緒言(はじめに)
ここに「入田村史」を編纂するにあたり、一言ご挨拶申し上げます。当村では、昔から村誌の調査・記録を行ったものがありませんでした。年月が経つにつれてこれらの貴重な資料が消滅してしまうことを憂い、慌ただしくではありますが、古老の言い伝えや古文書を集め、「入田村史」と題して一冊の本にまとめるに至りました。しかしながら、編纂の任に当たる者は学識が乏しく、粗雑な編集であるとのそしりを免れないでしょう。どうか実務家諸氏からのご批判を仰ぎ、後日を待って増補訂正を加えたいと願っております。どうかご容赦ください。
総論
入田村は名西郡の中央からやや東北に位置しています。北は石井町、西は河野村、東は名東郡一宮村、南は鬼龍野村(あるいは龍野村)と境界を接しています。広さは東西1里25町、南北1里18町に及び、その面積は0.91平方里あります。戸数は551戸で、人口は2,866人(うち男性1,447人、女性1,419人)です。行政上の区画として、本村は大字入田村と大字矢野村に分かれています。大字入田村には、金治、大久、天の原、春日、笠木、神の池、南谷、安都真、月の宮、海先、内の御田の11の小字があります。大字矢野村には、奥谷、宮谷、南山、山田、源田の5つの小字があります。
入田村は山間の村落であり、山地が村全体の7割に及び、平地はわずか3割を占めるにすぎませんが、土壌は肥沃で農作に適しています。大字入田村は四方を山に囲まれ、中央を東西に鮎喰川が貫流しています。南方の山脈には中龍(俗に建治山と解釈されます)や東龍王山があり、東北には雲早山(俗に辰が山と呼ばれます)がそびえ立っており、川の水量は乏しいものの、一年中筏を通すことができます。
村内を貫通する郡道には2つの路線があります。一つは石井町から矢野村を経て上山へ通じるもの、もう一つは一宮村から来るもので、これらは日春(小字小久保)で合流して上山街道となり、車や馬の往来が頻繁です。
当村は純然たる農村であり、村民の9割以上が農業に従事しています。平地が少ないため、未開墾の土地はほとんどなく、山間のわずかな土地であっても耕地にしていない場所はありません。加えて用水の便が非常に良いため、米や麦、その他の雑穀の収穫量は平地の面積に比べて割合に多くなっています。農家の副業として養蚕があり、村民がこぞってこれに従事しています。しかし、その生産額のうち、他の町村から桑の葉の供給を受けて購入費用を支出しなければならない状態にある点は、改善を要するところです。苗木業は海先地方で最も盛んであり、その生産量は全国でも屈指と言われています。しかし、個々の事業規模が小さいため、有志がこれを村内に一般普及させようと計画しています。林業は山地が多いとはいえ、進歩は遅々としています。地質によるものとはいえ、もう少し改善を図らなければ後日に悔いを残すことになるのではないでしょうか。藍作は8代将軍吉宗の時代に北方で作られたのにならい、当村でも試しに植えてみたところ良い結果を得て、大きな利益をもたらしました。しかし、現在では人造藍が発明されて以来、北方地方と同様に衰退(昏睡)状態にあります。当村の浅黄木綿といえば県下で並ぶものがないと称賛されていましたが、世の中のあらゆる機業が進歩していく中で、当村の機業にはそれと同等の改善がなされなかったため、現在はほとんど生産されない状態にあります。商業で最も盛んなのは春日(小久保)であり、日用品を賄うのに十分な店舗が存在します。そして何より、人情が大変に厚いことは大いに評価すべき点です。
村民の職業別(専業)は、農業445戸、工業16戸、商業8戸、雑業1戸です。正徳5年(1715年)の「入田矢野村棟附御改帳」によれば、入田村は家数259軒、人数624人、村高954石6斗1合4勺、矢野村は家数95軒、人数127人、村高443石7斗5升8合5勺でした。
