▶ 阿波歴史探訪
阿波郷土史探究・歴史街道と城館

山を駆ける武士と津田湊

――阿波の山岳武士・野田氏と、山間部から海へ通じる三つの道筋――

阿波の歴史は、山と海を切り離しては語れない。中世の山岳武士たちが支配したのは、閉ざされた山中の集落だけではない。彼らは峠や谷筋の出入口に城を構え、平野や港、さらには海を越えた畿内へと至る「ヒトとモノの血脈」をしたたかに掌握していたのである。

徳島市東部の津田湊へと向かうルートをたどると、山と海を結ぶ三つの鮮やかな道筋が浮かび上がる。大粟山から一宮城・上八万を経る道、佐那河内から園瀬川沿いに大木へ下る道、そして嵯峨天一神社から八多・渋野・勝占を経て勝浦川沿いに下る道だ。

これら三つの道を軸に、山岳武士・野田氏の戦略、古くから伝わる祭祀や伝承を重ね合わせると、阿波の山々から海原へと躍動した人々の息遣いが聞こえてくる。

一 大粟山から津田湊へ ―― 信仰と軍事をつなぐ最短路

第一の道は、神山の大粟山から一宮城を経て上八万へ下り、津田湊に至る道である。ここは、山間部と平野を最短で結ぶ要路であった。

神山の大粟山は、山の信仰が息づく聖地であり、山間部の人々の暮らしと移動を支える一大拠点でもあった。そこから阿波有数の軍事拠点である一宮城を抜け、上八万の平野へと下るこのルートは、まさに山と平野をつなぐ大動脈に他ならない。

海岸部の勢力が山を目指すにも、山の武士が海へ打って出るにも、この道を押さえることが不可欠だった。大粟山の祈りの場から一宮の城郭、そして津田の港へと連なる空間は、当時の阿波における政治と経済のダイナミズムを如実に物語っている。

二 佐那河内から大木へ ―― 渓谷の喉元を扼する野田氏兄弟の戦略と防衛線

第二の道は、佐那河内から園瀬川沿いに下り、大木を経て津田湊へ向かうルートである。ここにこそ、阿波の山岳武士・野田氏の巧みな領域支配が見て取れる。

この園瀬川ルートは、単なる一本の街道ではなく、野田氏の兄弟が強固な連携で死守した軍事・物流の大動脈であった。谷筋の出口にあたる上八万の大木には、弟である野田内蔵助が拠る寺山の野田城(本城)が喉元を扼するように構えている。一宮城から八万に入って津田港に向かうルート、そして佐那河内から下って上八万に出るルートの双方が、この寺山の野田城の前で交差する。

そして、この本城の背後、少し谷を入り込んだ中筋の地には、兄である野田越後守が拠る上八万城が、谷全体を俯瞰して側面の守りを固めていた。土佐国の豪族・長宗我部氏の庶流をルーツに持ち、四国守護・細川氏の被官として阿波へ配置された野田氏は、その最盛期にはさらに奥の山深い佐那河内の中辺城(支城)に代官を置き、最前線を固めさせていた。弟が谷の出口で交通を制圧し、兄が背後から支援し、代官が奥を固める。野田氏は、この佐那河内から大木へと連なる第二のルートを単独の城による「点」の防御ではなく、面として構築した「要塞地帯」として掌握していたのである。

彼らは一介の在地領主にとどまらず、山の物資や兵力を津田湊へ送り出し、三好氏の畿内での神出鬼没な戦いを水運で支える「第二の津田湊ルートの完全なる守護者」としての重責を担っていた。かつて大寺院があったとされる寺山の地に本城を置いた意味も大きい。野田氏兄弟は、園瀬川が平野へ注ぎ出る交通の喉元と、津田湊へと至る物流・情報の流れを完全に支配下に置いていたのである。

天然の城郭「王城」 ―― 太古の豪族と要塞地形

さらに、寺山のある「大木」という地名は、元は王の住む城「王城」と呼ばれていたという伝承を持つ。また、佐那河内の奥にそびえる大川原高原も、古くは「王ヶ原」と呼ばれていたと伝わる。「王ヶ原」から園瀬川を下り「王城(大木)」へと連なるこの道筋には、太古の昔から一帯を支配し、交通を掌握する強大な豪族がいた証拠であろう。

