本書『粟の落穂』は、江戸時代後期の弘化3年(1846年)に、阿波国の探求者である野口年長(のぐち としなが/野口老翁)によって編纂された貴重な郷土史・歴史考証の書です。
本書が編纂された当時、徳島藩主の命を受けた吉井直道という人物によって、阿波国の公的な地誌がまとめられました。野口年長は、この公的で正統な地誌を、秋の豊作に美しく束ねられた立派な「束穂(つかほ)」に例えています。
一方で野口は、中世の戦乱などで書物が散逸し、公的な記録からはこぼれ落ちてしまった阿波国の古い事跡や伝承が、このまま塵として掃き捨てられ忘れ去られてしまうことを「口惜しく、もったいない」と深く憂慮しました。公的な記録に収まらなかった歴史の断片を、豊かな収穫の後に拾い残された「落ち穂」になぞらえ、それらを一つ一つ拾い集めるという謙遜と郷土への深い愛情を込めて、本書を『粟の落穂』と名付けました。
序文に「みづから見ありきつゝ考へられし」と記されている通り、野口年長は単に机上で古書を書き写しただけの人物ではありません。自らの足で阿波の地を歩いて見聞し、金石文(碑文や鰐口の銘)や古い縁起などの一次史料と照らし合わせながら考察を重ねるという、極めて実証的な姿勢を貫いています。
失われゆく阿波国の歴史の断片を「種々(くさぐさ)と拾い集め」たその情熱の根底には、今から千年先のちの世の人々が阿波の歴史(千代の古道)を探求する際、本書がその確かな道しるべとなってほしいという、後世の探求者へ向けた強い祈りが込められています。
或る日、野口老翁の家へ赴き、あれこれといつものように昔のことを語り合っていると、「これを見よ」と言って差し出された一冊の書物があった。表書きに『栗(粟)の落穂』と記してあり、この阿波国の事柄について、古書に見えることや、古い史跡が埋もれて今は知る辺もなくなってしまったことなどを考察し記したものであった。
これは先ごろ、吉井直道大人が殿様の仰せを蒙ってこの国の現代の風土記を編纂された頃、老翁もそのことを伝え聞き、あちこちを歩き回って考察し、早くから書き集めておいたものを(吉井に)取り出して提出した際に、散りこぼれて残ったもの(収録されなかったもの)、またその後により多く書き添えられたものであるという。
そもそも昔の国々のことを記した書籍は、風土記をはじめとして多くあっただろうが、みな中世の戦乱で散逸してしまい、今に残るものも非常に稀である。その中で、この阿波国のことについてはどうして片端すら伝わらなくなってしまったのかと、大変口惜しく惜しいことであるので、どうにかして種々の書物に見えるこの国の事柄に関する部分を抜き出してみて、良い手引書(頼り)にしたいものだと長年思っていたところであった。
(そこにこの書を見せられ)私の長年の思いと合致して大変嬉しかったので、そのまま持ち帰って、繰り返し熟読していくと、言い表せないほどの瑞穂や足穂を千頴・八百頴も得られるような(太平の)豊かな御代の恵みは当然のこととして、打ち捨てられ落ちてしまったもの(落穂)を拾い集められた(老翁の)誠実な心は、全く何に例えられようか。
こうして、今より後、我々仲間が古事を学ぼうとする際にも、あちらの畔、こちらの畦と(文献の海を)漁り求める苦労もなく、千代の古い道を歩むための糧(知識)に乏しくなる煩いもないだろう。
ああ、この落穂よ。行く末も、老翁が長生きされてさらに拾い集め添えて、俵や倉に納めるほどになったならば、ただ我々仲間の幸せというだけでなく、公の御調(税・貢物)としても奉るべきものになるだろうと、喜ばしく思う心の一部すら込めきれず、拙い言葉を書きつけて、(借りたこの書を)お返し申し上げるのである。
野口年長 (安政五年没 七十九歳)
神河庚蔵編,阿波国最近文明史料よりー
年長は始め直道と云ひ通称徳兵衛と云ふ、藩士沢十郎の臣なり、助任に住す、国学を本居宣長より続て太平に学び小杉明真(小杉橿邨) 小出清音と略同時の人にして、早雲佐渡守高古(富田八幡及国瑞神社の神官)梶口悦(茶道)守住貫(画師)吉井永蔵(藩士、勝間記の編者)等と実地を踏査して地誌を編纂して廻在録と命名して一本を保存して世に未だ公にせざりしと云ふ。年長与りて力ありとなり。阿波国式社考証合類に弘化五年二月と記して年長の文章を掲げたるを見れば、此の時は在世なるも最早や(年長は長寿の人なりと云も)末年ならん。右阿波国式社考証合類は早雪高古の著書なり、此の書に年長が随筆さをの壱の巻に式社考云々とあれば年長にはか入る随筆もありしなり、其の他、年長の著に蜂須賀氏系譜考なる一冊ありと云ふも編者末だ一見を得ず○或云ふ、年長師事せし人及び友人には歌人あるも、和歌よりは別に楽む所ありて長年没後、蔵書を尽く売却し散じて某地書籍館一部分は東京書籍館にありて東京にて書写し、再び本県に入り参考とせしものありと云ふ。
附記 名東郡早潮村、後藤尚豊の談に本市古物町市原源兵衛、仲ノ町松浦長年、通称宗作は年長の門人なり、明治初年に藩庁にて阿波国風土起編纂の事を記し、長年編纂の幹部を為せりと。
ゆたかなる秋のすさびに賤のをが ひろへるあはのおち穂なりけり
この『落穂』は、吉井大人(直道)が「束穂(つかほ=束ねた立派な穂)」をことごとく拾い集めなさったのに対して、その落ち穂を拾い集め、少しずつ公(おほやけ=藩)の御蔵に奉る余りものの(上に)降りかかる塵(ちり)として払ってしまおうとする形が惜しいとして、拾い集めたものである。
国、郡、郷、村などの名前が、最初はどのような理由で名付けられたかということは、今の世の人は知ることができないと言うけれども、思い当たるままを試しに言うならば、この御国(阿波)を阿波国と言うのは、もっとも「粟(あわ)」がよく繁茂する国であるから名付けたのだろう。もとは阿波郡の阿波島村から起こり、その後、国の名前にまで広がったのだろう。今もこのように、他の村に勝って格別に粟の出来が良いので、昔から同じように名付けたのだろう。
(本居宣長の)『古事記伝』にも「粟国はすなわち阿波国である」としており、粟は『日本書紀』の神代巻にも「粟田」と言い、神武天皇の巻の大御歌にも「阿波布」とお詠みになっており(※注:『万葉集』第三巻にも「春日野に粟種(あわたね)益(ま)しを」とある)、古代において格別に多く作られた作物であるため、粟がよく出来る国であるから、この名があるのだろうと言っている。このように、また『諸国名義考』の説も『古事記伝』によっているのである。
さて、『古事記』に「粟国は大宜都比売(おおげつひめ)と謂う」等々とあり、『日本書紀』神代巻の一書に「下枝に粟国の忌部(いんべ)の遠祖・天日鷲(あめのひわし)の作る所の木綿(ゆう)を懸け」等々とあるのは、「粟」の字が正しい文字である。この(阿波という)字を書いたのも、上代(古代)には多くは仮借(当て字)としてこの字を用いたように書かれたのだろう。ちなみに言うと、『古事記』に「次に伊予之二名島を生む。この島は身は一つ(※注:フタナと読む…)にして面(顔)が四つあり、面ごとに名がある。故に伊予国を愛比売と謂う(※注:この三字は音を以て…)」とあり、これに倣って「讃岐国を飯依比古(いいよりひこ)と謂い、粟国を大宜都比売(おおげつひめ)と謂い、土佐国を建依別(たけよりわけ)と謂う」などとあることによって、土佐泊浦(現在の鳴門市周辺)の「大毛(おおげ)」という地名は大宜都比売の名から取ったものだろう、とある人が言っていたが、どうであろうか。
(たしかに)大毛という地名が大宜都比売に由来するという根拠はありそうだが、そうは言っても、他に何か(確たる)拠り所がないではないか。また、大宜都比売については、同名で別の神がいらっしゃる事については、この『古事記伝』において(本居宣長が)詳しく論じておられるので、その書によって見るべきである。
郡の数は、はじめは美馬、阿波、麻植、板野、名方、勝浦、那賀の七郡であったが、貞観2年(860年)3月2日に美馬一郡を分割して三好郡を置いたということが『日本三代実録』に見え、寛平8年(896年)9月5日に名方郡を分けて東西の両郡(名東郡・名西郡)としたということが『類聚三代格』に見えて九郡となり、『和名類聚抄』に載っているところも同じく九郡である。その後、海部郡を置き、また板野郡を東西に分けて板東・板西の二郡とし、名西・名東郡の中間に以西郡を置き、那賀郡を東西に分けて那東郡・那西郡の二郡として、すべてで十三郡であったものを、寛文4年(1664年)4月、幕府の命令(台命)によって現在の十郡に定めなさったということである。
そうであるから、十三郡であったいつの頃からのことだろうか。『拾芥抄(しゅうがいしょう)』にも「阿波九郡」とありながら、なお板野、美馬、三好、麻植、名方、勝浦、那賀、海部、名東、名西、阿波と十一の郡を挙げており、なんともおかしな書き様である。今の明暦の刊本の(出版上の)誤りなのだろう。「板東郡」「板西郡」については、『源平盛衰記』元暦2年(1185年)2月17日金仙寺観音講の条に「その日は阿波国、板東西に来る」と云う。(※注釈:「西」の字の前に「板」の字を書き落としており、「阿波と讃岐の境である中山の山を越えて南に陣を取る」ということだろうか)。
