阿波誌巻之七 麻殖郡

目次

■ 阿波誌巻之七:阿波誌 巻之七

■ 儒員 臣藤原憲輯:儒員である臣の藤原憲が編集した。

■ 麻殖郡:東は名西郡に至り、南は那賀郡に至り、西は美馬郡に至り、北は阿波郡に至る。南北の広がりはおよそ十里である。

■ 建置沿革:建置沿革(設置からの歴史的変遷)

■ 在昔天富命與天日鷲命殖穀麻于此所以名麻殖也慶長九年村三十二元禄中三十六今爲三十三:昔、天富命と天日鷲命がここに穀と麻を植えた(殖やした)、そのため麻殖と名付けたのである。慶長九年には村が三十二あり、元禄年中には三十六あったが、現在は三十三となっている。

■ 呉島:考えるに、現在は分かれて上下島、宮島、兒島、中島、三島、鴨島等となっている 。「續日本記」には「元明天皇の秋七月壬午に、初めて綾錦を織らせた」と云うが、恐らくはこれのことであろう 。

■ 忌部:現在は廃されているが、忌部山は存している 。

■ 射立:現在は廃されているが、瀬詰村に湯立里が有る 。

■ 川島:現在は廃されているが、川島街は存している 。

古蹟

森遠塁:平村の森遠名にある。平宗本がここに拠った。現在は八幡の祠があり、また塁(砦)があって陣円と称している。

梅津宅:川井山の川井窪名にある。梅津左馬丞がここに居た。

東宮城:中村山の二戸名にある。中村、三木、および名西郡上山の三村に跨る。思うに土御門天皇の行在所(仮宮)であった場所である。ゆえに宮城と称する。平坦な場所が七区画あり、七第(七つの屋敷)と称する。傍らに清泉があり、御泉と称する。石壁の北の峠の半腹に極めて大きなヒノキ(扁拍)があり、因って檜嶽と称する。東北へ下ること二百五十余歩に埒(馬場)があり、幅は二歩余り、長さは百八十歩ばかりで、御埒と称する。傍らに危うい石があり烏帽(烏帽子石)という。平村に達する道がある。頂上は四方三百余歩で一本の草も生えず、老樹が鬱蒼として松蘿(サルオガセ)が下へ垂れ、天日が見えない。小さな祠があり硯と瓶を蔵しているが、並んで破損・欠落しており完全ではない。

古塁:中村山の真木山名の頂上にある。水があり硯水と称する。その南にもまた水があり矢壺水と称する。並んで大旱魃でも涸れない。小さな祠があり古城明神と称し、里の民が雨乞いをする。

鎌倉邸:東山の月野名にある。柱の礎石がなお存している。何人が拠った所かは分からない。

月野山営:鎌倉邸の西南にある。陣円と呼ぶ。四方四百八十歩である。山は極めて高く、下って数郡を俯瞰し、遥かに淡路を見る。

大鹿廃宅:別枝山の大鹿名にある。四方八十歩ばかり。殿第と称する。中に柱の礎石が一つある。その上に祠があり、天皇と称し、金口(鰐口)一枚を蔵している。傍らに石洞があり酒瓶一つを蔵している。その上の平坦な場所は四方十二歩で、奥宅と称し、並んで不潔を禁じている。最も下にあるものは下第と呼び、また礎石が一つある。

倉羅塁:別枝山の倉羅名にある。本城と称する。名西郡に隣接している。倉羅権頭がここに拠った。山は極めて高く、木は生えていない。その頂上を名付けて厩という。石柱が双って立っており、互いの距離は一歩である。思うに馬を繋ぐ碑(石柱)であろう。

雁叉塁:別枝山の古井名にある。古井泉左衛門がここに拠った。山勢は甚だ険しく、倉羅塁と相接している。祠があり権現と称する。

陰塁:別枝山の陰名にある。河村左馬亮がここに拠った。

宗田塁:別枝山の宗田名にある。宗田肥前守がここに拠った。

四松塁:別枝山の四松名にある。林翁九郎がここに拠った。

城戸塁:別枝山の城戸名にある。財田権頭がここに拠った。

日浦塁:別枝山の日浦名にある。浅田出羽守がここに拠った。

宮田塁:種野山にある。横四十歩、縦二十歩ばかり。明石某がここに拠った。某は四郎兵衛と称し、その末裔は里正(村長・庄屋)となっている。その東にもまた塁の跡があるが、詳細は未だ詳らかでない。

別枝塁:別枝山の平名にある。明石掃部がここに拠った。

上桜塁:上桜山にある。永禄年中に篠原紫雲がここに(拠った)。

井上城:川田西村にある。一に泉館と称する。源頼有がここに拠った。永正年間に及び、その男(息子)の元常と共に京師(京都)に之(ゆ)き、源綱真を以て処守(留守役)と為し、右京亮丹治常直を宰(家宰)と為した。永禄年中に源庸吉が常直を殺し、遂にここに拠った。その跡は竹林が周囲を巡っており、官府が木材を取る所である。傍らに井戸があり柳井と称し、水は甚だ清冽である。また候楼(物見櫓)の跡があり、大室山の松林の中にあって、城から距離六百歩、他郡を俯瞰し、城円と称する。億代にもまた亭(屋敷)の跡があり、開墾されて田となっており亭下と呼ぶ。また道衢(街路)があり、幅一丈、長さ三百歩ばかりで、二つに分かれて西街と曰い、東街と曰う。思うに市肆(市場)の跡であろう。

億代塁:川田西村にある。土囲の内と称する。縦三十余歩、石塁が存している。土井右衛門督が讃岐の寒川郡から来て築き、居た。

島塁:川田東村の島名にある。地名を十二騎原という。藤原庸信がここに拠った。天正年中に陥落した。

喜来塁:瀬詰村の青木里にある。青木は旧くは喜来名と称し川田村に属していた。櫟原石見守が大塚の二町を以て易(か)え、築いてこれに拠った。湟(堀)の畔に塚があり、相伝えてその矢を埋めた所であるという。南に池があり菰池という。また甕城があり川田東にあって塁から距離百八十歩である。

