阿波の山河が語りかける、もう一つの「忌部」の物語

田口氏と忌部五雲

――森遠・小屋平から吉野川流域へ展開した山岳祭祀・修験ネットワークと忌部公事――

はじめに

阿波の歴史を考えるとき、「忌部」という名称はあまりにも大きく、時には人々の思考を停止させるほどの権威を持っている。「古代忌部氏が一貫して阿波の祭祀を独占し続けた」という単線的な歴史観は今も根強い。しかし、忌部氏、忌部神社、忌部五雲、十九坊、安徳天皇伝承、田口氏、小屋平氏。これまで独立した歴史現象としてバラバラに語られてきたこれらのピースを、四国山地の険しい地形と吉野川の豊かな水系のパノラマの上に置き直したとき、まったく別の巨大な物語が立ち上がってくるのではないだろうか。

本稿は、定説への一つの挑戦的仮説である。中世阿波において覇を唱えた大豪族・田口氏は、源平の争乱で完全に滅んだわけではない。彼らは政治的・軍事的な表看板を捨て、神職や修験という「宗教的ベール」を纏うことで阿波の深山に潜伏し、やがて忌部という最強の権威すら飲み込んで平野部への大逆襲を果たしたのではないか。

史料の空白は多い。しかし、これは敗残の武士たちが数百年という途方もない時間をかけて成し遂げた、壮大なサバイバルと執念のネットワーク再構築の歴史の推論である。足で歩いた阿波の山河の記憶とともに、そのダイナミックな歴史のうねりへ想像の翼を広げてみたい。

一 石井町「桜間」を本拠とした阿波国司――田口氏(桜間氏)のルーツと在地化

田口氏のその後の恐るべき生存戦略を語る前に、そもそも彼らがなぜ阿波・讃岐にまたがる強力なネットワークを持ち得たのか。徳島の人々にとって馴染み深い「石井町の桜間城(桜間氏)」の歴史を紐解くことで、その実像は驚くほど鮮明になる。

田口氏のルーツは、はるか飛鳥時代に遡る。武内宿禰の末裔である阿波真人広純が斉明天皇4年(658年)に阿波国司として着任し、斉明天皇7年(661年)には新羅征討にも加わった。ここで強く注目すべきは、この「飛鳥時代から阿波に勢力を持っていた」という田口氏の歴史の古さである。阿波の歴史といえば「忌部が阿波を開拓した」という伝承ばかりが絶対的な権威として語られるが、実のところ、田口氏(桜間氏)のルーツもまた、忌部伝承に匹敵するほどの古さと深さを持ってこの阿波の地に根を下ろしているのだ。

その後、平安時代の延暦27年(808年)、真人の末裔である田口息継が阿波国司に任ぜられる。本来、国司は任期が終われば都へ帰る。しかし、藤原氏全盛の中央での出世を諦めた彼らは、阿波国へ完全に土着する道を選んだ。彼らが本拠地として館を築いたのが、現在の石井町高川原大字桜間である。

彼らはここを拠点に、吉野川下流と鮎喰川が交わる肥沃な三角州を次々と荘園化し、阿波の行政・物流・情報を完全に掌握した。「田口」あるいは「桜間」を名乗った彼らは、承平・天慶年間(931〜947年)には藤原純友を迎え撃ち、桜間ノ介良遠は勝浦本庄に城を築くなど、阿波最大の勢力へと成長していく。

そして平安末期。良遠(または良連)の跡を継いだ甥の成良(しげよし)が、平清盛の信任を得て四国第一の勢力となり、寿永元年(1182年)正月に阿波守、ついで阿波大輔と称して吉野川下流の沖積平野に君臨した。

つまり、彼らはどこからかやってきた謎の武将ではない。忌部に引けを取らない飛鳥時代からの歴史を背負い、何世代にもわたり阿波の平野部を知り尽くしてインフラを支配した「超・実務家集団」であったと考えられる。この圧倒的な地盤と実務能力こそが、のちに彼らが山岳修験ネットワークとして復活するための最大の武器となるのである。

二 源平の争乱と「裏切り」――冷徹なる生存への布石

この巨大な在地ネットワークを持つ田口氏が直面した最大の危機が、源平の争乱である。田口成良は平家の重要な軍事力として組み込まれたが、戦局が傾く中、屋島の戦いや壇ノ浦の戦いで源氏方へ寝返った。

歴史上、この成良の行動は「不義理な裏切り」として否定的に語られることが多い。しかし、阿波全域に広がる一族とネットワークを抱える彼らにとって、平家と完全に心中することは「一族の完全な消滅」を意味したはずである。

成良の寝返り、あるいは一族内での源平両属的な動きは、誰が勝者になっても一族の血脈と在地インフラを温存するための、極めて冷徹な「リスク分散」であったとも解釈できる。表向きの主要な支族が処刑され断絶していく裏で、彼らは阿波の山間部や社寺の懐深くへ、密かに生き残りの種を蒔いていたのではないだろうか。

