史料解読 現代語訳

原本『異本阿波志 1』

序文と『阿波記』の成立

この手紙(文章)があったのは、今の明治40年よりは昔の年を経て、世間はすっかり昔のことになってしまったが、掘り起こしての呼びかけであろうと見えた。そのように定めたことの証しを後になって書き残してあるためである。

同じ別れを歌に詠んだこともますます感慨深い。とはいえ、二十余年も昔の人に向かって直接事情を聞きたいと思い、珍しく書き留められたのである。後になって振り返って見れば、ひときわ面白く思われる。

村の内にいる従兄弟と久しく親しくなったことを言い、集まってまた大きないびき(または深いため息)をして眠り難いのはその一つであると、手紙の契りになぞらえて、思いを晴らして手紙の筋を追うこともある。

次々と書かれていることはどこまでも穏やかであるのを見て、推し量って「後には良く、今はどうだろうか。しかしながら惜しいことだ」と今言うようになっている。見る人は面白く読んでほしい。

神無月二十四日の日 後藤豊尚

『阿波志』および『阿波記』の構成

もとより阿波の事を説くこと、左の通りである。

右の五巻は、どれを最初の巻とも定め難いが、仮に目印である△□◇の印のいずれかへ集めた時、項目の初めにその付した印を置いた。ただし、左に言う二巻として一つに収まり、雑記と郡村の部とをすべて分けた。かくして雑記は阿波国内で扱う文書である。本書に古書を引用して載せている所の多くは、初めと終わりの文字を五、六字記して「云々」と書き、原書のように記されている。

阿波国の概要と撰述の背景

そもそも阿波国は、東南に広々とした海を前とし、西北は険しい山々を後ろにして、気候は穏やかで暖かく、五穀豊穣の地である。城がそびえ立ってその中にあり、朱雀・玄武・青龍・白虎の五徳に相応する、万代不易の地である。神社仏閣や武士、多くの民がその四方に連なり、工業・商業の様々な職業の人々が町や路地に満ちあふれて賑わっている。

古跡は多いといっても、それを知る人は稀になってしまった。私は仕事の合間に、このように古い記録を見ることに詳しいわけではないといっても、常に好んで読んでいる草紙の中から抜き集めて「阿波記」と名付けた。

しかしながら、そのつたなさを恥じて、人から見ることを恐れて、ある日、富田という親しい友人が私の所を訪ねてきた際に、これを見て言葉を交わした。その間、いくばくかの誤りを直して、追記をした。楽しみであることだ。

宝暦七年 丁丑 夏六月 宇野直重 書

阿波国の名所旧跡と地誌

鳴門の海流と和歌

阿波の鳴門は世に名高い。水門の東を淡路、鳴門のその間の海路。南海から北海へ往来する潮流はたいそう激しく、波は荒々しく、険しい岩がある。その名に、恵美須島、飛島、釼ノ口、孫崎ノ端。(日本紀に「鳴門及速吸名門」、林崎に「一条禅閣の筆記に曰く」とある)。

『土佐日記』には「土佐の帰りに舟を寄せて夜中に小舟を出して、波の音をひたすらに聞きつつ、夜を明かした。西の東も見分けないほどに、神仏を祈りつつ待った……」とある。

「鳴門より舟出されぬ……」(和泉式部集)

「世の中を渡りくらし今ぞ知る……」(清少納言)

「淡路島 瀬戸の追風……」(新後拾遺集)

「君が代を追ふとて……」(千載集)

「音に聞く 鳴門の浦……」(新千載集)

など、海士や鳴門の激しい波、阿波と淡路の距離の近さを詠んだ歌が記録されている。

磯崎の松と伝承

里浦の海辺の松原を言う。東南の方角に、鳴門に向かう淡路島の沖の海上に三里ほどある。名勝の地として有名である。

ある書物には、人王八十二代・後鳥羽院の御世、三月十八日の柿本人麻呂の縁日に、藤原実信卿が里の浦の人麻呂の絵をお描きになり、これを里の海人が珍重し伝受したとある。今も磯崎の一本松の大木がある(松は枯れて八、九十年以前に植え替えられ、今も一抱え余りの太さがある)。

また、清少納言が四国へ下った時にこの所に留まったといい、清少納言の墓がこの所にあるとされる。

古墳と名士の墓碑伝承

ある説には土御門院の御陵と言い、ある説には清少納言の墓と言う。また、里人の伝えでは海士の墓とも言うとのこと。土御門院のことについては、『阿波羅記』やその他に皇居の地は木屋平であるべきとある。

