「阿波歴史史料集」

神領村史

第二編 歴 史

第一章 村のあけぼの

はじめに

遠く二千年の昔ー 山なみは生々と緑にもえ、その谷あいを縫って清らかな鮎喰川が流れ、照る陽を受けた山間は次第に開拓されて、土地は豊かに人は平和にまどかな原始生活をくりひろげていた。山と水を生活に活かせて勤労に汗を流し、われ等の先祖は集団生活をいとなんでいた。今はこの地域一帯を上山谷と呼んでいるが、ずっと前のよび名は大栗谷であり、大栗山であった。鮎喰川の上流から古い村名をあげると、上分上山・下分上山・神領・鬼籠野・阿野・入田とつづくが、今は上分上山村から阿野村までの五か村が合併して、神山町となっている。これは、ずっと昔ーたぶん新石器時代の終り頃と思われるが、その頃の生活舞台の旧に復したものと考えられるのである。

この地域こそ阿波で最も早く開拓され優秀な人々の集団が住みついたところと考えられるから私達はこれを大栗文化圏とよびたい。古い日本の伝説を書いた『古事記』に「阿波を大宜都比売という」とあって、この神を祭ったと伝えられる上一宮大粟神社は、神領の氏神として古くからこの地方の人々の崇敬をあつめている。この伝説はよく研究しないと断定できないが、大栗谷からは石器時代の遺物である石棒や弥生式土器・平形銅剣など、いくつかの遺物が発見せられているのである。このような古い時代に私達の祖先が使った生活の道具以外に、もっと大切な昔のままの人々の心が今に残って、私達の社会やひとりびとりの心に脈々と動いている。それは美しい心で、現在の生活に流れていて、これから先も永久に生きつづけるであろう。土に生き緑の山に囲まれた自然の恩沢を限りなく受け、勤労を尊ぶ。相互扶助の美しい心は、焼け負請や千人きとう、万人講等に残っている。山の中腹にかけて狭い耕地を開拓した祖先の汗の結晶は百枚田やかくれ田に残っている。鮎喰川に向う山ふところの急傾斜地は、人々の尊い汗と根気によって豊かに開拓せられ、清流にうつる山々はみどりの宝庫に育てられた。華やかな都会の流れがどのような悪い風習や、みにくい争いを持ちこんでも、われ等の郷土に、昔から受けつがれた根強い農民魂を狂わせることは出来まい。すなわち文化の流れは川に沿い道にそうて大栗谷にも波及してきたが、その中で健全なもの、生活にうるおいと希望をもたらすものだけが取り入れられた。

神領を知るためには、この大栗谷全部のすがたを照し出さなくてはわからない。神領のすがたは上山谷のすがたであり、鮎喰川流域の人々のいとなみでもある。この意味で私達は歴史の範囲を旧神領村だけに限らず、広い地域全体として考えたい。歴史編に出て来るかけはなれた時の流れや、昔のすがたは、また阿波のすがたでもあるが、それも文献や遺物が少ないので不充分であり、正確さをかいだところもあるのはやむを得ないところである。

第一節 石 棒

石器時代の遺物の石棒が、左右内の鍋岩の畠の中から掘り出されて、今は左右内の氏神である十二社に祀られている。長さ約四五cm、石の質は緑泥片岩で、精巧な磨製石器である。当時の話を聞くと、「今から二五〇年余り前に、鍋岩二一〇番地の旧宅地から現在の宅地に移る際、小さい塚があったのを掘りさげた時に出て来た。これと同時に板碑も二枚あったが、板碑は現地にまつり、石棒は五〇年ほど以前に十二社神社に奉納した。」という。左右内の阿部伍一氏の談である。石器は生活の道具であり、金属製品のない当時では、貴重な器物であった。この石棒で、もみをついたり、果実の実をむいたり、いろいろな用途に使ったのであろう。また大きい石棒は、宗教的の用に供せられたらしく、その社会集団の長がこれを持って宝物としたり、威厳を保ったものであろう。

第二節 平形銅剣

一、下分東寺の平形銅剣

1 出土の様子

下分の山根実太郎氏の記憶によると、昭和四年から六年の間に、畑を開墾していた時、一口の銅剣が出てきたが、その時にまた別の一口を見出した。銅剣以外は何物もなかったが、後のたたりを恐れて、すぐ側に石を積んでその中にまつり、出土したことは公表せずに、家の人や附近の人々には「おふなっさん」と称しておまつりしていたが、積石がくずれて銅剣がはみ出していた。出土地は家の下方の畑の中央である。焼山寺山の西ふもとの、水神谷の出口に位した傾斜地で、鮎喰川に臨み集落を見下す小高い所である。

