神別本紀 現代語訳 全文

斎部浜成著 国書データーベース

「神別本紀 序」

太古の出来事について、誰がその詳細を極め尽くすことができるでしょうか。口伝は過ちによって失われ、説は混乱して事実が絡み合い、真実は積み重なる年月の中で失われてしまいました。その説はもっぱら夢物語のようになっています。これは我が国に限ったことではありません。漢の武帝の時代の太史令・張寿王は、黄帝の時代から白鳳3年まで六千年であると述べました。この時、単安国らは、黄帝から三千六百十九年であると言いました。班固の史書(漢書)はこれらを併記しています。特に、その数億年にも及ぶという説は、甚だしく不必要なものです。

我が国において天孫の王化が及んで以降、文字はありましたが、文章はありませんでした。王仁が文章を立てて男女に教え諭し、初めて思考を記録するに足るものとなりました。十一代から十八・九代に至るまで、記録を司る史(ふひと)を置いた者もいましたが、これも一時的な備忘録に過ぎませんでした。三十一、二、三代に至り、時代が遠ざかるにつれて、ますますその間に失われた事績や雑多な事柄が加わりました。そして漢風でも我が国風でもなく、神明の明敏さがなければそれを区別できず、造化の働きがなければそれを一つにまとめることはできません。ああ、惜しいことである、神王が治めた世の民事の記録はここで欠落してしまったのです。

ただ、専ら祭祀を司る家のみが、代々その職務を失いませんでした。職務はいよいよ我が国の古事を用い、漢の先例を用いないため、その職務の中には太古の真実が残っています。これは諸官が漢の事柄に仮の例をとり、我が国の古の属を失っているのとは異なります。氏の祖である太玉命の説は、そのまま我が家の今日の説であります。中臣氏にもまた家説がありますが、世俗の務めを重んじて祭事を疎かにした後世の者が、古の姿を取り戻すのは難しいことです。

豊女御食炊家日女帝(推古天皇)の時代に至り、皇子の厩戸太子(聖徳太子)が古事を撰録した際、大臣・蘇我宿禰馬子と共に、祭祀の家の者をその列に加えませんでした。もっぱら仏法に従い、ほしいままに口伝の音を記録しました。そうではあっても、真実の事績として遺されたものが、我が祭祀が今日まで絶えなかったがゆえに、ここに存しているのです。これを取って記録したため、神事の詳細な記載はありますが、政事の細かな記録はありません。

淡海(近江)朝廷が禊(みそぎ)の幣を創設したのも、王政の緩みから、中臣家が伝えた神への誓いの言葉に事寄せ、文章に作り上げたものです。浄御原の帝(天武天皇)の勅により田辺史に命じたのは、推古天皇の朝廷で撰録された記録が、入鹿らの火災によって焼失してしまったためです。大朝臣安万侶は、かつて阿礼と共に火災後の残説を拾い集めて筆録しましたが、いささか新たな噂話(新聞)を加えたかのようです。清らかな記録の編纂に至り、一品舎人親王が安万侶らに撰文させました(日本書紀のこと)。そこには孔子の教えが混ざり、仏教や老荘の説が混入しており、依然として我々の説の遺漏があります。

いわゆる摂政たる帝の崩御を「磐戸隠れ」と言い、呪詞を呼ぶ際に「幸鈎、貧鈎」などと言う類がこれにあたります。その仏教や老荘を混同しているというのは、いわゆる対馬の鳴き声をもって記録し、龍宮を仮に用いたことなどで、准南王の書に欠けているものがこれです。そのおおよそ孔子の説に基づくものは、「天安河の隅」「反垣の道」などと言うのがこれです。文飾は古えに華やかですが、真実は今において衰えています。道は周易においてどのようでしょうか、聖人は神道をもって教えを設け、天下はこれに服しました。

『古事記』の序、私はこれを信じません。我々のような祭祀の家柄は、故実を失っていません。故実はおのずと厳然と存在しており、王政がまた記録を司るなら、皇孫の分かれをすべて記録するべきです。伝えなければ、文章のために真実を失うことは必至です。このため、後に、従五位下・臣・忌部宿祢広村、姪の正六位上・忌部首浜次等と、家に伝わる所を議論し、全十巻としてこれを上梓します。どうか万分の一でもこれを信じてください。皇家の御恩顧を頼みとし、第一に天神の道を重んじ、万代の書物の中に棄てられないことを願います。

欣臣 後五位上神祇官権少副・忌部宿祢演成ら、頓首稽手して謹んで書す。

神別本紀 巻第一

古の世は今の世と同じようであった。国があれば人があり、人があれば主を立てる。その長は一邑一卿にとどまり、全体を統御する主はいなかった。 これゆえに境界があっても人は素朴で、奪い争う感情がなく、古くからの状態が固く守られていた。

あまねく島々に生まれ、生まれつき性質が素直であり、その功績を諡(おくりな)して去来乎(いざなぎ)と謂う聖人がいた。 尊はその妹である去来並(いざなみ)尊に語って言った。「天地の間において、日(太陽)に勝る貴いものはない。このように日は私心がないのだから、どうして天下を統御する功績がないことがあろうか」と。

ここに誓いを立てて曰く、「天の浮端に立ち(神の詔が事を指す)(淳端)、始めて天と曰い、志を瓊戈(ぬぼこ)に収め(之の日、文化の日)、民に臨みて主を得てその鳴ること(タルトヲ)」。 ゆえに陽の一日の化名をもって陽国(あわのくに)と謂う。 すなわち陽国志麿の地が云々……妹(いざなみ)が定めるゆえに、殊に兄(いざなぎ)との交わりである。

妹は兄に語って言った。「陽国を得た例に拠って巡れば、どうして八隅(日本中)の主となれないことがありましょうか」。 兄は肯んじずに言った。「日が照り、月がその後になるように、女の言葉が男に先立つのは、日月の理(ことわり)に違えて不吉(不祥)である」。

更に月を経て、新たに妹に語って言った。「日の化により捷(はや)く一島を得た。たとえ八隅を得たとしても、この根本を忘れず、これを国中の柱としよう。もし一島から葦が初めて生えるように忘れてしまうならば、子孫がここに八尋殿(やひろどの)を建て、葦から一騰する宮に同住するに若かない(及ばない)」。 その後、兄はまた語って言った。「北に国があり統紀の主がいる。東に国があり治平の長がいる。私がこれを妨げるのは、日の心を死なせないためである。ここより西には至宰の統主がいない。往ってこれを治めよう」。

妹は、月が日に先立たない理に背かず、これを守って共に循(したが)った。 妹は「唯々、既に蒔生(まきむ)の慈柱を陽国に蔵(かく)し、順導して淡路の長津名彦比子を化す」と言った。「大国の胞衣(えな)の基を生むなり」と。 伊予に到り、筑紫に到り、ことごとく長をもって子となす。沖の佐渡は一日にして化し、人が双子を産むのに似ていた。大洲より巡り、国々はかたじけなくも服従し、その恵みは父母のようであった。 対馬、壱岐、下小島は力を用いず。

(以下、番号の列記箇所の訳) 一、その光を万世に失わざるを国之常立尊と曰う。その年は…… 二、東西南の間よりあるいは常狭立尊と曰い、あるいは国斟至…… 三、尊、その化は邦土に及ばず。土を合わせ大土尊あり、少土尊あり。 四、金精を生じ、西に大戸之道尊、大戸麻女尊あり。水に帰し、 五、北に重重尊、畏根尊あり。祖の曰く、その五世を諡(おくりな)し、これを祭る。 少しの 六、時もこの徳を離れず、瓊矛をもって皇統に伝え万紀となる。別に百大の 七、国王神があり、北を治め、談(かた)らずしてこの情に同じ。瓊戈は日の比となり、 八、良木矛はこれを導き、その方域を保つ。阿比須祢があり、東を治め憑(よ)る。 一、山の郭(くるわ)、他の侵入を畏れず。なお東路の不一なる緒多きあり。 二、去来乎尊に子あり、款をもって瓊戈を継ぐ。名を比留児(ひるこ)とす。 太子を立てるの 三、雄威なし。諺に曰く「之(これ)脚立たず」。蔕原(あしはら)の基を遺し陽(あわ) 四、国にこれを留守とす。その柱は磐船のように不変の体であり、なお生国国に 五、回らば、民俗の風に順い、これを放棄し治める。 誠に他が及ばない徳が 六、ある。妹が代わって立ち瓊矛の主となる。 始め父母尊が共に語って曰く、「どうして一統の至りに 七、育たないことがあろうか。代日の功徳を選び択ぶのだ」と。 妹を立てて登らしめ、 八、天下に臨む。民を象りて真実の日と仰ぐ。故に諡(おくりな)して天照大神と称した。 (列記終わり)

兄の去来乎尊、妹の去来並尊に子があった。嫡児は穏志であり、次女は雄量(雄々しい器量)があった。次男は当に扶(たす)ける器量が自ずから在った。 次もまた男であったが、血速振(ちはやぶる)であり父母の教えに従わなかった。 そのため八隅は畏惧したが、まさに邦を鎮める礎となることが外に見えていた。

次男は常に隠れて事を成さなかったが、初めて石をもって玉となす巧みが自ずから在った。次女は大きに去った。因って合わせてこれを諡(おくりな)す。

いわゆる、第一に立ち、日の位の瓊徳を継ぐべきを比留児(ひるこ)と曰う。 慈しみはあったが勇がなく、廃されて民事を治めた。 女でありながら日の光のような慈仁があり、日の如き勇健さがあった。兄に代わろうとしたが、妹の去来並尊は肯んじずに言った。「謅言(戯言)である。女が男に先立つのは不祥である。どうして多くの男を措いて、女を立てて兄(長)としようか」。