清少納言については、玄旨法印の『百人一首の抄』に「清少納言は老後には落ちぶれたものである」と言う。『扶桑拾葉集』の清少納言の系図に「老後漂泊して筑前で亡くなった」と言う。考えるに、清少納言がこの浦にさまよい来たことは誠にあったのだろう。しかしながら、終焉の地とする事の明確な証拠はなく、覚束ないことである。

『春曙抄』に、誓願寺にて出家し、帝のお顧みも蒙らず身罷り、往生を遂げて、かの寺に墓もあると『誓願寺記』に見えると言う。

西行法師の修行と詠歌

西行法師が四国修行の時、この所にて詠んだ。(ある本には伊予と言う。ある本には伊予にて)

「縁に引かれて来て見よう。里は海人の面影が残る磯崎の松よ。」

『山家和歌集』「畏れ多い死出の山路の勝見であることよ。またいつ来てと思う心に。」西行

「帰り行く人に心を思うにつけても、そなたへ行き難いのは都であったよ。」

西行袈裟掛石: 八幡宮の森の南の山際にある。西行法師が袈裟を掛けた石と言う。

その他、後鳥羽院、定家卿、元可、隆祐、長明、実方朝臣などの、海士や浦を詠んだ和歌が多数収録されている。

海人の屋敷跡

里浦八幡宮の森の東に並んで、「海人の屋敷跡」ということで樹木が生い茂り、南北の木陰に古い井戸がある。小さな石を積んで、深さは一丈ばかり、底に水がある。ある年、長院殿がこの地を御遊覧された時、原安適が御供をして和歌を詠んだ。

「田となっている昔のこの跡で稲を拾い、心ある海人はしきりに昔を思っているだろうか。」

阿波国内の名所一覧

〇粟飯(あわい)
粟井大明神がある。
鍋島
北の山ぞ、鍋を伏せたようである。「打ち寄せる浪に粟飯を炊いているのだろうか、塩煙が立ち鍋島が見えることよ。」紀貫之
阿波井、御幸の松、鏡山、木津神の浦
『名所題集』に、木津神の浦は今の木津浦であるとある。この所は初め馬目木明神と言った。
袴腰
木津山に袴腰という山がある。
阿波山
眉山とも言う。『万葉集』に言う。「眉の如く雲居に見える阿波の山をめがけて漕ぐ舟は、泊まる所を知らないことよ。」船王
吾能邊山(あのべやま)
矢野村にある。神社がある。松尾大明神、八倉姫神。「雲のかかっている八倉の里の吾能邊山、その下津磐根に宮柱を太敷き立てたことよ。」
数皆(すかい)の森
下庄村の森にある。古歌にある。「里に馴れて何度も鳴くホトトギスよ、数皆の森の杉の梢に。」
桜の池、高和の浦
この二か所も名所である。桜の池は桜間村にある。高和の浦は、四つきの所かしら波。(考えるに、井ノ戸村の北に高輪村がある。この所は高輪の浦ではないだろうか。)

土御門上皇と後嵯峨天皇の阿波遷幸伝承

木屋平の御陵と伝承

土御門院の御陵。木屋平村にある。新八幡宮と号し、今、氏神として崇めている。この帝は承久の乱において土佐の畑へ流されなさり、その後、阿波国へ移りなさったとのことである。

中村山の内に東護城といって古城の跡がある。世間では、嵯峨天皇が籠りなさった所と言い伝えている。この説は誤っており、嵯峨天皇が左遷されたといういわれはない。間違いなく土御門院の皇居の跡であるべきである。

右の村の内に、子捨嶽という所がある。御后が帝の御跡を慕い、皇子を抱いて来られたけれども、お体が疲れ、難所を越えがたく、皇子をお捨てになった所だと言い伝えている。また、木山に極楽寺という真言宗の寺がある。かの寺に御后が参籠なされたという旧跡が今もある。

上山村にて崩御なされたと言い伝えて、麻絹名と名付けた村がある。東護城にて旱魃の節、村民が雨を祈ると、たちまち験があった。 『百錬抄』に、「寛喜三年十月十二日、帝、阿波にて崩ず」とある。 ◇古墳。ある説に土御門院の御陵と言い、ある説に清少納言の墓と言う。また、里人の伝えに尼の墓と言う。

史料にみる配流の記録

考えるに、帝が阿波国におられたのは、貞応2年から寛喜3年に至る9年間であり、その皇居は斎の地であったのだろうか。麻植郡木屋平村に新八幡宮と号してお祀りする社がある。これは土御門院の御陵であると言い伝えられている。また、中山の内に東護城といって古城の跡があり、一説には東官城ともいう。