2 形 状

左右山の銅剣と同じもので、欠けた所が多く、全体的に腐蝕している。一口は上半部と下半部のみで中間が発見されていない。上半部の長さ 一〇・三cm、身の厚さ 三mm、巾は広い所で 四cm、下半部は長さ 二一cmで双部に欠所が多く、刺状突起の一つは完全で、高さ 一cm・厚さ 一mm・他の突起は欠失している。稜の厚さは、柄の部分で 六mm・中央で 四mm 柄の接着部にある二条の凹線と二個の穴は、柄を接着する為と思われる。別の一口は先端部を失っているが、他の部分は比較的欠失が少ない。長さ 三一・二cm・巾上部 四cm・下部 四・四cm・有刺突起の高さ 一cm・稜は巾 六mm・厚さ 六mm、背は身の上部で終り、樋は刺状突起の下からはじまっている。以上の形状から察すると、この二口は、細形銅剣がやや広くなったものである。

3、出土の歴史的考察

出土地は鮎喰川上流の、南面した緩やかな傾斜地で、陽のよくあたるいわゆる朝日さし夕陽かがやく丘であって、海抜二〇〇mある。この北の山を登れば焼山寺であり、水舟への入口である。この地から南に一kmほど離れた左右山からは、すでに明治時代に出土した平形銅剣二口がある。本県では、一kmほどの間に平形銅剣が四口も出土した例はなく、全国的にもこのような例は珍らしい。文化は豊かな流域に開け、川に沿って移動する例は多いので大栗の文化を開拓したわれ等の先祖が、この地方に居住して文化の花を咲かせたものであろう。

二、左右山出土の平形銅剣

阿波の青銅器遺物は、銅鐸の出土は多いが、銅剣は少い。三好郡西祖谷山村から二口出たのと入田の源田から一口出たに過ぎない。左右山の二口の中で、細い方は従来細形銅剣と考えられたものである。今穂先が少し欠損しているが、全長四四cm・関部の巾四・二cm、やや上方がふくれて五・一三cmの最広部から自然に狭まり、小さい刺状突起を経て次第に細くなっている。茎は短少で巾一cm 厚さ三・八mmで、背は穂先までのび、厚さ三〜二・六mmである。双部は極めてにぶく、身の厚さ一mm前後のうす板で、一般の平形銅剣の身に等しい。利器としての本性を示すよりも、本来の細形銅剣から脱出して、祭器または儀仗用具として形式化する平形銅剣への移行を示すものである。他の一口は、平形銅剣にふさわしいもので、双部の一部の刺状突起の端が僅かに欠失せる外、前者に比してその姿をよく保っている。全長四六cm関部五・五cm身のやや上部は巾五・三二cm茎は巾一・〇五cm厚さ三mmで、背は身のやや上部に終り、樋は刺状突起の下に始まる。全体的にみてすぐれた平形銅剣ということができる。

この平形銅剣が出土した場所は、四国山系中の深部に属するという点に特殊性がある。従来の平形銅剣の出土地は、海岸近くの沖積地に面する山麓か、それに近い平野に面する山嶺あるいは丘陵の斜面であるから、これは異例の出土である。左右山川の扇状地一帯に、石のやじりや黒曜石が発見されていることから、古く石器時代人の足跡を残していると考えてもよい。大栗谷に古くから阿波を開拓したわれ等の祖先が住んでいたという伝説も無下に退けられないと思われる。

さらにこの地域と他の地域との交通路を考えると鮎喰川という天然のよい連絡路があり、さらに一つ山を西に越せば木屋平村二戸口あるいは川井に出て、穴吹川沿岸にも連絡できるし、焼山寺を越せば四国遍路の道で川島にも通ずる。この道は遠く琴平参詣の街道で、現在四国霊場第一二番藤井寺から焼山寺に通ずる遍路道に沿う左右内に、「右こんぴら」とある石の道標が残っている。銅剣文化は北九州文化圏に属し、銅鐸文化は近畿文化圏に属するものといわれていて、この両文化が徳島県で入りまじって、全国でも文化のよく進んだところと推察される。それで平形銅剣が四口もわが大栗谷から発見されたことは、最も早くから高い文化を持つ人々が、この地域に住んでいたことを物語るものである。