兄の去来乎尊は言った。「私は日をもって則(のり)とする。日には生があり、死がある。各々に時がある。謅言は死であり、お前の言葉が先である。今の言葉は生である。次女の性質は多くの男に克って雄々しく、人の下に在るべきものではない」。 妹の去来並尊は喜んで「阿那迹夜志(あなにやし)可愛」と言った。兄の去来乎尊も共に喜んで「阿那迹夜志可愛」と言った。

共に手を拍ち宇気比(うけひ)してこれを育て定めた。 「我が知る所である疆(さかい)の天下の主となし、多くの子に崇め仕えさせよう。稚きより賤しきを見ず聞かず、私もまた子の上となろう」と。 その時の諡を少日女尊と曰い、天下を主とした時の諡を大日女貴(おおひるめのむち)と曰った。

その次の男は日光を受け、露に沾(うるお)い蒼生(万民)は枯死せず、蒼生の性が溢れた。 月共美尊(つくよみのみこと)と曰う。(注:阿泚北等倶无)。草が日月の光によって、あるいは生き、後に大日女貴の天下において、あるいは死ぬ。主の徳の符(しるし)の言である。

天孫の外の祖を知り、復た多可美武須布(たかみむすひ)となす。 今、貴き朝廷の外の祖として御竈(みかま)に祀る。時に多可美武須となり、これが朝廷の御竈の縁である。

次男は石を凝らして玉となす美しさがあり、諸工の始まりとして、天明玉命と諡した。

次女は淡路津名彦を婿とし、子を生む。大生にして諡を可良須女命と曰う。その子を諡して天水中主命と曰う。 陽国(阿波)と共に淡路がこれを得たことは、天御中主の光を掘り起こすものである。

古語に曰く、天生の者は幾そ六十歳にして再びす。(注:情朴にして物を延べず、壽を改めてまた長し。諡もまた)例に従い、歴代は人名を変えず、歴世は子孫を変えず、同名をもって幾そ千二十一・二代に至る。 神世の大日女から彦五瀬尊に至るまで、ただ天孫のみである。天の親の瓊(ぬ)の根本であり、その末裔のことを謂う。

世を分けて主とし、後世に諡を奉る。あるいは大日女と曰い、あるいは瓊瓊杵(ににぎ)と曰う。 その微たるものは神世に在る。(注:大己貴は八世同名。大和の都に至りて後の比宇)。大臣が四世同名なのはこれに属す。下も皆これに倣う。 高見息日尊、神見結火命の世には、名もまた各々に時の名があることを見ず。

父の去来乎(いざなぎ)尊と母の去来並(いざなみ)尊が子を生み、四子が心を合わせるように祈り乞い、次女尊(天照)を天上へ挙げようと欲した。 去来乎尊の時は、民人と天地の去る(隔たり)がまだ遠くなかった。 ここにおいて始めて天柱の道を以てし、本島である陽国(阿波)の理を忘れず、授けて日神とした。 その光は八隅を照らし徹した。これより後、天照大神と号することは、誠に宜(むべ)なるかな。

「神別本紀 巻第一」(承前)

同じく傍らにある三子といえども、上を自覚して姉尊(天照大神)を宗(長)とし、盤坂の間を知り、みだりにその(太陽の)光を戴くことは不可とした。 (次男は)盈虧(えいき:月の満ち欠け)の位を守り、政(まつりごと)を助け、月弓尊(つくよみのみこと)と諡(おくりな)された。 この尊には子があり、思兼命(おもいかねのみこと)は父の執事を継いだ。 太玉命(ふとだまのみこと)は天照大神の齋(いつき:斎奉る者)として日護(ひのもり)の樹を司った。 忍日命(おしひのみこと)は武業を備え、朝廷の総(すべ:全体)を与えられた。 その余の者は諸々の采女(うねめ)部を率いて朝夕の御門の事に仕えた。 神立余は常の御食事を掌った。 寵(めぐみ)ある旗十津姫は天吾勝尊(あめのおしかつのみこと)に嫁ぎ、三穂津姫は至る後(のち)大己貴(おおなむち)に嫁ぎ、各々にその分(役割)があった。

我が祖・太玉余、その子・天冨余は直に日護の樹の事(祭祀の根幹)を執り行った。 中臣の祖である天児屋命(あめのこやねのみこと)はこれを挾(たす)け、鹿の肩骨を抜いて占う事と、解除(はらえ)の事を掌るのみであった。 我が祖父の兄である広成(忌部広成)が勤めて愁訟(『古語拾遺』として訴え出たこと)したことが、今において空しくなっているのは、この意をもって今の藤原氏を論じたからである。 広成が中臣を名指しして日護樹の縁(祭祀の正統性)を愁訴したことに対して、どうして天の裁きがないのだろうか。

月読尊を守り、天孫を保ち立てるため、これを見崇め、高見息日(たかみむすひ)の位とした。 この尊は天照大神と同じく出たゆえに、国常立尊から高見息日があるというのはこのことである。 四子(素戔嗚尊)は荒くして心に留まらず(余佐備=すさび)、道(道理)はないが強健であった。 時は昧(くら)き世に当たり、教えはなかった。 強くなければ従わず、徒(したが)わなければ察することはできなかった。 大日女貴(天照)が立って嗣(世継ぎ)となったが、(四子が)強く佐備(すさび)するため、人民は自ずと地において夭折し、憂い委ねる情があった。

この時、父母尊(伊弉諾・伊弉冉)は諸子と共に淡路の津那国に居たが、天下に臨む良き処を選び、豊中津(とよなかつ)を得た。 これをもって天を定め、日神をこの処に穏やかに安んじた。 四方は皆これによって天を敬った。 四子は日神たる姉の威を患い、作備・余佐備(すさび)して健やかであった。

父尊は勅して言った。「お前が天下に臨んで天上の事を成すならば、我が産んだ国民は皆畏れて離れてしまうだろう。まさに遠き根の国を治めるべきである」。 四子は肯んじず言った。「父尊が産んだ諸国を、私がどうして離れ往くことがありましょうか」。

父母はこれを憐れみ、款して就く所を国とした。 妹尊(伊弉冉)と共に廻り巡って北国に到ると良田があり、後にこれを治めた。 神は伊布夜坂(いふやさか)に至り、妹尊は遠きに疲れて、神(伊弉冉)はここに退いた(亡くなった)(父は)母を歎き(注:今は帰多女となしその徳を聚める者は、その時の不卓を祭るものである)、本土に帰ることを忘れ、心は悶え、あるいは断たれ、あるいは沈んだ。 心の浮き沈みが平坂に居るようで、千人が引くような磐のように雄々しい徳が胸にあり、本土へ帰ろうと欲した(注:今、泉門塞となる)。 御船はこれにより、鞋や拭う物等を祓物(はらえもの)として、すぐには本土に入らなかった(これを祓事と名付ける)

(年月)を経て路を改め、国を知り、国は列なった。 日向の小戸、水篠である。 壱岐島、対馬島、この時に子となって服従した。 上海神の豊玉彦と、共に中海神、底海神が子となった。 その三海神の後裔は壱岐と対馬に在り、分かれて伊豆に在る。 父尊は穢れを躬(からだ)において滌(そそ)ぎ潮に清め、汚れを心において滌ぎ潮に浄めた。 潮は天の真名井の潮である。 身を底に潜めて中に至り、中より潜めて表に至り、未梨を浄め、余清未梨を互いにした。 昔の帝、多女(女)、婦、間男の操は、この心をもって堅く豊かで破ることができなかった。 祭る所の住吉大神がこれである。 (心を)(敷)となしこれを立てる。 恥を蒐(あつ)め、ついに国郡を観巡って津名(淡路)に還った。

(父尊は)四子に詔して言った。「ここに敷河国がある。密かに往って聞け。 昔より領治する神がある。お前が往ってこれを于之穂尊としても従わないだろう。 そしてお前が残忍な業をもってすれば、彼らはまたこれに敵対するだろう。また、陽国(阿波)においては微嫡の子である」。 詔して言った。「遠く筑紫の西を察するに、山は阻(けわ)しく海は湛(たた)えており、我が子孫が王となる地とするに宜しい。 私はこれを重ねて生んだが遠く遠く、常に親しむことが難しく、いまだその情を尽くしていない。 お前は往々にして時を待ち、我が子孫のためにこれを導きなさい。各々これを任せる」。

四子は言った。「私は世尊が去られた所に往くのみです。情の赴くままに遂げましょう」。 また請うて言った。「どうして姉尊にまみえることなく、急に往くことがありましょうか。私は(高天原へ)往きます」。 詔して言った。「その勅許に任せる」。 四子はもとより神性が勇健であり、速素左未之雄尊(はやすさのおのみこと)と諡された。 後の神は忿(いかり)、健やかに凌ぐ気象があり、恵み宥める風俗がなかった。 三名から中津への路にかけて、懼れ怖じ生きた心地がなかった。 その声の響きは秋風の枯れ木の葉のようであり、中津に達した。

日神(天照)は諸神に便(たより)して道を堅くさせ、引弓尊に軍を司らせた。 震船将男の荘である。 この時いまだ兵器はなかった。 用弓尊は弓箭(ゆみや)を造りこれを献上した。 忍日余は弦を避けるための保武多(ほむだ・鞆のこと)を創造して献上した。 大伴の祖が造ったもので、後には斗母(とも)と謂うものである。

