府貝は海府にあり、符貝とも書く。小笠原長経の次男である小笠原民部少輔長房が三好家の元祖である。
亀山院の御治世である文永4年、阿波国三好の領主・右馬頭盛隆という者が鎌倉幕府の命令に背いた。これにより、長房は討伐の命を受けて盛隆を退治し、恩賞として三好の庄を賜った。長房は信濃国から阿波国に移ってこの庄に住み、名字を改めて三好阿波守と名乗った。これが三好家の始まりである。長房の弟である信濃守は、父・長経の跡目を継いで信濃国に住み、今でもその子孫が栄えている。
長政は長房の長男で、孫次郎と称した。長種は長政の長男で左近将監。長景は長種の長男で彦三郎。長直は長景の長男で左近進。長親は長直の長男で民部少輔。長宣は長親の長男で民部少輔。長宗は長宣の息子で阿波守。
ある説によれば、長宗は阿波の小笠原と称していたが、義永の代から三好と号を改めたという。成宗は長宗の次男で一宮宮内大輔と称し、これが一宮氏の元祖である。義長は長宗の長男で信濃守。長之は義長の長男で式部少輔。之長は長之の長男で筑前守入道希雲居士。元長は筑前守海雲居士。
長慶:元長の長男で修理大夫。智謀と勇気を兼ね備えた良将であったが、永禄年中に病死した。義長は長慶の長男。知恵があり物事を正しく見極める人物であった。松永弾正久秀を取り立てて寵愛したが、久秀に毒を盛られて死亡した。
義賢(實休):元長の次男で豊前守入道。永禄5年3月5日、和泉国久米田の戦いで戦死した。無類の茶器を所持しており、その花押は記録に残っている。
冬康:元長の三男で安藝守、淡路国由良城主。国家を治めるべき仁将であったが、亡くなった。その後、天下の人々は道を外れ、臣下は主君を殺し、子は親を殺すなど人倫が大いに乱れた。冬康は世が治まらない事を深く嘆いていたが、これは佞臣の讒言によるものではなく、末世であるからだと思い……(不明)。
一存(鬼十河):元長の四男で十河左衛門督讃岐守と号した。讃岐国十河の城主である。大敵を打ち砕く様は猛虎のようであり、世人は鬼十河と呼んだ。若い頃、白髪を抜き、兜の錣を引き破ったのもこの時のことである。これを十河額という。その他の武勇の数々は『治乱記』に詳しく出ている。
長治は義賢(實休)の長男で、三好家の棟梁であり阿波屋形である。この人は暗愚にして酒や色事に溺れ、一族の忠言を聞き入れなかった。以前と変わらず一族の中に不和が生じ、ついには戦となった。
長治は自陣の者を退け、一門の大軍を発して陣を構えた。敵の先陣らを自らのもとへ向かわせ、大平三郎右衛門尉を率いて軍勢を追い払おうとした。その後、長治は細川掃部頭真之を討つべく阿波国勝瑞城を攻めて大軍を発したが、陣中に兵糧が無くなり、城を出て別宮へ逃げ込んだ。
敵の大軍が長治を取り囲み、長治は浅州(淡路)へ逃れようとした。しかし両軍に追い詰められ、無勢の中で防戦したものの、ついに腹を切って自害した。供をした者の年齢は25歳であった。有俊、小侍の又五郎、原彌助らも共に自害した。
存保は實休の次男で十河孫太郎と云う。情けに厚く思慮深い将であった。和泉国の諸臣らは存保を迎え入れ、長治の滅亡に伴って彼は勝瑞城へ移り、阿波・讃岐両国の大将となった。天正10年、富川の合戦で存保は敗北し、勝瑞城へ立て籠もった。
長曾我部元親は2万騎を率いて勝瑞を攻めた。存保は防戦したものの力尽き、ついに城を退去して讃岐国十河城へ立て籠もった。元親はこれを追いかけて讃岐へ乱入し、十河城を攻め落とした。存保は敗れて上方へ退き、豊臣秀吉に降参した。秀吉は彼を大いに憐れみ、直ちに書状をもって阿波・讃岐両国を与えた。
天正14年、秀吉が島津を攻めた際、存保は先陣として日向国戸次川に出陣し、討ち死にを果たした。千熊丸は存保の長男である。天正15年、仙石権兵衛が千熊丸を毒殺した。これにより三好家は断絶した。
成宗は三好阿波守長宗の次男。一宮宮内大輔成宗と号し、初めて一宮城に居住した。これが一宮氏の元祖である。成良は成宗の長男で長門守、宮内大輔。成助は成良の長男で一宮長門守。正室は三好希雲の娘である。