入田村の川の流れは、かつて春日神社の東方から古宮を東へ下って鮎喰川となっていたと言われています。村には竹林が多く、100年前までは現在の漬木から古宮の河原にかけては一面の藪でした。しかし、井の丸(月の宮の内)に天然の防波岩があり、入田村の渡辺某がこれを破壊して以来、川の流れは一変して水師方面へ向かうようになったと言われています。この岩を「入間岩」と呼ぶ人もいます。近年では土地の開墾が盛んに行われ、上山街道が開通したことで、地理的にも大きな変化を遂げています。最近の状態でさえこのような変化があるのですから、ましてや太古からの変遷がどれほどのものかは計り知れません。それは考古学の領域に属することですが、「海見」「海先」「船戸原」などの地名が存在します。これらを考慮すると、当村の大部分は古代には海に面していたものの、日本列島太平洋側の隆起などと共に現在の地形になったのではないでしょうか。伝説によれば、大字矢野村にある広瀬神社は、海辺であった時代に祀られたものだと伝えられています。そのためか、延命村、尼寺村、矢野村などでは、地下数十尺を掘ると砂礫層が出て水脈に達します。
堀田、井の丸、広瀬、川ノ上など、その名前の由来は推測にとどまりますが、「鮎喰川」という名称には趣きがあり興味深いものがあります。伝説によれば、北川(鮎喰川)の水は清らかで鮎も多く生息していたため、延命村の八幡神社のあたりで獲った鮎を、八倉比売命の御前に供えたことから、この名がついたと言われています。
租税として、大字入田村では幕末の直轄地を「御領」と呼び、また知行地(配地)として藩士である大津力蔵、西尾兵庫、下淵意卜、片山軟左衛門、上田吉之重らに納めていた玄米は実に1,000石に上りました。矢野村においては、東西合わせて800石、大字矢野村だけでも数百石余りを納めていました。
一宮長門守成助の末裔として知られるのは、本村の一宮成義氏です。その系図について見聞きしたところは以下の通りです。清和源氏の流れを汲むことです。源経基から8代目の孫に長清がいます。幼名を加賀見次郎といい、官位は左京大夫で小笠原を姓としました。承久の乱で功績を挙げ、阿波国を賜って守護職となり四ヶ国を管領しました。長清の孫に長房がいます。文永4年、三好郡の城主である右馬頭・平盛(※平盛実等の誤記と推測されます)が叛逆した際、鎌倉幕府の命によってこれを討ち、その恩賞として三好郡26,093貫を賜り居城を岩倉山に置きました。長房から4代目の孫である頼清(※原文は頼済)は、小笠原から三好と改称し、これが三好氏の祖となりました。長房の孫に長宗がおり、その系図には「一宮四郎宮内大輔、一宮大宮司。居城は阿波国一宮、領地3,000貫、当国の政事を司る。元亨年間に後醍醐天皇に奉仕して尽忠し、その後暦応元年より足利尊氏公に従って軍功を立て、貞治2年3月13日に卒去した」とあります。それ以降、7代にわたって一宮城主としての職を全うしましたが、8代目の孫・成助の時に長宗我部元親の侵略を受け、持ちこたえることができずに滅亡に至りました。その伝記には、「従四位下長門守。妻は三好筑前守長慶の妹。(中略)天正5年3月、細川氏に代わり主君となった三好長治を追討し、同年9月には箕輪甚右衛門尉らを延命の表で討ち破って勝利した。しかし後に、天正10年11月7日、長宗我部元親のために戦死した」と記されています。