日神は諸神に勅して言った。「私はこの天上の事を日において受けた。 向かってくる者(素戔嗚)は必ず雪のように日に逼(せま)るであろう」。 そこで思兼神は謀って思い言った。「裏神よ、頻(しき)りに愕然としてはならない。 四子尊は日神の愛神を受けている。 何事であろうか。私はその実情を容知(察知)しよう。ここで争うならば、日神の威をもって彼を討っても遅くはない」。 多力雄(手力雄)姫余を使わし、これを出迎えさせ、日神を囲み繞(めぐ)らせ、四子尊をその前に置いて、その実情を詰問した。

時に日神は威(おど)すべく雄を奮い、威すべく委曲(詳細)を発して詰問した。 姉弟の言葉を須(もち)いず、直ちに詰問した。 四子は父尊の勅を以って、母尊の神退き(伊弉冉の死)を告げた。

(それを聞いて)日神は詳細に泣き、武威は緩んだ。 共に背かないという約定を日において受け、天上に留まり、親睦すること有年(数年)であった。 このにおいて、その年が(どのくらいであったか)誰が知ろうか。

「神別本紀 巻第一」(天忍穂耳の誕生〜天岩戸の祭祀)

日神(天照大神)の化を受けてより、まさに枯れようとしていた蒼生(万民)の心は蘇り、剣は日の三段の光となって内に生じ、玉のようになった。荒ぶる気(すさび)を受けて、五柱の御子を授かったのである。

日神はこれを選び受け入れて嗣(世継ぎ)としたが、その父尊(素戔嗚尊)に似ている者は、民がこれに懐かなかった。 そこで、その中の弱き者を立てて「速日(はやひ)」の位とした。 後に「天忍穂耳尊(あめのおしほみみのみこと)」と諡(おくりな)されるのはこの神である。 この神は四子尊(素戔嗚)の子であるが、日神の子として瓊(ぬ:勾玉、王位の象徴)の位を伝える者となった。 これを伝えるか伝えないか、既に伝えるという御心は定まり、田心姫(たごりひめ)を祭ることは宜しいが還らず、湍津姫(たぎつひめ)を祭った。 これによって事を定め、永く齋心(いつきごころ)を見(あらわ)して、齋志磨利姫(いつきしまりひめ=市杵島姫)を祭った。 この御心を四子尊に授けて「阿那途夜志(あなにやし)」と言った。

初め、四子尊が天の中津に登る時、勇命(後の天明玉命)が道を見送って言った。 「兄よ、日の位を望むことなかれ。子孫を立てて日嗣(ひつぎ)とすることを望め」と。 その言葉が玉のようであったため、天明玉と諡された縁である。 その日神が定めた嗣(天忍穂耳)は、その尊の胤(血統)の御蒐(みあつめ)において、これを三処に齋(いつ)き祭った。 まるで祭場が幾重にも重なるかのようであった。

年月を多く経て、吾勝尊(天忍穂耳)の継いだ日の雨が四方に流れた。 いわゆる五柱の子を為す者は、天穂日命、天日子根命、生日日子根命、熊野掉日命である。 倣って生んだ子がもう一人いたが、天上にはとどまらず、これを熯之速火命(ひのはやひのみこと)と謂う。

速須左之男尊(素戔嗚尊)は、天吾勝尊の父としての威光をもって増長し、氏人(一族の者たち)は益々畏れ、自ずから猛烈な風や苛烈な振る舞い(猛風苛拙)を成した。 民人は苦しみ、どんな些細な過ちであっても、ことごとくこの神から罪を得た。 神はなおこれを命じ、畦を壊し、溝を埋める等の種々の罪(天津罪)を、残さず行ったのである。

天照大神の御田には自ら耕す者がいなくなり、譬えれば熟した田に馬を放つような治世となってしまった。 しかし日神はこれを宥め、教え導いて日嗣とし、勇尊(素戔嗚)を遠ざけようとはしなかった。

また曰く、神は国を治めるため、祭祀を遥か永遠のものとし、祭事を重んじた。 父尊(伊弉諾)が淡路の多我(多賀)の津名で崩御し、これを祭って「曰栖(ひすみ)」と謂う。 おそらく天子を祭って曰栖とする縁であろう。 父尊はいまだ庶民から遠ざかっておらず、誠に、大日の位における少宮であろうか。

時が経ち、御子である速日位(天忍穂耳)の威に従うようになっても、素佐備(すさび)・素左末之(すさのお)尊の行状は、姉尊(天照大神)に対して無道であった。 日神が神衣を織る時、それを汚す振る舞いがあり、あらかじめ警(いまし)めることもできず、日神は日栖(ひすみ)の国に隠れてしまった(天岩戸隠れ)。 もとより常に這いつくばるようにしており、事において分別がなかったのである。

大島の伝承に称するところによれば、真冬の始めに崩御(隠れた)したという。 その後、御命を万代に鎮めようと欲し、諸神はその行いを共に謀った。 思堪命(思兼命)が深く遠く謀り、諸神に示して言った。 「御命を代えて妻とすれば(別の者を立てれば)、皇威もまた八隅(日本中)において軽くなってしまう。重く恭しくこれ(祭祀)を行おう。私は後々のことまで深く考えたが、すでに弟尊の行いへのご配慮が解けず、磐戸を閉ざしてしまわれたのだ」と。

日嗣のために、不詳ながら奉じて御霊を招き、ここに鎮め、弟尊の乱暴な業を解除(はらえ)し、日に仕えさせようとした。 少宮の詔を北国(出雲)に送るのは、御心を悩ませるものであった。各々が事に任じた。 御霊を奉り鎮めるのは、顕露の政(現実の政治)を行う人の業ではない。 故に大王命(太玉命)に命じて、諸々の応事(神事)を主(つかさど)らせた。 この齋袒(神事)の業は、全く広成(忌部広成)が記した文(『古語拾遺』)の通りである。

哭女(なきめ)の長、啼く者は鶏の鳴くが如く、世界は常闇(とこやみ)であった。 八十万の神は豊之中津に集い、哭(なげ)きをもってこれを勧めた。思攝命(思兼命)、子(文脈途絶)

八倉比咩命(やくらひめのみこと)は日女神に仕え、詠(うた)うことに自ら憚(はばか)ることはなかった。故にその業は、当時の男にも勝るものであった。 手力雄(手力男)は磐戸の側に寄り掛かった。

天児屋命は祭事を供し、伊余国に葬り(あるいは伊予国において)、その山の五百箇真坂樹(いほつまさかき)に任せ、そこを日籠山(ひこもりやま)とした。 太王命(太玉命)(日神を)招祭し、日嗣の国の豊の日栖(ひすみ)に鎮め祀ろうと欲し、鏡造、幣造等をして、日籠山の真坂樹の上枝、中津枝、下枝を取らしめ、弟尊が伏し隠した表の鏡や幣を懸けさせた。

太玉命と児屋命(天児屋根)は、相共にその祈祷を致した。 太玉命の子である天富余(天五子)の妹・宁項女命(天宇受売命)は、幻のように無心であった。これを御笑子(みわらわご)となし、祭りの祝(ほぎ)において天に還す(日神を招喚する)役割とした。 竹弓をもって琴笛に供え、手に茅の束を持ち、祭場に立って幼心に仕え、巧みに俳笑した。皆、これを惠良岐(えらき=歓喜・祝宴して笑いさざめき)、悲しみを忘れたのである。

思兼命は、遠く深く謀(はかりごと)の功を思い、万代に御竃(みかま)を鎮めるには、物において無情である(無垢で純真な)幼き者に勝るものはないとした。 また宇須女(うずめ)に命じた。 (注:古えは幼女を宇須女と謂う。いまだ容貌が成熟していないという意味であり、幼女に向かっての通称であって、限定するものではない) 人は日蔭の鬘(かずら)、日蔭の襷(たすき)をし、日日志布(しふ)を衝いて宇氣(うけ)した。

太玉命は緑の麻を負い、十数毎に五階の多氣(たけ)にして御竃を、生御魂を招く。 ここに火を処々に焚き、神なき世を神の復した世に還す。 この時、深山は厳として、真左樹の蔓が降り、すでに光ある有色の天となった。 (注:この文は日を経てただその御竃を招くのみ)。 古より、死者は十数の意をもって還るのである。

そして太玉命が結納した、御遺の神体の鏡である。 八倉姫命が先にこれを執り、御手をとって引くようにしてこれを奉り出し、御杖代(みつえしろ)として諸神にこれを拝させた。 諸神は、そこに神が在るかのように敬伏した。

そもそもこの鏡を執る者を日嗣の職と曰う。 そうしてその高い位は容易なものではない。 故に、御腹児(みはらご:天照大神の分身、あるいは親しい子)に擬して、八倉姫がこれを勤め努めたのである。 これを葛の筥(はこ)に納めて奉り齋(いつ)き、日栖(ひすみ)に齋いて、後に不備の縄(注連縄)を引き、この処は一切の職が触れてはならない標(しるし)とした。 後不備とは日足の神縄であり、後ろを備えないのは、自ら陰陽の不足と余りの理を供するからである。

私、月読尊が日神の勅に代わって言う。「我が天皇は代々この御鏡を視ること、日神を奉拝するが如くし、怠ることなかれ」と。 初めて即位する時、すべての事において日神の詔御を思うのである。

「神別本紀 巻第二」(前半)

正哉吾勝尊は日嗣(ひつぎ:太陽の位)を受け、天下を統治しようと欲した。 柔和であり、民人のために威を立てることはなかった。 月弓尊の女(娘)を娶り、湍旗千津媛(たくはたちぢひめ)と諡(おくりな)した。 月弓尊の扶(たす)けに依って本(もと)よりこれを治めたが、日神(天照大神)の威光には及ばなかった。

