建久の昔、源頼朝の挙兵に従い、宇治川の先陣争いで見事な一番乗りを果たした武勇を誇る佐々木氏。彼らは鎌倉幕府の創設を支え、阿波・淡路・土佐の守護として威を張った誇り高き武門であった。しかし、承久三年(一二二一)の承久の乱において京方(上皇方)に与したことで、その運命は暗転する。時代は容赦なく、彼らを覇者から泥に塗れる敗者へと引きずり下ろしたのである。
幕府方として新たに阿波へと乗り込んできた小笠原長経の苛烈な追討を受け、鳥坂城(茶臼山城)はついに陥落。戦に敗れ、身を隠すように山谷を這いずる凄絶な逃避行の有様は、『鬼籠野村史』に次のように克明に記されている。
「鳥坂城を追われた高兼は、高重の子秀経と僅かな家臣を連れて、行者野から楠木峠を越え大地谷をさかのぼり、今の二ノ坂にただ一軒あった平鍋家まで辿り着き。 留守をしていたばあさんに“空腹だが何か食べる物はないか”と尋ねると、山家の事で何んにもできませんがと言って、粟飯を馳走してくれた。 ばばよ、粟飯と言うのは、おいしいもんじゃのう”と言って、大変喜んで召上られたそうです。
それから家来たちに向って、“お前達には長い間世話になった、真に残念ではあるが、身体が苦しくこれ以上は行くことができない、ここで別れることにするが必ず後を追ってはくれるな、例え百姓になろうとも時節を待って身を立ててくれる様に、わしがここで死んだと聞けばこれ以上追及もあるまいと思う。 秀経のことは頼み入る”と後事を託し弓を折り、遺書を残し鹿の皮を敷物として、心静かに黄泉の客となったそうです。 」
「ばばよ、粟飯と言うのは、おいしいもんじゃのう」——武運拙く、追っ手の恐怖に怯える極限の飢えの中で、山家の老婆が差し出した粟飯の温もりに、誇り高き大将はいかばかりの涙を流したであろうか。己の首を差し出すことで幼き甥・秀経と一族の命脈を繋ぎ、武門の魂たる「弓」を「折」って自害したこの場所に、やがて「弓折」という地名が生まれた(後に蜂須賀家政が一の坂と改めたといわれる)。一人の武将の死と引き換えに、残された者たちの凄まじい生存闘争がここから始まる。
一族が血の涙を流しながら太刀を鍬に持ち替え、生き延びた執念の痕跡は、『名東郡史』にも谷又部落の遺風として生々しく刻まれている。
「谷又部落は三〇戸程度の部落で、姓は他町村からの移住者を除くと全部佐々木姓である。祖先は元名西郡石井町の鳥坂城主(一名茶臼山城)佐々木経隆で、承久三年承久の乱に敗れ名西郡鬼籠野村に逃れ弓折で亡んだその子孫であると伝えている。茶臼山より弓折へ落ち延びたのがたまたま其の年の大晦日であったため正月を明日に控え餅を搗くことが出来なかった。それで米の粉をつかって鏡餅をつくり正月の神様に供えた。それ以後谷又部落は年末には米を蒸さないので正月元日の鶏の音を聞いて始めて餅を搗くという風習は終戦の頃迄続いた。その後、この習慣はほとんど自然に廃絶したが今に二、三戸に存続している。」
鎌倉殿の精鋭として弓を引き絞った栄華は昨日の夢となり、正月を祝う餅すら搗けず、米の粉を丸めて神に供えた大晦日。ある者は弓折の斜面にへばりつくように定着し、またある者は一宮の谷又へと這い出て集落を築き上げた。泥に塗れ、百姓として生きよという高兼の遺命の通り、「佐々木」の血脈は阿波の深山に深く、そして強靭に根を張っていったのである。
一方、佐々木氏を駆逐して阿波の覇者となった小笠原氏は、やがて一宮城に拠点を構え、一宮氏を名乗って阿波の表舞台に君臨した。しかし、歴史のうねりは新たな勝者にも平等に牙を剥く。
天正十年(一五八二)、土佐から怒涛の如く侵攻した長宗我部元親の軍勢の前に、一宮氏もまた膝を屈することとなる。当主・一宮成助は、夷山(えびすやま)において長宗我部軍の騙し討ちに遭い、非業の死を遂げた。かつて勝者として佐々木氏を死の淵へ追いやった一族もまた、新たな覇者の謀略によって血祭りに上げられ、その権勢は脆くも崩れ去ったのである。時代の転換は、勝者と敗者の立場を容易く入れ替えていく。
時代は下り、蜂須賀氏が阿波を統治する近世。阿波の歴史の底流で蠢く人間のしぶとさが、ここに鮮やかな結末を描き出す。
旧遍路道沿いの弓折に定着した佐々木の一党は、山肌に這いつくばって林業で財を成し、昭和の過酷な木材不況に直面すれば、斜面を切り拓いてすだち栽培へと果敢に陣形を転換。限界集落の危機を泥臭く乗り越え、現在に至るまで「佐々木」の姓と強固な経済基盤を守り抜いた。また、神領へ定着した一党も明治12年(1879年)の上一宮大粟神社(埴生女屋神社)の神名改正の奉上願帳において、「氏子惣代 佐々木儀一」として堂々と名を連ねるなど、地域の確固たる指導層へと這い上がっていた。
そして現在。一宮神社の秋祭りの空に、目を奪う光景が広がる。
現在の一宮神社の宮司を務めているのは、他でもない、かつて佐々木氏を追いやった怨敵・小笠原氏の末裔である。その宮司が取り仕切る神事の場において、秋空高く翻る巨大な幟(のぼり)には、多額の寄進者として立派な「佐々木」の文字が染め抜かれているのだ。
力強く墨書された「一宮神社」の文字の下には、「平成二十一年己丑年十月十八日」という日付とともに、「佐々木 卓男」「和宏」「佳孝」という三名の佐々木姓がはっきりと記されている。
追討の恐怖の中で正月を祝うこともできず、米の粉を丸めて神に供えた落人たち。幼き甥に未来を託し、粟飯の温かさに感謝しながら自ら弓を折った武将。その末裔が、八百年の時を越え、豊かな実りの秋を祝う一宮の神事において、これほどまでに巨大で立派な幟を奉納する有力な氏子として大地に足を踏みしめているのだ。しかも、その幟の下で祝詞を上げる宮司の身には、かつて彼らを泥濘へと突き落とした怨敵・小笠原長経の血が流れている。
歴史とは、単なる勝者の記録ではない。敗れ、弓を折り、泥に塗れながらも、したたかに命を繋ぎ、蓄え、やがては勝者をも取り込んで地域社会の根幹に根を下ろしていく民衆の凄まじい生命力そのものである。一宮神社の秋空に白々と翻る「佐々木」の幟は、阿波の山野で繰り広げられた壮絶な生存闘争と、悠久の時がもたらした奇跡的な和解を、令和の世に無言で語りかけ続けている。