三 「神官」とは何だったのか――「田口神社」と呼ばれた大粟神社の政所

源平の激動を経て、表舞台から姿を消した田口氏の残党が身を隠したと考えられるのが、名西山分に鎮座する大宜都比売神社(上一宮大粟神社)であった。彼らは平安時代から南北朝時代にかけて、この神社の宮司を兼ねており、一時は神社そのものが田口氏の名を取って「田口神社」と称されていたほどである。

当時の神職は、単にお祈りをするだけの宗教者ではない。社領経営、地域の徴税、治安維持を取り仕切る「実質的な地域統治者(政所)」である。高度な行政・実務能力を受け継ぐ田口氏にとって、大粟神社の「政所(神官)」というポストは究極の隠れ蓑だったと想像される。彼らは武力を失っても、地域経済を回し秩序を保つ有能な実務家集団として地域に不可欠な存在であり続けたのだ。

四 武力から祭祀・実務への完全な転換

田口氏が壇ノ浦以降にたどった道筋は明確である。彼らは武士としての表看板を失ったが、国司時代から培ってきた「ネットワーク」と「実務能力」という最強の武器を携えたまま、大粟神社の政所(神官)へと姿を変えたと推測される。

武力を背景とした活動から、祭祀や実務を通じた地域社会との関係への劇的な転換。これが、後に彼らが小笠原氏に追われてソラ(小屋平・森遠)へと退避し、やがて五雲や十九坊として再び阿波全域を覆い尽くしていくための、確固たる出発点だったのである。

五 安徳天皇伝承をどう読むか――「母屋」としての森遠、誇り高き聖域

表舞台から姿を消した田口氏が、大粟神社の政所として実力を保ち得た背景には、彼らが密かに維持し続けていた強固な「背後地」が存在したと考えられる。それが小屋平の森遠である。

阿波における安徳天皇の潜幸伝説には、吉野川から穴吹川を遡上し、木屋平(小屋平)を経て、四国山地の主稜線(剣山・見ノ越)を越えて祖谷へと至る壮大なルートが語り継がれている。この未曾有の逃避行を、他ならぬ田口氏(阿波民部重能ら一族)が周到な手引きによって先導したという事実は重い。穴吹川流域の「恋人峠」の哀史を経て、一行は田口氏が用意した安全地帯・木屋平にたどり着いた。

森遠には、平知経らが安徳天皇を奉じて「小屋の内裏」という屋敷を造ったという伝承が残る。さらに剣山の「刀掛の松」で休んで刀を掛け、山頂の「宝蔵石」に宝剣を納め、御輿が祖谷へと入山していった。このルートは実際の山岳交通網として極めて合理的であり、田口氏が阿波の深部ネットワークを掌握していたことを物語っている。

ここで特筆すべきは、彼らの精神性である。彼らは敗残兵として単に山に逃げ込んだのではなく、「我々こそが、源氏の目を逃れて安徳天皇を阿波の深山に無事お隠しし、最後までお守りし抜いたのだ」という強烈な自負が存在したのではないだろうか。森遠の母屋は単なる逃亡先ではなく、平家の一族として最高の忠義を果たした神聖なる「聖域」として意識されていたと想像される。

六 戦略的退却と東宮山・本宮山の「陣屋跡」

やがて時代が下り、阿波に入部した小笠原氏(一宮氏)の勢力が神山盆地へと及ぶと、田口氏と小笠原氏の間で激しい権力闘争が生じた。大粟周辺での地位を失った彼らは、さらに深く険しい四国山地の奥底へと撤退を余儀なくされる。

しかし彼らはただ敗走したわけではない。神山と小屋平を隔てる重要ルート・川井峠を扼する要衝「東宮山(あるいは本宮山周辺)」に、強固な館砦を構えた。現在もこの地域にはその「陣屋跡(陣地跡)」と伝えられる巨大な遺構が残っている。天然の要害に砦を築いて盾とし、追撃を断ち切る。彼らは山奥に逃げ込んだ後も、大粟への奪還の牙を研ぎ澄ませていたと見ることができる。

七 武力からネットワークへの潜行

大粟を失い、陣屋跡の防衛線の内側(森遠)へと押し込められたこの瞬間、かつて阿波を席巻した武士としての田口氏は、表舞台から完全に「消滅」したかに見えた。小笠原氏も、彼らを山に封じ込めたと安堵しただろう。

だが、それは大いなる誤算であった。物理的な武力による奪還の限界を悟ったとき、彼らは恐るべき戦略転換を図る。表立った武力だけに依存せず、修験者や神官という別の社会的役割へ活動の重心を移し、山岳交通路という見えない血脈を通じて、再び阿波全域へと静かに浸透を開始したのだ。森遠・小屋平を起点とする「五雲」の壮大なネットワーク展開は、まさにこの防衛線の背後から産声を上げたのである。

八 「小屋平」と「木屋平」――名称に込められた誇り

森遠という「母屋」に退避した田口氏のネットワークは、いつから「小屋平氏」と呼ばれるようになり、なぜ歴史上は「木屋平氏」として記録されることが多いのか。ここに、彼らのアイデンティティの核心が隠されている。