月弓尊が言った。「さきに大日女貴(天照)が天下を治められていた時、父尊(伊弉諾)の詔に『留児尊は西の街を治めよ』とあった。 また父尊がお生みになった筑紫国は、導く尊の素左備(すさび:素戔嗚尊の荒ぶる振る舞い)のために遠く疎かになっている。 父尊が密かに巡られた地である。どうして自ら巡り、手を勧めて赴くことを促さないのか」と。 吾勝尊が言った。「日神が既に崩御された後、あなたの言葉は、高木(高皇産霊)に祭る日神の鏡の御恩の勅のようである。 私は常にあなたの言葉を高木の勅とする。ゆえに、あなたを高木神代(たかぎのかみしろ)とする。どうしてその言葉に従わないことがあろうか、私はそれを行おうと思う」と。

千津媛が豊の天上で彦火尊を生んだ。 ここにおいて、吾勝尊は病に悩み、崩御してしまった。 葬儀の度、羞(すす)めて鏡をもって日神の御体(みまこと)の宮に擬した。 今、その処を香美(かみ)と謂う。 おそらく剣を用いなかったのは、剣の徳がなかったためであり、ゆえに日神の重きに比したのだろう。

ここにおいて、高皇産霊の月神代は、日において天下を治め、彦火尊(瓊瓊杵尊)を崇め養った。 成長に従って日神の瓊徳(ぬの徳)を伝え、彦火瓊尊とし、天照神の嗣として天孫尊とした。 年月がどれほど経ったか誰が知ろうか。 父である吾勝尊に代わって西国に降って治めようと欲し、月神は高皇産霊の威をもって、日神の齋鏡(いつきのかがみ)を天孫に授けて言った。「私の言葉の事だと思わないでほしい。まさにこれは日神が遺した御記である。 日神が直に授けた御勅であり、『この鏡を視ること、私を視るようにし、祭ることを怠ってはならない』と言われたのだ。 太玉命と児屋命は、齋殿を離れてはならない」と。

また、諸神を豊の中津に集め、議して言った。「西国において衢神(ちまたのかみ)が当に在るべきだが、未だその存在を知らない。そうであっても、敵対する神は稀であろう」。 簸川(ひかわ)の国(出雲国)は、速素左未之雄尊(素戔嗚尊)がこれを請い、御心の宮であった。 神が退いた後、大己貴神(おおなむちのかみ)がまた殊に日の矛を執って外を為し、主がないままにしておくことはできなかった。 諸々の荒ぶる神の末裔たちは、天上を畏れないと言う。 「私は誰を遣わしてこれを鎮め、その後にこの磐座を祭ろうか」と。 ここに星のごとく列なる神があり、名を利兄雄と号した。 密かに腹心を北国に置き、告げる神がいた。 利兄雄は畏れて北へ走り、倭文の祖などを遣わして討たせた。

再び八十万の神において事を議したが、心ゆくままには制御できなかった。 皆が奏聞して言った。「昔、速素盞雄神が北の子国(ねのくに)に往き、神が天の事実を伝えたのは、おそらくこの事でしょう。 およそ神々は言っています。我が正哉吾勝尊が天下を知りながら、直ちに天孫において執事しなかったのは、速日(天忍穂耳)のようであると。 以前、他女を娶って子があり、これもまた速日としている。速日を西へ往かせ、西を去って東へ赴かせたが、いまだその処を知らない。 女児に禦(ふせ)ぐ者があり、勇尊(素戔嗚)の神の後裔であろうか、否か」と。 皆が「誠に、天穂日命(あめのほひのみこと)を遣わしてその情に向かわせるべきです」と言った。

ここにおいて天穂日命に勅して北へ遣わした。 天穂日命はもともと性質が和やかで美しかった。 勅を奉じて北に到り、国神のところへ至った。 その国の人民は、大国の現世においてその国神の祖を齋き祭っており、大己貴の威光が自ずからあった。 天穂日命は「これはこの国の素盞雄神の意である」として順い、国魂神に逆らわず、黙止して年を経た。 高木神代尊は、その報告があまりにも遅いことを訪ねた。 天穂日命の性質が荒々しく屈服させることを思わない者であることをもとより知っていたため、その子(大背飯三熊之大人)に志を含ませて、これを試そうとした。 その子の大背飯は、いまだ命の負(任務)に列していなかったが、人民はこれを敬って「于志(うし)」と謂った。(注:古えは「大」を「于」と謂った。おそらく于志は「大」の字義であって、志に意味はない。大人のことである)。 于志は衆に選ばれて往き、父を諭そうと欲した。 この神は孝行の厚い愛があり、また留まって父に仕えてしまった。 ゆえに久しく復命しなかった。

高木神代尊はさらに、日において彦火瓊尊を高天原に置き敬った。 皇親・神漏岐(かむろぎ)たる天照大神の御遺意を得て、自ら神漏美(かむろみ)となり、神呂歧・神呂美の意を惣(す)べた。 八十万の神をここに会稽し、「誰を遣わすべきか、神の拠るべきところを謀れ」と言った。

ここに神があった。芳(香)甕速日神(みかはやひのかみ)である。 そもそもこの神は、去来乎尊が陰(死)に滔(おぼ)れたことを悔い、過ちを改めようと欲した時、自らの心の剣の積において、甕速日神の末裔に付随したものから出た神である。 もとより神剣を持ち、布都心神(ふつのみたま)と謂った。 在家する者を甕祗といい、外に出る者は布都主の威を逞しくした。 上古において剣は極めて稀であり、天下にただ一、二の剣があるのみであった。 それを去来乎尊に献上して祓刀(はらえがたな)とした。(謂うところの祓刀とは)心を截(た)つ剣の表れの刀である。 布都とはその截(た)つ音である。 手を祓う業は、神古より伝来し、淡海の朝廷が佐久那度の八張口において御守剣の禊の義を行った時、中臣金連がその詞を制したが、その刀がないにもかかわらず事を為した。 録をもってこれを言うなら、天子の祓刀と分けて録となし、大赦の広さとなす。 去来乎尊の宝が後世に伝わったのである。 この剣をもって祓い辟(しりぞ)けるのである。

「その防御する神を除くにはどうすべきか」。 その時、魔祗神(甕槌神)がこの列に在り、進み出て奏上した。 「剣は夫れ独り往くものです。私はこれに副って北へ遣わされましょう」。 魔祗神は本来我が剣であるが、今は朝廷の剣である。 供奉して北へ下り、自ら武威があった。 これより世に武甕祗(たけみかづち)と称する。 その武甕祗は、中臣の祖が伝え仕える神であり、祭る所ではない。

既に往き、敷川(簸川)の出雲に到った。 布都(剣)を地の巌に逆さに立て、勅を伝えた。 大国魂神(大己貴)は答えて言った。 「我が遠祖の昔の測り知れない時から、今の世に至るまで、大己貴の姿を容(い)れ、少彦名(すくなひこな)の情をもって、旧(ふる)くこの地を保ってきた。 元々所在する人民と獣の境界を分け、かつ百病を療治し妖変を穰(はら)う方法を定め、民人の事に心を尽くしてきた。 そして私は父神の素盞雄神のためにこの地を知り、その後も長くその約束に背いていない。 今の日神の情(意図)を知らないのに、どうして退くことがあろうか」と。

武甕祗は談じて言った。 「大日女貴が崩御された後、吾勝尊は資質は美しかったが、性質は殊に強くはなかった。 大日女貴の皇弟が高木日代の祖父となり、これを扶けて吾勝尊の子である天彦火瓊尊を立て、父尊に代わって天下を知らしめた。 瓊尊は大日女の気象に非常によく似ており、偶々慕い帰している。 どうして日神の情を知らないと言うのか」。

武大国蒐神(大己貴)は対(こた)えて言った。 「天地の始まりより長としてあるのは、我が先祖である。 日の臣となってその日の矛を執り、人民を愍(あわれ)み、大初に人と獣を分けたのは、我が祖の大きな勲績である。 (注:大初を世の心を失わざる日矛と謂う)。 去来乎尊もまたこの心があり、天努矛(あめのぬぼこ)の功は、我が父が執った日矛をも超えていた。 ゆえに四方はことごとく従ったのである。 我が父が終えられた後もなお古風を存し、外に表す者を大已貴となし、内に貴ぶ者を少彦名として、その契りが私に伝わっている。 素盞雄尊がこの国に来臨されたのは、我が父が終わり、母が私を胎(宿)す時であった。 素盞雄尊は我が母を娶り、清浄な地において私を生育された。 これを素盞雄の我が父尊に聞くところによれば、『神はこれを挙げて日神とする象(かたち)である。我が世の祖が自ら私を挙げて大已貴とするのは、また恥ずかしいことではないか。 ゆえに少彦の省みがないわけではない。 これを象って挙げるなら、どうして少彦の名を仮ろうか』と。 その風を察するに、日神の次の日神(天忍穂耳)には勇徳がなかった。遥かにその風声を聞いていた。 また次の日神の子である迹岐速日(にぎはやひ)は、父の命を奉じて西に来り、大山祇神の女を娶って子がある。 この神は功を立てる操がなかったため、人民は従っていない。 私はただ我が日に帰すのみである。 私はここで無勇の神であるならば、素盞雄という父尊の命に背くことになろう。 ゆえに頻りにこれを持し、八十万の荒神を従わせ、武威を遺してこの根の荒国を存立させているのである。 今聞くところによれば、三綯の日神が衆に挙げられて員(主)となっているというのか」。

武甕綯(建御雷)は「その通りである」と言った。 大国菟神(大己貴)は言った。 「壮なるかな。我が身を貴しとする。鶴の羽をもって衣とし、蘿摩(ががいも)の片殻をもって船とする。 どうしてこの辱(はずかしめ)を匿(かく)そうか。 日神の光が初めて我が心の海に浮き来りて照らしたのである。 日を譲ろう。私(の思い)を武甕綯に伝える」。