成助には2人の子がおり、長男を長時、次男を成忠と言いました。次男の成忠が即ち「一之丞(惣太夫)」の幼名です。伝記によれば、「母は長時と同じ。天正2年2月20日に一宮城内で生まれた。天正10年に父・成助が戦死して落城した際、彼は9歳であったが、乳母や家臣の四宮六右衛門などに介抱され、同郡の広野山に隠れ住んだ。世が平穏になった後、家伝の系譜や代々の甲冑武具などを子孫に伝えた」とあります。定紋は丸の内に四つ菱、または丸の内に十文字、幕紋・馬印は二つ引両です。また、代々伝わる什物として、天国作の太刀や左文字の刀などが記録されています。以上をもって一宮氏の祖先がどのようなものであったか推測できるでしょう。その他にも当村には旧家が少なくありませんが、それらの家の系図の多くは散逸しており、時折見つかるものも後世のものと推察されるため、各家にも系譜があることだけを記して筆を置きます。もともと我が入田村は一宮城の落武者が住み着いた場所であり、由緒正しい家柄の者がいるため、詳細に探求することは大変興味深いものです。名西郡矢野村に源内という旧家があり、昔、源氏の出自で内舎人であった家柄だと言われていますが現在は存在していません。
遺物と住民との関係
太古の装飾用器具としては管玉や勾玉があり、特に日本の人々が太古から鏡を重んじてきたことは顕著な事実です。武器として用いたのは剣、刀、弓、矢、矛、および馬具などです。当村で発掘されたと伝えられる石斧のような石器は稀に見るものであり、利器を作るのには多くの場合、銅や鉄などが用いられていました。石器時代の民族が居住していたのでしょう。また『阿波史』によれば、国府村で土器や金属、石棺を発見したとあり、これらは原史時代のものとされています。
本村の古い名前は、名方西郡「埴土郷」と言いました。俗に埴生田、仁宇とも呼ばれましたが、郡名の由来として、名東郡と名西郡は元々一つの「名方郡」と呼ばれていました。その起源は『旧事紀』に建御名方命の記述があり、この神の御名から名方郡と名付けられ、後に分割されて名東・名西の両郡になったとされています。村の範囲として、埴土郷は入田から上山までの間とされており、神領の埴生と女屋神・村名の関係が推測されます。埴土郷について考察すると、垂仁天皇の御代に殉死の禁があり、野見宿禰の進言が受け入れられ、皇后が崩御された際に出雲国の土部100人を呼び寄せました。そして自ら土部らを率いて埴土を取り、人馬や様々な物の形を作って生きた人間の代わりにしたところ、天皇は大いに喜び、野見宿禰に陶地を与え土部の職に任じました。これにより本姓を改めて土師臣としました。それ以来、土師氏が代々天皇の葬送の事を司り、また太古はその一族が定住し、埴土の土地の一部に住んだ者は土師の民となり、これらの子孫が繁栄したことで郷名を「埴土」と名付けたのでしょう。後世になっても製陶業を生業とする者が住んでいたと考えられます。
大字「入田村」の意味についてですが、アイヌ語で入田村というと「四方を山で囲まれ、中に田園があること」を意味します。日本書紀などによれば、景行天皇や日本武尊の東征の際に捕らえられた蝦夷が、大和の朝廷に献上されたものの、大和の御諸山周辺で騒がしく礼儀に欠けたため、伊予、安芸、阿波などの五国に移住させられました。阿波の五郡に配置された彼らの子孫は昔から兵士に適しており、これを五国の佐伯部と呼びました。以上の理由によって、当村に蝦夷人(アイヌ人と同定)が住んでいたことは明らかです。古書に入田村の名前が現れるものとして、『日本霊異記(日本国報報善悪寒記)』があります。そこに名方郡埴村の忌部首宇日多夜が法華経を書写したという記録があります。これを見れば、奈良時代にはすでに入田の村名が明記されていたことになり、村名の起源は景行天皇の御代以降にさかのぼるのも当然と言えるでしょう。
所属する郡についてですが、『延喜格』や『類聚三代格』を考えると、初めは名東・名西は一つの郡(名方郡)でしたが、位置関係から名方西郡、名方東郡と呼ばれるようになり、次いで名東郡、名西郡と称されるようになりました。幕府の時代に至っては両郡を合併して一人の奉行の下に置いたことも、板東兵八氏の残した文書によって知ることができます。『類聚三代格』には寛平8年(896年)9月5日に両郡に分けられたとあり、『延喜式』では阿波国の管轄として名東・名西が含まれています。これを見れば、延喜時代にはすでに名西郡と呼ばれていたことが明らかです。