山崎塁:山崎村忌部山の北麓にある。地を城円と呼ぶ。思うに上世の忌部氏が居た所であろう。その下に池があり、周囲九十歩ばかり。村を総べて田に灌漑する。

学塁:学村にある。今は田となっており、大土囲と呼ぶ。工藤丹波守がここに拠り、細川氏に属した。天正年中に秦源親に陥とされた。

川島塁:川島山上にある。川島兵衛進がここに拠り、岩倉の役で戦死した。篠原紫雲もまた拠った。

川島北城:川島道北にある。芳野河(吉野川)を枕にし、西北へ若干里を下る。天正十三年に置き、林道感にこれを守らせ、兵三百を置いた。九城の一つである。

山島塁:敷地村にある。工藤甲斐守がここに拠った。

西麻殖塁:西麻殖村にある。工藤甲斐守の別の塁である。

麻殖保司庁:森藤村田中里にある。小さな祠がある。

飯尾塁:飯尾村にある。飯尾久左衛門がここに拠った。

飯尾東塁:同じく飯尾村東北にあり、川に臨む。前に石橋がある。麻殖志摩守がここに拠った。

鴨島塁:鴨島村にある。鴨島六進がここに拠った。池および門の跡が存している。

内原塁:内原村の蓮池里にある。蓮池菊太夫がここに拠り、脇町で戦死した。蓮池は今、円池と称し、城跡は田となっている。

乗島塁:喜来村の乗洲にある。乗島来心がここに拠った。

原塁:牛島村の原里にある。渡辺源左衛門がここに拠った。

根井塁:牛島城内里にある。根井伊賀守がここに拠り、後に上浦稲垣監督を使いとして代わりに居させた。

藤田牛丞宅址:桑村にある。中島城にて戦死し、子孫は農民となっている。

戸口

■ 五千七百九十二戸 寶曆:宝暦年間には五千七百九十二戸である 。

■ 六千五百八十五戸 寛政:寛政年間には六千五百八十五戸である 。

■ 二萬六千五百五口 雜戸四百二十七口 寶曆:宝暦年間には二万六千五百五口、雑戸が四百二十七口である 。

■ 二萬七千五百七十口 雜戸六百口 寛政:寛政年間には二万七千五百七十口、雑戸が六百口である 。

公署

国衙:種野山にある 。観応二年の文書に見える 。

山川

大剣山:麻殖・美馬の両郡に跨る 。山は甚だ霊秀であり国中に比類がない 。諸郡の山川はここから分かれる 。冬に至ると積雪が丈余りとなり、晩春になってわずかに消える 。盛夏でなければ人はあえて登らない 。西は美馬郡管生名まで距離四里、南は那賀郡岩倉までおよそ六里、東は本郡の蘘荷名まで距離三里である 。この間には人家が無く、登る者は星を戴いて往き、星を戴いて還る 。蘘荷名に大きな松の樹があるが今は枯れている 。その上六百歩に淵があり巻淵といい、小さな祠を置いている 。淵から距離六百歩に渓流があり垢離取川といい、登り参詣する者は必ず浴びる 。その上を不動坂とし、不動の石像が渓流の中にあり、時に没して見えない 。北に石鏡があり、前に花折の祠がある 。坂が尽きると平地があり、祠一基を置いて前堂と称し、婦人で登り参詣する者はあえてここを過ぎない 。さらに行くこと六百歩に池があり藤池という 。平村の松名平から距離千二百歩であり、古藤がこれを覆っている 。さらに登ること一里に寺があり、六間五架で、言い伝えによれば一本の大きな欅を割って造ったといい、登り参詣する者はここに宿泊する 。その東南は少し低くなっており鉢窪と称する 。渓流があり御濯川といい、この間に石人、石馬がある 。その上の平坦な場所を名付けて神埒といい、およそ百八十歩である 。ツツジがここに来て、春の時には紅白を成す 。そしてその下に短い篠竹が整々と生えており、これを過ぎると絶頂に至る 。石があり宝蔵といい、亭々と傑れて高く立ち、高さ五丈である 。四方を望むと広々としており、群峰はすべて培塿のようである 。西南に二つの石があり、方正に卓立して太郎笈という 。さらに行くこと三百歩に削って成したような石があり、不動といい、高さ二十五丈である 。その下に壑谷があり、これが大小剣の交わる所である 。

河井嶺:平村の谷口にある 。城府からの距離は八里余り、剣山からの距離は五里である 。

蘘荷平:平村にある 。剣山からの距離は三里であり、その間に民が居る 。

安土窟:平村の森遠名にある 。中に髑髏があり、俗に大将骨と称する 。

自害嶽:平村の下名にある 。壁のように立つこと三丈ばかりである 。

大師壇:川井山にある 。広さは一丈五尺ばかり、深さは二歩余りである 。その上に磐石があり、四方三尺で座ることができ、護摩壇と呼ぶ 。

和田嶽:川井山の窪名にある 。石崖が絶壁で険しく、高さ二十丈ばかりである 。その下に和田淵があり、前に弁天林があって、掩い映えて観るべきものがある 。

中村渓:源は野脇から出て、三木渓に入る 。

土初:中村にある 。言い伝えによれば、昔、某帝が駕を停めて徒歩で行かれたため、因って名付けたという 。また相撲窪、弓嶽がある 。

天狗嶽:これもまた中村山にある 。高さ三十丈ばかりで、半腹に石が斗に横に出ている 。

龍口:三木山の南張名にある 。すなわち穴吹川の上流である 。南北に大石が横に出てここに来ており、遠くから望むと龍のようである 。北を雄龍といい、南を雌龍という 。

捨子嶽:三木山にある 。言い伝えによれば、昔、某帝が東宮城におられた時、女嬬がその子を捨てて従ったため、因って名付けたという 。また、女嬬は極楽寺に居て布を織ったため、因って麻衣名と名付けたともいい、その篗がなお存している 。

大篠山:桁山にある 。郡中で最も高く、上に大篠と龍王の二つの祠がある 。風景もまた第一である 。山腹を植杖といい、参詣する者がここに至って杖を捨てるため、因って名付けた 。

