鬼籠野村史

参照元資料:鬼籠野村史(学術研究・史料批判のための引用)
【本資料の目的】本ページは、郷土史資料の原典を底本とし、歴史的事実の検証および伝承の形成過程を考察する「史料批判」を目的として作成された研究用リファレンスです。原文を提示した上で、客観的な考証メモを付与しています。

はじめに

緑の山々に、清らかな谷川の水、澄みきった空気、空の色、私たちのふるさとは、鮎喰川の本流から南に入った、小支谷の鬼籠野川と大地谷川の流域に開かれた集落である。 上山は川の流れに沿って、上分上山・下分上山・神領・鬼籠野・阿野と五つの村であったが、昭和三十年合併して神山町となった。 鮎喰川流域にいつから人々の生活が始まったか定かではないが、弥生時代の遺跡が下分字東寺と字左右山にあり、銅剣が出土している。 鬼籠野の歴史について、古い文献や遺物は無く、遠い昔を知ることはできない。

「往昔この地で里人を苦しめていた悪鬼を退治するため、天児屋根命の末孫藤原某が祈祷をしたところ、六神降臨して神力によって悪鬼を谷へ追いこめ、退治したため鬼籠野と称した」とする伝承がある。

中世においても、一ノ坂佐々木一族の事績や・山伏街道を駆け抜けたであろう山嶽武士について、語り伝えられてはいるが、「もの・記録」の類は少なくて充分にはわからない。 ただ「尾呂野」の地名は、南北朝期から見られる。 阿川勧善寺の大般若経奥書や、この時代に造立された板碑の紀年銘文などに、中世の一端を知ることができる。 慶長十三年(一六〇八)の検地帳によると、江戸時代の初め、今から約三八〇年以前まで鬼籠野は、大粟山神領分の一部であったが、五〇年後の万治元年(一六五八)の棟付改では、鬼籠野村となっており、この間に神領から分離したことがわかる。 このように近世江戸時代は幸いに、棟付帳・検地帳・その他の文書が残されている。 また各地域の社寺・堂宇、旧家や路傍にも、往時の生活の一端を知ることができるものが残されている。 狭い範囲での検証にとどまると思うが、先人の残された「もの」や「記録」などをもとに調査や考察をして、鬼籠野の歴史を見てみたい。

第二編 歴 史

第二章 古い上山

第一節 古代の遺物

1 石棒
長さ約四七cm、緑泥片岩で断面はややだ円形の磨製石棒が、現在の神山町下分字鍋岩から掘り出されたのは、約二五〇年ほど前である。 現在石棒は、徳島県立博物館へ委託し、保管されているようである。 石棒は石器時代に人々が使用したものであるが、その使用目的は定かではなく、装飾品・権威の象徴・生活の道具等色々に、推察されている。

2 平型銅剣
イ 下分字東寺の平型銅剣
鮎喰川左岸山腹の海抜約二〇〇mの地点で、昭和初期開墾中破片三口が出土する。
① 平型銅剣 長さ三一・六cm、幅四~四・四cm。
② 平型銅剣穂先 長さ一〇・七cm、幅四・四cm。
③ 細型銅剣 長さ二二・〇cm、幅四・二cm。
徳島県指定文化財。 徳島県博物館に保管委託。

ロ 下分字左右山の平型銅剣
左右山谷右岸山腹で標高約二〇〇mの地点から、明治初期の頃二口が出土する。 弥生時代後期(西暦一〇〇年頃)。 徳島県指定文化財。 徳島県博物館に保管委託。
① 平型銅剣 長さ四四・八cm、幅四・二~五cm。
② 平型銅剣 長さ四六・三cm、幅四・九~五・五cm。

このように、弥生式銅剣が出土したことにより、鮎喰川流域一帯は、古代における人々の生活圏で、青銅器文化を持った人々のいたことが推測される。 また、下流域の銅鐸埋納遺跡とともに、この流域の青銅器文化研究上重要な遺物である。 この銅剣は、昭和十五年国の重要美術品に指定されている。

第二節 粟の国と埴土郷

1 古代の阿波国
平安時代に編さんされた「国造本紀」に、古代の阿波のようすが書かれている。 それによると、応神天皇の十三年に千波足尼が粟国造に、成務天皇の五年に韓背足尼が長国造に、任命されたことが記されている。 古代の阿波国には粟国と長国があり、大和朝廷から任命された国造という地方の長官によって治められていたことがわかる。 北方の粟国や南方の長国がどこにあったのか、その他にもいくつの国があったのか明らかではない。

一説に粟国の範囲は、鮎喰川上流の神領字上角にある上一宮大粟神社を中心に、現在の名西郡・美馬郡の吉野川南岸から北部の阿波郡・板野郡まで及んだとある。 主な氏族は、出雲系の先住民と忌部氏の移住民と伝えられる。 共同の祖神は、「国造本紀」には、高皇産霊神、また「古事記」には、大宜都比売命とある。

2 阿波国
孝徳天皇の大化二年(六四六)、北方の粟国と南方の長国をはじめ、小国を合せて阿波国と名付けられた。 これは粟国の名を引ついだもので、粟国が当時最大の勢力を持っていたことを示している。 小国はいくつかに統合され、郡として国司の下に再編成され、旧国造がほぼ郡司となって郡政が行われた。 奈良時代から平安時代初期の阿波国は、「和名抄」によると、名方・板野・阿波・美馬・勝浦・那賀の七郡が置かれたようである。 貞観二年(八六〇)美馬郡を分離して三好郡を、寛平八年(八九六)名方郡を分けて名方東郡・名方西郡がつくられた。

3 埴土郷
古代平安期の郷名として、「和名抄」に見えるもので、名方西郡(名西郡)では、埴土・高足・士師・桜間の四郷である。 埴土郷については「阿波誌」に「埴土今 廃神領入田恐くは此れ蓋し入は埴生の転なり」とあり、入田は「ハニフ」からの転化とみられ、現神山町を中心とする鮎喰川流域一帯と考えられる。 大宜都比売は穀霊神で穀物生産に関係しており、阿波国の祖神と伝えられる。 また大宜都比売命を祀る埴生女屋神社(現、上一宮大粟神社)が、元慶七年(八八三)朝廷より従五位上に叙せられている。

【考証メモ①】古代史・伝承の史料批判

銅剣の出土という物理的証拠(事実)と、それを特定の古代氏族や記紀神話の神々(推測)と直結させる記述は明確に切り離して評価すべきである。遺物は弥生期の人類の活動を証明するが、それが「忌部氏」等の所伝と合致するかは別次元の検証を要する。
また、「悪鬼退治」による鬼籠野の地名由来は典型的な民間語源(地名起源説話)であり、史実としてではなく、当時の村落社会が共有していた「心性」を示す民俗学的資料として扱うのが妥当である。

第三章 中世の上山

第一節 大粟山

大粟郷は鎌倉期に見える郷名で、名西郡のうち鮎喰川の上・中流域一帯の総称であり、大粟山とも呼ばれていた。

1 大粟山としての初見
久安二年(一一四六)七月十一日、「河人成俊等間注申調記」に「大粟山住人安宗」とある。 大粟山・大粟山の地名は、次の文書などに見られる。

2 大粟郷としての初見
鎌倉末期に記された「社家条々記録」によると、「元亨三年(一三二三)三月廿三日長講堂領阿波国一宮大粟・三好・西郷 為 勅願所可被伝云々……」とあり、大粟・三好の郷名が記されている。

3 焼山寺所蔵文書に次のように見える。

寄進 焼山寺領大粟下山分 上雨木 下雨木二井事 但還補之時寄進地候也 御祈祷所也 名事 将軍家領西御下向御願所也
延文弐年四月七日 御使良重(一三五七)
暦応四年九月十三日 沙弥性宗(足利尊氏)(一三四一)

4 阿川勧善寺所蔵の大般若経の奥書に、次のように見られる。

第一四巻 干時嘉慶二歳次戊辰正月廿三日於大粟上山千野坊書海二十四歳書写畢(一三八八)
第七〇巻 干時嘉慶第二戊辰孟春廿六日大粟山神宮寺之大夫之金剛仏子寛賢生年五十九歳也
第五八〇巻 於阿波国名西郡大粟下山古内政所書畢 嘉慶二年戊辰五月十日良祐 (他多数あり)

右の大粟山・大粟郷と呼ばれている鮎喰川上中流域一帯では、今の阿川・広野・入田の地域を大粟下山と呼び、上分・下分の地域を大粟上山と呼び、神領・左右内・鬼籠野の地域をたんに大粟山と呼んでいたと推察される。

第二節 尾呂野と勧学坊

鬼籠野の地名が記録の上で初めて見られるのは、阿川勧善寺所蔵の大般若経の奥書で、南北朝の時代からである。

第五一巻 願以書写善神加護力法界与衆生皆成仏道 於阿波国名西郡大粟山尾呂野勧学坊書之 嘉慶二季戊辰二月廿三日 右筆丹賢(以下簡略に記す)
第五三巻 於尾呂野勧学坊謹書
第一七一巻 阿波国名西郡大粟山於尾呂野勧学坊謹書 至徳四年丁卯十二月二日 右筆円賢
第一七二巻 於阿波国名西郡大粟山尾呂野勧学坊書写畢 至徳四年丁卯十月十三日
第一七三巻 於阿波国名西郡大粟山尾呂野勧学坊書写畢 至徳四年丁卯十一月四日
第一七四巻 於阿波国名西郡大粟山尾呂野勧学坊書写畢 至徳四年丁卯十一月廿五日 執筆円賢
第一七五巻 於阿波国名西郡大粟山尾呂野勧学坊□ 至徳四年丁卯十二月廿三日右筆□敬白
第一七六巻 於阿波国名西郡大粟山尾呂野勧学坊謹書畢 嘉慶元年丁卯十二月廿五日 右筆円賢
第一七七巻 於阿波国名西郡大粟山尾呂野勧学坊謹書之 右筆良尊生年十八
第一七八巻 於阿波国名西郡大粟山尾呂野勧学坊敬書之 嘉慶二年戊辰正月十二日 右筆円賢
第一七九巻 於阿波国名西郡大粟山尾呂野勧学坊謹書畢 右筆円賢
第一八〇巻 阿波国名西郡大粟山於尾呂野勧学坊書写畢 干時嘉慶二年戊辰二月六日 右筆円賢

以上、一二巻の奥書に尾呂野の記載がみられる。 ただこの時代にみられる尾呂野は、現在の鬼籠野村全域ではなく、鬼籠野神社を中心とした四か名の総称であり、後の本名と呼ばれる地域であると考えられる。 また記名や年月日から、円賢・良尊二人の他にも一、二人の僧が書写したと考えられる。 大粟山尾呂野勧学坊はどこにあったのか、今のところはわからない。

高橋氏宅がこの字川東の高橋惣三郎氏宅を通称「寺原」と呼んでいる。 「寺原」の地名は、慶長十三年(一六〇八)の検地帳には見られないが、六六年後の延宝二年の検地帳には、「立見・寺原・飯ノ山」の地名が見られる。 このことから、この附近が寺原と呼ばれるのは、昔この地に寺があったことによると考えられる。 また寺原の地を西から眺めると、飯ノ山を中心に三つの峯が望まれその中央部が大きな窪地となっており、この地は古くから「とおの窪」と呼ばれている。 幕末の神光寺由来にも「最初の一寺は寺原の地にあり、移転を重ね現在の地に定まったとある。 しかし神光寺が勧学坊であったという証拠は何にもない。 が、寺原の地は寺跡であり、勧学坊のあった地であろうと推察することができる。

第三節 佐々木と弓折

1 弓折と佐々木一族の口伝

「鳥坂城を追われた高兼は、高重の子秀経と僅かな家臣を連れて、行者野から楠木峠を越え大地谷をさかのぼり、今の二ノ坂にただ一軒あった平鍋家まで辿り着き。 留守をしていたばあさんに“空腹だが何か食べる物はないか”と尋ねると、山家の事で何んにもできませんがと言って、粟飯を馳走してくれた。 ばばよ、粟飯と言うのは、おいしいもんじゃのう”と言って、大変喜んで召上られたそうです。

それから家来たちに向って、“お前達には長い間世話になった、真に残念ではあるが、身体が苦しくこれ以上は行くことができない、ここで別れることにするが必ず後を追ってはくれるな、例え百姓になろうとも時節を待って身を立ててくれる様に、わしがここで死んだと聞けばこれ以上追及もあるまいと思う。 秀経のことは頼み入る”と後事を託し弓を折り、遺書を残し鹿の皮を敷物として、心静かに黄泉の客となったそうです。 」

と、以上は今も一ノ坂地方に伝わる、佐々木一族にまつわる弓折の悲話である。 この口伝のように、高兼は武運もこれ迄と弓を折って自殺し、一族は帰農した。 その場所と言う意味で残ったのが、「弓折」の地名であるが、後に蜂須賀家政が一の坂と改めたといわれる。

二 阿波国と佐々木一族の係わり
近江源氏は宇多天皇・皇子敦実親王・三代雅信となり、朝廷より源氏姓を賜わり近江を領し近江源氏となる。 七代経方佐々木の庄に入り佐々木の姓を称す。 九代秀義の次男である佐々木経高は、平治の乱後父と共に近江を去り、相模国秦野に住む。 頼朝の伊豆での挙兵に加わり、兄定綱と伊豆の目代平兼隆を討った。 平家が滅び鎌倉幕府が成立し新しい政治体制が整うと、幕府創設期の功臣である佐々木一族は守護として諸国に配され、長男定綱は平治の乱で失った父祖の地を復され近江へ、次男経高は文治二年(一一八六)淡路・阿波・土佐へと、守護として派遣された。 佐々木経高は三国の守護となり、阿波の鳥坂に居城を築き、次男の高兼を守護代として阿波に残し、長男高重と共に京都大番役として内裏の護衛に当っていた。

正治二年(一二〇〇)大和方面の平家の残党が京都を犯すを聞いて、領国で兵を集めたがこれを市中を騒がしたとして、三国の守護を解任され所領没収された。 子の高重が無実を幕府に訴え翌年頼家によって、阿波・淡路二国の守護のみ復されるも、所領は返還されなかった。 このようなことが原因で討幕の挙兵となった承久の乱には、長子高重と共に上皇方に味方した、守護が上皇方に参じたので阿波国の武士の多くはこれに従った。 しかし利あらず敗れて山城の鷲尾の山中に逃れる。 北条泰時は経高の旧勲を思い降伏を勧めたが自殺をした。

また長男高重も宇治の勢田橋で戦い戦死をした。

承久の乱後佐々木氏に代わって、阿波の守護となったのは小笠原長清であった。 長清は京都に在職し、子の長経が守護代として阿波に来住し、まず佐々木高兼・高範が高重の子秀経を擁している鳥坂城を攻める。
佐々木一族は戦い敗れて逃れ、大地谷川をのぼり一の坂へ、此の地で力尽きて弓を折り高兼は自殺し最後をとげた。
時に承久三年九月(一二二一)である。 この時、高重の子秀経を上山の奥地に逃したとの説もあるが、現在一ノ坂の地には以来七〇〇年余の間、秀経を祖とする人たちが、連綿と家系を守っている。

阿波国守護として経高の治世は三六年間、三好郡誌には守護経高雲辺寺の堂宇を再建と記されている。 また、後世大正十三年(一九二四)従四位を追贈されている。

第四節 山嶽武士

延元元年(一三三六)から約六〇年の間は、南北朝時代と呼ばれている。 阿波でも南朝方と北朝方にわかれて戦い世の中が乱れた。 北朝の足利尊氏は四国を重要視して細川和氏を配置した。 延元元年細川氏は阿波国に入り、阿波郡秋月城によって広い吉野川平野を支配し、全四国に勢力をのばした。 このように北朝の勢力は細川氏を中心に平野の部分に拡大された。 一方四国山脈による武士・山侍は、平野の武士に対して、山嶽武士と呼ばれ吉野朝に忠勤を尽した。 山嶽武士の根拠地はけわしい四国山脈の山嶽地帯で、一宮・大粟山・種野山・祖谷山・田井庄にわたる一帯の地域であった。

この連絡路は、一宮から鮎喰川をさかのぼり、上分に至り、川井峠を越えてさらに西へ、東は一宮から小松島港または橘港に出て、紀州の西海岸、あるいは熊野から吉野に入ったのであろう。 その頃の交通路は、峯を伝い山腹を横ぎり、谷を渡り、けわしい山路をたどる難行路であった。 今も残る上山の山伏街道はそれを物語っている。 一宮から鮎喰川をさかのぼり、また建治寺・方子・臼嶽から楠木峠を越えて、名田河へこの峠近くに今も残っている、「右上山佐那川内道・左おとしぐら道」の道しるべ、さらに大地谷をさかのぼり、一ノ坂・獄門峠・黒河・喜来・立見峠・東分から山の北斜面を西へ、中分の地蔵堂にも寄ったであろう。 堂には「上山」と刻まれた自然石の道しるべが残っており、また上山谷では唯一の正平年号をもつ板碑がこの地蔵堂に残っている。 正平は南朝年号であり、当時の人々による遺物の一つである。 さらに谷の奥から中内へ越し、西元山七郎庵から青井夫杜氏が多尾へ峯の地蔵庵へと続いている。 おそらくは焼山寺へ通じたものであろう。