大木の地に鎮座する宅宮神社も、地域の歴史を解き明かす極めて重要な存在である。同社はかつて、日浦の英城を後ろに控えた小山の上にあったという。周囲の地形を見渡すと、寺山、向寺山、そして宅宮神社のあった小山がぐるりと大木の地を取り囲んでおり、地域全体がまるで巨大な城郭のような形態を取っていることがわかる。野田氏がこの地を本城に選んだのも、この天然の要塞地形と無関係ではないだろう。

祈りのネットワーク ―― 二つの朝宮神社と兄弟の祭祀

興味深いのは、野田氏が崇敬した朝宮神社が、この第二のルート上の二か所に鎮座していることだ。一つは山中の支城・中辺城(野田城)の傍らに、もう一つは平野への出口である本城・大木の向寺山麓にある。

弟・内蔵助の寺山の野田城、兄・越後守の上八万城、そして代官を置いた中辺城と、本城と支城を結ぶネットワークの要所に祈りの場を配することで、野田氏は自らの領域支配を精神的にも強固なものにしていたのだろう。城館と神社の配置は、彼らがこの谷筋の道をいかに重要視していたかを静かに語りかけている。

三 山に響く海の記憶 ―― 宅宮神社と大宮八幡宮

山の武士たちの視線の先には、常に「海」があった。

山への入り口に位置し、大木の城郭地形の一角を成す宅宮神社には海人族の伝承が残り、佐那河内の大宮八幡宮には海の神である豊玉姫や道案内の神・猿田彦が祀られている。海から川を遡って山へ至る者、山から川を下って海へ向かう者。彼らの絶え間ない往来が、この地に独自の信仰を根付かせた。

大木・寺山の野田城を抜け、津田湊へと通じる道のりに海の神が息づいている事実は、山の武士が決して山中に閉じた存在ではなく、海へ通じる広大な交通網の中で生きていたことを力強く証明している。

そして宅宮神社には、平安時代末期から受け継がれる神踊りと古い歌が伝わっている。神籬(ひもろぎ)を囲んで舞うこの古式ゆかしい神事と、それを代々奉納してきた馬番(馬組)の歴史は、決して途切れることなく今も面々とこの地につながっているのである。

四 嵯峨天一神社から勝占へ ―― 神馬と異郷が交わる峠道

第三の道は、佐那河内の嵯峨天一神社から峠を越えて八多へ出、渋野から勝占を経て勝浦川沿いに津田湊へ下るルートである。

この道沿いには、交通と芸能の豊かな記憶が刻まれている。嵯峨天一神社に伝わる馬番の仕組みは、神社に捧げられた神馬(しんめ)の世話や調教を起源とし、峠を越えて物資や人、ときには武士を運んだ街道組織の面影を色濃く忍ばせる。かつてこの神社の祭りには、多数の馬が美しく飾り付けられて参加していたという。農耕の牛ではなく、深い山あいの村にこれほど多くの「馬」が飼育されていた事実は、この地がただの農村ではなかったことを無言のうちに語っている。

さらに圧巻なのが、同社に伝わる神踊りと古い歌である。その歌題には「駿河、堺、名古屋、肥前、鎌倉、天竺」といった遠く離れた異郷の名が数多く並ぶ。宗教者や旅芸人が行き交い、海の向こうの未知なる世界の風をこの山里に吹き込んでいたのだ。天一神社の神踊りは単なる村の祭りにとどまらず、地域の人々が外の世界とつながる壮大な窓であった。

五 鑓場(やりば)の激闘と、野田氏兄弟の苦渋の決断

野田氏や英城主の歴史を語る上で、決して忘れてはならないのが天文22年(1553年)の鑓場の戦い(遣り場の戦い)である。阿波の支配権を巡るこの激闘において、大木・寺山の野田城主(野田内蔵助)と日浦の英城主(仁木高将)、そして中辺城の野田氏も細川氏への忠義から三好実休の強大な勢力に対抗した。久米氏(久米義広)らと共に兵を挙げた彼ら山岳武士は、黒田鑓場の地で勇ましく戦い抜いたが、多勢に無勢、無念の戦死を遂げた。

