第一章 名称および分合
一、徳島県の名称および分合
本県は国初、北方粟国(あわのくに)と南方長国(ながのくに)の二国から成り、共に国造によって治められていたが、孝徳天皇の大化の改新(645年)により両国を合して「粟国」一国とし、国造を廃して国司を置かれた。「粟国」が「阿波国」と改称されたのは奈良時代、元明天皇の和銅6年と推定される。
降って戦国時代、阿波国から出て阿讃両国を風靡した細川・三好両氏の勢いが衰えるに及び、土佐の長曾我部元親が阿波に侵入して諸城を陥れ、天正10年9月阿波全域を平定した。しかし天正13年豊臣秀吉の四国征伐に、長曾我部軍は利あらずして土佐に退き、阿波国は豊臣秀吉の手に帰した。すなわち阿波国が長曾我部氏の支配下にあることは僅かに3年であった。
豊臣秀吉はこの功により、天正13年阿波の国を蜂須賀家政に賜った。秀吉の死後、家政は高野山に隠遁したが、その子至鎮(よししげ)は徳川方に加わって功があり、阿波国18万6千750石を賜った。のち大阪の役が起こるや至鎮はさらに功があり、淡路一国を加え、阿淡両国25万7千余石を領して明治維新に及んだ。
明治維新の後、廃藩置県の際に、「徳島県」が置かれたが、明治4年11月に「名東県」と改称し、阿淡両国十二郡を統べていた。
明治6年2月、香川県が廃止されて讃岐十二郡を名東県に合併したが、同8年9月香川県が再置されるに及び分離した。ついで明治9年8月、名東県が廃止されて阿波国十郡は高知県に、淡路国二郡は兵庫県に合併され、徳島には「高知県徳島支庁」が置かれた。その後明治13年に阿波国を高知県から分離し、再び「徳島県」が置かれて今日に及んでいる。
二、名東郡の名称・分合・廃止
大化の改新(645年)の際、阿波国は、名方・板野・阿波・麻植・美馬・勝浦・那賀の七郡に分かれていた。その中の「名方」とは後の名東・名西二郡を合わせたもので、その名称は当時の阿波の「国司」が、日本武尊の皇子「息長田別の命」の子孫で、世々本郡内国府の庁に居られたから、その御名の長田が郡名となったものだといわれている。また「名方郷」に諏訪神社があり、その祭神が「建御名方富命」であったので、その御名が郷名となったとする説もある。
宇多天皇の寛平8年(896年)名方郡が分かれて、名東・名西の二郡となった。さらに正親町天皇の元亀年中に名東・以西の二郡に分かれたが、寛文4年(1664年)幕命によって両郡を合併し、元の名東郡に還った。名東・以西への分割は元亀年間ではなく、それ以前の鎌倉時代であろうという有力な説がある。
維新後明治5年の大・小区設置の際、名東郡は「第一大区」となったが、同12年1月の郡制施行の際、「名東勝浦郡役所」が置かれた。
明治24年郡制が布かれて名東郡と勝浦郡とは分離した。また徳島市も市制実施と同時に分離した。大正12年3月末日、郡制が廃止されて自治体としての郡が消滅し、県の出先機関としての郡役所は存置されたが、大正15年7月1日に廃止された。
大正15年4月に郡内の斎津・沖洲の両村が徳島市に合併し、名東郡は九ヵ町村になった。その後、昭和12年および昭和30年の町村合併促進法により周辺町村が徳島市に合併され、名東郡は二町村(佐那河内村、国府町)となった。
三、佐那河内村の村名および分合
佐那河内村は往古「長国」に属していた。すなわち今から1,800余年前、成務天皇の御代に、韓背足尼(からせのすくね)が「長国造」となってこの国に来り、本村の中山に居り、その祖を祀って氏神とした。この社が現在の「御間都比古神社」である。
大化の改新によって「名方郡」に属したが、当時上中辺に居た「佐那河内守」の所領であり、「佐那県」と称した。「村里 中辺、佐那河内守がかつてここに居たため、今、佐那河内と称す(『阿波志』)」。
寛平8年(896年)に名東郡に属して「狭長(さなが)村」と改称し、天慶年間(938〜947年)に「中辺村」と改めた。治安年間(1021〜1024年)に中辺村が上佐那河内村・下佐那河内村の二村に分かれて明治初年に及んだ。
明治5年、行政管轄上「第十三小区」とされた。明治21年市町村制の実施と共に両村を合わせて、佐那河内村とし、元の二カ村を大字とした。大正4年になって大字割拠の悪弊を防止するため「村」の字などを削除し、現在の「佐那河内村上(下)」という名称に至った。
四、町村合併と本村
Ⅰ、本問題の発端
昭和22年5月、徳島市議会は市長に対し周辺町村(上八万、佐那河内、多家良、勝占、小松島各町村)の合併に関する意見書を議決提出した。昭和22年8月に徳島市議会議員が来村して合併の勧説があったが、本村ではまだその気運は見えなかった。
Ⅱ、町村合併促進法の発布と合併問題
昭和28年8月1日に「町村合併促進法」が発布され、全国の町村数を三分の一に減らす国策が推進された。徳島市は市議会議員の定員増員を意図し、近接町村に合併を呼びかけたが、本村の合併を熱望し昭和29年11月から三回にわたり勧説があった。
これを受け、本村では合併に関する基礎調査を行い、徳島市へ負担等の条件を提示したが協議は難航した。
Ⅲ、早期合併の議会決議と反対運動