安徳天皇のために建てた仮の御所「小屋の内裏」。その由緒ある「小屋」と、平家(平氏)に連なる誇りを示す「平」。これらを結び付けて「小屋の平氏=小屋平」と理解する説は、彼らの内なる強烈な自負を見事に表していると言えよう。

一方、公的記録に現れる「木屋平」という表記は、旧来の由緒を表に出さないための対外的な偽装だったとも考えられる。「田口」という覇者の名を捨て、外には「木屋平」の土豪として平伏しながらも、内なる世界においては決して誇りを失わなかった。この強固なエリート意識こそが、山奥で彼らを支え、やがて忌部という権威をも飲み込んでいく原動力となったのではないか。

九 龍光寺と剣山修験――「早雲」形成のうねり

森遠の正八幡神社のすぐ近くには「龍光寺」が建立され、剣山への登山口には「龍光寺別院」が置かれた。これらの宗教拠点が、剣山を目指す修験者と接する場として機能した。

諸国から集まる修験者たちと日常的に接し、彼らの拠点と禊の場を管理し続ける中で、誇り高き小屋平氏の内部で化学変化が起こったと考えられる。外部からの剣山修験道とは異なる、森遠の地理、古い祭祀、旧田口氏のネットワークを知り尽くした「現地の修験者層」が形成されていったのである。

この環境の中から、後に忌部五雲の一つとなる「早雲」が誕生した。武力を捨てた彼らは、剣山という信仰の頂点へ至る「道」と「禊の場」を独占することで、新たな宗教的権威と経済基盤を確立し、雲の如く山岳を駆ける集団へと羽化していったと推測される。

十 南北朝の動乱と「両属」の処世術――三木氏の安堵状

南北朝の動乱期、阿波の山岳武士たちは「南朝方」と認識されがちだが、同じ木屋平を拠点とする三木氏は、南朝方から本領安堵状を得た直後に、北朝方(室町幕府)からも安堵状を得ている。

これは、中世の在地勢力が単なる忠誠心だけで動いていたのではないことを示している。源平の争乱で一族を分けて生き残った田口氏のDNAは、この南北朝期においても、一族存続のための現実的な「両属」という冷徹な処世術として確実に受け継がれていたと言えるだろう。

十一 大粟撤退から「小屋平新左衛門尉」へ――急速な戦略転換

この生存戦略をダイナミックに展開したのが、小屋平氏である。彼らが歴史の表舞台に「小屋平」として登場するタイミングは、大粟神社を追われ山間部へ撤退した時期と符合する。

応安5年(1372)、阿波・讃岐の守護となった北朝方の細川頼之の文書に「小屋平新左衛門尉」の名が現れる。彼はこの年細川方に帰順し、翌応安6年(1373)には細川頼有から種野山大浦の地頭職を預けられている。

大粟からの退却、アイデンティティの再構築(改名)、そして新たな巨大権力への被官化。この一連の生存戦略が、息つく間もなく驚異的なスピードで稼働し始めたのが、この1370年代であった。

十二 種野山の安堵と阿波国内での基盤拡大――巧妙な「二方面作戦」

細川氏から安堵された「種野山大浦の地頭職」。これは彼らにとって、山奥から吉野川流域へ通じる極めて重要な足場(橋頭堡)を合法的に確保したことを意味した。のちに修験や神職のネットワークを豊かな平野部へと広げていくための、絶対的な経済的・地理的基盤を獲得した瞬間である。

さらに康暦元年(1379)の細川頼之の讃岐出陣や、15世紀の小屋平知詮、小屋平知資らの細川氏への従軍など、彼らは阿波での基盤を固めつつ讃岐方面へも活動を広げる「二方面作戦」を展開し、単なる山間部の土豪から広域的な在地勢力へと再びのし上がっていく。

十三 命名慣行が示すネットワークの自己意識と在地支配――「雲」の共有

忌部五雲として、早雲・村雲・岩雲・花雲・飛雲が知られている。彼らが忌部公事が本格化する直前の時期に、具体的にどのような神社の祭祀を担い、権益を握っていたのか。その在地支配の実態を雄弁に物語るのが『寛保三年 神社改』の記録である。

同記録によれば、吉野川水運の要衝である東川田村では「早雲治部」が八幡宮や白人大明神など多数の神社の神主を務め、同族の「中川民部(早雲氏)」が種穂忌部神社や夷宮を管轄していた。一方で、三木家の本拠地である険しい穴吹川上流の木屋平村では、「岩雲大和守」が新八幡宮や正八幡宮、妙見宮など主要な神社の禰宜として在地祭祀を掌握していたことが確認できる。さらに貞光川流域の宮内地区には「飛雲」の墓石が残り、山崎や貞光を拠点とした「村雲家」が存在していた。