この激戦で寺山の本城が打撃を受けた後、勝者である三好氏の冷徹な実利主義のもと、中筋の上八万城に拠っていた兄・野田越後守に対しては野田家の存続が許され、引き続きルート全体の管理が任された。兄・越後守にしてみれば、弟を失った無念を腹の底に押し殺し、一族の血脈と領地を守るために三好氏の軍門に下るという、血の滲むような決断であったはずだ。

こうしてルートの支配を引き継いだ兄・越後守は、本城の弱体化を受けて自らの上八万城を捨て、かつて代官を置いていたより山深く堅牢な佐那河内の中辺城へと拠点を移し、一族の命脈を保ちながら次なる時代の波に備えたのである。

六 長宗我部氏の侵攻と、佐那河内・東条家の悲劇

天正年間、阿波の山岳武士たちに決定的な非情の運命が襲いかかる。四国制覇を狙う長宗我部元親の軍勢が、怒涛のごとく阿波へ押し寄せるのである。天正10年(1582)秋、中富川の激戦を制した元親の眼に、自立心の強い阿波の在地領主たちは不確定要素として映っていた。

かつて自らを庇護した大恩人・土佐一条氏すら容赦なく滅ぼし、冷徹に土佐を統一した覇王・元親の猜疑心は、まず阿南を領する新開遠江入道道善に向けられる。同年9月12日、長宗我部の名代・久松彦四郎親秋によって丈六寺へ誘い出された道善は、合戦の勝利を祝う酒宴の席で騙し討ちに遭い、謀殺された(丈六寺の血天井)。この冷徹な第一の粛清に続き、血塗られた刃が向けられたのが、阿波の名族たる一宮城主・一宮成助である。

天正10年11月7日(史料による異説として天正11年1月17日)、元親からの使者が一宮成助のもとを訪れ、「恩賞の儀について話し合いたい」あるいは「急ぎの内報あり」として、園瀬川を臨む要衝・夷山城へ呼び出した。長宗我部の強大な武力に抗いがたく、所領の安堵を模索していた成助は、この誘いに応じて夷山へ向かう。供をしたのは、弟の主計頭(かずえのかみ)と、剛勇の家臣・星合六之進らごく少数の者たちであった。

夷山城の陣所に到着した成助一行を待っていたのは、論功行賞の場ではなく、密かに配置されていた元親の家臣・畑弥助ら長宗我部の刺客たちである。逃げ場のない城内での完全な騙し討ちであり、成助、主計頭、星合六之進は十分な防戦の暇も与えられず、非業の死を遂げた。

この夷山での惨劇は、一人の武将の死にとどまらない。鎌倉期より連綿と続いてきた一宮氏がここに事実上滅亡し、独立した在地領主たちが割拠した「阿波の中世」が終わりを告げた瞬間であった。成助を屠った後、長宗我部軍は一宮城へ自らの城番を送り込み、地域は他国からの侵略者の完全な支配下へ組み込まれる。成助の亡骸は夷山城の傍らに葬られたが、騙し討ちによって散った遺恨は深く、後に首なし馬を駆る妖怪「夜行さん(やぎょうさん)」となって現れるという伝説を生んだ。この怨念の伝承こそ、新興勢力にすり潰されていった阿波国人衆たちの、声なき叫びの代弁と言える。

皮肉なことに、この血塗られた長宗我部軍を佐那河内の谷筋で迎えることになったのは、かつて土佐で元親に敗れて逃れてきた安芸氏(佐那河内城)と、上八万城から中辺城へと移っていた野田氏(中辺城の野田氏)であった。圧倒的な長宗我部の脅威の前に、安芸氏は軍門に降った。だが、中辺城の野田氏は、かつての本家筋に膝を屈することを潔しとせず、三好体制下で代々守り抜いてきた誇りを懸けて激しく抵抗し、ついに滅ぼされたと伝えられている。恩人を討ち、同盟者を騙し討ちにし、同族をも飲み込む戦国の無情な嵐が、この佐那河内の谷を赤く染めたのである。

