麻殖郡風土記 郷土資料解析

編纂の背景と基礎情報

編纂掛 久富永治郎 編纂年 明治6年以降。

早雲高古、梶真悦、守住貫魚等により編纂が進められ、未定稿であった「廻在録」を活用。

地図

麻殖郡の郷村の構成

この麻殖郡は根元 延喜式、又和名類聚抄等にも四郷に分かれ、呉島(久礼之満)、忌部(伊無倍)、川嶋(加波之満)、射立(伊多知) 右の如く見えたれども、今の世には、麻殖郡村数は以下七村「山呉島」上浦、山路、森藤、飯尾、中嶋、敷地、山田

以下七村「野七里島」なり。

牛乃嶋、麻殖塚、喜來、鴨島、上下嶋、内原、西麻殖。

宮の島、川嶋、桑村、東山、学村(古名吉岡村といいしなり)、児島(古名は小島、又は松島といいしなり)、三ツ嶋以上七村は川島郷なり。

山崎、種野、別枝、三ツ木、川井、木屋平、南張(ミナミバリ)を入れ忌部郷、七力村とす。

以下を射立郷とす。

瀬詰、東川田、西川田、川田山、桁山(ケタヤマ)、中村山、(拝村を入れ七カ村)。

都合三十三カ村(南張、拝村を入れ三十五村)。

【欄外註】射立郷と拝村についての考察

以下瀬詰村の枝村を湯立と云う。

根元の射立郷の残りなりとぞ。

この内、瀬詰村の枝村に湯立名という地あり、この郷名射立の射と湯との五音の誤りと古き言い伝えあり。

これ射立一つの村名なるや。

高越神社の西に拝村と言う村あり、この村 今は美馬郡に属す。

しかしながら根元これは、麻殖郡の内なりという。

今も川田村八幡神社の産子にて祭礼の神輿は、この村の人民会せされば神霊の輿移りこれなし。

又高越の社もこの村同断の氏神なりけん。

この二村を添え三十五村なりしと思いけらしぬ。

然るに、いつの世のかは郷名は消えうせ射立の号も湯立と変じ、拝村も美馬郡の内へ属しぬるにや。

古文書における三十五村と郷名の消長

中昔の古き写本に麻殖郡三十五村とあるを見及びたり。

なお高貴の御蔵書について見ばやと思いけらしもせめ。

然るに四郷の内、忌部神御鎮座ありせしは、忌部の郷なりしと思いはべれど、その忌部の地いずれの村名なるや。

これまで朝廷にも、はた国君にも御穿鑿(せんさく)あそばすといえども、定めがたきは、物変わり、星移り大社の跡も大破に及び、は人欲の私ゆえに村々奉仕の神主共、官社の御居りになれば、社領の御恵みも蒙りなんと思い、往古より称し来たる神号相応ならぬ祭神なりと、恐れ多き県庁の御前を偽り、聖眼を翳り奉るは、重罪た。

これゆえに憲明の愚昧の案に曰く、川島の郷は、今なおある川島を、その郷の名の残りと見る。

はた射立郷は、瀬詰村の内なる湯立を郷名の残りと見る。

呉嶋郷の比定と唐人(カラフト)の伝承

呉嶋は、昔より世俗の言い伝えの如く敷地村なる河邊八幡の下より流れ出る谷河を呉谷といい、その谷の流れは飯尾村の北に至りては呉川と言い伝え。

はた応神天皇十四年百済弓月君(秦王瀛政の裔功満王之子)其の族を率いて帰化し、諸郡に分置して、養蚕、組織女工を貢す。

その女の名を呉織漢織(クレハドリ、アヤハトリ)、又呉羽綾羽(クレハ、アヤハ)とも称号したるよし、国史にみえたり。

この女工 秦(ハダ)氏にて、秦国の流裔なれども、世俗震旦の国を唐(カラ)という。

この女工の支流の者、 飯尾村に置たまいし、言い伝えあり。

その居所を唐人(カラフト)と称して、その号今の世にもなお残り、其の所の北に沿いたる川流れを呉川と云うなり。

かくあれば敷地村なる呉谷より北の方へ見通すれば西麻殖村の中ほどにあたるや。

しかればこの地より東は、皆悉くに呉嶋の郷ならん。

しかる時は、三十五(三十三)ヶ村の内、十四ヶ村は呉嶋の郷と見る。

陰陽五行説に基づく郷割りの考察

これによって憲明案じて曰く、前条本郡、三十五ヶ村の内呉嶋の郷十四ヶ村、その余三郷にて二十一ヶ村なり。

然れば一郷七ヶ村なり。

この理を考ふるに、皆七ヶ村なるに呉嶋郷のみ二七の村数なるはいかんと、諸の書を閲する中「和語製作字解」という文中に「野七里、山七里」という文字を「野くれ、山くれ」と読みたるなり。

然なれば、山に添いたる七ヶ村は山七里(クレ)にて、川に添いたる七ヶ村は、野くれ(七里)ならんと思いはべる。

かくの如き一郷を七村宛に分けたるは、神は陽徳、仏は陰徳なり。

ゆえに神代よりの事なれば陽を尊ぶの理か。

また案ずるに、この郡南は山岳、北は河水なるは陰地なり。

陰と陰を重る時は万物発生せず。

故に郷の庄数を陽の数にて結びたると思いつべし。

たとえば天は陽にして、地は陰。

男は陽にして女は陰、昼は陽にして夜は陰。

これ異国の聖人曰く「陽は高明なり、水飲の二気天功を営む。

万物を明かに、此れを陽という。

釈名に曰く陰は蔭なは青陽たり。

注曰く気は清にして温なり、日は太陽たり。

山東は朝一陽といい、山西は夕陽という。

陰は陽の対なりと釈たり、また南山より流れ出る渓水 この郡は皆南より出で北に往き。

また、東に往り。

陽は楊なりと。

陽気は外に在りて発楊す、また雅に曰く四時春く。

南は陽、北は陰、東は陽、吹より出たるは陰に往き、陰より出たるは陽に往くは、日の徳は火の魄、月の徳は水の魂。

水なければつくりもの生ぜず。

火なければ生じても実のることなし。

南山の水は火の知恵と水の信実(マコト)と合して東の方に往き、海水に治るは、離を南とし、坎を北とす。

少陰少陽の水火交わって震の東なる大海に入り、東方の木気北方の水のために育てらる。

易に日く震は肝なり、肝の蔵は才知とす。

その東方の風気貫徹する故に、産物即青藍を生ずるなり。

離の智の坎(カン)の信に合うて、才気を生ずる故、この地の人は、皆才気駸々(シンシン)たる見あり、この方徳を蒙る故え蒼生頓福頓貧なり。

隣国讃岐の如きは南山より出でたる水は、北海に治る。

故に坎の方は、西と乾の方 金徳の生を受るにより、金の色は白く、依って綿、米の如き白色の物 物産するなり。

蒼生(タミ)も義心厚く信実なりと云々。

依って富も長く、貧も長きは、水の徳は長しと聖人の語ありけん。

ああ誠に陰陽五行の理は感ずるにたえたり。

これ故に忌部神の定めたまいしか。

はた中古の先哲の定めたまいたるにや。

一郷を少陽の数の七村宛に組み合したると思いけらしもせめ。

神霊の功績もて後世の人の為を思し召しての事ならんかし。

麻殖郡郷分略図

呉嶋(南山に沿いたる七村は薄黄色、これは山七里 ヤマクレと訓するなり)

同(北河に沿いたる七ヶ村は黄色なり、これは野七里 ノクレと訓するなり)

川島(赤色七ヶ村なり)

忌部(白色七ヶ村なり)

射立(浅黄色七ヶ村なり) 合四郷 三十五ヶ村なり

種野村の地名と旧跡

地理的背景と変遷

【種野村 地名のこと】この村 東は東山村。

南は別枝村。

坤(ヒツジサル)の方は桁山村。

間に川あり。

西は東川田村。

北より乾(イヌイ)の方は瀬詰村の枝名 長尾なり。

北より北東は山崎村。

この村、只今は小村にて民家百軒に過ぎず。

しかし往古は木屋平までも種野村の内なりとて、「正平18年6月朔(ツイタチ)種野村の内 三木(みつぎ)半分、相違あるべからざる旨 仰せによって執達 件の如し。

三木九郎兵衛殿 阿波守 為仲 奉」。

三ツ木山村三木貞太郎者方に此通の御奉書此れ有りければ、南朝の年号「後村上天皇御即位十一年己丑(キノトウシ)」より、当「明治六年癸酉(ミズノトトリ)」迄五百二十五年に相成り、この時は種野山の内なりけん。

この村より別れたる故に、別所と云いしが、後年種野村の枝村なる故、今は別枝村となりたると思いぬ。

この種野山より東に当る故、東山村と云い、又山を越えて前(サキ)なる故、山サキ村と云う。

この村が本村ならんか。

此の村に北の城が丸と云う地名あり。

忌部神御在世の御座所と云う。

種野村内の各地名と伝承

ひじり名:秘羽目神社の跡なりと云う。

小祠あり。

東名と云う地あり、又此の小名に橘名と云う地あり、但し民家一軒を云う。

又同所、仮屋と云う地名あり。

稲荷神社祭礼に仮屋を営し所と云う。

稲荷神社と神事

稲荷神社:同所に在り 祭神 左倉稲魂命 中央雅産霊命 右保食命。

祭日:初午日 6月12日 9月12日 2月午日を稲穂の神事と云い、初午と云う。

氏子の者は鏑流を曳くなり。

今は御年貢地と相成り候えども、往古は免許地なりしが、旧御給人稲田九郎兵衛殿検地あり、差し替えになり、今は社辺に水田一畝十二歩御免地になりありぬれども。

今も其の地に稲作りしを、白木の棒に荷い社の中に納め置き翌年二月神事に産子の者奪い取りにして、苗代田に蒔きぬれば、能く実るとの云伝えなり。

往昔は七間四面の宮居なりしが、土佐の長曾我部の乱に焼失して、今の社は玉殿は一間四方茅葺、拝殿は二間梁三間 桁行なり。

此の神霊 樫の葉に乗り天降りたまいしとて、其の辺に樫の葉と云う字(アザナ)地あり、影向石(ヨウコウセキ)と云う大岩あり、社と樫の葉と云う地との間を流れる谷河を逆瀬河と云う、此の所より弐百五拾間下に小種と云う字あり、是も水田なり、其の上にある石を小種石と云う。

尤も下は及び掛かりたる石なり。

其の下に涌泉ありて水涌き出るなり。

旱魃の時も絶ることなし。

先年大旱魃にて山分の田生ぜざるとき、此田の稲の籾 十山(山村十ヶ村なり)にひろめたる故、小種と地名を呼ぶとなん。

且又田地の水持ちあしき田には此の田の土を少し入れぬれば水よく溜まるとなり。

種野村の各所

樂田(ガクダ):此の地は天日鷲命 神楽、舞楽あそばし候と言伝えなり。

亦稲荷社十山分の惣氏(神)なりし時の楽をなしたる所とも云う。

いずれが是なるや否。

日開谷:稲荷神社の東より流れ来る谷川を云う。

此の辺の田地に蛭多く住むと雖も人を食わず。

明神の神徳なりと云う。

坪井谷:日開の水上なり。

旱魃の時 天乞祈祷に此の水供え祈るなり。

其の時に読み上げる歌あり。

氏神の恵みも深き坪井谷 雲の包(堤)て瀬いて降らせよ。

麻緒(オカジ)と云う地あり。

坪井谷より四五町程戌亥の方に当りたる所なり。

天日鷲神命 麻緒の種を蒔きたる所と云う。

其れより種野村の号となりたるなり。

城が丸と並びたる土地なり。

此の地は今に肥物ならぬと也。

宮田(ミヤダ):此所も前に並びたる所にて、是も忌部の神に由緒あるの地なりと云々。

鬼が城:此の所は枝名(エダミョウ)と云う所なり。

其の地に民家二軒あり。

鬼が城は大丸、小丸と云う山河の中へ突出たる岩山なり。

此の家の前にて諸木生い茂りたるなり。

黒河と云う地あり。

黒川神社と云う小祠あり。

村中の氏神なり。

其の並びに赤岩と云う地あり。

墓の平:此の処に石の盛り上がりたる大いなる塚あり。

忌部の陵なりと言伝えあれども、正跡とは見受けず。

小谷:此の所は南名と云う処にあり。

此の所に大石田(オオイワダ)と云う田地あり、此の田 旱魃の時のいわれに、一丈四面の大石なり、此の下より出水滴り、其の所に菖蒲と芦と自然に生じ、掘り取り置くといえども又必ず生えるなりと云う。