このように板東・板西と言っていたのを、板東郡・板西郡と言ったのである。また、道乾阿闍梨の『南海流浪記』の治承4年(1180年)2月10日の条に「阿波国板東郡大寺に宿す」と言うので、その頃は板東郡・板西郡と称していたと疑う余地はない。『太平記』第二十二巻、暦応3年(1340年)5月4日の条に「この陣は三木・板東・板西の兵ども云々」と云う、この板東・板西も、「郡」の字はないけれど、板野郡の東西のことである。また、同第二十五巻、貞和4年(1348年)藤井寺合戦の条に「板西・板東みな一家一族ども云々」。また同巻、同年11月25日住吉合戦の条に「板東・板西・藤(藤原)・橘・伴の者ども云々」。また第三十二巻、文和4年(1355年)神南合戦の条に「坂東・坂西・藤家・橘家の者云々」。(これらは)みな、この「坂(さか)」の字は「板(いた)」を書き誤ったものであって、国(関東地方)の坂東・坂西であるはずがなく、阿波国の郡である板東・板西であるべきだ。
よって考察するに、『南海流浪記』の治承4年(1180年)の条には「板東郡の大寺(霊山寺)に宿をとった」と言い、その後の『太平記』には「郡」の字は書かれていないけれども、板東・板西郡であることは疑いない。またこれによって『源平盛衰記』に「板東板西」(※注:原本は東と西の間に『板』の字が脱落している)とあるのも、「郡」の字を省略して書いているのだと思い定めるべきである。このように言うならば、板野郡を東西に分けたのは元暦2年(1185年)より前であると決定できる。
那西郡・那東郡については、木頭村の内瀬(ないぜ)十二社権現の乾元2年(1303年)6月16日の縁起に「阿波国那西郡那賀山御座北俣那伊瀬権現」とあり、また同社に「那西郡日在 宝徳二年(1450年)」と銘のある金口(鰐口)があり、また菖蒲村の五躰王子権現社の棟札に「大日本国阿波国那西郡福谷五躰王子御殿 嘉慶二年(1388年)戊辰十二月」と記してあるのがあって、このように(那東と那西に)分割した郡であることは、乾元2年(1303年)よりも前の分割である。以西郡は古い史料には見えず、永禄3年(1560年)初秋下旬と奥書がある『古城記』、また元亀4年(1573年)3月18日と奥書がある『古城記』などにこの郡名が出ているのみである。
また海部郡は、もともと那賀郡の郷名であったのを、いつの頃に分割して一郡として建てられたのかは定かではない。これは那賀郡の(※恐らく)椿地村の大谷弥勒堂落合庵にある碑石に弥勒菩薩の像を彫刻し、その下に「阿波国海部郡福井里大谷に奉建立す。当山の住人安持が仕える弥勒菩薩。寿永四年(1185年)きのとみ 正月二十八日、大願主 藤原満景 敬白」と彫ってある。これによれば、(海部郡は)寿永以前に(那賀郡から分割されて)建てられた郡であることが知られる。なお、寿永は三年に「元暦」と改元があって、また元暦二年八月に「文治」と改元になったのである。それにもかかわらず、このように「寿永四年」と言い書いているのは筋が通らない(おかしな)ことだが、その頃は都も鄙(地方)も(源平の)戦乱の騒ぎであって、年号が元暦と改まったことも知らずに、そのまま「寿永四年」と言い記したのだろう。
考えるに、『吾妻鏡』の文治三年十月二十九日、常陸国(茨城県)の鹿島社の御膳料に、同国の奥郡を充てられる記録のところに「多賀郡、佐都東・佐都西、久慈東・久慈西、那珂東・那西」とあり、また同書(吾妻鏡)の建暦三年五月七日の条で、勲功の賞を下されたところに「上総国伊北郡 平九郎左衛門尉に」とあり(※割注:伊南郡と)もあるべきなのに無いのは(さておき)、また『神鳳抄』の諸神田注進文などにも、建久四年に在京…とあって「安東郡・安西郡」とあるのも、安濃郡の東西(伊勢国)であるのだろう。これらによれば、那賀郡の分割(のように郡を東西に分けること)は他国にも多くあったと見えるので、那賀郡の分割も、おそらく(前述の縁起にあった)乾元二年(1303年)などではなく、元暦・文治(1180年代)の頃からのことであるのだろう。
さて、(養老令の)「およそ郡は五十戸を超えることはできない。もし五十戸以上余れば、近隣の郡に分割して属させよ。地勢が分割に適さない場合は、状況に応じて別の郡を立てよ。その百戸に満たない者は、他の郡に編入せよ。もしやむを得ず分割すべき場合は、別に記録して官に申し出よ」という制度によれば、このように(郡を)分けたのは、その地を領有する人々が私的に分割したのではないだろう。
この郡を板野郡というのは、古くは板を多く産出した場所であることによって名付けたのだろうか。同郡の板東村に「板が谷」という地名があるのは(※大板・小板などという所もあるとのこと)、やはりこの地などが郡名の発祥地であるのだろう。年長(私)が以前に思ったことだが、「板郡」と書き記して来たものを、延喜式(延喜の制)に「およそ諸国の郡内の郡・里などの名は、並びに二文字を用い、縁起の良い字(嘉名)を取れ」とあったことから、板野郡と「野」の字を加えたのだろうと考え至ったが、人が語っていたのは誤りであった。
『続日本紀』神護景雲元年(767年)の条に「三月乙丑、阿波国板野・谷・大阿波など三郡の百姓が言うには云々」、『日本後紀』嵯峨天皇弘仁二年(811年)の条に「六月戊辰、大僧都伝燈大法師位の勝悟が卒去した。法師の俗姓は凡直。阿波国板野郡の人なり云々」、『日本三代実録』清和天皇貞観四年(862年)の条に「九月二十三日己丑、阿波国板野郡の外従五位下行明法博士・鷦鷯麻呂云々」とある。これら(の六国史)を見れば、延喜の制度より以前に「板野郡」と野の字を加えて書いていた証拠である。上に書いた(私の)考えの通りであるならば、「伊多郡」などと二文字で書くべきだったのに、「板野郡」と言っていたに違いないことになる。「野」の字がどういう理由に基づくものか。この辺りの野へ板を多く産出したゆえに「板野」と言ったのではないか。また「板東村」の名も、郡を分割しなかった以前には「板野村」と言っていたか知ることはできない。すべて古い時代の推測の説に過ぎず、定めがたいことばかりである。
海部郡を、今の仮名で「アマベ」と字書(辞書)には言い伝わっているけれども、これを「アマ」の郡とか「アマベ」の郡とか言ったことはないのではないか。貞治五年(1366年)の那賀郡明谷村・明谷寺の縁起には「海邊(かいふ)郡」と書いてある。この縁起は今あるものは貞治時代のものではないだろうが、ともかく今のように「カイフ」と唱えていたのだろう。『和名抄』の現在の刊本で、那賀郡郷名の条に「海部(布加伊・ふかい)」と訓の注記があるのは、もともと訓注が抜け落ちていた本に、後世の人がその頃「カイフ」というのを聞いたままに書き入れたのではないだろうか。『和名抄』の古い写本を広く検討すべきである。
また他国においては紀伊国に海部郡、尾張国に海部郡、豊後国に海部郡、隠岐国に海部郡があって、みな『和名抄』に訓注「アマベ」とあり、そのうち隠岐国の郡名には訓注が抜け落ちているけれど、同郡の郷名の部分に「安末(あま)」とあることによって(アマベであると)知られるのである。また伊勢国河曲郡、上総国市原郡、筑前国宗像郡、隠岐国海部郡などに郷名「海部」の訓注に「あまべ」とある。丹後国熊野郡、筑前国怡土郡の郷名に「海部」があって訓注が抜けている。
また信濃国小県郡、越前国坂井郡などの郷名に「海部」の訓注「アマベ・無倍(むべ)」とあるのを思えば、この明谷寺縁起に「海邊郡」と書いているのは、「アマムベ」とか「アマベ」とかそのころ言っていたことによってこの字を書いたのだろうと思ったが、『本朝鍛冶考』に「阿波国の氏吉は貝府(かいふ)太郎と号し、数代同じ銘もある。初代は嘉之・延慶年間(鎌倉後期)、また康暦・永徳、また応永年間共に」とあるのを見た。(このカイフという読みは)明谷寺の縁起にも(同じような)姿だったのだろうか。しかし貝府太郎と言ってこの年号を彫った刀剣があるという由も聞こえると思い、定めかねている。
この郡は、寛文四年(1664年)にここ阿波国名東郡へ属するという由などを、名東郡より分割した後の処置であることか(?)そうであったのだろうか。この(名東)郡へ属されたのは遅い時期だと思われ、もとは名西郡からも分割したのだろうか。その理由は、『和名抄』では桜間郷は名西郡であるのに、今、名西郡に西桜間村があり、名東郡に東桜間村がある。