だが、城が落ち、一族が散り散りになったからといって、彼らの息遣いが完全に途絶えたわけではない。一宮の遺恨が「首なし馬の妖怪」として語り継がれたように、敗れた残党たちは地に下り、神社の神官や氏子となって地域社会に深く潜伏した。さらにその佐那河内には、新羅三郎義光の流をくみ本村の主宰者として重んぜられた東条家も拠点を構えていた。尾境城(小堺城)の城主であった東条左衛門尉光友は、戦国末期に三好家や長宗我部家に与して生き残りを図ったが、のちにその選択に対する深い後悔と武士としての誇りの狭間で揺れ動き、天正13年の秀吉の四国征伐の際、尾境の居城を退去して自害したと伝えられている。主君の不器用なまでの矜持と壮絶な最期は、新支配者である蜂須賀家にも深く評価され、その長男である東条三郎左衛門光久は蜂須賀公に召し出されて近村の御用を仰付けられ、後に大政所(与頭庄屋)として地域社会を治めることとなった。

◆ 推論のロマン ―― 祭礼として受け継がれた軍事教練と太古の記憶

ここで注目すべきは、宅宮神社や嵯峨天一神社の氏子たちも自らを「馬番(馬組)」と称し、それぞれの小集落に神馬(しんめ)を飼育していたことである。彼らは馬番の当番が回ってくるたびに、その神馬を祭に参加させていた。農耕用の牛ならばいざ知らず、農村の小さな集落がそれぞれに多数の馬を飼育維持していたこと自体、極めて異質である。これは、宅宮神社や嵯峨天一神社の氏子たちが、かつて山を駆けた山岳武士の系統を引く末裔である何よりの証拠ではないだろうか。

本城があった大木の宅宮神社と、中辺城や尾境城があった佐那河内の嵯峨天一神社。ともに巨大な歴史のうねりの中で主を失った二つの地で、「神踊り」や「馬番」が今日まで面々と受け継がれているのは決して偶然ではない。表立って武を名乗れなくなった敗軍の将兵たちが、神事という形を隠れ蓑にして軍馬の育成や集団の結束を保ち続けた「武士の魂」の結晶なのである。

さらに忘れてはならないのが、数多く残る神踊りの歌詞に隠された秘密である。嵯峨天一神社の神踊りが「駿河」や「天竺」といった遠方の異郷を歌う窓であったのに対し、宅宮神社の神踊りには「壱与(壹與)」や「出雲」といった、太古の歴史や海人族の記憶を呼び覚ますような言葉が織り込まれている。彼らは遠い異郷を夢見ただけでなく、長宗我部という嵐に抗い、この大木の地がかつて「王城」と呼ばれた聖地であるという誇りをも、神踊りの歌詞に託して密かに語り継ごうとしたのではないだろうか。時代を超えて響く古い歌には、戦国の非情さに散った者たちの鎮魂と再起への願いが込められている。

七 大地に刻まれた重層的な歴史 ―― 古墳・銅鐸・落人伝承

山から平野へと下るこれらのルート周辺には、時代を超えた遺構や伝承が密集している。

八多や渋野には古墳群が広がり、上八万の星河内には星河内美田銅鐸の出土伝承や、後世の長宗我部勢力等の落人伝承が残る。むろん、古代の祭祀から中世の城館、戦国末期の落人伝説までを、安易に一つの物語に直結させるべきではない。

しかし、見晴らしの良い高台や谷の入り口が、弥生・古墳時代から中世に至るまで、常に交通の要衝として人々に選ばれ続けてきたことは紛れもない事実である。戦乱に敗れた落人たちもまた、人里離れた隠れ家としてではなく、平野や港へアクセスできるこの生きた道筋を選んで定住し、地域社会に溶け込んでいったのだろう。