第三節 大栗族

一、粟の国

文明は川によって生れ、その流域に花を咲かすといわれる。古く世界の四大文明のおこった地域は、有名な川の流域が多い。鮎喰川の流域には、阿波最古の文化が生れ、それは華やかではないが今に至るまで脈々と生きている。それは開拓の文化であり、生産の文化であった。『阿波の落穂』(弘化年間、野口年長著)には、「この国を阿波の国といへるは粟のよく繁茂する国なる故に名づけしなるべし。」とあり、『古事記伝』には、「粟の国 即ち阿波の国なり。粟は書紀神代巻にも粟田といひ、神代巻の大御歌にも、阿波布をよみ賜ひて……」とあり、『民部式』の諸国交易雑物には、「粟は丹波に十石と出たる外、諸国になく、而して特に阿波国に於て二十石と出たるは、是特産なるによれるや明らかなり。」とある。

二、粟を作つた人々

粟は当時の主食である。鮎喰川の流域に粟を栽培していた人々の集団を、かりに大栗族と名付けると、その祖神は粟を穀どころとする上一宮大粟神社の大宜都比売命であると伝えられている。この祭神については別に神社のところで説明するが、当時の集団が心のよりどころとして最も身近く、しかもゆかりのある神を氏神として崇敬したことは、いうまでもなかろう。古い記録や物的証拠がないので、粟の神としての大宜都比売を氏神とした事に研究の余地があろうとも、粟を栽培した阿波の国に古くから今に残る鮎喰川の粟にまつわる幾多の伝承は、われわれにとっては離れがたい語り草であり、かつ強い誇を持たせてくれるのである。

古来の伝承によれば、阿波の国では神武天皇の頃、勅命を奉じて天富命が来てカジ・麻をまかれたとし、忌部族が粟の国を開拓したのが、最も古いとされるが、『古語拾遺』には、「仍て天富命をして日鷲(ひわし)命の孫を率い肥饒の地に遣わし、阿波国にカジ麻の種を植えしむ。」となっている。全国でよく肥えた土地を選んで移住したのだから、粟の国はそれ以前からよく肥えていた事になり、その地は大栗族の鮎喰川流域と考えられる。阿波の国名の起りにも色々の説があるが、神領に残る古い記録に、「上古未だ郡制のあらざりし時、今の名東・名西・板野・阿波四郡の地は、一県地で総称は粟又は阿波と唱へしも孝徳天皇の大化元年に勅して県を廃し郡をおき大県の地を分割して数郡をおき小県を合併して一郡とせしことは国史の徴するところにして、粟の県もこの制度にならひ大栗山の付近は名方郡となり、その次は板野郡となり、その残地は古名残りで阿波郡と称することになりしもの……」とある。この説は多くの問題を持って一概に肯定し難いが、阿波の国の名は粟のよくできた為に生れたと解してもよいと思う。この粟の最も早く栽培された地域は、鮎喰川流域であったと思われる。

三、阿波川と阿川

鮎喰川の名にも色々な説がある。その一つに鮎が多くてその味がよかったのによるというのがある。また川の名はその流れる地名による場合が多く、この川も古い時代には大栗川で、上流の上分では川又川または上山川と呼ばれ、入田では入田川といわれている。今、阿川の観善寺所蔵の大般若経五二四巻の奥書に、「阿州大栗山於阿波川……」とあるが、これが今の阿川になったものであろう。この阿波川はもと「粟川」と呼ばれていたのでアワガワがアガワになったものと思われる。

第四節 大栗文化圏

一、大栗文化圏の範囲と昔の行政区劃

平和な鮎喰川流域に、粟を耕作して安住していた人々が、祖神大宜都比売命をいわゆる氏の神として祀り、その地域に一まとまりの集団生活をしていたと考えて、この地域一帯を大栗文化圏と名付けたい。その地域は、現在の神山町と入田の一部を含む鮎喰川の上・中流流域の地であったと推察される。そして中世から近世まで、この地域を大栗山と呼んでいたことは次の記録によってよくわかるのである。