この人は三好の一族であるにもかかわらず、三好家代々の恩顧を忘れて長曾我部元親に味方し、今切において三好を滅ぼした。土佐勢が進軍した際にはこれに加わり、十河存保を攻めた。しかし勝瑞城が落ちた後、天正10年11月7日、元親の謀略によって下八万村・夷山城において成助は弟の主計正と共に討ち取られた。ここにおいて一宮家は滅亡した。彌十郎は成良の三男。この人の最期は不詳である。
『阿波志共五 国記 土佐日記』 朝廷から任じられて4年間の任期で国を治める人を、国守、国司、あるいは受領と呼ぶ。古代には国造と呼んでいたが、皇極天皇が国司と改めさせ、文武天皇の時代に国守と呼ぶようになった。
任期については、孝謙天皇が天平宝字2年に6年としたことが『続日本紀』に見える。その後は4年に定められた。『式記』によれば、仁明天皇の承和元年7月に勅命が下り、諸国の守はそれぞれ任期を4年とすることになった。ただし、陸奥・出羽・太宰府は遠国とし、筑前をはじめとする都から千里以上離れた地域は任期を5年と定めた。
正税とは、諸国から天皇の御倉に納める穀物のことである。公廨とは、諸国にある天皇の御田からの収穫物である。国守以下の役人は、この公廨の米を管理・分配した。
『承久記』 鎌倉の右大将(源頼朝)は朝敵である平家を追討し、その恩賞として日本国の惣追捕使に任じられ、諸国に守護・地頭を置いた。これを惣地頭という。
参朝とは、近国の国守は1年に1度、中国の守は2年に1度、遠国の守は3年に1度朝廷に参上し、税の勘定などを行うことである。四度解とは、諸国の国守から納められた貢ぎ物を、春夏秋冬の四季にわたって審査することである。『百寮訓要抄』には、諸国の参朝や四度解を通して年貢を正しく調べ、国司の仕事ぶりを評価したと記されている。
阿波国について『日本書紀』には、伊弉諾尊と伊弉冉尊が、次に伊予之二名洲を生んだとある。『先代舊事本紀』にも同様の記述があり、速依別と呼ぶ。
名西郡一宮村にある一宮大明神の本記には、一宮の神は大宜都比賣神を祭る。阿波の女神と号し、大阿波宮と申しあげるとある。名西郡上山の村々をすべて大栗山と呼ぶのは、この神号に由来するという。これが阿波国を開いた神である。
『日本書紀』の一書には、二柱の神が共に大日本豊秋津洲を生み、次に淡路洲、次に淡洲を生んだとある。考えるに、神が日本の国土を創立した当初から、阿波の国号は存在していた。古い史書には「淡」「粟」「阿波」の三種類の文字が交えて書かれているが、別に深い意味があるわけではない。古代の日本には文字がなく、老人から若者へと口伝えで歴史を受け継いでいたからである。
第10代崇神天皇の時代に至って初めて文物や国号が整備され、単に発音に合わせて漢字を当てはめただけであり、漢字そのものの意味によるものではない。第15代応神天皇の時代に王仁などの学者が渡来し、第18代履中天皇の時代から本格的に文字が書かれるようになり、それ以来の歴史的記録が残っている。国号「阿波」の文字は、『日本書紀』の景行天皇の記録に初めて見える。
天日鷲神が木綿を作った(『神代旧事記』)。『日本書紀』には、大己貴命と少彦名命が天下を経営し、国を巡り造ったとある。阿波国を治め始めたのもこの二柱の神であったと考えられる。
『旧事紀』国造本紀には、神武天皇が天下を平定して橿原で即位した際、その功労を記録して称え、優れた者に国造の地位を与えて統治を任せた。国造は百四十四国に及んだとある。粟国造については、応神天皇(大和の軽島豊明宮)の時代に、高皇産霊尊の九世の孫である千波足尼を国造に定めた。長国造については、成務天皇(近江の志賀高穴穂宮)の時代に、観松彦色止命の九世の孫である韓背足尼を国造に定めた。