古い桜間郷の名を残しているもので、この辺りが(もとは一つの)桜間郷であったことは疑いない。『類聚三代格』昌泰元年(898年)七月十七日の太政官符に、「名西郡司の解(上申書)に称す。名東・名西の二箇郡は元は一郡であった時、件の職員を置いた。しかし太政官の去る寛平八年九月五日の符旨に依り両郡に分け、七箇郷を名東郡とし、四箇郷を名西郡とした。両郡になったが未だこの職を置かず云々」とあり、その分割の詳しい事を知ることはできないけれども、郡の数を分けたことによって郷の中間を郡境にすることはないはずなのに、現在のようになっているのは、寛文の時に幕府の命令によってお定めになられたからであって、古い時代の議論には及ばないが、昔の分割はこのようであったのだろうと試しに言うのである。
『延喜式』神名帳の名方郡に「天石門別八倉比売神社」がある。この神の名称について人が疑うことはないのだが、少し思うことを言う。あれこれと思いを巡らせてみると、近頃考え得たことがある。この神名は(本来は)「天石門別神御子八倉比売神(あめのいわとわけのかみのみこやくらひめのかみ)」と申す。「御子」の二文字を(神名帳の記載から)省略しただけである。
土佐国吾川郡に「天石門安国玉主天神社」、山城国葛野郡に「天津石門別稚姫神社」などがある。
これらは神号に「天石門別神の御子云々」と見えないが、どういう神名であるべきか。「御子云々」と(明記して)ある証拠の例はある。出雲国意宇郡に「同社坐大穴持御子神社」、また杵築大社があって「同社神大穴持御子神社」、「同社大穴持伊那西波伎神社」、「同社大穴持御子玉江神社」、「同社大穴持海代日古神社」、「同社大穴持海代日女神社」などがある。これらの「大穴持御子云々」とあることによって、「御子」の二文字が無いものも「大穴持神の御子」であることは知られるのである。また同郡に「同社神魂意保日目神社」「同社神魂伊都乃売神社」、同国神門郡に「同社坐神魂子角魂神社」などがある。これらは「神魂の御子」とあって、「御子云々」と(明確に)ある証拠である。
さて、『土佐国風土記』には「本紀、土佐郡に朝倉郷あり。郷の中に社あり、神谷の大津羽羽神、天石門別命、今は天石門別神の子なり云々」とある。さて鈴屋の翁(本居宣長)も、『古事記伝』第十五巻の「天石門別神」の箇所で、この八倉比売の神名を挙げて、「姫と申す神が、どうしてこの(天石門別という男神の)名前を持っているのだろうか」と疑問を呈していた。(しかし以上のように考えれば)「御子」という文字を、古代において省略したのだと見えるのである。平田篤胤大人の説に「手力男神と石門別神とは同じ神の別名である」と言っているのは未発達の考えであるが、それに至る過程で、土佐国吾川郡の「天石門別安国玉主天神社」を、手力男神の別名であるとしているのは、たいそう確かな考えである。
神名帳の名方郡に「天石門別豊玉比売神社」と「和多都美豊玉比売神社」がある。『古事記伝』第十七巻の豊玉比売の条に、「阿波国名方郡に和多都美豊玉比売神社があり、同郡に天石門別豊玉比売神社というのもあるが、これはどのような理由の名前か分からない」と(本居宣長は)疑っていたが、この二柱の神の御名も、八倉比売の例に倣って理解すべきである。特に、同じ「豊玉比売」と申す神名に、「天石門別」と冠したものと「和多都美」と冠したものとがあるのは、いよいよ「天石門別の神の御子」であり、「和多都美神の御子」であるという由を思い定めるべきである。また、神名帳の対馬国上県郡に「和多都美御子神社」というのがあるのを考え合わせるべきである。
『後拾遺和歌集』に、藤原基房朝臣が阿波守になって、また同じ国へ下向する時に、「むつのみの浦」という所で波のうねりを見て詠んだ「古川かみの 浦風としへて よる波は 同一所にか あるねりけむ」とある。今の木津村であることは疑いないだろう。里人が言うには「今の官道との間の地を深く掘ってご覧になるだろう」と。(※地名の読みについて)この清音と濁音を混同して、「こむ」を清音にしたり濁音にしたりして唱える人が多い。私自身が思うに、昔は「むつのみ」と、「む」を濁音にし「か」を清音にして称していたのだろう。歌において言葉の連続によって、上が濁るべきところを清音にし、下が澄むべきところを濁音にすることはよくあることだと。「古川かみ」と言うのによって、そこを「こづのみ」と言う語勢から言うべきかと思うが、「むつのみ」であるというのは、やはり証拠の例もあれば考え定め難いことだろうか。
しかしこの「古川(こがわ)」を、今の「こがは」と言うのを、後世の誤りである由を永井精古が言っている。その説に、「我が国の『木津』を昔は『コヅ』と言った事は古い和歌に見えていて、どこにおいても『キヅ』とは言わなかったと見える。『新撰六帖』に『桃の花さへや弥生のうらのはら 古川の渡に今さかりなり』とあることによって知られる。今の木津川というのは、古いコヅ川と言った事は明らかである。それゆえ、この国(阿波)の木津というのも、後世の誤りである」と言っているのはどうだろうか。そうではあるが、道乾阿闍梨の『南海流浪記』建長元年(1249年)八月の条に「同九日に立ち、引田を越え、阿波大坂、紀津(キヅ)路に至り大いに云々」とあるのだから、その頃(鎌倉時代)すでに「キヅ」と言っていたのであって、後世の誤りでもないのに。精古は『南海流浪記』を見ないで言ってしまったのだろうか。
縁起には「後土御門院の御代、文明年中に、阿州木津神の住人・船戸左衛門尉次正は、生まれつき勇敢で深く仏教を信仰し、最も観音を尊んでいた。この時、応仁の天下の大乱であり、足利尊氏の末裔・義尚が征夷大将軍の地位にあった。思うに次正は細川勝元の家臣であり、戦に出陣する場所は詳らかではないが、しきりに怨敵を滅ぼそうと謀ったものの、その力が及ばなかった。そこで毎月大和国の長谷寺の観音に詣で、悪を払い怨敵に当たることを祈り、一生涯月々に参詣する願いを立てて、怠る心が無かった。ある時、長谷の里人が誤って次正を賊将として捕らえ、首を斬ろうとした。
その夜、観世音が夢のようにお告げになり、長谷寺の住僧の上人に云うには『阿波国の住人・船戸左衛門次正は、敵を滅ぼす意志を持ち、月参りの願いを立てている。お前たちは誤って賊徒とみなし彼を誅殺しようとしている。速やかに里人を諭して苦しみを救い難を免れさせよ。この山に秘蔵している他の一尊の観世音は、当寺の本尊と同じ木から刻まれたものである。この大士(観音)を船戸左衛門に与えて教化し、本国に帰って堂宇を構え仏像を安置し、礼拝供養させよ』と。住僧の上人は急いで里人に告げた云々。船戸左衛門も同じ霊夢を得て歓喜し小躍りし、上人もまた同じであった。次正は本国(阿波)に到着して精舎を建て「長谷寺」と名付け、礼拝敬うことを怠らず、これより和州(大和国)への月参りをやめた。その後、怨敵はついに他の敵によって滅ぼされたという事である。実に後土御門院の文明十二年六月十八日のことである(縁起を省略して引く)」。奥書に「元禄十一年(1698年)戊寅の年、正月十六日、仏…」
日住山(?)の比丘である鉄屋の抄書写(筆写した書)にいう。 さて、大和国長谷寺の観音は十一面観音で、長さは一丈六尺(約4.8メートル)である。(中略)継体天皇十一年の大洪水で、近江国高島郡の三尾前山から流れ出た霊木である。七十年を経て、大和国高市郡八木里の小井門子という女が、この仏像を作ろうとして八木の交差点に引き寄せたが、(完成させず)死んでしまった。この里で三十余年を経て、同じ国管下の出雲臣大水(沙涌法勢・叙書という)がおり、十一面の像を作ろうと同郡當麻の里に引き寄せたが、大水も死んでしまった。
五十余歳(叙書には八年とある)を経て、天智天皇七年、城上郡長谷里の神河浦に引き捨てた。また三十九年を経て(叙書には二年とある)、疫病などが流行したという話を聞き、かの霊木を里人が畏敬した。(中略)あるいは夜の夢に、東の峰に三つの灯り(今の三灯の三峯という)が点り、世に利益をもたらすというお告げを蒙った後、養老四年二月に霊木を東の峰に引き上げさせて庵を結び、十一面の像を作り奉ろうとしたところ、大悲の弘誓(ぐぜい)、我が願いに感応し給いて、この霊木が自ずから仏となっておわしませと、常に祈りつつ、元正天皇六年七月、房前大臣がこの峰に入り給う際に、何を思われたかこの事を元正帝に奏上した。
神亀元年三月二日に宣下があり、香稲三千束を造作の費用として賜わった。未だ事に着手できずにいたが、同六年四月八日、重ねて大和・河内の両国から数ヶ月の正税を賜わり、御衣木(みそぎ:仏像を彫る木)の加持があり、その修行の道慈律師が三日の間に、十一面観音菩薩の像へと、たくみなる匠である稽文会、稽主勲らが(作り)、天平五年五月十八日に開眼供養した。導師は行基菩薩、呪願は義淵大徳である(この供養には異説があり、叙書には神亀三年三月とあり、水鏡には神亀四年とする)。天平元年八月十五日の夜、瑞応(めでたいしるし)があり、忽然として金剛宝磐石が土を裂いて外にあらわれた。大きさは八尺にして、足跡を残す(大意)。右の縁起は、執筆遣唐大使中納言行左大弁春宮大夫式部大輔菅原朝臣某とあり、その書に「玉にふれるごとく」と少し疑わしい記述もあるけれども、かくの如き由緒である。