昭和30年1月19日の村議会で「徳島市と早期合併するものとす」という緊急動議が可決されたが、村内では反対の声が強く、反対派の議員から「早期合併反対の理由調書」が出された。理由としては、建設計画への影響、負担の問題(税金やPTA負担増)、各種団体の活動停滞、直接村民の被る不便(役場廃止による手間増)などが挙げられた。
その後、村民の無記名調査を経て、村議会および合併促進委員会は「徳島市に早期合併はしない」と決定した。
第二章 本村の首長
一、明治以前の首長
(一) 韓背足尼(からせのすくね)
上古における本村の首長は明らかでないが、本県すなわち阿波国は上古北方「粟国」と、南方「長国」の二カ国に分かれていて、この村は長国に属していた。『国造本紀』や『旧事記』によると、成務天皇が志賀高穴穂宮におられた御代に、観松彦色止命の九世の孫である韓背足尼を長国造に定めて賜ったとある。また『阿波志』によれば、御間都比古神社は遠い子孫の韓背宿祢が祖先を祀ったものであり、韓背足尼はこの地に在って眉山から南方の各郡すなわち「長国」を治めた。一説には観松彦は大己貴命の子で出雲族だともいわれている。足尼は本村に在って祖先を祀り、農耕・漁業の法を教え、当時の本村は政治産業の中心地をなしていたと思われる。大化の改新によって国造は廃止されたが、足尼の子孫は累世この村に居住して神官となり、和銅年間に宇佐八幡宮を勧請した。この子孫が後に猪飼・井開氏を唱え、神官として永くこの村に在った。
(二) 佐那河内守
大化の改新の頃、佐那河内村は名方郡に属し「佐那県」と称して、中辺に居た佐那河内守の所領であったと伝えられている。
(三) 阿波真人広純
第十二代景行天皇の御代に「阿波君」となられた息長田別命の子孫で、第三十七代斎明天皇の御代に新羅を討つため阿波兵を率いて渡った国司。我が佐那河内村はこの広純の支配下に在った。
(四) 藤原国風
人皇第五七代陽成天皇の元慶年中に阿波介となって此の国に来り、天慶年間伊予で兵乱を起こした藤原純友と戦った人物。
(五) 田口成良
源平合戦の頃、名西郡桜間城にいた平氏の豪族。後に源義経に降って源氏に仕え、当時この村はその成良の支配下に属していた。
(六) 野田内蔵助
戦国時代、本村上中辺にあった佐那河内城(石峯城)の城主で、細川氏の勢力下にあった。天文二十二年、主君細川持隆の仇を報ぜんと名東郡北井上村黒田の槍場で三好実休の大軍と戦い、目覚ましい働きの後戦死した豪勇無比の士である。
(七) 藤原行高
近藤権頭と称し、野田内蔵助の代官として本村内の野田塁(中辺村)を守っていた。
(八) 安芸左京進(亮)
佐那河内城、安芸塁(中辺村中辺里)の主将が、安芸左京進橘宗長である。祖父の山城守は元亀元年に城を長宗我部元親に攻め落とされ、父の備中守が来て中辺村に住んだ。元亀元年に姓を「安岐」から「安芸」に改め、本村上佐那河内郷石峯山に城を構えたとされる。
(九) 東条左衛門尉光友
戦国末期、三好家や長曽我部家に与し、後に本村の主宰者として重んぜられた東条家(新羅三郎義光の出)の人物。天正13年の秀吉の四国征伐の際、尾境の居城を退去し、後に自害した。
(十) 東条三郎左衛門光久
左衛門尉光友の長男。蜂須賀公から召し出され、近村の御用を仰付けられて後に大政所(与頭庄屋)となった。
二、蜂須賀氏治世の本村主宰者
徳川氏の治世になって藩では、郡に「与頭庄屋」を置いた。
- 与頭庄屋:大庄屋・大政所ともいい、組内の事を処理し、庄屋以下を指揮監督した。
- 庄屋:人民の選挙で就く役で、村内一切の事務を処理する今の村長に相当する。
- 五人組:庄屋の指揮を受けて傍示別に町村の事務を分掌処理する数人の共同責任団体。
第三章 交通
一、交通
上代には、山頂の分水嶺や中腹を選んで交通していたが、平野の開発に伴い、道路は河や海の沿岸に近く下がって来た。本村の長峯(中山)に長国造の祖神を祀る御間都比古神社があることで、昔の佐那河内は政治文化の一つの中心地とも考えられる。藩政時代には良質の佐那河内米を献上米として馬背で輸送していた。
明治初期の交通:南と北に山脈がある盆地状の地勢のため、佐那河内街道は車輌の通ずるところなく、僅かに馬背により物資を運輸する一線があるのみで、他は人肩ならでは運輸できなかった。佐那河内街道は園瀬川に沿う小径で、数々の渓川や淵・瀬があり、上八万に達する僅か二里の間に「九十九瀬」と呼ばれるほど川を渡る難所が多かった。
明治中期から大正期までの交通:明治10年ごろ寺谷から八多村に通ずる道路を改修し、同21年には徳島市に通ずる道路を改修して車が通ずる道が完成した。主要な幹線として、佐那河内街道、鬼籠野線、小松島街道が整備された。明治7年〜17年にかけては、日下磯次郎が独力で根郷道路(長さ60余間)を開鑿する偉業を成し遂げた。明治21年には吉永富太郎村長の主導で、一ノ瀬から府能までの車道が開通した。
大正時代の交通:荷車の数が激増し、貨物運搬力の増大に伴い経済・文化が発展した。大正年間には、嵯峨支線、一ノ瀬道路、馬越歩道、佐那河内街道根郷坂、根郷支道、東山支道などの改修が次々と行われた。中でも「府能峠の開鑿と隧道工事(大正6年〜12年)」は、総工費12万3千円余りをかけた大事業であり、これにより鬼籠野徳島港線として県道に編入され、交通の便が大きく開けた(府能隧道神功碑に記録がある)。また、大正14年からは佐那河内・小松島線の本格的な改修も進められた。