頭書によれば、長国は現在の阿波国那賀郡であるという。あるいは名方郡かもしれない。『神名帳』に「名方郡 御間都比古神社」とあり、御間都比古神は長国造の祖神であるため、その神社が名方郡にあることから疑義が生じる。しかし、古代の国号がそのまま現在の郡名になる例は多い。地理的に見ても名方郡は国の中心にあって諸郡に囲まれており、那賀・海部の二郡は東南の海浜にあって境界が明らかであることから、長国は現在の那賀郡であることは明白である。海部は古くは那賀郡内の一村であったが、後世に分割されて二郡となった。
『古語拾遺』によれば、神武東征の後、当国に忌部氏が存在したことは国史にも記載されている。神代紀には粟国忌部の遠祖である天日鷲が木綿を作ったとある。『日本書紀』景行天皇51年8月、蝦夷らを御諸山に安置した。これが佐伯部の祖であるという。当国に佐伯氏が存在したことも国史に見える。
成務天皇5年9月、諸国に国郡を定めて国造や長を立てた。『古事記』にも、大小の国の国造を定め、国々の境界や県主を定めたとある。この時、長国の造として韓背足尼を任命し、これが現在の那賀郡にあたる。応神天皇の時代には千波足尼を阿波国造に定めた。仁徳天皇の時代に初めて諸郡を置き、功労者を選んで郡領とし、子孫に世襲させた。安閑天皇2年5月には阿波国に春日部屯倉を置き、その他の国々にも屯倉を置いた。
仏教伝来については、推古天皇の時代に聖徳太子が摂政となり、蘇我馬子と協力して仏法を興し伽藍を建立した。この時、天下の寺は40、僧は816人、尼は569人であった。
『阿波志 神社寺院 伝記』
白人大明神は鎮西八郎為朝の霊を祀っている。別当は浄土寺。 慶長7年の夏頃、徳島の稲田修理の屋敷の隣に無名の小さな社があった。ある時、下男が崩れた鳥居の木材を拾い集め、湯を沸かす釜の下にくべて燃やしてしまった。するとこの下男はたちまち乱心し、「我を誰だと思っているか。鎮西八郎為朝である。我が宮の鳥居を燃やすとは何事か。この恨み、一家に罰を与えてやる」と口走って踊り狂った。その有様は凄まじく、人々は恐れおののいた。
稲田修理は為朝の霊神であると驚き、弓矢を取って祈祷したが神の怒りは鎮まらなかった。そこで急いで大工を呼び、屋敷の内に小社を建てて朝夕信心を尽くした。すると下男が再び狂い出て、「我はこれよりこの家を守護しよう。13年後には必ず神の加護を授けるゆえ、時を待て」と神託を下した。下男は絶句して倒れ、その後は正気に戻って何事もなかった。
この神を信心し、慶長19年の冬にちょうど13年が経過した。大坂の陣での稲田修理の武功は、この神霊の守護によるものだと言われている。
白人大明神には為朝の弓矢が納められている。その矢は厚さが一寸余りあり、射込むための矢だという。600年が経過しているにもかかわらず羽が残っており、常人の使う弓ではない。 この地にはかつて大きな楠があったが、藩主の船を造るための木材として切り倒されたという。
丈六寺 :中興の開山は用急禅師。永正12年11月15日、禅師は化頂峯に登り、松の木に衣を掛けたまま姿を消した。化頂峯は観音堂の後ろの峰であり、直下には勝浦川の淵がある。衣を掛けた松は後に枯れて切り倒され、その切り株は現在も手水鉢の土台として残っている。中門の外には新開遠江守(入道道善)の墓がある。天正9年10月16日に没した。
一宮太夫略系 :先祖書をもって阿波藩に丹後守の官職を願い出た際の記録である。先祖の小笠原信濃守(水主光信)が藩の帳簿に記されている由を申し伺い、藩主の同族である豊前小倉の小笠原氏に配慮して、当分は「小」の字を外して名乗るようにと奉行衆から指示された経緯などが記されている。
勝浦郡小松島浦にある祇園社は、昔、国中に疫病が流行した際に祇園御霊会を仰せ付けられ、大々的な祈祷を行ったところ疫病が治まり、国家鎮護のために建立された。
當社の北には正八幡宮と恵美子太神が並んで鎮座している。昔、源義経公が屋島の戦いへ向かう海路の途中でこの浦に到着し、船を降りて祈祷を行った。恵美子太神の社地には、義経が馬を繋いだ「松駒繋の松」が今もある。
