本ページに掲載する記録は、山川町川田天神の住友嘉七郎家に保存されてきた『西川田村庄屋記録』の解題と現代語訳です。作成にあたっては、桒原定男氏の先行研究であるご著書『住友家記録』を主要な参考文献として拝読し、独自の解釈と整理を加えてまとめました。
本史料『住友家記録』は、現在の徳島県吉野川市山川町字西川田に土着し、近世阿波における物流と在地権力の中核を担った住友家(嘉七郎家)に伝来した第一級の庄屋文書である。
同家の本質は、単なる一村の行政官僚(村役人)ではない。天正13年(1585年)の蜂須賀家政による阿波入国時、大粟山の在地勢力らが新体制に反発して不穏な動きを見せた際、住友家は即座に調停へと乗り出し、事態を平和裏に鎮撫した。この迅速な政治的対応は、彼らが蜂須賀氏入国以前から、周辺の修験者や山の民のネットワークに対して強い影響力を持つ強力な「在地土豪」であった事実を如実に物語っている。この危機管理の功績により、住友家は旧来の所領を安堵された上で正式に庄屋役に任じられ、新領主たる蜂須賀氏との間に強固な政治的同盟関係を構築することに成功した。天正18年(1590年)、家政が三好郡巡視の途上で同家を昼食の休所として利用したという記録は、単なる名誉ではなく、両者の密接な結びつきと、住友家が吉野川流域の水陸交通の要衝を完全に掌握していたことを示す象徴的な出来事である。
その後、徳島藩は西川田の500石を尾張以来の功臣である樋口内蔵助に、東川田の500石を長谷川伊豆にそれぞれ知行地として宛行った。この藩の領地再編に対し、住友家は嫡孫が東川田の管理を担い、二代目庄屋・彦兵衛の弟である五郎右衛門が西川田の庄屋職に就くという、極めて戦略的な一族の配置を行っている。
この東西川田の分割管理体制こそが、単なる農村支配を超えた「在地インフラの総合支配」の出発点であった。住友家は、藩の軍事・行政を担う重臣(長谷川家・樋口家)の給地を実務面から支えることで彼らと深く結びつき、同時に高越山修験の大旦那として阿波山間部の実体経済(林業や和紙生産)をコントロールしていくことになる。のちの「忌部公事」において、彼らが背後で強大な影響力を発揮できた理由は、この蜂須賀氏入国直後に築き上げられた、したたかで強靭な権力基盤の確立過程の中にすでに用意されていたのである。
本記録は、第3代・五郎右衛門正春から、第4代・五助正高、第5代・治五右衛門正輔、第6代・嘉七郎正武に至る4代の庄屋が、天正元年(1573)から安永5年(1776)までの約240年間にわたる事象を書き継いだものである。川田特産の生漉(きずき)半紙を二つ折りにした全534枚の帳面には、一族の記憶を子孫へ残すという私的な備忘録の体裁をとりながらも、在地支配の生々しい実態が草書体で克明に記されている。なお、慶安元年(1648)以前の事象については後年に一括して遡って編纂されたと推測されるが、それは彼らが自らの権力基盤のルーツを再確認し、正統性を確立するための作業でもあったと考えられる。 記載内容は、藩主の生没や家督相続、参勤交代といった政治的動向から、洪水や堤防決壊といった治水問題、さらには高越寺をはじめとする社寺関係や近隣庄屋の吉凶まで極めて多岐にわたる。ここで極めて重要なのは、高越寺などの宗教勢力に関する詳細な記述が、単なる信仰の記録ではないという点である。これらは、住友家が高越山修験の大旦那として振る舞い、阿波山間部のネットワークを経済的に支配していた証左に他ならない。本記録からは、同じく川田を拠点とする早雲家(中川家)との強固な結びつきや、彼らが「忌部大社」の由緒をめぐって他村と激しく争った「忌部公事」において、住友家がいかに背後から資金(酒代など)を提供し、戦略的な後援を行っていたかが読み取れる。住友家にとって、早雲家をはじめとする修験・神職のネットワークを保護し、同時に吉野川の治水や堤防を管理することは、山の資源(和紙や木材)を下流へ運ぶための絶対的な生命線であったのである。 また特筆すべき点として、第3の筆者である第5代・治五右衛門は「一本」の四股名を持つ力士でもあった。彼が記した豊富な相撲興行の記録は、当時の相撲の実態を全国的な視野から把握できる貴重な史料であると同時に、住友家が単なる一村の庄屋という枠を超え、広範な人の移動や興行ネットワークをも掌握し得る規格外の在地実力者であったことを雄弁に物語っている。