後嵯峨天皇の養育と王位継承

世間では嵯峨帝王が立て籠もられた所というが、考えるに、これは後嵯峨院と誤っているのだろう。後嵯峨院は土御門院の第二の皇子で、御諱を邦仁と申し上げ、土御門上皇が遷幸された後は、土御門大納言である源通方が外戚として親しみがあったことによって養育し申し上げた。18歳の時に通方が亡くなった。そのため、祖母である承明門院のお許に移られ、ひっそりとした御様子でいらっしゃったところに、関東の計らいということで、仁治3年に皇位にお就きになられた。この時、御年23歳であった。

後嵯峨院がまだ皇位にお就きにならないうちに、思い立って当国にお越しになられたのだろうか。または、上皇の御后が御跡を慕って、皇子を抱いてお越しになられたと言い伝えられており、右の村の内に小子捨嶽という所がある。 三ツ木山に極楽寺という真言宗の寺がある。その寺で后がお亡くなりになられたといい、墓が今もある。上山村に絹をお織りになられたと言い伝えて、麻絹名という里がある。

上皇崩御の時(新院 仁治元年12月)、また、三好郡山城谷に御別宮というものがある。御神体として土御門上皇の御扇を祀る祠である。長久保氏は、その先祖が承久の頃、土御門上皇が阿波国へ遷幸された時に随侍した、久保鶴王という者の末裔である。右の言い伝へをもって考えるに、木屋平の辺りに皇居があったのだろう。

承久の乱と三上皇の配流

御年37歳。後鳥羽法皇の第一の皇子であり、中ノ院とも申し上げる。あるいは土御門院とも申し上げた。 承久3年3月、不本意ながら皇位をお譲りになられたことへの御恨みが深くあらせられた。そのため、不敬の志ということでこのように配流されることになったのであるが、関東からもとやかく沙汰に及ぶことはなく、都にいらっしゃった。

土御門院が仰せになられたことには、「承久のことについては、その恨みは深いというものの、人間界に生を受けることは父母の恩である。それなのに、一院が配流所にいらっしゃいながら、我が身が都で安らぎ暮らしていることは、いよいよ不孝の罪が深いことである。同じ遠国に棲まおう」と、九条禅定殿下ならびに右大将公経に仰せ付けられたので、この旨を関東へ仰せ遣わされた。左京権大夫義時以下の人々は驚き申し上げて、「この上は力に及ばない」ということで、同年10月10日、土佐国へ遷幸することと定まって、土佐国にお着きになられた。

しかし、お気に召さない旨をお申し出になられたので、阿波国へお移りになる道中、阿波と土佐の両国境の中山にて、にわかに大雪が降りしきった。前後の道も分かりにくくなり、御輿を担ぐ者も歩み進めることができず、身分の上下の者たちが行き悩んでしまったため、御輿を下ろして留めた。どうなるのだろうとも分からない中、院は御涙にむせばれて、

「このつらい浮世に置かれたままになるために生まれてきたのだろうか。いや、そうではあるまい。とめどなく流れる私の涙であることよ」

年記と各種記録の対照

『百錬抄』には、「寛喜3年10月12日、土御門院が阿波国にて崩御(御年37歳)」とある。『五代帝王物語』には、「10月崩御」とある。『東鑑』には、「寛喜3年11月4日、阿波院崩御の旨を伝える飛脚が、京都より下向した」とある。

順徳院の御治世、頼家の子である公暁が、刺客を用いて実朝を殺す。北条氏が執事として将軍を立てようとした。後鳥羽院は勅命を下して、武臣の執事をやめさせて帝都に還附し、王命を受けて執行すべきであるとされたが、北条は承知せず、承久の乱が起こり、後鳥羽院を隠岐へ、順徳院を佐渡国へ、土御門院を土佐国へお遷し申し上げた。

◇新八幡宮: 「木屋平ヱドウ」と云う所に御鎮座する。これは土御門院を祭り申し上げるのだと云々。

阿波八景: 超叟、黙宗、銕崖、寂水、丹舟、南山。この六僧が定められたということだ。
泥島帰帆 / 沖洲夜雨 / 畑山暮雪 / 松岩晩鐘 / 沖浜落雁 / 別宮夕照 / 津田秋月 / 粟津晴嵐

細川氏・三好氏の興亡と中世阿波の城郭史

勝瑞城と三好家の台頭

当城は清和天皇の十六代・細川形部太輔讃岐守頼春が、暦応年中に足代将軍尊氏公より四国の大将軍に据え置かれて以来、代々細川家が連綿としてこの城に居住し、四国を治めた。