このような苦労も報われず、一宮城を守っていた一宮氏を細川氏が従わせると、阿波の南朝勢力はしだいにおとろえ、最後まで吉野朝廷と連絡をとりながら、細川氏とたたかっていた種野山や祖谷山の武士たちも、菅生氏を最後に、つぎつぎと細川氏に従い、阿波における南北朝の争いは終った。

第五節 石に残された中世の上山

一 板碑

1 造立の目的
板碑は碑という文字が使われているが、記念碑等の碑ではなく、板状の石を用いた卒塔婆の一種であるといわれている。 「徳島県の歴史第二版」福井好行氏著には、「板碑は鎌倉時代から戦国時代にわたって造られた供養碑で、現在行われている木製の卒塔婆の前身と考えられる」としている。

2 材質形状
材質は剥がれやすく扁平な石で作られており、殆どが緑泥片岩といわれる緑色岩を使用している。 中には砂岩や凝灰岩なども見られる。 形状は頂部が三角形であり、三角形の下に二条の線があり、頭部と身部の区別をしている。 身部の周囲を一本の画線で囲んでいる。 また二本の線や画線のないものもある。 下部はとがらせ地中に

中世の上山
挿し込むに便利に作られている。 大きさは普通一m前後であり、大型は二m位いあるが、その数は少ない。

3 標識(身部の画線の中に刻まれているもの)
・仏像(主尊)をあらわす梵字(種子)が刻まれている。
・種子を刻まず、図像として仏像(主尊や脇侍など)を、また名号や題目などを文字で表わす。
・造立の趣旨や年月日、供養者や結衆。 偈(経文の一部)と言われる文などが刻まれている。
・その他にも、日・月・月輪・天蓋・蓮座・花瓶などが刻まれているものが見られる。

二 板碑の分類
1 標識による分類
・種子板碑……一種子のものと、三種子・五種子がある。 なかでも阿弥陀如来・観音菩薩・勢至菩薩の三尊を表わした、三尊種子板碑が多い。
・画像板碑……阿弥陀如来画像・観音菩薩・地蔵菩薩・五輪塔などである。 町内には宝篋印塔線刻板碑の外多くのすばらしい画像板碑がある。

2 造立趣旨による分類
・追善供養板碑……この板碑がもっとも普通のもので、死者の来世の冥福を弔うためのものである。
・逆修板碑……造立するものが、生前から死後の安楽を祈るために立てるもので、銘文に「為逆修」また「為七分全得」もある。

3 形の上からの分類
・双式板碑……連碑とも夫婦板碑ともいわれ、夫婦の供養のためのものである。 双式板碑は同一様式のものを二基造立したもので、別々の石に作ったものと、同石に作ったものとがある。

三 神山町の板碑
板碑は、もともと関東地方で発生したものである。 鎌倉時代、全国に派遣された守護や地頭など、幕府の御家人がその土地に産する石に合わせて、板碑の造立を盛んにしたと言われている。 緑色岩の多い阿波では、関東の武蔵の国とならんで石造板碑の多い地域である。
守護小笠原氏の阿波入国などによって、武蔵国から伝わったものであろう。 造立されている本県の板碑は、その数約三〇〇〇基と推定され、鮎喰川流域に最も多くその造立が見られる。 神山町文化財保護審議会が、昭和五十三年度から三年余をかけて、町内板碑の悉皆調査をし、その結果が集録されている。 それによると神山で一番古い板碑の紀年は、阿川禅定寺近くの正和四年(一三一五)鎌倉末期のものである。 国府町や石井町にはこれよりも時代の古いものが多く見られるので、板碑は鮎喰川に沿って次第に上流地域へ及んできたと考えられる。

紀年銘文によると、神山では、一三一五年から二五〇年間に造立されている。 町内板碑の集計は下表のようである。 地域別では広野鬼籠野に集中して多く、全体の五〇%以上。 標識別では三尊種子板碑が多く、全体の六〇%以上を占めている。

(表:板碑町内集計(昭和五十六年七月現在))

地域別数
広野 二五四基
阿川 八〇基
鬼籠野 一〇二基
神領 三七基
左右内 四九基
下分 四九基
上分 九〇基
計 六六一基
標識別数
阿弥陀三尊種子板碑 三九八基
ア・バン・ウン種子板碑 三三基
五輪線刻と五大種子板碑 三〇基
五大種子板碑 二二基
大日法報身真言板碑 一〇基
阿弥陀一尊種子板碑 九基
画像線刻板碑 七基
名号板碑 三四基
その他 一〇八基
磨滅しているもの 一〇基
計 六六一基

四 鬼籠野の板碑
1 古書
「大粟雑志稿」は、天保二年(一八三一)今より約一六〇年前、組頭庄屋岸新左衛門の筆で、大粟山村々の様子を書きとめてある。 これを明治三十一年大粟太郎兵衛が、武田貞蔵に書写させたものが現存する。 この中に鬼籠野の板碑について、次のように書かれている。
〇鬼籠野村本名辻堂杉樹下より近年掘得たる古碑

(図の記述)
・梵字 / 為先妣十三回也 / 応安六十月 日(北朝年号 一三七三)
・梵字 / 為□□禅門七 忌□□ / 正平七年八月十一日敬白(南朝年号 一三五二)
・梵字 / 為□□禅尼侍者 / 貞治二正月□□(北朝年号 一三六三)
・梵字 / 為先考三十三回 / 応安六十月 日(北朝年号 一三七三)
・外ニ六ツアリ文字磨滅不可読

右のように記されており、図の四基と他の六基を合せて一〇基あり、碑の標識も四基は図のように読まれていたが、今は上部の梵字(種子)だけが残り、文字は磨滅してかすかな痕跡のみとなっている。 碑数は古書の通り一〇基が現存している。
この中の一基は正平七年八月十一日の紀年銘があり、南朝年号である。 県下の南朝年号板碑は、五基位と推定されている。 国府町矢野に正平五年、入田海見・石井町・神山町・阿波郡切幡に正平七年が見られる。 切幡を除いては鮎喰川の流域である。 この流域は、南朝を支持した山嶽武士たちの連絡の通路であり、また生活の場であったと考えられる。

2 鬼籠野地域の板碑
一〇二基で町内では、広野についで多く、標識別に見ると次のようである。
・阿弥陀三尊種子 七九基
・ア・バン・ウーン種子 一基
・五輪線刻と五大種子 五基
・五大種子板碑 四基
・画像線刻 一基
・名号板碑 二基
・不明・他 一〇基
・計 一〇二基
右のようにその大部分七七%までは、阿弥陀三尊種子板碑である。

鬼籠野の地域別板碑の分布を見ると、次のようである。
・猪ノ頭 二四基
・喜来 二基
・中津川 二基
・一ノ坂 一基
・黒河 一四基
・中内 九基
・元山 七基
・坂瀬川 二一基
・東分 五基
・日浦 五基
・中分 一二基
・計 一〇二基

3 特殊な標識を持つ板碑
鬼籠野中分安井氏宅前の道路沿いに、板碑が一基立っており、人目を引く全長二四〇cm・幅六三cm・厚さ八cmで、町内でも一番大きいと思われる。 銘文は十行にわたり草書で刻まれているが磨滅しており判読もできない。
この主尊の種子(梵字)を何んと読むか、専門家の間でも意見が分かれている。 梵字の上部は、「キリーク」で、阿弥陀如来・大威徳明王を示す、で一致し、下部の解釈が分れている。 この板碑は、町の指定文化財となっており、その説明板にも次のように記されている。
・主尊 大威徳明王か又は阿弥陀如来と地蔵菩薩の併合種子であろうという。
・銘文 磨滅と欠失部分があって判読し難い、僧侶か修験者らしい多勢の名の中に「円賢」の名が見え、阿川勧善寺大般若経奥書の尾呂野勧学坊円賢と同名である。 紀年四月とのみ読め至徳嘉慶年代と推定する。
・その他 結衆板碑であろう当時の鬼籠野をこの板碑が象徴しているようである。
右のように書かれており、多くの人々の名前が見られ、浄財を出し合った人たちの結衆であろう。

【考証メモ②】中世史・一次史料と金石文の評価

『社家条々記録』や大般若経奥書など、作成年代が明確な一次史料に基づく地名の初出検証は客観的根拠として高い価値を持つ。
一方で、佐々木氏の「弓折」伝承は、貴種流離譚の構造を持つ口伝であり、同時代文書による裏付けがないため史実としての断定は避けるべきである。対照的に、現地に残る「板碑」群は建立者や年号が刻まれた確かな金石文(物的証拠)であり、南朝年号の存在はこの地域の中世の政治的立ち位置や信仰形態を証明する第一級の史料として評価できる。

近世の上山

百姓のしくみ

一 壱家と小家
江戸時代の生活のよりどころであった家は、壱家・小家・部屋に分かれていた。 これは阿波藩独自の制度であり、壱家とは本家であり、小家とは分家を意味した。 壱家は、小家を掌握し、その縁組等身分上の万事を指図し、壱家の責任において年貢・夫役を負担し、壱家は藩に対して全家族を代表した。 藩は壱家に対して小家の取締りを命じている。 棟付帳には家長を壱家何某と書き、家族は一人何某と書かれた。 壱家は村の構成の正員で、百姓の代表的存在で耕作に従事する下人を使用した。
また壱家は耕地を所有し、用水利用の権利や、入会地の採草もできる。 年貢を納める義務や先祖弔いの責任を持つ。 この先祖の年忌弔は最も大きな壱家の責任で、もしできない場合は、本家を失って小家とならねばならなかった。 この本家としての責任がとれない場合は、小家の信望あるものが壱家になった例もある。 小家は壱家の分家であり、弟・いとこ・叔父のように、血縁関係の忌懸(いみがかり)小家と、壱家と互いに得心の上、下人から身上りした忌外(いみはず)れ小家がある。 また小家は壱家と違い「こまえ」「こいえ」といわれて壱家に従属し、壱家の田畠を耕作して収入を得た、小家の中にも高持小家といわれ、自分の田畠を持った小家が万治棟付では一五家、延宝棟付では八家あったが、享保では無くなっており、壱家へ身上りしたと考えられる。 文化年間には分家による小家は少なく、名子・下人の解放による小家が多くなった。 これは分家のために田畠の分割が行われるので、農民の細分化を恐れ幕府は、寛文十三年(一六七三)・正徳三年(一七一三)に分地の制限令を出し、これを制限したがなかなか守られなかった。

二 身居(みずわり)
家に家格があるように、藩政時代には人にも身分が定められていた。 この身分は世襲であって、一生の間ほとんど変わることがなかった。 士・農・工・商とその他の身分があって、支配階級の武士と支配下にある百姓・町人に分かれていた。 また百姓や町人も身分によってそれぞれ上下に分かれており、この格式による身分を「身居」といった。 次のような名称が徳島県警察史に記されている。

1 郷士(ごうし)・郷高取(ごうたかとり)
2 小高取(こたかとり)・小高取格(こたかとりかく)
3 原士(はらし)
4 一領一匹(いちりょういっぴき)
5 郡付浪人(ぐんつきろうにん)
6 郷付浪人(ごうつきろうにん)
7 構浪人(かまいろうにん)
8 所付浪人(ところつきろうにん)
9 支配外無役人(しはいがいむやくにん)
10 郷鉄炮(ごうてっぽう)・御鉄炮(おてっぽう)
11 郷目付(ごうめつけ)
12 御林目付(おはやしめつけ)
13 加子(かこ)
14 取立人(とりたてにん)
15 先規奉公人(せんきほうこうにん)
16 御目見人(おめみえにん)
17 神職・僧侶
18 農民
19 職人
20 町人
21 来り人(きたりにん)・其の他
22 賎民(せんみん)

三 村の行政からみた身居
1 与頭(くみがしら)庄屋
郡奉行の任免で、数か村の村役人の長であり多くは村の庄屋を兼ねた。 また多くの庄屋を支配し組内村治の指導者で、村政を運営する責任者である。 苗字・帯刀・御目見えを許された。

2 庄屋
現在の村長や町長にあたる。 村の行政の中心であった。 万治年間までは庄屋又は政所(まんどころ)と称し、其の後は庄屋と称した。 脇差を差すことを許され功績や家柄によって、苗字帯刀を許されたものもいた。 支障がなければ世襲を許されたが、その任免は郡奉行がおこなった。
また庄屋が幼少の時は後見人をおいた。 その責務は村民を指揮監督し、村自治の責任を持ち、村人の訴訟をあつかい、また村の年貢・夫役・村役等の徴収の責任を持った。 待遇は庄屋一家と忌懸小家までは、夫役と小役が免除された。

3 肝煎(きもいり)
世話をすること、する人の意である。 拝知(はいち)百姓(むらあき)が村長になると、庄屋と言わず肝煎と称した。 その任免・責務・待遇等はすべて庄屋と同じである。

4 五人与(くみ)
江戸時代幕府の命により、古代の五保制にならい全国的に制度化した庶民の隣保組織である。 普通は五軒が集まって組をつくり、組頭があって組中の吉凶について助け合い、犯罪と年貢について共同責任を持った組織である。 阿波藩に於ける五人与は、幕府の制定した組織とは全く異なるものである。 阿波藩独得の棟付改によって付け上げられた壱家・小家制があり、その中の一つの役職としてつくられたもので、全国的な五人与とは全く性格組織が異なり、庄屋または肝煎を補佐する村役人であった。 一村に五人前後が郡奉行によって任免されていた。 待遇は本人一人は夫役免除、一家は小役免除となった。

5 行キ(あるき)
村役人のひとり、法令や村自治の周知事項を、村内に触れ歩いた者である。 一村に四、五名程度いた。 待遇は夫役免除である。 行キはさがり者と思われ、一般の百姓よりいやしめられる傾向があったので、享保三年に触れ使いと改称し、身分も五人与と同格にする法令が出されたが人の見る目は改まらなかった。 触れ使いは、法令布達や周知事項を一般文盲の村人に知らせる仕事のため、文字が読めたり、物事の判断がすぐれていないと、勤まらなかったから一般人より知識人であった。

6 取立役
村内の年貢を取り立てる村役人。 民選で無給の名誉職。 一村一人で脇差御免夫役免除であった。

7 郷目付
郡内の警備・監察を務める民籍無給の村役人で、江戸時代の後期頃に郡奉行の任命で各村に一人ずつ大百姓をこの役に任じた。 与頭庄屋以下五人与にも干渉する力を持ち、苗字帯刀御免である。 また、ぶつさき羽織に裁着袴(たっつけばかま)で脚絆をつけ、提灯は阿波藩の印入に、郡代所御用と書かれていた。

8 同心
郡代所に所属し目付役と共に、郡内の警備・監察を務めた。 服装は目付役と同様、十手取縄を持ち、提灯は前面花菱、後面は地方御用と書かれていた。

9 番非人
普通番太といった。 棟付帳にのっている場合と、のっていない場合とがある。 百姓の下の身居であり、各村の村はずれに居住し、庄屋・郷目付に従属して、村の警備や火の用心触れ廻り、夜逃げ・盗人・密造酒の摘発等に務めた非人で、村人から敬称をつけず名前を呼びすてにされ、一人前に認められなかった。 十手は黒房であった。