ここで注目すべきは、これら五つの神職家が、共通して「雲」という一字を名乗りに持つという客観的事実である。日本の宗教史において、共通の一字や称号(〇〇院、〇〇坊など)を名乗ることは、同一系統・師系に属することを示す明白な命名慣行である。「五つの別々の家がたまたま似た名を持った」のではなく、「彼らが自らを一つの系統・ネットワークとして意識し、それを名乗りで自己表示した」と読むのが自然である。これは、彼らが単なる個別の神官ではなく、巨大な連携体であったことを強く示唆している。

十四 【試論】各家の名称が喚起する壮大なる奪還のシナリオ

ここからは実証を目指す議論ではなく、各家の頭文字(早・岩・飛・村・花)が喚起するイメージを手がかりにした純粋な思考実験である。この一字に込められた意味を阿波のダイナミックな地形と重ね合わせたとき、武力を捨てた一族がどのように平野部を制圧していったのか、その凄まじい展開プロセスが浮かび上がる。

山奥に押し込められた集団が、何世代もの時間をかけ、役割を分担しながら平野部を裏から制圧していく執念の道のりを見るようである。

十五 四大ブロックのマトリックスと巨大在地資本の存在

東の巨大ゲートウェイ(鴨島)、中央の尾根(貞光・山崎)、西の要衝(川田)、そして南の心臓部(木屋平)。「忌部五雲」とは、この四極を繋ぎ、阿波の山間部から平野部へ抜ける情報網と宗教的権威を完全に掌握した「強大なインフラ」そのものであった。そして、この宗教的ネットワークの背後には、彼らを経済的に支え、実体経済を支配する「巨大な在地資本(パトロン)」が完璧なシンメトリーを描いて配置されていたのである。

第一に、西の玄関口である川田には、前衛の防衛者である「早雲」と、高越山修験の大旦那であり小高取である「住友家」や「原田家」が強固なタッグを組んでいた。第二に、東の玄関口である鴨島には、「花雲」の系譜の修験と、同じく小高取・組頭庄屋として商業特権を独占する「川真田氏」が存在していた。第三に、山越えの中継点である貞光には、剣山などのソラの奥山と平野部とを結ぶ強固な結束点である「村雲」の祭祀を支える「折目氏・永井氏」といった小高取階級の巨大資本が集中していた。第四に、南の最深部であり資源生産の心臓部である木屋平には、純粋な祭祀を不動のごとく担う「岩雲」およびその背後に控える小高取格の巨大資本「小屋平氏(松家氏)」と、和紙や木材の実務・物流を担う小庄屋「三木家」などが並立していた。

のちに勃発する「忌部公事」をはじめとする論争とは、単なる神官同士の宗教論争ではない。吉野川流域と山間部の物流・権益を分割統治していたこれら巨大な在地資本が、それぞれお抱えの「五雲(修験者・神官)」を理論的・宗教的な武器として前面に押し出し、国家が用意した「大社」というたった一つの利権の椅子を巡って激突した、阿波在地社会の総力戦(代理戦争)であったと定義できるのである。

十六 「忌部がソラへ入った」のではなく、「ソラの勢力が忌部を飲み込んだ」逆転の歴史

阿波の山間部には、「忌部五雲はソラ(山岳地帯)からやってきた」という強力な伝承がある。従来はこれを「古代忌部が平地から山へ登った」と解釈してきた。しかし、現実は逆であるかもしれない。

武力による支配を失い、山岳修験や祭祀者として生き残りを図ったソラの在地ネットワーク(田口氏系勢力)は、山から平地へと快進撃を続けた。その過程で、彼らは古い祭祀的権威と結び付き、それを自らのものとしていったと考えられる。

「ソラからやってきた」という伝承は、山奥から平地へとネットワークを広げ、新たな祭祀権力として台頭してきた彼ら(五雲)の、極めて動的で生々しい歴史の記憶そのものではないだろうか。

十七 なぜ「忌部」と結び付いたのか――最強の権威の奪取

では、なぜソラから来たネットワーク勢力は「忌部」と結びつく必要があったのか。

地域社会を精神的・実務的に支配し、中央の神祇家と対等に渡り合うためには、「絶対的な権威」が必要だった。阿波において、その最大の権威こそが、天皇即位の大嘗祭に荒妙(あらたえ)を調進したという、古代からの由緒を持つ「忌部」のブランドであった。飛鳥時代からの極めて古いルーツを持つ田口氏系勢力であっても、新たな支配体制の中で確固たる正統性を示すためには、この国家的で神話的な「忌部」の看板は喉から手が出るほど欲しかったに違いない。

彼らは単に騙ったわけではない。実際に優れた山岳祭祀の実務能力と修験ネットワークを持っていた彼らは、既存の忌部祭祀を実質的に運営し、再構成することで、数百年をかけて自らを「忌部の正統な継承者」へとアップデートしていったと見ることができる。

十八 花雲と曽川山――五雲と十九坊の繋がり

阿波には中世以来、天文21年(1552)の『阿波國念行者條驗道法度之事』に「河田下之坊」などが記録されるように、十九坊と呼ばれる修験拠点のネットワークが存在した。その一つに麻植曽川山(現在の吉野川市鴨島町曽川)がある。