三十釜床:これも桁山にある 。

笠石:これも桁山にある 。高さ一大余り、その形は笠のようである 。

掛冠石:これも桁山にある 。

奥野瀑:これも桁山にある 。両方の山が壁のように立つこと数十丈、飛瀑がこれに懸かっている 。棣棠(ヤマブキ)や躑躅(ツツジ)が最も多く、春の時には色が濃く良い香りがして観るべきものがある 。

憇石:別枝山の田平名の道の側にある 。四方三尺である 。また鞍架石があり、形状は胡床に似ている 。並んで土人は畏敬し、あえてみだりに近づかない 。

千把嶽:別枝山の䕃名にある 。高さ二十丈ばかりで険絶で登ることはできず、下は幽谷に臨み名を轆轤という 。その裏に峰があり、名付けて片白といい、半面に雪が有るためである 。

鎌倉田:別枝山の勘蔵名にある 。思うに鎌倉幕府がかつて領した所であろう 。

東山:渓流が三つある 。その一つを殿河原といい月野から出る 。その二を中渓といい北へ流れる 。その三を上渓といい源は大鹿山から出る 。並んで小栩名に至って合流し、西北に種野山を経て、長さ一里半ばかりである 。この間から冷滑石が出る 。また石の形状が丁の字に似たものがあり、名付けて釘石という 。

銅山:東山の上谷名にある 。穴が三つあり、銅を採掘する地である 。

大鹿山:東山の大鹿名にある 。高く険しく鬱蒼と茂っており、その上に大鹿祠がある 。名西郡阿川村に接し、来て祭祀を行う 。

種野山:東は東山の犬埒に至り、南は桁山の蜂竈に至り、西は瀬詰の弓張石に至り、北は山崎の子持石に至り、岡や峰が相連なっている 。諸々の渓流は北へ流れるが、一つの渓流が南へ流れるものを名付けて逆瀬川という 。その下に水があり小種と呼び、大石が持ち起きて清泉が出ており、大旱魃でも涸れない 。言い伝えによれば、昔、稲の苗が自生したという 。その東に渓流があり日開といい、その源を坪井渓という 。雲が覆うと雨が降り、この間は水田が多く、土人は「蛭が人を噛まない」という 。その西に苧楮里があり、毎年、麻および紙を以て忌部の祭料に充てている 。思うに昔の木綿がこれである 。また小丘があり鬼城と呼び、渓水がこれを擁している 。

鐘楼址:川田山にある 。一に城台と称する 。

俯石:これも川田山にある 。大石が高く懸かっている 。

番屋嶽:これも川田山にある 。嶽の下に洞があり、中に物が日に映えているが何物か分からない 。

銚子淵:川田山にある 。形状は丸くて大きく、その深さは測ることができない 。上に石崖があり高さ六丈ばかりで、飛泉がこれに懸かっている 。禊川と広瀬川もまた入る 。側に石洞があり、洞中に龍の祠を安置し、里の人が雨乞いをする 。天明二年八月八日、大水で石が落ちてこれを塞いだ 。

笛附石:川田山の苧原名にある 。また金壙があり、また広瀬川に蝙蝠淵がある 。

高越山:川田西村にある 。一名を衣笠山といい、また摩尼珠山と称する 。奇峻で鬱蒼と茂り、群山を覆い圧している 。上に伊弉諾と蔵王の二つの祠があり、その下が高越寺となっている 。高さ三千歩 。花桜が道に来るが、その開花は上に行くほど遅く、頂にあるものは四月にようやく開花する 。頂から距離七百歩に平坦な場所があり、寒風と呼ぶ 。最大の花桜があるが、それほど高くなく、その枝が四方に出て四方十五歩である 。春の時には美観となる 。その頂下は阿波・美馬・三好の三郡であり、遥かに伊予・讃岐の諸山を見る 。旧くは六稜堂があったが今は廃されている 。埋経塚があり、言い伝えによれば法華経を一字一石に写したという 。西にもまた平坦な場所があり塔円と呼ぶ 。南に石洞があり不動像を安置し、石磴があり地蔵像を安置している 。水が清冽で、閼架伽と呼ぶ 。下ること二百余歩に石塀が相対しており、高さ四、五丈、長さ六、七尺、わずかに並んで行くことができる 。競割と呼ぶ 。その下九十歩に樹が倒れて生えており高さ六尺ばかり、枝木と呼ぶが今は朽ちている 。東北へ下ること千二百歩、石が斗に出ること二歩ばかり、地から十丈絶れて川田村に臨み、名付けて東捨身という 。西の路は拝村に通じており、下ること六百歩、ここもまた石が斗に出ており、名付けて西捨身という 。草木が最も多く、芍薬、桔梗、百合、万年松などが出る 。九月十七日から十月朔日に至るまで、毎年市が立つ 。

種穂山:これも川田西村にある 。東の路は川田に通じ、西の路は拝村に達する 。並んで千八十歩登り、上に種穂祠がある 。

鼓山:種穂山の北にある 。その形は中が痩せて蜂の腰に似ている 。帯を引いて上郡、芳野川に臨み、川の中に怪岩が乱れ峙え、旋流が互いに闘っている 。

蒸窖:川田村の岡里にある 。風呂谷と呼ぶ 。貞治年間に置かれた 。

仏水:川田村にある 。水が最も甘美である 。公が駐駕した際に、これを汲んで献上した 。

禊川:源は高越山の南麓から出て、鹿庭渓を経て、苧原を過ぎ、西北へ銚子淵に注ぐ 。北へ流れて川田川となり、さらに北へ芳野川に入る 。

広瀬川:源は桁山の奥野から出て、中村山の北を距て、別枝山を経て、種野山を過ぎ、銚子淵に注ぐ 。長さは千八百歩ばかりで、すなわち川田河の源である 。

土器谷:忌部祠の東南にある 。古陶器が往々にして出る 。

日鷲渓:忌部祠の東にある 。古木が叢生している 。

方池円池:共に山崎村にある 。

棟樹:山崎村の道の側にある 。高さ二丈ばかりで、枝幹が四方に出て地に伏すこと八、九丈であり、往々にして地に入っている 。

忌部山:山崎村にある 。すなわち忌部祠が所在する場所である 。

石門:忌部山の東麓にある 。大石が乱生し高低が入り混じっている 。背後は竹林、前は水沢である 。石の穴の中に聖水があり、涸れることもなく満ち溢れることもなく、土人がこれを取って病を療治する 。