藩主である蜂須賀阿波守には五家老がおり、その内の一人が御当職を命じられ、中老、御手廻りをはじめ、御弓、御鉄砲等に至りました。役所としては郡代の下に御奉行などがおり、その下に組頭や庄屋がいました。昔、観正寺の住職が肝煎であったという記録もあり、森藤之重、高橋清左衛門など以来の庄屋や、板東勇右衛門、森伊左衛門などの名前が残っています。大字矢野村には政所がありました。維新前における大字入田村の五人組は森受右衛門、森虎三らであり、大字矢野村の五人組は谷口平太、久米長右衛門らでした。大字入田村では庄屋の森庄三郎から始まり、明治4年に戸長役所を西福寺に開きました。大字矢野村では庄屋の盛浅蔵から始まり、尼寺内に矢野村役所を置きました。明治19年4月に両村が合併して入田村矢野村戸長役所が設けられ、戸長には太田敬三、坪井定三郎が就きました。明治21年の町村制実施により村長となり、坪井定三郎、明治41年に岡村太郎、大正元年に佐藤邦太郎、大正2年には一宮栄二郎へと至ります。この間、役場は西福寺から現在の小久保に移転するまで4回位置を変えました。
名所旧跡
気延山は、源平合戦の際、義経が平氏を屋島に討つために本村に入った時、この山に登って北方の敵勢を観察し、この地に平氏の軍勢がいないことを確認して安心したことから、この名が付いたと伝えられています。大泉神社は気延山の山腹にあります。義経が喉の渇きを覚えて水を求めた際、弁慶が長刀の石突で岩を突いて水を得たと伝えられ、現在はこの泉を大泉神社として祀っています。井戸の構造は五角形で、5枚の青石で囲まれており、水量は四季を通じて変わらず、どんな暴風雨でも清水が湧き出る不思議な泉です。小泉神社も気延山腹にあり、大泉神社よりはるかに南方に位置しますが、水質は良くありません。言い伝えによると、義経が水を求めた際、弁慶がまずここで水を探したものの不十分だったため、さらに探して大泉神社に至ったと言われています。城山神社は大字矢野村にあります。義経が通過した際は杉尾宗親の居城であったとされ、義経が馬に水を飲ませた場所だと言われています。
雲早山は、長宗我部元親が四国統一の大志を抱いて阿波に入り、一宮城を攻める際、城主の成助を誘い出して殺害し、人を派遣して水源を絶った後、この山の山頂から大砲で一宮城を攻撃しました。今でも山頂には大砲の台座にされたと伝わる岩石があります。矢那谷は、元親が一宮城を攻める際、その水源を絶とうとして人をここから侵入させ、弓折に至ってその目的を達したと言われています。
【史料注釈:一宮城の「水断ち」と山岳勢力(小屋平氏・松家氏)の動向】
一宮城を攻める際に「水源を絶った」とする伝承は、史実としては天正10年の長宗我部元親による一宮成助の謀殺時ではなく、その3年後、天正13年(1585年)の豊臣軍(羽柴秀長)による一宮城水攻め(このとき籠城したのは長宗我部方の谷忠澄ら)の記憶と混同されたものと考えられます。しかし興味深いのは、阿波の山間部(小屋平氏などの修験ネットワーク)にも「長宗我部の一宮城攻めの際、水の手を切って落城に貢献した」という伝承が残されていることです。
これは、複雑な地形や水脈、矢那谷のような間道を熟知していた地元の山岳・修験勢力が、実際に侵攻軍へ地理案内などで協力した事実が、後年の劇的な「水断ち」の記憶と結びつき、一族の武功として語り継がれたものと推測されます。こうした在地勢力独自の主体的な動向は、後の蜂須賀氏入部時に小屋平氏ら在地勢力が一揆(小屋平一揆)を起こし、同じく在地勢力である松家氏などが引き止め(慰留・鎮圧)に動いたという、吉野川流域における修験・地侍層の複雑な歴史的展開(再編過程)へと直接リンクしていく重要な背景を含んでいます。