この浦は古くから水中で魚を捕ることを生業としていたため、自然と「魚の浦」と呼ばれていた。しかし義経公が馬を繋いだ島であることから、後世に誤って「小松島」と改められた。海辺の岩には義経の装束や烏帽子を干したとされる「岩烏帽子」という場所があり、また「旗山」と呼ばれる小高い場所も残っている。
万松庵 :深岩が開基した。 寶行寺 :矢上村にある。正法寺、敬墓寺などが開かれる際、しばらくここに住んだ。それ以前は無住であった。
日本の仏教は、欽明天皇13年に百済の聖明王から経典が送られたことに始まる。蘇我稲目が自宅を寺としたのが伽藍の始まりである。推古天皇の時代には天下の寺は480を数えた。 阿波国には古くから寺院が僅かにあったが、中世の寺は多くが天正の兵乱で焼失してしまった。現在残っている寺の多くは場所を移転するか、新しく建て直されたものである。
徳島城下の地は昔は海浜であった。天正年間に蜂須賀家政公が入国する以前から、「渭津の五十ヶ寺」と呼ばれる寺院群があった。万福寺、願成寺などは、板野郡勝瑞村などから移転してきたものが多い。
神社門 :春日大明神(新町)、八幡宮(富田)、金毘羅大権現(同)、諏訪大明神(佐古)、椎宮八幡宮(三谷)、八幡宮(助任)、春日大明神(助任)、山王大権現(大四)、住吉大明神(佐古島)、四所大明神(福島)、城中所、祭、竜王社。 宝暦年間の調査によれば、阿波国の神社は2620座にのぼる。
文明4年(1472年)、阿波国中に大逆の輩がいるとして、速やかに尋問して処罰するよう諸領主に命令が下された記録がある。 天正5年3月28日、三好式部少輔は三好長治と共に別宮浦で討ち死にした。
天文の頃から天正の末にかけて、四国は戦乱の地となった。細川家の祖である細川刑部大夫・頼春は、足利尊氏から初めて四国探題に任じられたが、京都の四條大宮で討ち死にした。 その後、四国探題となった細川讃岐守成之の時代、三好郡上野の小五郎左衛門のもとに、どこの者とも知れない一行が宿を借りた。尋ねると「甲斐の住人・小笠原孫七郎長継である」と名乗った。彼らは赤松入道に追われて逃れてきた者たちであり、追手を討ち取って平地に小規模な城を構えた。長継の子・長次は名字を「三好」と改め、これが三好氏の台頭に繋がった。
三好之長は細川家の家臣となり、その子・長慶の代には勢力を拡大したが、長慶は病死した。その後、三好義賢(實休)が実権を握ったが、久米田の戦いで討ち死にするなど、三好氏と細川氏、そして松永久秀らを巻き込んだ畿内・四国の覇権争いが続いた。
阿波国には木津城、一宮城、白地城など多数の城があった。 三好長治は日蓮宗を深く信仰し、国中を日蓮宗に改宗させようとした。これにより他宗派との間で激しい宗論が起こった。
天正5年3月、長治は細川真之を攻めたが、一宮成助や井澤越前守らが真之に味方して長治を逆包囲した。頼みにしていた篠原玄蕃も主人を捨てて逃亡し、長治は土佐泊の森志摩守を頼って淡路へ逃れようとした。しかし夜明け近くに別宮浦で敵の大軍に追いつかれ、ついに自害して果てた。
細川家は足利氏の一族であり、細川頼春が四国探題として阿波へ下ったのが始まりである。頼春の子である頼之らが跡を継ぎ、代々阿波や讃岐の守護を務めた。 三好家は小笠原氏の流れを汲み、長継の代に三好を称して阿波へ土着した。その後、元長、長慶、義賢(實休)らが台頭し、畿内から四国にかけて強大な勢力を誇った。
正平7年(1352年)、南朝と北朝の争いの中で細川頼春は京都の四條大宮で討ち死にした。その遺骨は阿波国秋月城の部下によって持ち帰られ、光勝院という寺院が建立されて弔われた。これが阿波における細川管領家の祖となった。 佐古や長浜周辺には河野氏の氏族が住み着き、八幡神社を勧請したなどの記録が残っている。