天狗嶽:山崎村の西にある 。

露谷:天狗嶽の下にある 。

権現谷:山崎の西南にある 。その下に枇杷木谷がある 。

叢雲瀑:枇杷木谷にある 。高さ一大余り、下はすなわち深潭である 。

雀嶽:学村の南にある 。林木が鬱茂し、中に石窟があり幽深で愛すべきである 。また石が独り起き上がっており大岩と呼ぶ 。宮島八幡祠の旧址である 。

伊加賀志:里の名で、桑村にある 。すなわち伊加賀志祠が所在する場所である 。芳野川を枕とし、その地はかつて大水のために蕩尽された 。

極楽壙:宮島八幡祠の北に六十七歩のところにある 。篠や簜が環生している 。村中が古朴であり、葬儀に浮図を用いず、塚や墓が無い 。死者はみなここに投葬する 。

壇下瀑:森藤村の康頼祠の上三十歩ばかりにある 。直下すること一丈五尺ばかり 。その水は甘美であり、大早でも涸れず、観望がすこぶる佳い 。

鬼界峯:山路村の南にある 。登陟すること九百歩ばかりで、今は堂床と呼ぶ 。平康頼がかつて観音像をここに安置した 。堂は廃され、その像は今は玉林寺にある 。また平坦な場所があり、名付けて鼓堂という 。

玉取山:山路村の東にある 。平坦であり、すこぶる佳景となっている 。

山路渓:山路村の西北にある 。

浦山:上浦山にある 。その麓を岡と名付ける 。大龍寺の廃址がある 。

王子壇:大龍寺の廃址の北にある 。高さ二丈ばかり、四方二十歩で、王子祠がある 。また古松が二株あり、その一つはすでに枯れ、鸛が巣を作っている 。下に石窟があり広さ六、七尺で、阿弥陀堂の廃址がある 。

上浦川:源は飯尾から出て、上浦に至ること一里半 。名東郡に至って御木寺川となる 。

八株松:上浦村の道の側にある 。俗に言い伝えるところでは釈西行が植えたものであるという 。思うに旧くは八株あったが、近時に存していたのは三株であり、一つは焚え、一つは転れ、一つは朽ちて、皆亡くなった 。

鸛山:上浦村の西にある 。山路、上浦、麻殖塚の三村に跨る 。巍峨として孤立しており、四方を望むと寛敵であり、風景は絶美である 。

氏族

天日鷲翔矢命:『新撰姓氏録』に「高魂命の孫」と云う。考えるに、『和名抄』に「この郡に忌部郷がある」とあり、日鷲命の孫が居た所である。『釈日本紀』に載せる忌部連の祖である。忌部祠はその遺廟である。

天毘和知可氣流矢命:『新撰姓氏録』に見える。思うに太玉命の族(一族)であろう。

忌部方麻呂:『続日本紀』に云う。景雲二年七月乙酉、阿波国麻殖郡の人、外従七位下忌部連方麻呂、従五位上忌部連須美ら十一人に宿禰の姓を賜う。大初位下忌部越麻呂ら十四人に連の姓を賜う。

忌部友主:正八位上。天長五年、御小安殿において従五位下三継王をして伊勢神廟に奉幣せしめる際、友主も与(とも)に行く。

忌部高善:神祇大佑、正六位上。貞観八年七月六日、応天門の火災の際、高善も与(くみ)してこれを祭る。

忌部社雄:正八位上。貞観六年閏三月十日、応天門ならびに左右廊の火災の際、社雄ら四姓の使を伊勢に卜定し、王を使として命を宣せしめ、中臣を主祝とし、忌部は奉幣し、卜部は後取りとなる。また例幣には中臣・忌部を召し、祈年祭に忌部二人、鎮魂祭に忌部五人、天皇即位・春日祭・十島祭・松尾祭・祈年祭・園韓神祭に並んでこれに与(あずか)る。十一月中寅の日、斎服を賜り、忌部五人はそれぞれ青布袴一領(を受け取る)。

忌部久家:『神祇伯仲資王記』に云う。建久五年六月十二日辛丑、還って氏長者に補される。その末裔の河村氏は元文年中に故あって出亡した。○大祝の時、忌部氏は荒妙(あらたえ)の御衣を上る。

宇留島元有:十郎平と称する。語るに、阿波の在庁で平氏に背いた者とはこれであるという。

平康頼:散位廷尉。後に服を釈(ぬ)いで僧となり、昭西と称する。文治二年閏七月二十二日、来て麻殖の保司となる。これより先、尾張において左典厩源義朝の墓が荒廃してるのを見て、田三十町を捨ててその徳に報いた。

平清基:左衛門尉と称する。康頼の子である。建久三年、弟の俊職と共に勤王する。平長時がこれを害して職を免じ、鎌倉で死す。正嘉二年九月、俊職は事に坐して鬼界島に配流される。

野三成綱:刑部丞、麻殖地頭。文治四年三月、康頼と共に内蔵寮への上貢をもって訟し辞す。また左衛門尉義式が『東鑑(吾妻鏡)』に見え、おそらくその子であろう。

三木重村:左衛門尉に任じられ、種野山三木に居る。南朝に仕える。正平七年、本村を賜う。二十二年、勤王に功があり、書を賜って賞される。正平・文応の文書若干通および匕首を蔵している。また文保二年の宣旨案を蔵し、時に荒妙の御衣を貢ぐ。忌部氏が大祝の時に例として荒妙の斎服を織るのもこれである。三木氏はどうして忌部氏ではないと言えようか(忌部氏であろう)。