海見は、伝説によれば千年前にはここから海を眺めることができたためこの名が付いたとされています。古戦場としての海見は、長宗我部元親が一宮城主の成助を殺害した際、成助の遺臣が元親の軍と弔い合戦を行った場所とされています。現在でも開墾する際に折れた刀や槍などが時折発掘されることがあります。天王山は一宮城の西南の麓にあり、入田村イヤズ谷の入り口に位置します。豊臣秀吉が四国を平定する際、ここに本営を置いたと言われています。
建治山は、山腹に石洞と高さ約10間の滝があります。左右は切り立っており、樹木が枝を交えて昼でも薄暗く、上には平坦な岩石、下には渓谷があります。弘法大師の遺跡としての建治寺は、かつて弘法大師が求法の強い決意から、まず蔵王権現の像を彫って岩穴に安置しました。滝の側の平坦な場所には護摩堂の跡があり、霊地と称されています。建治寺は四国八十八ヶ所の第十三番札所(大日寺)の奥の院です。真言宗金剛峯寺の末寺で、本尊は金剛王菩薩です。光仁2年(※宝亀2年の誤記か)9月、空海が四国修行の際にこの地に仏堂を建てました。一時衰退したものの、後に再興されて徳島藩主や武家の帰依を集めました。
寺谷は大字入田村にあり、徳川時代以前に寺があったと伝えられ、現在も礎石が残っています。鳥帽子谷は大字入田村にあり、中古に寺院があったと伝えられています。山中であるにもかかわらず石垣の上に東西約40間、南北約50間の平坦地があり、今は木々が鬱蒼と茂っています。府中殿町は大字入田村安都真にあり、国府殿町とも呼ばれていました。昔は小さな城があり、その城下町であったために「町」の名が付けられたと考えられます。城主は横田内膳太夫常宗と推測されます。殿田は入田村大字春日にあります。古老の言い伝えによると、入田村に小さな殿様がいて、農家の田植えを見に来られたため「殿田」と呼ぶようになったとのことです。瓦谷は大字矢野村字宮谷にあり、かつて瓦を焼いた場所とされ、今でも古い瓦が掘り出されることがあります。義倉は大字矢野村奥谷にあります。藩主が飢饉の際に民を救う目的で建てた倉であるため、この名が付けられました。内の御田は、杉尾神社(天石門別八倉比売命)の祭祀にあてられた田であると言われています。船戸原について歴史学者・吉田東伍氏の地名辞書によれば、船尽宮は入田村にあり、羽辻大明神とも呼ばれます。羽辻大明神は河野村にあり、その東方約5町の平原が船戸原であるため、この名があると考えられます。
矢野城は、源平時代は杉尾宗親の居城であり源氏に属していたようです。戦国時代における矢野城は矢野駿河守宗春の居城であり、三好氏の幕下として十二臣の一人に数えられていましたが、天正7年12月、三好丹後守のために美馬郡脇町城で誘い出されて殺害されました。その位置は現在、矢野村奥谷にある城山神社の旧跡です。
本村には塚穴と呼ばれる古墳が多く、中でも大字矢野村奥谷にあるものと大字入田村の内の御田にあるものが大規模です。石室の内部は遺体を安置したもので、矢野にあるものは入口が縦横3〜4尺、奥行き約3間半、天井や側方は巨大な青石で組まれています。内の御田にあるものは奥行き約2間半です。海見にあるものは破壊されて一部しか残っていませんが、古代の土器が出土します。
神社・寺院・社寺の神事
天石門別八倉比売神社は大日孁尊を祀り、県社に列しています。創立は不詳ですが、『延喜式神名帳』に「阿波国名方郡 天石門別八倉比売神社 大同次新嘗祭」と記されている式内社です。寛保年間の神社帳には「杉尾大明神」と記されていましたが、明治3年に現在の社名に改められ、明治5年6月に県社となりました。本社の祭神には大日孁尊とする説と、大宜都比売命とする説があります。社司の言によれば、維新前後の神社の祭神調査の際、祭神を大日孁尊として具申したとのことです。脇宮として手力雄命と天鈿女命を祀る松熊神社、豊磐窓命・櫛磐窓命を祀る箭執神社があります。
