「阿波歴史史料集」

第八章 農民の身居(みすわり)

第一節 行政から見た身居

封建時代はすべて階級の世の中であって、職業によって身分は固定せられ、その身分は世襲であった。江戸時代には士・農・工・商の四民に分けられ、政治の上からは支配階級の武士と被支配階級の町人・百姓との二つに区別せられた。百姓や町人も、また階級によってそれぞれ上下に分れていたので、この格式による身分を、身居(みずわり)といった。[cite: 103]

一、村の行政から見た身居

(一) 庄屋(平庄屋)
今の村長で、村の行政の主体であった。進退は郡奉行によった。苗字、帯刀を許されていたものもある。事務多忙な村には助役をおき、庄屋が幼少の時には後見人を置いた。[cite: 103]

(二) 与頭庄屋(組頭庄屋(くみがしら庄屋))
数カ村の村役人の長である。その組内の村治の指導者となって、多くの庄屋を支配し、村政を運営する責任者である。進退は庄屋と同じく、苗字・帯刀を許された。[cite: 103]

(三) 肝煎(きもいり)
拝知百姓の身分で庄屋になったものをいう。[cite: 103]

(四) 五人組
支那の制度にならって江戸時代に設けられ、普通は五軒が集まって組を作り、組頭があって組中の吉凶について助け合い、犯罪と年貢については共同責任を持ったものであるが、この組織は阿波には実在しなくて、阿波の五人組は、庄屋を援けて村治に当る庄屋の補助機関であった。[cite: 103]

(五) 行(あるき)
村役人の一人で触使と改められた。行きは下り者と思われていたので、五人組と同等の資格を与えられたが、まだ不充分と見たのか、弘化年中に郡代所から与頭庄屋に「下り者などと称して縁組などう嫌ふは甚だ不都合なり、五人組同等たる旨、洩なくふれ知らせよ」と厳命した。もっとも、ふれ使は布達や上申の内容を一般文盲の村民に十分徹底させる仕事のため、一般よりも知識がすぐれていなければ出来ないものであった。[cite: 103]

(六) 取立役
年貢取立の役人である。[cite: 103]

(七) 郷目付
郡代奉行の任命で、与頭庄屋以下五人組にも干渉する。適当な所に配置し、受持区域を定めて巡視し、挙動不審の者や盗賊を警戒する、現在の警察のような仕事を司った。身居は、苗字帯刀御免で、打裂羽織(ぶっさきはお織)に裁着(たっつけ)という半袴の裾に紐を付けたものをはき、下に脚絆をつけていた。提灯は阿波藩の印入りに、郡代所御用と書かれていた。[cite: 103]

(八) 同心
郡代所に所属し、目付役と共に、郡内における犯罪の検挙・治安の事に従うた。服装は目付役と同装で、十手・捕縄を持ち、提灯は前面に化菱・後には地方御用と書いてあった。[cite: 103]

(九) 番非人
普通番太といった。隠密または探伺といい、与頭庄屋に属し、郷目付巡視の際に従召連れられた。常に隠れ忍んで秘密に犯人を探偵し、逮捕するのを任務とした。棟付帳にないくらいだから、蒲鉾小屋で生活し、家族の暮しは苦しく乞食同様の生活であった。正月には師季乞いに廻り妻は頭も竹の櫛・引結髪で、正月に鳥追いに廻る外盆・正月その他の祝日や吉凶の場合に、人の軒に立って物を乞うた。偵察に廻る時には捕棒を持ち、夜中は無提灯であった。[cite: 103]

二、農民の身居

基本となる身分は本百姓で、一般は百姓または平百姓といった。[cite: 103]

(一) 御蔵百姓・拝知百姓
年貢を納める先によって分ける。御蔵百姓(おくら百姓)は年貢を藩の倉におさめる百姓。拝知百姓(はいち百姓)または頭人百姓(とうにん百姓)は年貢を藩の家臣におさめる百姓。[cite: 103]

(二) 本百姓
地主であって、中には武士の待遇を与えられたものもあり、百姓の基本である。[cite: 103]

(三) 平百姓
自作で、農民の中で最も多い身居である。[cite: 103]

(四) 水呑百姓
小作農で、小前百姓などとも呼ばれ、家を持たないものや、日かせぎなどの貧しい農民であった。[cite: 103]

(五) 間人(もうと)
平百姓より低い身分で、二人で一人前の百姓で、夫役は半人分であった。板野郡大山村の夫役帳によると、百姓は六分の負担で、間人は三分の負担であった。明和年間から間人の名が「見継人(みつぎ人)」となった。この間人も、一定期間すなわち三代または四代をすぎると、一かどの百姓になった。文化の棟付帳には間人の称はなく、これに相当するものは見継人という。三代過ぎれば百姓居(すわり)となって、夫役がかかり、見継銀は免除せられた。[cite: 103]

(六) 名子(なご)
本百姓の屋敷内にすみ、その家の土地を耕作して支配を受けるもので、隷属的性格の身居である。一寸の私有地もなく、地主の援助と支配をうける。しかし勤勉と努力によって高を持ったものは、小家格となることができた。[cite: 103]

(七) 下人
名子の下の純粋の農奴に下人がある。下人は昔の家人すなわち家来と同格である。両親の合意の上で貰い受けて下人とする場合や、迷い子や捨子を拾って育てる場合、下男と下女の間にできた子を養う場合などがあった。下人は人間としての自由がなく、牛や馬の如く使役せられ、売買せられても、苦情の言えぬ身分である。この下人でも格があがって名子になることもあった。[cite: 103]