7月、阿波屋形(三好氏)が川島町の植桜古城に拠る篠原紫雲を討伐し、同月13日に同城は陥落した。
長宗我部元親が阿波南部にて合戦を行い、海部・板東・板西の三郡を制圧し、桑野へと侵攻した。
土佐勢(長宗我部軍)が大西(白地城)へ侵攻し、城主の大西覚用が敗退・没落した。
重清城および岩倉城の両城が、土佐勢によって攻略された。
12月29日、三好方の下郡の軍勢が岩倉城へ攻撃を仕掛け、土佐勢と交戦したが、下郡の軍勢が敗北した。
6月2日、織田信長が自害した(享年49)。8月28日、三好勢と土佐勢が中富川にて合戦を開始し、9月21日に勝瑞城が陥落した。これに伴い、三好勢は讃岐国へと退避した。
住友五郎右衛門が隠居し、19歳の嫡子・藤十郎が家督を継承した。16歳の次男・三十郎は父親と同居し、山路へ家を構えた。三条小鍛冶宗近作の長さ2尺7寸の太刀を2尺2寸7分に磨き上げたため無銘となったものを、三十郎のために仕立てた。他に治部藤四郎作の1尺1寸の無銘の刀一腰、高木貞宗作の2尺4寸3分の上質な無銘の刀一腰が存在した。
住友五郎右ヱ門(法名:草庵居士)、嫡子・藤十郎、および次男・三十郎は子孫繁栄を祈願し、菩提寺である明王院境内に地蔵堂一宇を建立し、六地蔵尊を安置した。
1月2日、蜂須賀家政(彦右ヱ門)および正勝(小六)が阿波へ入国した(家政は当年28歳)。9月、在地の統治(仕置)のため、黒部吉右ヱ門が名代として派遣された。大栗山および木屋平山にて一揆が勃発した際、五郎右ヱ門が木屋平へ急行して鎮圧に尽力した。10月11日に太守に拝謁した。
至鎮(吉重)公が誕生した。5月20日、蜂須賀正勝が死去した(享年60)。10月、豊後国への出陣があり、日向国根白坂の戦い(※原典記載:鍋嶋之陣)が行われた。
当地の八幡宮における祭礼の頭役は、甲子の年は山路の住友五郎右ヱ門方が、乙亥の年は嶋の住友善之亟方が務め、毎年両家が交替で役を担う慣例であった。
川田村全域において、初めて1,443石の検地が実施された。
小田原征伐が行われ、北条氏政が討伐された。三好郡加茂村にて軍船建造用木材の伐り出しが命じられ、領主が自ら視察に訪れた。10月5日の昼の休憩所に五郎右ヱ門の邸宅が指定された。この際の領主は家政(蓬庵公)である。
樋口内蔵助に対し、西川田村において500石の知行が宛行われた。
朝鮮出兵が開始された。長谷川孫右衛門に対し、東川田村において500石の知行が宛行われた。9月24日、長谷川氏が高越山へ参詣する際、住友家が宿泊所を提供した。
高麗陣(朝鮮出兵)が開始された。4月9日、豊臣秀頼が誕生した。
蜂須賀氏の阿波入国から10年を迎え、3月より阿波・讃岐両国の人別調査(人定)が実施された。領主が高越山へ参詣し、4月3日から5日の帰路にかけて住友家を宿泊所として利用した。
住友五郎右ヱ門の嫡男・一夛(初名:嘉一郎)が誕生したが、後に失明した。
高麗陣があり、赤国(異国)への侵攻がなされた。善光寺の如来像が京都へ移された。朝鮮出兵はこれで三度目となる。
8月18日、豊臣秀吉が死去した。住友五郎右ヱ門が死去し、法名を宗庵とした。
石田三成(治部少輔)の乱(関ヶ原の戦い)が勃発した。家政(蓬庵)が隠居し、15歳の至鎮(吉重)が阿波守に就任した。
幸市(後の五助、法名道貞)が誕生した。
蜂須賀氏入国から20年を迎えた。