阿川村観善寺所蔵の大般若経の奥書に、
一四巻 于時嘉慶二歳次戊辰正月廿三日大栗山上山千野房憲海…
五八巻 嘉慶二年裏則三日 大栗山長宝寺…
六七巻 大栗田口神宮寺
六八巻 于時嘉慶二戊辰二月吉日大栗宮山神宮寺…
七〇巻 嘉慶二戊辰正月廿六日大栗山神宮寺…
一七二巻・一七三巻 阿波名西郡大栗尾呂野(今鬼籠野)観音寺…
四七四巻 阿波国名西郡大栗下山神宮常住…(神宮は今の二宮八幡神社である。)
五〇八巻 嘉慶二戊辰二月十七日大栗下山古内地神寺
五二四巻 阿州大栗山於阿波川(今の阿川)書写了…
五二五巻 于時阿州大栗下山古内政所…
五九七巻 阿波州名西郡大栗下山古内書写…

また焼山寺文書にも左の通り記されている。
寄進 焼山寺領大栗山左右内…(これは暦応四年(一三四一)九月一三日の文書で、今から六二〇年程前である。)
寄進 焼山寺領下山分…(これは延文二年(一三五七)四月七日の文書で、今から約六〇〇年前である。)

右の二つの文書から、神山一帯の地域を大栗山と称していたことが知られ、その人口は郷戸の数から推定して一、〇〇〇人乃至一、五〇〇人、戸数は五〇戸程と考えられるのである。大栗山は、この頃すでに上下に分かれていたので、阿川・広野・入田の一部を大栗下山とよび神領・鬼籠野を普通に大栗山とよび、下分・上分を大栗上山と呼ぶならわしであったのである。なお右の文書中六七巻に、大栗田口神宮寺とあるが、この田口の称は田口氏によるものである。神社の章でも詳細に述べられるであろうが、平安朝時代に田口息継が阿波の国司となって名西山分を自分の勢力範囲とし、桜間城に居を構えた。この田口氏が、上一宮大粟神社を厚く信仰したので田口の神と呼ばれるようになったと伝えられる。今の鬼籠野は、その時からずっと神領分であったことが文書に残っている。慶長十三年(一六〇八年、今から三五〇年前)五月一一日の『大栗谷上一宮神領分検地帳』には、次の村々が掲げられている。

野間村 上角村 岩丸村 桜ばさみ村 梨木村 大野路村 和田村 長命村 大窪村 あをいぶ村 あほう坂村 小野路村 黒川村 喜来村 坂瀬川村 日浦村 南浦村 中津川村

また上山分が二つに分れて、上山村下分・上山村上分となったのは、延宝二年(一六七四年、今から二八四年前)である。この頃から上分・下分と呼ばれ、大栗山と言えば単に鬼籠野を含む神領の一地域の呼び名になった。


第二章 成長した埴生郷

第一節 大化の改新

一、大化の改新

大化の改新は、地方の豪族や中央の権臣が私有していた広い土地と多くの人民を、すべて国家の公地・公民にしたので、この頃から日本は国家としてのまとまりを形式の上でも内容の上でも整え、国民も人間らしい取扱を受けるようになったのである。男子は六才になると田地二反・女はその三分の二を分け与えられる。毎年それを耕作し、その税として一反について、稲二把二束を納めたので、一反は三六〇歩、一歩は六尺の正方形で、大体一歩からは一把の稲がとれ米にすると五合になる。一〇把が一束であるから一反からは三六〇把になり、米にすると一石八斗位で、今の枡目で約一石すなわち一八〇リットルぐらいになる。

このように田を分けることを班田といい、それによって貧しいながらも人々は自分の耕地を耕作するよろこびにひたるこができた。またこの外に畠と宅地も分けてもらい、畠には桑と、うるしなどを植え、畠と宅地は売買が許されていた。この制度は六年毎に戸籍を作って人口を調査するので非常に手数がかゝり、いろいろな事情のために折角のよい制度もしばらくの間だけで、次第に崩れてまた土地を広く私有する貴族や豪族が生れたのである。

納税にはこの租の外に庸(よう)と調(ちょう)があって、一七才以上六五才までの男子が納めた。庸は一か年に一〇日だけ国家のために勤労奉仕をすることと定められ、その代りに布で納めたので、一日は二尺六寸、一〇日で二丈六尺であった。調は地方の物産をさし出すことで、絹であれば幅二尺二寸、長さ八尺五寸となっていた。