この時、大己貴の子である事代主の命は、国を游猟しており、御穂(みほ)の海辺に在った。 無水浮(建御名方)命は力を山深きに憑み、猛毛の物を捕らえて食とすることを憂いていた。 国民の心はこの二命の際(間)にあり、いまだその嗣を決めていなかった。 大己貴は言った。「私がこの日を譲るといっても、国民の意が二子を離れなければ不可である」。 頃(しばら)くして日神はその長等(使者)をここに会わせた。顕乗の使者として名もなき脚の者が、大木の船に乗り、諸手で漕ぎ、鳥の飛ぶように進んで御穂に到り、この意を伝えた。

事代主命は言った。「我らは国を知っているといえども、ただ国において事に代わるのみである。 今より日神に従う者は、天において事に代わろう。 そもそも天において事に代わり、国において事に代わることは、万葉(万代)においてその統を絶やさないことである。 どうして暫く辞退しようか。私があるのはそのためである」。 八重の青柴垣(あおふしがき)を島の陰に造り、船を避けて踏み、移住して帰らなかった。

無水泻(建御名方)命は恨み思い惟(おも)いて言った。 「我らの誰が日矛を執る手があるか」。 進んで武甕綟(建御雷)に対峙して言った。 「私がもし日矛を執るならば、たとえその矛の任が重く持ち難くとも、我が手はいまだ磐石を執らずして心安らかに任せよう」。 武甕綟は言った。「お前がこのように安んじるなら、我が手もまた磐石を執って心に任せ、あるいは空に揚げ、あるいは地に堕とそうとも、その日矛を誤ることはない。 ましてや我が天孫の日神の手においてはなおさらである」。 国民、長神、八十万はみなこの言葉に復(また)伏した。 無水金は恥じ、往いて肥の科野原(信濃原)、須和(諏訪)に正(まさ)し、帰らなかった。 皆がこれを笑った。 武甕綟は言った。「笑うな。諸神の軌跡はあの神が日矛を持つかのようである。矛は武であるな」。 無水(建御名方)がここに馮(よ)ったため、武無水馮神と号したのである。

ここにおいて八十万の荒神で日を幸(さいわ)いにしない者はいなくなった。 ゆえに武甕綟は都(みやこ)を経て帰るに至り、天に帰って事の状を奏上した。

「神別本紀 巻第二」(後半)

天孫たる日神の尊は、高木代神(高皇産霊)を崇め、豊国中津の磐座を放(はな)れ、諸々の神部を供として、先ず御祖(みおや)の鏡を御前に齋(いつ)き、恭しく四国(あるいは四方)の衢(ちまた)に下った。 ここに手長の神がいて、路に出迎えた。 諸神はことごとくその目を見て克(かつ)ことができず、進むことができなかった。 天孫の日神は言った。「これはいかなる日児(ひのみこ)であろうか」。 天宇須女(あめのうずめ)命に勅を奉じて向かわせた。

衢に在る神は言った。「私は族において歳長く、七尋(ひろ)あります。 私は日(太陽)に対して言葉を須(もち)いず、辺りなく鼻の長さ・高さもまた七尋あります。 往昔、去来乎(いざなぎ)尊の勅を奉じて、天游田(あめのあそびだ)の日子と云いました」と。 天守頃女(天宇受売)余が言った。「都々志免梨(つつしめり)、尊とするか」と。 「然り」と曰った。 「私が往けば君も往くか」と曰うと、「私はもとより住む所の豊中津五十瀬(とよなかついそせ)に往って留守をします。 これをもって頭として私も来ました」と曰った。

天守頃女余がこれを奏上すると、天孫の日神は衢神に遇(あ)うことを喜び、厚く礼をした。 衢神は言った。「その御祖の神鏡は、人に見(えつ)させれば不祥となります。 私が掌りましょう」と。 約定を終え、衢神は天守頃女命と共に去り、奥(おく)にて天孫の日神に供することを約した。 平奥(ひらおく)の名が佳いからであろうか。 天孫の日神はこれを私(わたくし)とせず、鏡を供して奈之奥(なのおく)とした。 衢神は常に恵み免(まぬが)れる客貌(微笑むような容貌)を好んだ。 時に神はこれを「惠美須(えびす)」と曰った。 おそらく「惠美須氣流(えみすける:微笑む)」の言葉であろう。 後に去田日子(さるたひこ)神と号したのはこれである。

天孫の日神は西に浮播し、民人に穀物の種を施し、日矛を任せ執りて瓊(ぬ:勾玉、王位)を成す教えをし、筑志の戸(筑紫)に到った。 ここにおいて大山祗の女(むすめ)がおり、迹岐速日(にぎはやひ)が生んだ女で、委(たおやか)で端正であった。 天孫の日神は密かにこれを見て言った。「お前は速日神の胤(血統)であり、私においては憐れむべき勇の女である」。 女は「その通りです。いまだその父を知りませんが、父はこれ天神です」と言った。 村郷の人民も皆「速日神の遺胤である」と言った。 天孫の日神はこれを召して御戸阿多陪(みとあたまえ)とした。

翌朝、日向(ひむか)に辛(往)き、日と月を幾つか経て、女は幕の内に来て言った。「妾(わたし)は皇胤を胎(みごも)りました」。 天孫の日神は疑って言った。「否(ちがう)」。 女は言った。「妾の父神は天神に見(まみ)え、妾の母も一夜の間に妾を胎りました。今もまた同じです」。 天孫の日神は嘲って言った。「天神といえども、どうして一夜の間に人を胎ませることができようか。他の胤であろう」。 女は恨み泣き、空室(うつむろ)の契りに臨もうとした。 その姉が見て、天孫の日神に思いがあり、密かにその思い故の疑いであることを告げた。 ここにおいて天孫の日神は疑いを無くし、空室を焼く契りの中で皇子を生んだ。 これを彦火退野(ひこほでりの:海幸彦)命と曰った。 年を経て皇子を生み、これを彦火出(ひこほほでみの:山幸彦)尊と曰った。 老いて皇子があり、これを火遁傘(ほすせり)と曰った。

天孫の日神は三子に勅して言った。「その火退傘(兄)は悍(あら)く、自ずから物を凌ぐ情がある。 火遁傘は襄(おだやか)であり自ずから進まない情がある。 ただ彦火出尊のみが、善く応え世を照らす(治める)日代の位である」。 正に高きを知り弓矢を執ったが、「火退傘は兄である。どうして地に(位を)譲らないことがあろうか。 正に下きを知り海事を護る火遁傘に、日嗣の意を任せよう」と言った。 (天孫は)有年(年月)を経て日向国で崩御し、憂うべき山陵に葬った。 (注:今、小前の書を案ずるに、速(日)が傘下(西)に始まるという。 曰梓(あずさ)とは薄梓であり速日ゆえに速日村という。この梓とは予のことである。 今見在の萼、また高日郷とは、これ天孫の始まりの宮后である。 しかして後の児湯(こゆ)の宮の岬、天孫より磐余彦(神武)天皇に至るまで不易の宮跡である。空室は神が契った古地である。)

天孫の神が退いた後、兄命は自ずから残忍な業の行いがあり、弟命は自ずから仁恵の情があった。 遠き勅に任せて職を分け、山を幸(さち)として高きを知り、高き在る物を取る者は弟命の行いに任せ、海を幸として下きを知り、下き在る物を取る者は兄弟に任せ、多くの年月を経た。 その職があるがゆえに幸釣(さちつり)の名があり、これを失わなかった。幸弓の位を執って、いよいよ貴くなった。

一日、兄命が弟命に謂って言った。「およそ兄が上に在り、弟命が下に在るのが常である」。 弟命は言った。「父尊に勅を受けたといえども、今聞くところによれば、その拠り所がないわけではない。 兄命の心は悍(あら)いため、父尊はこのように遠き勅をされたのだ。 もし兄命が慈しみ、人民が弓を執る功を得たなら、どうであろうか。請う、試みに幸を易(か)えよう」と。 弓をもって幸を易え、釣をもって海に向かう。 そもそも海とは下きに臨む言葉であり、幸釣とは人民の情を釣るという言葉である。 兄弟命は山に向かう。 およそ山に向かうとは、高きに登り世を照らす言葉であり、日嗣となる言葉である。

弓の夫は功がなく、弟尊もまたその業に当たらず釣の道を失ってしまった。 古語に高下の位を違えることを「易幸(幸をかえる)」と謂う。 しかし高きに在ることは大業である。獣を見ずに乾(から)に進んで猟のようであったとしても、いまだその業を失うべきではない。 そもそも山の猟は、古(ふるく)知る人曰く、これを弓矢人と謂う。

各々が本業に復(かえ)り、兄弟(兄命)は弟尊を釣を失ったことで責めた。 弟尊ゆえに人民は己に従わなかった。 兄の威をもって頻りに催促し懲らしめた。 弟尊は、兄が弟の下に居ることができないこと思い、かつ父尊の遺した勅が心において空しくなったことを悲しんだ。 ゆえに当に為すべきことを知らず、憂い吟行して浜辺に到った。 無名の雉(きじ)を遣わして豊中津にこれを訪ねさせ、去田日子(さるたひこ)神に至った。