四 棟付帳などに残る村役人
1 与頭庄屋 鬼籠野村には無く、神領村の与頭庄屋の支配下であった。
2 庄屋(〇印は棟付改時御帳記載有)
慶長十三年(一六〇八) 強市郎 慶長十三年検地帳小野路村の項に政所強市郎とある。
明暦 三年(一六五七) 長助 三三歳 明暦三年以前より庄屋役。 明暦三年棟付人改下調帳。
〇 万治 元年(一六五八) 右同 三四歳 万治元年棟付人改時庄屋役。
寛文十二年(一六七二) 右同河野源兵衛四九歳 長助名改め河野源兵衛。 寛文十二年棟付人改下調帳。
〇 延宝 二年(一六七四) 右同 五〇歳 延宝二年棟付人改時庄屋役。
(不明) 河野源左衛門 三四歳 源兵衛子千助名改め源左衛門庄屋役。 不届あり元禄三年庄屋役召上。 元禄六年酉ノ九月御両国御追放。 享保九年棟付帳と同年の死人立退人御追放人数御改帳御追放人源左衛門の項に記載あり。
4 五人与 延宝弐年棟付帳より記載があり、此の頃につくられたと考えられる。
5 行キ(〇印棟付改時御帳記載)
慶長十三年(一六〇八) 孫一郎 ・久左衛門 二人 慶長十三年検地帳に記載あり
寛永十二年(一六三五) 源十郎 一人 上分村誌P一三〇より
〇 万治 元年(一六五八) 久太夫 ・孫作 ・市兵衛 三人 万治元年棟付帳
〇 延宝 弐年(一六七四) 六兵衛 ・利右衛門・市兵衛 三人 延宝弐年棟付帳
〇 享保 九年(一七二四) 善兵衛 ・伊左衛門・仁兵衛 ・清九郎 ・勘右衛門 五人 享保九年棟付帳
〇 文化 六年(一八〇九) 要助 ・い王 ・亀之助 ・徳平 ・勘次郎 五人 文化六年棟付帳
6 取立役 棟付帳其の他にも記載がなく不明である。
7 郷目付 江戸時代後期の頃につくられた村役人、文化六年棟付帳にも記載なし。 文政十一年(一八二八) 郷目付五人与 笠井兵蔵 文政十一年宗門改帳に記載あり。
8 同心・番非人 棟付帳其の他にも記載がなく不明である。

五 百姓の身居
村の構成の主体となるのが百姓で、庄屋以下の農民のことである。 土地耕作の権利を与えられ、年貢と夫役を支配者に納める義務を課せられた農民である。 年貢を納める先によって、御蔵百姓・拝知百姓の区別がある。 家柄や所有地の多少によって、本百姓・平百姓・間人百姓・名子・下人・潰人の別がある。 また家の構成によって、壱家・小家・部屋・影の区別がある。 さらに居住地によって、見懸人・来り人・出作百姓・出稼人・日稼人等の身居がある。

1 御蔵(おくら)百姓: 年貢を藩の御蔵に納める百姓。
2 拝知(はいち)百姓: 預入(ずいいり)百姓ともいわれ、藩士の知行地で藩の家臣に年貢を納める百姓。
3 本百姓: 地主であって、これが百姓の基本の身居である。
4 百姓(平百姓): 一般の百姓で農民の中で、最も多い身居である。 自作農・自作兼小作農などがあった。
5 間人(まうど)(間人百姓): 他国より移住してきた百姓で、文禄三年(一五九四)の人定によってその土地に定着させられたものを、土着の人々が、客人(もうど)・間人と呼んだのがこの名のおこり、多くは耕作すべき自分の土地を所持せず、他人の田畠を小作して生計を立てている。 水呑百姓であった。 のち文化六年の棟付帳では見懸人と記されこの頃に改称された。 夫役は百姓の半分であったが、後百姓と同じになり身分上の差別はなくなった。 他から移住してきた紺屋や職人もこの身居になり、一人前の夫役はかからず見懸銀を課された。
6 名子: 本百姓に隷属してその家の耕作に従事し、また世襲的にその土地の一部を小作する下級の百姓で、本百姓に支配されていた。 阿波藩では名子放しといって、支配主より解放され、小家・壱家となり夫役を負った例が多い。
7 下人: 名子よりも下の身居で、本百姓の小屋などに住み奴隷(どれい)として、労働力を提供した。 また主人の所有物として譲渡売買の対象となった。 この身居であっても名子となり、また小家・壱家と身上りした例もある。
8 潰人(つぶれにん): 破産して田畠や家屋敷などを売った百姓。 村を出たり、乞食になったものがある。 夫役が免除された。
9 来り人: 他村から移住し、居屋敷を求めて定住したものである。 来り人は一人前の百姓として扱われず、夫役は本籍地で納め、年貢は田畠を有する村で納めた。 また現住村では宗門改めを受け、小役を課された。
10 出作人: 出作百姓ともよばれ、本籍地の村以外で田畠を所有したり借りて、移住または通って耕作する百姓。
11 出稼人: 代官の暇証文と郡奉行の印を得て、本籍地を離れ他に仕事を求めて働きに出るものである。
12 走人: 暇証文を受けずに村外へ移住したり、生活困窮等により他領・他村へ出奔・逃亡し行方不明の者。 また出稼に行って 期限内に帰らない者等を走人と称し、その者の夫役は三年の間は村が負担し納めた。

六 棟付帳に残る百姓身居
棟付帳の名前の上に、御蔵本百姓・御蔵百姓と御蔵が記されたのは、文化棟付帳からであり、それまでは本百姓・百姓で分けられていた。 本百姓は、検地帳の慶長十三年には二二家あり、棟付帳では万治元年二二家・延宝二年二五家・享保九年三六家・文化六年三一家があった。 鬼籠野村の百姓身居について、棟付帳の中にどんなものがあるか、それぞれどんな例があるか、次にみてみる。(万は万治・延は延宝・享は享保・文は文化の棟付帳に記載あり)

1 本百姓・御蔵本百姓
万 壱家 高拾石九斗九升六合 本百姓 孫左衛門 蔵六拾壱
延 壱家 高拾四石九斗五升七合本百姓 四郎兵衛 同五拾八
享 壱家 高拾壱石八斗九升壱合本百姓 金左衛門 同四拾五
文 壱家 御蔵本百姓 孝左衛門 同五拾壱

2 百姓・御蔵百姓
万 壱家 高七石九斗壱升六合 百姓 彦右衛門 同弐拾八
延 壱家 御蔵百姓 弥兵衛 同五拾
文 小家 御蔵百姓 弥兵衛忌外 伊右衛門 蔵弐拾弐

3 間人百姓
万 壱家 高七石三斗三升三合 間人 左衛門次郎 同四拾壱
享 壱人 間人百姓 久介 同六拾六
此者立木傳左衛門様御改之節者藤左衛門下人作右衛門子どる市と御帳ニ付上申候得共互得心之上元禄三年身請仕申ニ付此度御改ニ間人百姓と附上申候尤田地少も無御座方々流浪仕口過居申候

4 名子
万 小家 高五石四斗六升八合甚五郎名子 仁兵衛 歳四拾四 此者弐拾年以前ニ飛弾守様へ御駈出奉公人ニ被召出尔今相詰居申候
延 小家 善兵衛名子 四兵衛 同四拾九

5 下人
万 壱人 長助下人売人 市蔵 同弐拾弐 此者當郡廣野村九郎兵衛方へ辰ノ年与弐拾年切本銀返ニ売置申候
万 壱人 源三郎買人 太郎 同弐拾壱 此者以西郡佐那川内村甚三郎方与明暦元年与四年切本銀返ニ買置申候

6 潰人
享 壱人 九郎左衛門甥 万右衛門 同弐拾四 此者潰人ニ罷成名田無御座候ニ付旁々稼キ仕口過居申候

7 来人
文 壱家 来人 佐々木嘉太助 同弐拾六 此者當郡神領村小高取佐々木儀左衛門小家ニ而親惣次代明和八卯年當村へ別家仕田宅相求住居仕居申候ニ付稼御手形被下置御座候

8 出作人
享 壱人 平兵衛甥 弥兵衛 同三拾五 此者同郡廣野村ニ名田御座候ニ付右村へ出作仕罷越倅共壱所ニ居申候

9 出稼人
文 小家 喜左衛門伯父 新兵衛 同六拾七 此者幼少之節与市中江罷出只今ニ而者助任町ニ而家屋敷相求金屋新兵衛と相唱鍛冶職ヲ以相稼居申候ニ付稼御手形頂戴仕候右之仕合當村家無御座候

10 日稼人
文 小家 御蔵百姓 源助忌外 政之助 同七拾三 此者無家ニ付本家源助方ニ加者仕日雇稼ヲ以相営居申候

11 流浪人
万 小家 孫右衛門従弟 久太夫 同六拾壱 此者先年嶋主殿助様森佐太右衛門様御改之節流浪人と御帳ニ付上申候今以労口過仕居申候

12 奉公人
文 壱人 実五郎弟 森助 同弐拾 此者當二月与當郡高原村徳三郎江戸藍店江罷越奉公稼仕居申候ニ付稼御手形頂戴仕候

七 いろいろの身居
1 小奉行・小奉行格
最下級の藩士の階級で、事務の手伝い役や雑役を勤める。 幕末には城下に百余名いたようである。 手代や足軽・小卒から出世した家が多い。 鬼籠野村河野小兵衛が江戸で、御前様下男御奉公を勤めその養子があとを継ぎ、後に小奉行御格式に立身し、御番所御用を勤めて居る。 この養父の小兵衛は、万治棟付帳にある鬼籠野村庄屋河野源兵衛の弟である。
棟付帳には次のように書かれている。

イ 延宝弐年棟付帳(一六七四) 壱人 源兵衛弟 小兵衛 歳四拾四 此者寛文六年ニ江戸へ参御前様下男御奉公人ニ罷成居申候

七 棟付帳に見られる人身売買

1 人身売買に関する幕府の御定

定 元和二年十月 (一六一六)
一武士の面々若党之儀不及申中間小者ニ至迄一季居一切抱置へからさる事
一人賣買之事一円停止たり若賣買濫之輩ハ賣損買損之上被賣るる者ハ其身之心ニまかすへし併勾引賣ニ付而ハ賣主ハ成敗う一季之事三ヶ年を限へし但三年を過は双方曲事たるへき事

以上は、幕府が元和二年にだした、御定十ヶ条のうち人身売買に関するものである。 御定の要旨は次のようにである。
第一条は、武家での一年切の奉公を禁止。
第二条は、全般的に人の売買を禁止、処罰は売損買損とする。 人のかどわかし売は、売主厳罰売られる者は本へ返す。
第三条は、売買年季を三か年に限定している。
幕府はこのように、人身売買取り締まり法令を、元和二年に初めて発令。 以後二〇数回にわたり改訂発令している。 勾引売(かどわかしうり)については、元和五年(一六一九)の高札では、「人をかとかはし売候者死罪事」と、はっきり死罪をかかげている。
奉公年季は、元和二年には三か年に限ったが、寛永二年(一六二五)には十か年になり、これが七〇余年間続き、元禄十一年(一六九八)になって全面撤廃され、年季無制限となった。

2 人身売買に関する阿波藩の法令
御国法(御壁書)二十三か条・裏書七か条

イ 御壁書第十一条 元和四年正月 (一六一八)
一国中百姓等或奉公養子入聟嫁入出家職人を望又は人之賣買並人之質入等之族有之而他郷江罷越何時も代官給人下代へ能相理於得心ニ者可致其沙汰然は其節事之趣両方慥成墨付を取替可申合若無其義取遣仕於後々申事仕族何時も其者可返置但嫁入今日より跡之義可為縁付事

ロ 裏書第五条 寛永四年七月 (一六二七)
一人々賣買質入等之義代官給人下代へ能相理墨付取合申者之義は可被任其旨或慥成肝煎賣手之墨付を以申定者之義は本銭を道可取返何の書物も無之は不及子細可返置事

右の、御壁書第十一条は、国中の百姓等で他郷へ出るものは、代官・給人・下代へうかがいをたて、承認を得たら両者で証文を取りかわすこと。 勝手にやり取りして後日もめごとがあり、訴えても取り上げないとの意である。 裏書第五条は、人の売買・質入は代官・給人・下代の許可を得て、証文を取りかわし、本銭返のものは有効であり、証文を取りかわさないものは、如何なる子細があっても、無効とするの意である。 阿波藩では、このように正当な理由があると認められ、代官・給人・下代の承認裏判や本銭返の条件記載のある証文が、売主買主で取り替されておれば、人の売買・質入も認められていたことになる。

3 鬼籠野村の棟付帳に見られる人身売買

イ 万治棟附人改御帳より
一壱家 高弐拾七石三斗弐升弐合 本百姓 宮松 歳拾壱
壱人 宮松兄賣人 太郎助 同弐拾五 此者當郡上山村六郎左衛門方へ慶安三年与十三年切本銀返ニ賣申候
壱人 宮松兄賣人 仁蔵 同弐拾弐 此者當村勝五郎方へ亥年与拾五年切本銀返ニ賣申候
壱人 宮松兄賣人 三蔵 同拾九 此者當村五兵衛方へ卯年与三拾五年切本銀返ニ賣申候
小家 宮松下人 次郎作 同三拾四
小家 宮松名子 久作 同三拾三
壱人 菊蔵 同壱ツ
壱人 久作賣人 いせ 同弐拾壱 此者當村伊兵衛方へ明暦弐年より五年切本銀返ニ賣申候
一壱家 高拾九石五斗四合 本百姓 伊兵衛 同五拾三
壱人 伊兵衛買人 伊勢 同弐拾壱 此者當村久作方与明暦弐年与五年切本銀返ニ買申候
小家 伊兵衛弟 李兵衛 同五拾
壱人 李兵衛買人 太郎作 同三拾四 此者當村藤右衛門方与寛永拾壱年与三拾五年切本銀返ニ買置申候
(以上売買された六人、外に三二人記載省略)

ロ 延宝棟附人改御帳より
一壱家 高拾三石七斗六升五合炭焼大工 分右衛門 歳四拾八
壱人 分右衛門買人 三吉 同三拾壱 此者名東郡之内佐古村十三郎方与本銀返買申候
一壱家 高拾五石壱斗壱升弐合 本百姓五人与 八右衛門 同弐拾七
壱人 八右衛門弟 三蔵 同弐拾壱 此者當村長右衛門方へ五年切本銀返賣申候
壱人 八右衛門弟 六蔵 同拾七 此者當村儀兵衛方へ五年切本銀返賣申候
(以上売買された三人、外に二一人記載省略)

ハ 享保棟附人改御帳より
一壱家 高弐拾三石四斗七升弐合 本百姓弥市兵衛 同四拾八
小家 弥一兵衛従弟 作右衛門 同六拾壱 此者立木傳左衛門様御改之節當村所兵衛方へ拾五年切本銀子返賣申候と付上申候へ共其後請戻シ申ニ付弥一兵衛従弟小家と罷成候
小家 同人従弟 与次右衛門 同五拾九 此者立木傳左衛門様御改之節當村太郎左衛門方へ拾年切本銀子返賣申候与付上申候所其後請戻シ申候
一壱家 高拾石三斗四升四合 本百姓五人与 八右衛門 同七拾七
壱人 八右衛門弟 李兵衛 同七拾壱 此者同村長右衛門方へ五年切ニ賣候と先年御改之節付上 申候其後請戻シ申候
一壱家 高拾五石壱合 本百姓 藤次郎 歳四拾五
小家 藤次郎弟 丑次郎 同三拾九 此者親庄三郎儀名東郡之内佐那川内村分左衛門方へ拾年切本銀子返賣申候と立木傳左衛門様御改御帳ニ付上居申候得共其後請戻シ當村ニ而夫役被仰付候者之子ニて御座候
(以上売買された全員記載、すべて売人請戻しである)

右記載のように、棟付改御帳に人身売買の記録が残されており、次のような事が考察される。

イ 万治棟付人改帳では、六例を記載したが、御帳には売られ人一八と買われ人二〇の計三八人が記載されている。 五例目の買主壱家伊兵衛が、伊勢歳弐拾壱を久作方より買っている。 同じ五年切本銀返しであり、この「いせ」と「伊勢」は、明らかに同一人物である。 売主側と買主側の両方で、棟付帳に付上げられている。 売買三八人中、鬼籠野村内で売買は一五人で、内一二人までが両方で付け上げられており、村外売買を含めて、集計などの上で、問題があると考えられる。

ロ 延宝棟付人改帳では、三例を記したが、御帳には売られ人二一と買われ人三の計二四人が記載されている。 鬼籠野村内の売買は、一一人であり、全部売主側だけで棟付帳に付け上げられ、万治棟付時の問題点が攻められている。

ハ 享保棟付人改帳では、売られ人請戻の記載が四件あるだけで、売買の記載は見られない。 享保の三例目の売主八右衛門と請戻された李兵衛は、前出のロ、延宝の二例目、売主本百姓五人与八右衛門歳弐拾七と同じである。 此の間五〇年あり、享保九年には八右衛門は七拾七歳である。 弟三蔵を延宝二年、五年切本銀返ニ売り、其の後請戻していた。 三蔵は改名して李兵衛となつている。 この記録が、五〇年後の享保棟付帳に記載されている。売られ人の年季は、五年以下の短期から、三〇年・永代の長期のものまである。

万治・延宝の頃は、幕府が奉公年季を一〇年と制限していた時代である。 このように一応の制限はあったが、阿波藩の場合には代金を貢租にあてるときは、年季を問題とせず、制限もしなかったようである。

年季売買は、雇主と契約し期間を定めて、人身を担保にし代金を借用するもので、支払方法によって、本銀返し(ほんぎんがえし)と本銀捨(ほんぎんすて)りがある。 本銀返しは、質の年季間の労働が本銀の利子に相当する。
年季が明けても本銀を返さなければ、質は解放されないので、質にとって、永代売と変わらない結果となることがある。 本銀捨りは、売られ人代金は安いが契約年季を勤めると、本銀を返さなくても質の売られ人は解放される。 質自身にとっては有利である。 鬼籠野村の場合は、万治・延宝の頃は、棟付帳で見る限り本銀返しである。