二郎太郎(後の善之亟、法名宗伝)が誕生した。彼は後年、66歳にて7月10日に死去した。
京都の大仏堂造営に伴う用材伐り出しのため、生駒一正(将監)が8月15日から9月15日にかけて当地に滞在した。滞在中の宿所は五郎右ヱ門の邸宅に指定され、家臣らは村内へ割符(宿割り)にて分宿した。渭津から楠7本を伐り出した。
2月、藩内全域にて棟付人(戸籍・家屋)の改めが実施された。
忠英(千松)が誕生した(戒名:天庸)。
8月22日、樋口内蔵助が五郎右ヱ門の屋敷門前の宮所にて軍用の旗竿5本の伐り出しを命じた。樋口氏はそのまま多那保(種穂)社へ籠り、神前に榊の焼木を打ち立てて結い付け、夜間三日間にわたる清めの祈祷を依頼した。8月27日、五郎右ヱ門が屋敷へ成果を持参したところ、樋口氏は大層満足して袴を下賜した。
蜂須賀氏入国から30年を迎え、大坂への出陣(大坂冬の陣)が行われた。
大坂の陣にて5月7日に大坂城が落城した。豊臣秀頼が自害した(享年23)。太守(吉重公)は軍功により淡路国を加増された。
4月、徳川家康が死去した。村と山の境界をめぐる相論が発生し、稲田修理陣営と樋口内蔵助陣営の対立となったが、結果として川田村(樋口陣営)が勝訴した。
9月5日、正式に淡路国を拝領し、阿波・淡路両国合わせて25万7千石の御判物を頂戴した。これが両国一円統治の始まりである。
安芸の福島正則改易に伴い、6月に在地の百姓から人質を取り、庄屋らに預けて監視させた。長谷川伊豆と樋口左京の間で川除(堤防)に関する境界争いが発生し、領主の裁定により知行地の替地が行われて決着した。10月、太守が川島町の植桜山にて鹿狩りを行い、五郎右ヱ門と五助が拝謁した。五郎右ヱ門が鹿を仕留めた功により、銀小判10両を下賜された。
前代未聞の大洪水が発生し、「阿波流し」と称された。2月26日、至鎮が35歳で死去した。樋口道喜の奥方が死去した。
奥の大谷の用水路(井筋)に関して、龍王の池杭から下の横道まで230間、庚申谷まで100間、八幡の石段まで100間、酢谷まで300間について整備計画が立てられた。用水路の川幅は4尺、陣下へ至る部分は2尺5寸とし、共同での浚渫作業を実施する手筈となった。
蜂須賀氏入国から40年を迎えた。樋口左京が乱心により知行を没収された。1月3日、新開地の検地が実施された。2月27日、金蔵(後の五郎右衛門)が誕生した。
新開地の検地が実施された。
5月22日、樋口道喜が死去した。
太守・光隆公が誕生した。
島主水助および森左太ヱ門による棟付(家屋・人口)調査が実施された。長谷川但馬に対し、西川田において300石の知行が宛行われた。
一、太守の家督相続の祝儀として、2月27日に城内にて料理が下される旨の通達があったが、治五右ヱ門は病気のため不参した。
一、当所の多弥穗宮は古来より忌部神社であるとの伝承があり、神主・早雲民部方には往古からの記録が存在した。20年程前に京都の神祗伯・白川三位家へ参じて門弟となり、「神代より伝わる多弥穂大神は忌部社に相違ない」との公認の書付を下賜され、毎年6月に麻と楮を献上していた。ところが、元文5年(1740)より、山崎村の村雲庄太夫が自村の「王子権現」という小社を忌部社であると主張し始めた。村雲は京都の土御門三位家へ懇願し、その下知を得たとして2月に王子権現の近隣へ新規に宮を建立し、3月1日から5月にかけて盛大に祭礼を執行した。これに対し、多弥穂の神主である早雲民部が直ちに上京して白川家へ状況を報告し、併せて土御門家への工作も行った結果、土御門家からは「山崎村へ忌部の下知は発給していない」旨の返答書面を獲得した。この事態を受け、京都留守居役から郡奉行へ通達が下り、取り調べの結果、早雲民部は郡奉行所へ無届で上京した法令違反(のりを越)を咎められ、町旅宿へ24日間の押し込め処分を受けたものの、首尾よく赦免された。民部に同行して上京した東川田村の百姓・四郎右ヱ門も同様に旅宿での逗留を命じられた。一方、山崎村の村雲庄太夫は「偽りを申し立てた不届き者」として入牢(籠舎)を命じられ、山崎村に新規建立された社や鳥居は跡形もなく破却された。土御門家への願書控えや、白川家家臣の安川求馬から土御門家家臣の伊東数馬へ宛てた書状など計3通が治五右ヱ門方へ送達され、民部らは京都での訴訟に勝訴し、大手柄を立てた。