また、長谷寺験記に云うには、天慶七年正月九日、炎上により大悲の像は煙とあらせ給いしかと(思われたが)、頂上の仏の御首だけは、後の上の方の石上に飛び移り給うたとのことである。正暦二年三月三日、諸堂が炎上し、観音の像はついに灰の中に消え給うた。(験記略に云う。「永承七年八月廿五日炎上、頂上仏の面を梧桐の枝葉の中にみさせ給うなり」と云う。『百練抄』に云う。「永承七年八月廿五日、長谷寺焼亡、観音像灰燼となる。頂上仏は灰中に損なわれ給わず、霊異至るなり。天慶・永承・嘉保等のこの事」と云々)。
さて、先の書によれば、観音の像が焼失したことは四度であり、継体天皇十一年に近江国より流れ出た楠の十余丈あったものから、一丈六尺の仏像を四躯作れば、その余りの木はあるはずがない。しかし、度々の炎上を思い、かつは以前に作られた像の木末(こぬれ:木の端)で作って残しておいたことなどがあり、江戸の青山普陀山長谷寺の本尊である十一面観音の像は、大和国長谷寺の観音の模形として、立像二丈六尺である。御首の中に、御丈四寸の十一面観音の霊像を安置し、すなわち大和国長谷寺の本尊と同木の楠にて同作であると言う。
この寺は曹洞宗であって、むかしは赤坂溜池の上にあったのを、龍雲院といいしものを、天正十二年に今の地に移し、寺号をも改めたと言う。また、相模国鎌倉の長谷村、海光山長谷寺(浄土宗、板東巡礼第四番である)、本尊の十一面観音は長さ二丈六尺、武分春日仏師の作で、大和国の本尊と同木であり、大和国を本とし、この像を末木(すえき)とする。また、堂内に如意輪の像、聖徳太子像、大和国長谷寺開山徳道上人の像等を安置すると言う。
このように木津村の像も、あるいは他国の同木の像であると見えながら、さて木津村長谷寺をむかし「末木」といいしは、大和国長谷寺の観音の像の木の末木で作られた像を安置した寺であるから、このようにという説もある。この木津にある寺であるならば、「木津寺」と唱えるべきであるのに、末木(すえき)に附会して後に「末木寺(すえきでら)」と言うようになったのだろう。井戸村の明照寺を井戸寺といい、立江村の地蔵寺を立江寺というように、その村を称して寺の号のごとく言うならば、末木(あるいは木津)村の末木寺というべきであるが、仮字(かな)使いに「スエキ」の仮字を「末木寺」に当てはめたのだろう。
しかしながら、今の世でさえ仮名遣いが乱れているのだから、ましてや百年ばかり前においては、世に知られた歌詠み人や、「我こそは」と思い誇る識者などの書いたものでさえ、仮名遣いを誤っているのが多く見受けられる。いわんや、法師や里人などの言う言葉に、いちいち疑いを論ずるべきではない。
名西郡矢野村に廣濱大明神と申す社が鎮座している。また、その付近に廣濱名(ひろはまみょう)という田がある。『日本後紀』弘仁元年の条に「夏四月己丑、阿波国人百済部廣濱等一百人、賜姓百済公」とある。百済部廣濱を祀る社であろうと、私の友人である七条清川の考えにあるが、それは事実ではないだろう。なぜなら、また廣濱名という田は、百済部廣濱が作った田であろうか。あるいは後にその土地を領有した人が、かの社へ寄進した田などではなかろうか。
名西郡城内村に曽我氏大明神と申す社が鎮座している。里人は曽我十郎祐成・同五郎時宗(曽我兄弟)を祭ると言い伝えているが、縁起があやしいものである。というのも、年長桜に延喜二年の板野郡田上郷の戸籍に「宗我部(そがべ)」という氏があり、また永禄・元亀などの頃の奥書がある古城記に「蘇我氏」という名も見えるので、その氏人(うじびと)がこの国に住み、その祖先を祀る社ではないだろうか。また、永井精古の考えがあり、その説に云うには、「里人が曽我兄弟を鎮り祭ると言っているのは間違いである。父の仇である祐経を討ったことは称賛すべきであるが、この里に祀るべき理由があるはずがない。
今考えると、孝徳天皇の御世に、蘇我倉山田石川麻呂が大宰帥として、身に罪がないにもかかわらず大和国山田寺において絞殺された。この事件に連座して絞殺された者九人、流罪になった者五人と『日本書紀』に記されている。この流罪になった者の中に、この国(阿波)に来た者がいるのだろう。石川麻呂は実に忠良の士であり、傷み惜しむべき大臣であるから、その氏人の憂いを祭ったものではないか」と。同郡の市楽村に石川大明神というのがあるのも、これと同じ大臣を祀ったものと思われる。照らし合わせて考えると、その社の前にある畑を「石川くぼ」と言うのである。大和国高市郡の宗我に鎮座する宗我都比古神社と考え合わせるべきである。『応神紀』にある石川宿禰を祭ったと言う。この考えも由緒があって良いので、見る人は判断してほしい。
板野郡粟田村に葛城大明神と申す社が鎮座している。天智天皇を祭り奉ると言うが、里人の言い伝えによると、「天智天皇が讃岐国八島(屋島)へ御行の時、この地にお船がかりし、その池の鮒(ふな)を釣らせ給わんとして、御馬にお乗りになり御船より上がらせ給うたところ、御馬の足が藤の蔓に絡まって落ち給い、男竹(おとこだけ)で御眼を突き痛ませ給うた。それゆえ、今でもこの村で馬を飼えばこれを犯す者は必ず祟りがある。また池や溝に鮒は住まず、男竹や藤は生えない。この産土子(うぶすなご)の四村、皆同じだと言う。四村とは、島村・大蒲村・粟田村・(宿毛谷村か?)である。慶長の頃までは粟田村一村であったが、その後分かれて四村となった。眼を病む人がこの社に祈願すれば霊験があるとて詣でる人が多い。また、左屋藤倉十左衛門は旧家であるらしいが、先祖より伝えて突眼の薬を製するのに即効があると言う。これもこの社に故あることではないか。
しかしながら、この社がいつの鎮座であるか伝えはない。往年に社が火災にかかり、古い棟札も焼失したと言う。また社地の小杉の大木数株は、文化の頃の公命により伐採され、諸木一年木理(年輪)一つずつ出来るとして、これを数えると四百八十ばかりであったというから、鎮座はもっと古いであろう。謹んで推察するに、天智天皇を葛城皇子と申し、また中大兄とも申し奉った由縁から、葛城大明神と号し奉るのには、そのゆえんがあるはずだ。『日本書紀』天智天皇の御巻に云う、「六年十一月丁巳朔、この月、倭国に高安城、讃吉国に山田・屋島の城、対馬国に金田城を築く」とあるので、行幸の事も否定はしきれないが、『日本書紀』において、渡海してのち此余の書に出た事はあっても、いずれも讃岐国へ行幸の事は記されていない。古い伝説があったとしても、おぼつかない。
同郡の姫田村にも葛城大明神と申す社が鎮座している。神主は葛城一言主命(かつらぎのひとことぬしのみこと)を祭ると言うが、粟田村の葛城大明神をこの地にも祀ったことに過ぎないのではないか。また、延喜の戸籍に葛城氏の人も多く見えているので、その祖を祀ったものであろうか。また大谷村にも葛城権現と申す小社が鎮座している。これも同じだろうか。おぼつかない事である。かの神社の祭神を、今、某命を祭る由縁を言うけれど、後世の誤りにてかくの如く至るなど、実には某命を祀っているのだろうなどと論ずるのも、いとも思いがけない(浅はかな)ことであり、空き野原に神名を伝え誤って、今さらあてずっぽうの神名を申して歪めている社がどの国にも多いことに触れるにつけ、それを一概の誤りとして咎めようとするよりは、神を尊み敬い奉る心から何かしら考え試みるのであれば、その神々も年長者(氏子)の咎(とが)を許し給うことではないだろうか。
撫養の堂浦に石神というのがあり、人々の心に願うこと、また、病気の時にこの石神に祈って占うことがある。その占いの様子は、この浦の老女が参拝して祈念をし、この石を引き上げる際に、その軽さや重さによって、人々の心に思っている願いが成就するか不成就か、または病気が治るか治らないかなどを告げるということである。百年余り前に、この浦の五郎右衛門という者の妻(または女)がこの石占いを始めたと里人は言うけれども、古くからのことであろう。『万葉集』巻第三に「天地の至るまでに 杖つきも つかずも行きて 夕占問ふ 石をもて 我が宿に 御諸立てて 去なむ」とある石も同一のものであろう。また『金葉集』などに「石癒(いしくすし)」と言うのもこれである。前斎院六条の「逢ふことを 祈る石神の 木綿(ゆう)さへに 我が心のみ 砕きぬるかな」という歌も、「石神」とある上はなおさら同一のものであろう。石神や石占を詠んだ古い歌は多くは見えないが随所に見えており、このことは県居翁(賀茂真淵)の雑録にあるのを、美波留(野口美波留)が補抄において多くの書物を引用して証明している。その書物によって見るのがよい。