検地帳

検地とは、領主による田・畠・居屋敷の調査のことである。 中世における、荘園領主や国司が年貢などの徴収のために行った、検注といわれる土地調査をもとにして、戦国後期の大名により次第に行われ、近世になり太閤検地以後一般化してきたものである。 これらの検地の結果を記したものが検地帳であり、公的な土地台帳で、水帳・御縄打水帳などとも言われる。 田・畠・居屋敷を一筆ごとに、所在する地字を肩書に記し、反別・田畠の等級・石高(検地によって決められた責任収量)・名負人が記されている。 この検地帳は原則として、村単位に二冊作られ、一冊は領主へ、一冊は村方へ下付されている。 領主の年貢徴収は、実収穫高に関係なく、この検地帳に記された石高がその徴収の基礎とされた。 検地の最初は、天正年間に行われた太閤検地と言われる、秀吉による天正検地であるが、大粟谷では実測は行われず百姓の申告によったもののようである。 この天正検地帳は当村には残されていない。 実地について測量が行われた検地は、鬼籠野村では慶長十三年(一六〇八)である。 この慶長検地は幕府の命により、全国一様に六尺を一間として行ったものであるが、阿波藩では昔ながらの六尺五寸を一間として行われたようである。

一 検地帳のみかた
延宝弐年(一六七四)検地帳本名の中より抜きだし例として次に掲げる。
①(地名) ②(等級) ③(面積) ④(石高) ⑤(名負人)
馬場の下 上上田 壱反壱畝拾弐歩 弐石弐斗八升 儀兵衛
祭がれ田 中上田 六畝三歩 壱石三升七合 源兵衛
滝ノまへ 下田 壱畝弐拾七歩 弐斗四升七合 所兵衛

① 地名
当時は地番が無かったので、通称地名や小字名で表わされている。 今も昔からの地名が残る所がある。 西分のことであり、慶長の頃は小野路村であった。 阿保坂は独立した名であり、慶長の頃は阿保坂村であった。 右のように検地帳は、田畠の一筆ごとについて、すべて一桁に書かれている。 本名とは現在の川東・東分・中分・
泉坂 上上畠 壱反四畝六歩 壱石七斗四合 市郎右衛門
森ノ下 中上畠 弐畝拾八歩 弐斗三升四合 左次兵衛

② 等級
田畠の地味や水利を調べ、上中下の三階級に大別し、更にそれぞれを、上中下の三つに分け九等分し、その下に、下下をつくり十等級に分けられた。 なお畠の場合は十等分の他に、山畠と居屋敷があった。

③ 面積
六尺五寸を一間とし、田畠六尺五寸四方を一歩(坪)といい、三〇歩を一畝とし、三〇〇歩を一反とした。 検地では一筆ごとの田畠を、二間竿(拾三尺)約四メートルで測量し、反別を定めた。

④ 石高
延宝検地帳には石高、慶長検地帳では分米と書かれており、藩によって定められたその田畠の責任収量である。 この責任収量は、田畠の等級別に一反歩の収量を名(村)ごとに、代表的な田畠で坪刈を行って定めた。 この等級ごとの反当責任収量(石盛)と、その田畠の面積をかけ合わせて、責任収量が定められた。 これが検地帳に記載されている石高(分米)である。

⑤ 名負人
土地の耕作権や所有権などを、領主によって公式に認められ、検地帳に名前を登録された者で、年貢負担の義務を負わされた。

⑥ 上毛(うわげ)
畔に生えている、桑・栗・柿・茶・楮・漆にも年貢が課せられた。 延宝検地帳では、名ごとの帳の終りにまとめて記載されている。 また、慶長検地帳では、田・畠・居屋敷の一筆ごとに記載されている。 次に、石高算出の基となるものは、前出④のようにして定められた、石盛という等級別反当責任収量を、上上田から下下下田まで、十等級を揃えた、これを矩揃(かねぞろえ)といい、同じ等級の田畠でも、名(村)ごとに異なった。

年貢のいろいろ

一 田畠の年貢
年貢とは、国語辞典に①毎年の貢ぎ物。 ②小作料。 とある。 現在では地主と小作人の間にある②の小作料と解されるが、藩政時代には田畠の耕作者が、領主に対して貢納する租税を年貢といった。 田畠に対する年貢は、田は米で、畠は麦・蕎麦・大豆などである。 江戸時代の年貢は現物・金銀銭を含めて、物成ともいい、その基本は水田の米であった。
・年貢 原則は、検地帳に記された石高であり、この石高に対して年貢と諸役は賦課された。
・税率 四公六民の制度が普通である。 四公六民とは、石盛によって自分の田に定められた石高(責任収量)の四割を年貢として納め、六割を自分の収入とした制度で、これを四つ物成といった。 しかし外にもいろいろな付加税が付いたので、結局は反対の六公四民となった。 自分の田の石高(責任収量)が一石と定められていると、四斗は年貢として御蔵百姓(当村は全部御蔵百姓)は、藩の蔵に納める。 残る六斗が自分の収入になる筈であるが、次のような付加税があった。

・延米(のべまい) 江戸時代初期貢租米は枡に山盛にして納めたが、元和二年(一六一六)斗掻が用いられるようになり、かき落された余り米を見積もったものが延米である。 延米の率は、三斗五升に対して二升であったが、地域によって異なり私領ほどきびしかった。 阿波藩では年貢の二割で、年貢四斗に付き八升が延米とされた。
・夫米(ぶまい) 人足米とも言われ、夫役の代りに納めた米であった。 後、租税の一部となり年貢の附加税として徴収された、その割合は年貢四斗に付き六升であった。
・欠米(かけまい) 込米・入れ目とも言われ、米の輸送・取引・保管の過程での欠損米補充のため、あらかじめ徴収した付加米である。 年貢(物成)に夫米を加えた四斗六升の一割、四升六合(五斗俵に付二升三合)を納める。
右のようになり、一石の内年貢四斗、延米八升、夫米六升、欠米四升六合で、これを合計すると年貢として納めるのは五斗八升六合で、残りの四斗一升四合が自分の所得である。 結局六公四民に近い年貢である。 自作の百姓はこれだけ残るが、小作農は残ったこの所得を地主と半々にするから、米を一石作っても自分の手に残るのは、わずか二斗七合である。

終日県命に働いてこの状態である。 普通作ならまだ良いが凶作となると大変で、文字通りの水呑みの百姓の生活である。 米を作って米が食べられない極貧の生活であった。 土地にしばられ身居にくくられた農民の生活は、不安と生活苦から凶作の時には一揆となり、田畠を捨てて他国へ走る者さへあった。 田畠の年貢の納期は、夏年貢は六月二十五日まで、秋年貢は十二月二十五日までとされた。 期日は厳守され、納入の責任者は庄屋であり、壱家百姓・五人与などが連帯責任を負わされた。

二 内麦と外麦
・内麦 二毛作田で表作の米には、普通田と同じに年貢が課され秋に納める。 この米年貢の一部を麦で上納させた、しかもその割合は、米一石に対して麦は三倍の三石とした。 これを三ツ折といい、これが内麦である。
・外麦 二毛作田の裏作の麦に対して課された年貢であり、夏に納める麦年貢のことである。
右のような制度は、他藩では見られないものであった。 麦作は洪水や台風の心配が無く大体平年作がとれたので、内麦として上納させ軍馬の飼料に供した。

三 林野と年貢
林野では、借用権利金や使用料に相当する年貢を徴収され、村や個人に貸しさげられていた。 定請名負林・御検地名負林の床銀・床銭は借用権利金であり、定請銀・税銭は使用料に相当する。 一反歩当りの金額は次のようである。
・文化四年(一八〇七)定請名負林の、中林では床銀三匁・定請銀一匁五分。
・明治四年御検地名負林、中林は床銭六〇〇文、税銭二〇〇文。 下林床銭四五〇文、税銭一五〇文であった。
・山林税は明治初年の国山林に対し、貢租と国税の外に山林税があった。 一町歩につき年間三〇〜八〇銭であった。

四 夫 役
棟付改は、夫役を課するための戸籍調査を目的としたものである。 夫役は年貢とともに百姓の大きな義務で、労力又は米や銀で納めた。 夫役・夫役米・夫役銀などの名称がある。(前出第四章四、夫役帳・夫役御赦免帳の項参照)
一人役は、年間二十日の労役奉仕であったが、寛文四年(一六六四)銀納になった。 「一人役は銀二十五匁」となり、これを五人が分けて負担した。 一人分は「夫役二歩役」となり、人頭税となって「一人分は年間銀五匁」となった。 夫役銀の使途は、城下の普請や土木新田工事、薪伐り、竹林伐り、その他の諸労役に使われた。 この外にも藩及び在々の雑用・藩主の巡回・幕府巡見使・諸奉行来往・道路橋梁の補習・鷹狩・川狩などの諸役等である。
右のように百姓には夫役銀が課された。 また商人・職人・見懸人などは夫役を免除されたが見懸銀が課された。 見懸銀はその村へ移住してきた紺屋や職人が、所得に応じて税として課された銀のことで役銀といわれた。 鬼籠野村の棟付帳には、次のような役銀の記載が見られる。
・鍛冶役銀 万治棟付帳には年間六匁から三拾匁が六名。 延宝棟付帳には年間拾匁から三拾三匁が六名。 享保棟付帳には年間六匁五分から拾五匁の九名が記載されている。
・木挽役銀 享保棟付帳に御役木挽役銀拾匁五分と九匁の二人の記載がある。
・紺屋役銀 延宝棟付帳に御役米三升が二名。 享保棟付に御役米三升が一名と見懸銀五匁が一名記載されている。

五 その他の雑税
1 小役
夫役の外に更に労役に労役に出役する義務で、労力と経費の負担をしたが、労力のかわりに出役料として銀納も行われた。 これは村の雑用にあてる経費であり、家役として均等に各家が負担した。 また、地役(高懸)といって所有する土地の高に応じて負担した。 庄屋は毎年春に夫役銀と共に集め、村の諸経費に使用したり、出役した者にこれを支給した。

2 村役
(所役・与内)ともいい、江戸時代村の維持のため村民が負担した、労役・現物・銀の総称で、村自治のための負担銀である。 これの使途は、前出の夫役銀とよく似ている。 藩主や藩役人巡視時の賄・道夫伝馬の負担・村役人の出張費・触れ使の役料・寺社の普請修理・御初穂・入会山の定請銀・土木工事(用水・道・橋等)の負担等である。 村人の家割(家役)、頭割(頭役)、控高割(地役・高懸)で負担した。

3 小物成
雑税の総称でもある。 田畠から納める年貢を物成というのに対して、年貢以外の山林・原野・河海など収穫物に課すもの、商工業その他に課すものがあり、いろいろな名称がある。 一例を次に記す。
・土地に関するものでは、山年貢・野年貢・山手・野手などがある。
・作物では、桑・茶・柿・栗・楮・漆などに対して、若干の米が課された。 前出の上毛分米といわれる年貢の外の小物成である。

4 其の他
次のようなものもあった。
・定井料 用水の修理などに要する費用
・籔代 籔に課した小物成、竹の皮も商品になった。
・安料 山分地方で年貢の代りに納める枚のこと。
・御年貢紙 山分の百姓が年貢の代りに納める紙。
・床銀 荒地を開拓する者に、その権利金として藩が徴収した銀。 山林の床銀は定請林の借用金であった。
また、次のような減免もあった。
・作徳米 年貢を納めた残りの米、これが収穫の四割以下になると、検見を受け年貢を減免された。
・鍬下地 新しく開拓された土地は、一定期間(普通五年)を鍬下年季として年貢を免除された。
・川成 水害を受けて川になった田畠のこと、検見を受けて年貢を減免された。

鬼籠野村庄屋 河野亀右衛門方へ 同村 五人与共方へ
上記は、百姓順蔵が生活に困窮しているので、徳島城下へ稼に出したいと、庄屋・五人組が願い出ていた。 これが聞き届けられて、御郡代より五年間の稼暇を許可するという覚書である。

2 中分地蔵堂にあった杉樹のこと
此墓標 高数十丈周囲三拾尺株也 大粟山中ニも稀ナル大樹杉且ツ由緒アル墓標ニ付大切ニ保存可致處明治三拾五壬寅年其附近ノ協議ニ因終賣却伐採ノ不幸ニ至ルハ惜悼スヘキノ甚モノ也此買受人神領村東長命宮本繁太郎金主ニテ元籍左右内村當時神領村上角住久保嘉太郎……数名共謀伐採ス右心覚江記
右は、中分の地蔵堂にあった大杉が、明治三十五年に地域の協議によって売却伐採された。 このことが神領村の大粟太郎兵衛の心覚として記されたものである。

また地域でも切り倒された杉の長さは、穂先がお宮まで届いたと言われ、その切株は長くのこり、多くの年輪が数えられたと伝えられている。
右の3と4は共に年切り、田畠売渡し証文である。
3は、五年間と年限を定め、立見にある山畠で本地は弐畝拾五歩高弐升であるが、この内拾五歩高四合の山畠を売ったものであり、五年間の代金が米で六斗四升である。 畠を売る理由は、藩に納める年貢の不足をあげている。 これは当時田畠の売買は禁止されていたが、阿波藩では年貢の不足を理由とした場合は認められたことによる。 この代米はたしかに受け取り上納したことはまちがいないので、売ってある期間内の年貢や地役は買主で納めて下さい。 期限が来たら代米六斗四升で請け返すが、代米が不足の場合は、皆済できるまで何年でも畠を持っていて下さいとある。 またこの畠の正当な所持者であるとの、郡代・庄屋・五人組の証明が付けられている。
4は、一年間と年限を定めた売渡証文で、書かれている形式は、3と殆ど同じである。 これらの年切売渡しは、田畠や御藪・建家から頼母子講発起等までを質とし、米や金を借りるもので、期限がきて返済ができないと、質流れとなり質物は返らないことになった。

【考証メモ③】近世史・公文書の批判的読解

棟付帳や検地帳などの公的台帳を基礎とした実証的アプローチであり、内容の信頼性は高い。特に、万治の棟付帳における「売買人口の重複計上」という矛盾を指摘している点は、公文書であっても記載内容を鵜呑みにせず、相互照合を行うという史料批判の基本が実践されている。
ただし、年貢率(四公六民から附加税で六公四民へ)や農民の極貧に関する記述は、一般的な近世農政史の概説的なステレオタイプに引きずられている印象もあるため、鬼籠野村単独の実収量や生活実態を示す個別の村方文書(庄屋文書など)による更なる実証が望まれる。

鬼籠野村の自治

第一節 村 長 等

近代国家建設をめざした明治の新政府は、廃藩置県(明治四年)から、次々と国の制度や組織を改めていった。 これにともなって、地方の行政組織や名称も変った。 本県の名称も徳島藩(明治二年)→徳島県→名東県→高知県→徳島県(明治十三年)というように、度々変った。 また、江戸時代から村を代表していた庄屋、名主などの称も明治五年に廃された。 本村でも、里長→戸長→用掛(ようがかり)→村長(そんちょう)→副戸長→戸長→村長と、目まぐるしく変った。 (その職務内容は明治五年に出された名東県区長、戸長、用掛心得に示されている。)
明治元年から明治二年の行政区域の変更まで、坂井清次郎氏が組頭として勤務し、明治四年頃より同七年頃まで坂東佐兵衛氏が、名西四小区の村長として勤務した。 さらに大里長として、河野寿次郎氏が勤務、喜来の神光寺に里長役場をおいた。 鬼籠野の里長補は欠員となっていたが、神領の佐々木儀市氏が神領村と鬼籠野を合せて行政事務を執行していた。 明治七年から、同十三年頃までは、石田助耕氏が戸長であった。 ついで佐々木宗治氏、岡本新太郎氏(広野)が戸長に就任し、明治二十二年に市町村制が施行されるまで勤務した。 また、用掛や筆生等の職員もおかれ、議事、兵事、学事戸籍、勧業、土木、衛生等の部門について、村行政が行われるようになった。