春日大明神 :元は田宮村にあったが、天正の頃に神託があり、清水が流れる楓の木の根元に社を移した。後に阿波に入国した蜂須賀家政公が、自らの氏神である春日神社を探し求め、この社を篤く保護した。
八幡宮 :河野氏の一族が伊予国から来てこの地に住み、八幡神を勧請したのが始まりという。後に瑞巌寺が建立されたため、社地を現在の場所へ移した。
徳島城下町の形成 :蜂須賀家政公が阿波に入国した際、現在の前川の中洲に仮の館を構え、渭山に築城を始めた。かつての徳島は海辺の地であり、渭山は海に浮かぶ一つの島であった。佐古や三谷のあたりまで海が入り込んでいたという。 新町や出来島、佐古の町割りなどが次第に整えられ、紀伊国から来た商人が住む「紀伊国町」や、魚や野菜の専売を許された「東八百屋町」などが形成されていった。
刑勝門・町割り :徳島城下は海や川に囲まれた要害の地であった。馬の背町、新町などの名前の由来や、城下町の整備に伴う住民の移転の様子が記録されている。
佐古の伝承 :佐古蔵所町には、昔罪を犯して阿波へ流されてきた官女が身を投げたという川があり、後にその霊を慰めるために霊石を祀ったという伝承がある。
沖の洲・出来島 :出来島や沖の洲は元々海の中の洲であったが、次第に開拓されて人が住むようになった。沖の洲には太田氏が紀州から勧請したという蛭子神社がある。
【貞安問答】慶長6年11月、浄土宗の僧である貞安が阿波の徳島へ来て、浄智寺などで他宗派と宗論を行ったという記録がある。
天正3年、長曽我部元親の末弟である島弥九郎が海部の奈佐の湊に船を着けた際、現地の武者たちに襲撃され、一人残らず討ち取られた。これに激怒した元親は、弔い合戦として大軍を率いて阿波へ侵攻した。
元親は海部周辺の七つの城を次々と攻め落とし、木津城の東條関之兵衛には養女を嫁がせて味方に引き入れた。こうして阿波南部の諸城は次々と元親に降伏した。 元親の軍勢はさらに北上し、岩倉城などを激しく攻め立てた。三好側の諸将は防戦したが、伏兵や鉄砲による攻撃を受けて次々と討ち死にや降参に追い込まれた。
天正5年8月上旬、元親は中富川へ1万5千余騎の大軍を出陣させた。対する三好存保(正安)も1万余騎を率いて勝瑞寺の表に陣を張った。
元親は中富川の上流に土俵を積んで水を堰き止めていた。両軍が浅瀬で入り乱れて激しく戦っている最中、土佐勢は堰き止めていた土俵を切って決壊させた。逆巻く濁流が川に流れ込み、三好勢は数え切れないほどの溺死者を出して大敗北を喫した。 この合戦の直後、3日3晩にわたって滝のような大雨が降り、阿波国中は海のように冠水した。城の土手や防御設備も崩れ落ち、元親はこれに乗じて阿波国中を平定した。
天正13年、豊臣秀吉は長曽我部元親に対し、伊予と讃岐を返上するように使節を送った。しかし元親はこれを拒否したため、秀吉は弟の羽柴秀長や羽柴秀次らを大将とする大軍を四国へ派遣した。
上方勢は淡路島から阿波へ渡り、木津城などを激しく攻め立てた。仙石権兵衛や蜂須賀家政、黒田官兵衛らの大軍を前に、土佐勢は次第に追い詰められた。一宮城でも激戦が繰り広げられたが、ついに元親は勝ち目がないと悟り、三男の津野孫次郎を人質として差し出して秀吉に降伏した。
『渭水聞見録』に云う。益田惣右衛門は禄高三千石で、尾州から来た豊後の祖父である。子が八人いる。 一に益田藤右衛門。二に織田五郎左衛門、小名は五金。三に益田内膳正利。四に女子で、正勝公の夫人である大弌院殿。すなわち長子は家政公であり、蓬庵様の御母堂である。五に奈良、笹田某に嫁ぐ。六に宇傳、市原某に嫁ぐ。七に女子、長坂三郎左衛門に嫁ぐ。八に益田宮内。子が二人おり、嫡男は益田豊後長行である。
益田藤右衛門の長子は益田国幡である。島主水は蓬庵公の従兄弟にあたる。 撫養の城主は益田大膳であり、その子は益田飛弾、飛弾の子は仁尾五郎右衛門である。 慶長2年5月14日、台命があり、阿波を興譲する。