天保四年十一月十日、那賀郡江野島村の農家へ行った時のことである。本座敷に入って床の間を見ると、机の上に通常の神棚を置いていて、内には恵比寿・大黒を納めていた。その脇に一つの神像があった。「これは何の神の御像ですか」と尋ねたところ、「表加神(うわかのかみ)である」と言う。「表加神とはどのような神ですか」と問うと、「いわゆる亥子神(いのこがみ)で、先月の祭りに用いることが多くて、この御棚へ納めもせずに祭ったままに置いているのは恐れ多いことだ」と語った。近くに寄ってその御像を拝見すると、座っておられる像で、下に台があり、台も含めて高さは四寸(約12cm)ほどである。御頭には今の世の綿帽子というもののようなものを被っておられ、それが御肩の向かい辺りで広くなり、いささか狭くなって御背中の半分まで懸かっている。左の御手には玉を持ち給い、右の御手を握り給う跡があって、そこにあったものは脱落したままである。
さて、「辛加神」ということは子供が歌うたびに聞いていたが、「表加神」という神はどのような神であろうかと思案していたところ、今この場所において初めて亥子神として祭ることを聞いた。また聞くところによると、大黒島村に戎山という山があり、そこに蛭子・大黒・天神・辛加神を合祀する社があって、この表加神と同じ御像であると言う。その他の場所にも辛加神という神像があると言う。
天保十二年正月二十五日、讃岐国高松の住人である寺井氏の許にて、古文書、古い武具や色々な奇石、古い仏像などを見せられた。その古い仏像の中に、表加神の御像に類似した物があり、「地蔵の類であろうか」などと寺井氏も神像のことを知らなかったので、「私は阿波国において辛加神として亥の子祭りの神となっていることを調べ知っていることがある」と言って、その神像の座像で高さが四寸ほど、御頭に被っているものなどが先の(江野島村の)像のようであって、左の御手に丸い飯の塊のようなものを高く盛り上げて持ち給い、右の御手には杓子のような飯匙(いいがい/しゃもじ)を握り持ち給うている。
よって思うに、江野島村の御像の左に持っていた玉も、玉ではなくて飯(の塊)であったのを、右の手には飯匙を持ち給うていたのが脱落したものであろう。今考えるに、辛加神の「辛」の字は「宇」の字を誤って書いたもので、「加神」は「迦神」として、宇迦之御魂神(うかのみたまのかみ)と同意の神でおわします。『古事記』に須佐之男命の御子、宇迦之御魂神と同神であると記されている。また、板野郡大寺村に国上神社と申す、国大明神として式内にある神社と由縁があると聞こえる。このことを詳しく考え知るために、これかれにその由縁を言う(または「問う」)のである。
『朝野群載』に言う。卜御体(うらのみま)、御卜(みうら)、神祇官。天皇の御体(おんからだ)の御卜のために、卜部等。 四方の国の賓客の政(まつりごと)、風雨・寒旱(かんかん:日照り)の事。 百官人等……(中略)……使者を遣わし、上枝(ほつえ)を祓い清めて奉仕させるべきこと。
また、若狭国に鎮座する若狭比古神、常神。また、越前国に鎮座する気比神、劔神、志比前神、神[判読不能]、井乎神。また、加賀国に鎮座する白山神、気多神。また、能登国に鎮座する気多神、伊須流支比古神。また、越中国に鎮座する鵜坂神、気多神、白鳥神、三宅神。また、越後国に鎮座する大社神、伊夜比古神、河野神、気多神、物部神。また、佐渡国に鎮座する大目神、度津神、引田部神、飯持神。また、丹波国に鎮座する龍神、須岐神、物部神。また、因幡国に鎮座する高野神、大江神。また、伯耆国に鎮座する倭文神、大山神、国坂神。また、出雲国に鎮座する杵築神、河上神。また、阿波国に鎮座する天河別神、大麻神、爾部神、白鳥神。また、讃岐国に鎮座する大麻神、櫛梨神、大水神、田村神。また、伊予国に鎮座する村山神、大山積神、野間神社の神司(かんづかさ)等が、過穢(かわい:過失による汚れ)によって神事に祟り給うことによって、使者を遣わし、中祓(なかはらえ)をもって祓い清めて奉仕させるべきこと。
これらは皆、「天河別神」とある。それなのに、賀茂祐之卿が書いた『祭事記』という書にこの事を引用している箇所には、「天石門別神」とあるのは誤りである。『朝野群載』にあるものを引用したのだろうか、または自分自身で思い違いをしてこのように改めたのだろうか。この天河別神について、永井精古の説に言うには、「天河別神は『朝野群載』第六巻に見えている。この社は今、どこの地にあるとも知られない」とある。
そうであるのに、文化二年(1805年)の八月十二日の夜、私が夢に見たことには、板東村と大谷村との山の奥に「天ツカ(あまつか)」という小高い山があり、古の天河別神社という社がこれであり、後に池谷村へ移し祭って「松童権現(まつわらごんげん)」と言う、と夢に見て覚えたことであるから、あるいは一人の怪しい(理不尽な)言うべきことながら書き記した。
里人の言い伝えには「アマタ堂」といって堂があると云う。田舎の人は宮社(神社)を指して皆「堂」と言う。これこそが、あの天河別神であるはずだ。今の世の中には夢などを人は信じないであろうが、上代(昔)には常にあったことである。池谷村の松童の神が、世にすぐれて神異(奇跡)があためあったことを人は知っている。この夢物語の考えはいかがなものであろうかと思い居たところに、後に考え得たことがある。それは『朝野群載』に言う、「式外神社進合御卜(しきげじんじゃしんごうみうら)」の条である。
延久五年十二月、康平二年六月、延久六年六月、康保二年十二月。 卜部宿禰兼良(うらべのすくねかねよし)が、早く進上させるべきこと、式外神の御体御卜に不入(入っていない)の証文の事、副え進上する証文四通。 一巻:延久五年十二月の陣解文案(じんげのもんあん)。 一巻:康平二年六月の奏案(そうあん)。 一巻:延久六年六月の問文(もんじょ)。 一巻:康保二年十二月の問文。
右は去る三月二十四日の宣旨で、同四月十九日に到来し、右中弁平朝臣従範(たいらのあそんよりのり)が伝宣し、権中納言藤原朝臣季仲(ふじわらのあそんすえなか)が宣を奉(うけたまわ)り、宜しく兼良に仰せて早くかの証文を進上させるべし、謹んで請うところ件(くだん)の如し。卜(占い)において式外神を合御卜(合わせて占う)する条は、これは先例がある。近くは去る延久二年十二月の御卜に鎮座する越後国春日・布河の両社、鎮座する陸奥国国清滝・鳥海の二社、同六年(延久六年)六月の御卜に鎮座する陸奥国浮島・塩竈・鳥海の三箇社、康保二年十二月の御卜に鎮座する紀伊国小野社、康暦四年六月の御卜に鎮座する丹後国須岐社、鎮座する阿波国白鳥社等がこれである。これらは皆、式外(延喜式神名帳に載っていない神)であるけれども、合わせて御卜した。
しかしながら、合わなかった御卜も式には載せず、神社の注や占問文をもって常例とする。つぶさに進上された証文等を見るべきである。そうであれば、兼良がなお祖父の間の文を伝えるのは、もっぱら霊亀の占いの兆しを指すものであり、さらに今の案(考え)ではなく、すでに旧跡によるものである。誠にこのゆえである。すなわち神明を畏れ顕し、公に奉仕することを思うがゆえである。官の裁断を請い望み、前例に任せて裁許されんことを。事の例を注するに依り、謹んで解(げ)す。康和二年六月二日、宮主外従五位下行少祐卜部宿禰兼良[?]。
これによって考えるに、もし「天河別神」という神があるならば、白鳥神社と同じく式に載せない神の中に出すはずである。白鳥神社を出したのは、その他は皆、式内の神社であるからだと知ることができる。その上、大麻神・忌部神ともに大社なれば、天河別神とあるのも大社の「天石門別八倉比売神社」であることは疑いないだろう。(『朝野群載』には)多く「天石門別之神」とばかり言って「八倉比売」の四字を省略している。その頃は「天石門別神の御子八倉比売神」という故に、煩わしいと見えたからである。
『延喜式』兵部式、諸国伝馬の条に云う。阿波国、石隈・郡頭(各五疋)。 (中略:若狭・丹波・丹後…阿波等十五国。上馬は三百束、中馬は二百五十束、下馬は二百束…といった伝馬の規定、畿内・美濃・信濃などの駅馬の規定が引用される)
さて、阿波の郡頭について、式の今の本(写本)に訓注は無いけれども、神名帳の土佐国土佐郡に「郡頭神社」があって「コホリツ」と訓をつけている。この式の今の本の訓はそれに沿っているのではないか。 それによって見れば、駅の郡頭も「コホリヅ」であると見えるが、なお「コウヅ(高津)」と言うのがよろしいのではないだろうか。今の大寺村に高津という地名があり、そこであるはずだ。
〜とある人が言った。「しかし、高津と郡頭とは仮名遣いが違うからどうであろうか。『石隈』はイシクマと呼ぶべきであるが、そのような地名があるだろうか。」 考えるに、大谷村に「イソノ」という地があり、今は「石園」と書いている。これがもし古い駅であって「イソノ」と言っていたのを、後に「石(または小)」の字を「隈」に誤ったのではないだろうか。『和名抄』の郷名部、安芸郡の郷名「養隈」の訓注に「やの」とある。そうであれば、「養隈」とある「隈」も「濃」字を誤った証拠の例がある。そうであるけれども、今より「石隈」を「イソクマ」とし、それを後に「イソノ」と唱え誤ったのかもしれない。よくは分からない。