一、当忌部を「多弥穂」と号し、大坂の淡路屋清兵衛、明石善兵衛、讃岐国高松の香久山団蔵の3名が同道して5月2日に同社へ参詣した。彼らは「四神相応の優れた社地である」と驚嘆し深く感銘を受け、大坂で奉賀を集めて支援すると約束して帰路についた。
一、代官・原与右ヱ門の後任として斉藤権作が任命され、5月より着任した旨の通達があった。
一、9月12日、西麻植村の喜左ヱ門が86歳で死去した。
一、1月5日の徳島年頭出仕に治五右ヱ門が出向き、山田貢および与吉兵衛へ干鯛を各10枚献上して拝謁し、6日に帰村した。外方への挨拶には金蔵を名代として派遣し、長谷川民之助へ干鯛10枚を献上して拝謁させた。
一、村の神主(弥宜)民部を京都へ派遣するため出頭させるよう、郡奉行・下条成助より書状が届き、1月21日に東川田村から返答を行った。
一、2月、郷中の懸り物帳面を代官所へ提出した。
一、種穂忌部社の件に関して、早雲民部が郡奉行の下条成助に召し出され、貞光村八次大明神の神職・兵庫と同道して京都へ上り、神祇伯・白川家の裁定を仰ぐよう命じられた。民部と兵庫は2月28日に出発し、3月8日に同船にて上京した。また、宮ノ島村の神職2名も速水角五郎の許可を得て、忌部神社論争の関係者として計4名で上京した。白川家での詮議の結果、「種穂忌部神社に決着した」との裁定が下り、早雲民部へ「神道大霊書の巻」が授与された。この決定は京都留守居役の滝与兵衛にも通達され、4人は呼び出されてその旨を申し渡された。民部と兵庫は4月17日に帰郷し、下条成助へ顛末を報告した。両名は連名にて口上書を提出し、速水角五郎へも同様の書付を提出した。民部の上京にあたっては、西川田村の権右ヱ門と東川田村の四郎右ヱ門が随行し、治五右ヱ門の嫡子・嘉七郎も後から京都へ様子見に向かった。
一、2月27日、正徳元年以降の新開検地および山林に関する帳面を提出するよう通達があり、6月が期限とされた。
一、種穂忌部社の一ノ鳥居を、先規に倣い市久保夷の前の大道端に再建した。治五右ヱ門の屋敷内の松の木を用いて古鳥居を取り替えて寄進したい旨を役所へ願い出て許可され、5月16日に建立された。併せて杉の額板も治五右ヱ門が寄進した。
一、寺社修復のための勧化(寄付集め)に関し、寺社奉行連印の勧化状を持参する者については、従来は村役人が一律に停止させていたが、今後は幕府の許可を得ている者については寄付を許可する旨の通達が5月10日に出された。
一、藩内全域の蔵入地および給知の田畑の余地を調査し帳面を提出するよう4月21日に通達があったが、8月中に完了しなかったため、翌年3月まで延期を願い出た(9月19日に麻植郡一括で願書を提出し受理された)。
一、5月8日、太守が帰城し、賀島出雲が供奉した。
一、嘉七郎は4月に伊勢参宮を行い、その帰路に柳生にて兵法稽古に臨み、江戸の門弟と試合を行って手柄を立てた。
一、5月13日、出雲に仕置(執政)役が命じられ、山田貢と月替わりで勤めることとなった。
一、治五右ヱ門の後妻が髪を切り、2月1日に離縁した。しかし、女の母親が大坂から下向し、治五右ヱ門に対して郡奉行へ訴状を提出した。5月14日に治五右ヱ門に出頭命令が出たが病気を理由に断り、敷地村・東川田村・瀬詰村の庄屋衆が仲介に入り、最終的に町屋にて示談となった。銀札1貫100目を支払い、訴えを取り下げさせて大坂へ帰らせた。9月19日に訴え人らは大坂へ送還されることが決まり、25日に出船した。治五右ヱ門方は中旅宿への押し込め処分を受けたが、10月2日に赦免されて帰宅した。