八 十九坊と金剛光寺 ―― 撫養・津田の二大港を支えた修験者ネットワーク

山岳武士たちが確保したこれら三つの道筋の終着点である津田湊は、単なる地元の漁港ではない。北の撫養(むや)湊と並び、阿波と畿内(中央)を直結する極めて重要な中世の国際・軍事港であった。

戦国期、畿内を席巻した三好氏の圧倒的な強さは、その「神出鬼没」な戦法にあった。彼らは畿内で戦局が不利になるとサッと阿波へと引き込み、態勢を立て直すや否や、再び海を渡って猛然と打って出た。このダイナミックなピストン輸送と軍事展開を根底で支えていたのが、山から湊へと連なる強固な物流ネットワークである。

ここで特筆すべきは、海への道を繋いだ修験者(山伏)たちの存在である。阿波北部において、吉野川や鮎喰川の物流ルートを掌握していたのは「十九坊(19坊)」と呼ばれる修験者たちの広域ネットワークであった。彼らが情報網と水運を駆使して三好氏の本拠である勝瑞城に物資や人を集結させ、そこから北の玄関口「撫養湊」を経て畿内へと一気に打って出る戦略を下支えしていたのである。

寺山の巨大修験道場「金剛光寺」

これとまったく同じ構図が、南の園瀬川から津田湊に至るルート(第二の道)にも存在した。その中核を担ったのが、大木の寺山にあった平安時代創建の大寺院「金剛光寺」である。

寺山という地名の由来にもなったこの金剛光寺(現在の寺山遺跡からは、中世に遡る大量の埋納銭が出土している)は、北の十九坊のような「多数の坊の寄り合い(連合体)」とは異なり、ひとつの大寺院として極めて強力で集権的な修験者ネットワークを誇っていた。野田氏はここに本城を構え、この宗教-経済ネットワークと一体化することで南の物流を手中に収めていたのである。

勝浦川水系を掌握する祈りの拠点 ―― 勝占神社と丈六寺

さらに視野を広げると、第三の道である渋野・勝占から勝浦川沿いに津田湊へ至るルートにおいても、同様の強固な修験者ネットワークが存在したことが浮かび上がる。渋野や勝浦川流域の山々には古くから修験者たちが深く入り込んでおり、その活動拠点として機能していたのが、式内社である古社・勝占神社や、細川氏・三好氏と極めて密接な結びつきを持ち「阿波の法隆寺」とも称された大寺院・丈六寺であったと考えられる。

そして、この勝浦川の谷を天空から見下ろすようにそびえるのが、標高773メートルの修験の霊峰・中津峰山である。絶頂には「兵器を司る主神」を含む三十八柱を祀る天津神社(三十八社)が堅牢な石積みに守られて鎮座し、中腹の如意輪寺では今も秋に護摩供養が行われる。また、その麓の金谷に位置する立岩神社には高さ七メートルの巨大な陽石がそびえ、古代の鍛冶神・天津麻羅を祀っている。隣接する八多が八咫鏡に由来するという伝承や、周辺に残る古代の「たたら跡」が示すように、この一帯は太古から金属加工の記憶が色濃く刻まれた地でもあった。戦国期、修験者ネットワークの奥深くに、こうした古代の「鉄と兵器の霊威」が精神的な拠り所として息づいていたことは、注目に値する。

修験者となった落ち武者たち ―― 霊峰を仰ぐ三つの道と、神踊りの真の正体

この修験者・山伏たちの存在を重ね合わせると、戦国期の終焉に向けた「ある壮大な仮説」がより鮮明に浮かび上がってくる。

本城・大木の宅宮神社と同様に、第三の道筋にある嵯峨天一神社で多数の馬を操る馬番や、異郷を歌う神踊りを面々と伝えてきた人々の正体。それは、鑓場の戦い等で敗れた野田氏や英城の仁木氏のみならず、土佐を追われた安芸氏、さらには時代が下って四国征伐で追われる身となった長宗我部勢力の落人など、幾重にも重なる多様な敗残の将兵たちであったと考えられる。