三木宗時:帯刀と称する。重村の子。正平二十二年四月、勤王に功があり、阿波守為仲をして書を以て賞せしむ。文応元年十二月、上殿を許され、服を釈ぐも名を変えず。

三木太郎兵衛:おそらく宗時の族であろう。正平十五年八月、高西荘を賜う。出雲守と称する。時に口宣案が存している。

三木九郎兵衛:正平十八年六月、種野村の半分を賜う。

三木右衛門尉:宗時の後裔。観応二年七月、二戸を賜り、子孫は代々三木の櫧平名に居る。天正年中、丹生の大粟で賊を討ち、書を賜って賞される。

源賴有:細川右馬頭源頼春の次子と称する。かつて泉館に居たが、後に京師へ行く。

源元常:播磨守、また刑部大輔と称する。頼有の子。永正年中に京師へ行き、後に帰って川田で卒した。

平宗本:松家越前守、あるいは大浦と称する。相伝えて小松内府(平重盛)の末裔であるという。正平年中、南朝に奉侍す。五郎と曰い、弥三郎と曰い、少納言と見える。その後裔に長太夫があり、天正年中、渋谷安太夫に従って丹生山で賊を討ち、功があって五十石を賜り、代々里正となる。

藏:源公および正平年中の文書四紙を蔵し、今は分かれて二戸となっている。

平某:櫟原石見守、また市正と称する。瀬詰に居り、弓を善く射る。

藤原某:工藤丹波守と称する。また伊賀があり、並んで学村に居る。また甲斐守があり、敷地村に居る。その子が某、斎十郎と称し、その末裔は飯尾村に移る。

源綱眞:土肥因幡守と称する。初めは与七と称した。父の秀行は徳太郎と称し、讃岐の寒川郡神崎城に拠った。綱真は天文年間に来て川田の井上城に移り住む。三子あり、長男の房実は紀伊守と称し、次男の康信は出羽守と称し、三男の秀実は新右衛門と称して拝村に居た。天正年中に脇町で戦死した。房実に子があり庄五郎と称したが、城が陥落してすなわち京師へ去った。一説に、房実には二子があり、長男を秀実といい、次男を庄五郎といい、京師に仕官したという。川田村の里正である住友某もまた自ら房実の後裔であると言っている。

藤原昌教:伊予の人。土井因幡守と称する。父の昌吉は平八郎と称し、仏殿城に拠った。昌教はその第二子であり、来て川田村に居り細川氏に仕えた。その後裔の庸吉は紀伊守と称し、一に兵部大輔という。

藤原康信:土井出羽守と称する。初めは久左衛門と称した。房実の弟である。川田村に居り、友松を領する。子が某、伊賀守と称する。二子があり、長男は丹波守と称し、次男は備後守と称し、秦氏を隆んとする(または隆秦氏と称する)。天正年間に病死し、十二騎原に葬られた。

明石掃部頭:姓は源。別枝山の平名に居る。

片山岸右右衛門:姓は蘇我。天正十年に中富川で戦死した。美馬郡に蘇我塁がある。

橘紫雲:篠原弾少弼と称する。上桜城に居る。天正元年三月、従弟の自遁の讒言に遭い川島で老いる。六月、源存保がこれを攻め、退いて上桜城に入る。存保は進んでこれを囲むが、城が険しく抜けず、数ヶ月で食糧が尽き、妻子を紀伊へ逃れさせる。七月十六日の朝に出戦し、子の大和守と共に没した。大和守は当時十七歳であった。

角田某:姓は平。千葉平右衛門と称する。天正十年に中富川で戦死した。また源左衛門、孫五郎がある。

藤原某:河村左馬亮因幡守の子と称する。別枝山に居る。天正五年、藤原国方らと共に存保を立てることを議す。天正十年に中富川で戦没した。その後裔は今、民となっておよそ三十戸ある。また兵次郎源義賢の女婿がある。また左京亮がある。

源某:麻殖志摩守と称する。森藤村に居る。その先祖は脇町で戦死し、父の遠江守は勝浦郡の宮井城に拠った。その祖先は小笠原氏に出る。長房の次男・長親が宗長を産み、宗長が長胤を産み、麻続三郎と称して初めて麻殖を称した。末裔の孫は今、農民となっている。

鴨島六進:鴨島に居る。天正年中に脇町で戦死した。

三善某:飯尾久左衛門と称する。飯尾村、脇町で戦死した。子の善丞は天正十年に中富川で戦死した。

三善常房:飯尾彦六左衛門と称する。祖父の政常もまた彦六左衛門と称した。常房は書と和歌を善くした。天正十年の中富川の役で不利となり、存保はすなわち殊死(決死の覚悟)で戦おうとしたが、常房がこれを諫め、存保は退いて死を免れた。十四年の薩摩の役で戦死した。

平某:雅楽と称する。

源某:渡部原左衛門と称する。牛島原田氏の一族に居る。祠が原里にあり、その側に囲い松があって神戸松と称したが、今は枯れている。

根井伊賀守:陸奥の人。来て牛島の城内里に居る。後に宗室に嗣子がないため帰ってその禄を襲った。

岡田和泉守:紀伊の人。藤代の鈴木氏の一族。来て牛島に寓す。根井氏が地を割いてこれを与えた。男子が二人あり、長男を某、和泉と称し、次男を某、出雲と称し、上下島に居る。和泉の男子は三人あり、長男を某、蔵人と称し、次男を某、勘助と称し、三男を某、市丞と称する。蔵人の男子の治義は大阪城で戦死した。今その後裔は里正となっている。明和七年五月、丁役を免除される。

源某:乗島来心と称する。喜来村の島に居る。天正十年に中富川で戦死した。

源某:寄来備前守と称し、また川人とも称する。

楠囙幡介(楠因幡介):河内の人。永仁年中に来て学村の近久里に居る。文禄年中に上浦に移る。その後裔は今は処士であり、近久を氏としている。高町原に近久の祠があり、その祖を祀っているのである。

桑原某:上浦牛島に居る。片岡氏の一族であり、貞光菅原常景の嗣子となる。

佐藤最上介:出羽最上の人。その先は藤原秀衡から出る。天文年間に来て細川氏に仕え、麻殖塚に居る。男子が某、最上二郎伊賀守久右衛門と称する。および讃岐隼人佐なども皆その支流である。久右衛門は天正十年に中富川で戦死した。六世の孫にあたる子があり、喜左衛門と称する。慶長十九年、大毛山の狩りで猪が公の前に来た際、喜左衛門が進んでこれに当たり、遂に刺して殺した。公は書を賜ってこれを賞した。その後裔は森藤村に居り、農民となっている。