大正後期の交通と道路:井開支線の改修や、佐那河内小松島線の県道編入(大正12年)が行われた。
昭和における道路の開発と現況:昭和初期にも県道の局部改修が行われ、昭和7年には時局匡救土木事業として村内各所の道路改良が実施された。戦後は農業の近代化・合理化のため、昭和28年の急傾斜地帯農業振興法や昭和32年の新農村建設事業、昭和37年の農業構造改善事業などを通じて、至る所に農道・林道が新設・整備され、画期的な開発が行われた。
第四章 宗教
一、神社
(一) 寛保御改神社帳所載の六社(寛保三年報告)
- 下佐那河内村:大宮正八幡、妙見(大宮ノ末社)、杉宮八幡宮(応神天皇)、滝宮大権現(素盞烏尊)、天一神(嵯峨天一神宮トアリ)
- 上佐那河内村:朝宮大明神(天照大神荒魂瀬織津姫神)
右六社佐那河内総氏神。祭礼八月十五日。
(二) 神社明細書所載の五社とその他の神社
戦後の宗教法人法により編成された神社明細書には、以下の主要な神社が記されている。
- 大宮八幡神社(下字高樋):本村の総氏神。和銅3年(710年)に宇佐八幡宮より勧請。細川氏や蜂須賀氏の信仰が厚かった。
- 朝宮神社(上字宮前):上佐那河内村の氏神。天照皇大神荒魂などを祀る。
- 御間都比古神社(下字中峯):長国造の祖神・観松彦色止命を祀る延喜式内社。
- 嵯峨天一神社(下字宮ノ本):天照皇大神などを祀り、弘仁3年(812年)勧請の伝承を持つ。
- 天岩戸別神社(上字生木屋):天手力雄神を祀り、開運・武運長久の守護神として藩主からも信仰された。
このほか、村の記録には30の小社、非公認神社台帳には90の神社や祠(若宮神社、大山神社、八坂神社など)が記録されている。
(三) 村の記録に出ている三〇社(既出のものは重複を避けて、単に番号の註記に止めた)
- 1、大宮八幡神社(二の1参照)
- 2、朝宮神社(二の2参照)
- 3、嵯峨天一神社(二の4参照)
- 4、妙見神社 以下無格社 上字中辺字石ミ子一六番
- 5、八坂神社 上字宮前二番
- 6、八坂神社 上字平地
- 7、八坂神社 〃 岩校南野七五番 素盞鳴尊
- 8、八坂神社 〃 井開二六番ノ二
- 9、北ノ宮神社 〃 北山六六番ノ二 天御中主神
- 10、仁井田神社 〃 府能尻仁井田八九番 仁井田神
- 11、若宮神社 上字西府能尻 応神天皇
- 12、八坂神社 上字遠野一八二番
- 13、天岩戸別神社 (二ノ5参照)
- 14、大山祇神社 〃 久保井三番
- 15、妙見神社 下字下中辺
- 16、妙見神社 〃 上中辺 天御中主神
- 17、八坂神社 以下小社 下字中峯一四六番 素盞鳴尊
- 18、秋葉神社 下字丸田字中峯九四番 火産霊神
- 19、八坂神社 下字尾尻影一四六番 素盞鳴尊
- 20、八王子神社 〃 寺谷一九〇番 素盞鳴尊
- 21、五瀬神社 以上天一神社末社 下字寺谷二〇八番 五瀬ノ尊
- 22、杉宮神社 〃 根郷芝生 応神天皇
- 23、滝ノ宮神社 下字根郷 素盞鳴尊
- 24、御間都比古神社 (二の3参照)
- 25、御子戸神社 〃 中浦四九番
- 26、八幡神社 下字尾境九番ノ内
- 27、天王社 上字平地 素盞鳴尊
- 28、八坂神社 上字谷 素盞鳴尊
- 29、山神社 天一神社末社 下字上嵯峨白ノ峯 大山祇尊
- 30、八坂神社 天一神社末社 下字尾境 応神天皇
(四) 非公認神社台帳所載の九〇社(既出のものは記事を省略して、参照を示した)
※番号、名称、所在地、祭神、備考
- 1、若宮神社 下字中峯八六 不詳 文化年間(推定)
- 2、八坂神社 (三の17)
- 3、秋葉神社 (三の18)
- 4、日吉権現 下字東山五九 不詳 享保七年九月
- 5、若宮神社 〃 東山一二 不詳 文政二年
- 6、岩佐大権現 〃 あら田一八ノ二 不詳 文化年間
- 7、熊野権現 〃 滝バタ八二 不詳 天保九年
- 8、若宮神社 〃 中溝三二ノ二 不詳 文政 〃
- 9、山神社 〃 西地一五ノ二 大山祇尊 天保年間
- 10、正田大明神 〃 裏見坂一〇ノ四 不詳 文化三年頃
- 11、府中宮荒神社 〃 東内一四三 不詳 享和三・六・九
- 12、山神社 〃 東内一四二 大山祇尊 文化年間
- 13、若宮神社 〃 管沢二〇〇 不詳 文政年間
- 14、大山神社 〃 管沢二〇一 大山祇尊 文政二年頃
- 15、大山神社 〃 日ノ浦四〇 大山祇尊 天保 〃
- 16、八坂神社 (三の19)
- 17、八王子神社 (三の20)
- 18、五瀬之宮神社 (三の21)
- 19、八幡神社 (三の26)
- 20、大山神社 〃 尾境一一〇 大山祇尊 天保年間
- 21、大山神社 〃 高樋九一 大山祇尊 文政年間
- 22、天満宮 〃 高樋四一 菅原道真 延享四年
- 23、御子戸神社 (三の25)
- 24、鍼森神社 〃 中浦六八 不詳 天保八年
- 25、若宮神社 〃 中浦二 不詳 弘化二年
- 26、鎮守社 〃 日浦五一 不詳 天保七年
- 27、大山神社 〃 カシヤ三四 大山祇尊 文化年間
- 28、大山神社 〃 カシヤ四二 大山祇尊 享和年間
- 29、大山神社 〃 カゲ一〇 大山祇尊 文化 〃
- 30、野神社 〃 坂手一五 野槌尊 文化二年
- 31、若宮神社 下字滝淵二六 不詳 享和 〃