本来であれば相容れない敵味方であった彼らだが、歴史の表舞台から弾き出された後、それぞれが自らの谷を見下ろす聖なる高みを仰ぎ見て、修験のネットワークの奥深くで共に身を隠す道を選んだのだろう。第一の道において激戦に敗れた者たちは、古き信仰の聖地・大粟山の懐に抱かれた。第二の道の佐那河内や上八万に散った者たちは、太古の豪族の記憶を宿す大川原高原(王ヶ原)の威容を仰ぎ見ながら、かつての「王城」の誇りを胸に再起を誓った。そして第三の道に逃れた者たちは、強固な石積みに守られた三十八社や古代の霊威を宿す立岩神社を擁する中津峰山を究極の拠り所とし、勝占神社や丈六寺へと連なるネットワークに身を潜めた。これらの霊峰や高原は、出自の異なる敗残兵たちを丸ごと抱え込む巨大な「アジール(避難所)」として機能したのである。

表立って武を名乗れなくなった彼らが、神事(祭り)という隠れ蓑の中で軍馬の維持や集団の結束を保っていく過程で、それぞれの兵たちが胸に秘めていた故郷の記憶や、転戦の中で見聞きした異郷の風景が交差していった。駿河、堺、名古屋、肥前、鎌倉、天竺。そして壱与や出雲――。神踊りの歌題にこれほどまでに多種多様な地名が並ぶのは、東国から流れてきた者、畿内を転戦した者、土佐の海を知る者、太古の海人族の記憶を継ぐ者たちが、各々のルートから持ち寄った魂の記憶を焚き火を囲んで語り合い、一つの「鎮魂の芸能」へと昇華させていった証に他ならない。深い山あいに多数の軍馬が飼育され、遠き異郷を歌う神踊りが現代まで響き続ける謎は、こうしてすべて氷解するのである。

◆ 歴史のロマン ―― 祈りと武力が結んだ巨大な軍事機構

北は十九坊と撫養湊。南は金剛光寺、丈六寺・勝占神社と津田湊。野田氏兄弟のような山岳武士と修験者たちが表裏一体となって山の恵みと兵力を海へと注ぎ込んだからこそ、三好氏の強大な海路と機動力は畿内において神出鬼没の猛威を振るい続けたのである。

九 山から海へ ―― 阿波史のロマンを読み解く

点在する史料や遺構は、それ単体では沈黙しているように見える。しかし、これらを「山から津田湊へと向かう三つの道」の上に置き直したとき、阿波の壮大な歴史ネットワークが鮮やかに立ち上がる。

【第一の道】 大粟山 ➔ 一宮城 ➔ 上八万 ➔ 津田湊

信仰の山と軍事拠点(一宮城)を直結し、平野へと駆け下りる最短の大動脈。星河内の銅鐸や落人伝承の地を内包する。

【第二の道】 佐那河内 ➔ 園瀬川 ➔ 大木 ➔ 津田湊

野田氏が支城(中辺城)と本城(大木・寺山の野田城)で谷筋を完全掌握した道。土佐をルーツに持つ彼らは、安芸氏(佐那河内城)とも連携し、巨大修験道場「金剛光寺」の集権的な経済・情報網を背景に、津田湊への南の海路を支えた。

【第三の道】 嵯峨天一神社 ➔ 八多・渋野 ➔ 勝占 ➔ 津田湊

敗残の多様な将兵たちが修験者の衣をまとい、神馬の往来や神踊りを継承した峠道。「勝占神社」や「丈六寺」を拠点とする修験者ネットワークが、この道を強力にバックアップした。

◆ 結びにかえて ―― 躍動する山岳武士たち

阿波の山岳武士たちは、険しい山々に閉じこもっていたのではない。彼らは谷川のせせらぎに海の潮騒を聴き、強力な修験者たちのネットワークと共に、畿内をはじめとするはるかな異郷と結びついていた。大木・寺山の野田城跡に立ち、眼下に広がる平野から津田湊への道を望むとき、私たちは、山と海を自在に駆け抜けた彼らの雄大な足跡に触れることができるのである。

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