府内(フナイ)と云う地あり。

峯の岡の地並びたる所、此の処に立石あり。

辰巳(タツミ)の角は楢(ナラ)の木と云う字にあり。

未申(ヒツジサル)の角石は立石名にあり、戌亥(イヌイ)の角石は宮田名にあり、丑寅(ウシトラ)の角石はケナシ名にあり、此の所を別府とも云うて、 忌部氏の人住居せし処と云う。

土置(ドイ)の奥:昔の世 土器に焼く土を練たるなりとの言い伝えにて、東山村より流れる川の辺りなり。

大峯:此の地の下を峯の岡と云う、府内の地に並びたる所なり。

赤井と云う処あり、何もいわれはなし。

土御門上皇の伝説と旧跡

烏帽子取:此の地は山崎、種野、東山、学村、四ヶ村の堺にて山の平らなる地五六十間に二百間程の平地にて、紀伊の国、和泉の国迄も見晴らすの景地なり。

此の所のいわれは土御門上皇 此の山に行幸あらせたまいし時、玉体にめされたる鳥帽を、大風吹き来たり、取られたまいしと云う。

其の時天地暗夜の如く黒雲霞鍵(アイタイ たなびくこと)たり。

東西も弁ぜざる程なり。

其の時異形の鬼神顕然(アラワレ)たり。

忽ち雲晴れ渡る時、御烏帽子前書の平地中央に登り十間程なる小山あり、盆上に葬(ナズナ)の花をうつぶせに置きたる形なり。

其の上に大石あり。

其の上に御烏帽子の止まりたり。

右の鬼神は大山祇の神の垂的場と云う場所あり。

悪魔降伏のため射させたまうとなり。

跡なりとて、祭祀なさしめ給う今も烏帽子岩と云あり、此の上に「おおやまつみ」山をつかさどる神、伊弉諾尊の子。

小黒江(コクロゴリ)と云う地あり。

この所は何もいわれはなし。

南城が丸:この山の南へ下りし所に五六七反余の平地あり、礎の跡あり。

細川持賢の居城跡なりと云う。

此の処先年開拓せし時東名と云う所の岩五郎在の父惣左衛門と云う者、箭の根を掘り出したり。

其の矢の根鳫俣四寸もありしよし、聞き及びぬ。

種野村の神社と神職の系譜

八幡神社 祭神 仲哀天皇、譽田別命、神功皇后 正月六日弓始め三度的執行仕り来り候。

6月13日名越祭 9月13日鏑流七十五膳献上仕来ぬるよし。

是則ち七十五神相添え祭り申すよし。

御殿茅葺、一間梁、二間桁行なり、幣殿一間半四方、第十四代天皇在位192〜200年。

第十五代天皇 応神天皇の別称 在位270〜310年。

仲哀天皇の皇后、応神天皇の母。

拝殿二間三間瓦覆 華表(トリイ) 一宇。

宝物 長刀一 無銘、振銘 吉光。

神輿 一宇 振り、懐剣一。

馬場 三間に七十間。

社地 東西十八間 南北十一間。

旧御給人 稲田九郎兵衛殿 御免地 畠二畝十二歩。

右村神主家系の事:根元は神宮司仲と申す者にてありしが、土佐守長曾我部元親の逆意に依りて、神社同時に焼失に及び、その後死亡打ち続き女子壱人と相成り神役相勤め難く、依って産子の者(長宗我部元親の懐剣)申し談じ別枝山神主松田清雲の男右京太夫と申す者養子となり、神事遷宮仕り候処、その後同家より、信濃二男養之進と申す者相続仕り神宮の姓を去って実家の姓松田と相改め唯一神道にてありしが、その後「享保7壬寅(ミズノエトラ)年」より、滅罪の僧同郡山崎村真言宗 西法寺導師と相成り御流神道に相成り居り申す処、猶亦こたび王政復古 御一新に付き唯一の宮と相成り、有難き仕合せのよし申し出なり。

天満神社 祭神 菅原神(山崎忌部神社の西方にある)。

御殿 三尺四方 板覆。

拝殿 二間に三間 桁行茅覆。

祭礼 正月6日 6月13日 9月13日 毎日二五日 産子の者参詣致し候。

小祠の事

八坂神社 祭神 素戔嗚命

黒川神社 祭神 彦龍命

黒川山神社 祭神 大山祇命

聖神社 祭神秘 羽目命

若宮神社 祭神 仁徳上皇

宮田山神 祭神 大山祇命

白山姫神社 祭神 同断

箱石山神 祭神 大山祇命 右祭日 惣而正五九月七日

此の村は十山入口の村にして商法の人多く、里村に近き処にて、又民家の者は松、橡(クヌギ)、柞(ハハソ) その他雑木の薪を伐り出し牛馬の背に駄して活業甚だ多く、産物は藍、米、麦を始め、其の外雑穀皆生じ土地の地味よろしく、膏腴(コウユ)にて貢物も格別に多分。

然るにてもなければ渡世甚だなし安く、且亦東西南北とも廻り悉く山林にて暴風もなく、是故に村中豊穣にて至極上々の村なり。

右諸作物の能く熟する土地なるを、天日鷲命見定め給い、初めて麻緒(オカジ)を殖させたまうものならん。

神位の尊むべき炳然は言語につくし難しと云う。

山崎村の地名と旧跡

忌部郷の由来と諸説

【山崎村 地名の事】此の村麻殖郡忌部郷の入口にて此村の名の起源を釈るに、色々後世の説あれども先一には忌部の神 種野山村城が丸と云う所に御在世ありし頃よりの言伝えに曰く、南は種野村、未申(ヒツジサル)より北まで瀬詰、丑寅(ウシトラ)は吉野川の沙漠にて、東は三ツ嶋村、辰巳は学村なり。

種野山より山を越え前(サキ)なる故、山さきと云いたりと云う説あり。

又二ツには「阿淡郡庄記」に曰く瀬詰村の東南の山を忌部山と云う。

9月23日の夜 当山に登り、月を拝すれば、月輪五体に見ゆるとあり。

又同出山崎村の部には当村忌部山大社の西に谷あり、此の谷を日鷲谷と云い当国第一の旧跡なりとある。

猶此の山上に三社名と云う処あり。

其の上の山林の所を さいき原と云う。

此の所一円松林にて近年迄ありしが、其の所先年忌部大社盛大なりし時、神事御供え等を焚く薪を此の所より伐り出したる跡と云えるなり。

是故に山斎木(ヤマサキ)と唱えしとも云う。

又三ツには恐れ多くも人皇第八十三世土御門上皇 土佐国より此の阿波国へ鸞輿(ランヨ)を移され給うの時、種野村藤ヶ峡(フジがタヲ)に出されける、其の時芳野川洪水にて平地の村々皆水辺に相成り、此の村の於騰山(オドヤマ)天王の岬 川中へ突出たる躰 海中の嶋の如くに見えし故土民に御たずねの時山崎と仰せられしとも云う。

其の諸説何れが是なるや只土俗の云伝えのみにて何も古書になければ弁へかたしと云々。

山崎村内の各地名と伝承

土師(ヒジヤ):字なり。

此の所は日鷲谷より二丁程西に城と云う処あり。

其の南の山の麓に古き昔、土器を焼出したる所なりとの、土俗の云伝えあり。

近き頃此の所を開拓せし時釜所を掘り出せし事て諸方の風流を好める人、茶器などに焼くとて、土を取りに来るあり、其の下に土を掘りし跡あり。

此の土 土器に作るによしと事、毎度なる故、田主の者其の土取場所を今は埋め隠せりとぞ。

市場(イチバ):此の所は只今の日鷲神社の処より四丁西に当り市筋とも唱え、市場とも唱える所あり、中昔の頃迄は2月23日に市あり、9月23日にも市をなせしなり。

此の忌部山の月見の夜にて諸方より群集せしなりと云う。

然るに寛永の頃より此の市を日鷲神社へ引き取り、7月26日の夜市となる。

月見の市と云いて諸方より群集して、只今にも数千人徹夜して月を拝するなり。

此の市場の所には今は小祠のみ残りてあり。

しかしながら地面二畝程の塁地無年貢地なるは往昔より御免許地の残りか。

その外は民人の住居となりて、家数参拾軒程の所を皆市筋とも、も云うなり。

此れたしかなる古跡なりと思いぬ。

馬場:此の所は天村雲の神社より北へ四丁の間、直道(真直な道)にて、昔時神御代の頃、天村雲命、御一名は射立神(イタチのカミ)、天二上命(アメのフタガミのミコト)、亦後小橋命(ゴコハシのミコト)、天日鷲命亦の名天日鷲翔矢命(アメのヒワシカケルヤのミコト)、亦の名天加奈止美命(アメのカナトミのミコト)、此の二神の馬に乗り、又弓を射などなしたまいたる所と云う。

此の馬場の東手の畑を宮の北と云う。

其の畑中に根元は一町程の矢竹の林藪ありしを畑主の者開拓して、今は半間四方程になりて、矢竹は生えあり。

此の畑主墾寄(ハリョセ)たるを、大いに大病するよし、云伝えあり。

其の故にや今も矢竹の林残りあるなり。

此の馬場より東に崇敬社八幡宮あり。

其の宝前に矢磨石と云うあり。

前件の二神 矢を磨たまう石なりと云々。

吉倉:比は忌部神社の領知米を納(イレ)し倉なりと云う。

御倉(ミクラ)とも云う。

亦倉坪(クラツボ)とも云うなり。

其の云われを尋ぬるに石にて積み立たる一ツロの窟なり。

和名イワヤと云う。

土屋(ドヤなり。

地を掘り石を積みて造りたる倉にて、古は窟に住家せしなり。

其の時節に作りたる物と見えて、甚だ古代のものなり。

民俗には蔵と云うものなき故、よき倉なりと云しより、吉倉又御倉とも云いたるにや。

此の窟に文化年中より政左衛門と云う者、又其の養子清左衛門代中、其の箱の内にて薪を焚き、其の跡へ莚(ムシロ)を水にひたし、敷き、其の上へ塩をふり蒔き、冷病の者入室して病癒える故に大いに繁昌せしなり。