- 32、大山神社 〃 山ノ神六ノ一 大山祇尊 寛政年間
- 33、大山神社 〃 追上三三 大山祇尊 天明 〃
- 34、野神社 〃 中尾谷一六 野槌尊 文化 〃
- 35、若宮神社 〃 馬越九八 不詳 文政 〃
- 36、杉ノ宮八幡宮 (三の22)
- 37、滝ノ宮神社 (三の23)
- 38、大山神社 下字一ノ瀬四二 大山祇尊 文化 〃
- 39、船戸神社 下字一ノ瀬七 不詳 文政年間
- 40、若宮社 〃 一ノ瀬九ノ三 不詳 文政 〃
- 41、大山神社 〃 丸田一七三 大山祇尊 天保 〃
- 42、大山神社 〃 丸田二五 大山祇尊 安政八年
- 43、山神社 〃 東山一〇九ノ二 大山祇尊 文政 〃
- 44、山神社 〃 三木松一三 大山祇尊 文政年間
- 45、山神社 〃 大西二九ノ一 大山祇尊 天明 〃
- 46、山神社 〃 東内六七 大山祇尊 文化三年
- 47、山神社 〃 中津六四 大山祇尊 享保 〃
- 48、妙見神社 (三の4)
- 49、天王神社 (三の27)
- 50、大山神社 上字平地一一 大山祇尊 文化年間
- 51、山神社 上字谷内二九 大山祇尊 文政年間
- 52、若宮神社 〃 平地六四 不詳 天保 〃
- 53、天王神社 〃 南野三三 素盞鳴尊 文化 〃
- 54、鎮守社 〃 幸田一一四 不詳 天保 〃
- 55、山神社 〃 清音谷一〇 大山祇尊 享和 〃
- 56、山神社 〃 久保井三二 大山祇尊 不詳
- 57、野神社 〃 平間三七ノ一 野槌尊 天保 〃
- 58、山神社 〃 太田原一三八 大山祇尊 不詳
- 59、山神社 〃 太田原三八 大山祇尊 天保 〃
- 60、若宮神社 〃 稗切一〇 不詳 不詳
- 61、山神社 〃 東尾七ノ一 大山祇尊 文政 〃
- 62、稲荷神社 〃 東尾四一 不詳 天保 〃
- 63、権現神社 〃 東尾一〇 不詳 不詳
- 64、山神社 〃 奥野一六 大山祇尊 文化六年八月
- 65、安芸守神社 上字奥野一九 不詳 天明 〃
- 66、三社ノ宮神社 上字中尾一〇 大山祇尊 不詳
- 67、山神社 〃 牛木屋三ノ二 大山祇尊 天保年間
- 68、八坂神社 (三の12)
- 69、山神社 〃 遠野一〇一 大山祇尊 天保年間
- 70、八坂神社 上字遠野七 野槌尊 文政八年
- 71、秋葉神社 〃 生山三 火産霊神 享和 〃
- 72、野神社 〃 遠野一四ノ一 大山祇尊 天保年間
- 73、山神社 〃 田中六九 大山祇尊 天保 〃
- 74、山神社 〃 井開山三三 大山祇尊 文政 〃
- 75、八坂神社 〃 井開三ノ二 素盞鳴尊 文化 〃
- 76、山神社 〃 北野山一三 大山祇尊 文化 〃
- 77、山神社 〃 北野山一六七 大山祇尊 天保 〃
- 78、山神社 (三の19)
- 79、山神社 〃 北ノ山二一 大山祇尊 文化 〃
- 80、北ノ宮神社 (三の9)
- 81、森ノ宮神社 〃 田中九一ノ二 不詳 享和 〃
- 82、八坂神社 (三の8)
- 83、仁井田神社 (三の10)
- 84、山神社 〃 横峯四〇ノ一 大山祇尊 文政年間
- 85、若宮神社 (三の11)
- 86、大森神社 〃 府能一〇〇ノ二 不詳 不詳
- 87、熊ノ森神社 上字野神原壱ノ二 不詳 文化年間
- 88、若宮神社 〃 野神原八三ノ一 不詳 不詳
- 89、野神社 〃 野神原一五九 野槌尊 不詳(大正三年頃仁井田神社に移祀)
- 90、野神社 〃 府能三六ノ一 野槌尊 不詳
二、祭礼と御神踊(おどり)
秋祭りは旧暦10月に行われ、親戚や客を招いてごちそうを振る舞った。天一神社などでは「遷次第」という厳格な行列の規定(神楽、鉾、御輿などの順序や装束の規定)があり、数十頭の飾り馬が供奉して勇壮であった。しかし、時代とともに馬の数が減り、神楽屋台や相撲などの余興も次第に縮小していった。
また、祭礼の際には「御神踊(おどり)」と呼ばれる独自の踊り(全30曲)が奉納されていた。
踊りの目録:入葉、御神前、御屋敷、御屋形、千松、燕、御門、御宝、大黒、駿河、小鷹、堺、名古屋、肥前、長者、振、大工、綾竹、御若衆、出来節、亥ノ熊、天竺、貧田、鎌倉、親具、月曜、手拭、鐘巻など。
歌詞の内容:家屋や武具の立派さを讃えるもの(御屋形、千松)、各地の風景や名物を詠んだもの(駿河、堺、名古屋)、恋や人情を歌ったもの(肥前、綾竹)、神仏への祈願(長者、大黒)など、多彩な物語が七五調の節に乗せて歌い継がれていた。
三、寺院・仏堂・庵
村内には、浄土宗の徳円寺(本尊:阿弥陀如来、一光三尊善光寺如来などを所蔵)がある。
また、古くから村の各所に庵(観音庵、釈迦庵、阿弥陀庵、薬師庵など12カ所)や、非公認仏堂(地蔵堂、庚申堂、行者堂など18カ所)が点在し、厚い信仰を集めていた。戦後の農地改革などで基本財産を失い廃れたものも多いが、古い記録によってかつての姿が留められている。
(三) 非公認仏堂(明治四十三年調査)
※番号、名称、所在地、構造、祭神、備考
- 1、阿弥陀庵 上字幸田一一九番 本堂兼厨 五坪 阿弥陀如来 中島名 前項12参照
- 2、釈迦庵 上字井開一二二番 本堂兼厨 五坪 釈迦如来 井開名 前項2参照
- 3、地蔵堂 上字仁井田八九番 本堂 一坪 地蔵菩薩 府能尻名