この改定した境界の紋簿書は長坂三郎左衛門によるものである。太田忠助はこれを通じ、平野治左衛門、戸田半左衛門と赴き、讃州の鈴木伊兵衛、平山松右衛門、窪谷作兵衛と会す。 当寺の堪忍分(維持費)として、寺の周辺の十石を付与し終わった。滞りなく務めを果たすべきこと、くだんの如し。 慶長3年6月12日 義成 御印判。川田のうち福生寺。
一、当寺の儀は、往来の旅人が一宿するために建立させたのであるから、もっぱら慈悲を肝要とすべきである。あるいは遍路の輩、あるいは出家、侍、百姓を問わず、日が暮れて一宿を望んだならば、相応のもてなしをすること。
一、自国・他国を問わず、山賊・盗賊などの者、その他諸々の悪事を企む輩が時々来て宿を借りる族がいるはずである。もちろん悪事を企んでいると承知している者、あるいはそうでなくても不審に思われる族がいた場合は、宿泊させることを斟酌して断るべきである。万が一、押し入って一宿すると申す者がいた場合は、ひとえに狼藉であるから、すぐに地元の勝屋政所に知らせて、曲事として処罰を行うべきである。
一、地元の人ならびに他郷の者が当寺へ集まり、あるいは国の良し悪しを評したり、あるいは代官や給人に対して訴訟を企てたり、その他諸々の悪事を企む族がいれば、その者たちは言うまでもなく、宿として構えた家まで曲事の対象とする。
このような悪事を企む輩が集まることは、当然ながら決して許容できないことである。 右に定めた事柄について、寺の常住の者や夜回り役の者は、この旨を決して油断してはならない。右の通り定めた。
慶長3年6月12日 蜂須賀阿波守義成 御書判
三好長慶卿の城が完成して岩倉の城に移った際、当国の武士としては以下の者がいた。
天正3年9月、長曽我部元親が南方へ攻め来たり、名丹後守の息子である同名将監の城を落とし、ただちに海部の城を攻めた。城主は以前から讃州(讃岐国)へ出陣して留守であったため、元親はたちまちこれを奪い取った。その後、海部吉田の城には北村関斎を、牟岐の城には香曽我部親泰を配置して守らせた。
天正年間の阿波国において、長曽我部元親が掌握した諸城と、配置された武将は以下の通りである。
東條の宇佐など、その他の降参した者たちの領地については、以前の時代(先代)の如く扱われた。
この後、豊臣秀吉による四国平定と論功行賞が行われ、各地域には新たな領主が配置された。
蜂須賀家政公 阿波国入国御条 (御繁昌の事) 太閤・豊臣秀吉公の勢威は並ぶ者なく、天下は統一された。京都から遠国である四国の阿波国へ、長曽我部元親が軍兵を発して土州(土佐)、讃州(讃岐)、伊予へと勢力を伸ばし、四国を掌中に収めようとした。これに対し、この地の人々や領民は日夜苦しんでいたところ、秀吉公より「四国を平定せよ」との命が下り、蜂須賀家政公が大和中納言(秀次)公の軍勢に加わって阿波国へ進軍した。
蜂須賀家政公が阿波国へ入国する際、二人の大将として、三好山城寺の養子である三好越後守を案内人として船を寄せた。上陸地である蜂須賀には、内藤修理太夫、正勝公の供として、蜂須賀家中の長谷川弥右衛門、貞安、野須平兵衛、平野次兵衛、関助太郎、益田才蔵、森甚助、箱田、福田、清八平らが従った。
家政公の御供として秀吉公より与えられた者たちには、正勝公の譜代の家臣である稲田太郎右衛門、林五兵衛、中村次郎左衛門、樋口長右衛門、牛田又右衛門、森勘右衛門、西尾理右衛門、貴松右衛門、尾関左衛門、武藤小次郎らが名を連ねる。
また、五十君三右衛門、堀尾平右衛門、河口兵右衛門、郷司孫右衛門、猪子小五郎、岩田五右衛門、伏屋市兵衛、井上喜助、長田久右衛門ら七人の家老をはじめとして、大勢の騎馬の士が仕えた。