吉野川本流から南の山麓へ入り、美郷へと通じる山間部の入り口に位置するこの曽川山を管轄していた修験者こそが、忌部五雲の一翼を担う「花雲」の系譜に連なる者たちであったと推測される。川田の種穂神社、山崎の忌部旧社、貞光の御所神社がいずれも平野部を見下ろす山中や山麓に位置するのと同様の配置である。

地理的・経済的観点から見れば、鴨島および川島エリアは麻植郡において最も商業が集積する最大の都市部であり、美郷を通じた忌部郷へのルートも古くから開拓されていた。東の最大の商業集積地であるこのエリアに修験(花雲の系譜)が配置されていた事実は、彼らが単なる情報の中継役にとどまらず、阿波山間部から平野部へ抜ける「最強の経済的ゲートウェイ(販路)」を面的に掌握していたことを意味する。

現時点では仮説に過ぎないが、曽川山の坊を花雲系統と見ることができれば、五雲=神職、十九坊=修験という単純な二分法は崩れ去る。同じ人的ネットワークの中に、表の顔(神職)と裏の顔(修験者)を持つ者たちが混在していたという、巨大なシンジケートの姿が浮かび上がる。

十九 十九坊と三好氏支城ネットワーク――軍事特務機関としての修験

五雲などの在地祭祀ネットワークの源流を探る上で欠かせないのが、戦国期に存在した「十九坊(念行者)」の広大なネットワークである。天文21年(1552年)に作成された『阿波國念行者條驗道法度之事』(川田村夏蔵院所蔵)には、阿波国内の修験者たちを統制する厳格な掟が記されている。この法度の宛名や署名には「矢野千秋房」「一之宮岡之房」「河田下之坊」などの寺坊名が連なっている。

ここで注目すべきは、これら十九坊の拠点が、畿内を席巻していた三好氏を支える阿波の有力国人の居城と完全に一致している点である。「矢野千秋房」の背後には矢野城主(矢野国村)、「一之宮岡之房」の背後には一宮城主(一宮成助)、さらに吉野川中流域の川島城や岩倉城周辺に至るまで、修験の拠点は三好氏の支城ネットワークと強固に結びついていた。法度には「此人数何様の儀出来候共、注進次第に持飯米にて可打寄事(いかなる事態が起きようとも、緊急の注進があれば各自兵糧を持参して参集せよ)」という軍事動員の規定が記されている。戦国期において城の足元に武装集団が存在できたのは、領主からの庇護と引き換えであった。彼らは単なる宗教者ではなく、各支城主直属の「特務・情報機関」として機能し、大峰や熊野参詣で培ったパイプを活かして畿内の情報収集や傭兵の手配を行い、三好軍団のロジスティクスを担う軍事ネットワークの中核に組み込まれていたと考えられる。

二十 神職と修験は本当に別の勢力だったのか

近世の身分制度では神職と修験は区別されるが、中世の山岳信仰においては、神社、山岳霊場、坊、修験者、旦那、神職は一つの巨大なネットワークとして結び付いていた。

田口氏系の旧来勢力がこの世界に入ったとすれば、一部は神職となり、一部は修験者となり、一部は庄屋となった可能性がある。この視点に立てば、五雲と十九坊は別々の歴史ではなく、一つの巨大な「阿波闇の支配網」の両翼だったと考えられる。

二十一 十九坊の展開――旧田口領への「見えない帰還」

五雲と連動する十九坊(修験ネットワーク)の分布を地図上に落とし込むと、背筋が寒くなるような事実が浮かび上がる。彼らが拠点を置き、ネットワークを張り巡らせた吉野川流域、鮎喰川流域の扇状地は、かつて中世以前に阿波の覇者・田口氏が支配を及ぼしていた勢力範囲と完全に重なるのである。

武力による領土奪還は不可能でも、信仰・祈祷・情報伝達という見えない力を使えば領地は支配できる。彼らは数百年をかけて、修験と神職の姿を借りて、自分たちの故郷への「見えない帰還」を果たしたのではないだろうか。

二十二 細川・三好政権下での共生とネットワークの暗躍

室町から戦国期、阿波の支配者は細川氏、三好氏と移り変わる。ソラから降りてきたこの巨大な在地ネットワークは、新興の支配者たちと敵対するのではなく、したたかに結びつく道を選んだ。

新興の国人領主(城主)たちにとって、民衆の精神的支柱であり、山岳路を通じた高度な情報網を持つ十九坊・五雲の存在は統治に不可欠であった。武力を持つ城主と、情報と祭祀を握る修験・神官。両者は持ちつ持たれつの深い共生関係を築き、阿波の深層で独自の相互依存関係を形成したと言える。

