
寛政期(18世紀末)の文書群)には、三木家の由緒を紹介したものが残されています。
これらの文書は、極めて苦しい状況にあった三木家を立て直すため、郡代などの諸役人に再興への助力を願い出る「重要な歴史的根拠(説明資料)」として作成されました。当時の背景には以下の経緯があります。
麻植郡三ツ木村伊左衛門後家先祖家筋成行書附
一、伊左衛門元祖家筋之儀、忌部佐兵衛尉重村と申、元弘・建武之兵乱之節より宮方エ与力仕、軍忠有之、地領種野山之内三ツ木村近郷領知仕、正平年中之頃より在名ヲ名乗、三木佐兵衛尉重村と申由、元祖より弐代目三木太郎左衛門尉より官途仕、太郎左衛門倅帯刀、又左京之進、兵衛尉迄は、先祖之領知相続仕、代々忠切有之候ニ付、綸旨・宣旨被為下置候、其後御国御先祖蓬庵様御入国被為遊候以来、御順国為御代黒部兵蔵様・久代市兵衛様上山迄御越被成候所、仁宇・大粟之百姓共御両人様エ御随不申、非議之働有之趣ニ付、曾祖父三木兵衛尉倅長左衛門義、小家之者共、又は三ツ木・柏原之百姓共召連、上山村エ走向、非議之族共相鎮、御両人様之御供申、兵衛之宅エ御越被成、夫より川田村迄御見送り申上、西川田村住友五郎右衛門先祖之儀も家筋之者ニ御座候ニ付、彼方ニ而御一宿被成、翌日舟ニ而御城下迄御見廻り申上候処、段々骨折之段、御耳ニ相達可申旨被仰聞、在宿仕候処、御先代様より右様之御書翰被為仰附候、其節兵衛尉倅長左衛門被為召出、蓬庵様エ御目見被為仰附、御意被仰出候は、先祖より子細有之家筋ニ候得は、自然御陣等之節は、御用可被召出候、依之先祖身居苗字・大小御赦免被為下置、猶又小家拾八人無役ニ被仰附、并庄屋役義も相勤可申様被為仰出候
一、伊左衛門の元祖の家筋について申し上げます。忌部佐兵衛尉重村という者が、元弘・建武の兵乱の節より宮方(天皇方)に与力し、軍忠がありました。種野山のうち三ツ木村近郷を領知し、正平年中(1346〜1370年頃)より在名を名乗り、三木佐兵衛尉重村と称したとのことです。元祖より二代目の三木太郎左衛門尉より官途(官職)に就き、太郎左衛門の息子である帯刀、また左京之進、兵衛尉までは、先祖の領知を相続し、代々忠勤がありましたので、綸旨・宣旨を下されました。
その後、御国(阿波)の御先祖である蓬庵様(蜂須賀家政)が御入国されて以来、順国(領内視察)のため、御代官の黒部兵蔵様・久代市兵衛様が上山まで越えられたところ、仁宇・大粟の百姓たちが御両人様に従わず、非議(不穏)な動きがあるとのことで、曾祖父の三木兵衛尉の息子である長左衛門が、小家(家臣・手勢)の者たち、または三ツ木・柏原の百姓たちを連れて上山村へ向かい、非議の者たちを鎮め、御両人様の供をして兵衛(自身の宅)へお通しし、そこから川田村までお見送り申し上げました。西川田村の住友五郎右衛門の先祖もまた家筋の者(由緒ある家柄)でしたので、その地で一宿なさいました。
翌日、舟にて御城下まで見回り申し上げたところ、「度々の骨折(尽力)の旨、御耳(藩主の耳)に達するよう取り計らう」と仰せ聞かされ、在宿(村に帰っていた)していたところ、御先代様(蜂須賀家政)よりそのような御書簡を仰せ付けられました。その時、兵衛尉の息子である長左衛門が召し出され、蓬庵様(蜂須賀家政)へ御目見えを仰せ付けられ、御意として「先祖より子細(由緒)ある家筋であるから、自然(いざという時・軍陣など)の節は、御用として召し出すであろう」と仰せ出されました。これによって、先祖の身居(身分)・苗字・大小(帯刀)の御赦免を下され、なおかつ小家十八人を無役(諸役免除)と仰せ付けられ、併せて庄屋役も相勤めるよう仰せ出されました。
この由緒書には、三木長左衛門が小家の者や三ツ木・柏原の百姓を率いて上山村へ向かい、一揆(非議の族)を鎮め、役人を護衛したという華々しい武功が記されています。しかし、『阿波国徴古雑抄』に収録されている蜂須賀家政(小六)の書状(9月2日付)の内容と比較すると、両者のニュアンスには明らかな違いが存在します。
仁宇大粟百姓共非儀之働候之所ニ其元之者共少も無別儀馳走候由黒部久代申聞之通一
段満足此事候弥其元相談肝煎簡要候尚両人可申候也、恐々謹言
九月二日 小六
みつきかし原 百姓中
仁宇・大粟の百姓たちが一揆(不穏な企て)を起こしたところ、そちら(三ツ木・樫原)の者たちは少しも異心を抱かず(役人のために)奔走してくれたと、黒部・久代(代官)から報告を受けており、大変満足に思っている。いよいよそちらで相談し、引き続き世話(助力)をすることが肝心である。なお詳細は(代官の)両人から伝えるであろう。恐々謹言。
九月二日 小六(蜂須賀家政)
三ツ木・樫原 百姓中
なぜこのような差異が生じたのでしょうか。それは、この由緒書が作成された寛政9年という時期の三木家が置かれていた「存続の危機」という状況に理由があります。特権を喪失し、没落の危機にあった三木家は、郡代へ再興を願い出るにあたり、家名復活の正当性を強く主張する必要がありました。そのため、過去の「村として一揆に加担せず協力した」という事実を基にしながらも、先祖・三木長左衛門個人の並外れた武功へと大幅に内容を「盛り」、蜂須賀家にとって自らがいかに由緒ある特別な家筋であるかを誇張して脚色したと考えられます。
したがって、この「三木家由緒書」に記された出来事をそのまま歴史的客観事実として受け取ることには慎重になる必要があります。しかし、事実が誇張されているからといって、この史料の価値が失われるわけではありません。むしろ、特権を失ったかつての名家が、家の再興を懸けてどのように自らの「由緒」を再構築し、権威を主張しようとしたのか。その切実な事情と由緒創出の過程を鮮明に物語る史料として、三木家文書は非常に高い評価を与えられるべきものです。