- 4、石像地蔵 下字中辺六六番ノ二 高さ 四尺 地蔵菩薩 享和四年四月 中辺名
- 5、庚申堂 上字北山三八番 本堂 五合 青面金剛 元禄十二年八月
- 6、庚申堂 上字奥野一九番 本堂 五合 青面金剛 安政五年十一月
- 7、庚申堂 上字大田原三八番 本堂 五合 青面金剛
- 8、観音堂 下字中峯九九番 本堂一〇坪・厨九・五坪 観世音菩薩 享和年間 中嵯峨名 前項10参照
- 9、阿弥陀庵 下字滝ハタ七二番 本堂兼厨 六坪 阿弥陀如来 宝暦年間 上嵯峨名 前項11参照
- 10、阿弥陀庵 下字寺谷一三六番 本堂兼厨 一〇坪 阿弥陀如来 宝暦年間 尾尻・寺谷名 前項9参照
- 11、行者 下字寺谷一三三番 本堂 五坪 宝暦四年六月
- 12、薬師庵 下字尾端三九番 本堂一〇・三坪・厨三・二坪 薬師如来 元禄年間 尾端名 前項5参照
- 13、阿弥陀庵 下字尾端八番 本堂兼厨 九・五坪 阿弥陀如来 享和年間 根郷名 前項6参照
- 14、観音堂 下字日浦一番 本堂 五坪・厨 五坪 観世音菩薩 享和年間 根郷名 前項7参照
- 15、薬師庵 下字中辺六三番 本堂 九坪・厨 五坪 薬師如来 元禄年間 中辺名 前項8参照
- 16、阿弥陀庵 上字中辺四〇番 本堂兼厨 六坪 阿弥陀如来 元禄年間 上中辺名 前項4参照
- 17、阿弥陀庵 上字平地二八番 本堂兼厨 七・五坪 阿弥陀如来 元禄年間 平地名 前項3参照
- 18、観音庵 上字白尾五二番 本堂六・五坪・厨五坪 観世音菩薩 享保年間 井開名 前項1参照
第五章 郡村誌の記事
一、解題
本書は、国家事業として「皇国地誌」を編集する目的で記載せられたもので、郡誌と村誌とからできていて、阿波国名東郡村誌の巻末には、明治十一年十二月 高知県令渡辺国武代理小書記官小山正武 史誌編輯係御用掛闍宮嘉太郎の署名がある。その本村の部は次節に記すとおりである。但し読解の便のために句読点を加えた。
二、阿波国名東郡下佐那河内村
本村は古い時代には中辺村と称し、名方郡八万郷に属していた。寛平八丙辰年(896年)9月5日、名東・名西の二郡となった時、名東郡に属した。中古に村を廃して、上・下佐那河内村に分けた。今の名に改まった年暦は詳らかではない。
- 疆域(境界):東は、本郡上八万村及び勝浦郡八多村と、雷峠の分水嶺をもって境界とする。又、田中山の嶺をもって境界とする。西は、本郡上佐那河内村と、道路をもって境界とする。南は、勝浦郡坂本村と、山嶺をもって境界とする。北は名西郡鬼籠野村・本郡一宮村と山嶺をもって境界とする。
- 管轄沿革:天正十三乙酉年、蜂須賀家政が封じられて以来、世々これに従い廃藩に至る。明治二己巳年、従二位茂韶が版籍を奉還し、徳島藩の所管となる。同四辛未年廃藩置県の後、名東県に属し、同九丙子年、名東県が廃せられて高知県に属す。
- 里程(距離):元標は高樋にある。高知県庁からは丑寅(北東)の方角で、およそ52里。徳島支庁からは南の方角で、およそ4里16町1間。
- 四隣距離:東の本郡上八万村の元標へは、1里33町21間。西の本郡上佐那河内村の元標へは、33町20間。南の勝浦郡坂本村の元標へは、2里20町。北の本郡一宮村の元標へは、1里14町55間。
- 地勢:西から東へ川が流れ貫き、四方は高い山に囲まれ、その間に田圃がある。水陸ともに運輸は不便であるといえども、薪炭には乏しくない。
- 地味:その土の色は赤黒くて粘り気があり、稲・粟・麦・藍などに適しているが、水利が不便で、時々干ばつに苦しむ。
- 税地(明治9年1月1日調べ):田 96町7反2畝4歩。畑 37町6反10歩。
- 大縄場:田 1町2反5畝29歩。畑 1町2反8畝12歩。
- 山林反別:154町6反5畝22歩。総計 291町5反2畝17歩。
- 字地:
- 三名:本村の北にある。東西10町、南北30町。
- 根郷:本村の西にある。東西28町35間、南北11町40間。
- 中辺:本村の西南の方角にある。東西8町20間、南北9町30間。
- 寺谷:本村の東にある。東西18町30間、南北15町20間。
- 佐賀:本村の南にある。東西19町30間、南北15町。
- 上佐賀:本村の南の方角にある。東西28町、南北22町40間。
- 貢租(明治9年1月1日調べ):地租 米 700石7斗6升6合。麦 121石8斗9升。米麦合計 822石6斗5升6合。雑税金 33円50銭(内訳 国税12円、県税21円50銭)。山林税 上出 84銭9厘。
- 戸数(明治9年1月1日調べ):本籍 447戸。士族 3戸。平民 444戸。神社 16座(郷社1、村社1、小社14)。寺 8カ寺(真言宗1カ寺、庵7カ寺)。総計 471戸。
- 人数(明治9年1月1日調べ):男 1,025人(士族8人、平民1,017人)。女 951人(士族6人、平民945人)。総計 1,976人。
- 牛馬:牛 牝(メス)3頭、牡(オス)74頭、計77頭。馬 牝68頭、牡2頭、計70頭。総計 147頭。
- 山:
- 碁盤石山(又、轆轤山ともいう):高さ12町24間。周囲不詳。本村の西の方角にある。嶺から3つに分かれ、西は本郡上佐那河内村に属し、南は勝浦郡坂本村に属し、東・北は本村に属す。山脈は東に延びて勝浦郡に連なる。高いことは本郡の巨擘(きょはく=第一)というべきである。樹木は疎らである。登路が1条ある。本村の西の方角より登る。高さ1里4町、険しくて遠い。渓谷が1条あり、水は少ない。東に流れて佐賀川の水源となる。