二十三 長宗我部の侵攻とネットワークの壊滅的打撃

しかし、長宗我部元親による阿波侵攻によって、その繁栄は突如として終わりを告げる。

長宗我部軍の圧倒的な武力によって阿波の城は次々と落とされ、細川・三好に連なる国人領主たちは滅ぼされた。この苛烈な戦火の中で、彼らと深く結びついていた十九坊などの修験ネットワークも決定的な打撃を受ける。坊は焼かれ、修験者は散り散りになり、山から平野部に張り巡らされたネットワークは従来の形を維持できなくなった。

二十四 天正期の激動と一宮城の水の手断ち――旧領主の復讐

だが、彼らがただの神官や山伏ではなかったことを物語る痛快な伝承がある。『阿州将衰記』などの阿波軍記や在地伝承によれば、天正10年(1582年)、土佐の長宗我部元親が阿波侵攻の過程で一宮城を攻撃した際のこととされる。

歴史的事実として、同年11月に城主・一宮成助(長門守成相)は長宗我部元親の騙し討ちに遭い、すでに命を落としている。しかし、主君を失った後も、堅牢な一宮城や拠点である上一宮大粟神社周辺には、一宮氏の残党や一族が立て籠もり、激しい抵抗を続けていたと考えられる。この残党が籠る難攻不落の一宮城を完全に陥落させる決め手として、「水の元(水の手)を断つ」策を長宗我部軍に進言し、見事落城へと導いたのが、木屋平知保(きやだいら・ともやす)であったと伝えられている。

ここで一つの大きな疑問が浮かぶ。なぜ山間部に退避していたはずの木屋平氏が、一宮城の地下水脈という軍事上の最高機密を知り尽くしていたのだろうか。断言こそできないものの、これこそが彼らがかつて上一宮大粟神社の政所としてこの地一帯を支配し、神山・一宮の地理の隅々までを掌握していた「本当の旧領主」であったことを示す何よりの傍証ではないだろうか。彼らは長宗我部の軍事力を巧みに利用することで、主を失ってなお抵抗を続ける因縁の宿敵・一宮氏の本拠地にトドメを刺したのだとすれば、まさに数百年の時を超えた旧領主の復讐劇と見ることもできる。

二十五 「大粟騒動」の真実――二つの集団への分裂と「上野介」の逃亡

さらに恐るべきは、蜂須賀氏入部時に起きた「大粟騒動(大粟一揆)」における彼らの暗躍と、一族内部での決定的な分裂である。

蜂須賀家政が阿波に入国して間もなく、木屋平氏の一部勢力が突如として大粟に攻め入り、上一宮大粟神社を襲撃・制圧した。大粟神社の阿部宮司は命からがら隣接する神宮寺へと逃げ込んでいる。

驚くべきはその後である。神社を完全制圧した後、なんと「戦いに参加していなかった残りの木屋平氏」が現れ、襲撃側の木屋平氏を説得して、あっという間に兵を引き上げさせたのだ。そして鎮圧側となった木屋平氏は、蜂須賀家政から見事感状を受けたという。一見すると、一族内の異なる立場を利用して新旧双方の権力に対応する、鮮やかな「究極のマッチポンプ(分散型の生存戦略)」のようにも映る。

しかし、当時の厳しい連座の掟に照らせば、同族から反乱分子が出た場合、一族全体が責任を問われて粛清されるのが普通である。それにもかかわらず、鎮圧側が咎められるどころか感状(恩賞)を得ている事実は、「木屋平氏」と一括りに記録されている彼らが、実はルーツも目的も全く異なる「二つの集団」のモザイクであったことを明確に示している。この分裂の様子は、複数の一次史料を交差検証することで鮮やかに浮かび上がる。

一方は、木屋平に古くから土着し、長宗我部氏の軍事力としても活動していた「生粋の山岳武士の一族」である。『阿陽忠功伝』によれば、この反抗側の首謀者は「木屋平上野介(上野助)」であった。彼らは旧来の武力と誇りを重んじ、蜂須賀という巨大な新権力の進出に反発して力任せの襲撃に及んだ過激派である。なお、同書には上野介が川田から神領まで広範囲を領有していたと記されているが、川田にはすでに強力な住友家が支配を確立しており、これは後世の誇張、あるいは中世的な権益の混同に過ぎない。

この上野介率いる過激派は、説得を受けて大粟から撤兵したものの、おとなしく蜂須賀に恭順したわけではなかった。『阿陽忠功伝』には、上野介は領知を没収され大浦村を立ち退いて「行方不明」になったと記されている。当時、南の那賀郡では「仁宇谷一揆(丹生谷騒動)」が起こっており、両者は山越えのルートを通じて連動していた。大粟を追われた彼らは、那賀郡へと逃れて徹底抗戦を続けていた仁宇谷の一揆勢に合流したと推測される。彼らが最後まで旧来の武力闘争に固執する生粋の山岳武士であったとすれば、この行動も自然に理解できる。