一、5月28日に太守の御目見えの通達があったが、治五右ヱ門は病気のため不参し、御肴代は善之巫に頼んで献上する予定であったが彼も不参であったため、才兵衛に依頼した。
一、4月18日、長谷川民之助へ御用があり、治五右ヱ門は病気のため金蔵を名代として遣わし、御悦として干鯛10枚を献上させ、原与左ヱ門の取り次ぎで拝謁させた。
一、9月16日、太守の御前(正室)が死去した。23日に江戸から使者が到着し、24日より市中の見世物興行等が1日休止された。
※以下は年代順に編纂されていない記事群である。
一、後米売田地證文に基づく米50目での請け返しが可能かとの噂が立ったが、藩からの公式な沙汰は無かった。
一、4月15日、沢右ヱ門の暇證文を山路村の庄屋・弥兵衛方へ写して遣わし、原本は棟付帳袋に保管した。
一、上之間座敷の南側に出竹縁を32年ぶりに設え直した。井田の大工・又左ヱ門に施工させ、6月10日に竹垣を取り付けた。
一、忌部宮の幣殿の上葺きを当村の大工らに栃葺きで施工させ、6月3日に完成した。この費用として、帯刀が自力で西分の氏子らから少々の寄付を集めた。
一、6月15日より雨乞い踊りを立願し、7月2日に結願して両村で惣踊りを行った。少し降雨はあったものの地面を潤すほどではなく、6月12日からの旱魃に対し、7月12日になってようやく十分な雨が降った。
一、7月6日、非人の六兵衛の配下である金兵衛が盗みを働き、六兵衛が召し抱えていた八兵衛・銀兵衛ら計5名が斬罪に処された。
一、これに関連し、盗人を在所に置いた監督責任を問われ、東川田村の庄屋・住友慶之進と五人組が7月8日に市中旅宿への押し込め処分を受けた。これに伴い、同村の御用は治五右ヱ門が代行を命じられ、6月28日付の指示通り村中へ通達した。
一、9月、江口弥兵衛が南方の郡奉行に任命された旨を9月13日に承知した。
一、10月21日の夜(月の出の直前、亥の上刻)、上山の大椋悦左ヱ門の次男・駒之巫が誕生した。
一、閏10月21日、種穂忌部尊宮の一ノ鳥居の柱を建て替えた(大工は松之巫と元右ヱ門)。また、三沢鉄五郎と伊沢村の市原仁三郎方の借銀について、百姓50軒からの借り換えが完了し、米100石の預り手形等の詳細を記録した。
一、閏10月24日の昼、東川田村与頭庄屋の住友慶之進が31歳で病死した。嫡子の大五郎はわずか7歳であり、跡目相続が不憫な状況であった。郡奉行の下条成助より、当面の間は治五右ヱ門が下村々の御用を代行し、天役銀の精算や帳面の引き継ぎ等を遅滞なく行うよう指示され、木屋平村へも通達した。
一、8月5日、泰観公が12歳の時に手植えされたと伝わる樹齢92年の楠を伐採し、長靴舟一艘を建造した。井後藤太らが前裁株木を60目で買い取り、舟大工の島喜兵衛が8日間で完成させた。
一、9月1日、市中の砂業者13名が運上座を命じられたことに対し、名東・名西・麻植の三郡が結託して反対運動(砂座破り)を起こし、従来通り自由に砂利を採取できるよう奉行所へ連判の願書を提出して認められた。
一、10月12日、美馬郡北庄村の原士・関兵右ヱ門が77歳で死去し、高野山にて戒名が授与された。
一、11月3日、種穂忌部尊宮の拝殿(2間1尺×4間半)の棟上げと上葺きが完了し、治五右ヱ門は奉加銀50目を供出した(大工は松之巫の息子・関六と元右ヱ門)。
一、11月3日、御花畠に滞在していた太守の次男・和十郎が江戸へ向けて乗船し、19日に到着した。
一、7月10日の夜、東川田村の奉公人の嫡子・宮二郎が就寝中に何者かに手傷を負わされた事件、および5月の節句過ぎに次郎兵衛の軒下で熊三郎が夜間に打擲されて死亡した事件について、庄屋衆による改見分が行われ、郡所へ注進された。