当代は茂吉と云う者にて、今は薪を入れおき、納屋となし、今も荏苒(ジンゼン)と此の窟あり。

【欄外註】

此の家当代茂吉なる者の家に古き昔世に築立る「クド」(かまど)あり。

此の家旧家にて、最早五六百年に及ぶ家なれども昔より此のクド昔より今に至るまで、其の促にあるなり。

又此の家に大なる鼎(寇の意)あり。

此の品も昔よりの伝来にて、甚だ古きものなり。

今は椿を蒸すに用いるのみなり。

大坪:日鷲神社の北にあたりて、此の地名の所あり。

此の処を倉の坪とも云うとぞ聞き及びぬ。

免田(ヘンタ):此の水田は天日鷲神社の麓。

日わし田と云うより北に続き、東佃ともいえり。

神供田の残りなり、と申し伝えたり。

此の田壱畝余りなり。

今も其の田に作りたる米を大社大祭礼に当作人より奉るなり。

其の米を御饌に炊きて奉れり。

今も此の田のみ無税にて往昔の領知の残りなりと思いけらしぬ。

東佃:此の免田より北を云う。

今も字(アザナ)となりぬ。

此れを作田(ツクダ)とも書くなり。

又昔の御供田とも云う。

又中昔の猟場なりとも云うなり。

いずれが是なるや否や。

西佃(ニシツクダ):是も字(アザナ)なり。

是は天村雲神社の御供田なりと云う。

此のあたりに井泉を堰に、土器・陶(ヤキモノ)の類色々と賀りたるもの土中より掘り出せしこと度々あり。

城:此れも字(アザ)なり。

城池とも検地御帳面に出で、即ち池もあり。

此の説数々あり。

一には忌部の神の古事ある故なりと云う。

二には土御門上皇化の里にしばしが間御座所にお止まりしける故なり。

此の池を上皇の池とも云う。

三には細川特賢の末子千寿丸と云いし人、此の所に関居せし故なりとも云々。

何れが是なるや否。

城谷:是も字(アザナ)なり。

城池より南西へあたる所なり。

殿の前(トノのマエ):此れも字(アザナ)なり。

此の処昔は原にてありし故にやかく云う。

また殿原(トノバラ)とも云う。

亦俗にとりのまつとも云うなり。

此れも諸説様々あり。

一には忌部神の由緒なりと云う。

土御(門) 上皇の御在所なりし故とも云う。

前件の如く千寿丸の在し所の前に当る故とも云う。

此の地より十間程西南に当り、忌部神社西北方の四方詰の立石あり、此の字(アザナ)を立石とも云う。

又此の処を堂の原とも云う。

是は殿原を云いなまりて誤り伝えたるか。

日己(わ)し:此れも宇(アザナ)なり。

大社の地なる故にや。

今は俗にひよしとも云うとぞ聞けり。

山王:山王同所と字にあり。

日吉神社のある故なりけん。

橋の元:宇なり。

忌部大社より出る所にあり。

落窪:橋の本の北にあり。

川原田:橋の本の西にあり。

雲宮:此れも宇なり。

御検地御帳にあり。

此の所、天村雲神社御鎮座ある故にや、あざなによべり。

岩戸:是も宇なり。

此の所に天岩戸別命女(のムスメ)伊自波比売命にて天村雲命御合座神の鎮座なり。

社のいわれは神社の部に委しく包菜日會出せリ。

隠谷(カクレタニ):宇なり。

忌部大社石壇より東へ下る所なり。

此の所 日鷲命の神系の神隠れある所なりと云伝えり。

魂所の木(コンドの木):字(アザナ)なり。

此の所に青木の神社と云うあり。

此の所に忌部の神系の神の躰(カバネ)隠れます所と云う。

隠れ谷の下にあり。

此の所の名ある故かくれ谷の名附けたるか。

高垣(タカガキ):字(アザ)なり。

此の処は天岩戸別伊自波夜比売神社の北を云うなり。

此の社の築墻(ツイガキ)のありし所なりと云う。

淮南子(エナンシ)曰く「舜築墳を作る」此の類なるにや。

坊の窪(ボウのクボ):字なり。

高垣の西六十間行き、北三十間程行きたる所なり。

声音和名抄曰く野外の娶居なりと註したり。

古大社の通路側なる故官社(仕え奉る人)の居所なる故か。

桜の木:字なり。

大社馬場辺りなり。

昔馬場の両脇に桜の木ありしと云う。

大社へ見通しの所なり。

樽(オオチ)の木ありし所なり。

天神の社あり。

社の所に委しく出す。

天神:宇なり。

前の件と並び土地なり。

桑内(クワウチ):字なり。

法性坊 此の所寺ありしと云う。

今の西法寺の坊号なり。

石堂:宇なり。

今は何も堂なし。

坊の内:字なり。

廃寺の跡なり。

杉の本 松本共に字なり。

松杉の木ありし故にや。

堂の下 字なり。

楠の本字なり。

小原 古原にてありしとなり。

大北字なり。

忌部社より北に当る故にやかく云うなり。

宮嶋(ミヤジマ):比の所より半町程八幡社へあり。

是故かく云う。

宮の辻 八幡宮の東の辻と云う。

薬師:字なり。

薬師堂あり。

細川千寿丸の守り本尊なりと云う。

城谷:字なり。

薬師堂の東の方の小谷を云うなり。

琵琶の谷:字なり。

瀧あり。

天女影向せし地なりと云う。

久成:字なり。

ふかきわけある詞(コトバ)なり。

国生(クガ)とも書くとあこや:字なり。

軽屋(アコヤ)とも書く。

節会の時官社に神事に附き仮屋を造るをかくは云いぬるよし。

舟戸木:字なり。

此の処岐神の小祠あり、由緒あるにや。

竹の内:此の地は古え竹の藪ありとなり。

多門坊:此の所まけ田と云う。

忌部神社の御供田なりとぞ。

此の田なり。

不浄の肥を入るれば祟りあり。

山草などもて作るに、外の田よりよく実るとぞ。

不審なる所なり。

此の所忌部社 乾の角の立石あリ。

忌部神社の四方詰めの石の一つ北原 字なり。

大川ぶち、西の窪(クボ)、窪(カク) 何れも字なり。

天王:字なり。

此の所に淤騰山神社の地にて瀬詰村との境なり。

此の並び西に丸と云う所あり。

此の丸の地、細川氏の支流の人の居地なりと云う。

其の後安楽寺と云う浄土真宗の寺ありしが、此の寺百五十年程前に郡里村に移り、其の後荒地となりしが、今は屠児の住居となれり。

此の丸の地と天王山の間に俗に天狗瀧と云う、又戸板岩の瀧とも又露瀧とも云う此の所は至って清閑の景地なり。

坂田町:是も地名並びに宇なり。

此の所少しの町家なり。

出丸の地の下にて昔細川氏の居たる時の町なりと云う。

此の所の東は一円の田なり。

此の田に蛭多く住めども人を食わず。

淤騰山神社の神位の故なりと云う。

此の地十山の入口なり。

忌部神社七摂社の一社。

豆(マミ)がくぼ:字なり。

坂田町の裏山なり。

此の処に弓張石と云う大岩あり。

交合(マクワイ)石:此の地の字、二丁馬場と云う字にて、天王山の山吉野川の流れ突掛かり、人家危相成り。

依って其の所の畑持主又頂なり。

大岩二枚重なる岩なり。

此の所は百五十年前当村の北、兵衛と云う者伊勢太神宮へ來官して、御師堤太夫へ願い、御鎌と云う御宝物を拝借して万度の大麻(ヌサ)とをいただき帰国して、暗夜に其の縁を川筋へひきけるに水筋かわりて安く川筋かわりたり。

其の御飯は伊勢へ返録して其の大麻を其の場所に崇め祭祀なしけるに通路の側なる故に天王山に移したるに去る明治辰の年霊妙の国の城北の地なり。

見渡す景地にて、春夏秋冬の別ちなく不思議ありて、此の山頂に移したるなり。

此の地紀伊和泉より此群集して賑うなり。

白山(シラヤマ):此の所に白山比売神社あり。

此の西の谷を権現谷と云う。

其の谷の麓に御供田あり。

是より西に数々窟(ツカアナ)あり。

此の所に忌部神の坤(ヒツジサル)の角の立石あり。

【欄外註】

意は神代の時の人の住家なりと云う。

今に穿てば陶器の類多く出るなり。

三社名:此の所に若宮神社あり、南西に当り竹薮の間に鎌倉泉と云う名水涌き出あるなり。

忌部神社の御神供水なりと云う。

中昔 最明寺時頼殿 諸国行脚の時此の地に来たり、此の水を愛し給いけるとなん。

是故鎌倉泉と云うとかや。

誠に名高き麗水なり。

大社の神供水ある故にや、此の地御年貢の外、諸の地役御免許なり。

又此の地を三称石とも云う。

立石:此の地は忌部神社の旧社地にて其の時印なりとて立石あり。

高さ一丈余り。

廻り八尺あまり。

此の所地幅三反六畝余り。

其の辺に一面大なる広き岩敷連なり、俗に黒岩と云う。

宝永年中迄旧社地なり。

此の地古きに作人治太平開拓したるに、忽ち神たたりあり。

又元の如く山林になしたり。

又天保7年治右衛門と云う者此の地を買って開拓せしに土中より神供の土器の類数々堀出したり。

其の所家宅を営みしが家鳴りして人伏す事ならず。

又たたりあり、終に又元の如くに野山になしたり。

誠に炳然たる事なりと申しあえり。

横谷:此の所に忌部神社の四方詰の巽石あり。

高さ壱丈八尺、三丈一尺廻り、此の石の半より下立に刻みあり、色々の説あれども略す。

不思議なるは指の跡 此の石にあり。

烏帽子岩:此の地は種野山の部に入れたれば略す。

岡の坊 小坂坂の下是皆大社の近辺なり。

忌部神社の四方詰めの石の一つ天満 大嶋 此の処は忌部の社より北なり。

又此の地は麻生嶋(オオシマ)ともかくなり。

柳の久保 西の岡化の地も西にあたる地なり。

池の本 坂口 此の地も西にあたるなり。

御秋川(オハライガワ):此の所は日鷲神社にて御祓いをなしたる場所なりとてかくは云いけるとぞ。

此の他字数々あれども由緒なきは略しおわんぬ。

忌部郷 神社部

天日鷲神社の由緒と神々

天日鷲神社「延喜式日く麻殖都忌部郷鎮座 名神大月次新嘗成号麻殖神或号天日鷲神 当社神主家は根元は敷地と云う地なりしが後に馬場と云う地へ移り、又今の地へ移りたるなり。

此の先祖村雲宮千代と名乗りしが後に阿遠鷹と云いしなり。

「永享7年卒6月22日なり。

宮千代屋敷一町五反一名展なり。

「当明治癸酉(ミズノトトリ) まで四百三十九年に相成り申し候。

其の代に及べども確かなる筆記は此の代より後なり。

又曰く天日鷲翔矢命、又名天加奈止美命 此の祭神にて当社の謂れたるや。神代 天照皇太神 御弟神素戔鳴尊御行悪く太御神天の安川に八百万の神たちを津どい、御子天思兼(アメのオモイカネ) 命に仰せて謝し奉らん事を議し給う時、当社の御鎮座 天日鷲命御是を赫怒給い天岩窟にこもり給う御時、皇親神漏岐(カムロギ)尊子津咋見神又の御名大麻彦命、此の神と麻穀を種殖給い、青幣、白幣を作り真坂樹の枝に懸け御男長白羽(ナガシラハ)神麻を績ぎ麁布(アラタエ)を織り、衣服を縫い始め給う。

是を天皇即位の際儀式に用いる麻で出来た衣服(大正天皇の大嘗祭以降山崎にある忌部神社境内で織られ貢進されているあらたえの御衣と云う)。

此の御神の妹天羽槌命(又御名は倭文命)をして倭文の帛を織らしめ給う。

是を和衣と云う。

此の種々の物を作り、天太玉命太祝詞を祈り天銭(アメのウズメ)命神楽の舞かなで給う。

当忌部神笛を作り給い長白羽命弓六張を並べ琴となし給う。

天照太御神の御心に叶い給いしや、岩戸よりかいま見給う。

此の時諸の神達 阿波礼、阿奈面白と宣う。

是より面白と云うとの始めとかや。

忌部氏族天目一筒命(筑紫・伊勢両国忌部氏祖なり)剣・斧・鈴,針・釘及び一切金物作り給う。

鍛冶の祖なり。

忌部氏の先祖 手置帆負(タオキホヲイ)命讃岐忌部の祖なり。

彦狭知命 紀伊国忌部祖此の二神 瑞殿を造り、また御兜、矛盾を作り給うは大工の祖なり。

手力雄(タジカラオ)命その戸を開き給う。

依て皇太神の御光六合(リクゴウ)に満ち、地神二世正我吾勝(マサヤアガツ)速日(ハヤヒ)天忍穂耳尊一書に栲幡千々姫(カジハタチジヒメ)命を娶とり忌部神の御系なり。

猶又神武上皇の御時も功績ある御神なりとかや。

如斯なれば豊葦原千五百(チイホ)秋の瑞穂国に大忠臣とやいわん。

是故天照太御神の忌部の神、中臣の神此の二柱の神を兼補弼(ホヒツ)とは宣旨あるはかくれなき御事なり。

村内の諸神社

天村雲神社 祭神 天村雲命 伊自波夜姫命 二座 此社の在所の子にてをし命亦後橋命の在り処と雲宮の字を雲宮と 御検地御帳にもあり、当社御鎮座の天村雲命と申すは則天手力雄命亦名天石門別安国主命の子にてありし天日鷲命の御弟神にて亦御名は天二上命亦後小橋命亦一名射立命と神伝国史に見えたり。

此の社の在る処を雲宮と云い、其の少し西に小橋と云う地名あるは出雲国素戔里の類にて神御名代の地というならめや。

当社謂れは神社考の際に出す故茲に略しおわんぬ。

【欄外住】

社記曰く、天御中主尊十世孫なりと云う。

飛鳥本記曰く、此の神名に引合なり。

又御合座伊自被夜命は天村雲命裔天日別命子王柱屋姫命なりと云う。

倭姫世記曰く、伊佐波止加見命と云う。

然らば御合座にても御夫婦にてはなしと見ゆ。

天岩戸別神社 祭神 天太玉命 天岩戸別命 伊自波夜姫命三座 岩戸と云う字の地に社あり。

此の社も前件同断 神御名代の地なるべし。

猶比の社の謂れ总部神社七摂社の一社甚だ長ければ神社考の條に出しぬれば茲に略しおわんぬ。

八幡神社 祭神 左座比売大神 中央 譽田別尊 右座 伊香我色雄命 官と云う字の地に御鎮座なり。

【註】

当社の祭神 外の八幡宮の祭神とは大いに変わりたるなり。

如何の謂れなるにや此の辺の宇、或は官の前、官の辻、宮の東、宮千代屋敷など当社鎮座年代しれず。

宮地より北少し東へよりし所に古八幡と云う小祠あり。

御神託ありて、今の社に遷宮せしよし玉殿の内に証書納めあり。

当社内に矢磨石と云うあり、忌部神、天村雲命二神の矢を磨き給いしと云う謂れあり。

此の社細川氏瀬詰村 丸と云う地に居られし時当社を氏神と崇められしとなり。

その管内に社を作りて崇敬せしと云う。

その後瀬詰村の氏神として遷宮ありと云う。

今の瀬詰村の八幡社なりとぞ。

其の謂れにや当所の八幡宮行幸、遷御ならざる内には瀬詰の八幡官へ神移りなしと云う。

祭礼正、六、八月一五日なり。

今も猶崇敬社にて、御免許の高札御庁より下され置き之あり候。

白山比売神社 祭神 志良夜末比売尊 則伊佐奈美命なり 社内に 日像石 月像石味高日子根命奉斎ありしが、往昔阿倍晴明卿 此の地に来らせ給い、此の神火防の鎮護なし給う神なりとて、鎮火祭修行せられ、此の神体石は民家の在中央にて祭るべしとて、雲宮の馬場西側に祭りあるに、此の社の忌部神社七摂社の一社 氏子なる西中筋と云う一名には昔より火災なし。

