第一章:埴土郷・丹生内と産業の重層性
この問題を考える上で興味深いのが、神山周辺に集中する「丹生」の痕跡である。阿波志には「埴生郷といひ、其の東南の地を丹生内といふ」とあり、周辺には丹生山、仁生田神社、金泉など、丹(水銀朱)や鉱物資源を連想させる地名が散在している。
江戸末期から明治期にかけて二万人近い人口を抱え、広石鉱山などの大規模な採掘が行われていた神山は、単なる農村としては説明がつかない。古代において、この地は元々自生していた「粟」を頼りとする農耕民の地に、伊勢の丹生から高度な鉱業技術を携えた技術者集団(外来の民)が到来し、さらに雲早山から神通川を下ってきた林業の民が合流する「産業の交差点」であった。
「伊勢から馬に乗って来た」という伝承は、単なる神話的装飾ではなく、鉱業や物流技術を伴った人々の移動記憶そのものなのである。
第二章:八神を率いて来た女神と「八倉比売」への拡張
外来の伝承で最も特徴的なのは、女神が単独ではなく、腰宮、須佐宮、刻宮など「八神を率いて降臨した」という点である。
これは、探査・採掘・治水・星辰観測などを分担する、複数の専門的な職能集団が統合された記憶である。五穀の神としての「大宜都比売命」が、外来の高度な技術や多様な生業集団を受け入れ、地域全体を統括していく過程で、その神格は「八倉比売神(八神を統率する者)」という広域的なものへと拡張・発展していった。
神山の人々にとって、日々の糧を恵む「大宜都比売命」と、産業全体を束ねる「八倉比売」は対立するものではなく、「祭神は大宜都比売命、別名を八倉比売とも言う」として、一つの融合した神格として受け入れられたのである。
第三章:阿閇宮の神議りと「八幡」の上書き
この在地勢力と来訪勢力の融合を象徴するのが、上角八幡神社(阿閇宮)の存在である。
祭礼の日、大粟神社から空の神輿が阿閇宮へ向かい、御神体を迎えて大粟神社へと戻り、大宜都比売命と一夜の「神議り」を行う。阿閇宮の祭神である山幸彦(在地・海洋勢力)が、八倉比売(外来・技術勢力)を迎えるこの儀礼は、異なる生業集団が領分を確認し合う「盟約の場」であった。
後に平安末期から鎌倉時代にかけ、武士の守護神である「八幡」の信仰が全国に波及すると、この聖域は「八幡神社」という名でラッピング(上書き)された。しかし、今なお続くこの特殊な神輿の往来こそが、ここが本来「八幡」ではなく、神山という産業共同体の盟約の場であったことを沈黙の内に語っている。
第四章:信仰の移動と権力 — 阿野の二宮から一宮町へ —
平安時代末期、物流の発達とともに、山の富と信仰の中心軸は川下へと動き始める。 1180年(治承4年)、鉱山開発と物流の最前線である阿野に「二宮八幡神社」が創設された。これは、神山から運ばれる資源を平野へ送り出すターミナルにおいて、鉱山技術者たちが切実に加護を求めた結果である。
さらに平家滅亡を経た1341年、阿波守護・小笠原氏(一宮氏)が一宮神社(徳島市一宮町)を創建する。これは、民衆の信仰である「神山の分祀」を、武士の支配権力の枠組みへと固定化する政治的儀礼であった。上一宮(神山)から二宮(阿野)、そして一宮(一宮町)へ。この信仰の移動は、神山の富が流出するルートを、武士権力が段階的に掌握していく地政学的なプロセスそのものである。