土木行政

上山街道の改修
明治十七年 名西山分有志は、物資の輸送と産業の振興を図るため、車道の必要を唱えて、明治二十四年に調査費一五〇円をもって、山分道路開発の第一歩を踏みだした。 部会職員と各村から選出した二三名の有志、総員二六名で、調査委員会を組織した。 調査の結果をふまえて、路線について協議したが、選定には異議が多く困難を極め、四日間を要した。 郡長は、道路開さくに関する原案と、郡参事会の意見書を添布して部会に提案した。 部会においては、山里の意見が相反し、里分の委員は、多額の負債に郡力は堪えることができないとして反対し、提案は否決された。 そこで、山分六か村土木事業組合を組織して、この事業を実施することにした。 明治二十八年五月、組合設立の許可を得て、事務所を郡役所におき、郡長を組合長とし議員二四名をもって組織し、事業を推進した。
所要経費は、地元各村賦課金と、県と郡の補助金によることとし、補助金の獲得運動をする一方、内部にあっては、路線紛争や工費負担などの困難を解決していった。 このようにして、改修された上山街道は、明治三十四年に全線が開通し、五反地河原で盛大な開通式を挙行した。
経費総額 七万五千五百一円四九銭三厘
県・郡補助金 一万三千七二円六二銭九厘
不足金 六万二百〇円八六銭四厘(地元受益各村負担金と公債で充当)
この上山街道改修にあたって、本村の路線をどうするかが大きな問題となり意見が対立した。
これに関する資料を次に掲載する。

第二節 鬼籠野村ノ線路協議と解決

組合会議決及ヒ郡代中鬼籠野村ニ於テ己定線路変更ノ請願ニ関スル件 変更ノ一案ヲ生シ互ニ相譲ラス遂ニ調停ノ効果ナク更ニ己定線路ノ測量設計ヲモナシ得ス唯紛々二十一年四月二十四日鬼籠野村常設議員外五十八名ヨリ己定路線変更ニ関スル請願書ヲ提出ス、鬼籠野村会議長坂東兼平ヨリ己定路線ニ関スル 意見書ヲ提出セリ ニ定線路変更ニ関スル請願 名西郡入田村外五村組合里道改修既定線路変更ノ議ニ付テハ明治三十一年二月十五日付ヲ以テ我々村長宛意見ノ存スル所ヲ書面ノ照会アリシ処名西郡長坂田玉男殿下ニ照険シ之が採算ヲ諸求セリ然ルニ我々ノ意見ハ不幸ニシテ未ダ貫徹スルニ至ラズ依テ更ニ我々長シ閣下ニ向テ請願スル所アラントス

員調査ノ復命ニ因リ更ニ議案ノ編成中ナリトス 我ガ鬼籠野村外六ケ村ニ於ケル名西山分道路組合ノ既定線変更ニ関スル葛藤事件ノ歴史ハ既ニ監督官庁ニ於テ再三ノ調査ヲ行ハレタルヲ以テ玆ニ叙述スルノ必要ナシト雖モ明治三十一年十月本県々庁ノ公平ナル取扱ニヨリ組合各村ノ一致承諾ヲ為シタル以後ニオケル組合ノ方針ハ又モヤ線路変更ニ関スル意志ヲ強行シ市モ県庁取扱イノ精神ヲ没了セントスルノ傾アルニ付キ聊カソノ後ノ経過ヲ叙シ併セテ本村ノ意見ヲ述ベ以テ再度公平ナル裁断ヲ仰グノ止ム可カラザル事トナレリ 明治三十一年九月県庁ニ於テ既定線変更ニ関スル葛藤ヲ調停スルニ当リ二箇ノ条件ヲ与エラレシガ双方向レモ之ヲ承諾シテ其条件左ノ如シ 事業進行ヲ速カニスベキヲ督ヘリ
第一 路線ハ既定線ヲ改修スルコト
第二 線路規定勾配ヲ二寸四分ニ改造スル。 ソノ工費ノウチ金七百円ヲ鬼籠野村ヨリ寄付スルコト
是レ実ニ双方ノ希望ヲ全ウシタルト共ニ事業ヲ進行セシムルニ於テ最モ適当ナル処置ト云ウベキナリ此ヲ以テ組合長ハ直チニ其調和ノ条件ニ基キ勾配改造ノ為線路測量工費目論見書ノ調整ニ着手シ議案成ルニ及ヒ明治三十二年二月組合会ヲ開キテ之ヲ諮リシ然ルニ其ノ結果ハ実ニ左記ノ如キ議決ヲナセリ
〇 鬼籠野村改修工費ヲ削除シテ之レヲ予備費ニ編入スルコト
〇 組合会ヨリ調査委員ヲ挙ゲテ線路ヲ踏査セシムルコト
コノ議決ニ併セテ挙ゲラレタル調査委員ハ明治三十二年四月二日ニオイテ其ノ調査ヲ遂ゲ組合長ニ報告スル所アリ、今ヤ組合長ハ委 以上ハ県庁取扱後ニオケル経過ノ大略ニシテ組合長果シテ如何ナル議案ヲ提出スベキヤハ素ヨリ未ダ之レヲ明言スル能ハスト雖モ前陳組合会議決ノ如キハ曾テ双方ガ県庁取扱イノ許ニ合意認諾ヲナシタル精神ヲ滅殺セシムルモノニシテ本村ヨリ寄付スベキヲ相約シタル工事予算ハ妄リニ之ヲ削除シテ予備費ニ編入シ又再線路ノ踏査ヲ試ミントスルハ是レ明々、調停以前ノ意志ヲ強行シ其ノ線路ノ変更ヲ企画スルノ野心ニ出デタルヲ知ルニ足ルナリ、嗚呼何ヲ夫レ驕慢無遜ノ甚ダシキヤ、本村ハ従来ニ於テ事業推進ヲ重ンズルノ点ヨリ可及的ノ譲歩ヲナシ敢テ我意ヲ強イル傾メル結果却ッテ組合ノ為メニ嘲弄ヲ受ケル基トナレリ 豈黙視シテ其ノ妄動ニ屈従スルヲ得ンヤ 況ヤ組合会設ノ源因ハ当初郡事業ヲ引受ケ其設計ヲ踏襲シテ改修工事ヲ起 サンガ為メニ関係六ケ村組合ノ組織ヲナシタルニアルヲ以テ線路各村議員ノ権限等ハ一切組合会ニ付与シアラザルコト規約ニ於テ明瞭ナルニ拘ハラズ線路各村議員ノ権限ヲ侵シテ六ケ村組合組織ノ根本タル目的ヲ変動セントスルニ就イテイササカモ六ケ村ニオイテ郡事業ヲ引受ケ故ラニ組合ヲ組織シ以テ道路ノ改修ヲ行ナワントスルニ至リシ所以ノモノハ各村ニ於テ其ノ道路ニ倚ッテ蒙ルベキ利害ノ度合ニ差アラザルニヨリ之ヲ改修シテ以テ各村何レモ運輸交通上二同一ノ利便ヲ増進シ自ラ生産業ノ発達ニツイテ平等均一ノ幇助ヲ与フベキヲ企画シタルハ論ナキ事ナリ、然ルヲ今ニ於テ遽カニ組合組織ノ骨髄タル道路ノ方向ニ変更ヲ与フルアランカ 啻ニ当初ノ目的ニ違反スルノミナラ

府能線および府能隧道の開さく
大正中頃まで、人の往き来や物資の輸送に小松島港は、大きな役割を果していた。 本村から徳島市を経由して小松島港へ行く道は、いくつもあったが市内までの道路事情がよくなかったので、港までの最短コースとなる佐那河内村経由の道路の大改良は、村民の念願であった。 それで村民は、非常な苦労をして龍ヶ谷線を開き、隧道を開さくした。

大桜線の改修と隧道の開さく
神山町と徳島市の長年の願望であった大桜線の改修は、本村出身の山本最純氏の隧道開さく費寄付により実現することになった。
一 経過の概要
昭和三十一年 五月二十二日 上八万町の中野氏外数名来町して、改修の申し入れをする。
昭和三十一年 五月二十七日 徳島市と本町代表者で、大桜線開発期成同盟会を結成、県知事に陳情。
昭和三十二年 六月二十五日 徳島市において期成同盟会を結成。
昭和三十二年十二月二十四日 県知事に陳情、知事が最大限の努力をすることを約束。
昭和三十三年 二月二十八日 県・市共同して実地調査を行う。
昭和三十三年 三月二十八日 神山町は、予算が乏しいので山本最純氏に協力を依頼。山本氏測量費二〇万円寄付。
昭和三十三年 四月二十八日 測量結果 一の坂〜隧道口まで九〇〇米 坂ノ頭取合い道路二二五米 隧道の長さ 一二〇米
昭和三十四年 一月二〇日 山本最純氏 隧道開さく費として一〇〇〇万円を神山町に寄付。
昭和三十四年 二月二十二日 新町都設土木事業として、昭和三十三〜三十四年度継続事業に決め着工。
昭和三十六年 三月二〇日 大桜線隧道竣工。

第三章 信 仰

第一節 宗 教

1 鬼籠野神社(鬼籠野字東分二の二)
主祭神 大日霊尊・金山彦命・埴安姫命・軻遇突智命・句句廼馳命・罔象女命・国常立命
鬼籠野神社が現在地に、いつ頃造営されたものであるかは、資料不足ではっきりしないが、明治後期と昭和初期に境内にあ杉の大木を伐採したとき、その年輪を数えた。この境内の杉の年輪等から推測して、室町年代(一二四〇年)ではなかろうかという伝え話がある。また、上古に国造家が奉仕していたとき、本社が深い山の中で、しかも遠い大粟山谷にあるため、一般の人の参拝は不便であった。 この不便解消のため、中分谷の奥の地に参拝所を設けた(カミヤサン)。
古い記録に、参拝者の便をはかるため、大粟谷口に御社を設け奉ると記されているのは、このことをさしていると思う。その後、これを中一ノ宮大明神と称して祭った。鬼籠野が神領より分村されてからは、さらに尊敬するようになり、村内にあった他の神々も合祀して、深々宮大明神後に神々宮大明神と社名を変えて祭り、村の産土神とした。明治初年までは、大粟神社の別当である神宮寺住職が毎年八月八日の例祭には、配りを捧げるとともに神輿の渡御に奉仕した。言い伝えとして、昔本村には悪鬼が住んでいて住民を悩ました。このことを朝廷に申し上げると、天児屋根命の末孫、藤原某氏がこられて悪鬼退治をした。こられた人々は、今神社に祀る六神だという。六神が降臨して、神の力で最後は、神社より一五、六丁辰巳の方にある、龍ヶ谷に追いつめて退治したという。
当時永暦元年八月八日この日を記念して、当村より三丁南方にあった参拝所(古社)を現地に移し、鬼籠野神社と改称したという。明治九年村社となり、飛地境内社として、顕徳神社・大山祇神社がある。
また境内には、つぎの八社がある。
〇 鎮守神社(祭神天児屋根命)
〇 杉尾神社(祭神建御名方命)
〇 山神社(祭神大山祇命)
〇 鎮守神社(祭神霊神)
〇 随門神社(祭神豊磐間戸神)
〇 稲荷神社(祭神倉稲魂命)
〇 丹後神社(祭神霊神)
〇 若宮神社(祭神霊神)
〇 本殿 一八世紀末の建立と推定され、社殿は一間社春日づくりで、向唐破風の形式、たるきは「二軒繁垂木」、カエル股竜ぐりである。県下でも数少ない近世の本格的な社殿だという。拝殿におかれた古い神像二体は、かなり古い年代の作りであるという。
〇 随身門 宝暦九年八月四日に建立され、その後二度改築され現在にいたっている。作者は、不明であるが、天保年代の改装における祭神の彩色者は、城之内村の隆旗美代太氏である。ここに奉祀した随身像二体は、高度な技術によって作成されたといわれる。その他棟札によると、神楽殿は天保十一年八月八日氏子中一同によって改築されたこと、境内社の杉尾大明神社殿は大工勘左衛門氏の作である。

2 八幡神社(字喜来二六二)
主祭神 応神天皇・神功皇后・武内大臣
創立年は不明である。社殿は、流れづくりの形式で造営され、貴重な作りである。日浦、坂瀬川、喜来名の氏神として尊敬されている。「寛保神社改帳」に「鬼籠野八幡別当神光寺」という記録があることから、寛政時代、すでに造営されていたことは間違いない。境内には、つぎの五社がある。
〇 太神社(祭神天照大神)
〇 春日神社(祭神武雷命)
〇 山神神社(祭神大山祇命)
〇 愛宕神社(祭神加具槌命)
〇 八坂神社(祭神素戔嗚命)
明治九年村社となる。他に地神社もある。

3 杉尾神社(字一ノ坂三九)
主祭神 健御名方命・武雷之命・祖先佐々木経高
阿波志によると、文治二年頃創立と思われる。一ノ坂、猪之頭両名中の崇敬社である。また、「源経高廟在、鬼籠野弓折里」とある。また、寛保神社改帳に、鬼籠野市之坂杉尾大明神主鬼籠野村大夫とあり歴史的にも由緒ある神社であり、すぐれた社殿とともに古くから造営されていた。明治九年村社となる。 境内には、つぎの二社と地神社が祀られている。
〇 鎮守神社(祭神霊神)
〇 八坂神社(祭神素裁鳴命)
〇 地神社

4 立岩神社(元山七四六)
主祭神
〇級長津彦命(しなつ)
〇級長戸辺命(しなとべ)
〇罔象女命(うずはめ)
古くより、東・西元山名中の崇敬社で、この地の鎮守神として、特に雨乞祈祷をすることは、よく知られていた。飛地境内社に、山神神社(祭神大山祇命)がある。近年とみに、高天原阿波説によるゆかりの地として、古代ロマンを求める人々の参拝が多い。

5 御嶽神社(中津川二五二)
明治四十二年、社寺整理訓令により、将来保存すべき神社として村が申請した五社の中の一つである。この地は、国有地であったものを昭和十二年に村が購入した。部落の人の信仰は厚く、例祭も行っている。古老の話では、鬼籠野神社は、古い時代はこの地に祭っていたと思っているようだ。創立年月日は、不明であるが、祭神は、国常立尊・少彦名命・大巳貴命である。境内には、つぎの四社がある。
〇 鎮守神社(祭神霊神)
〇 剣神社(素盛鳴命)
〇 山神神社(祭神大山祇命)
〇 若宮神社(祭神霊神)
◎神社の管理 崇敬の状況
明治以前は、官民を問わず、ひたすら崇敬する状態で、神は絶対と信じていたようである。明治四十年代になると、神社経費に村費を出すと同時に、国や県および市町村の管理下で、神社の事業や管理をした。宮総代長には、市町村長があたり、神職の人選・宮総代の人選まで行った。その外境内の木、一本の手入れや処分方法まで指示した。しかし戦時中、軍国体制の強化に、神社を利用したふしがあるのは残念であった。昭和二十年終戦の年をもって、こうした管理体制は、国の方針変更によりなくなり、自由に参拝するようになった。しかし、神社崇拝の気風は根強く、新しく民意によって選出された宮総代の合議によって、神社の運営・管理にあたっている。自主経営である。元旦のお宮参拝、祝祭日のお参りの外、部落ごとに、幟を作り毎日交替で参拝するなど神社崇敬の念は昔と変わることなく高い。

6 神光寺(字喜来四三五)檀家約二百戸
① 名 称 鬼飯山阿弥陀院 神 光 寺
② 本 尊 阿弥陀如来(高さ九八cmの一木づくり)
③ 堂 宇 本堂、慶応二年建立 庫裡昭和十二年建立
④ 本 山 高野山真言宗
⑤ 由 来
神光寺創立年月日については、はっきりしないが、鬼飯山伝説によると、かなり昔から寺があったと考えられる。創立時、鬼籠野という名称はなく、住む人もごく少なかったが、この村には鬼が住んでいて村民たちに危害を加えていた。そこで村民は、鬼の悪行を朝廷に訴えた。すると朝廷は、藤原某を大将として討ち手を派遣してくれ、鬼を退治した。「鬼籠野」という地名は、この伝説に基づいて「鬼籠った野」という意味からつけられたという。鬼のたたりを恐れた村民は寺を建て、その霊をとむらったことから、この寺を「鬼飯山神光寺」と名づけたという。
現在、高橋徳三郎氏宅を、寺原という屋号で呼んでいる。最初は、この附近にあったが、その後たびたび移転され、現在の地に移った。永享八年二月十五日(一四三六)権大僧都一室上人が、初代住職について以来、現在の世権中僧正横山隆弘氏まで、二三代の住職が受け継いで、寺院の事務を務めている。神光寺の過去帳の中で一四名の住職が、在務期間不明である。ただ初代権大僧都一室上人は、今から五六〇年前の室町時代前半の人である。明治になると、神光寺に役場がおかれ、明治七年より十二年頃まで、石田助耕村長が勤務していた記録がある。明治六年には、ここで鬼籠野小学校が創立された。境内には、天保五年に建立された庚申塔、その他光明真言二億七百万遍供養塔、宝篋印塔等が立ち並んでいる。この外、藤の古木・石楠花があり、俳人・歌人の来訪が多い。代表作をつぎに掲げる。
〇次の堰まで、春水に沿う径を(祖谷・美馬国史氏作)
〇神光寺雨のかえでのくれなゐは、におうばかりに、しづくをたゝる。(徳島市小西英夫氏作)
⑥ 寺 宝 大涅槃図(縦一・五m、横一・三m・武陽松原笑月謹画)
ねこの描かれた掛軸は、他寺にはあまりない。この掛軸は、文政十一年に、広野出身木材商池北熊三郎・宮嶋屋佐衛外数名による寄進である。京都東福寺には、画僧、明兆が応永十五年(一四〇八)にねこを描いたものがあり、それを模写したと思われる。
⑦ 半 鐘 享保十年七月七日に寄進された。
⑧ 年中行事
イ 写経 毎月一回
ロ ご詠歌 毎月一回
ハ 常楽会法要(旧二月十四・十五日)
ニ 佛生会花まつり(旧四月八日)
ホ 水子供養(八月二十四日)
へ 高野山巡回布教(六年に一回)