かくの如く先哲の君子此の郷地に来たり給うも、天日鷲神社並びに天村雲神社、伊自波夜比売神社右三座の在すがゆえならめやと思いけらしもせめ。

祭礼9月2日。

若宮神社 祭神 神倭盤余彦命 左長白羽命 右 八意天思兼命 三座 此の社若宮の号あるは長白羽命は天日鷲命の御男なる故にや。

此社旧社と見えて、社一円に松の大木あり、中には千年以上の古木あり。

祭礼古は9月9日 今は8月28日。

玖奴師神社 祭神 大巳貴(オオナムチ)命 山王大権現とも云しなり 此の社の少し西南に天神の山の神と云う小祠あり 祭神 少彦名命 忌部神社七摂社の一社。

大国主命の別名 此の二神医業の祖なる故にや。

眼病、口病、その余諸の病に霊妙不思議ありとて、諸方の人 小さき鉄の華表(トリイ)奉り祈願するなり。

是世人のよく知る所なり。

祭礼9月9日。

春樹神社 魂所木(コンドノキ)と云う所にあり。

此の社はおがたまの木を神体として七五三(シメ)を曳きあがめ奉りしなり、至って古木にて文政年間迄ありしが、枯れてたおれたるまま、今も其の側にあり。

其の木の植わりし所は、土の盛り上がりの塚の如き所なり。

この事京都の吉田御庁の御聞に達し苧環(オガタマ)の木を奉納ありしなり。

此の所忌部の神の隠れたまいし霊所なりと云う。

忌部姓の氏族多きゆえ、いずれの神を納めしにや。

弁(ワキマエ)がたし。

しかし此の西方へ落ちる小谷を、隠れ谷と云い並びに天日鷲神社の側なる故に、其の理なきにしもあらじと昔よりの云伝えなり。

王子神社 祭神 天底立命 左は瓊々杵(ニニギ)命 右建身分命 此の社中左の神は獨化天神にて、右座に御穂須須美命を合祭たるは、 いかがのわけなるや。

近き辺りに大巳貴(オオナムチ)命の社ある故、御子神を此社に合せ祭りしにやあらんかし。

天神社 祭神 高皇産霊(タカミムスビ)尊 菅原神 天神と云う字の地にあり至て旧社なり 此の社に松あり、逆枝をたれ、畑地三反斗(ばかり)も匍匐(ホフク)したる大木にてありしが、天保年間に枯れたり、いと惜しき事なり。

恵美寿神社 祭神 事代主命 八幡神社の間に祭る 此の神は世俗に商神と云う故にや。

忌部の市場なりし所にありけるを、文化10年癸酉(ミズノトトリ)年、今の社地へ遷宮せしなり。

祭礼2、6、9月3日は大祭礼にて、神輿行幸あり。

於騰夜末神社 祭神速須佐之男(ハヤスサノウ)尊 此の社は昔祇園牛頭天王とあがめ祭りしが、根元より、おとやまの天王と世俗の云伝えありし故、こたび王政御復古に付き、神号とせしとぞ。

9月7日大祭礼、正、六も7日なり。

神輿行幸あり。

大いに群集して、いとも賑わしき祭礼なり。

此の御神疫病除けをまもりたまうとて諸方より祭礼には参詣の人甚だ多し。

川嶋町

地勢と歴史的背景

【川嶋町】此の地は植桜の山の岬、芳野川の汀まで突きいでたる山のふところにて、東南より丑寅(ウシトラ)へまわり、南より未申(ヒツジサル)の方にまわり、皆桑村の地にて、西の方少しの間、宮の嶋の土地なり。

北は芳野川にて、只一筋の町家一丁半程の間のみ川嶋町なり。

此の地は西方の金気集まるの所なれども、田畑少なく商売にも四方共なき土地、繁昌せざるなり。

産物も悉く前出の姿故すくなく、夫れ故に小商売のみにて渡世の地なり。

古城城主 川嶋兵衛之進所領千二百貫。

天正7年12月26日 脇城にて討死して滅亡。

天正13乙酉(キノトトリ)年蜂須賀家御討入ありて、御家臣当城に居住す。

後城主 林五郎兵衛尉後に図書佐と改め、越智氏河野姓。

古城山に林道閑之墓あり。

神号 武野神社 祭礼 9月18日 社地一五歩御年貢地なり。

秋葉神社 祭神 軻遇突智命、祭礼 9月18日なり。

鎮守社 祭神 大巳貴命 祭礼 8月14日なり。

猿田彦神社 祭神 道反大神 庚申(カノエサル) 日祭日 申日第日。

此の地は根元川島の郷とて、郡中4箇の旧郷名の地にて、上桜城主篠原壇正少弼入道紫雲、二ツには湯吸城主河村左京亮、久保田城主桑村隼人亮、川嶋城主川嶋兵衛之進右の通り近隣に4ヶ城あり。

寺の数も源光寺、南寺と云う二ヶの大寺ありける地にて、此の城下なれば、往古にても外村よりは、格別に賑いける場所にてもありつらん。

取りわきて此の地の古城山は、阿波の国城北、第一の景地にてある故其の処に真言宗の一本寺を建立して、今も猶ありしが、今は桑村の地へうつりありける。

其の寺の本尊は 薬師如来 古桑村源光寺 大日寺 此の二ヶ寺を合せて、安養山長楽寺と建立せしが、今は寺跡 民政御局となりしが又御局 名東県庁の御局へ御引き取りに相成り申し候うなり。

長楽寺は桑村常慶寺へ移りあり。

【欄外註】

当院の山号 安養山と云うに於ては、右源光寺、大日寺を合せて長楽寺と建立せられたる由緒なれば此の本尊の外に阿弥陀如来なくては安養山の号あるまじきなりと思いき。

東堂 古城山の少し東より北へ入山の組(ソバ)に水の神と云うあり。

龍王神を祭りたるなり。

俗に水の神とも、又どうどう共云う。

諸方より若き人、白髪の生えし者、小さき杓を竹にてこしらえて奉納。

祈願すれば白髪が緑にかえるとなり。

然るに宮もなく堂もなき小さき泉水にて。

【欄外註】

神道にては水波女命、又は神の類を祭りたるの類ならん。

又仏法なれば難陀、難陀、笑渴羅、和修吉、徳叉迦、阿那婆達多、摩那斯。

式の社考の弁 忌部神社部

延喜式と忌部神社の論考

【式の社考の弁 忌部神社部】そもそも式の社と云はべるは醍醐天皇の天曆3年藤原忠平卿損輯の「延喜格式」と云う書にて日本国中の鎮座神社祭式を定めしむ。

此の書中に入りたる社大小合せて三千百三十二座なり。

其の中にて当阿波の御国大社三座小社四十七座 合五拾座なり。

其の内麻殖郡は大社一座、小社七座なり。

忌部神社 名神 大月次新嘗成号麻殖神或号天日鷲神、気吹酒屋平田大人の日く亦名天日鷲翔矢命亦名天加奈止美命とあり。

此の社五拾座之第一の大社なるに、物変わり星霜推移りて、今既に其の鎮ある処を知らず。

然るに、此の神は根元高皇産霊命、神皇産霊命の二神の御子神天手力男命、亦名天石戸別命の御嫡天日鷲命にましまして、天照皇太神の御弟神素戔鳴尊の御悪行を怒らせたまい、天石窟に入らせ給うの時、六合の中、昼夜を弁ぜず、神魯岐神魯美命群神と天安河に会いたまいて相謀り、長鳴き鶏を楽め、橿原天香(具)山の五百の真坂樹その枝に瓊鏡暨青幣、、白幣を懸るの役、此の御神なり。

又弓六張を並べ琴となしたまうは御子長白羽命なり。

又の名は天八坂彦命とは此の神の御事なり。

又津咋見神是大麻彦命なり。

並びに天羽槌雄命、天太玉命是皆忌部神系の御神なり。

此の御神皆阿波の御国に因縁深き謂れを尋ねるに、人皇の第一神日本磐余彦火々出見天皇舟師を引卒なしたまいて皇帝の命令に背き奉る大和の国長髓彦征爵の御時、金色の鳶と化して敵陣の虚実をはかりたまう、此の功績をもて御一名金止美命とは云うなり。

はた地神第二世正我吾勝、速日天忍穂耳尊栲幡千々姫命を娶とり、是も忌部神系の神なり。

其れ故豊葦原千五百秋の瑞穂の国の大忠臣の御神系なり。

是故に天児屋根命、天太玉命もて、皇御孫尊日向穂(觸)日高千穂の峯に降到の時、此の二神を兼補弼の神としられたり。

此の如く大忠臣の鑑ともなすべき御神跡の絶えて跡なきを、今上皇帝御穿整のため風土記編椎の勅命、有難き仰せ奉るにも猶余りありぬ。

然るに中昔より此の御神跡を色々と御吟味あり。

宸襟を悩ましたまうと云えども、是迄相埋もれて、分明ならざるは村々奉仕の神主共人欲の私にひかれ、往古より唱え来る神号を私に替え、はた当委任の御役員においても此の村よりも忌部、彼の村よりも忌部、数ヶ所に相つどいぬれば、何れと極め難きも御尤もの御事なり、是故に憲明が愚昧の案もて、一章を述べあえる。

各地の忌部神社に関する考察

美馬郡東端山の忌部大明神

其の一に曰く、先第一に美馬郡なる東端山(ハバヤマ) 吉良の忌部大明神。

神主官内伊織広重、謹んで曰く、「寛保神社帳に美馬郡東端山明現大佛家明神、神勤神主同郡貞光村宮内兵庫、此の神社を忌部の社なりと、御庁へ願い出及びき、此の社は、祭神天御中主尊にて佛家に妙見大菩薩と云う。

此の北極星を祭祀奉りたる神にて、攝州能勢郡に本社あり。

此の神を祭りたるよしに聞きおよびぬ。

神号の文字に付いて見れば、故あらんかし。

又二には東端山御所平馬、此の所に御馬石と云う大石あり駒の蹄の跡あり、当村より三里四方を外曲輪とし、三里内を内曲輪とす。

其の内に崇奉るを忌部大明神とす。

当社日本神楽の始祖なりと東端山、西端山、一宇山、穴吹山、貞光山村など今以って社家神主楽人等の子孫数十人あり。

当村にて麻を植え給う。

その節今の三好郡は美馬郡という。

麻殖郡半分は美馬郡なりしと云う脱さたさたあり。

美馬郡になりし由云い伝え、麻、苧を奉りし故麻殖郡と云い、馬を美しく飾り神馬を奉る故に、美馬郡という。

豫州宇麻郡より馬麻を奉るにより、苧麻郡と云う。

その節里の分は皆海なり。

今もって右五ヶ村の惣名を苧寿利と云う。

此れ卵れなり。

然る所、昔時数度の兵乱の度毎神領追々減して、三好長治代には、漸く二、三ヶ村、神領の処、悉く横領し、夫分神領なしになり、自然と此の忌部も崩れたもう故、社家、神主、楽人の類皆々百姓となり。

右吉良の御所と云う。

その後吉良と唱え、望川をも吉良川といいしが、其の後川を改めて芳野川と替え、東端山と西端山と往古は惣て貞光村なりけるが文禄年中より、貞光村、西端山、東端山三ヶ村に分る。