一、8月25日の祭礼や9月の高越山神事において、目付衆や鉄砲衆が派遣された。
一、10月19日より飯尾村の工藤熊次郎の妻が産気づいたが、難産により20日に卒倒し、25日に21歳で死去した。
一、11月2日朝、緒方政右ヱ門の妻が女児(お善)を安産した。
一、11月4日、脇町にて大火事が発生した。
一、11月、帯刀の嫡子・成之の家督願いが18日に提出され、25日に許可された。
一、2月、小川半蔵が三沢三知之進の川田村における知行地の管理人に任命され、今後の田畑売買等の証文への裏判は半蔵が担当することとなった。
一、高越寺の隠居・保道上人が3月12日に死去し、観音寺から後任の住職が着任した。
一、従来からの奉公人や権下奉公人を今後百姓と同様の扱いで御用に従事させる旨の法令に対し、西川田村の奉公人らが従わず、2月26日に嘉七郎らが呼び出された。川東の太郎兵衛をはじめとする奉公人らが誓約を拒んだことは不届き千万であると責められ、最終的に誓約書を提出させた。
一、常四郎が相撲興行において大活躍し「力は万人に勝り、六十余州の相撲取りが肝を潰した」と評され、6月13日に帰郷した。磯右ヱ門も好成績を収めた。
一、7月18日夜、町屋の源四郎の居宅が焼失した。家人が高越山へ参詣中で留守であったため、嘉七郎らが家来87名を動員して消火にあたり、延焼を防いだ。
一、7月19日、高越山へ讃岐国の祖父江政八が代参に訪れた。太守の病気平癒祈願のためであり、直ちに登山して即日下山し徳島へ帰還した。これに伴い、麻植郡の庄屋衆にも寺社での平癒祈祷が命じられた。
一、嘉七郎は88日間滞在して帰郷した。彦七郎が暴れたため熊五郎が難儀した。
一、8月、村の新たな役人(小人)として貞田久助を任命し、4石1人扶持を与えた。
一、8月20日、高越大権現の一ノ鳥居を銅で建立するため、嘉七郎らが寄付(奉加)集めに奔走した。
一、8月、幕府への願い出により新しい秤への改めが実施され、徳島市中に続いて麻植郡でも検定が行われた。嘉七郎方からも代表者が立ち会った。
一、9月21日から25日にかけ、興雲院の当座法要が興源寺で執行され、承国院の法事の際の先例に倣い、各寺院に読経や名簿の提出が命じられた。
一、11月14日、町の源四郎の息子・文蔵が25歳で死去した。
一、11月26日より12月20日まで、山崎村の三笠山方などで寒狩り(獣狩り)が行われ、山獅子や要石ら6、7人が参加した。
一、11月28日、三沢清兵衛が死去した。
一、11月24日、千松丸(太守の嫡子)が誕生した。正室(立花飛騨の娘)からの男児誕生は7代ぶりであった。
一、12月27日、岸之左ヱ門と荒鷲が同道して上方から帰還した。
一、1月4日、嘉七郎が徳島勤めに出発し、与左ヱ門らも同行した。20日には住友吉次郎らが兵法稽古に出向いた。
一、1月27日、御蔵入地の百姓の年別名簿を提出するよう代官より通達があり、これを作成し提出した。
一、1月17日、山崎村の三笠山新五の母が66歳で死去した。
一、12月16日、福生寺の後住職として高越寺の弟子である義印を任命したい旨の依頼があり、嘉七郎の仲介によって福生寺がこれを承諾した。27日に義印が福生寺と同道して高越寺へ赴き、手続きを済ませた。
一、10月、早雲治部が隠居し、孫の長作が家督を継いで次主殿となった。
一、1月4日、住友清蔵の家来らが山崎村から舟で出立した。同日、高砂左助が上方から帰郷した。9日には荒鷲孫八も上方から戻った。
一、1月15日、嘉七郎、善之巫、早雲治部の3名が同道して太守に拝謁し、御礼を申し上げた。
一、1月27日夜半、家来の松常次郎が出火騒ぎを起こした。
一、2月22日、岸之左ヱ門が上方へ出発し、小波山五太夫が国道を通って上京した。
一、2月16日、太守の次男・義千代が誕生した。