もう一方は、かつて大粟神社の政所を追われ、木屋平へ逃れてきていた「田口氏の子孫たち」に連なる実務家集団である。『住友家記録』には、天正13年の一揆の際、「上野助弟松家伊賀、三ッ木村兵衛之丞同心不仕候に付飛脚を以申上候処」と明確に記されている。つまり、上野介の弟である伊賀や、のちの三木(天田)家のルーツとなる兵衛之丞らは、一揆に加わらず蜂須賀側にいち早く通報していたのである。国司時代から培った高度な政治力と冷徹な計算力を持つ彼らにとって、無謀な武力闘争は大粟奪還の夢想に過ぎず、自らの実体経済を危険に晒す無価値な行為であった。

事実、この時に蜂須賀側に通報・説得に回り感状を受けた伊賀の系統は、のちに木屋平の小高取庄屋となる「松家家」として、江戸末期に至るまでその特権と地位を保ち続けている。この事件は、単一の氏族による自作自演ではなく、血気盛んな在来の武闘派(上野介系)と、実利と生存を最優先する冷徹な実務派(松家・三木系)とが、新体制を前にして決定的に袂を分かった「在地勢力の解体と再編」の瞬間を捉えたものと解釈できる。そして、この時の現実主義的な実務家たちこそが、のちに木屋平の経済を回し、あるいは祭祀を担う五雲へと連なっていったと考えられるのである。

二十六 陣屋跡が語る「軍事と祭祀」の両輪

長宗我部軍への水の手断ちの進言や、大粟襲撃から撤退に至るまでの精密な作戦行動。これらを可能にしたのが、東宮山・本宮山周辺に残る陣屋跡などの遺構が示す、高度な軍事・土木技術である。

彼らは単に山奥で祈っていたのではなく、要害の地に館砦を構え、いつでも軍事介入できる物理的な出撃拠点を維持し続けていた。修験ネットワークの「情報力」と、陣屋跡が示す「軍事力」。この両輪を併せ持っていたからこそ、彼らは阿波の闇の支配者として君臨し得たのではないだろうか。

二十七 すべてが消えた後で――神官「五雲」としてのしたたかな生存

長宗我部の侵攻、そして蜂須賀氏の入国という激動の中で、武力や政治的権力と結びついていた危険な部分はすべて削ぎ落とされた。しかし、ネットワークの最深部にあった純粋な「祭祀」の機能だけは、奇跡的に生き延びた。その後継者こそが「忌部五雲」である。

天皇をお守りした平家の一族としての誇りを胸に、危険な軍事力や機動力を捨て去り、神職という社会的役割を前面に出すことでしたたかに生き残る。これこそが彼らの真骨頂であった。

二十八 江戸時代に「忌部公事」が起こる

そして時代は江戸へと移り、平和が訪れたとき、巨大化しすぎたネットワークは、今度は身内同士で激しい正統性争いを始める。それが「忌部公事」である。

元文年間以降、川田の早雲民部と山崎の村雲庄太夫との間で争いが本格化した。『住友家記録』によれば、早雲側は京都の白川家から書付を得て、山崎側の社殿・鳥居を破却し、寛保2年には正式な裁定を得た。

二十九 なぜ神官同士の争いがここまで激しくなったのか

しかし、争いはこれだけでは終わらない。山崎側の伝承では、村雲勝太夫が早雲民部・式部父子から暴行を受け死亡したとされ、宝暦4年(1754)には早雲氏が山崎忌部神社を焼き払ったという伝承まで残る。(『住友家記録』にはないが、なぜこのような具体的な暴力の記憶が残ったのかが重要である)。

貞光側でも、神宝を掲げて本宮を主張した神職父子が投獄・追放され、神宝が没収された。単なる神学論争では説明がつかない異常なまでの暴力性である。

三十 神額を焼くということ

空海筆と称された神額を打ち砕いて焼却する。それは、相手の「古代から伝わる証拠」と「正統性」そのものを物理的に破壊し尽くすという、強烈な意思表示である。

忌部公事に見られる破壊行為は、神官同士の感情的な喧嘩ではない。争われていたのは、神社の所在地、神職の地位、祭祀権、社地、参詣者、氏子、由緒、経済的基盤のすべてだった。

三十一 「神官の争い」ではなく「在地勢力の争い」として見る

江戸時代の忌部公事は、中世以来の山岳祭祀ネットワークの主導権をめぐる、巨大な在地勢力の総力戦であった。表面上は「どこが本当の忌部か」を争い、中層では「権益」を奪い合い、深層では「誰が中世以来の人的ネットワークの正統な継承者なのか」を巡る、三層構造の闘争だったと捉えることができる。

三十二 「同族間抗争」という可能性

早雲・村雲・岩雲・花雲・飛雲。彼らがすべて田口氏の直接の子孫だという史料はないが、同じ中世的なネットワークから分化した存在だとしたらどうだろうか。

忌部公事は「外部勢力同士の争い」ではなく、同じ歴史と血脈を共有する者同士の「内部抗争」だったからこそ、あれほどまでに執拗で血生臭い争いになったのである。同じ由緒を持つ者ほど、「自分こそが本家だ」という主張を命がけでぶつけ合うのだ。