神代の名所なりと云う。

然るに昔時忌部の法号中古以来の名所記に見えず。

新田氏と忌部神社の関連説への反証

新田義貞の二男義宗、脇谷左衛門義佐二男脇谷義治、右両将は、義貞、義佐討死の後、出羽の国を発足し、阿波の国へ下り当所に来たり、死すとあり。

即ち新田大明神と崇む。

今以って5月15日菖蒲、藤(女にてはなきなり)を神へささげ奉り、祭礼せる。

此れ両将の廟所なりと云伝えり。

猿飼新田と社を崇め奉るなり。

5月8日祭礼す。

是は義治の廟所なりとぞ。

右両社とも今以って常盤祭礼とて、当所の者、菖蒲新田、猿飼の新田と申し、当所の氏神の氏神なりとぞ云伝えり。

此の新田の両将も忌部神の旧跡としたいきたれりと云う説あれども、斯はあらじ。

憲明考て曰く古え新田、足利龍虎の如く南朝北朝を輔佐したれども新田義貞暦応元年閏7月越前岡丸の城に自殺の後は南朝忠将皆東西に走るなり。

是山中を選んで此の地に来るなり。

既に麻殖郡川井村にも新田祠とてあり。

当山吉良と云う地、天日鷲命御鎮座ありし故、吉良の御所とはいえども、忌部神も臣家の神なり。

なんぞ此の神の鎮座ありしとて、御所とは云うべからず。

神宝と伝承の数々

藤が森実なし藤と云う名花なり。

鈴なりの梅。

「麻釜」忌部の神麻を焚きし所と云う。

「御魂所」忌部の神の神去りたまいし所と云う。

「忌部古社」「給織岩屋」、是は天日鷲命の機を織りたまう所と云う。

此の古跡は皆々尤らしき所なり。

又此の地の謂れは天照皇太神、日鷲命に命じて天の下に穀、麻を蒔き給う。

肥饒の地たるにより、当国に来臨し、当社に鎮座ましまして、業なし給う。

然るに延喜以来、郡に御割替あるにより、今は麻殖郡も美馬郡になりたりと云う。

麻殖の社と申すは是なりと云う。

当所において命、神去り給うと云う。

境内に御塊をおさめしめ忌部大明神と崇め奉りたり。

是社正社なりと云う。

天正の頃 土佐の猛将泰元親逆威にまかせ、社所残らず炎上す。

乱世の軍役に四民の力つきて再興の事絶えたり。

正勝公御打ち入りの後は郡違いの故断絶同断に過たりと雖も、四方に道ある君が代の、恵みも厚き時至り公儀御崇敬あるにより神代よりの重宝、重代重財並びに出現ありし事 上々様方御武運長榮、五穀豊穣にして四民安全の基か。

御神託は則神前に書き記すものなり。

忌部大明神御神体「御鏡」御神号裏にあり「御棟札一枚」。

元亨元年辛酉11月23日大檀那 北條相模守平朝臣高時公。

当明治癸酉(ミズノトトリ)年迄五百五十三年。

右は社所炎上の砌、我先祖宮内少輔広重と云う者、身命をなげ打ち炎の中より取り除き、末社東山権現の社に隠し置し。

此の度社内へ迎え奉る。

「御長刀一振り」 五尺五寸 朱書きに「寛保云々に東山十二社権現神主官内兵庫 天目一箇命御作なり。

是は天日鷲命比の御国御来臨の節御持たせ遊ばせられ候御打ち物也と云う。

社所炎上の時より百八十余年を歴て石塚中より此の度出現の宝物出しなり。

此の社は武家崇敬の神に居候へば、武門に志ある人々は格別御信心之有度候。

「御鏡二面」此の度出現仕り、是は櫛岩間戸命、豊岩門戸命 此の二神の神体なり。

「鬼面一面」櫛岩間戸命御作なり。

此の外小財数多くありと雖も記さずなり。

又忌部の巻物讃州大野原平田源助方に所持すと云う。

岡蔵先祖宇右衛門宅兵衛 惣左衛門 籐兵衛「明和目明役 紅山二宇不分明 口山の宮内左近これも同じ 阿波定満(サダミツ)庄 奉斎部 朝臣 従五位上 宣命執達如件 嘉祥4年8月朔日 壬子(ミズノエネ) 左近衛少将藤原行常朝臣 御在判 西端山きらのかけ 忌部鏡あり(源書)

郡境と地質の考察

前の件の如く忌部の神の旧跡寶物等夫々神さびて至極尤なる様に見及びありたれど美馬郡半分は、延喜年間までは麻殖郡にてありしと云う脱いぶかしきなりと思いぬる。

其の訳は剣山の嶺は当諸郡の辻にして上の図の如く一郡一郡入り交じりなく山の尾、岬の出たるなり。

種穂山の岬に、麻殖郡、美馬郡の境あり。

又北へ直ぐ見渡して、岩津の西長峯と云う処 北方 阿波郡、美馬郡の境なり。

是故に會江谷も東又迄、水より西は美馬郡なり。

いずれも同じ、剣山の山より流れ出る水を郡の境とするなり。

鼓(ツツミ)山の境石より貞光の川口迄は三里もあれば、此の論甚如何の輪ひなり。

貞光村の口より三好郡の境迄は一里の上はなく、然れば美馬七部は麻殖郡になる様に思うなり。

剣山の上に 平家の馬場と云う所あり。

此の処より見ればよく知れるなり。

憲明案じて曰く東端山きら名の、忌部旧跡の義は夫々の名所、旧地、外の忌部を云う所には、一段と優れてよしと雖も美馬郡の内且つ美馬郡も西へ七歩よりし所にてありぬれば、天日鷲命の旧跡とは云い難し。

其の故は凡そ此の日本の国郡の境を立てしは聖武天皇の御宇、帝行基菩薩に命じて国郡の境を定め給うとあり、誠に感ずるに堪えたるは、此の郡境、国境の事皆土の色、水の流れ、石の姿にて分別せりと見えて、讃岐の国は、御影の砂、阿波国阿波郡の土は赤く砂利なり。

石は ひえ石と云いて単色の粟餅の如き地合なり。

麻殖郡の土は埃土にて、色は鼠色にして、少し黒をさしたる如き色なり。

美麗に彩色したる如く白、黒、赤、煤竹色、黄色、青色、黑色、銀色又光あり。

金剛瑠璃世界に入る如し。

又美馬郡の土は、色ひとしお黒くして掛目 殊の外重し。

石はおおく青色、間々には白色もあれども、多くは薄黄色なり。

三好郡の土は又重くして、色は美馬郡よりひとしお黒し。

尤も河北は色赤し。

是は陽地の故なり。

又板野西郡はまつちと申して殊の外ねばし。

石は阿波郡の如し。

色少しく青し、下板は石少なく、ありても岩の如くにて川石と云うはなし。

ある時は粟餅の少し黒き様の色なり。

名西郡は麻殖の土の重く、ねばきが如し。

石は青き色なり。

川の石は麻殖の様奇麗になく、青きに、間々には白きもあり。

名東郡は名西郡に等しく、土少し黒し。

石は少しある時は青黒なり。

白はなし。

しかしながら川筋には上郡より行、流れ行きたるか、又は舟にて積み下げたるか間々にはあるなり。

郡民の気質と風土

人の気も是に同じく、三好郡は義気強く、一旦思い込みたる事は変じ難きなり。

美馬郡は言葉になまりあり。

礼ふかく世智賢きなり。

阿波郡は信篤く、言葉下品なり。

麻殖郡言葉は上品にして、へつらい多く智はたくまし。

名西郡は仁あり、言葉重く穏なり。

上板郡は信あつく、言葉下品なり。

下板郡は言葉早く、下品にして物事埒明はやし、義心は篤し。

名東郡は上品にて言葉かろく義うすく智あり。

しかしながら御城下は諸国の人寄り集まり、且つは自他国の集会の場所なれば、是は格別な沙汰なり。

取り分け士農工商入込みの場会なれば、さもあるべき事ならんかし。

右の懸りなれば郡境を動かす事は、甚だ難かるべし。

依って忌部神と雖も、日鷲命にてはなし、此の地の古跡は定めて、同じ忌部姓の神系にても、式は天鈴杵命、天御雲命又は天波興命、天日別命、許登能麻遅比売命、又は長白羽命、天羽槌雄命の類の神の旧跡ならん。

さもなくばならんの理は、天日鷲命御一名も麻殖の神とは云うめり。

美馬の神とも三好の神とも云はざるを証とすべし。

是官社の忌部は忌部の郷にて麻殖郡の内ならではならんと云うの論ひなりとぞ。

美馬郡拝原と忌部大明神

美馬郡なる脇町の東に、拝原と云う地あり。

是を昔忌部大明神神領の節出家、沙門の類、芳の川をを隔て川向より拝原に拝せしと云う所の名なりと阿淡郡庄記にあれば、世人能く云うと云えども東端山なる忌部を拝するには、二里も東へ寄りたる所にて、拝するの理なし。

是は拝原の上に西照神社あり。

是を遥拝の場所ならんかし。

此の地和名抄曰く此の里春原とあり黄色を染める草なりと云う。

其の木ありし故と云う。

是拝原の旧号なりと云う。

又美馬郡拝村と云うあり。

是も郡庄記に同断に言えども、是又高越山の麓にて高越大権現の遥拝処ならん。

是は高越山へ登る坂口なれば猶更かくあらんかし。

西川田村なる種穂権現を奉仕の神主京都神祇伯白川殿へ願い上げ奉る、忌部の本社相顕れ候迄の神事行い場所に願い居り候えども、何の拠も古書に之なく、且つは射立の郷にて麻殖郡の西の詰なれば美馬郡の境なり。

阿淡郡庄記にも種穂権現とありて、忌部の神に因縁は更になし。

是故にや、過ぎし昔京都大宮人の御口説あるべきなり。

忌部とは何を種穂の京のぼり、うその川田と兼ねて志ら川 かくは御詠吟ありしと世に言伝えありとぞ、聞くまま茲にしるしおくものなり。

高越大権現と諸神社の伝承

麻郡射立郷川田村高越大権現に霊箱二箇在すと、往昔より云い伝う。

一は金剛蔵王権現。

一は高雄山大権現なりと云う。

又一説には高電魂 神の祭神とも云う。

山城国愛宕郡鞍馬の北所祭之神なり。

木船社とも云う。

又貴布祢とも書くなり。

神代巻曰く伊弉諾尊(伊邪那技神)、軻遇突命(迦具土神)を斬り三隈(柱)となす。

その蓋し旨あるかな。

一段(柱)を高宮となす云々。

工夫すべし。

神書抄曰く龍神類なり、北京神明也。

日本後記曰く弘仁9年5月大社となる。

奥御前 氏成私記に曰く、平安守護をなし、祭る所蓋し日城(にちいき)の地を守る神明なり。

二十二社註臓曰く城州貴布祢(船玉命と高なりとあり。

高越山麓には中御前大明神と云う此社又柏井大明神と云う。

木船社は雨乞いを祈る社なりと云うなり。

此の社高越神の后なりと云う。

高越神社 雨乞いに至って感応あり、故に同神なりと云も理なきにしもあらんかしと思いはべる。

且つ又高越大権現の奥の院と俗に云う社あり。

他山にて高越の社より一里ばかり奥なり。

祭神二座 大篠大権現、龍王神なり。

此の龍王神 奥の院に祭神なるからは高神と云えるも、宣(ムべ)なりとや。

此の高越大権現は根元、霊(作璽)(ミシルシ)の中に押す朱判を「南州第一條鷲霊跡」(古文字にて書きたる判にて)ありしを、二五六年以前に(判)「天日鷲命」、此の通りの朱判にかえたるなり。

然らば代の社も天日鷲にてはなきの理は顕然たるべし。

しかしながら誠に霊験掲焉の御社にて、何とも拙生の如き小人の論うべき神霊にはあらじと云々。

又山形も平地より嶺迄直立五十八町、麓に一の野神又三町登り前神寺と云うあり。

四十町登り中野神社あり、中善寺と云う下寺あり、其の間に セリワリ岩と云う名所あり。

山嶺に経塚と云う弘法大師法華経一石一文字を埋めたる処あり。

一町下りて本社二座 本地仏 千手観音、大師堂 神變大菩薩堂あり。

三山外に末社数多くあり。

又二丁下り高越寺護摩堂、鐘楼、方丈 庫裏、伽藍処なり。

諸方より登山の道 七筋あり。

是まで神領五拾石但し黒印。

此の山、山の形剣の如く尖り、摩尼珠山とも云う。

又衣笠山とも云う。

大祭礼には予、讃、阿、淡、備の人登るなり。

【欄外註】

山上の経塚を忌部の険なりと云うなれども、只今寺中の者死すれば死体を中善寺へ下げるなり。

然らば陵にてはなきの理ならんか。

宮島八幡神社と忌部神社の論争

宮島八幡神社を忌部神社の様、是まで神主共より当社を願い上げ奉る。

当社考の事 八幡神社 祭神 天日鷲倉、譽田別尊、息長足姫命、武内大臣、三女神、奥津日子神。

右の八神を祭祀奉るよし奉仕の神主の申し出にあり。

又一書には祭神 天夷島命。

此の説には、仁明天皇の御宇嘉祥二巳己年4月朔日勅にて浮島八幡宮と改め天雅彦命授賜と云う二脱あり。

根元此の社は同郡学村二ツ森の上の山に八幡の古社と云うて大岩のある地あり。

其の処に鎮座ありしを中昔の頃、今の社へ移し奉るの言い伝えなり。

べき宮の島の社の所に述べる如く至って旧社にて、忌部の社とも云うなれども、相考うる処かくはあらじと思いぬ。

憲明案に日く天日鷲命なれば、御合座の神 成は長白羽命、天羽槌雄命又は天太玉命、天富命の類なる忌部神系の御神を合わせ祭るべきに前顕の通り八神を合わせ祭ると云い、所謂木に竹をつなぎたる如くにて外七座の神霊はいずれの八幡の社にても皆ある神体なり。