- 烏帽子山:高さ8町19間。周囲不詳。本村の西の方角にある。樹木は疎らである。山脈は碁盤石山より連なる。登路が1条あり、本村の西の方角より登る。高さ30町。険しくて遠い。渓流が2条ある。一つは水がなく、一つは細く流れて僅かに用水に供する。未流は園瀬川に入る。
- 佐賀山:高さ5町33間。周囲不詳。本村の南の方角にある。山脈は碁盤石山より連なる。樹木は疎らである。登路が2条ある。一つは本村の西より登り、高さ20町、険しくて近い。一つは本村の東より登り、高さ25町、険しくて近い。渓石はあるが水は少ない。
- 鉄山:高さ6町22間。周囲不詳。本村の東・北の間にある。嶺から2つに分かれ、北は本郡上八万村に属し、東南は本村に属す。山脈は碁盤石山より連なる。樹木は疎らである。登路が1条ある。本村の南の方角より登る。高さ15町、険しくて近い。渓谷はない。
- 烽伽山:高さ1町55間。周囲不詳。本村の西・北の間にある。山脈は碁盤石山より連なり、樹木は疎らである。登路が1条あり、東より登る。険しくて近い。渓谷はない。
- 根郷山:高さ2町13間。周囲不詳。本村の西の方角にある。嶺から3つに分かれ、西は名西郡鬼籠野村に属し、北は本郡一宮村に属す。山脈は碁盤石山に連なり、樹木は疎らである。登路が1条ある。本村の南の方角より登る。高さ13町、険しくて近い。渓水が1条あり、幅は狭く水は多くない。用水に供する。
- 川:
- 園瀬川:元、三等川に属す。本村の西南の方角、名東郡上佐那河内村より入る。東に流れて字落合に至り、佐賀川と合流し、北に折れ、また東に曲がり、本郡上八万村に入る。長さ1里26町、幅10間、深さは所によって3間、浅き所は1尺。水は清く淡く、流れは緩やかではない。常に舟筏などは通ることができない。
- 佐賀川:元、三等川。園瀬川の支流。本村の南の方角、碁盤石山より起こり、東に流れて北に折れ、園瀬川に合流する。長さ1里8間、深き所は4間、浅き所は1尺。
- 溝:
- 一ノ瀬溝:本村の北の方角、一ノ瀬より起こり、園瀬川へ注ぎ、東へ流れ、北に折れて本郡上八万村に入る。長さ7町20間、幅2尺。用水に供する。以下も同じ。
- ヱモン溝:本村の東・南の間、字寺谷南より起こり、佐賀川へ注ぎ、北へ流れて西に折れ、用水溝に合流する。長さ11町40間、幅2尺。
- 政所溝:本村の南の方角、字佐賀より起こり、佐賀川へ注ぎ、直ちに東に流れ用水溝に合流する。長さ1里2町30間、幅3尺。
- 松久保溝:本村の西の方角、字佐賀より起こり、佐賀川へ注ぎ、直ちに東に流れ用水溝に合流する。長さ20町10間、幅2尺。
- 舟戸溝:本村の西の方角、字佐賀より起こり、佐賀川へ注ぎ、直ちに東に流れ用水溝に合流する。長さ27町、幅2尺。
- 板敷溝:本村の南の方角、字佐賀より起こり、佐賀川へ注ぎ、屈曲して東に流れ用水溝に入る。長さ32町50間、幅2尺。
- 新井溝:本村の南の方角、字佐賀より起こり、佐賀川へ注ぎ、屈曲して東に流れ用水溝に入る。長さ32町50間、幅2尺。
- 長ノ久保溝:本村の南の方角、字上佐賀より起こり、佐賀川へ注ぎ、屈曲して東に流れ用水溝に合流する。長さ14町、幅2尺。
- 森陰溝:本村の南の方角、字上佐賀より起こり、佐賀川へ注ぎ、屈曲して東に流れ用水溝に合流する。長さ12町、幅2尺。
- 上井溝:本村の南の方角、字上佐賀より起こり、佐賀川へ注ぎ、屈曲して北に流れまた東に折れて用水溝に合流する。長さ1里5町、幅2尺5寸。
- 神社(下佐那河内村)
- 五瀬神社(小社):本村の東の方角、字寺谷にある。
- 八幡神社(小社):本村の北の方角、字三名にある。椋や椎の老木が5本ある。
- 八坂神社(小社):本村の東の方角、字寺谷にある。
- 日吉神社(小社):本村の東南の間、字佐賀にある。
- 御間都比古神社(小社):本村の西南の間、字高雲にある。
- 八坂神社(小社):本村の南の方角、字佐賀にある。
- 妙見神社(小社):本村の西南の方角、字中辺にある。杉や椋の木が3本ある。
- 杉ノ宮神社(小社):本村の西南の方角、字根郷にある。松や檜の老木が8本ある。
- 滝ノ宮神社(小社):本村の西南の方角、字根郷にある。寛政5年丑の年までで年数170年と棟札に見える。祭日は9月28日。樅、松、杉などの老木が15本ある。
- 天神宮(村社):東西20間、南北30間、面積600坪。本村の南の方角、字上佐賀に鎮座している。祭神は天照皇大神。祝祭は詳らかではないが、松や椎の大樹が16本ある。
- 大宮神社(式外神社):東西51間、南北30間、面積1530坪。本村の西南の方角、字三名に鎮座している。祭神は応神天皇、高良大明神、姫大神、息長帯姫尊、菟道稚郎子尊、足仲彦命、大鷦鷯命を祀る。和銅元年戊申年2月に豊前国の宇佐宮より移された。祭日は9月28日。根固めは石をもってしている。修繕費は官費と民費。
- 堤防・道路(下佐那河内村)
- 川東堤:園瀬川に沿い、本村の西の方角である本郡上佐那河内村との境界から始まり、本村の字中辺に至って終わる。長さ3町、敷(幅)4間、馬踏(天端幅)2間、高さ2間、根固めは石をもってしている。