三十三 忌部公事はそのネットワークの「最後の内部抗争」だったのか

田口氏の敗北から始まり、山岳部への再編、五雲・十九坊の展開、そして江戸時代の正統性争いへの発展。忌部公事とは、突然発生した神社争論などではなく、中世以来の山岳祭祀ネットワークが近世社会の中で分裂し、その継承権をめぐって繰り広げた「最後の激しい内部抗争」のクライマックスだったと推測される。

三十四 なぜ「忌部」という名称をめぐって争ったのか

江戸時代、「忌部」という名称は単なる氏族名ではなく、「古代から続く由緒ある祭祀者である」という地域社会における絶対的な権威となっていた。

数百年の間に、彼らの中では「田口氏系の勢力である」という記憶以上に、「自分たちこそが古代忌部の末裔である」という記憶の方が強烈に上書きされていったのだろう。

三十五 しかし「偽りの忌部」という結論にはしない

本稿は、「五雲は田口氏が忌部を偽称したものだ」と単純に非難するものではない。

中世の実務家集団が、古代から続く祭祀伝統を実際に命がけで担い続けたことによって、自分たちの歴史と忌部の歴史は完全に融合していったのだろう。江戸時代の早雲や村雲にとって、自分たちの家が何代も担ってきた祭祀そのものが「真実の忌部」であった。だからこそ、命を懸けて争ったのである。

三十六 史料の「空白」そのものをどう考えるか

直接的な系図や史料の空白は多い。森遠の早雲家祖先墓、五雲各家の初出、小屋平氏の初出、十九坊の坊主名。これらを時系列で結びつけることが今後の課題である。しかし、歴史の真実はしばしば史料の「空白」の行間にこそ、最もドラマチックに隠されている。

三十七 「田口氏=五雲」ではなく「田口氏のネットワーク=五雲」

田口氏の広域的な人的ネットワークが、政治的勢力の消滅後も神職・修験・祭祀という形で存続し、その一部が五雲として現れた。彼らはかつての在地勢力が失った政治権力を、祭祀ネットワークという別の形で地域社会に見事に残し切ったのである。

三十八 早雲氏の完全なる復活――蜂須賀体制下での権力掌握

忌部公事という苛烈な内部闘争を勝ち抜いた「早雲氏」のその後は、まさに圧巻である。彼らは単に川田の種穂神社を死守しただけではなく、阿波の宗教的権力の中枢へと完全に舞い戻った。

蜂須賀氏に召し出され、藩主の氏神である富田八幡宮の宮司を獲得。11代藩主・治昭の時代には、「早雲伯耆」が全県下に「地神塔」を建立させて農村を教化し、さらには藩祖・蜂須賀家政を神格化する「国瑞彦神社」の創建まで取り仕切った。

かつて小笠原氏に敗れ、山奥へ逃げ込んだ一族の末裔が、数百年後には「新しい支配者」の神格化をコントロールする宗教トップに君臨したのである。これこそ、田口氏から連なる集団の、面目躍如たる恐るべき生存戦略の完全なる勝利である。

三十九 現代に生きる「早雲」――平成・令和の大嘗祭

この壮大な歴史は、過去のものではない。現在も徳島県には「早雲」の姓を持つ人々が全国最多で暮らしている。

そして極めつけは、平成・令和の大嘗祭における「荒妙(あらたえ)の儀式」である。木屋平の三木家が荒妙を調進する神聖な儀式において、祭祀を取り仕切ったのは、富田八幡宮の系譜に連なる早雲家を継ぐ宮司であった。実務を担う三木家(岩雲系)と、祭祀を司る早雲家。数百年の時を超え、かつてのネットワークは現代の最も神聖な国家の舞台で、見事なタッグを組んでその誇りを示し続けているのだ。

おわりに 田口氏は消えたのか――阿波の山河に溶け込み、時を待った者たち

壇ノ浦で田口成良は滅びた。しかし、田口氏の強靱な血脈と人間関係、山岳交通路、そして祭祀ネットワークは決して消滅などしていなかった。

彼らは武力を捨て、神職や修験というベールを被って阿波の山河に溶け込んだ。森遠に残る早雲家の祖先墓、小屋平の岩雲、貞光川の村雲・飛雲、川田の早雲、そして十九坊。これらを一つの地図に置いたとき、「古代忌部の末裔」という言葉だけでは片付けられない、中世からの壮大な逆襲のネットワークが浮かび上がる。

江戸時代、彼らは忌部という権威を巡って神社を焼き、神宝を砕くほどの激しい内部抗争(忌部公事)を繰り広げた。そしてその争いの果てに、早雲氏は蜂須賀藩の宗教政策の頂点に立ち、現代においても大嘗祭の祭祀を取り仕切るに至った。

次に阿波の山々を見上げたとき、あるいは吉野川の豊かな流れを眺めたとき、思い出してほしい。この風景の裏側には、歴史の表舞台から消された敗残の武士たちが、数百年をかけて張り巡らせ、ついに阿波を裏から取り戻した「執念と復活のネットワーク」が今も静かに息づいていることを。