一宮神社は元々は入田村の部内にありました。かつて鬼龍野村にあったものを、後醍醐天皇に仕えた大宮司・一宮長宗が一宮へ移したとされています。神殿に安置されている木製の神像は平安朝初期のものとして非常に有名であり、他の古い神像とは異なり、胡床に腰掛けて上着のようなものを羽織っている大変珍しい姿をしています。
天神社(大字入田村天ノ原)は村社であり、天目一箇神を祀ります。麻能等比古神社は猿田彦神社を祀る無格社です。下浦村の神職の調査によれば由緒は正しく、かつては官幣大社であったとする説もあり、神像には「底能神社、小工小五郎作」と記されています。春日神社は天児屋根命、武甕槌命、経津主命を祀ります。笠木神社は応神天皇を祀る村社です。大水の際に上流から八幡社の鳥居が流れ着き、その笠木が留まった場所(古宮)に宮を建てたのが始まりと伝えられています。箭執神社は櫛岩窓命・豊岩窓命を祀る村社です。松熊神社は手力男命・天鈿女命を祀ります。日枝神社は大字矢野村源田にあり大己貴命を祀ります。その他の天神社は大字入田村内の御田、大字矢野村山田にあり、いずれも菅原道真を祀っています。廣瀬神社は大字矢野村奥谷にあり豊玉比売命を祀る無格社です。城山神社は大字矢野村にあり、当時の城主であった矢野駿河守を祀ると言われています。山神社は大字矢野村宮谷にあり、大山祇命を祀ります。府中殿神社は大字入田村笠木にあり、猿田彦神社を祀っていましたが明治40年に笠木神社に合祀されました。
建治寺は真言宗で金剛峯寺の末寺です。本尊は蔵王権現で空海の作と伝えられています。高さ約3尺2寸の立像で、彩色は施されておらず、帝室博物館にある空海作の仏像とよく似た古い年代の様式を備えています。観正寺は真言宗大覚寺派で本尊は薬師如来です。天正年間の開基とされ、境内には蔵王権現や、理源大師筆と伝わる五大明王などの宝物があります。西福寺は同じく真言宗大覚寺派で、本尊は観世音菩薩です。興禅寺は臨済宗妙心寺派で、釈迦如来を祀ります。元々は村の北山端に創立されましたが、寛保年間に現在地へ移転しました。その他、観音庵、大日庵、地蔵庵、阿弥陀庵、入祖庵、友松庵、瑜伽庵などの小規模な堂宇が各地区に存在します。
竜王の祈祷として東西の竜王両社で毎年6月12日に村民が集まり、雨乞いの祈祷として踊りを行っていました。夏の祈祷として八倉神社では毎年旧暦7月に夏病み除けの祈祷が行われ、多くの参詣者を集めました。板碑(石碑)の最も古いものは天正10年(1582年)の銘があり、矢野村観音庵の六地蔵に建てられています。海見や奥谷にあるものはさらに太古のものであると思われます。
教育・戦役
江戸時代、各藩が教育を奨励したことで山間部でも寺子屋が普及しました。観正寺の住職や田村佐市らが師匠となり、習字を中心に、平仮名・片仮名、商業往来などの実用書、女子には女大学や裁縫を教えました。大字矢野村に岩野博見が創設した私学校があり、これが後の小学校開設の基盤となりました。明治7年に公立入田小学校が設立され、学制の変遷を経て明治35年には高等科が併置されました。明治44年には1万円余りを投じて新校舎が建築され、落成式が盛大に行われました。貧困により就学できない児童を救済するため「学齢児童就学保護会」も組織されました。
日清事件・北清事変では多数の兵士が従軍し、病死者を除いて無事に凱旋しました。日露戦役では明治37年2月の宣戦布告以降、当村からは39回にわたり計79名が召集されました。逃避する者は一人もおらず皆が勇んで入隊しました。この戦役で7名が戦死または病死しています。軍馬の徴発も5回にわたり約80頭が供出されました。
人情風俗・衛生・土木・年中行事