時に去田日子神は潮汐の往来の如く使(使者)に示して日(言)った。 「我が去来諾(いざなぎ)尊が遠く島辺の事を化(おさ)めたのは、憶原(おきはら)の祓除の徳においてである。 津志広(つしひろ)島があり、その島主の名を玉彦と曰う。 往昔、豊中津の教えに従って子となり、豊玉と号したのがこれである。 弟尊が兄兪(兄)の忌む所となって危うければ、暫くこれを遁(のが)れ、彼(か)の島へ去るを知らないのか。 およそ我が去来諾尊の瓊矛の道は、来たるべくして来たり、去るべくして去る。 これによって我が去ることもなお日児の名を存し、大已貴の去ることもなお瑞曲玉(みづのまがたま:広矛)の事を被るのである。 代兪の去るは、青架垣(あおふしがき)を結び追うてこれを齊(ととの)えるのである。 去る者は還りて長短を知る。天道に従って浮橋の下に立ち、瓊矛を天磐座に放ちて西辺に赴き来るのは、誠に時然るべきことである。 尊尊(弟尊)の津志広への去行は、幸鈞(さちつり)の基である。 使をして還り詣でさせ、奏事の旨とせよ」と。

弟尊は微服して潜行し去った。その道路は知ることも改めることも難しかった。 海に臨み、兄の荒業に遇い苦しむ者、譬えば川鴈の懸縄や氏人の天析歆矢の兪などに悩む者が多かった。 (弟尊の)憐れみ顧みる心はこれを免れさせ、海外へ遁れ引いた。 民人は畏れ悦び、歓んで勇尊に従った。 いまだ船の行くことなく、後に無名の雉を豊中津に遣わし、海を度(わた)り往くすべを訪ねた。

去田日子神は復た教えて言った。「憂うことなかれ。 素盞雄神が志良幾(新羅)に度(わた)り去った後、我が回知に加多末(かたま)がある。 (注:古えは船を加多と曰う。末はその後に竹篭に入れたゆえに之を可多末と曰う。故に古説では二つである)。 かつ津志の神火、竹篭をもって之を書(つく)る。 (船を体として二つとし、説を棄てない)。 広島には全く加多末がないのにどうするか。後に去来諾尊の子となった者がこれを手計し、加多末を指して、弟尊と共に人民を津志戸の海の宮(海宮は島主の居る所である)へ度(わた)らせる。 (後々までも言うことである)。 加多末、五百の加多末が介して行く。 これより潮汐の主は日見(ひこほほでみ)尊の尊名であり、また都尊の名となるのである」と。

「神別本紀 巻第三」

ここにおいて、矛鎰(ほこかぎ:釣針と矛の象徴)を持つ彦火火出見尊は、潮の土翁(海神の老人)の教えに従い、海辺の人民を率いて、風に従って加多末(船)の小船数十を海に浮べ、一島に着いた。 その島は韓国に向かって美しかった。 島陰には奇しき樹があり、島陽には珍しき宝があったが、玉や宝とせず、真っ白な金を掘り出して宝とした。 海辺の人民は苦難から逃れ、これに従って来たのだが、蓄えるべき穀物がなく、行路の途中で皆が飢えていた。 彦火火出見尊は、干しておいた自分の食事をことごとく分かち与え、門浦(かどうら)に人民を留めた。 尊のみが一人で島主・豊玉彦の家の門に入った。 家は門を杜(やまなし)の木で覆い、杜の蔭に井戸があった。 豊玉彦には二人の娘がいた。 姉の出見(とよたまひめ)が彦火火出見尊を見て愕き、父に入って告げた。

豊玉彦が言った。「夫れ去来平尊(いざなぎ)には多くの皇子がいる。 我が父もまたその臭(ち)に列する。 素盞烏尊を掌り、我が父神の導きをもって、向島の韓国へ渡ったのだが、韓国は人民の風俗を教え治めることができないので、この島に御帰還された。 爾来、真っ白な金を掘り出して王の代わりとし、宝としているのは、おそらく向島の俗である。 素盞烏尊が到った時、我が父神は三つの床を設けて試した。 今もまた同じである。これは天神の子であるか、天神の子でないかの分かれ目である。 天神の子であれば答えるだろう。仕えないわけにはいかない」と。

(豊玉彦は)三つの床を設けて躬(みずから)出迎えて引き入れた。 彦火火出見尊は第一の上の床に寬座(ゆったりと座)した。 誠に悠然としていた。 豊玉彦は拍手して拝し、「天神の子であることを知った。 まったく素盞烏尊が御出になった時のようである。我らに対して無礼がなく、還って起(おこ)るべき敬いの心がある」と言った。 甚だしく御出になった巨細(いきさつ)を訪ねた。

彦火火出見尊が言った。「兄に苦しめられた民を引いて、今、門浦に居る。彼らのために訪ねて来たのだ」と。 豊玉彦は魚人らを使わして、負うこと許百二十有余(多くの食料)を負わせた。 ことごとく饗応して、訪ねてきた状を皆が言った。 「天孫瓊杵神が天降って以来、我が国は豊饒で山海は自ら静かである。 瓊杵神が退き仰いだ後、木花開耶命は天孫の子たちを肩にし、天孫が在るかのごとく日(の国)を治め久しい。 その季弟(すえ)の火明命、天の嫡兄・火酢芹命は、幼い頃から野に辛労していた。 唯、仲御子(彦火火出見)のみが、高(高天原)に鎮座する情を備えていた。 故に天孫は木花開耶命に勅を伝えて、『努めて嫡兄命を日嗣(ひつぎ)として立ててはならない』と告げた。 人民は自ら枯れ果ててしまった。 このゆえに木花開耶命が薨じた後、人民は仲御子を山幸に立て、また嫡兄命を海幸に置いたのだが、嫡兄(海幸)は天孫の遺勅を恨み、山幸彦を海外へ追ったのである」。

その言は誠に慕うべき彦火火出見尊で、他を卑しむ慷慨(嘆き)が著(あらわ)れていた。 豊玉彦は信じ、頓首して誓った。「我に天孫の日嗣を告げよ。誰が労しないことがあろうか。 暫くこの地に在ることを請う。 己の情を尽くして奉仕し、饗応しよう」と。 不允(従わない)ことがあった。 その娘・豊玉姫をもって、王座に待たせ仕えさせた。 朝に寒さを伺い、夕に暑さを伺うこと、ほとんど三月に及んだ。 月が弓のように出(初月)て、盈(満月)ち、初めに虧(欠)けて、復た帰る間が三回になった。 ここにおいて、日の速さを知り、卿(山幸彦)を慕う意は三年を経たかのようであった。 豊玉姫は頗る国色(美女)であり、これを幸した。 島主の神が身において傾心するに至った。

豊玉彦は厚く思い、委細を探って思った。「神たる火火出見尊は、天日の位に在る。 諸々の魚人を宮の側に普(あまね)く集め、その術を問え」。 皆が言った。「倶知目(ぐちめ)と阿迦目(あかめ)は善く知っている」。 このような行いがあり、善く徴した。 即ちこれを徴したが、倶知目は「疾(病)がある」と言って来なかった。(故に仮に倶知目と謂う。この時、人の定める名はなく、ただ物に基づいて名を設定した)。 擗(ひき)ついて阿迦目が進み来て、問いに応えて言った。 「山幸彦は自ずから人望がある者です。 易幸しても海幸の鈎は失いました。 この島は催辺の島ですが、化すれば木鈎(釣針)をもってしても及ばないでしょう。 そうはいっても、海幸彦が荒ぶるままに留まれば、神は人民を寿(いのち)せません。 先日の日神の勅を守り、山幸彦よ、譲ってはなりません。 およそ吾が海島の主が、この島を治めるには二つの玉の道があります。

思えば潮が満ちる時、思えば潮が乾く(引く)時、これこそが本(もと)の去来平尊(いざなぎ)の瓊(ぬ)なのです。 この島の時の尊の玉です。 天神は目をもって島を治め、神は月をもって治める。 この理は月の満ち欠け(潮の盈虧)に依るのです。(注:凡そ蓋し月に擬する。月を知る。同じ) 善く潮が満ちることを使わせ、潮また(潮が引く)ことを使わせる。 これ(日)の光を加えた月陰の影です。 故に瓊(ぬ)を称して、満瓊(しおみつ)、于瓊(しおひる)と謂う。 満瓊の水、于瓊の火、日月の神の瓊です。 山幸彦が瓊矛(ぬぼこ)をもって治める位であったとしても、その父尊が速く崩御され、母神に養われたゆえに、おそらく瓊矛の授けがないのでしょう。 たとえ嘲る満于の瓊であっても、その原は天に出るのです。 仮に奉授するならば善いことではありませんか」。

彦火火出見尊は、潮の満つ瓊(しおみつたま)、干す瓊(しおひるたま)をもって天下を治めた。 豊玉彦はこれを善しとした。 称して言った。「汝の言葉は能く我が心に応じた。 天下を平らげる計らいは、身における言葉にある。 阿迦目の名を改め、多比良(たいら)と為す」。

干、瓊の理を奉授して彦火火出見尊に与えた。 これより王が国を治めるならば、人民は自ずから離反しない。 兄(海幸)と嗄(あるいは)各々の君である。 もしこの王の行いに違える者があれば、我が島人が軍を起こす。 波濤のように進んで討伐する。 若(も)し吾に従うこと勿れ。 我が如くするならば。 僅かなる女を供し進める。 魚は怨むだろう、傳咀(つぶて)の品(食べ物)を待つ時がある。 (多比良と称せよ)