7 真光寺(字日浦二五) 檀家約一〇〇戸
① 名 称 浄土真宗本願寺(西本願寺)派末寺 真光寺
② 本 尊 阿弥陀如来・宗祖 親鸞聖人
③ 堂 宇 梁行四間 桁行 五間
④ 境内坪数 二百坪 境内外所有地 二反一畝六歩
⑤ 創 立
大正二年二月改築竣工したのが、本格的本堂であった。この堂宇は、昭和四十五年類焼により、庫裡とともに焼失し、同四十七年九月再建、鉄骨、ブロックの東西五間と南北四間の堂宇が完成した。この建築は、檀信徒の汗の結晶で建立した。また、焼失した庫裡は、五間に四間の二階建で、昭和三十八年、東京木場の材木商、阿部雅信氏(阿野長瀬出身)個人の寄贈によるものであった。
現在の庫裡は、四十六年に建立されたものである。
⑥ 由 来
美馬郡美馬町郡里にある安楽寺(浄土真宗本願寺派)住職、千葉乗隆氏が、近年寺史文書を刊行した。それによると寛永三年より寛永十三年(一六三六)の間の四国末寺帳に、讃岐四十九寺、阿波十八寺、伊予四寺、土佐八寺、合計七十九寺が記載され、その中に、当時阿州徳島日浦村、真光寺とある。この頃、本寺があったことがわかる(安楽寺の古書史料により編集されたのが安楽寺文書)、また慶長十三年(一六〇八)検地帳に寺の記載がある。
しかし、いつの時代から、安楽寺の真末寺となったかは不明である。創立もわからない。ただし、安永元年(一七七二)から九年の間に、安楽寺より離れ、西本願寺に帰属したことは文書に記されている。また、寛文年間(一六六六 年)に、徳川幕府より、寺院法度の定めがあり、それを安楽寺より受けた請書は、つぎのとおりである。

〇 寺院法度請書覚
今度被仰出御公儀御朱印之写、次下知状、本寺安楽寺より被申渡、右三通之趣、致拝上奉畏候
寛文六年正月廿五日 名西郡之内鬼籠野村 真 光 寺 印 (花押)
〇 安楽寺末寺帳控に「安永年中離末」真光寺とある。

これらのことから、正確な創立の時期はわからないが、創立の年代は想像できる。また創立した人が、伊予の出身者であろうということは、真光寺の古書より考えられる。
⑦ 年中行事
一月一日 元旦会 / 七月十五日 盂蘭盆会
一月十六日 宗祖ご命日 / 八月十五日 盂蘭盆会
春分と秋分の日 彼岸会 / 十二月 お取り越し報恩講
四月八日 花まつり / その他 餓没者追悼会
五月二十一日 宗祖降誕会

8 初白山不動院
① 位 置 神山町鬼籠野字西分三九九
② 宗 派 古義真言宗 善覚寺 未庵
③ 安 置 佛 本尊焼失子不動明王(御丈一尺六寸石像)。
④ 設 立 者 高 橋 治 平
⑤ 管 理 者 善覚寺住職
⑥ 境内坪数 山林一反歩(橋本準人氏寄贈)。
⑦ 建 物 本 堂 一 棟 間口二間 奥行二間半 木造杉皮葺。
通 夜 堂 一 棟 本堂の右前にあり奥行三間、間口五間 木造杉皮葺。
⑧ 信 徒 二百名
⑨ 維 持 費 基本金二百円、最近五反の山林購入し基本財産としている。
⑩ 保存信仰の組織 保存会(千歳・青井夫地区中心)を組織し、会員、住職ともに協力して、保存に務めている。役員として、会長は、西分地区から選出し、副会長は、青井夫と千歳地区より各一名を選出する。また、各部落より世話人、一〜三名程度選出して、会の運営にあたっている。
⑪ 由来と信仰
右の各項目は、昭和九年四月一日、佛堂所属許可願として、県知事辻山治平殿に提出した文書の抜粋である。文書提出のこの時期は、本堂、通夜堂を建立、星祀をなし、保存会が設立されて、一応の整備、体制が整った時である。由来と信仰の状況はつぎのとおりである。
この不動院の核となる塚が、いつ頃つくられたものか、祭神は誰れなのか、憶測は、いろいろされているが、定かではない。しかし霊験あらたかで、祈念すれば、何事も、叶わないものはないと、昔から言い伝えられてきた。そうした中、昭和五年、長又の高橋治平氏の長男、文雄君が、徳島農業学校在学中に、郷土史に興味を持ち、各種の郷土史を読書しているうちに、初白山の霊験あらたかさと由来の項に接し、ただちに探訪をした。雑木林の中から塚を発見した彼は、間もなく、近所の高橋武史君と合宮重君をさそって塚へ行った。
武史君は、病気に悩んでいた時であり、文夫君も、病弱であったので、二人は、子供心に古老の話を思い出し、真心こめて拝み病気の平癒を願った。すると、二・三日で、御利益があって、病気が治った。喜びにひたった武史君は、このことを家族に話した。家族は、塚の霊験のあらたかさを、事実として知り驚いた。それと同時に、塚へお礼参りするとともに、知人に話した。この話が、口伝えで、たちまち四方に広がり、願いを叶えるために、祈りに来る人が引きも切らずの状態になったという。地元長又部落の人は、このような状態をみて、地域の人々と協力して、塚の周辺の整理と参詣道づくりなどするとともに、祭壇を設けて、祭った。
参詣者は、さらに増加の一途をたどったため、保存会を、千歳・青井夫名が中心になって結成し、本殿・通夜堂の建立をするとともに、境内の整備を一段と美しくした。一応の整備ができたとき、初代会長・高橋治平氏は、専門家の指導を仰いで、不動院として、祭ることにきめ、波字不動明王と名付け、焼山寺住職、笠井法道僧正導師の下に入仏開眼し、恒例縁日を旧七月二十八日ときめ、毎年紫燈大護摩を修して来た。
こうして、内容が、実質的に整備されてきた時から、さらに参詣者が、終日切れることがなかった。要望により、祈禱師と堂守を兼ねた人を依頼して、さらに崇敬を深めた。初代堂守は、青井夫の河野清吾氏であった。完成を祝って、神山町内全域から参加した、棒づき大会や相撲大会などの外祈願祭も各種開催され、大勢の人々の参加もあって、崇敬の念は、いやが上にも高まった。こうしたことと同時に、茶店や売店も、年中軒をつらねていた。 また、参詣者のため、千歳・青井夫の全戸が交替で、お礼や線香の販売に奉仕した。こうした信仰は、戦後も受け継がれ、バス停留所の設置や電気・水道も開設され、最近は、堂宇まで登れる自動車道も作られ、ゲートボール場も開設された。
塚は、上図のように円形の盛り土状になっていて、十二体が頂上に頭を向けて祀られているといわれている。各体の頭の上に、石柱碑が立てられていた。 祈願幟も塚の周囲に立てて祈られている。一万本に達した時、集めて、塚の東隣に円形の塚を作り祀っている。これを幟塚と呼んでいる。
昭和三十七年には、信者の奉仕により、阿野、田ノ窪より、人力によって巨石を運び由来を刻んで建立した。これとあわせて境内に、桜を植え、景観をよくした。 また、本堂建立の頃、塚から発見した剣を、御宝剣として祀っている。 現在、毎月二十七日に、お護摩が上分の大平久男氏の先達で、たかれている。 このとき、炎の上に吊り下げた紙製の御幣が、炎にあたっても決して燃えることはなく、炎が御幣をよけて燃えることは、不思議のほかないという。
また、全国各地より、修業僧や先達の方が修業のためこられるが、どの方も、霊気の溢れ方は、他に例がないといわれる。 役員の方の崇敬心も極めて高く、交替で五日おきに、年中休むことなく、お祈りしたり、境内の整備に務めている。 以上のように、千歳・青井夫を中心にした住民が作り、守り続け、心から信奉しているのが、初白不動尊の姿である。

9 天理教名西分教会(字川東一三五)
「をびや道あけ」これは、お産の守護、つまり、何の苦痛もなく、早く楽々と生ませていただけるという道が始まるということを、きっかけとして、四方へ伝わっていた。
これに続いて、「やまい助け」を始めた。名西山分に拓け始めたのは、明治十四年春の頃である。激しい下痢で瀕死の状態の人が、たった一度の「おさずけ」でピタリと止った。長い患いで諦めていた人が、朝拝んでもらうと、夕方までに治った。足の立たない人が、歩けるようになる。等々の不思議な救けが数多くあった。こうした実状に合わせ、信仰者が続出した。
鬼籠野布教所設置は、この頃、明治二十五年九月十九日、兼光麦蔵氏宅であった。初代所長は、阿川の藤北嘉十郎氏であった。明治二十六年四月二十一日に、現川東一三五番地に、四間と六間の神殿が落成し、奉告祭が執行された。 参列者は、境内から溢れ出る程であった。当時二年続きの大旱魃で、雨乞いの願い出があったとき、わが田に水を……ではなく、隣りの田に水をと願いをしたところ、神意に叶って慈雨があった。 布教は、さらに拡大していったため、大正十五年一月教祖四十年祭を記念に、運動方針として、教会および教師の倍加と、海外布教の推進に努めた。
そのために、愛東(愛媛西条)と根郷・高鉾・愛保(宇和島)・徳広(名西郡)などの出張所が設立された。名西分教会は、一丸となって、東奔西走、三カ年間で、国内はもとより、朝鮮・満州を含めて、二十ヶ所の教会設立に尽力した。分教会の歴史の中での壮挙として特筆できる。 歴代会長は、初代・藤北嘉十郎、二代・日浦 周作、三代・日浦 久吉、四代・日浦 義治、五代・日浦 博氏である。信仰等の概略は、つぎのとおりである。
① 奉斎神 親神天理王命 教祖 中山 ミキ
② み教え 紋型のない所から、人間世界を創り、万物に生を授け、その時と所を与えられる。元の神・実の親で八方の守護の理諭は、つぎのように、神名をつけて説明している。これを十善の守護という。
十全の守護
〇 くにとこたちの命(水の守護)
〇 かしこねの命(風の守護)
〇 をもたりの命(火の守護)
〇 たいしよく天の命(死一切の守護)
〇 くにさづちの命(万つなぎの守護)
〇 をふとのべの命(生一切の守護)
〇 月よみの命(万つっぱりの守護)
〇 いざなぎの命(男雛型種の理)
〇 くもよみの命(水気あげさげの守護)
〇 いざなみの命(女雛型苗代の理)
③ 祭 典
イ 毎月十九日 月並祭
ロ 大和天理教本山への祭典参列 御祭典には、村内はもとより、村外からの参列者も多く終日祈りが続くときもある。 大和天理教への祭典には、信者でない人の参列者も多く宿泊して、信仰をしている。

10 その他の諸宗教
1 踊る宗教: 昭和二十年代、山口県の一人の女性が開祖となってできた。天照皇太神宮教ともいわれ、全身全霊を捧げる意味で信仰のとき踊りによって祈りを捧げた。
2 その他: 生長の家・創価学会・子安大師・お聖天さん・お日待・水神さん・秋葉神社などの信者がいる。

【考証メモ④】信仰・寺社縁起の扱い

寺社縁起(神光寺の悪鬼退治伝説など)は、寺社の権威付けのために後世(主に近世以降)に仮託・編纂されたものが多く、創建の歴史的事実をそのまま語るものではない点に留意する。
初白山不動院の項などは、昭和期の民間信仰の勃興から組織化(保存会設立・堂宇建立)に至るプロセスが詳細に記録されており、近代における新興的信仰の展開を示す社会史の事例として非常に興味深い。

路傍信仰

本村には、古くから数々の神様や仏様が祀られている所は、田の中、山の中、道路端などいろいろである。各地域の人に尋ねてみると、随分多くの神様や佛様を信仰しているものだと感じた。 信仰の方法も、部落全員でしている、信者数人でしているなど、さまざまである。以下現在も信仰している主なものには、つぎのようなものがある。

一 のうごうさん
五月の節句に、炒物とよもぎ・かや・しようぶを束ねたものを屋根に上げて祭り、翌朝これを下して、山にある、のうごうさんへ持っていって祭る。牛の神として祀り、あわせて、火災予防と健康を祈る。

二 お不動さん
十座ともいい、一月二十八日と四月四日、山の社に参拝し、「のうま・さんまーだ」を五十回唱えて、家内安全を祈る。

三 山の神さん
数戸で一同に集まり、家の中で供物をして、山仕事の安全を祈願する。

四 船戸神
この神の名が最初に見える、古事記と日本書紀に、船戸神・岐神・来名戸神の名がでてくる。この神の名がでてくる前後の岐の文字の意味等から、つぎつぎに、船戸神の性格が変化し、さらに、後には、他の信仰や習慣とも混同して、多岐・多様に理解のしかたが変わり、俗信の中で、これ程さまざまな姿でとらえられている神は他にない。
たとえば岐神の岐の字は、ふたまた、わかれ道などの意味があるとして、岐神は道の神となり、猿田彦命といわれ、さらに後世になると、猿田彦命の猿の字が庚申の申に通じるとして、庚申燈の主尊になっていることもある。
また岐は、「わかれ道」から人間の下半身の分岐点にある陰部を意味しているとして、性神として尊敬されている所もある。また防塞、防障の神となったものなどさまざまである。古老にお聞きしても、家の守り神と信じている人、手足の痛みを治めてくれる神とか、子宮の神と信じている人など、多種多様である。お祭の方法も、部落共同で、また個人で、二、三人共同でなど、さまざまであり、祭られた所も、自然石を利用した「おかまご」とか、大石や、大木の根本とか、家の裏などいろいろだが、家の近くが多いようである。
以上の外に、意味が異なる「ふなとのかみ」がある。これは舟止神といい、この神は、港や、舟が川をさかのぼっていった終点に祭られている。そして、立派な神社となっていて、名西郡誌に、船盡神社(広野長谷)、として、船盡比売尊、天手力雄命の二神を祀っている。神社を俚俗では、歯辻神社と称え、歯痛を癒す神として、箸を納むること多しとある。

② 神山のオフナトさん
おかまご=オフナトさんは、鮎喰川流域だけにあるもので、船戸神は、県全体に広がっているが、神山町一帯は特に多く分布している。他のどのような信仰よりも、圧倒的に数が多い。
供物を特徴的に見てみると、紅葉・中央・南谷地方では綿着・カタビラ・御酒・御飯・はしを供える人が多く、千歳では、しめ縄・御酒・御飯を供える人が多い。祭る時は、正月、十一月、十二月、祭日がほとんどである。また船戸の神は、けがらわしい者は来るな、すなわち、病は来るな、災い来るな、といった厄ばらいの意味をこめて、祭っているという人が一番多いようであった。

五 庚申さん
庚申さんは、もともと、中国・印度・日本の三カ国の信仰である。このならわしが習合して、できたものらしく、庚申の夜は、眠らずに過ごさなければならないという。これは、中国道教の説だといわれる。わが国では、猿田彦命を庚申の主尊にしようとしたのは、神道を奉ずる人だといわれる。天孫降臨のとき、天孫を、日向高千穂峯に道案内した神である猿田彦命神の猿が、庚申の申と同音であることから、後世の本地垂迹説に対抗して、神本佛迹を説きだし、庚申は、猿田彦命であると説きはじめ、同一視されるようなったといわれる。
② 信 仰
庚申の夜は、人間の体中にある三尸の虫が、本人の眠っているときに、体内から抜け出して、天に登り、その人の罪を天帝に告げ、生命を奪うといわれ、したがって、夜を眠らずに過せば、三尸の虫も抜け出すことはできないと説き、講組して夜を明かすことを、守庚申といって要求された。
また、庚申の夜に、男女が結ばれてできた子は、必ず盗人になるといわれ、大人のけじめをつけさせたという。
③ 信仰の変遷
②項のような説話が、平安時代には、宮中の年中行事として行われた。さらに、貴族社会の行事へと拡がり、やがて、一種の社交行事となり、管楽を弾じ、碁を打ち、舞をし、酒食をふるまって遊び、有閑階級の社交の場へと拡がっていった。また、室町時代からは、供養塔を立てることが行われ始め、江戸時代に入ると、庚申縁起が広く拡がり、全国的に庚申待ちが行われ出した。
塔は、最初は、板碑型に造られ、主尊は阿弥陀如来、阿弥陀三尊、地蔵菩薩、薬師如来、大日如来など、種々の佛であったが、やがて、明暦から万治を経て、寛文となり、徳川四代将軍の頃となると、戦国の世も治まり、現在残されている庚申塔が盛んに建立された。鬼籠野の庚申塔もこの頃のものが多い。 庚申塔の最初は、文字塔であったが、やがて画像塔と変り、寛文より、享保までが塔建立の最盛期であった。それ以後は、急激に減少している。明治になって、廃佛棄釈が行われ、文明開化の世となるにつれ、庚申信仰も急速にすたれ、さらに、太平洋戦争の終結とともに、信仰はさらにうすれてきたが、一部には、今もなお、根強く信仰を続けている人もいる。