さらに、正勝公の譜代の侍として、山田八右衛門、益田内膳、益田宮内、松原内門、美松右衛門、石右衛門、武市八木平左衛門、寺澤弥次右衛門、今田四郎右衛門、井上呉右衛門、速水助左衛門、黒部清右衛門、箱田平市郎、益田藤右衛門、蜂須賀与三右衛門、蜂須賀彦次郎、岡田甚左衛門、赤堀重右衛門、寺沢角蔵、武藤左衛門、小南佐助、桜九郎、右衛門太田六蔵、益田久左衛門、長浜平七郎、益田角右衛門、安藤次兵衛、佐治九左衛門、渡部七石右衛門、市原源三郎、片山左九郎、真殿傳内、古川文助、井関七蔵、島新之丞、林次郎右衛門、大多和左衛門、井後新次郎、林石見守。 以上の五人の家老をはじめとして、大小騎馬の士、あわせて一万余騎にのぼる。
当時、蜂須賀修理太夫正勝公も、讃州(讃岐国)矢島に船を寄せ、淡路の武者と仙石越後守を案内人として船を寄せ、上陸した。この地の人々や家臣団として、蜂須賀家政公、内藤修理太夫、正勝公の供として、蜂須賀家中の長谷川弥右衛門、貞安、野須平兵衛、平野次兵衛、関助太郎、益田才蔵、森甚助、箱田、福田、清八平らが従った。(中略:家臣団の再録)
其の外、中國(中国地方)の諸軍勢は、前もって下路浦などに船を寄せ、讃州津田の湊を経由して、高松、津田の宿へと到着した。その数は数千人におよび、阿波と讃岐の境にある大坂峠を越えた人数も多かった。
大坂の峠を打ち上げ、時を同じくして一尊の仏像が現れた。その不思議なことに、阿波の南方から光明がさし、世の安寧を祈念して28の部衆(仏教の守護神)が山腹に立ち、公の鎮護の守りとして加護を授けたという。これより、兵杖(武器や旗印)を携えて民を保護し、信仰を広めたと見受けられる。
明石の山に一羽の御旗を上げ、諸軍勢はまた(〜中略〜)観世音の納受(おさめ)を添え給ふ。戸田民部少輔が門寺、関兵衛尉(の)子、息、筑前守尾藤左衛門尉、赤松左兵衛尉、其の外、國々の名を連ねたる兵、あわせて三万余騎、越の峠を下り、深山嵐の旗を翻して、控へたり。
東雲(しののめ)となるに、海を隔てて大将、羽柴秀長、細川真之、長谷川藤五郎、堀久太郎、家内、膳正、志摩守、仙石越前守、備前中納言、先従して川平右衛門、府長船(ふのながふね)又、石右衛門、明石飛騨守、浮田入道安心、都合その勢三万余騎。各々兵船数百度、白旗を立て、漕ぎ寄せ、阿波国へ、湊の淡路、別宮浦(べっくうのうら)または津田浦の川へ着き、夫より陸路を経て、引田の宿へ、人、数を揃え、大坂の峠を打ち上げ、時を同じくして、一尊の仏像が現れ、旗の手を棚引かせ、時に、不思議なことに阿波の南方に光明がさして、世を安らかにするため、二十八部衆が現れ、公(蜂須賀家政公)の鎮護のために立ち給う。人々は身に兵杖を帯びて、護り給うのである。
寺田又右衛門を始めとして、戦いに軍兵が少なく討たれ、その城中からも大将を兼ねた勇士が数多く討死した。その時、降参して人質を差し出し、城を退去した。これは谷(地名か)の役所によるものである。
在家に隠れ住んでいた自国の武士たちが降参して寄手の傘下に入り、総勢7万余騎で美濃守秀長公を大将として一宮城に押し寄せた。かつての一宮城は、今でこそ至る所に勇士が控えているが、陣を取って敵を待ち受ける。その背後は山前、水を競い合う場所であり、安来川の流れを隔てて、下町、八万の上下や、庄蔵本の前後に至るまでを囲む。箱麻竹の草が茂る中、陸より寄せ来る諸軍の敵城近くに、矢野延命のあたりから中村、和田あたりまで、寸尺の地も隙間なく軍勢が満ち、旗は風になびいて戦の気配は秋の野に満ちていた。
野火や尾花(ススキ)の末よりも激しい戦の夜、火が映えて輝き、あさまの暁の霜が枯草に布を敷いた如く、大軍が迫る。山勢は高く動く気配もない。観波震(※地名か)の中に神社があり、人々の人数を支度して、城の南の尾根から金を払い、数十人を集めて穴を掘って崩そうとした様は、城代の勇士・澤村孫右衛門の親役を始めとして、城中の軍兵は共々力を合わせて戦うと思いきや、鎧を脱ぎ捨て、旗を巻いて、敗勢を極めて城門に降るという。 (※中略) 名を呼ぶ先々で命を救い、本国土佐へ引退ける。
脇の城も 土 佐佐方より番手として長曽我部新右衛門親吉要害綱敷国之城に所小、秀次公を大将として蜂須賀修理の太夫正勝公同彦右衛門尉家政公日根野備中守備陸守長谷川藤五郎堀久太郎氏家内膳正舎弟壱岐守尾藤左衛門尉中佐太左衛門都合三萬餘騎引分きて脚の城を取巻ける。