倶知目には当に言うべき口があったが、当たることを言わなかった。 謂(ことば)として口がないに似ている。 我が臣には列(つら)ねない。 その名を奥永に供さず、天孫の進膳(供え物)にも供さない。 時が至り、島の船(和迩)等が、彦火火出見尊を歌に乗せて日向に送った。 豊玉姫は別れを悲しんで言った。 「野拙(いやしい)身の、天神の子に仕えること。 誠に当に尽くすことの恩が終わりなきことである。 身を纏えば(婚姻すれば)、貴賤の分(隔たり)はないようなものである。 来(き)し日の無礼を悔いる、何ぞ及ばん。 殊に天孫の子の胤を孕(はら)んでいる。 臨産の日に至ったなら、天(阿波)請い、宇布我戸(うぶや)を造って待つならば、則ち幸いなり」。

共に契り、天孫は卿美木氏(阿波の地名か)に帰った。 僉(みな)火酢芹命(海幸彦)の幸いをしたが、すでに歌い去って韓国に赴く時であった。 弟尊(山幸彦)は兄命に言った。「釣を失ったのは、海島の属をもって我が贖いとしたのだ」。 兄命は言った。「汝尊(弟)はことごとく見なかった、後人氏(人)が私(兄)を疎んじたのは、往日において太(はなはだ)であった。 汝尊、代わって治めよ」。 弟尊は三たび辞退したが、潮満瓊の理をもって人民に向かった。 すでに去らんと欲する人民は喜んで属し、尊の田を耕し、山真(山の幸)と海貢(海の幸)を上(たてまつ)った。

ここにおいて浪風の穏やかな日を選び、豊玉姫は船を牋(つらね)て来り、妹の玉依姫(たまよりひめ)も来た。 その船の名は加米(古男の采)と言い、船を和迩(わに)と謂う。 その勢いというものは、女の采である。 尊は人民に宇布我戸(うぶや)を造るよう勅した。 我が戸を使わし、(生馬武見命即手力)見命が菖鵡(あやめ)の羽をもって屋(うぶや)とした。 雄神の子であり(月神四世なり)、治津彦根神の子であり、八十津彦神が宇布産(出産)の事を掌った。 恐日命、李子、恐人命(いかづちの神々)が蟹(かに)を守り、箒、弓矢を防いだ(古語拾遺に見える)

その不道にして横来する耶神(邪神)を、部下をもって帚(ははき)を持たせ、御門を铺設し備えさせた。 後にその弓矢を執る業は本氏(忌部)の大伴部に、帚の業は季孫(若い子孫)の掃部(かにもり)に分かれた。

産期が至り、豊玉姫が請うて言った。「妾(わたし)は天神の子に仕えるとはいえ、もとより鄙(ひな)びており、今に至っては言うことはできない。 産俗の異なりが天とあるならば、厭われるだろうか。見てはならない」。 尊は「諾(よし)」と言った。 豊玉姫は苦しんで側(わき)におり、鰐(わに)のようであり、また浪のようであった。子を安産したが、ここにおいて薨(亡)じてしまった。 尊は悲歌して言った。(その歌は今に知ることはできない)。 妹の玉依姫がその子を懐抱し、齋(いつ)き養った。 年を経て、四方は益々採(さち:山の幸)を得た。

火酢芹命(海幸彦)は回心して言った。「このようにして、採(さち)の国を治めることが、兄として、その民としてよいのか。 汝尊(山幸)よ、代わって我がために民人となれ。我が汝尊の代わりに山幸彦となろう」。 彦火火出見尊は争わず兄命の代わりに代わった。 溯(うしお)の瓊の理をもって、兄命に事を任せると、人民は田を耕さず、漁人は停業し、田は枯れて海は乾いたようであった。 兄命は竟(とうとう)として食(もの)の物(食糧)がなく、大いに悔いて復た弟尊のために代わった。 弟尊は争わず、高きに登り、潮満瓊を出すと、採(さち)は前(まえ)のようであった。

兄命は密かに念じ、弟尊に(力が)依り有ることを妬み、兵を起こして討とうと欲した。 弟尊は海に向かって風の使者を招き、豊玉彦が海面に設けていた兵を起こし、巻図(渦)として火酢芹命の後にせよ(とした)。 ここにおいて火酢芹命は驚いて山へ上がろうとしたが、大山祗の徒が兵を率いて向かった。 里へ出ようと欲したが、俱米(くめ)部が声を挙げて売(うら)んだ(攻めた)。 上れば潮もまた上り、谷を下れば潮もまた下った。 進退はことごとく潮の満干の瓊に任され、人民は彦火火出見尊を扶け、道において虞(おそれ)はなかった。 頻りに悲悔して、「永く弟尊に仕える、俳優(わざおぎ)の民として御門を導く者となろう」と大声で請い、この罪を免じることを願った。 彦火火出見尊はこれを免じ、潮の兵を退かせて平らげた。

斎部神、中臣神が火酢芹命に誓約を伊余(いよ)の地でさせた。 また豊玉彦の教えにより、潮水(鹽水)を共に飲んで言った。「この誓約に符(したが)うならば、永く食塩(えん)を尽くすことなかれ(誓いである)」と。

「神別本紀 巻第四」

天照国照彦五瀬尊(あまてらすくにてるひこいつせのみこと)は、冬の時期に皇弟や軍勢、民衆を率いて海に皇舟を浮かべ、東へ向かい吉備に至り、豊浦の速吸門(はやすいのと)に到着すると、長推津彦(ながしつひこ)が服従した。(本名は宇都八子といい、「宇都」は高すぎるという意味であり、その国の人民が自ら尊んでそう呼んだもので、これが倭直(やまとのあたい)の始祖である)。

一行は菟狭(うさ)に至った。菟狭国造の祖先である菟狭津(うさつ)夫婦が彦五瀬尊を一本の葦で柱を立てた殿に迎え入れ、三握りの葉で編んだ簏(かご)で炊いた飯を饗応して次のように申し上げた。「去来乎尊(いざなぎのみこと)が海潮に臨んで次第に国を形成された際、最初に一本の葦の芽から賢く天下を得られ、また一つの島を生み出し、天の浮橋の上で日に誓いを立てて陽の島を獲得されました。そのため、大日女貴(おおひるめのむち・天照大神)がこの国を照らされた時も、葦原のことを忘れず、この国を豊葦原となし、一本の葦を立てた殿を造ってこれを守られたのです。去田日子神(さるたひこのかみ)がここに来て中津の旧宮を崇敬し、自らが去来平尊(いざなぎのみこと)の末裔の出にすぎないことを悔い、顕明な政務を委ねました。天孫が分かれて東や西に去った後も、千津媛神(ちつひめのかみ)を祀ってその伝統を失わなかったことは尊いことです。今、天孫の末裔がここに来られたと聞き、鹿の肉を供しますが、上古の日の御子たちは臼で搗いた精米を必要としませんでした。ゆえにその時代の神々を祀るには、三杵(みつきね)の飯(生のままのように搗いた飯)を用いたのです。天の浮橋の根本を忘れず、三杵の飯を嫌わないことで天下は平穏となります。もしこの遺風を失えば、精鋭の兵を尽くしても人民は平定されないでしょう。古代の政治のあり方と、この国にある瓊(たま)の言葉を捧げます」。

彦五瀬尊は詔して、「その時代に応じて事を行うのが、上に立つ者の規範ではないか。世は五つの時代を経て、今はすっかり明らかになっている。どうして三杵の飯で祭り、それを食べる必要があるのか」と言った。菟狭津夫婦は共に、「上に立つ貴人がこの古風を守らなければ、下の者は驕り、大業は危うくなります」と言った。狭野命(さののみこと)は、「国神が計画して申し上げることは、すなわち天神の降した教えではないでしょうか。喉を潤すのに十分な川の水があり、腹を満たすのに十分な穀物があります。喉が渇けば濁流も忘れず、飢えれば粗食も嫌いません。主君が鹿を好まれれば、軍衆も養いやすくなります。東征において非常に良いことです」と申し上げた。

これを受けて彦五瀬尊は、「私はこれを食べよう、やむを得ない。先皇の神々に捧げる」と言った。狭野尊は、「先皇はすでにこれを食べられました。それがその時代の常なのです。今どうして精米を供し、己の驕りを先神に移してよいものでしょうか。耳が痛い言葉であっても、この決意を変えてはなりません」と言った。彦五瀬尊も、「私も同感だ」と言った。

この時、菟狭津夫婦は、彦五瀬尊の武勇は狭野命に勝るものの、狭野命の徳は彦五瀬尊の上にあり、天下の主となるべきなのは狭野命であることを予知していた。そこで狭野命に三杵の飯を進め、百の御馳走を持った童子を彦五瀬尊に仕えさせた。

彦五瀬尊の尾羽張(おはばり・剣)は一握りの長さであり、狭野命の尾羽張は八握りであった。彦五瀬尊は吉備の尾羽張社に人を遣わして、鍛冶にそれを模造させた(虫食いあり)(古くは剣を尾羽張といい、日本武尊の時代には尾羽張という国名があった。詳細は『大島書』に見える)。これにより、かの国に六社を置いた縁起が備わった。(『大島書』にある)ここに一つの大きな旗があり、軍神を祀って東へ船出した。

岡を経て可愛(え)を経て、高島に至った。浪速に漂い(ネズミの齧り跡あり)、独り討つべきことを知った。日から業を授かってのちに行動するのが古風である。また彦五瀬尊は「身をもって弓矢を執り、勲業が自分になければ衆人に及ぼすことは難しい。どうして自らを安んじ、天下を安んじることができようか」と言った。

東に進んで猪熊山(山は私の意のまま、という意味の名)に入り、中国を征伐しようとした。熊を指して、水に隣接し越えてはならない険しい場所であった。狭野命は衆軍に示して言った。「我が兄である日尊が東に来たのは、戦を好むからではない。諭して従うならばどうして討とうか。抵抗する者はこの狭く険しい山に留まることはできない。先陣は中軍を顧み、後陣は後方を守れ。天皇の命令を待たずに私兵として戦う者は神の民ではない」。そして青竹の葉を採って束ねて振り、軍衆を指揮した。これが今の軍麾(采配)の起源である。