二、その頃の阿波のすがた

大化の改新によって、これまで粟と長との二つに分れていたものが合されて一国になって「アワ」と呼ばれた。国は郡に分れ、郡は里に分れて、一里(今の一村)は五十戸で、阿波国は当時阿波・名方(名東・名西)・板野・麻植・勝浦の五郡に分れていたらしい。里には里長があり、郡には郡司があり、国は国司が治めていた。名東郡の国府町府中に国司の庁(役所)があり、息長田別命の子孫が国司に任ぜられ、奈良時代になると四年または六年で交代したのである。また一説には、この国司を「粟の君」とも言ったと伝えられるから、あるいは大栗谷一帯から国府までをその本據としたとも考えられる。

第二節 埴土(はにう)郷

『和名類聚抄』の郷名の章によると、名西郡には埴土(はにう)・高足(たかし)・土師(はじ)・桜間(さくらま)の四郷が掲げられている。これは国司の支配地であって、この他に荘園があったのである。神山町は埴土郷であって、埴生郷は、『阿府志』によると神領を中心として上分から入田に至る鮎喰川流域の地であるという。大化の改新の時の里は後に郷と改められて、一郷は戸数五〇で、一戸の人数は二〇人から三〇人の大家族であった。それで埴土郷は一、〇〇〇人か一五〇〇人の人口を有したものであろう。その頃に、鮎喰川流域の大栗谷すなわち今いう広い意味の上山谷には、すでにこれだけの大集団が生活していたのである。


第三章 佐々木と弓折

第一節 大桜越

神領と鬼籠野とが分れたのは今から二五〇〜二六〇年前で、それまでは一つの神領村であった。一の坂(弓折)を通る大桜越の道は、徳島に通ずる昔の重要な幹線道路であった。今は神山町として合併され、この旧道も鬼籠野出身の山本最純氏の美挙によって大桜トンネルが掘られ、徳島市と神山町を結ぶ最短コースの重要な交通路にカムバックしようとしている。この大桜に至るところに、弓折というさびしい山坂がある。ここには佐々木経高にまつわる伝説として、弓折の悲話がある。

第二節 弓折

鎌倉幕府の横暴を抑え、政治の実権を朝廷に回復しようとして、後鳥羽上皇が承久三年に幕府打倒の命を下されて起ったのが承久の乱である。この時佐々木経高は、阿波・淡路・土佐の守護職として石井町の鳥坂の茶臼山城にいたが、その子高重とともに後鳥羽上皇の軍議に加わって、経高は参謀となり、高重は各地において善戦した。高重は京都の守護職伊賀光秀を攻め殺し、さらに美濃で戦い、ついで瀬田で防戦し、破れて戦死した。この承久の乱は上皇方の負け戦となり、経高は破れて山城の鷲尾山中に逃れたが、後ついに自殺した。この時、阿波では小笠原長清が佐々木氏の茶臼山城を攻めたので、高兼・秀経等はよく防戦したが、遂に城をぬけ出て鬼籠野の一の坂まで落ちのび、武運もこれ迄と、弓を折って一族は帰農した。その場所という意味で残ったのが弓折の地名であるが、後に蜂須賀家政が一の坂と改めた。

高兼は高重の弟で二郎と称していた。父経高や兄高重は、京都に上り官軍に味方して奮戦していたので、自分は本據の茶臼山城にこもっていたが、戦に敗れた高重の子秀経が、茶臼山城に帰ってきた。秀経を守って城を出た高兼は生来病弱であったので、つくづく前途を思い弓矢を捨て、承久三年九月十一日、秋の夕に弓折で散ったのである。


第四章 山嶽武士

第一節 阿波と南北朝

建武の中興は、足利尊氏の異心によってつゞかず、後醍醐天皇は、延元元年(一三三六)京都を出て大和の行宮に移られ、それから約六〇年ほどの間を吉野朝時代または南北朝時代という。阿波でも南朝と北朝とにわかれて戦い世の中が乱れた。北朝の尊氏は前から四国を重要視していたので、自分の片腕にもあたる細川和氏をここに配した。和氏は延元元年阿波国に入り、阿波郡の秋月城(板野郡土成町)によって広い吉野川平野を支配し、讃岐を従えて、ほとんど全四国に勢力をのばした。このように北朝の勢力は、細川氏を中心に平野の部分に盛んであったが、一方剣山を中心とする四国山脈による武士すなわち山侍は、平野の武士に対抗して、山嶽武士として、吉野の朝廷に対し勤王の誠忠を尽したのである。