宇佐官は応(神)仁帝 神功皇后、玉依比売命。

是は聖武天皇神亀4年此の山について神官を造り奉るとある條にて見るべし。

又斯くの如く延喜式は応(神)仁帝、神功皇后、姫大神(以上は平野神主神抵権大兼前註之) 石清水は譽田天皇、神功皇后、玉依姫命 相州鶴ヶ岡も同じ。

諸国の八幡宮 成は武内大臣を合祭、又若宮八幡とて、仁徳帝を合わせ祭るありけれども、正神体忌部神に斯如く合わせ祭るは如何。

此れは後世に至り忌部の官社となさんが為に奉仕の神主なる者跡(後)より天日鷲命を添えたるものならんかし。

中昔の頃吉田殿、忌部の社に御仕居を、此の村より願い奉り候時、添下置候、十七文字の短歌今に申し伝え残りある 忌部とは墓なきものや宮の嶋 斯くの如くなれば甚だ信じがたしと思いはべりぬ。

【脚註】

此の村には昔よりして墓と云うは一ツもなし。

是故か、甚だ面白きことなり。

西麻殖村 中内大明神の再興と疑義

西麻殖村中の内大明神を忌部神社なりと奉仕の神主より願い奉り候よし その考に憲明の愚考左の通り述べる。

中内大明神 式内合殿 此の社先年は中内大明神と云いしを「安永六丁酉(ヒノトトリ)年九月十三日再興に改革せんため、『寛保元年四月五日京都へ神主罷り登り、天日鷲命勧請の霊箱を頂戴せしなり。

その時より根元の祭神を改めて祭神を三社に改めたりと云う。

今は中央 天日鷲命左座秘羽目神 足浜目門姫神 右座 右霊の箱の免許の写し、西麻殖村神社の所に出れば茲に略す。

右社を勧請の起源は、赤堀氏、長井氏の説により、此の村の字、地名を色々撰出し、地名を呼び替えて、忌部の旧社に縁ある様に、 云いなしたるなり。

家は広戸と云う地を広堂とかえ、閻魔堂と云うを絵馬堂と改め、又神子と云う地を神後と改め、又馬場、的場などの地名あるにそえ、又段の原と云う畠地四反程の原に、大松一本ある所を、忌部の旧社と云いなし拝せしは、西麻殖村と村小名に、おえ市と云う地ありなどを中内大明神の祭神は春日四所の神ならんかし 皆地名の西麻殖と云うに引き合わしたるは、右両氏の説より起り、 依る社なくては、旧社のありし所とも云い難き故に中内大明神と云える古き神号をけずり天日鷲命、秘羽目神、足浜目門姫命の三座の社なりと改かくたるならん。

しかし乍ら世間数万人の口説には蓋をする事かなわず。

又西麻殖村に忌部の郷が当りて、此の村に忌部の古社がありしと云う、古書一ツもなし。

是故此は神主の者の、官社の神領の地を貪らんがため色々工夫を加えしものならん。

二十年程以前に肥後の国より大社巡り来り、その者皇国の学よく研究の者なりしよし、その者、此の村に絵馬と閻魔堂と云う地名を改めし釈を聞きしにや、その詠歌より、「絵馬堂と閻魔をちぢめにし麻殖の神と仏の中の内宮」 かく詠じたる短冊を見及びたり。

しかあれば、官に出し、後世校正のたよりともならんかし、と見聞きのまにまにを述べそえる。

根元此の迷いを醸すの発端は麻殖郡四郷の割り (切幡)より流れ出る八幡町大野島の間へ流れる谷川より東は秋月郷、平治川原より東は香美郷、長峯の谷より東は拝師郷と、南北主どもの高井卿も阿波郡の如く浦の池村より流れ出る谷川より東は高井郷、切畑に立ち切れば谷川にて分別する故、よく郷境のわかるなれども、麻殖郡は、永井、多田両氏麻殖塚、西麻へ(殖)と云う文字に迷い、川嶋の郷、射立郷は南山より流れ出る谷川を境に分けて、西麻殖より東は立に東西に分け、北は忌部、南は呉嶋と分けたるより神 江戸時代後期の国学者、神主。

永井精古、その弟子多田直清 迷いの種なり。

阿波郡の郷割りと比較

阿波郡の郷割りは左の通りに相著候事。

麻殖郡は赤堀氏も永井氏、多田氏三氏出あう。

神の逮楠木とも 皆西麻殖より東は東西に立に切りわけて、川島より西は南北に横に切りわけたるなり。

それ故に神主の面々色々に異説をたてて、自らの奉仕の社へ、忌部の社を引き付けんとせし事と思いけらしぬ。

敷地村・鴨島村の伝承と検証

敷地村には西宮神社の上に他山に隔たり白砂の盛上し如き小山あり。

裾には古松あり、上には石の盛上の塚あり。

神主是を忌部神の御魂所と云い、至って清浄なる土地と見ゆるなれども、その村の老人などに尋ぬれば、西の宮社より二丁程東に楠木あり。

其の所に昔 東福寺と云うあり、その寺の一代の住持に徳僧あり、その僧の経塚なりと云う。

甚だ不審きとやいわん。

鴨島村と云うを、多田氏、永井氏両氏は「かも」と「かみ」との五十韻のマミムメモの云い誤りなりと云う。

又宮地と云う所あり。

殿江(トノゴウ)と云う地名あり。

倉の段是も地名なり。

西門、東門と云う地あるなり。

是故宮地の所に大社あり。

倉の段の地に神領の倉あり。

西東の門は華表(トリイ)の処なりと云う。

又村の名の言い誤り、かたがた桑村の枝村なる神子の地を神後の字に書きかえ、鴨島に大社ありし故、神のうしろなりと、辟説をつけて云いあれども、神子の地と鴨島とは道程三十丁も隔たり、桑村御検地御帳に神子とありて、神後とはなし、又倉の段、西門、東門、殿江の地名は昔此の村に戸井、桑原と云う小大名、又郡士と云類ありし跡の残りをいうなり。

又宮地と云う地名、並びに鴨島と云う村名は、山城国紀伊郡伏見の稲荷の神社の末社に長者殿と号す本宮乾にありと、豊葦原と定記に出たり。

此の社のけじのこのを鴨社と云う。

之に依り憲明案じて日く此の村神主、山石の青色なる長さ三尺、幅五六寸なるに、神島の二字彫付け、朱を入れ、 此の通りに裏にあり、表に○あり、下に天日の二字あり、此の通りの石を地中より掘出したりと云う、其の石の埋れありしと云う地、此の村の乾の方に当りて、野中に松あり、小社ある所なり。

よって思へば只今の宮地と云う字の処より乾にあたる故、其の石の埋まりたりと云う地の所に、鴨の社ありて、宮地の所に稲荷の本社ありしならんと思いけらしぬれども、石の神体と云うは天日の二字は天日鷲の頭二字に見せんが為の追彫にて、是は当時の神主の探り巧みなる事にやあらんかし。

是皆彼の郷名の割り誤つより、思い付きたる猿知恵と見ゆるなり。

その故は彼の掘出したりと云う神体石 甚だ新しきと見ゆ。

是も其れ以前、詠人不知と書き、神社拝の者が詠草に、「鴨島を神島などと呼子鳥、猿の真似する知えぞ、おかしき。」右の口説も甚だかなへりとぞいへり。

麻殖塚村と牛の島大宮八幡宮

麻殖塚村 神麻山 俗に鴻の山と云う。

昔は綜麻杵神社と云いしと云う。

是も忌部神社と云うなれ共、此の神名は斯くはあらじ。

憲明案じて曰く、此の神は伊香色雄命の親神ならんかと、思いけらしもせめ。

是は申し出甚だ正しきなり。

その子細は天日鷲の神社と云わずして、正しく云うめり。

牛の島大宮八幡宮 祭神天日鷲命、天太玉命、作麻美命、天富命、大宜都比売命、保食神 此の祭神は前に祭り、麻笥 五ツ中に麻苧を納め六神とす。

奥殿の祭神 五座「応仁(神)帝、“仲哀帝、“神功皇后、“武内大臣、“仁徳帝三女神前後合せて 一五座 右前の神六座、中昔 麻殖塚麻楮石の上へ、大水の時流れ来たりしと云う。

奥座の八座は往古よりの本宮と云う。

此の村は牛の島にてなし。

忌部神大水に漂着せし故、諸芸に傑(すぐれ)たる者を大人(ウシ)と云う故、大人(ウシ)の島なりと云う。

諸説は牛の嶋神社の部に委しく出しぬれば茲に略す。

憲明案じて曰く、諸説皆いぶかしきなり。

天日鷲命此の地に御在世より住みたまう故 大人(ウシ)の嶋と云い、 又洪水の時漂着せしを此の社地に移せしと云う。

一も治定の説なし。

また一社に祭神前後合一五座を崇敬せしと云う。

いずれの社にても祭神は三座か五座なり。

甚だ多雑なり。

是もかの社領を貪んため前の六座の神は奉仕の者 欲心にて、後より添えたるものと見ゆるなり。

且つ亦神伝国史に忌部の神 牛の嶋にありとは、 更に見うけず。

是白別当社僧の操りなるべし。

以前の如く神社拝の草稿の詠歌あり、 牛の嶋なる大宮(オオミヤ)八幡宮を、大人(ウシ)の嶋なる麻宮(オミヤ) とかへたるを、詠じて」 と前書ありて、大宮を麻官とちぢめ うしの嶋 うそ八幡をつづる神の名はた一首をはべりて、と前書ありて、大宮を麻績の文字に祝子が、うしともしらでつづるおかしさかく詠まれたるは、誠に別当祝子の恥じとやいわん。

恥辱とやいわん。

文選東都賦に曰く「形神寂寞耳目不営嗜欲之源滅廉恥之心生;莫不優遊而自得」。

ああ賊に、可慎者欲也。

欲なければ、かくはあらんかし。

【欄外住】

前の件なる鴨島を神島と書きかえたるも、皆是同意ならん。

憲明案じて曰く 孔子曰く「蓋有不知而作之者我無是也。」 「開扒其善者而從之多見而廉之」又曰く「子不語怪力乱神」 とは本文の意なきの謂うか。

(之を作る者を知らずして之を作る者ありて、我是なきなり。 多くを聞きて、その善なる者を択び、之に従い。 多くを見て之を識る。 怪力乱神を語らず)

正社・山崎村の確証

前の件の如く村々より、忌部の神社を申しいでぬるを臂(タトエ)えていえば、堅子(ワッパ)の上梁(ムネアゲ)の水玉煮ムネノモチ)を奪うが如く。

恐るべき朝廷の御局を悖らず願い出ずるは、いとも拙きにや思いはべる。

成人の曰く「然らば忌部の正社と云うは、之なきや」、答えて曰く「造(タシカ)にあるなり」、曰く「いずれの地に之あるや」、「ひとり山崎なる里にあり。」、其の慥なる理を聞かまほしく、云うにきにつけては爱(ココ)に其の証書のあるを述べんに、 先ず彼処(カシコ)の社というは東西南北の四隅にあたる地に四方詰の立石あり。

小なるは長さ一丈五尺、大なるは長さ二丈、囲り一丈五、六尺より、一丈にも過たるあり。

其の大なるものには、指の跡残れり。

其の中央なる所に旧社地と云う処あり。

其の所を御検地御帳にも三社名とあり、山上にて四反余の平地あり、二千歳以上のあれ地故、諸木生したるを七八十年以前に次太平と云う者開拓せし時神祟り(カンダタリ)あり、止めしが、又三拾年前、治右衛門なる者、其の地を譲り請けて、開発せしが色々の凶事あれども厭わず開き、屋宅を営み、耕作を蒔きつけ、肥物を入れける時、屋宅鳴動して人住む事無らず。