これに対し、安比(あび)と須尼(すね)は「我々は太古からこの国を治めてきた。偶然にも天神の子である饒(にぎはやひ)を得て、自分たちの骨法(器量)では及ばないと悟り、妹を奉仕させて主とした。饒はすでに神去り、妹が産んだ馬志摩知(うましまち)がいる。どうして天神の子を捨てて、西海の異俗に従おうか」と言った。

馬志摩知は勅命を下して言った。「私が二人の臣下の補佐によって中国を治めているのは、天神の子だからである。我が父の神は『西に豊中津国があり、世の政は太陽に擬せられているため、人民もそれを太陽のように仰いでいる。私という日の御子には二柱の神があり、私は兄であるが徳は弟に及ばない。ゆえに一人は西に行き、一人は東に来た。時が来たら西にある日嗣(皇統)と結びつき、静観してはならず、また統治を二つにしてはならない』と詔された。今来た者は蓋しその末裔であろう。彼らが抵抗しないなら討ってはならない。二臣のうちの一人を遣わして、その意図を探ってみよ」。

須尼は言った。「ここに至ったのは西からの末裔です。臣らがもし西の人にこの国を奪われるのを見過ごせば、父祖の神々に合わせる顔がありません。二度と主君には申し上げません」と驕慢な態度をとった。後世の人が「私の言葉は高い」と言うのは、この「須尼」に由来するという。安比は「国は我が国であるが、今は主君を立てているのだから、後は主君の意志に従うべきではないか」と言ったが、須尼は「天神を崇めても、天神の部族に見捨てられるなら私は仕えない」と言った。ここで安比は彼を諫める力がなく、共に兵器を準備した。馬志摩知には区乃(くの)を司らせ、自分たちは思いのままに軍勢を動かした。この時、馬志摩知はまだ二十歳に満たなかったと伝えられる。

軍を調え、四つの出入り口に防備を置き、猪熊の東に陣を構えて西軍を待った。その国の勢いは大変なもので、遠方から来た軍には太刀打ちできないほどであった。そのため、彦五瀬尊は速やかに進軍して征伐しようとした。狭野命は「我が軍衆は遠くから来ており、日の出る方角に向かっています。敵は太陽を背にしているのではないでしょうか。和を待ち、相手が油断した後に討つべきです」と諫めた。

彦五瀬尊は「大軍を率いてここに至り、一日でも遅れれば衆軍の士気は怠る。速やかに討って軍機を勧めるに越したことはない」と言い、狭野命が諫めたがその言葉は用いられなかった。鯨の波が山を動かすように旗が光り輝き、勢いを作った。阿比と須尼は国県の長を率いて木陰に伏せ、敵の進軍を待った。そして須尼の放った痛烈な矢が彦五瀬尊の胸を射抜き、彼は声もなく倒れた。全軍はひどく動揺し、これを鎮める術もなく、軍は大敗を喫した。

狭野命は「我々は日神の生んだ子である。至上の者が諫めを聞かず東を討ったのは、祖神の本来の意思ではない。道を変え、太陽を背にして影に任せて征伐するに越したことはない」と言った。彦五瀬尊の死を隠し、道を変えて敵の東へ出ようとした。皆は「狭野命の智恵は彦五瀬尊を超えている。どうか代わって天下を治めていただきたい」と言ったが、狭野命はこれを受けず、慎んで喪に服し、軍を西南に退いた。

皆は「早くに主上が崩御されたのに、なぜ軍を返すのか」と言った。狭野命は「どうして引き返すことがあろうか。南山を迂回して西から敵を受けるのだ。主君が崩御され、衆軍は勢いを失っている。しばらく休息して鋭気を養い、その後で討つのだ」と言い、軍を返した。須尼は追撃しようとしたが、安比はこれに従わなかった。

狭野命は軍衆と共に今の河内の草香(くさか)に退き、盾を植えて謀とし、衆軍の士気を落とさないために三人の英雄が話し合った。血沼山、小木水門に至り、ここで彦五瀬命を哀悼する祭りを行い、衆軍に示した。「彦五瀬命は亡くなる直前、剣を撫でて声を励まして『無念である。山賊に射られるとは。我が弟たちや衆軍よ、この恨みを忘れることなく、必ず討ち果たせ』と言われた」。紀伊国の竈山に至ってこれを葬り、後の戦いで必ず仇を報いることを軍衆に固く誓った。ある野に留まって自ら仇を征伐する心を祈ったため、後にその野を狭野と呼んだのは、狭野命の古事に由来するという。

狭野を越えて熊野山に至り、船出したところ暴風が起こり、第二列にいた稲飯命(いないのみこと)の船が転覆した。彼は敵を伐つ意思を抱いて剣を持ったまま亡くなったため、後に剣持神(つるぎもちのかみ)として祀られた。狭野命の子の乎阿美が命じて、「軍中の死生を今さら驚いてはならない」と言った。

軍を率いて熊野の新棠津(しんぐうのつ)に到着し、名草を経て、名草戸部(なぐさとべ)が抵抗したためこれを誅殺した。ここに至り、錦戸部(にしきとべ)とその長も誅殺した。狭野命の武威によって彼らに打ち勝ったものの、主将を失って深い山中に迷い込み、暴風に遭って波間を漂い、軍衆は毒気にあてられたように心も瘴気に落ち込んでしまった。

狭野命は遠陣を率いる高倉志(たかくらじ)に命じて、山中に宿営を設けさせた。(後に子孫が野を領継したため、熊野の高倉志という)。食糧を備えて饗応し、そこに二十七日間宿営した。ある朝、山谷に軍衆を並べて酒を賜った際、高倉志が進み出て奏上した。「夜に突然夢を見ました。天照大神が上におられ、傍らに高木代神(たかぎのしろのかみ)がおられて詔されました。『彦五瀬尊が崩御したからには、狭野命を日神として立てよ。彦五瀬尊は瓊(たま)と矛(ほこ)の光なくして崩御した。武甕祇(たけみかづち)が伝えるところによれば、矛は大己貴(おおなむち)にあり、これを天孫に奉って国を平定した。今まさに他を伐って威を示すべき時に、伐らなければ敵は増長し我々を討とうとして危うくなる。瓊矛の温和さは、日矛の厳格な威厳には及ばない。これを狭野命に捧げ、日神の微かな証とせよ。武甕祇は、これを閤山(くらやま)の際に置けば閤山は自ずと明るくなると言った。この日矛はたとえ死を貫いて立ったとしても、照らさないところはない』。彦五瀬尊が帯びていた十握剣が矛の代わりとなる象徴として、皆が一斉に彼を主として推戴しました」と。

祖先を追して「彦火々出見尊」と号し諡したのはこの時である。神祇を礼拝し、日の位に代わり、尊く日の威を負い、影に従って衆民に向かった。大磐盾(おおいわたて)や磐靭(いわゆき)があった。勅命を下して、「先皇の喪に遭ったのは眠っているようなものであった。どうして私がここで長く眠って敵を討つのを怠ってよかろうか」と言った。群衆も、亡き主を思って眠っていたような心からたちまち目覚め、日が暮れて再び夜明けが来たような思いで勇み立ち、進軍した。

軍衆を催起して歌い、中洲に向かったが、南山は険しく手をかける道もなかった。北の谷も鋭く手の力が及ばなかった。そこで北へ向かって乗り越えた。

大伴の祖である恐日子忍臣命(おそろひこおしおみのみこと)が言った。「天の日は東から出て南に入る。東においては夏は北から出る。日が東南にある時、これを背にすれば西北の隅に出るであろう」。そこで勅を下して、「お前の名を臣(おみ)とせよ」と言った。古い言葉では「臣」は「遍(あまねく)」という意味である。古くは「日の末漏(ひのまろ)」と言ったが、今の説では「日の淤後美(ひのおごみ)」と言う。後世の武将が扇で指揮する際、丸い日の扇の縁を尊ぶのはこれに由来する。

「鳥は日を得て飛び、日が暮れれば宿る。日光が鳥に映えれば、黄金の光が自ずと軍の後方を守るだろう。金鳥が巡るのに従えば、東南から西方へ自ずと導かれるのではないか」と言った。

勅を下して「日臣(ひのおみ)よ、また道を切り開け」と言った。道臣(みちのおみ)は九折に曲がる道を回天して、菟日子(うかひこ)の県に出た。ここに兄と弟の二人の長猾(えしうかし・おとうかし)がいた。兄は欺こうとし、尊を宴の中に招き、饗宴の場に罠を設けた。尊は道臣を遣わしてその意図を探らせた。道臣は早くもその奸計を察知し、兄猾に牛と酒を設けて軍衆を労らわせた。これは武勇がない証拠であり、滅亡の兆しが明らかであった。

皇尊は歌を詠んだ。(その歌については三つの説があり、まだ明らかでないため省略する)

尊が歌いながら芳野(よしの)に至った時、芳野の長はまるで井戸の中にいて他人の光を見ないかのようであった。その徒党は尾度(おど)の三谷にいた。世の人はこれを井光(いひかり)と呼んだ。歌に従って仕え出たこの者が、芳野首部(よしののおびと)の遠祖である。

磐深池(いわぶちのいけ)に住む長も同様に仕え出た。これを幣製彦(いわおしひこ)という。これが芳野国樔(よしののくず)らの遠祖である。四方がすべて抵抗することなく、その威光に教化された。ついに平定の基礎となったのである。

神別本紀第四 終。