山川町史 神社・佛寺

家政は民心の收覆安定のため神仏を崇敬し、代々の藩主もこれにならった。封建制度と宗教や精神教育は密接な関係をもつが、当時、郷土の神社・仏寺の状況はどうであったか。

高越山と権現祭神をめぐる動向

「阿波志齊料書」によると、蓬龍が天正十九年(一五九一)・文禄三年(一五九四)に高越山へ参詣しており、忠英は慶安元年(一六四八)、高越寺領として名西郡西諏訪村高五拾石,百姓一人を寄進し、同三年参詣している。また寛文十三年(一六七三)東川田村棟附帳高越権現八幡神主の箇所の張紙に、「家政様御入国の節、八幡宮·高越大権現忌部神社(種穂神社)御武運長久御祈禱被仰付云々」とある。当時右諸社の神主は刑部太夫を始めとし、左近太夫・兵部太夫等早雲氏がつとめていた。また高越寺住職は藩命に依った。

高越では寛永の頃、高越権現祭神をめぐり、高越寺側と社家の間に争議があった。前者は蔵王権現勧請を、後者は忌部社中心を主張した。これについて同十七年(一六四〇) 裁決の文書が高越寺有專(第十一世)宛に送られている。「高越権現へ上る神楽銭之義に付(中略)双方申分不明に候、然る上は権現へ上り物悉く住寺取納められ、住寺の手前より銀子五枚寬自今以後每年兵部太夫がたへ相渡す可く云々」、としたものがこれである。これによって寺社の比重が察せられる。高越住職は十二支院をもった別当であり、大きな勢力であったため、かかる決定となったものであろう。

寛文十三年(一六七三)の西川田棟附帳に、「弟子四人・山伏二人・下人四人・高越寺内山伏二人・小家四」が記され、文化五年(一八〇八)西川田棟附高越寺帳に「弟子七人・高越寺里寺一・高越寺家来五軒」となっている。天和元年(一六八一)、東・西川田の庄屋・五人組等川田八幡の遷宮に関し高越寺の同意を願っている。(高越寺所蔵文書)高越寺への崇敬は当時郡の内外から子孫繁昌、現当二世の安楽を祈念して寄附された大磐若経をもってしてもうかがわれる。旧七月十八日の役行者会を十八山詣と言い、国中並びに諸州から参詣群集した。(川田邑名陈志)

八幡神社と「元文の忌部公事」

八幡神社は前代以来、各村氏子の団結の中心であった。八幡は蜂須賀家の氏神であったためその崇拝が特に奨励されたものと思う。瀬詰八幡は松田氏、山崎八幡はもと麻生氏の先祖が神主をつとめていた。川田八幡の神主早雲中務(左近太夫の子)は貞享三年(一六八六) 藩主の氏神富田八幡の神主として召されたため、弟治部がこれに代り、川田両村・川田山・拝村等の神職を継承した。

寛保三年(一七四三)の「神社帳」に、稲穂神社はもと多那穂大権現と称していたが、多那穂忌部神社、更に種穂忌部神社と改められた旨、記している。ここにも多くの忌部伝説をもち、国初当時から忌部神社を私称しておったらしく、更に宝永年間(一七〇四一一〇)の山崎忌部旧社の崩壊はこれを容易たらしめたものであろうか。

「阿波誌」種穂祠の項に元文中(一七三六——四○)山崎・貞光両村の祠官忌部祠を相争い遂に中川式部に命じて此に祭る。とある。享保十三年(一七二八) 藩命による藩内神社調查の頃から、忌部社本末をめぐって山崎の忌部神主村雲庄太夫(麻生氏)と美馬郡貞光村の神主宮内左近が相争った。しかし、寛保元年、共に非議に落ちて放逐され、川田の社を種穂忌部神社と改称、忌部本宮と決定された。ここに忌部本社の神主は早雲氏の手に落ちた。

早雲神職家系図」中、治部の三男中川民部の箇所に次のように記している。即ち、「元り寛保元年に至るまで、同郡山崎村社人、其の外同郡社家当社忌部社社号を奪出し、終に京都美国元へ御遺に相成り、寛保元年に至り右出入夫々御落着の上(中略)山崎村九社之神社其の外の神社、残らず、拝観仕候」、とある。式部は民郎の子である。「川田邑名跡志」もここを本来の忌部神社としている。しかし、この社は前記のように、もと多那穂大権と言い恐らく高越大権現に似合わせたものであり、忌部神社と公称したのは寛保以来のことである。従って社号を山崎側が奪出したというのは実は奪回された事実ではないか。

とにかく、右の決定には民部の術策とその給人たる家老長谷川氏が大いに与ったようで、これに連坐して処分を受けた者も多く、宗教的・司法的な大問題であった。世に元文の忌部公事という。

仏教寺院と一向宗の広まり

西川田村の真言宗福生寺については前にも触れたが、駅路寺として建立されたものである。慶長三年蜂須賀阿波守と署名した定に、「往還旅人の宿泊のため建立せしめたもの故、慈悲を肝要とす可く云々」、と記されている。十石を給された。駅路寺は吉野川の南岸には本寺の外、長善寺・青道寺があった。

明暦三年の東川田村棟附帳に、「高九石三斗九升四合間人百姓いつから寺一壹家西福寺」とある。いつから寺とは一向宗寺の意味である。潮光寺は西福寺の二男友筒の開基であり、、寛文三年(一六六三)の東川田棟附帳に、 「湖光寺の儀は西福寺之小家に相違御座無く云々」とある。当時、わが郷土にも一向宗が拡まりつつあった状況と目されよう。山崎の律宗現証律院は寛政・文化の頃は律行専修の祈禱庵であったが、安政元年(一八五〇)住們快道の時、このように称することになった。文化四・五年の山崎、瀬詰の棟附帳に部屋と記したものが若干ある。こ第三部歷史れは庵である。

修験道と幕府の宗教政策

山伏は修験道という一派の仏門に入った半信半俗の者である。真言宗と天台宗に分れ、前者は京都醍醐の三宝院を、後者は同聖護院を本山とした。明暦の頃、山崎に千手院、東川田に冥泉坊、西川田に勝明院がいた。寛文の蛍、西川田の大善院壹家はことごとく院号をもっていた。当時、東川田に福寿院がいた。文化の頃、東川田に天台宗良蔵院が、瀬詰には宝光院がいた。山崎・瀬詰の山伏はいずれも真言宗であった。

当時の仏教は幕府の宗教政策と密接な関係があった。幕府寛永十四年(一六三七)の島原の乱後、キリスト教の禁圧を強化した。全国民をいずれかの寺院に結びつけ、寺院に宗門改人別帳を作成させ、キリスト教徒でないことを証明せしめた。宗門改は春秋二回行われたが、これは寺院と檀家の関係を深めることになった。また幕府の政策から、 各寺院の本寺・末寺の区別が明確化され、こうして本寺―末寺――檀家の系統は封建社会の階層と同じようなものとなった。そのため僧侶はその学識と相まって、民衆に対して権勢をもつことになった。また寺小屋教育にも当り、山崎の全勝寺等は寛宝年間既に著名であった。

神社・仏寺等の精神・宗教の諸機能が封建社会における郷土の先祖達の精神生活を司り、家族主義や勧善懲悪の封建道徳を培ったのである。