一、郷中における小間物商売の停止命令が出されていた件について、西川田村や東川田村の商人7名が以前より茶や塩などを販売していた実績を嘉七郎らが証言して役所へ願書を提出し、特例として商売の継続が許可された。
一、2月22日より釜屋の普請に取り掛かり、3月7日に棟上げを行った。上葺きは源七らが施工した。
一、3月3日、楠根地條での猪狩りにおいて、住友善之巫が初めて鹿を2頭仕留めた。
一、1月4日、嘉七郎らが徳島への年頭挨拶へ出向き、10日に無事帰郷した。
一、1月1日、住友清蔵の妻が女児を安産した。
一、古来より八幡宮の別当は高越寺が務め、早雲治部は神楽場を勤めていた。嘉七郎らの仲介により、今後の神事については早雲の裁量で執り行い、遷宮の導師は高越寺が務めるという協定書が交わされた。この決定は諸人から「早雲の外聞と実態において宜しき仕置である」と称賛された。当時の年齢は長作治部18歳、善之亟19歳、嘉七郎42歳であった。
一、2月2日、金山弁吉の嫡子・鶴太郎が誕生した。
一、3月22日、西福寺の釣鐘鋳造が行われ、讃岐国志度浦から米1石の寄進があった。
一、3月7日から4月29日にかけて、嘉七郎らが木屋平村の棟付(家屋・人口)調査に従事した。
一、2月29日、井後巻太の末子・虎吉が四国遍路へ出発し、4月に帰還した。
一、3月12日、金山弁吉の妹(南泰藏の妻)が死去した。
一、2月29日、義印坊の福生寺への入院振る舞いが行われた。
一、3月25日、嘉七郎が南方7ヶ所へ出向き、5日後に徳島へ帰還した。同日、村中の家来ら170人余りに小麦粉2石2斗を配給した。
一、6月9日から7月7日まで、嘉七郎が木屋平村の棟付御用のため徳島に詰めた。
一、7月2日、太守が帰城した。将軍の隠居に伴い、通常より帰城に時間を要した。西の丸に280間の新たな馬場が完成した。
一、8月、高越寺山上の堂社修復料として銀札1〆800目が下賜された。資材の運搬には名東・名西・麻植の三郡から郡役859人、船25艘が動員され、善之亟と嘉七郎が諸事の差配を命じられた。
一、7月12日、伊久郎ら10人余りが高越山上へ参詣した。13日には麦原鍋助らも参詣した。16日には武門太らが参宮のため出発した。
一、8月、八幡神楽太鼓の当番が当村に回り、虎七郎ら5名が役を請け負った。
一、8月6日、蔭山繁之亟の善之亟方への借財残金について、嘉七郎の仲介で清算が完了した。
一、7月28日の太守帰城に伴う御目見えのため、嘉七郎と善之巫が下城した。郡奉行の大島源之左ヱ門は8月1日に帰還した。
一、8月、麦原与左ヱ門の妻が43歳で病死した。
一、8月27日、柏木力之助が目付に任命された。
一、8月21日、福生寺にて西分の住人による大般若経の祈祷が執行された。痢病の流行に伴うものであり、嘉七郎らが費用を負担した。
一、8月25日の八幡宮祭礼において、初めて早雲1人の裁量で執行された(高越寺は関与しなかった)。昼には相撲興行が行われた。
一、8月25日、当歳の牡牛1頭を8匁で購入した。
一、9月29日、秋田源次郎の妻が男児を安産した。9月7日には山屋有右ヱ門の娘が嫁入りした。
一、8月25日、中村山の今丸にて周防国の者が滑落死した旨の注進があり、嘉七郎らが死骸の見分に赴いた。
一、10月6日、太守による佐古山での大規模な獣狩りが実施された。家中が総動員され、勢子1,360人、殺生人150人、浮人300人という前代未聞の規模であった。嘉七郎ら在地有力者も郡奉行の許可を得て供奉した。結果として鹿1頭、狸4匹、兎7匹が捕獲され、10月7日に帰還した。
一、武徳流兵法者の相羽十六郎の門弟として善之巫と嘉七郎が入門し、極貧の師匠に対して衣服などを援助した。
一、9月29日、太守の四男(常之進)が誕生した。正室からの連続誕生は前代未聞であった。
一、9月19日、関次郎五郎が大坂へ藍玉を売りに赴き、10月7日に帰宅した。