城中の兵共城戸口の敵を拂ふて友成彌四郎と名乗て即時小突出し尾藤が郎等湯浅右衛門と突懸る所を谷源太郎懸合て友成が甲の眞向を打ひしげりければと引退く処を湯浅歓て友成が鑌を奪取り。夫より敵方入乱れて此中佐太右衛門尉首一つ討取、尾藤が郎等中川六右衛門林半助原六内三人して首三ッ討取等手大勢ふれに籠城叶いがたく土佐方降参して長曽我部新右衛門尉退出し城を開け去に、籠城せし長曽我部内記ら降参して城を開け、引退く大西白地の城番中内善助等も時を移さず、左衛門海部鞆の城番田中市之助等も時を移され明退く。其外東南西北の敵とと基れる事しなき軍をして命を失はんよりとと思ひけり。
小や甲をぬき弓弦を外して降参し天正十三酉年暮秋下
(暮秋の下)旬に、ことごとく城を開け渡して、思い思いにまた落ち延びて行った。 家政公によって、一宮城の城番として(守将を)置き、南方の押さえとして富岡の城に置き、山林の逆徒の押さえとして仁宇山に城郭を構えられた。土佐国境の隣国の押さえとして海部・鞆の湊に小城郭を構え置き、淡路渡海のため撫養の湊に小城郭を構え置き、北方里分の押さえとして西条に城を構え置き、上郡の入り口の道中の番手として川島に小城郭を構え置き、上郡方面の押さえとして脇の城に置き、伊予・讃岐・土佐の国境に程近いことにより隣国の押さえとして大西の城に置いた。
太閤秀吉公からの仰せにより、寄手(攻め手)の軍勢は渭山に本城郭を構え、武威を振るって様々に仰せ出され、「摂津国大坂の御居城に近い国に召し置かれるべきである」と仰せられて、阿波国を下し賜わった。
家政公は阿波国を拝領されて、その徳が窮民を撫でる(いたわる)ことは至れり尽くせりであった。万人の上に被さるその権勢に服従しない者はない。朝の太陽に侵される残星が光を奪われるような道理であるので、自国の侍たちは首を垂れて、招かれないのに集まり、攻められずして従い、帰着(帰順)することはただ吹く風に草木が靡くかのようである。誠に天から受けた聖なる主、地に奉られる明君であると、その徳を称え奉らない者はいない。
すなわち(家政公は)渭山の本城にお移りになり、老臣たちがそれぞれ相談をして、祖谷の奥深い里や遠い山家の民で、心から服従しない者たちを治めさせるために、真松惣右衛門を遣わされたところ、傍若無人な奴原(やつばら)が、あちらの谷やこちらの在所の民家から雲霞のごとく馳せ集まり、惣右衛門に鉄砲を撃ち掛けることは雨が降るかのようであった。向かって来る賊徒を数多く、惣右衛門は手に掛けて討ち果たしたといえども、多勢に無勢では叶い難く、惣右衛門も討ち死にを遂げた。
仁宇谷の奥を攻めさせなさるために、梶浦与四郎を遣わされ、あちらこちらの在々を攻め平らげなさって、梶浦与四郎が渭津(いづ)へ引き取る所に、正路(本道)を建て塞ぐ徒者(あぶれ者)どもが、葛谷の坂に待ち掛け、一方より矢を射かけ鉄砲を放った。その音は山々に響き渡り、雷鳴が轟き雨雹が降るごとくであった。手先に進む賊徒どもを討ち捕ったといえども、与四郎は深手を負い、ついに討ち死にした。
家政公はこれを聞こし召し、山林の逆徒どもを一人一人首を刎ね、その在々に懸け置き(晒し首にし)なさったので、残る民たちは間違いなく従いやって来て、皆その勤めをなすことについて、事や心が及ばない(行き届かない)ということはなかった。
九つの城を預け置きなさった老従の侍へ、秀吉公より御服(衣服)を一重ねずつ下し賜わった。各々は有り難く頂戴し、その所を守って居住した。同じく老従の樋口長右衛門尉は内蔵助に任じ、長谷川孫右衛門尉は兵庫に任じ、この二人は渭津に居住して、国の法令を開き(発布し)万事を治めた。非番・当番で出仕する侍たちは昼夜・朝夕に怠る事なく、(そのため)山の下や山の外の辺境においても、民の竈(生活)は賑わった。