- 中辺堤:園瀬川に沿い、本村の西の方角である本郡上佐那河内村との境界から始まり、本村の字中辺に至って終わる。長さ7町、敷4間、高さ2間。
- 堤防:本村の東口から3町40間のところにある。
- 道路:村道が3条あり、いずれも三等道路に属する。一つは本村の東北の間、本郡上八万村の境界から西に向かい、屈曲して本郡上佐那河内村の境界に至る。
- その他の交通路は25条あるといえども、すべてを記すことはできない。
三、阿波国名東郡上佐那河内村
- 疆域(境界):東は本郡の下佐那河内村と道路を境界としている。西は名西郡の鬼籠野村と交川・小原山等をもって境界としている。南は勝浦郡の藤川村と大河原山ノ瀬をもって境界としている。北は名西郡の鬼籠野村と嶽峰の頂をもって境界としている。
- 管轄沿革:下佐那河内村と同じであるため省略する。
- 里程(距離):元標は郷宮官舎にある。高知県庁からは丑寅(北東)の方角で、約53里11町。徳島支庁からは西南の方角で、およそ5里27町。
- 四隣距離:東の本郡下佐那河内村の元標へは33町20間。西の北名西郡鬼籠野村の元標へは1里28町30間。南の勝浦郡坂本村の元標へは2里23町40間。
- 地勢:村全体は山がちで、平地は少なく、わずかに山間に耕地がある。西から東へ川が流れており、地形は東西に長く南北に短い。水陸ともに運輸は不便である。薪炭には乏しくない。
- 民業:全村において農業を仕事としている。
- 物産:食物(麺粉など)は質が良い。生産量は非常に多く、市街や近隣などに販売している。藍は質が悪く生産量も多くないため、近郷へ販売している。
- 植物:米は質が良いが生産量は多くないため、自家用に供している。甘藷(さつまいも)、楊梅(やまもも)、松、蕈(きのこ)、薪などは質が良く、生産量も多いため、市街や近隣などに販売している。
- 古跡:祈雨滝。本村の西の方角、大宮社の北の方角にある。登路は大宮の西南の間から。高さ4町、1町ごとに石を建ててしるべとしている。旱魃の時にこの雨を祈れば必ず降るといわれている。
- 庵・寺
- 薬師庵:本村の東の方角、字寺谷にある。
- 阿弥陀庵:本村の南の方角、字上佐賀にある。
- 阿弥陀庵:本村の西南の間、字根郷にある。
- 阿弥陀庵:本村の西北の間、字根郷にある。
- 観音庵:本村の南の方角、字佐賀にある。
- 観音庵:本村の西北の間、字根郷にある。
- 薬師庵:本村の西北の方角、字中辺にある。
- 寺:宝蔵寺。東西18間、南北25間、面積459坪。本村の南の方角、字上佐賀にある。真言宗古義派。本寺は本郡上佐那河内村の願寺末派である。天和元年卯年、僧の普済が創立・開基した。
- 地味:土の色は赤黒く、山間は粘り気があり、川沿いは砂利が多い。稲・粟・麦・甘藷などに適しており、水利は便利で、干ばつや水害の心配はない。
- 税地(明治9年1月調べ):田:67町7反4畝17歩。畑:45町2反8畝18歩。
- 大縄場:田:1反2畝16歩。畑:3反2畝歩。山林反別:104町5反6畝18歩。総計:218町4畝9歩。
- 字地:平地(東西9町、南北13町)、寺田(東西8町、南北23町)、府能尻(東西10町、南北36町)、府能(東西6町、南北35町)。
- 貢租(明治9年1月調べ):地租:米491石8斗1升7合。麦:78石4斗。米麦合計:570石2斗1升7合。雑税金:22円96銭。内訳:国税12円、県税10円96銭。山林税:5円62銭2厘。
- 戸数(明治9年1月調べ):本籍:344戸。士族:2戸。平民:342戸。神社:7社。村社:1社。小社:6社。大宮:7カ所。真言宗:2カ寺。庵:5カ寺。総計:358戸。
- 人数(明治9年1月調べ):男:780人。女:680人。総計:1460人。他より寄留している男:1人。
- 牛馬(明治9年1月調べ):牛:158頭。馬:25頭。総計:183頭。
- 山:大野山(高さ10町50間)、北側山(高さ4町)、北山(高さ4町)。
- 川:園瀬川。本村の西南の間、木野山より出る。東北の間を流れ、本村の中央に至って東に折れ、本郡下佐那河内村の境界へと流れる。長さ1里22町、幅10間、深さは所によって2寸、水は清く淡く、流れは急ではない。
- 溝:橋瀬溝、大東下溝、西川溝、田中溝、大東下溝、坂口溝、山田溝、鳴子石上溝、西峯溝、西府能下溝、森溝、奥川又溝、市郎溝、西久保溝、武市溝、西藤谷溝、トウメン溝、岩角溝、川久保溝、道ケ谷溝、秋成溝、奥野下溝、森ノ宮溝、鍛冶屋溝、七箇溝、寺田溝、ハメカ溝、垣平溝、茂七郎溝、アメヤ溝、上八溝、畦淵溝、ジンゾウ場上溝、ジンゾウ場下溝、新開溝、上八溝、中溝、揚ケ溝、畑田溝、大溝、新張溝。
- 池:奥川又池、二本松池、惣太郎池、南浦池(2カ所)、山田池、ハンタカ屋敷池。すべて用水に供する。
- 道路:村道(元・三等道路)。長さ1里12町27間、幅6尺。支道が6条あり、その他交道8条、小径2条に属するものは悉く記すことができない。
- 堤防:桑田堤、朝宮前堤(2カ所)、小谷堤、四郎堤、森河原堤、田中堤(2カ所)、ワサジリ堤、坂口堤、前河原堤、前河北堤、河原畑堤、河原畑北堤(2カ所)、ツツミ谷堤、森下堤。
- 社:
- 朝宮神社(村社):本村中央に鎮座。祭神は瀬織津姫命。祭日は8月15日。