一、9月、高越大権現の神事が執り行われ、50年ぶりの賑わいを見せた。新院主・快広にとって初の祭礼であった。
一、10月11日、高越寺にて隠居の法要が執行された。
一、9月27日、仁兵衛の養子に関助(26歳)を迎えた。
一、10月21日より家中・市郷ともに上納銀の供出が命じられ、厳格な取り立てが行われた。
一、4月25日、東川田村の藤右ヱ門らが処罰を受け、牢舎や町宅への押し込め処分となった。
一、4月、三沢十郎兵衛の代理に彦兵衛が任じられた。
一、4月20日、秋田源次郎の妻子らが参宮から帰郷した。
一、5月23日、山田織部に対する処罰が下された。主君を呪詛した罪により極刑に処すべきところ、家老の家柄を考慮して切腹および家名断絶が命じられた。妻や関係者は山田八左ヱ門へ永預けとされ、厳重な蟄居が命じられた。同日、山田八左ヱ門は加増を受けて中老に昇格し、織部の旧臣らの処遇についても指示が下された。
一、5月23日、樋口内蔵助が無事に帰宅した。御入国以来178年間で稀に見る珍事であると人々は噂した。
一、6月26日から27日にかけて大規模な洪水(土佐水)が発生し、岩津多介の家が流されるなど甚大な被害をもたらした。嘉七郎は留守であったため伊久郎らが対応にあたった。
一、6月25日、川井・木屋平村の棟付調査にあたり、両村の庄屋および嘉七郎らが誓紙を提出させられた。
一、6月晦日、稲田九郎兵衛が白人宮へ参詣し、緒方政右ヱ門方で昼食をとった。
一、6月8日、明王院境内の弁才天の屋根の葺き替え工事が完了し、遷宮が行われた。
一、11日、品介が逃亡先から帰還したが、その後も再逃亡を繰り返した末、病に倒れ20日に29歳で死去した。
一、富田の御隠居(本頭様)の60歳の祝賀行事が予定されていたが、8月27日に逝去された。
一、11月15日、住友善之巫の養子として三木巫左ヱ門の次男・順蔵を迎えた。
一、9月、高越権現の鳥居の建て替えに伴う祭礼があり、住友家一門から幟や初穂料が奉納された。
一、住友五郎右ヱ門の妻が死去した。
一、2月24日、徳島城下の持明王院など三ヶ寺が不届きにより追放・隠居処分を受けた。
一、12月5日、北島の宥弁が58歳で死去した。
一、12月16日、小川嘉之亟の婚礼が滞りなく調った。
11月26日に「安永」へと改元され、12月16日に布告された。1月1日に高越大権現より御守札が、4日には忌部社より御祓がそれぞれ下賜された。
1月4日、徳島への年頭挨拶のため嘉七郎らが舟で出立し、途中で雁や鴨を狩りながら夜に入って到着し、10日に帰宅した。
1月6日、東川田村の奉公人であった美馬義八郎が長谷川近江公への拝謁を命じられた。
2月29日から3月1日にかけて江戸で大火事が発生し、大名屋敷140軒余りが焼失し、死者は約8千人に達した。
1月1日、高越大権現より御守札が下賜された。4月12日、義微居士が徳島にて死去した。
(※追記)安永8年6月20日、住友善之巫が徳島での療養の甲斐なく、帰途の麻植塚にて死去した。
成心居士が5年間にわたり村の勤めを刷新し、多大な功績を上げて村中が服従した。高越山の野山に関する懸案事項について、3年越しで願いが聞き届けられ、さらに1年半の交渉を経て解決に至った。
9日、丸亀から船で備中国へ渡り、金刀比羅宮へ参詣したのち、18日に帰宅、19日に出府した。8月20日に郡奉行所へ出頭して備中の事象を報告し、24日に伝馬を乗り継いで帰宅した。4月13日から8月24日まで出ずっぱりの業務であり、前代未聞の事態であった(嘉七郎が聞き出して大手柄を立てた)。
9月28日に帰宅。翌29日、忌部宮における相撲興行が近年になく賑わいを見せた。
10月9日、嘉七郎が病気療養のため出府した。
12月14日、明石善兵衛が85歳で死去した。
原典史料には、忌部公事や在地権力と密接に関わった高越寺の歴代住職の動向についても言及が存在する。