工藤伊賀:おそらく丹波守の族であろう。篠原紫雲に仕えた。

倉羅權頭:別枝山の倉羅塁に居る。

宗田肥前守:同じく別枝山の宗田塁に居る。

古井泉左衛門:別枝山の古井名に居る。

林翁九郎:別枝山の四林名に居る。

財田權頭:別枝山の城戸名に居る。

淺田出雲守:別枝山の日裏名に居る。

紀秀正:山田宇右衛門、十河讃岐守正存の後裔と称する。讃岐の牟礼塁に拠る。暦応年中に来て別枝山に居り、代々処士となっている。

藤原信濃守:桁山の信濃名に居る。その末裔はなお存している。

住友高貞:左衛門尉と称する。陸奥黒川郡早川村の人。来て川田に居る。その後裔は代々里正となっている。

梅津宗元:左馬允と称する。川井山に居る。その後裔は代々里正となっている。

後藤田牛丞:名西郡中島で戦死した。その後裔は桑村に在る。

竹田參河守:篠原氏に仕える。上桜の役で、その一族の株丞九郎兵衛と共に戦死した。

林道感:姓は源、名は能勝。初めは助蔵と称した。尾張の人。上林村に居り、因って林を氏とした。義仲の末裔である。初め今倉左馬助に従うが、蜂屋伯耆守に敗れ、のちに織田氏に仕える。松崎城に入って間諜(スパイ)となる。右府(織田信長)は賞して仁王正清の刀を与えた。五郎右衛門と改め、ついで図書助と称し、食禄五千五百四十石を食む。川島城を戍(まも)る。天正十五年、瑞雲公(蜂須賀家政)の西征に従い、根白の塞を抜き、草野十郎を獲る。慶長十九年、浪速寺の役に従軍し、年八十一であったが功があり、黄金百両を賜る。徳島城の完成の際、道感および武市常三は共に謀議に参与した。元和二年没、年八十三。男子の内膳が嗣ぐ。孫の某は病を告げて浪速に隠れる。後に召還され、その後も禄に仕えて絶えることはなかった。正清の刀は岡五郎が伝えて宝としている。

租税

■ 一萬四千四百八十二石三斗八升 元禄:元禄年間には一万四千四百八十二石三斗八升である 。

■ 一萬七千四十石七斗二升九合 寶曆:宝暦年間には一万七千四十石七斗二升九合である 。

村里

平:今は木屋平と称する。中を分けて三つの村となし、棟八と曰い、嶺田と曰い、平と曰う。名が五つあり、下名、森遠、谷口、太合、川上と曰う。

川井山:名が八つあり、竹尾、麻衣、川井窪、大北、乳木、南張、川井、窪と曰う。

中村山:名が十五あり、野脇、木中、二戸、南二戸、今丸、向、竹宅、荘屋、東、西巻山、北、谷、櫧平、奥、大宮と曰う。

三木山:正平年中は種野山に属していた。字は或いは「貢」に作る。名が九つあり、南張、本、市初、桑栖、葛尾、管蔵、櫧原、麻衣、竹尾と曰う。また谷が二つあり、辰口、二戸と曰う。

桁山:名が七つあり、大宮、高野尾、西岑、信濃、桁、小竹、奥地と曰う。

別枝山:名が三十二あり、穴地、井頭、古井頭、鍛冶屋、長五、城東、東、城戸上、下裏、枝河内、打火、鷹飼、長四郎、中屋、大神、上平、平、勘蔵、張、日裏、中古井、古井、倉羅、遠地野、四松、寺尾、宗田、市野、重尾、愛子、松尾、柳谷と曰う。

東山:旧くは樋山路村と称した。縦一里、横二里ばかりである。名が十七あり、小栩、大鹿、月野、上谷、野瀬、湯下、蛭子、中畠、中西、栗木、樋山路、栩谷、円山、立岩、中尾、木屋裏、来見阪と曰う。

種野山:種野山。

川田山:名が六つあり、峡背、楠根野、大張、苧原、久宗、奥井と曰う。谷が二つあり、鹿庭、奥野と曰う。

西川田:名が(空白)あり、川東、山路、島、井田、麦原と曰う。

東川田:天文年中より以前は一村で三十六名あった。天正十七年に村を分けて山となし、後に復た分けて東西の二村となした。

瀬詰:瀬詰。

山崎:山崎。

学:旧くは或いは吉岡と称した。支落(枝郷など)が一つあり八棟と曰う。

三島:三島。

桑:桑。

小島:小島。

山田:山田。

川島:川島。

宮島:宮島。

敷地:敷地。

西麻殖:西麻殖。

上下島:上下島。

森藤:森藤。

飯尾:飯尾。

中島:中島。

鴨島:鴨島。

内原:内原。

喜来:里が一つあり、乗島と曰う。

牛島:牛島。

麻殖塚:麻殖塚。

山路:山路。

上浦:上浦。

塚墓

■ 平康頼塚:森藤の林、康頼廟の側にある。また塚があり僧都と曰う。俗に言い伝えるところでは、俊寛が海島から至ってこの地に葬られたというが、何を拠り所としているかは分からない。

■ 林道感墓:川島の北城址にある。

■ 工藤伊賀墓:学村の城址にある。また石があり、高さ一丈余り、その像を彫っているが、天明の年中に析れた。

■ 市原造正塚:川田村の加久名にある。三吉塚と呼ぶ。

■ 荒墳:川田村に若干ある。大きい者は四方一丈余り、小さい者は六、七尺である。また猿塚と呼ぶ者がある。

■ 細川元常塚:井上城の西南百八十歩ばかりのところにある。四方四尺である。

■ 金昌塚:川井山にある。塚の上に古い椴樹がある。

■ 梅津左馬亮墓:川井山の窪名にある。

■ 飯尾氏墓:飯尾村の報恩寺にある。

土産

■ 蓼藍:国が始まった当初に播磨の飾磨からこれを呉島に移植した。

■ 冷滑石:上浦の温石谷、森遠の風呂谷に並んで出る。

■ 禾(稲)

■ 麦

■ 麻

■ 楮(コウゾ)