六 地神さん
わが国は、古来農は国の大本としてきた。寛政年間になって、藩の指導によって、地神塔を建て、豊作を神に祈り収穫を感謝する地神祭が農民の間に定着し、現在にいたっている。こうした農の神が地神さんである。
1 社日と祭祀
お彼岸さんの頃「地神さん」のお祭りが行われる。暦では、春分または、秋分に最も近い戊(つちのえ)の日を「社日」といいその日は、農作業を休んで、地神さんを祭り、春には、豊作を祈り、秋には、収穫を神に感謝している。 寛政元年、富田八幡宮の祀官、早雲古宝が、蜂須賀治昭に進言し、各村に地神塔を建てさせ、庄屋に祭らせたのが始まりだといわれている。
地神塔は、普通は、石積みの壇上に、高さ五〇cm位の五角柱を立ててあり、正面に、天照大神(北面)、他の面に大己貴神、少彦名神、埴安姫命、倉稲魂神の五神名が刻まれている。これらの神は、農耕の神である。

2 鬼籠野地神さん一覧

所在地 心石の高さ cm 氏子数 社日の祭事・当屋の仕事
阿保坂40.020清掃・参拝者に御酒をもる
東分51.060清掃
東元山40.531清掃・幟立て・にお供物・氏子に御餅をくばる
中内41.521右同
中津川49.011右同
小原46.06右同
喜来47.517清掃
森喜来30.01森家の屋敷神
黒河49.012清掃
日浦40.017清掃・幟立て
坂瀬川47.015右同
一ノ坂48.540本膳を供える
猪ノ頭45.09右同

一 龍ヶ谷の石塚
鬼籠野谷川に近い、龍ヶ谷の一角に石塚がある。昔今の県道佐那河内線付近を境にして、山側と川側に、源氏と平家が分れて、戦い平家が全滅した。この全滅した将兵を、所持していた武器とともに、一ヶ所に集め、塚として祭ったといわれている。この塚で刀をみつけ家に持ち帰ったところ、その家は、不幸が続いたので、もとの塚に返して祭ったところ、不幸が治まったといわれる。こうしたことから、もったいない塚として信じられ、信仰しているという言い伝えがある。

二 猪之頭の大桜
佐々木享氏老脇のかつての神山街道の路肩に大石がある。その大石を包むように根が張り、約六〇年前に、二人が手をつないでも囲むことができない、直径五尺以上もあったといわれる、天然木の桜の木があった。当時馬の者は、藁親であっため、徳島より猪之頭までくると、取り替える必要があった。この大桜附近は、眺めもよく、一休みに適した絶好の場所であるので、馬の沓を取替え、古いものは桜の木の根元附近に積みあげて捨てた。 これが肥沃な土を作り、肥料となったので、桜は美しい花を見事に咲かせた。しかし、この大桜は枯死したので、地域の人は、近くに、桜の木を植えた。この桜が現在かなり大きくなり、かつての大桜と同じように、部落の人はこの桜をほこりとして、丁重に手入れして保護している。

三 二秀峰
猪之頭にあり、秀麗な山で、東西の二峰よりなっている。慶長年間土地に火災がたびたび起ったため、部落の人は相談し、遠州に行って秋葉神社の分霊を迎えて東峰に祀った。
蜂須賀藩時代は、武士による随分乱暴な統治が行われていた。 一の坂地方でも、西名東出身の小倉兵部という武士が山林見付奉行としてこの地に赴任して、容赦なき重税と厳罰と取締りをしていた。
このため住民は塗炭の苦しみにあえぎ、どんな極刑を受けても、この奉行を更迭してもらうようにする以外に道はないと決心していた。 そんな時の ある日、平鍋幸左エ門は弓を持って猪瀬峠を通りかかると、川向の梅の木谷口を家来をつれて、帰途につく奉行を見かけたので、覚悟をきめ、大声をあげて、名乗り出たところ、汝等ごとき土百姓のヒヨロ、ヒヨロ矢、わが尻で受けてやるわ、さあ射てるものなら射てみろと嘲笑された。
おのれと思ったが、射程が遠すぎるので、断念したふりを見せて、一町ばかりの坂道を一目散に帰宅して、身仕度を整え、勝手知ったる近道を走って、大樫の陰に先廻りして、奉行を待ち伏せして射殺した。 その地より五〇m下に、古い泉があり、その脇に今も奉行の墓がある。 射ぬかれた苦しさで坂をころげ落ち、最後の水をここで飲んで死亡したという。
以後、文政十年代の半ば頃まで、この泉の水を住民は、藩の威光を恐れてか、職務の為に佛になられた人として、畏敬する心から、畿土権現として、二秀峰の西峰に奉祀した。 しかし一方住民のために一身一族を犠牲にされた幸左エ門は、極刑を受け、見せしめのため、獄門峠に晒された。 この事件を教訓として、奉行の政策も改善され、住民は安心して暮せるようになった。
一の坂には、このような立派な恩人を持ちながら、藩に遠慮してか、何の報恩もないままできた。 平鍋氏の尊霊にも、何もしないでいる。 しかしながら、住民は、西峰に祀ってある畿土権現は、奉行ではなく、平鍋氏の心であるという思いは今も持ちつづけている。

四 鬼籠野神社杉木立
参拝の折、大木に手をまわして、その大きさに驚嘆したり、荘厳さに誰しも心を打たれたものである。 また立見峠に立って、神社の杉木立の森を見たとき、わが古里に帰ったという実感が、いつもこみ上げてきたものである。 杉木立は、鬼籠野の人々にとって、心の大きな支えである。
杉木立の歴史の一端をまとめてみたい。以上からして、明治七年にあった松の木が明治十五年になくなっている。 明治年代になかった「かえで」「まき」が現在はあることと榧の本数が増加していること以外は木の種類には大きな変化はない。 また明治年代と現在を比較してみると木の太さにはほとんど変りないようである。

【考証メモ⑤】路傍信仰の民俗学的価値

地神塔の各戸の寸法や氏子数の記録、またオフナトさん(船戸神)の祭祀形態や供物の地域差など、フィールドワークに基づく詳細な記録は、当時の村落社会における相互扶助や生活基盤を示すデータとして極めて価値が高い。
「二秀峰」の悲話は、百姓一揆や義民伝承の類型のひとつであり、藩権力への抵抗の記憶が「畿土権現」という信仰の形を借りて秘匿され、伝承されてきたことを示している。

第六編 文 化

明治以前には資料がないので状況はよくわからないが、神社が現在地に遷されたのは、鎌倉年間と推定されている。 その時の敷地は、官有地三七〇坪と三三〇〇坪の見捨地を併せて敷地としたようである。 それ以後民有地を購入して現在の敷地となったものである。 さて、木をいつ頃植えたかは資料がないので、はっきりしないが、鎌倉年間に植えたとすると約七五〇年経過していることになる。 いちょうの大木は、専門家の推定では、三〇〇年以上経ていることは間違いないということである。 こうしたことを考えあわせると、境内の木は、相当の年数を経た木であることが想像される。 大切に保存したいものである。

五 弓 折
本村字一之坂名の別名である。 承久の乱に、佐々木経高官軍に加わり、戦ったが敗れ、長子弥太郎判官高重は、勢田橋にて戦死し、経高は自殺する。 その家臣平岡太郎利清は、高重の一子、秀経を、密かに抱き、次男二郎高兼とともに本村に来た。 高兼は、時の流れに憤激して、弓矢を折り捨てて自殺した。 これが地名の起った由来である。 この地域の住民は、経高を祀り、佐々木姓を名のる家がほとんどである。

六 大椋の木
鬼籠野字中分安井旅館玄関東側に家に寄り添って育っていた。 由来は定かではないが、専門家の推定によると樹齢八〇〇年を超えることは間違いないという。 荘厳さを漂わせた大椋の木は、道行く人を立ち止らせた。 子供心の興味で数人で手をつないで幹のまわりを囲んでみたが囲みきれなかった。 安井家では、この木を家の宝として大切に保存した。 また、幹の根元に、おふなとさんを祀り、年中お供物を絶やさず配った。 昭和六十一年家屋火災のとき類焼し、以後樹勢は、急速に衰え平成二年に枯死した。

第四章 伝説と方言

第一節 鬼籠野の伝説

一 鬼籠野の地名の起りと鬼退治
鬼籠野と言う地名ができたのは、今から八三〇年以前、都では平清盛が、源頼朝を伊豆へ流した頃だそうな。 この地方には、極悪非道な、鬼のような賊徒が住み付いて里人は永年被害に苦悩し、何とかこの者達を退治すべく地頭に上訴を重ねていた。 その後藤原某が大将となり、討手がこの地へ来た。 現在の鬼籠野神社に参籠祈願し、計画をねり龍ヶ谷へ追込み、鬼賊を悉く討ち亡し、其の屍を埋めたところに里人は寺を建て、葬り供養した。 それが鬼飯山神光寺と伝えられる。
此の事件より後、鬼籠野と云う地名が生じたと伝えられる。 因に神光寺には樹齢五〇〇年の見事な五葉の松があり、人目を引いていたが、昭和三十六年、第二室戸台風に無惨に倒伏し、枯死してしまった。

二 弓折りと一ノ坂
阿波・土佐・淡路の守護として、白鳥の鳥坂に居城していた佐々木経高が、承久の変に天皇方につき敗れ、自殺、長男の高重もまた勢田橋で戦死、家臣六郎平岡利清は、高重の一子秀経を抱いて、経高の次男高兼と共に逃れて鬼籠野まできた。 敵の追撃はげしく、高兼は「もはやこれまで」と、たずさえていた弓矢を折り自殺した。 それで、この地を「弓折」と呼んでいた。 蜂須賀入国後、巡視の折この地へ来て「弓折とは武門にとって不吉である。 徳島城下より上山街道の最初の坂だから“一ノ坂”というのがよかろう」と言ったので「一ノ坂」となったと伝えられる。

三 獄門峠と遍路墓
一ノ坂と坂瀬川名の境を獄門峠と言う、昔鮎喰の川原で斬罪に処せられた重罪人の首を此の峠にて木に吊し、札を立て、通行人を戒しめたと云う話が残っている。
ちょっと東に下った処に遍路墓という地名がある。 現在は度々道路拡張工事があり、遍路墓が少なくなったが、大正末期には丹後国の何某・但馬国の何某と刻まれた石碑が四〇数基数えられ、一ノ坂猪ノ頭と上山街道脇にも三〇数基あった。
昔は遠国より来る遍路の中には不幸な家に生れたり、不治の病を持つ人など海を渡る路銀だけ持ち、生涯家に帰らず四国霊場を廻った。 精根つき果て行き倒れた処で其の土地の人が手厚く世話をし葬り、極く稀に路銀を貯え持っていた遍路のみ墓を建て供養したそうで此の近辺には多く行倒れがあったと思われる。 昔の人は人情が厚く、信心深かった。

四 よび石(日浦)
日浦中豪というところに大きな石があり、東には南養瀬北養瀬の在所がある。 大石に上り大声で呼ぶと、よく聞こえるので用が達せられたという。 この石をよび石と言う。

五 よび石(東分)
鬼籠野東分と黒河在所との間の山頂に大石がある。 高さ一メートル、直径二メートルの四角い型をした大石を呼び石と言っている。 その石の上に上り大声で「いがる」と北側の喜来・黒河・坂瀬川・日浦の在所に、変事を伝えたり連絡をとることができた。

六 鏡 石
中内の北側の山頂に大きなピカピカ光る鏡のような石があった。 かなり遠方からもその光が見えたらしい。 その石を里人は鏡石と呼んだ。 現在の秋葉神社の辺ではないかと言われる。 今はその光る石は見当らない。

七 大 桜
旧上山街道の大桜峠に一軒の茶屋があり、上り下りの客で賑わった。 この茶屋の前庭にある大きな自然石を抱えた桜は、恰も乳呑子を抱いた母の様であった。 周り七米・高さ一三米、樹齢幾百年とも知れぬ山桜の巨木である。 代々の蜂須賀藩主も花時には度々お成りになり、観桜の宴を催されたそうな。 また多くの詩人・墨客が来て詩をつくり歌を詠み桜の小枝に吊し帰った短冊を、茶屋の老婆が風流好みで、これを集めて秘蔵し今も残っている。 これは往時を偲ぶ貴重なもので、その筆跡の美しさには感心させられる。 この有名な桜も、大正の終り頃より枯れ始めて、昭和九年の台風に倒伏し、昭和二十年惜しくも土にかえった。 現在はその跡地に二代目の桜の木が植えられている。

八 どんぐわんのがま
一ノ坂の「黒ざれ」と云う川岸にどんぐわんのがまと云う直径約一、五米くらいの穴がある。 子供が近づくと、どんぐわんという怪物が草の茂みからはいでてきて尻を抜かれるといい伝えられ、氣持悪がって子供達が近付かない処である。 がまは喜来八幡神社の下で黒河川が大きく曲った処にあるがまに通じていると言い伝えられている。 或る時その真偽を確かめてみようと思いついた物好きな二人がいた。 いろいろ知恵をしぼった結果、こちら(一ノ坂)が上流のようだから籾殻を間断なく押し込んだら、四、五日目には黒河に出るであろうと意見が一致した。 二人は交代で昼夜休むことなく籾殻を突込んだそうな、四、五日して若しやと思い黒河(がまの口)へ行ってみたが流出の様子も見えなかったが、尚屈することなく、意気軒高、人の陰口にもめげず奮闘努力七日七夜に及び、八日目の朝、よもやこれならと大きな期待で黒河に急いで見たが、一握りの籾殻の影も見えなかった。 さすがの二人も精魂つき果て、河原の砂の上に長々と伸び果て、がまというものは見かけによらず深く、神秘な処と天を仰いで嘆息した。 と云い伝えている。

九 西分のお不動さん
長又道は阿川のツェ(阿川本名)と言うところから、山越しに長又を通り鬼籠野へ通じている。 その昔この道には送りオオカミがいたそうな。
この道を通る人は「こけたり(ころぶ)後を振り向いたりすると喰われる」と言って大変こわがっていた。 そこで西分講中の人々は不動明王を現在の地に建立し、オオカミの出没のないよう祈願した。 その後オオカミは出なくなったという。 西分在所では今も重座と言って、正月には講中の当家で、四月にはお不動さんの前で祈禱を続け行っている。

一〇 中津川の御薬師さん
鬼籠野中津川在所の東端に、お堂があり薬師如来がまつられている。 その昔或る高徳の僧が開基したといわれる。 ここに祀られている薬師如来は、ことのほか霊験あらたかと言い伝えられ、近郷近在より参詣する人が絶えなかった。 日和佐薬王寺のご本尊さんと、大きなつながりがあると言われる。

一一 花折りさんと腹こわり石
一ノ坂と、広野の村境の道路脇の上に花折さんと言う所があり、昔から村外に出る人は必ず四季折々の花や、芝枝を供えて道中の無事を祈り、帰りは亦花をまつり無事を感謝して家路を辿った。 前の河岸に、「腹こわり石」という大岩がある。 老ばの話では、昔氏神様が始めて弓折に来たのは暑い夏の日であった。 持っていた金仏様が汗びっしょりになったので、その岩の上に祀って弓をかかえて岩にもたれて休まれた勿体ない岩だから、汚れた手でさわると「バチ」が当ると言われている。

一二 狸の石割
昔、一ノ坂の某家に屋敷普請の石取りを大地谷でしていた時、或る人が広野で酒を一杯呑み、ほろよい気嫌で「お袖ぶち」迄帰ってきたら、上流の川中でカンカンと石を割る音がする、この夜更けにおかしいと思いつつ近付き、川中に向って「もう仕舞わんか」……と何度叫んでも返事もなく、音も止まないので、ハハーン、こいつは狸の仕業だなと気が付き「狸が化すときは其の人の後にいる」と聞いていたので、落ち着いてサット振向いたとたんに提灯の火も石割る音も、いっしょに消え真暗やみになったと言う。

