霊(巨大な神)が昨日、天の川の水を決壊させたかのように、
まっすぐに中空から勢いよく注ぎ落ちて来る。