- 北ノ宮神社(小社)
- 若宮神社(小社)
- 八坂神社(小社、2カ所)
- 仁井田神社(小社)
- 天岩戸別神社(小社)
- 寺:
- 長願寺:本村南方字中畠にある。真言宗。明応元年、僧澄海が開基。
- 青蓮寺:本村東方字平地にある。真言宗。僧龍岸が開基。
- 庵:観音庵、釈迦庵、阿弥陀庵。
- 古跡:安芸塁趾(本村東方字中辺)、古塁趾(本村南方)。
(末尾記載):明治11年12月 高知県令渡辺国武代理 小書記官 小山正武 史誌編輯係 御用掛 闍宮嘉太郎
第六章 文化
一、文化財・天然記念物
- 西林寺の磬(けい):室町時代以前のものと推定される仏教の発音器。銘文から、鎌倉時代初期に本村が「以西郡」に属していた歴史を証明する貴重な遺物である。
- 石造物・板碑:村内には常夜灯、道しるべ、地神碑、庚申塔などが多数残る。また、緑色片岩に梵字などを刻んだ鎌倉〜戦国時代の「板碑(石の卒塔婆)」が、根郷相合橋や仁井田神社などで発見されている。
- 一字一石の碑・芭蕉の句碑:室町期の小型五輪塔や、慶応2年に建立された松尾芭蕉の句碑(「木のもとは汁も膾も桜哉」)が残る。
- 天然記念物:府能大森神社の杉、嵯峨天一神社の杉、高樋大宮八幡神社の梛(なぎ)や公孫樹(いちょう)、尾尻の祇園社の松など、樹齢200〜300年を超える名木が点在している。
二、俚諺・伝承・医薬
(一) 方言
本村で使われていた特徴的な言葉として、次のようなものがあります。
すかんぽ(方角違い)、つるい(つるべ)、とっぱくろう(でたらめ)、にっき(肉柱)、はざぐい(間食)、ひだりぎっちょ(左利き)、へら(辺)、みしろ(むしろ)、ようこと(無駄)、りんりき(人力車)、たばこ(老人言葉で「たばこ」)、てのごい(手拭)、てんご(冗談)、となりはた(隣近所)、どぼっか・とろくそ(馬鹿野郎)、ねんびゃくねんじゅう(いつも)、ほててんご(冗談)、めめん(めだか)、ひだるい(空腹)、ひるわざ(日中)、ようはん(夕飯)、ようさ(夜)、よわざ(午後・夕方)。
(二) 口碑と伝説
- 九十九瀬:昔は交通が不便で、府能までに川を九十九度も渡ったことから名付けられた。
- 馬道・杖立:神山町へ通ずる唯一の馬道や、杖を立てて神に供える杖立権現の峠がある。
- 物見石・三木松:地表変動で転落した物見石や、長国造の屋敷跡と伝わる三木松(神酒松)の伝承がある。
- ちじり谷・塔の原・じゃこう淵:首切れ馬が出るという山や、弘法大師が寺院建立を邪魔した天邪鬼を突き落としたという淵の伝説。
- 祈雨滝・状が丸(上の丸):日照りの際に雨乞いをする滝や、修行者・大岡が牛馬を狙う疫病神(疫癘鬼)を退治して誓文を書かせたという山(状が丸)の伝説。このため、八多や佐那河内ではお盆の牛打坊を焼く行事がない。
- 中辺七坊・野田城跡・養楽寺跡:長曽我部元親に焼き払われた薬師寺(本尊や宝物を背負って逃げた「負い上げ」の地名の由来)や、野田内蔵助の居城跡など。
- 藍神様と藍染:孝行息子の山主の前に猿田彦大神が現れ、藍染の製法を教えて長者にしたという伝説。長者ガ原や長者井などの地名が残る。
- 大田の狸・杉の宮の提げ火箸・ちじり谷の首切れ馬・千田裏の小豆洗い・高入道:年末になると火をともして行列する狸や、夜道に現れる提げ火箸、首切れ馬、小豆を洗う音の怪異、道を塞ぐ大男(高入道)などの妖怪・怪異譚。
(三) 天気俚諺(天気予報のことわざ)
(四) 民間医薬
古来、村民は至極健康でほとんど病気を知らなかったため、風邪や腹痛などは薬を飲まずに自然治癒させていた。
三、現代文化(新聞)
明治21〜22年ごろに万朝報や徳島日々新聞が村に入り、夜学の青年たちが貪り読んだ。日露戦争後には一般に普及し、現代では各種新聞が村内に配達されている。
第七章 本村の人物
一、戦国時代の武将
- 野田内蔵助:佐那河内城の城主。細川持隆の仇を討つため、三好義賢の大軍と激戦を繰り広げ戦死した豪勇の士。
- 東条関兵衛実光:桑野城主であったが、三好氏に仕えず長曽我部元親に与し、四国征伐の際は木津城で豊臣軍と抗戦した猛将。
- 東条左衛門尉光友:関兵衛の弟で、尾境城を拠点に三好長治に従い活躍した。のちに自責の念から東山で自害し、日吉大権現として祀られている。
二、旧藩時代の文化人
- 徳円上人:浄土宗の高僧。厳しい修行を重ね、高越山や鳴門の飛島、佐那河内の嵯峨奥などで衆生救済に尽くし、多くの著書を残した。
- 鉄復堂(てつ ふくどう):江戸に出て寛政三博士の古賀精里に学んだが、親への孝行のため帰郷し、清貧の中で私塾を開いて多くの英才を育てた儒学者。
- 井開充長(いびら みつなが):大宮八幡神社の神職。神道儀式を研究し、神道俗談の講演会を開くなど、神道の鼓吹に尽力した。
三、明治維新後の人々
- 吉永富太郎:初代本村名誉職村長。明治21年の府能・一ノ瀬間の道路開鑿など、自治制度の基盤確立と村の産業交通発展に多大な功績を残した。
- 安芸五平:明治33年から村長を12年間務め、果樹栽培の奨励や貯蓄の推進により、本村を内務大臣表彰の模範村に導いた。
- 東条兵二:大正8年から昭和6年まで3期12年にわたり村長を務め、温厚円満な人柄で府能峠トンネル開通などの事業を推し進めた。
- 西岡勝文:若くして助役に就任し、戦後の村政を支えた人物。