当村の踊りは旧暦のお盆である7月17日に行われます。水辺で行う一種の雨乞い踊りであり、篝火を焚いて太鼓を打ち音頭を唱えます。踊りの後、色紙を吊るした竹を振って子どもたちがそれを拾い、その中にある「御幣」を拾うと福徳があるとされています。他村に比べて素人浄瑠璃が当村で盛んに流行し、今でも維持されています。大字入田村の中筋を中心とした近隣に「遊楽舎」という素人の操り人形芝居の座がありました。明治27〜28年頃に始まり明治34〜35年頃までは盛んに行われましたが、次第に退歩し、現在は年に1回の催しがあるに過ぎません。
貞操、苗木業の啓発、孝行、農事改良などの功績により、名東県や徳島県知事、あるいは国から表彰や賞賜を受けた村民が多数います。慶応2年(1866年)12月20日から翌年正月にかけて、どこからともなく「お下り」(別名「ええじゃないか」)と称し、狂気のように裸体や言葉にできないような風紀を乱す姿で踊り狂う現象が起き、本村でも非常に行われました。大字矢野村には「盛六郎」という藍商人がおり、本県屈指の豪商でした。大字入田村には「山岡沢助」という木材を扱う豪商がおり一時は名を響かせていましたが、現在では両家とも跡形はなくなっています。
大字矢野村では「虫送り」として旧暦6月の土用入りの夜に、村の境界から境界まで火の束を受け継いで送る行事があります。当村では山神様を祭る相撲として旧暦10月の亥の日に各地で素人の本相撲を行う慣習がありましたが今は衰退しつつあります。牛馬の祈祷や悪疫神を焼き殺すという意味合いで、各所に小さな小屋を建てて毎年旧暦7月13日の夜に農民が火を振って小屋を焼く慣習がありましたが、明治43〜44年頃に大部分が廃止されました。
明治19年8月10日に入田村に避病院が建設され現在も存続しています。明治5年の赤痢の大流行や明治27年の流行が最も規模の大きなものでした。明治32年には私立の入田村衛生会が組織され衛生事業に尽力しています。
土木について、字春日の堤防は安政元年(1854年)に一宮用水を新設した際、その掘削土を用いて築かれました。一宮用水は嘉永6年(1853年)に一宮村民が春日を水源とする用水を新設しようとしましたが、本村民との争いになり、結果的に掘削土で春日堤防を築くことで竣工しました。海見用水は嘉永5年に新設されましたが国府町との間で水争いが絶えず、明治17年に水利権が入田村に認められました。文化13年(1816年)の春に村民が新設した矢野池や、延命の池などがあります。板東兵八氏は、本村がもともと畑地が多く干ばつのたびに作物が枯れる被害が出ていたため、村の利益のために立ち上がり、文化年間に幾度も用水創設の願いを出しました。郡代奉行に却下されても諸国の用水工事を視察し、文化3年に三度目の出願でようやく許可を得ました。岩盤を打ち砕く難工事を自らの私財と情熱をなげうって遂行し、文化5年に用水を完成させ村に無限の恩恵をもたらしました。森本喜三郎氏は本村の農家に有望な副業がなかったため、土地の性質を研究し苗木業を奨励しました。その結果、本村の苗木業は全国でも有数の地位を占めるようになりました。
正月三が日の休み、2月の火伏せ祈祷、3月の彼岸、4月の早苗振り、6月・7月の夏祭りや雨乞い、盆休み、10月の亥の子相撲など、月ごとの行事や祭りが細かく記録されています。嘉永6年に88日間の大干ばつがあり農作物に甚大な被害が出ました。最近では大正2年にも50日余りの干ばつがありました。安政元年の大洪水で河川が氾濫して大害を及ぼし、明治32年、大正元年にも出水被害がありました。天保7年・8年は長雨のため大凶作となり多くの飢えに苦しむ民が出ました。嘉永6年には大地震があり家屋の倒壊も多数ありました。明治36年11月に入田村在郷軍人会が組織され軍事知識の増進を図りました。明治42年3月より各学区に戸主会が設けられ大師講などと合わせて自治の発達に寄与しました。
大正2年(1913年)10月3日印刷、10月10日発行。発行所は徳島県名西郡入田村役場、入田尋常高等小学校です。