第二節 山嶽武士とその連絡

山嶽武士の根拠地は、けわしい四国山脈の山嶽地帯で当時の田井荘・祖谷山・龍野山・大栗山・一宮にわたる一帯の地域であった。この連絡路は名東郡一宮から鮎喰川をさかのぼり、名西山分の上分に至り、川井峠を越えて麻植郡の木屋平に入り、保賀山峠を越えて美馬郡一宇村に行く。さらに西の小島峠を越えて東祖谷山を過ぎ、西祖谷山の国見山を越えて三好郡の川崎に出て、吉野川に沿い、伊予川をさかのぼったものである。さらに国外との連絡は東は一宮から小松島または勝浦に出て、紀州の西海岸、あるいは熊野から吉野に入ったのであろう。西は伊予を経て瀬戸内海の島を伝い、九州の東海岸から肥後に通じたのである。現在のように交通が発達した時代と違ってその頃の交通路は、峯を伝い山腹を横ぎり河を渡り、けわしい山路をたどる難行路であって、今も残る神領の山伏街道はそれを物語っている。すなわち鬼籠野の元山を越えて上角の白桃に出、大久保を通って野間の長命を過ぎ、高根に渡り長倉に出る山腹の街道であるこの道は恐く焼山寺に通じたものであろう。この山嶽武士の勢力範囲は、また言葉の上からも裏づけられると思う。それは金沢治氏の研究によれば左の如くである。

「語彙の上から考えると山分は大体共通である。ことばのアクセントは木屋平は穴吹川の上流であるが吉野川沿岸地方とちがっている。そして那賀郡の奥地、名西郡の奥地及び祖谷のアクセントと同様である。これは川による交流でなく、山を越えての交流を物語るものである。」

細川氏が全阿波を手に入れた時の阿波武士の動向は『阿波志巻十七』に次のように記されている。
「初めて細川定禅讃州に攻来るに付いて阿波国板東・板西・一宮氏などは細川に来従せり。大西の小笠原阿波の守義盛は南朝の末までも後醍醐天皇御方なり。時に頼春初めて阿波郡秋月の県主の家にありて国政を行う。従もあり従はざるもあり、従はざるは攻めけり。」
従うもあり従わぬもあり、従わぬは攻めたということは阿波武士も全部細川氏の味方でなく、南朝に対して忠勤を励んだ者もあったことを証するものである。

第三節 小笠原氏

大西城の、小笠原氏の家系は『阿波国徴古雑抄』所載のものを底本として小笠原和三郎所蔵文書を参考とすると次のようである。

小笠原系図
小笠原長清ー長経
ー長房ー長久・長義・義行・義清・義盛…┌頼清
└頼実
└長宗ー成宗(一宮氏)ー成行

小笠原氏は甲斐にいた源氏で、長清は源頼朝が鎌倉に兵をあげた時から味方となり、承久の乱には留守護佐々木氏の一族を討って鬼籠野の弓折に滅すなどの功があって、承久三年佐々木氏に代って阿波の守護職に任ぜられて入国した。その子長経が職をつぎ、長房は三好郡の大西に移ったので、子孫は三好氏を姓とした。小笠原義盛は阿波に於ける山嶽武士の頭領として活躍し、三好郡洲津に城を築いて讃岐の宮方と連絡していた。

第四節 神領の城山と山嶽武士

一、小笠原氏と一宮城

山嶽武士の東の拠点は、鮎喰川流域一帯に勢力をもつ一宮城主小笠原宮内大輔であった。一宮の小笠原氏は守護職小笠原の一族で、小笠原長房は大西城に移ったが、長宗に至って周辺に勢力を張り、国府に近く東方の要害の地である一宮城によって阿波の下半国に勢力を振っていた。

一宮城は前方に鮎喰川を隔てて穀倉地帯の吉野川平野を望み、鮎喰川を上れば名西山分に通じ、麻植郡の木屋平と連絡し、さらに焼山寺から麻植郡の東山を経て藤井寺に出、遠く讃岐へのひそかな連絡路をもち、後は山また山の要害地である。長宗は待望のこの地に據り、神領から大栗谷一帯をその勢力範囲におさめ、神領の氏神を一宮大明神とよばせて、自ら一宮大宮司と名のり、その分霊を上八万に移して下一宮とよび、もとの大栗山を上一宮と称した。長宗の子成宗の時、長子成良に一宮城の本據を相続させて守らせ、次子成直をして神領の神官の家をつがせた。