一三 的 場
喜来、坂喜橋の上の山を的場と言い、弓を射る的を立て一ノ坂の山より矢を放った。 すると数本の矢を滝倉の谷で見失ってしまった。 現在の養瀬谷で一名「矢うせ谷」とも伝えられている。

一四 蛇 渕
元山西、笠原氏宅下の方に谷があり、渕になっている。 この渕へ元山の立岩神社のお使の白い蛇が、谷を登り下りして蛇渕へ行った。 立岩神社の前の谷は蛇渕に通じている。

一五 首切り地蔵
鬼籠野久保橋のたもとより右へ、佐那河内方面へ行くわかれ道がある。 是より三丁ばかり佐那河内の方へ行くと、「首切地蔵」という地蔵さんが建っている。 昔、或る日「六部さん」が、俄か雨にあい、ずぶぬれになった。 ある家の軒下で雨宿りをして、ふところから漏れたお札を出し並べて乾かしていた。 これを見たその家の主人が邪心をおこし、その金を奪おうと六部のあとをつけ、人通りの少ない所で殺し金を奪った。 その後、たたりを恐れ里人がつくった地蔵さんがこの首切地蔵さんと言い伝えられている。

一六 仏 の 森
一ノ坂平地の山頂に昔から仏の森という古松の森があった。 前に行った時は古墳によく似た岩の墓が数基建っていたが、最近行ってみると森も焼けて無くなり、新しい墓が一基小松の陰に寂びしげに建っていた。 此の附近で山仕事中に槍の穂先や弓の矢尻を拾ったという話もあり、此の連峯の東端に一ノ宮城があり、一宮家第十一代最後の城主、一宮長門守成助は、天正六年勝瑞城の三好存保と戦い破れて城を追われ此の山野一帯を算を乱して焼山寺に敗走して行ったという。 其の時の追撃戦や残敵掃討戦で討死された武人を里人が此の山頂に集めて祀ったのではないかと思われる。
某家に病人が相次いで、困り果てた主人は巫女に祈禱してもらった。 「仏の森」を大切にお祀りしたら良いと告げられた。 何処か家近の清浄な場所にお祀りしようと思い立ち、近隣、友人に協力を求めた。 一度みんなで見た上で相談しようと言う事になり揃って仏の森に近づいた処、真白な大きな蛇がどぐろを巻き、鎌首をたて真赤な目でグットにらみつける。 一同は顔を見合すなり気は動転し、ガタガタ、ブルブルふるえだし、持っていた道具は放り出し、バラぐろ、しだぐろの中を一目散に逃げ帰り、そのまま沙汰止み二度と仏の森のことは言わなくなったと言い伝えられる。 ※ 白の大蛇は近くの三ツ峯はんのお使いで、広野側でも近年一度見たと言う人もある。

一七 無人の屋敷に牛が鳴く
一ノ坂の山一つ北側に平地という山があり、其の中腹に一反歩程の畑地跡がある。 昔ここに一軒の農家があったらしく、現在も「おふなたさん」の祠が残っている。 近くに泉があり清水がこんこんと湧きつづけている。 藩政時代ではなかろうか、ひどいききんの年に飼牛を解き放してやらぬままに、人間が先に死にたえた。 生き残った牛は、水も草も喰べられず、哀しいかぼ細い声で鳴いて鳴いて鳴き死んでいったらしい。 それ以後この屋敷跡に人が近づくと、人恋しさにか牛に鳴き付かれて困ると言う話が残っている。 山裾には田畑も四、五反あり他に人家のない処を見ると、そう大昔の事とも思えない。

一八 黒河杉尾神社の大杉
黒河の中西宅前の小高い山が黒河杉尾神社の社地である。 大正の初め頃まで大きな杉松樫椎など、いろいろな大木がうっそうとして生え茂っていたが、どんな理由か知る由もないが大正五・六年頃伐採して搬出し、今はその跡地に小さな祠が残っている。
神木を伐採した後、神の怒りか、黒河在所に伝染病や、その他の病人が続出して非常に困ったことがあると伝えられている。 またこの社地南側の谷川近くに生えていた高さ三〇米、根元直径二米余りの大杉を、嘉永年間の頃に蜂須賀公が目的あつて、地元民に伐採運搬を命じ、黒河谷を東へ喜多尾を経て佐那河内村字合の川に何百人もの人夫で運ばせた。 佐那河内川を流して徳島へ着ける予定で、合川まで大杉を運び着いた晩に大水が合川に出て、大杉は何処へ流れたのか全くわからなくなったと伝えられる。

一九 黄金松
一ノ坂の金縁と言う旧上山街道脇に黒松二本の大樹が枝振りもたくましく、一本の赤松を抱きかかえるようにして、立つ男性的魅力に古来通行の目安となり、黄金松、黄金松と親しまれていた。 其の老松の根方に歌碑らしき石が建てられてあり、上の句は風化して不明、下の句に「黄金千両有明けの月」と刻まれていた。 故に黄金を埋めた目印に、この松を植えたという説あり、また掘り出した跡らしき処もあり、この街道近くに無造作に千両の大金を埋める程の豪族も近辺には居なかったと言う人ありて、ロマンと話題の多い松だったが、先の大桜道路拡張の犠牲となった。

二〇 五八そう と八幡さん
一ノ坂の「はつぶい」と云う処に五八そうと言って滅多に姿は見せないが身長八寸、胴幅五寸の異形な動物が住んでいた。 ときどき悪臭を発散させて、走る時は丸くなって転げるようだと言う。 其の奥地に大きい岩屋があり、昔は大きな蛇が住んでいたそうで、現在そこに八幡さんの祠が祀ってある。

二一 御馬の墓と池之谷
杉尾神社の登り口に、昔池があって神馬が此の処に落ちて死んだ。 今も池の谷、池の奥、御馬の墓の、地名と御馬の墓が残っている。 佐々木二郎高兼が弓を折って切腹したのも、此の地の上の屋敷で、今から七七〇年前の話である。

二二 喜来八幡社の渕
鬼籠野喜来八幡社の東側に「がま」と呼ばれる渕がある。 この渕は広野橋合の渕に通じているといわれ、そのためか広野にありながら「おろの渕」と呼んでいる。 以前の話にこの渕(喜来側)で肥桶を洗って、置いていたら大雨が降り流されてしまった。 するとおろの渕へ流れ出てきたそうな。……

二三 七人塚
源平合戦に敗れた平家の武士七名が、鬼籠野の中津川の物見山附近まで尾根伝いに逃げてきたが、源氏の追撃にあいこの地で殺された。 七人の武士を埋めて塚をつくったと云い伝えられる。 この塚を「いろう」と、何かの変事が起る。 かつて或る人がこの附近の山で刀を掘り出し、持ち帰ると急に腹痛をおこし困ったので、近くにある御嶽神社におさめたという。

二四 初白山と隠岩
神領青井夫の通称中山の頂上東端に秋葉神社の祠がある。 この神社より峰伝いに約二〇〇米くらい北に隠岩がある。 初白山に平家の残党がたてこもっているのを源氏方はこの隠岩より攻め、平家方は悉く討死した。 この地に里人が塚として埋めた。 その後、初白山ではその霊を不動明王として祀ってあると言い伝えられている。

二五 大人の原
一ノ坂と黒河の境の山頂に、大人(オオビト)の原と云う広い原がある。 これは大人さんの片一方の足跡だそうだ。 一ノ坂側の山麓の田の水口には、二〇〇〇貫程の大きな石が立っている。 これを「あかぎれ石」という。 大人さんのあかぎれに付着していた石がこぼれ落ちたのだ、と言う。 次の足跡は猪之頭の下の方にあり、次は茂助ヶ原にあるそうで、この大人さんは目籠で水を運んでも一〇里、二〇里は朝飯前で、目に物見せなんだと伝えられる。

二六 大人石
鬼籠野一ノ坂に二秀峰と言って二つの山の峰が相対して美しい眺めである。 その麓に大人石と呼ばれる石がある。 石面が自然に風化して巨人の姿に似ているといわれる。

第二節 方 言

(鬼籠野で明治・大正・昭和にかけて使われた古い言葉)

(ア)
アヤフヤ あいまい / アシラウ 病気の養生する / アバサカル ふざける / アサワザ 午前十時頃まで / アリシ ありったけ / アトシザリ あとずさり / アメノモチ 上棟式に投げる餅

(イ)
イキガケ 行く途中 / イツチヨモ 少しも / イガメル まげる / イラウ さわる / イツシヨクタ ひとつにまぜる / イタイ 無い

(ウ)
ウチニワ 以前は / ウタセ 融通 / ウロタエル 慌てる / ウタイマエ うちようてん / ウンニヤ いいえ / ウマエル 水でのばす / ウドム 唸る

(エ)
エツト 長い間 / エグル 丸く切り取る / エグイ あくが強い / エクソイキ むやみやたら / エゲツナイ 人情味がない / エゲサイ 沢山

(オ)
オオギレ 気前よい / オオボル かばう / オオゲトウゲ 当り前 / オツチラ ゆっくり / オリカニ 時々 / オシメリ 雨が降る / オイトハン 従弟

(カ)
カヤル 倒れる / カザム 臭をかぐ / カバチ 外がわ・外廻り / カタチン 不揃・一対でない / カラゲル 裾を引き上げる / カウヌ 避ける

【考証メモ⑥】伝承・方言の民俗学的価値

伝説や伝承は「史実」としてそのまま扱うことはできないが、「当時の村人が何を畏れ、何を祈ったか」という地域社会の心性や、自然に対する畏敬の念(大桜、どんぐわんのがま等)を読み解く素材として位置づけるのが適当である。
また、方言の採録は言語学的に貴重であり、当時の人々の生活の息遣いを後世に伝える生活文化史の一次資料として機能している。

第五章 民 間 薬

民間薬の歴史は古く、長い年月をかけて多くの経験とその積み重ねによって作り上げられてきた。 例えばセンブリやウラジロガシなど、また動物ではマムシやタヌキなど古くから知られており利用されてきたものである。 これらは大変有効な民間薬である。 黒河の中西護氏宅は、今も屋号を薬屋と呼ばれており、昔は薬の製造販売などをしていたと言われ、薬草を口に含んだ人物が描かれた掛軸が伝えられ現存している。 これは薬屋だけが所持していたもののようである。
また最近まで薬研(やげん)と言う薬草などを粉にする道具もあったと言われている。 広辞林には、神農祭は昔漢方医が冬至の日に、医薬の祖としてあがめる、中国太古の天子と言われた。 神農氏を祭って赤飯・酒・さかなを供えた祭りと記されている。 また、薬師(くすし)(医者・医師)は薬師の神として、神代に医療とまじないの法を定めた少彦名神(すくなひこなのかみ)・大己貴神(おおなむちのかみ)を祭っていたとある。 掛軸はこの神農氏を描いたものであろう。 次に多く利用されている。 薬草酒と薬草一覧を掲げる。

鬼籠野薬草酒一〇選
あろえ酒、うめ酒、がまずみ酒、かりん酒、くこ酒、しそ酒、すいかずら酒、なつめ酒、ねずみもち酒、またたび酒

鬼籠野薬草百選の利用

番号 植物名 薬用部 時期 主な薬効 番号 植物名 薬用部 時期 主な薬効
1あかめがしわ樹皮夏胃酸過多25かわらよもぎ花穂8月〜9月消炎性・利尿
2あおつづらふじ茎 幹 根秋〜冬利尿鎮痛26かんあおい根茎冬鎮痛・鎮痙
3あかね根9月〜3月浄血27ききさげさく果9月〜11月利尿
4あきのきりんそう全草秋健胃利尿28きはだ樹皮晩春 初夏苦味・健胃
5あけびつる5月利尿鎮痛29きんかん果実 葉秋はしか・健胃・咳止
6あさがお種子10月〜11月咳,下剤30きからすうり塊根 種子10月〜3月催乳・乳児のただれ
7あまどころ地下茎秋〜冬強壮31ききょう根6月〜7月去痰
8いちい葉 木部7月利尿通経32ぎしぎし生根汁年間たむし・水虫・りゅうまち
9いちじく果実夏〜秋整腸・下痢 貧血33きらんそう全草年間結石・高血圧
10いのこずち根11月利尿・浄血34きんみずひき全草夏下痢止め
11いわたばこ葉夏〜秋健胃・整腸35くちなし果実10月〜12月消炎・利尿 止血
12うこぎ皮冬鎮痛・強精36くり青葉汁 葉樹5月〜9月皮膚炎・湿疹・あせも
13うめ未熟果実5月〜6月赤痢・下痢 鎮痛37くわ根皮夏消炎性利尿 下剤
14うらじろがし葉年間結石38くこ果実・葉・根皮果・秋 葉・年間 皮・秋強壮・解熱
15うつぼぐさ花穂7月〜8月消石・利尿39くさすぎかずら塊根9月鎮咳・利尿
16うど根春強壮40くず根秋〜冬発汗・解熱
17えびすぐさ種子10月〜11月緩下・強壮 利尿41げっけいじゅ果実10月苦味・健胃
18おうれん根茎秋〜冬苦味・健胃42げんのしょうこ茎葉7月〜8月収れん性 下痢止
19おおばこ全草 種子7月〜10月利尿・鎮咳43こぶしつぼみ2月〜4月頭痛
20おおつづらふじ根・茎秋〜冬消炎・鎮痛 利尿44ざくろ根皮6月〜8月條虫駆除
21おとぎりそう全草9月〜11月含そう・収れん 止血45さんしゅゆ果実秋滋養強壮
22おなもみ果実9月〜10月解熱発汗46さんしょう果皮の殻秋芳香性 健胃・整腸
23おみなえし根8月〜10月利尿・解毒 排膿47さるとりいばら根茎10月〜2月利尿・糖尿
24かきへた 葉10月〜11月しゃっくり 高血圧48さるのこしかけ全年間動脈硬化 制がん
49さねかずら果実秋強壮・鎮咳75にわとこ幼茎4月〜5月利尿
50さふらん雌蕊10月〜11月鎮静通経76にんにく鱗茎6月〜8月鎮静 強壮他
51さくら樹皮年間皮膚病 鎮咳77ねずみもち種子9月〜10月強壮・黒髪
52さらしなしょうま根茎10月〜11月発汗・解熱78のいばら偽果11月〜12月利尿
53しそ葉 種子8月〜10月精神 安定剤79はこべ茎葉春〜夏利尿催乳
54しょうが根茎11月芳香性苦味 胃80はとむぎ種子9月〜11月消炎利尿 滋養
55しょうぶ根茎年間芳香性 健胃81ははこぐさ全草初夏鎮咳・去痰
56しゃくやく根9月〜11月鎮痛・鎮痙82はらん根茎年中利尿・強心
57じゃのひげ根の膨大部5月〜6月粘滑性消炎他83びわ新芽5月〜6月清涼健胃
58じゅずだま果実秋〜冬消炎利尿84ひおうぎ根茎秋消炎鎮咳
59すいかずら花 葉4月〜9月化膿性疾患熱85ひきおこし全草7月〜8月苦味健胃
60すぎな全草5月〜6月利尿 肺結核86ひとつば全草年間利尿
61せきしょう根茎9月〜12月鎮痛・鎮静87ふじばかま葉茎8月〜9月糖尿病
62せんぶり全草秋苦味健胃88ふゆのはなわらび茎葉秋〜冬咽腫病 婦人病
63たらのき樹皮 根皮5月〜6月健胃・利尿89ぼたん根秋鎮痛
64だいこん葉 根秋胃酸過多 他90またたび果実8月〜9月体を温める
65だいこんそう全草夏利尿91みしまさいこ根10月〜3月解熱解毒
66たんぽぽ根11月〜12月健胃92めはじき帯花 全草7月〜8月産後の止血
67とねりこ樹皮年間消炎 収れん93もっこく葉 樹皮秋黄疸
68とうもろこし毛・花穂6月〜7月利尿・脚気94もも桃仁 生葉6月〜8月浄血・痛経 あせも
69どくだみ全草6月〜9月利尿95やましゃくやく根9月〜11月鎮咳
70とちばにんじん根茎9月〜11月強壮 神経痛96やまのいも根10月〜11月滋養強壮
71なつめ果実9月〜11月緩和剤97やまもも樹皮6月〜8月収れん
72なんてん果実10月〜3月鎮咳98ゆきのした葉6月〜7月解熱
73なでしこ種子 全草9月〜10月利尿通経99ゆず果実 種子秋洗髪料 はだあれ
74にがき木部6月〜8月苦味健胃100りんどう根10月〜3月苦味健胃