さて、三十里に一駅の法において、淡路国の福良から撫養に渡り、撫養から大寺村のコウヅ(高津)までの中間にあるべきである。ただ「三十里に一駅」とあるのは、大町一里の法であって、今の五十町一里の法で計算すれば三里半余りである。しかし、撫養から国府までの里程を測って配置したものではないだろうから、この里数にはよらないだろう。また考えるに、淡路国の駅は由良・大野・福良の三駅である。由良は紀伊国からの渡り口、福良はこの国(阿波)への渡り口である。この例によって見れば、古くは撫養に一駅あるべきだろうか、疑わしいことである。
また、延喜の頃はこの国(阿波)からその官道の讃岐国へ通り(抜けてい)たのだろう。郡頭の駅から大坂を越えて讃岐国へ至っていたからである。また『日本後紀』延暦十六年正月の条に「甲寅、阿波国の駅家□を廃し、伊予国に十一、土佐国に十二、新たに土佐国に吾椅・舟川駅を置く」とあるのを見れば、その当時は二駅の他にもあったと思われる。しかし、「駅家」の下に脱字があって、いくつの駅を(廃したの)か知ることができない。すべてこの駅のことは怪しく定かではない。なおよく考証すべきところである。ちなみに言うと、大谷村の石園を駅として考えれば、昔の官道も今の道よりも南にあったのだろうか。
姫田村に木場という地がある。そこから大谷村の石園、池谷村の丸山(世間では土御門院の御陵という)の南から大寺村まで、古い道だろうと思う道があって、里人が「下道(しもみち)」と言っているのは、この事はかの地へ行って考え正すべきである。 また大谷村に伝えて言うには、「かの石園は昔、土佐国殿の船が来給うた所である」などと言うが、何かしら古い事の伝承があって訛って伝わってきたのだろう。それは養老二年から延暦十六年までの間、土佐国へ遣わされる官使はこの石園から出発した所であったから、それを伝えていたのを、後世の人は「土佐国殿の船に乗り給いし所」などと誤り来たったのだろう。
『続日本紀』養老二年(718年)の条に云う。「五月庚子、土佐国が言うには、『公私の便道として土佐を目指す道は伊予国を経由しているが、行程の近遠や山谷が険難である。しかし阿波国とは境界が接しており、往還が甚だ容易である。どうかこの国(阿波)を通路とすることを許可してほしい』と。」
この旨を受けて駅を置いた事は国史には見えないけれども、大方その事を考え合わせると、養老二年から延暦十六年の頃まで八十年ばかりは、この国(阿波国)を通道と定めていたことによって、『日本後紀』に「駅家を廃す」という事があるのだろう。 延喜の制にて考えると、讃岐国へ通道していたのだろうと思えることは上で述べた通りにして、土佐国への通道は、国府から勝浦郡、那賀郡、海部郡を経て土佐国に到ること、今の世のようであったのだろうか。『日本後紀』の「駅家」の下の脱字は、行程のおおよそを計って考えると「六」の字ではないかと一つ考察する。
『続日本紀』天平元年(729年)の条に云う。「十一月癸巳、京及び畿内の班田司を任ず。太政官が奏上するには、親王及び五位以上、諸王・臣等の位田・功田・賜田、並びに寺家・神家の地は改易(交換)を須(もち)いず、便(すなわ)ち本地(元の土地)を給え。その位田は、もし情願(願い出)有りて上(上等な田)に易(か)えんとする者以上は、本田の数を計り、聴(ゆる)しに任せて之を給え。中等な田を以て上等な田に換える者は理に合わず、たとえ聴許(許可)有るも為すことなかれ。民が要須(必要とする)土地は、先ず貧家に給え。その賜田を与えられた人は、先んじて賜例に入り、実地が無い者を見るに、所司(役人)が即ち与え処分せよ。位田もまた同じ。余は令の条に依れ。その職田は、民部預かりにて計りて田数を合わせて給え。地の寛狭(広さ)に随い、上等な田は一分、畿内も一分、外国は開墾に随って収授し、単(ひとえ)に膏腴(こうゆ:肥沃)の地ばかりを求めさせること勿(なか)れ。
また諸国司等、前任の日に開墾せし水田は、養老七年以来、元の加功人(開墾者)を論ぜず、転じて買い得た家は皆悉く公へ還収(没収)し、すなはち土人(地元民)に給え。もしその身がいまだ遷替(交代)を得ざる有れば、通常の定めに依りて佃(つくだ)とするのを聴(ゆる)せ。自余の開墾者は、一に養老七年の格に依れ。また阿波国・山背国(山城国)の陸田(畑)は、高下を問わず、皆悉く公に還(かえ)し、即ち当土(地元)の百姓に給え。ただし山谷の間に在りて、三位以上の陸田は、具(つぶさ)に町段の所を記録して上奏せしめ、それ以外は尽く収めよ。荒地を開き熟田と為すは、両国並びにこれを聴(ゆる)し、勅賜及び功ある者は還収の限りにあらず、並びにこれを許せ。」
同(続日本紀)神護景雲元年の条に云う。「十二月庚辰、阿波国にある王臣の功田・位田を収め、百姓の口分田として班給(分配)す。その土は田が少ないゆえなり」云々とある。昔から(阿波国は)田が少ない国であったと見えるままである。『延喜式』民部式に云う。「およそ山城・阿波の両国の班田は、陸田(畑)と水田を交ぜてこれを授けよ」と言っている。
板野郡宮御内村(みやのみうちむら)の山に鍋倉谷という地がある。古く、土御門院の妃であるお鍋の方が、ここに仮住まいなさった所であるはずだ。と里人の言い伝えにもあるが、もっともなことである。誤りがあるかもしれないので、何ともしがたい地であるけれども、今考えるところでは、同郡板東村の山にもあるだろうという名がある。同大谷村の地にも、字(あざ)にもない「くむ(?)」という所がある。また勝浦郡中山村にもある。また神名帳の大和国城上郡に鍋倉神社がある。地名であるか考えるべきである。
阿波郡西林村岩津に、優れた職人の火打鍛冶がいる。岩津火打として名高く、火打石を出している。麻植郡に隣接している所なので、延喜の昔から麻植郡から伝わって造り来たのではないだろうか。『延喜式』践祚大嘗祭式(せんそだいじょうさいしき)に云う。「およそ神の御田に供える加物(神語雑要加物と同じ)の器の料は、九月上旬に官に申して卜部三人を差し遣わし、三国に遣り、先に大祓をして後に事を行え」とある。
馬一匹、太刀一口、弓一張、矢二十本、鍬一口、鹿皮一枚、庸布一段、木綿と麻を各一斤、堅魚(かつお)と鰒(あわび)を各四斤、海藻と滑海藻を各四斤、酒と米を各四斗、塩を四升(以上は阿波国麻植郡。その神に供える幣物、並びに作具および潜女(海女)の衣料。大人は四人、別に布一。並びに大蔵の物をもって充てる。ただし食糧は当国の正税をもって給し、人ごとに一日米二升。阿波と紀伊は十七日。その物を造り終えたら、卜部が監送して斎場へ。両国に分け付く。ただし阿波国は麁布と木綿を献上する。神祇官に付す。云々)。
阿波国の献上する所は、麁布一端、木綿六斤、年魚(鮎)十五缶、蒜(ひる:英一、根合)漬十五缶、乾羊蹄(干しぎしぎし?)、蹕(?)、鴫、橘子を各十五籠(以上は忌部の作る所)。鰒を四十立、編鰒鮨を十五坩、細螺、棘甲、贏、石華等を並びに二十坩(以上は那賀の潜女の作る所)。その幣は、五色の薄絁を各六尺、倭文を六尺、木綿と麻を各二斤、葉薦を一枚。作具は、鑚(きり)、斧、小斧を各四具、鎌を四丁、鑿(のみ)を十二具、刀子を十四枚、鉋(かんな)を二枚、火鑚(火打ち)を三枚。並びに忌部および潜女等をして程を量り造り備えしむ。云々。およそ紀伊、淡路、阿波の三国が由加物を造り、使者が京へ向かう日、路次の国は道路を掃き清めよ。云々。
また云う。およそ斎服は十一月の中の寅の日にこれを給う。神祇官の伯以下、弾琴以上十三人(伯一人、副二人、神宮主一人、ト長上二人。それぞれ襟は藍錦、袍一領、白袴一腰。人巫部一人、琴弾二人、史生四人、卜部十六人。巫部以下は神服。以上百三十七人)。使部十二人、阿波国忌部五人、神服七十六人。各々青摺の布杉(衫?)を一領。云々、などとある中の「火鑚(火打ち)」であろうか。これかと思うが確証がない、例の試みの推考である。
板野郡折野村に鬼骨寺という寺がある。そこの縁起に云う。「阿州東海山宝持院鬼骨寺の記。阿波と讃岐の二州の境から遠くないところに一区の密場があり、鬼骨寺という。寺の僧が相伝えるには、名は東海山薬師寺という。すなわち我が弘法大師の古い跡である。そしてその自ら刻まれた薬師如来の霊像が存する。鬼骨の呼び名は、思うに中世に成った。深空上人は、浄土専念の宗を広く威光せしめた。建永二年の春、讃州に流罪となった。道中に二匹の鬼がおり、その父母を連れて詣で、上人の船にて、延寿の術を問うた。上人は無量寿仏を念ずることを教えた。四匹の鬼は感悟した。共に棲んでいた岩窟に身を投じて命を絶った。人は瑞雲が起きるのを見た。弟子を遣わして遺骸を収めさせた。これを阿波国司の小笠原氏義秋に葬らせ、ために蘭若(寺院)を建立した。水田若干を割き、もって香火を賑わす。四鬼のためである。