■ 渓鰛:昔、忌部氏がこれを貢いだ。

■ 杜父魚:郷名は烏識努私皮多、また獨婆珂という。この間の土人は食べない。

■ 革■甲:杜父魚に似て色は浅黄、善く鳴きその声は清亮である。腹に肉があり臍のようであり、動いて石の上に貼付く。錦襖子とは異なる。

■ 革奈骨及:すなわち郷名である。また骨魯吉々とも呼ぶ。色は赤く、首は大きく、鬚があり鋸のようで、長さは一寸五分ばかり。おそらく杜父魚の類であろう。

■ 玉買西:すなわち郷名である。長さは二寸に過ぎない。背に間道(縞模様)がある。

■ 小泥鰌:郷名は奈別一吏。また索々毒■羊鳥ともいう。泥鰌に似ているが少し白く、黒点がある。

■ 安一甲結:すなわち郷名である。鯊魚(ハゼ)に似て少し白く、点および刺がある。

■ 索坐美識羊鳥:すなわち郷名である。渓流の産であり、鯢魚(サンショウウオ)に似ている。

■ 雉(キジ)

■ 鹿

■ 兎

■ 狸

■ 松

■ 茶

■ 煙草

■ 釘石

■ 黄連:川田村から出る。

■ 赤土:東山から出る。

■ 猪

■ 鷮(ヤマドリ):和名は羊買獨吏。

■ 栗

■ 柞(イスノキ/ハハソなど)

■ 蕎麦

■ 芋

■ 猿

■ 苧(カラムシ)

■ 蕨(ワラビ)

■ 薇(ゼンマイ)

■ 薯蕷(ヤマイモ)

■ 蒟蒻(コンニャク)

■ 甘藷(サツマイモ)

■ 牛:平村から出る。

■ 雲母:山路から出る。

■ 桑

■ 牛皮消(ガガイモ):剣山から出る。

■ 異産

■ 石鶏:郷名は革■甲。川田から出る。カエルの類で、すなわち錦襖子である。脚が長く、声が美しい。万葉集に詠まれているもの、および井堤の蛙も並んでこれである。

■ 製造

■ 絹:新猿楽記に見える。所在(あちこち)で出るが、色は佳くない。

■ 紬:所在で出るが、これもまた佳くない。

■ 紙:およそ六品ある。尺長と曰い、中折と曰い、伊賀と曰い、仙過と曰い、七九寸と曰い、黄煎と曰う。皆、生紙である。

■ 麻布:延喜式の貢物に麁布がある。

■ 草綿布

■ 間道草綿布

■ 繭綿:その類は三つある。一つは家蚕(飼い蚕)が吐くもの。一つは野蚕で山繭と呼ぶもの。その糸は強靭で久しい使用に堪えるが、染めても色が付きにくい。その虫は長さ二、三寸で淡黄色、柞の葉を食べる。一つは桑蚕と称し、桑の樹に生じ、長さは一寸ばかり。糸が最も強い。

土田

■ 木屋平:陸田(畑)が百三町九段二畝、水田が八町四段五畝。

■ 中村山:水田と陸田を合わせて八十一町。

■ 三木山:陸田が百三十二町四段七畝、水田が二町七段一畝。

■ 桁山:陸田が二十町七段九畝、水田が八段一畝。

■ 別枝山:陸田が九十町六段三畝、水田が十六町。

■ 東山:陸田が全体の十分の七、水田が全体の十分の三で、合計六十三町。

■ 種野山:等級は中・下で、陸田が全体の十分の七、水田が全体の十分の三で、合計二十町。

■ 川田山:水田と陸田を合わせて八十一町。

■ 瀬詰:上等の陸田が全体の十分の三、中等の陸田が全体の十分の二、下等の陸田が全体の十分の二、水田が全体の十分の三。

■ 山崎:中等の陸田が全体の十分の五、水田が全体の十分の五。

■ 学:中等の陸田が全体の十分の九、水田が全体の十分の一。

■ 三島:陸田の等級は中・下。

■ 桑:上等の陸田が全体の十分の四、下等の陸田が全体の十分の五、水田が全体の十分の一。

■ 小島:陸田の等級は中・下。

■ 川島:中等の陸田が全体の十分の六、水田が全体の十分の四。

■ 宮島:陸田は中等。

■ 森藤:中等の陸田が全体の十分の三、下等の陸田が全体の十分の三、中等の水田が全体の十分の四。

■ 麻殖塚:中等の陸田が全体の十分の九、水田が全体の十分の一。

■ 上浦:中等の水田が全体の十分の三、陸田が全体の十分の七。

仏刹

■ 龍光寺:平村の谷口名にある。平安の大覚寺に隷属している。旧名は長福寺。大永二年に再建され、享保二年に現在の名に改められた。剣山からそれほど遠くないため、剣祠を祀っている。

■ 成願寺:同じく平村にあり、龍光寺がこれを摂(管理)している。

■ 廃願成寺:同じく平村にある。現在は小さな庵があるのみである。また廃神宮寺があるが、今はただ墳墓のみがある。

■ 大悲閣:同じく平村の谷口名にある。大御堂と称する。古杉があり、その大きさは郡中比類がない。梁の銘が存している。

■ 廃蓮華寺:川井山にある。今は小さな堂があり、観音像を安置している。また廃万福寺があり、今は小さな堂がある。往年、土人が地を穿って鏡一口を得た。銘に「明応五年七月十三日 種山法恩寺」とある。

■ 法恩寺:また廃龍華寺があり、草庵に釈迦像を安置している。側に花櫻があり、帰化人が植えたものだという。鎮守祠があり、また廃願成寺があり、今は小さな堂に阿弥陀像を安置している。また廃万福寺があり、今は小さな堂に不動像を安置している。また東坊・西坊があるが、皆、田となっている。

■ 善福寺:三木山の谷名にある。川田の明王院に隷属している。

■ 極楽寺:三木山にあり、同じく明王院に隷属している。里名は麻衣。俗に伝えるところでは、昔、貴女が乱を避けて至り、自ら織って食を得たという。

■ 眞福寺:中村山にあり、同じく明王院に隷属している。また廃西福寺がある。

■ 廃東光院:桁山にある。

■ 十樂寺:別枝山にあり、明王院に隷属している。また廃法樂寺があり、今は小さな庵がある。廃瑞巖寺があり、今は小さな堂に阿弥陀像を安置している。

■ 圓住寺:造隷佛光寺とある(※「佛光寺に隷属する」の意と解釈)。

■ 醫光寺:川田山にあり、平安の大覺寺に隷属している。旧名は東光寺。また大坊があり、土肥房實の肖像がある。また大悲閣が四つあり、一つは久宗名、一つは峽背名、一つは大張名、一つは奥井名にある。