天文のころあい、細川讃岐守持隆の時に至り、足代将軍の権威は衰え、従臣が権力を専らにして命令や行いに背き、天下は大いに乱れ息み、国々は諸侯・領主が私的に闘争した。持隆は貪戻にして、三好家の権威が強いことを忌み嫌い、三好豊前守義賢を亡き者にしようとした。その企てが露見して、かえって義賢のために見性寺において自害し、法名を徳雲院殿截劔大居士とし、大六寺に葬る。その後、この城は三好家の居城となる。

矢野城と木津城の合戦

矢野城: この城を矢野駿河守の居城とする。天正七年十二月二十七日、勝の城主・武田上野介、岩倉の城主・三好山城守の子息である三好徳太郎、三谷の城主・塩田左馬助入道、一同、これらの人々は三好家の恩顧を忘れ、土佐方へと一味し、謀をもって駿河守をすかし寄せ、脇の城において加藤主水正が駿河守を討つ。矢野伯耆守の子息・備後守は、天正十年八月、長曽我部元親と合戦し、中富川にて討ち死にす。

木津城: 当所は篠原肥前守入道自遁の居城である。この人は、三好家譜代の良き従者であったといえども、天正のころに三好家が衰えるのを見て心を変じ、土佐方へ一味し、その後この城は土州からの押さえとして、東條関之兵衛を大将として軍兵を添え、また駐留させた。

天正九年秋、存保と元親は中富川にて戦う。存保は敗北して勝瑞の城に引き退く。元親が進んで攻める時に、風雨洪水ありて、寄せ手は大いに苦しむ。ここにおいて両軍の和睦が成り、存保は讃州へ引き退く。元親も陣を引き、篠原自遁も木津の城を開いて淡州へ退く。

同十三年、秀吉公が四国の元親の乱を治めんと、両大将が四国に至る。羽柴秀長卿の軍船が阿州土佐泊に着き、先ず東條関之兵衛がいる木津の城を責む。東條は防ぎ戦うといえども、無勢なれば力尽きて土州へ退き去る。

各地の城郭と守将

今切城
篠原玄蕃頭の居城。家来に頼るも古井戸に忍ばせ置かれ討たれた。
〇重清城
三好の一族・重清豊後守の居城。猛勇であったが謀で討たれる。
上櫻城
篠原弾正入道紫雲の居城。自遁の讒言により攻められ城に火をかけ討ち死に。
富岡城
新開遠江守入道道善の居城。土佐方に一味するが元親に討ち殺される。
海部城
海部左近将監吉清の居城。名刀「海部打」の作り手としても知られる。
白地城
大西出雲守頼武の居城。三ヶ国の境にある勝地であり、元親が四国を討ち取る拠点とした。
轟ノ城
近藤勘右衛門尉正次の居城。夜軍にて土佐勢を大いに破った。

その他、保崎城、川端城、枝西城、切畠城、伊澤城、脇城、足代城、金丸城、三谷城、穴吹城、山口城、上野城、川田城、青木城、一宮城、寺島城、渭山城、仁宇城、桑野城、日和佐城、由岐城、木岐城、浅川城、土佐泊城、岩倉城、西林城、西條城などが記録されている。

豊臣秀吉の四国征伐と国分

天正十三年、太閤秀吉公が四国征伐の為、大和大納言秀長卿、三好中納言秀次卿を両大将として阿波国に出発向した。閏四月二十四日、両将は泉州堺より出船し、淡州福良浦へ到着。撫養・木津の城に籠る東條関之兵衛を八日間手強く攻め、城を明け渡させた。

その他の阿州の城々も明け退くことになり、長曾我部元親と和を入れて扱いが相済む。四国の内、阿波・讃岐・伊豫の三ヶ国を召し上げられ、土佐一国を元親に賜った。

関白秀吉公 四国領地配分

蜂須賀氏の阿波統治と大坂の陣

家政公(正勝公の長男)は、天正十三年五月に阿波国へ御入国された。家政公は御慈愛深く、国中の山士、兵、農百姓の三品を分け、身分を定めた。渭山城を御本城として、国中の城々を押さえとして御家老を配置された。

慶長十九甲寅年冬の大坂の陣において、至鎮公は大坂へ御出陣された。十二月十六日夜、味方にも多くの討ち死にや手負いが出たが、両将軍より御感状を賜った。慶長二十乙卯年五月、再び大軍が大坂を攻め、同月七日に落城。この御軍功により、至鎮公は淡路国を御拝領なされた。

阿国記跋と神域補足

阿国記跋: その文はすなわち史であり、これ記である。近世、村野の父老の口授や小説が存するといえども、多くは杜撰である。今初めて阿史が成りて、事実がすなわち後生の眼目に在りて照々然である。豈愉快ならずや。先生が繙かれたことは、百年後の香西氏とも謂うべきであろうか。
宝暦十三癸未年季秋 室住 秀安敬んで題す

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