これより俗に鬼骨寺と呼ぶ。云々。涌頓寺の僧が自ら山地を穿ち、歯のようなもの四枚を得た。汚れ朽ちた後も、なお長さは二寸ばかり、広く厚い。これに副える人も皆これを伝え、奇観としている。果たしてそのいわゆる鬼の骨であろうか。昔、軒轅(黄帝)の時、蚩尤氏の兄弟七十二人がいた。後世、地を掘ってその歯を得た。長さ二寸で堅く砕くことができなかったという。太古の世の不思議もあるいは宜なるかな。経書に載るところは必ずしも虚偽ではない。しかし空上人が今を去ることそれほど遠くない時代のことであれば、鬼骨の説は君子の疑義を免れ難い。とはいえ、深山幽谷の異気に感応して産み出された、畏るべき物である。まことに測り知ることはできず、これを信じて疑わない。かつて手厚く論じた者は、よく口に陰陽の功と造化の跡をつけてこれを着せた。鬼を論ずる者は、真に一隅を保守し、通方を見る人である。
かつ、かの(深空)上人は初め黒谷の叡空に従って瑜伽を聴受し、後に中河の実範に遇って入壇灌頂した。天台の法流や事教の淵源をほぼ包括し探索し得た。ゆえに一生の教化の中で、神変無方の事が多いのは、内に三密を了達したからである。何を以てこれを言うのか。釈迦牟尼世尊が成道から涅槃に至るまで、その間神通で衆生を教化されたのは、ことごとく明呪(真言)の力によるゆえである。ましてその他の呪においてをや。ゆえに鬼を済度した因縁は疑うべきではなく、秘密醍醐の露、請来の最も深いものである。この蘭若は山を帯び海に浜(ひん)し、塵や俗世の鐘を絶ちて烟る島や霞を観る。島嶼は万里に浮かんで揺れ動き、赤い島や白い鬼が一碧に沈み、夕暮れには薄暗く、海門の潮騒が耳に満ちる。そして煩わしい山の槐樹の色が目を洗い、厭うことのない庭際には蓮池がある。
云う、これは大師の創設した所である。また清泉がある。上人が鑿(うが)った所と伝えられている。南方の高嶺に出る。四匹の鬼が命を落とした所である。寺の側には八幡大神の祠がある。世に州司(国司)の護神とされている。ゆえに今の使君(国主)もまた踵を絶たず材を賜り、彫飾を繕い完遂した。その本尊薬師の聖容の感応の瑞兆は一つではない。ただ、地が僻遠で民俗が素朴であるため、あえて創記(縁起を書く者)がいなかった。この尊は因地において十二の大願を発起し、世の津梁(橋渡し)となり、衆生の病を救い脱し、苦しみを除き、人天に楽しみを与え涅槃の路を開く。また安養(極楽)を願う輩をして、速やかに阿弥陀仏の国に赴き、蓮華に化生せしめる。常にこの弘慈の功徳が人においていかばかりかと仰ぎ想うたびに、法然として涙を揮(ふる)わないことはない。州の僧が来て寺名を著すことを求めた。筆に縁ること強いるべからず。木石の詞を優にして大略を言う。元禄十五年、歳次壬午、仲秋の日。畏峯の沙門義剛が書く。」
また『略縁起』というのにある。云う。「阿州東海山宝持院鬼骨寺略縁起。そもそも当寺は昔(いそのかみ)東海山薬師寺と名づけて、我が弘法大師が開基された地である。すなわち本尊薬師の霊像が今も存している。中世の建永二年の春、法然上人が讃州に配流された時、当国坂西の山廊から見える岩に住んでいた二匹の鬼がいた。その父母を伴って上人の船に詣で、延寿の術を授けてくださるよう請い願った。上人は阿弥陀仏の画像を取り出し、弥陀の名号を拝み念じさせた。『延寿得楽の法は念仏に如く(勝る)ものはない。お前たちが一心にこの名号を念ずれば、来世は必ず浄土に生まれ、このような金色の光明の姿となり、無量の寿命の妙果(素晴らしい果報)を得るだろう』と、懇ろにご教化されたので、四匹の鬼は共に感涙を流し、この仏像を拝領して坂西の山に帰り、ついに小廊見が巌(ころうみがいわ)に身を投じて四匹の鬼は共に死んだ。
その時、紫雲がたなびき、見る人は皆驚き奇異の思いをなした。上人は船から御覧になって、『これは必ず先ほど来た四匹の鬼が往生する瑞相であろう』と、御船をこの磯に寄せられ、御弟子を遣わして見せにおやりになったところ、果たして嶽の底に身を捨てていた。その時の阿波国司・小笠原義秋は、この事を随喜して寺を修造し、田畑若干を寄附して、四鬼のために香華を賑わしめた。これより寺号を改めて鬼骨寺と名づけ、今でも歯のようになっているもの四枚が昔から伝わってきている。鬼骨の名が虚しくないことは著しい。また、本尊薬師の聖容は、感応の霊瑞が一つにとどまらない。この尊の本誓を聞くに、『西方浄土を願う者が、もしまた薬師の名号を聞けば、命終に臨む時に八大菩薩が来て極楽浄土への道を示し給う』と言われている。今、四匹の鬼の遺骨をこの寺に葬った事は大いにゆえあることである。ああ、鬼趣(餓鬼界)の生を受けた者でさえ、なおこのような強盛な志があって、速やかに転生したのである。ましてや人趣(人間界)の我等が称名の志があれば、無上菩提の正路に導かれる事は全く疑うべきではないのである。」
この縁起は、詳しいものと略したものという(違いの)みならず、異同が広く見られる。このような客縁起に、「坂西山」「小廊見の巌」という山がいまだどこの場所であるか知ることができない。まこと「坂西山」とあるのは、「板」を「坂」に誤ったもので、「板西郡の山」ということであるべきだろうか。さて「鬼の歯」という物が、今もこの寺にあるのを見たが、長さ二寸ばかり、幅一寸ばかりで、形は馬の歯のようになるものが二枚、玉の龕(ずし)に収められていた。そのほかに四枚あるということだ。
この寺のほか、同郡の斎田村の法泉寺に、法然上人の遺物として「角掛の名号」、また「鬼の前三尊仏」、「雲中来迎の図」などというものを所蔵しているという。また、同村の西福寺にも、鬼の歯一枚を所蔵しているとのことだ。四鬼の歯であるならば数多くあるべきことをなぞらえて、この折野村の内、「大河内」という所に「鬼の窟」という所がある。(人工的に)築いたものではない。自然の窟である。里人の言い伝えでは、さあどうかと(定かではないと)言っているというが。縁起に言う「小廊見の巌」は、「板西(の山)」と言うべきであるが、この窟のほかの鬼が住んでいたのだろうか。まことに後世の伝承であるか。それは今は知るすべもない。建永二年の頃の国司、「小笠原義秋」という人は、ほかの記録には見当たらない。
『吾妻鏡(東鑑)』元暦二年六月五日の条に云う。「また加えられる、石清水神領の本寺、八幡宮の神領一ヶ所。阿波国三野田保。右の件の保の所は、当宮の神領として寄進奉るなり。早く少別当任賢をして沙汰し知行(管理)せしめ、保務を祈祷となし、所当の物をもって神事の用途とせしむべきの状、寄進奉ること件(くだん)の如し。元暦二年六月五日、前右兵衛佐源朝臣頼朝」云々。
この「三野田の保」という場所がどこであるか知るすべがない。考えるに、那賀郡の見能方村(みののかたむら)のことではないだろうか。今も八幡宮を産土神として祭っており、八幡宮を祭る村は多いけれども、特にここに思い至る。「ミノかタ(見能方)」を「三野田(みのた)」と書き記したものを、後に「見能方」と書き替えたものであろうか。あるいはある人は「三好郡三野郷であるべきだ」と言うけれど、そうではあるまい。
同書文治四年三月十四日の条に云う。「前廷尉の原頼入道が歎状を奉る。これ去年の弁領、阿波国麻植保の保司の職である。よって使者を遣わすといえども、地頭の野三刑部丞成綱(ののさんぎょうぶのじょうなりつな)が許容しないため、すなわち貢物を空手(手ぶら)にするよしをこれに載せる。当保は内蔵寮の済物(年貢)の運上地である。成綱が固く抑留する間、度々院宣を下されるを終わんぬ。しかれば件の所済を除いて、康頼が半分に分けるべき旨、御書を下さる」云々。
かの「野三氏」が「矢三村」の由縁ではないだろうか。考えるに至る文字は、後に書き替えたものが多くあることである。
『朝野群載』に、封戸を割いて諸社に寄進されたことが出ている。次にその文を云う。奉寄封戸(寄進し奉る封戸)拾烟 印下本 尾張国五烟 播磨国五烟 封内奉寄 石清水八幡宮 天永元年 日 摂政右大臣正二位藤原朝臣 祇園神十烟(阿波五烟、安芸五烟) 北野社十烟(備後五烟、阿波五烟) 賀茂下社十社(尾張五烟、美作五烟)賀茂上社十烟(備後五烟、阿波五烟) 松尾社十烟(尾張五烟) 已上書様効上(以上、書き様は上に倣う)。件の寄文は、摂政の後名書き分け、以下家司等が六社に進めしめられること、これ前例なり。云々。
さて、上の文の祇園社の下に脱字があるのは「阿波」であるべきだ。松尾社の下の脱文は阿波国であろうか、また他国であるか知る所がない。考えるに、正二位の封戸は二百戸なるが、そのうちでこの国の封戸は幾戸あったか知ることはできない。されど、その寄進された封戸の人々は、祇園社、北野社、下賀茂社、上賀茂社、松尾社を祭ったとあるべきだ。『延喜式』に云う。「封戸は正丁四人、中男一人を以て一戸となす。率租(そつそ)は戸ごとに三十束を限りとし、郷ごとに満口二百人、中男の五十人、租稲二千束。もしこの数に満たざれば、通じて国内を計りて埋めしむ」と云う。