凶事続きて、終に其の家絶えなんとす。

依りて屋宅を取り崩し、他処へ移りたり。

その餘外の村々の地名引き合いとはや違い、神御名代の地名、且つ字(アザナ)其数揚げて斗(カゾ)えがたければ、茲に贅せず。

猶山崎村の條に委しく出しぬれば見合わすべし。

しかし乍ら荒増しを茲に出すなり。

此の社根元右の地にありしが、「宝永年間大地震にて、山岳崩れ落ちて、同村王子神社の傍らに祭りありしを、今は玉殿は別にして拝殿は同社に崇め奉りたり。

旧社は今の社地よりは上なり。

又其の地に山の崩れたる跡顕然とあり。

其の地震の時に地中より玉鏡の類掘出し、且つ又土器、又色々の焼き物の類は其の山崩れの地辺には、今以って数々掘出したり。

此の品、尤も古き品にて、神代の作物と見ゆるなり。

色々名の付かぬ様の品、数々なり。

尤神供に用うべき様の品多し。

且つ又旧社の西の谷を日鷲谷と云い東の谷をかくれ谷と云う。

此の所日鷲命神去りたまうの所と云う。

其の下に小山なり。

其の上に苧環(オガタマ)の木 大木にてありしが、此の塊所の木(コンドの木)と云う字(アザナ)あり。

その所は大盛り上りの所此の木を神体として、小祠もなし。

其の木に朽ちたる穴あり、水溜りたるなり。

諸病を癒すと云いて、諸方より参詣せしなり。

然るに三拾年程前に枯れて、今は其の朽木残れリ。

然るに此の事御聞に達し、又苧環(オガタマ)の木を奉納ありしなり。

是故に此の所を、青木の社と云う。

此の木芳しく、此の村に西法寺と云う真言院あり。

僕に命じて此の木を伐らんとせし時一斧打つや否や、其の者気絶せりと云う。

それより帰院して終に死亡に及びしなり。

其の後は里人尊みて誰も犯す事なしと云う。

又其の麓に天岩戸伊自波屋比売神社あり、その社地応津岩根(大きな岩盤)にて、此の社地へは、いか程の洪水にても水溢れ入る事なく、且つは地震もなし。

其の岩悉く皆奇妙なる岩にて、或は麻、苧を きたる所、又麻、苧を績けたる麻笥の類、五ツ六ツあり。

其の中に一丈斗(バカ)り高き巌の嶺にわたり、一尺斗りの穴あり、麻笥の如く深き事、皆四五尺と云う。

その中より鉄漿水の如き水出で、大雨又旱魃にも増減なし。

往古よりの物語も今猶たがう事なし。

ある時近隣三ツ島村なる蓮光寺と云う浄土真宗の僧、兼て信仰しられたるに、異病を病み、諸医手を尽すと雖も、更にその印なし。

然るにある夜夢に日鷲命出現ありし、岩戸の水を呑むべしと仰せられたり。

早速翌朝人を遣わし、掬し来たりて呑みけるに、間もなく、平癒せりと云う。

其の岩の南より東へ百間ばかりの池あり、是をば苧晒しの池と云う。

此の岩を影向石(ヨウコウセキ)と云い、水を延命水と云う。

又此の池を神池と云い、又岩と池とも云う。

往古此の池に溺死せんとせし女あり、池の渚に来たりければ水の座に鈴の音して、死を止りたり。

右様の事年々不思議あり。

昔より此の池にて死なんとする人多けれども、未だ一人も死にたるはなし。

猶又此の社に詣で、信心の者に神霊蚰蛇と化し垂跡ある事度々なり 此の不思議に逢う者は願望成就するとぞ申しあえり。

天村雲神社と忌部の系譜

又此の社より五丁程西に、天村雲神社 当社の祭神伊自波夜姫神社二座を祭りたる社あり。

此の処を雲宮と云う。

さて又忌部の御社は長山の末、短山の辺(アタリ)に在すよし、聞き伝えて他国の人参詣する事甚だ多し。

誠にかかるためし多く、殊更本社のいわれ、地名、その社の部に出しぬれば、茲に略す。

尤此の忌部の由緒の地、此の村並びに隣村、種野村、三ツ嶋村、学村等に色々あり、いずれも其の村地名の所に引合わし見るべし。

扱又忌部の神の証書と云うは匠家必用記と云う書、美作の国津山城立石定準なる者の著述にて、神武天皇大和国橿原に内裏を御建立なし給う事と云う。

又天日鷲命の孫は、阿波国へ下り麻、椿を殖て天皇に献上したまい大嘗祭の時に当りては其の国より品々産物さし上げ奉り給う。

天日鷲命の孫、阿波国へ下り住居して麻・穀を植えて御衣の布を織り給う。

其の郡を麻殖郡と名づく。

今も其の地に忌部氏の人多し。

是を阿波忌部と云う。

皆日鷲命の子孫なり。

是故に忌部氏人山崎村に社を建立して敬い奉るなりとあり、又此氏人神孫、神裔三ツ木村、木屋平村、此の山崎村にあり。

猶社と云うは外村に色々云えども外村なるは神号に相違ありて、或は八幡神社又中内大明神、 又種穂権現、高越大権現と世人の称するにて知るべし。

又山崎なるは、たとい三尺の童子にても、忌部様と斗り云いて、外の神号は一言もいわむなり。

是故にや阿淡郡庄記にも、瀬詰村東南の山を忌部山と云う。

九月二三日の夜 当山に登り月を拝すれば、月五体に見ゆるとあり。

又山崎村の部には当村忌部山大社の西に谷あり日鷲谷と云う。

当国第一の旧跡なりとあり。

又延喜式にも麻殖郡座忌部神社天日鷲命とあれば、由来久しき御社なり。

又天富命彼阿波の忌部をわかちて、総の国へ遣わされ、麻・穀を植えて、世の重宝となさしむ。

今の安房の国なり。

此の郷は総の国を分けて、上総、下総とし、又下総を分けて安房郡を安房国とす。

天富命其の地に天太玉命の神社を建立し給う。

是を安房社と云う。

又州崎の神社とも云う。

此の社建立の年より、今『宝暦四年まで二千四百十四年になると由来誠に久しき事なり。

太玉命は忌部が祖神なるに依りて御孫富命、社を建立して、尊崇し給うなりとかや。

“元文五年十一月勝太夫雅楽と改名、尤土御門家許状。

寛保元年 (1741)二月同人退役。

同三年神名帳御詞なり。

寛延二年(17 49)十一月勝太夫卒。

宝暦三年日鷲命本社並びに拝殿焼失すとあり。

然るに忌部神社は忌部郷にあるべしとは人々皆云えども其の忌部郷麻殖郡いずれの辺を云うや。

昔より定め難き。

此の郷は元忌部氏の人多く住し故の郷名にてあるべし。

他の国にも忌部忌部所々にあり。

されど忌部の神座す郷故、即ち、その所を忌部郷と号したる事あるまじきにもあらず。

又、応仁武鑑日く細川左馬頭持賢居城阿波国麻殖郡城山所領麻殖郡忌部庄三百町とあり。

往古種野村城が丸と云う地に細川家ありしと云う。

又その末子千寿丸、山崎村美崎山に居たると云城と云う字(アザ)あり。

又城谷と云うあり。

又城の池と云うあり。

皆御検地御帳に委敷くあり。

又其の後細川持賢は三ツ嶋村柳の窪に住すとあり、是学村善勝寺の先祖にて筆記物足利将軍より拝領の宝物類品々、今に所持せり。

然る上は麻殖郡郷割りの條に云う如く、山崎、種野、別枝、南張、川井、木屋平は皆々忌部郷ならん。

然るに外村にも、又島村色々忌部を云えども、外のは皆疵(キズ)あり。

前條に述ぶるが如し。

かくあれば此の山崎こそ忌部の郷ならん。

則ち「古事記伝六の巻なる津島の類なるべし。

且つ又気吹廼屋平田篤胤大人の編輯せる『古史伝十の巻二十二丁の処に曰く、天日鷲神亦云う天日鷲翔矢命は産巣日神の子天底立命、亦の名角凝塊命の子、天手力雄命の御子、阿波国忌部多米の連、“天語連 弓削連等の祖なり。

次に長白羽命亦曰く天物知命亦名天八坂彦命は、則ち、此の天日鷲命の御子神にて。

麻績連等の祖、神祇伯仲資王記に『建久五年六月一二日、阿波国忌部○ 還補氏長者 角凝魂命の後なりとあり。

「古語拾遺を撰れる。

大同三年より、年数は三百八十七年なれども、今は其の地に近き国人に問うに、詳らかには知らぬまま事衰え座するは、いとも歎しき事なり。。

神名式考証と云う書には、今に山崎村にありという云々。

斯くの如くあれば此の山崎の里こそ、 忌部の郷にてあらんかと思いけらしもせめ。

他郷の忌部説への検証と結論

右様に憲明が述べるは此れ山崎社諸書に出ずれども、外村の忌部を伊倍留(イエル) 村々は、我が心の侭に写せる、写本にはありつれども、梓にちりばめたる書目には、今此の年まで、事、皇国の書を関すれども、文に一言の忌部を論いたる○見受。

既に過ぎつる安政の頃、行脚の神社拝礼の大人来たり、此の人肥後の国の人 阿蘇宮の大宮司なるよし、又一人は豊後の国の人 築杵とやらん地の、是は売人にて富家の隠遁者のよしや。

悉く家より来たりて皇国学べる友同士なれば、心おきなく噺し合う、其の中に諸国各所旧社の詠歌、更に陰は月夜見尊又御名は健速須佐之男尊なり。

然るに日太神は女体、 月の大神男体は如何となれば陽中の陰、陰中の陽なる蔵王権現は大和国葛城山、山上権現と同神なりと云えども、かくはあらじ。

しかし。

山上大権現は人王二十八代帝,安閑天皇にてわたらせ給う。

然るを高越山上に住居する僧の日うには金剛童子にて山上同神なりと云う、大なる誤りなり。

斯くなれば安閑天皇の霊を仏の道へ引き込みたる如く天日鷲命も仏道へ別当社僧の引き込みたるやらんも計りがたし。

日鷲命の鎮座在りたる地は山崎ならねば高越ならん天村雲神社 伊自波夜比売神社 此の二座の社、延喜式神名帳に合殿に出たり。

天村雲神社と伊自波夜比売神社に関する考察

川田村の神社の祭神についての疑義

然るに川田村なる此の社と云うは祭神 天村雲命、伊自波屋姫命、天見通命、天御中主命右の五神を合わせ祭りたり。

此の川田なるが正社なれば延喜式に五座とあるべきに二座とあるは甚だ不審なり。

憲明案じて曰く、此の社の在す地名川田村の内なる嶋と云う処なり。

此の社を三十年以前までは嶋の妙見宮と称したる社にてありしを、斯くの如く社号を改めたれども、其の村の頭立たる文学にても心得ある程の者は天村雲の神社とも云うなれども、土俗女童の類は妙見宮とのみ称しぬ。

此れ土俗の者は正しきなり。

また文字あるものは天村雲と唱えぬるは邪なり。

正は質なり。

邪は文なり。

子曰く質勝文則野也、文勝質則史也、文質彬々然後君子也と申し倍り。

文あるもの後世の人をして迷するの手伝いをするなり。

ああ誠に巧言令色鮮矣仁とはよく云うたり。

憲明案じて曰く、 此の社根元天御中主神を祭りし社なり。

是は攝津国神崎郡妙見宮を本社として即北辰の極枢子の星なり。

他の星皆西へ移り、此の星南極は天地の枢機なる故、居ながら巡るなり。

所謂車の真儀(心木)なり。

仏法には此れを不動明王とす。

是を祭りたる故に妙見の名あるなり。

然るに奉仕の神主ども神領の地を貪んために式社の神を後に添え祭りたると見えたり。

是は取るにたらぬ説なりとぞ。

宮の嶋天村雲神社の八神殿信仰

宮の嶋天村雲神社 祭神 臍緒(ホゾノオ)神 神号聖神と号す。

是此の社は京都吉田殿にある八神殿の神の類にして八神殿は人の体を生ずる神より生まれ出でて食をなし、生長して家業に渡り、生涯を全く終るまでを守り給う神を祭りたるなり。

第一神産日神是臍の緒の神なり、うぶの神と云うは是なり。

第二は高皇産霊尊 人体を作る神なり。

第三は玉積産日神、是は魂魄を入れるなり。

第四生産日命 此の神は寿命を司るなり。

第五足産日神是は人の体、何の不足もなき様に具足さす神なり。

第六大宮売命又宇受売命是は奥津姫命 竈神なり人の家を守り食を作る事を司る。

第七御食神比の御神は目鼻口臍陰門等より、五穀又蠶(蚕)を生じ給うの御神にして則、伊勢外宮豊受皇太神なり。

又稲荷大明神なり。

五穀の祖神にて、宇迦之御魂命と申し奉る。

即ち此我御国阿波の国の主、大宜都(オオゲツ)比売神も此の御事なり。

第八事代主命司り給う。

則恵美寿の神なり。

是故に今人形に作りても、その形此の御神 大巳貴命の御嫡男 八重事代主命と云う、人の愛敬をにこにこ笑う姿なり。

俗に福の神と云うは此御神なり。

下野国河内郡二荒山神是なり。

「類聚国史一六巻曰く『貞観十一年二月二八日丙辰(ヒノエタツ) 干支日正二位の御位を下さる。

此の神人間一生の業を教え、導き給う御徳なり。

此の八座の神等は吉田神楽岡の八神殿の祭神なり。

今此の宮の嶋なる臍の緒大明神とは、此れ第一の御神ならん。

然るに神号を聖神と崇め奉るは、凡そ人間の事において通せざる事なき知恵の深きを聖と云う。

漢書においては魯の国大聖人「文宣王、 名は丘、氏姓は孔、字は仲尼と云いたる人の教えにて、我が日の本にては、神津代にては八意思兼命、又中昔にては『菅原右大臣道真公、神去りて後、天満大自在威徳天神と崇め奉る此の人の如きを云うなり。