二、城山の占める座

一宮城の一つの出城とみられるものが大栗谷にある。古い記録には城山について次のように出ている。
京地塁——京地にあったために言われた。
神領塁——『阿波志』に、「神領塁在神領村紀成良築之」
上山城——『阿波古城記』に、「阿波駿河守……京地名という山にあり」
『阿波国郡村誌』に、「神領塁は神領村西方字寄井にあり。山上平地一町、一宮成直據、天正年中木屋平越前守のために落城す。」と記されている。

いろいろな文書があるのでよく検討しないと、何れが真実であるか分らないが、ただ共通しているのは城であったことである。この城は館をもった城ではなくて、一つの塁(とりで)と解釈した方がよい。当時の小笠原氏の勢力範囲にある出城で、しかもこの塁は焼山寺と上分の東宮城とを結ぶ重要な中間の連絡據点であった。

三、城のかまえ

近く焼山寺に対し、はるかに東宮城を望む、最適の地という感が深い。今に残る地名などを考え合わせて城の構えを推定してみよう。

正門は東に面し、寄井から合名に入る旧道に「松の木坂」があり、この上に門があって、今は「門屋敷(かどやしき)」と呼んでいる。この門を入ってすぐに「上泉(うわいずみ)」があり、これは重要な飲料水で、上の泉すなわち武士の使用する泉の意であろう。その上に薬師堂が残っているが、これは自願寺の跡で、その上に「長倉」という良い倉庫があったものと思われる。倉庫はこの長倉と城山の下にある「古庫」と二つあった。武器や弾薬や武士の装具などをこの倉庫に納めたものであろう。丸尾の上を「長倉丸」といい、ここは城山の出城であった。城山の南の鞍部に「原の馬場」という地名が残っているが、これは馬術の訓練をした調教場とも考えられる。この下に長福寺があるが、これは嘉慶(北朝年号西暦一三八七)の大般若経の奥書に見えているから、今から五八〇年余り前からある古い寺である。この城が時に応じて使用したものであろう。城山の下の古庫は狭いから長倉を作ったので、古い倉庫という意味であろう。京地名に「西の屋敷」があるが、ここに城主が居たのであろう。西の屋敷の下に「下城」がある。今は「下屋敷」とよんでいる。西の屋敷を南にのぼると「垣の内」がある。今は「かぎのと」とよんでいるが、昔はここに城の「城戸」があったためによばれたものと思う。「かぎのと」を東へ石堂の方に入ったところに「門野(かどの)」という地名があるが、これも「門」があったのであろう。「かぎの戸」は現在下分になっているが、慶長時代の検地帳には神領分になっている。合名の在所のつきるところを「きど」とよんでいるが、ここにも「城の出入口」があったのであろう。

四、山伏姿

山嶽武士は「もとどりの綸旨」を持って吉野朝廷のために忠義をつくした人々であり、阿波に於ける忠誠の鑑である。綸旨は天皇の命によってその旨を伝えるために側近の者が書いた文書で、横三〇cm縦は横よりか少し短く薄墨色の厚手の紙を使ったものが普通で、本県では三木文庫などに残っている。ところが「もとどりの綸旨」は「白綸旨」ともいって、横一二cm、縦一一cmぐらいの薄い白い紙に書かれた小型のものである。これは武士が山伏姿に変装して京都方の厳重な監視の目を逃れるために、小さく折りたたんで、もとどり(頭髪)の中に隠しこんだり、笠の裏に入れたり、着物の襟に縫いこんだりするために、都合よくしたものと言われている。全国でも珍らしくその数も多くはないが、本県には木屋平村の松家氏に四面も残っている。

山嶽武士は細川頼之のために滅亡したが、吉野朝五七年間のうち、四七年間も忠誠の火を阿波の山中にもやしつづけ、山嶺をわたり渓流に沿い、山伏姿に身を包んでの難路の踏破は、今考えても容易な事でなかったことがわかる。こうした先人の偉勲は、私達の村に今もなお脈脈として生きつづけている。当時の人々による遺物の一つは板碑であるが、今も吉野朝時代の正平板碑が大栗谷に現存している。神領の板碑には、北朝年号のものが多いのは、一宮城の落城後に立てられたのが残ったものと思われる。しかしこの問題は、なお今後の研究に待たねばならない。

「阿波歴史史料集」