さて、祇園社の名は、名東郡に北新居村、蔵本村、上八万村の四社。名西郡に白鳥村、矢野村、左右内村、広野村に二社、阿川村、下浦村、高磯村、瀬部村に二社。麻植郡に牛島村、山崎村、川井村、木屋平村。阿波郡に興崎村、伊沢村、勝命村。板野郡に大松村、東中富村、西分村、宮河内村、粟田村。美馬郡に小貞光村、半田口山に二社、上野村。三好郡に池田村、井内谷に二社、昼間村、芝生村、西庄村。勝浦郡に田野村、小松島浦。那賀郡に大林村、江野島村、石塚村、見能方村、今市村、下福井村、内原村、北岩田野村、小仁宇村。海部郡に久保村。
北野社は、名東郡に日開村、観音寺村、中村、佐野須賀村、芝原村、東名東村、田宮村。名西郡に矢野村、上山村、天神村。麻植郡に素(?)。板野郡に沖島村、榎瀬村、住吉村、徳命村、引野村、星浦、堂浦、北泊浦。美馬郡に郡里村に二社、北庄村。三好郡に清水村。勝浦郡に沼江村、田野村、中ノ郷村、森村。那賀郡に芳崎村、領家村、横見村、古津村、赤池村、学原村、立善寺村、上大野村、宮内村、三倉村、棄野村、椿池村、海部郡に宍喰浦、角坂村、古屋村、浅川村、川長村、東田岐浦。
上賀茂社は、麻植郡に祈山。阿波郡に久千田村。三好郡に賀茂宮村、賀茂村。勝浦郡に宮井村。那賀郡に椿村。 松尾社は、名東郡に東名東村。名西郡に阿川村。阿波郡に山野上村、日開谷村。美馬郡に小貞光村。三好郡に太刀野村。勝浦郡に飯谷村。那賀郡に鮎川村、牛輪村。海部郡に平谷村と記されている。(以上は)寛保神社帳に出たる限りであり、後人の考証の料として書き出した。しかし、この外にもかの四社は数多くあるだろう。天永の昔より発り来たりしも有るべきである。さて、美馬郡北庄村に北野社あるは、もと「北野庄」と言いしにもあらざるか。
『日本書紀』安閑天皇の御巻に云う。「二年五月丙午朔甲寅、阿波国春日部屯倉を置く(春日部はカスガベと読めや)」云々。この屯倉が何所とも知る所はないと言えども、板野郡小春日という地があって、そこに春日明神を祀り、また社のあたりに楠木の老いて十二、三間ばかりなる大木がある。これは昔の屯倉ありし所なりしを、春日部というによりて、春日明神を祭りきたるならむ。そのほかに拠り所もないけれど、古き楠木の、これほど何時とかいう大木はこの国のうちに有ることは珍しく、さはいまたも由縁ある古き地なるべし。またこのあたりの地名を春日というのも、春日明神が鎮座することによつて出た地名にあらず。かく良き地に地名あるべし。『八幡宮本紀』に云う。「御産所の側に生い茂る楠、何ぞその下にて産湯を召させ給ふ。むかしにその木大いに繁茂し、枝葉ことのほか美し。後人これを名付けて湯蓋の森と云ふ。この楠今にあり」云々。この筑前の楠をさして、貝原氏も大なるさまにいわれたけれど、春日の楠木にくらべては大小の差がある。
美馬郡上野村の西明寺縁起に云う。「それおもんみるに、三因仏性とはこれ毘盧遮那の根原であり、法身・報身・応化身の三身は皆、有漏の衆生を度脱(救済)するためのものである。とはいえ、煩悩の霧が深く諸仏の真身を見ることができない。ゆえに、画像を釈画し木像を彫刻して堂塔に安置し、諸寺を建立して僧尼がこれを護る。これが仏法が破滅しないゆえんである。奥の人王四十五代、聖武天皇の御宇、天平の年中に、行基菩薩がこの地に一院を建立しようと欲した。平野の蒼き林が欝々として、前には大河を抱き、後ろには峻嶺を負い、東西が開けており、まことに修行の果を得るに堪えうる。ゆえに勤果山と名づけた。ならびにすなわち弥陀の尊容は、九界の迷途を導かんと欲するがゆえに、称して妙院という。如来浄土の西方に応じ、衆生の鑽仰(あおぎ尊ぶこと)する恵みが日照り耀くがゆえに、号して西明寺という。
その後、数百の星霜を経て、人王八十八代、後深草院の御宇、建長年中に、北条平朝臣時頼公が諸国を歴訪して当寺に来た。この時、住僧の道元は道徳熾盛にして、顕密の法教を呑み、名声は四方に溢れていた。常に西の渓谷の窟中に住んでいた。時頼公はこれを感じ慕い、日を重ねて談論した。いわゆる薪の如く識を奮った。道元は西南の巌下の清泉を汲んで閼伽水とした。この水はもと行基の修行の力による水である。たまたま大旱魃があってもあえて減らず、病人がこれを呑めば病は忽然と除き癒えた。道元がその由を語ると、時頼公は深くこれを貴重視し、再三泉源に至って読経して去った。鎌倉に還るに及び、公は西明寺を諦(あきら)めきれず、入道の道崇は道元を追思し、種々の珍宝を賜った。かつ大島庄内の二村を道元に添えられた。これより鎮都ならびに所持の金剛鉢・五鈷を自然と得て謝した。公の聴政は、弥天山常光院最明寺である。伽藍は日に盛んとなり、大いなる法燈は光り耀いた。
命なるかな、盛衰は定まらず。三好家が寺領を失うに至り、伽藍は漸々朽ち損ない、屋根瓦は桃李を伴い、棟梁は煙に乱れた。柳や楓の落葉に全き愁いを友とし、朽ちざる木を択んで、寺堂をその西岸に移し、本尊を安置して香燈を奉献し、仏恩を眷(かえり)みたのである。時に永禄八乙丑(1565年)秋八月望、幼住の快弁がこれを記す。」
この縁起は永禄八年に書けるか疑わしきとみあり。されど「大島庄二村」というのは大島郷のことにて、古き伝説のありしならんと思へど、今何所とも考える所なし。後世の考証の料として書き出せり。
那賀郡中庄村峯正寺の北に穴観音というあり。俗には小塚穴の大きなるものにて、そのうちに観音を安置し、この穴をかたどって堂を作り、寺の伝承ではこれを「弘法大師の一夜建立」などと言っている。しかし、この塚穴というものは葬地(古墳)であるはずだ。古いものはそのような造りもあるはずだが、空海よりも新しい横穴式石室などに、この大石を用いて築き立てて造った様子は、一夜にして数多くの人夫を使役した造り方であるはずだ。この穴に限らず、「弘法大師の一夜建立」ということは、世間で多く言われる(俗説の)ことである。
『延喜式』民部式に云う。「およそ但馬、紀伊、阿波等の国には位田(いでん:位階に応じて支給される田)を置くことを得ず」というのを、どのような理由によって置かないのであろうか。今のところ考えが及ぶところがない。
『日本書紀』履中天皇の御巻六年の条に云う。「二月癸丑、鯽魚磯別王(あどいそわけのみこ)の女(むすめ)、大姫郎姫(おおひめのいらつめ)と高鶴郎姫(たかつるのいらつめ)を召して后宮に入れ、並びに嬪(みめ:側室)とした。ここで二人の嬪は、常に歎いて『悲しいことだ。私たちの兄の王は何処へ去ってしまったのか』と言っていた。天皇はその歎きを聞いて問い、『お前たちはなぜ歎息しているのか』と尋ねた。
答えて言うには、『私たちの兄、鷲住王(わしずみのみこ)は、人となりが剛力で身軽です。これにより、一人で八尋屋(やひろや:大きな家)の屋根を走り越えて遊び歩いています。既に幾日も経ちますが、直接言葉を交わすことができません。ゆえに歎いているのです』と。天皇はその剛力を面白く思い、使いを遣わして召し出そうとしたが、参上しなかった。また使者を遣わして召したが、やはり参上しなかった。常に住吉の村に居た。これより以後、召し出すことをやめて求めなかった。これが讃岐国造(さぬきのくにのみやつこ)、阿波国脚咋別(あわのくにあくいわけ)の、およそ二族の始祖である。」
この「脚咋(あくい)」に、今の写本では「アシク」と仮名をつけている。「シ」は「アク」と読むべきであるから、これは今の「鮎喰(あくい)」のことだろう。「アク」という地名も、今の西名東村の内にわずかに地名として残り、また上鮎喰、中鮎喰、下鮎喰、鮎喰川などと言って大字(大きな村名)ではないけれども、『日本書紀』の「脚咋別」があるのはこの地であるはずだ。ある説に、「高崎村に和気分(わけぶ?)という地名があるから、脚咋別というのはこの地である」という説があるけれど、「脚咋」という地名であって「別(わけ)」というのは古代の部族(身分称号)であるはずだから、この説は承服しがたい。また古い郡村帳に「鮎喰原村」というのを見たことがあるならば、考えるべきである。
ちなみに言うと、里人の説に「この鮎喰川の年魚(鮎)はとりわけ味が良い。天正の頃から『鮎喰』と名付けたのだろう」と言うけれど、この説も近頃になって出てきた事だろう。その理由は、天正からこちら(近世)につけられた名ではない。「アユク」と言うべきところを「アク」と言うからには、年代が近い頃の名とは思われない。また、「鮎」の字は(中国では)ナマズであってアユではない字形だと言う人もいるけれど、『和名類聚抄』などにも鮎の字をアユに当てているのは多く用いられている。用いる文字であるから、(字義について)もっともらしく論ずることは無益な事である。