是故に天村雲命、伊自波屋姫の二神を祭神号とせざるは何のより処もなき、たわれ事ならんと云々。

かくあれば此の社は、はぶきて、外を尋ぬるにしかじ。

山崎村天村雲神社と神水伝説

山崎村天村雲神社 祭神 天村雲命 伊自波夜姫命 二座 此の社鎮座の所は字(アザナ) 雲宮 同所とあり。

是所謂神御名代と云うものかや。

天村雲神社御鎮座の地を雲宮と云うは、出雲の国素戔の里の類なるべしと思いけらしもせめ。

此の社の謂れを尋ぬるに、皇御孫尊日向の国高千穂の穂觸峯に降臨の御時、御供の水悪しく、命によりて、天村雲命二度天上しられ、高皇産霊命より玉壷に、天真名井の水を盛り授かり、又天降り水合わせをせしに、忽ち水澄みたり。

残りの水は何れの地にても悪き水には、 天真名井の水と呪い合わしぬれば水よくなるなり、との教えを受けて願いおきたり。

また此の御神 外宮豊受太神宮の御神供の泉に合して吉水となせしとなり。

今此の社に井泉あり。

民家に井を穿ち、此の辺の者は皆此の社の水を戴き水合わせするなり。

此の社の前に城池と云うあり。

「天明四年池の水紅になり紙糸の類赤く染りけるを国君聞き召し、御家来江口仁左衛門、笠井惣左衛門両人手桶に汲み帰り献上せし事あり。

又“宝暦年間此の池に蛙合戦他方群集せし事あり。

右数度池の水赤くなり、其の時奉仕の神主、 村雲庄太夫 社の水を汲みて、呪して池に入れしに、忽ち水澄みたりとぞ。

此の社往古は四丁四方なりしと云い伝えあり。

其の所の四方位の立石、市筋と云う所にあり。

誠に由来久しき御社なりとぞ。

かく確かなる印あれば天村雲の社は此の社に限れリ。

前の件の如く此の御神二度天上せし謂れにて亦の御名を天二上命と云う。

又瀬詰村の内湯立と云う地 射立の郷名の残りと云う。

大なる楠の木往古ありしを、忌部の大社の丘より弓をもて此の神射たまい、彼楠を射通したりと云いつたえあり。

そのいわれにて此の神の御別号を射立の神とも申し奉るとなりかたがた由緒ある事ならんかし。

伊自波夜比売神社と天岩戸別神社

天村雲神社の御合座の神に伊自波夜比売神社座すと、延喜式に出しあれば合殿の社と見えて、則此の山崎なる天村雲の社に二座合わも、憲明案にては、御夫婦にてはなし。

伊勢国度遇郡宮碕に在すせ祭りあるを、往古より御夫婦合殿なりと、土俗の言伝えあれど禰宜相伝の習あり。

宮硝氏神社と称し天村雲命一座とあり。

社記曰く「天御中主尊十世尊孫なりと云り。

飛鳥本記に云う天村雲命亦曰く天二上命、後小橋命と云う三名負い給いし。

社家者の脱 此の社 社家祖廟たるに仍て参宮当日之に詣でるを忌む。

蓋し扉参之儀に準ずるなりと云う。

然るに儀式帳に云う、 志摩国答志郡伊雑村にありぬると云う。

天照皇大神宮より道程三里隔たり、伊勢別宮社七社の一なると云う。

伊雑(イソウ)宮を 粟嶋座 伊雑宮二座 世記云う 天村雲命裔天日別命子玉柱屋姫命一座伊雑神一座 倭姫世記云う 伊佐波止見命とあり。

右伊佐波止見命則伊自波夜姫命ならん、然らば日別命の后にて其の御夫婦の中に産まれせるが玉柱屋姫命にして、天村雲命は今の土俗にて云う男ならんと思えり。

然らば嫁と男とは親子なれば御合座に祭るもむべ。

此の天村雲神社 伊自波屋姫二座の社は志摩国伊雑宮と同神なり。

然るに此の村に祭り崇める社にも伊自波夜姫を祭り。

又四丁程東に当り社あり、至って旧社にて。

天岩戸官と云う社地の景色は其の社の部、又は日鷲社の部、又神社考の部、忌部の巻に委しく出しあれば見合せ見るべし。

此の社祭神天太玉命、天岩戸別命、伊自波屋姫命 以上の三座の神を祭りたるなり。

其のいわれは何んとも知らねども、「天明年間和泉の国界の町より幟(ノボリ)を奉納あり。

その幟、神通学者の桜太夫と云える高名の人ありて、其の人の筆なりと云う其の文字に天岩戸別、伊自波夜姫命とあり、然るに此の神天村雲の社にも合殿鎮座天岩戸にも合殿いずれが本社なるや弁(ワキマ)えがたし。

延喜式内の社にも二座とならんかとも思いき。

何分にも天岩戸の社の地諸社に勝れたる霊ありて、社二ヶ所にあるあり。

然れば本社とするは岩戸の社の方いっれのもうづれの地なる故惑いをおこすなり。

其の社について見ば、自然に其の信の起る程の社地なりける。

猶後の君子を待って定めなんかし。

天水沼彦神社・天水塞姫神社に関する考察

諸村の式内比定と地名考証

天水沼彦神社 天水塞姫神社 二座 此の社延喜式内の社にて、此の書を撰れし頃には、たしかにありしは顕然なれば、社斯くの如く出しつるに、今猶此の社も何れの村なりとも定めかたし。

然るに其の社 諸処にありて、尤も其の村々の理を述べんに、此の麻殖郡別枝村なる平名に王子権現と云う社あり。

是を右二座(社)の祭神なりと云う。

然るに此の神社祭神天水沼彦命、天水塞姫命此の二神「神名帳になき神にて、更に拠なし。

然るに『日本記第一の巻に曰く、天照日太神坊素戔鳴命素より赤心あるを知る、便に其の六男を取り、以って日神の子となし、天原を治めしむ。

即、日神を以って、三女神を生む所の者、居干葦原中国の宇佐嶋に降らしむ。

今海北道中にあり、号して道主貴と云う。

是多紀理比売命、狭依比売命、多岐都比売命、此の三柱之神を三女神と云う。

三柱にして道主貴と称す。

此の筑紫水沼君豆能売神等祭神これなりとあり、此の水沼君の系の神ならんか。

又曰く伊亦名速秋津比古、亦日速秋津比売神此の神の御子天水分神 国の水分神此の系之神、水戸神なりとありぬれば此の御神ならん。

いずれにしても水を塞く神にして、漢土の地にていえば夏、禹王と等しき御神徳の神ならん、然れば大いなる池のある土地か、又は芳の川などの如き、川水の溢れ込む、難儀なるか土地に在す神ならん。

此の別枝村は平地より山に登ること十丁も登り、又四十丁も山谷河を登り、又三、四丁も山へ登りたる処にて、甚だ不引き合いなりとは思いけらしぬ。(位置関係疑問)

敷地村なる天足神社を此の二神なりと云うなれども、此の地には池もなく、又川より四五拾町も隔て南山の麓なり。

是故に此の理さらになし。

成る程敷地村と云う地名は鎮座の神在りせしには違いあらじとは思いつれど、右の二神に天足大明神と云う神号少しも縁なし。

此の社は甚だ旧社にはあれども、是は足浜目門比売神社ならん。

猶其の條下に論いぬれば、茲には略しおわんぬ。

敷地村 大山祇神社と云う社あり。

祭神 大山祇命 句々廼馳命、水波女命 三座 本殿二社にて拝殿は一社なり。

井関と云う地にあり。

却って此の社こそ縁あるなり。

至って小社なるに、五ヶ村の氏神にて、是も水沼彦、水塞姫の社なりといえども社地甚だ狭く、式の社と云うべき様には見え受けずかし。

其の社の前に谷川はあり、井関の地に在るが、少しの縁なりとぞ思いけらしぬ。

境座亲神前に牛嶋村 杉尾大明神祭神 天水沼彦命 天水塞姫命 二座是社は地名は高白と云う地なり。

然るに一町ばかり東の地に名西郡の郡境にて関という所なり。

委しくは其の社の所に出しぬ。

然るに神体彦神は石鉢、姫神は仏像の如く、両宝童子の如き木像なり。

又前に神の池と云う土地あり。

随分引き合いはあるなり。

しかし乍ら神殿の内に)の如きまげもの見たり、四寸位のもの損じて、半分残りたり。

一ツには、天水の文字の姿残りあり。

又一ツには、天水町の宇姿残り、ニツながら斯くの如くに、切れてなし。

二ツ共に彦神の名も、姫神の名も一、二字残りてあるはあまり拵(こしら)え物の様に相見え及びにき。

一ツならずニツとも同じ様に残るの訳あまりくわし過ぎたりとや思いぬ。

是は地名の引き合いよき故に、神主の頭より巧たるものならんと見ゆるなり。

三ツ嶋村に泉の元と云う地名にて、南に南出口、西に西出口、東に東出口、北にいなんべ口、西の出口の南鳥井の元などの地字あり。

右泉の元の地に楊の木の少しの森になり、其の元に水の神と云へる小祠あり。

其の所御検地御帳外にて無税地にて此の所畠地三、四反程の所は皆同字にて出水の時、外は皆赤土水なる中に此の所のみ清水にて濁りなし、不思議なる所なり。

猶又此の村の神社の部に出しぬれば見合わすべし。

又神体の事は学村善勝寺の処に出しあれば見合わすべし。

又此の村の西の詰に長池と云う地字あり。

池の跡今に残りあるなり。

且つ此の村往古芳野川派流して、三ツになりたる故此の村号となりたる地なり。

永井氏の式社略考にも拠ありしなり。

三島の水間にあらんよし出しぬれば此の地社、此の二座の旧社地ならんと思いけらしぬね。

秘羽目神社・足浜目門姫神社に関する考察

大山祇神社等との関連説検証

秘羽目神社 足浜目門姫神社 祭神 未詳二座此の社宮の嶋村に 大山祇神社 祭神秘羽目命 足浜目門姫てなし。

なりと云えども、その説 甚だ不審信じ難し。

其の故は大山祇神社と云う社号あるを、かく云うの理なし。

且つ地字等にも拠かっ種野村に 聖神社 祭神秘羽目神右社いづれも、因縁なく思いはべるなり。

同村 稲荷神社 祭神 中央稚産霊命、左 倉稲魂神、右座 保食命、足浜目門姫命四座 西麻殖村 中內大明神祭神秘羽目神 足浜目門姫神 天日鷲命 当社のいわれは、此の村 中内の大明神の件に委しく出しぬれば、 かしこに見合わすべし。

是も其の拠少なしと思いぬ。

敷地村 雨足大明神祭神 天水沼彦命 天水塞姫命 二座 社の社且つ亦祭神 天足命と云う。

然るに此の祭神は大いなる間違いの様に思いぬ。

其のわけは此の社地の字も天足と云うに水沼、水塞の文字に引き合すべき地名もなく、何の引き合いも見えず。

猶此の社のいわれも此の村の神社の部に委しく出しぬれば見合すべし。

しかし敷地村と云う村号にては必ず鎮座の神在せし地にはあるべしと思う。

憲明案じて曰く天足と云う地名 天足命と云う一の祭神なりと言い伝えある、その足の文字足浜目門比売命の神に近し。

並びに此の社より三四町程南に西宮神社と云うあり、此の社の祭神 事代主命 蛭子尊 天照大神 三座 なる故、神名帳神代咩命又曰く阿波々神又曰く阿波神と云う。

此の神 足浜目門姫命にてはなきや、猶広く尋ねばやと思いけらしぬ。

足浜目門姫命には天足の地名並びに天足命の足の字あり。

又秘羽目神には積羽の羽の文字あり。

彦神、姫神とも此の地に引き合い又阿波の国系図の中に羽の字を書したる神号は積羽八重言代主命なり。

是此の神秘羽目神ならんと思う。

又后神 天津羽羽神 亦名 阿波の社なるに神名に阿波の神の号あるからは必ず此の二座の式社は地名、字等にも神社引き合う所あれば、此の西宮なる事代主神が秘羽目神にて此の天足の神社が足浜目門比売の神ならんと思いはべりぬ、又此の地にあらずば阿波郡なる伊月村の鎮座事代主神社は兼○の式の社なれば、同郡粟嶋村なる八丈神社が此の后神 天津羽羽神ならん。

阿波咩神と云うにて阿波嶋村は此の阿波国の名所なれば必ず此の二神は彼の伊月村、 粟島村の二村ならめ。

伊香我志神社について

伊香我志神社は祭神 伊香我色雄命 一座 此の神社は桑村いかがしの地に根元ありて、紛れもなき、今の社なれば何も言訳するに及ばじと云うと