■ 明王院:川田西村にある。貞和年中に土肥氏が香火院とし、田若干を寄進した。堂があり、地蔵像を六体安置し、眞言を修行している。

■ 引接菴:同じく川田西村にあり、明王院がこれを管轄している。

■ 高越寺:同じく川田西村にある。空海が建立したと伝えられ、広々とした伝承がある。後に宥澄がここに居り、龍嚴の徒弟となった。平安の大覺寺に隷属している。建久七年に右大將源賴朝が釆地を賜い、文治六年四月に伊勢神祠の造営料に充てた。延元二年に大將軍源尊氏が改めて賜い、正平十五年に高越莊内の西莊を賜い、山を貢いだ。三木兵衛尉と永正五年に源元常が重造した。梁に銘がある。国が始まった当初に命じて重造させた。元禄三年正月に火災に遭い、五年後に命じて吏に造らせた。伊弉諾祠、藏王祠、熊野祠がある。所蔵品には般若心經一卷、大般若經六百卷(第六卷は散位大江成基の女紀氏の寄進。第十七卷は紺紙金字。第五十卷は保安三年に僧圓範が書いたもの)、不動像・摩利支天像二体がある。瑞雲公(蜂須賀家政)が賜った涅槃像がある。慶長三年平正家が損した金口(鰐口)一枚がある。文明二年四月二十七日に釋了圓が書いた金額一枚がある。旧支院は十二あり、護國院、釋迦院、彌勒院、小角院などという。

祠廟

忌部祠:延喜式において名神大社とされ、月次祭および新嘗祭には並んで祭祀が行われる。あるいは麻殖神とも、王子権現とも称されるが、すなわち天日鷲命のことである。神祇式の阿波国司祈雨神二座には「大麻彦」、「天日鷲」とある。山崎村の忌部山の上、百歩ばかりのところにあり、その址は厳として存している。土人がかつて地を穿って、長さ二尺二寸ばかり、重さ三十六銭の剣および古鏡、祭器を得た。『続日本後記』に云うには、嘉祥二年四月乙酉に、従五位下を授けられた。『三代実録』に云うには、貞観元年正月二十七日甲申に、五位上を授けられ、元慶二年四月十四日己卯に、正五位下を授けられ、七年十二月二十八日庚申に、従四位下を授けられた。『日本書紀』に云うには、天兒屋根命が天香山の真阪木を握って上枝に鏡を懸けて作り、遠祖の天抜戸兒が凝戸辺を作った八咫鏡、中枝に玉を懸けて作り、遠祖の伊弉諾尊が天明玉を作った八阪瓊之曲玉、下枝に天日鷲が作った木綿を懸けた。『古語拾遺』に云うには、天日鷲命の孫が木綿および麻を作り、布を織った。そのため天冨命に天日鷲命の孫を率いさせて肥饒の地を求めさせ、阿波国に遣わして穀と麻の種を植えさせた。その裔は今もその国に在り、大嘗の年には木綿、麻布および種々の物を貢いだ。そのため郡名を麻殖とする縁起である。また云うには、天日鷲神が津咋見神の穀木の種を植えて白弊(シロヌサ)を作った。この弊帛は木綿である。今、本郡および美馬郡等の山谷の民は、皆、穀布を衣としているが、おそらく古の遺俗であろう。また云うには、太玉命が率いた……(※原文途切れ)。

八幡祠:三木山に二つ並んであり、宇佐と称する。一つは本名にあり、一つは櫧原名にある。また明神祠があり、これもまた櫧原名にある。また八幡祠が葛尾名にあり、龍王八幡と称し、剣二口と錫杖を蔵している。

大篠龍祠:二つの祠が並んで相対しており、桁山の大篠山にある。眺望が最も佳く、婦女を禁じている。また八幡祠、熊野祠、加茂祠がある。

八幡祠:別枝山の平名にあり、享徳三年の梁の銘がある。また八幡祠が二つあり、一つは宮倉名に、一つは宗田名にある。

八幡祠:東山に四つある。一つは湯下名にあり呉石と称する。一つは宮平里にあり上宮と称する。一つは小栩名にあり、一つは大鹿名にある。また新田祠が小栩名にあり、その主は源義宗である。

八幡祠:種野山にある。また稲荷祠、天神祠、白山祠がある。また蔵王祠、牛頭祠があり、並んで麻絹名にある。

白人祠:川田山にある。二つあり、一つは峡背名に、一つは楠根地名にある。また岬祠が峡背名にあり、王子祠が二つあり、一つは楠根地名に、一つは大張名にある。

種穗祠:川田村の種穂山の上にある。あるいは天種子命であるという。『旧事記』には種岐命とある。元文中に山﨑貞光と雨村の祠官が合争(争論)し、忌部祠(の祭祀権を争った末に)、遂に命中川式部をしてここに祭らせた。

八幡祠:川田村にあり、建久八年、嘉元三年の梁の銘がある。その重造した者は、嘉慶二年源頼有、永享十一年源教春、天文二年源元常、元亀元年土肥秀實であり、奕世(代々)絶えることがない。筆、あるいは雩(雨乞い)のときは戴き……(※原文途切れ)。

荘名

■ 高越寺莊:建久年間から永仁年間の間、川田村、川田山、中村山の三村を高越寺莊と称した。

■ 小島莊:今は廃されているが、小島村が存在する。池大納言(平頼盛)の所領である。恐らくこの大納言は、平清盛の異母弟であり、刑部卿平忠盛の第五子である。従二位権大納言に叙せられた。文治元年に出家して重蓮と称し、翌年に五十五歳で薨じた。寿永三年四月五日、上皇が淡路の由良や阿波の小島莊など、あわせて十七所を賜った。源頼朝が請願したものであり、故池禅尼の恩義に報いるためである。

■ 山田莊:今は山田村が存在する。『吾妻鏡』に見える。