第二節 壱家(しょうけ)と小家

一、壱家と小家との関係

壱家は本家のことであって、株内の総大将という意味である。小家は壱家の分家または別居で、本家の支配を受けたが、土地の所有権は別であり、社会的に独立の地位は認められなかった。本家は小家に対してお触れを伝達し、小家から犯罪者の出た場合は連帯責任をもって犯人を探した。また本家の最も大きい責任は、先祖の年忌法事をすることで、これは本家としては面目にかけても励行しなければならぬもので、この法事ができないようになると、本家の株を失って小家とならねばならなかった。本家は株内一統の主座で、その代表者で、雑多の費用は本家の負担であり、また年貢の上納についても完納するまで責任を持たされていた。忌懸(いみがかり)の小家は、冠婚葬祭については、嫁の里よりもまず本家に相談した。[cite: 103]

二、壱家の責任

本家役が勤まらないと、株内の有力なものに本家をゆづったもので、享保九年名西郡之内上山村(下分)棟附人数御改帳にその例がある。本家役の仕事は祖先の年忌等であって、今日の日如く経費の少いものではなく、かなり多額にのぼったので、本家は相当の経済力がなとつとまらなかった。小家の中で、家柄もよいし資産もある者が、株内に推されて本家の諸事を取りはからうことになったものと思われる。それで、村役人に届出をして次回の棟附御改めの節には、御奉行のお聞届を得て棟附帳に登録した。このように小家中のものが納得して本家株になる場合には別に問題はおこらないが、もし本家株になりたい希望者が複数出て来た時は、本家株の争が生じて奉行所に訴え争いがおこることもあった。[cite: 103]

三、小家の成立

小家は壱家の分家または別家のことであって、小家となる場合には次の種類がある。兄弟が親の財産の一部を譲り受けて小家となる(分家)。親が長男に財産をゆずり、その一部を持って別家する(隠居)。主家が、その下の下人を解放して別かまどを立てさせる場合で、これを下人小家、または下人放しという。小作人の小家を名子小家といい、名子が主家を放れて分れたもの。[cite: 103]

小家の中には忌懸(いみ)小家と忌外れ小家とがある。忌懸は本家と血族関係にあるもので、忌外れは血族の関係はないが本家と従属関係にあるものである。小家となって一軒前の百姓に昇格することは身分制度のきびしいその当時の状態から考えるとまことに破格の待遇であって、下人・名子には一代の名誉であった。[cite: 103]

小家となるための手続は、公的には役人の前で本家と互に得心の上捺印して、庄屋がこれを認め役人が許可したものである。そして私的には本家に相当の金を納めたり、また株内一同を招待して盛大な披露宴を張ったという。[cite: 103]

四、小家解放の変遷

享保頃までは、別家することが多かった。別家するには、本家の財産すなわち田畑の分割が行われる。それで江戸幕府は分家によって農民の細分化することを恐れて、寛文一三年や正徳三年にこれを制限する法令を出している。これは享保年代までは、農村の中に開墾による収容力があったためであろう。[cite: 103]

文化時代になると、別家が少く、解放による小家が多くなった。この頃から農民の異動が多くなり、走り人などが出ている。農民は苛酷な身分制度から逃れようとして金銭によって一人前の百姓や武士の株を買うことによって、地位の向上を図るようになった。[cite: 103]

第三節 いろいろの身居

一、郷付浪人

浪人というのは主人も職禄もないが、武士の待遇を受け、苗字帯刀御免で、代々世襲であって、普通の村人の上に立ったものである。村役人の支配を受けたのを郷付浪人といい、村役人の支配を受けずに、郡代奉行の支配を受けたのを郡付浪人といった。[cite: 103]

二、夫役御免人

藩政時代には農民には重い年貢の上にさらに夫役(ぶやく)が課せられたのである。一五才以上六〇才以下の者は二分役といって毎年銀五匁を負担したのである。この二分役を免ぜられたものは、女子と、一四才以下・六〇才以上の男子と、無役人・夫役御免人とであった。[cite: 103]

三、小高取

士分の待遇を受けたもので、先祖に功労があったかあるいは献金したかによって禄を受けたものである。石高はただ名目的で、その資格を与えられたものと思われる。[cite: 103]

四、郷鉄砲

平時は農業をしていて、事があると隊を組んで小頭に率いられて鉄砲で戦うために置かれたもので、地方における兵隊である。徳島城下には御鉄砲衆というのがあった。郷鉄砲になったものは砲術・槍術・剣術の稽古をしていた。この階級も自由に売買ができたものである。本村にはこの郷鉄砲となったものが多い。[cite: 103]

五、身居の変動

藩政時代には特に階級制度が厳しく、終生その階級で重税と公課に苦しんだ。従ってその階級から一歩でも昇進しようとして、間人から小家にさらに壱家へと百姓達は苦労の道を歩んだ。その根元をなしたものはやはり資産であって、それで藩は財政が窮乏すると、組頭庄屋・平庄屋などの役職は勿論、五人組・小高取以下の身居を経済力の豊かな農民に半強制的に売りつけた。この名目は役礼銀・冥加金であった。右の冥加金制度によって、本村にも半強制的に献金させられたものがあったのである。[cite: 103]

六、木地挽(木地屋)

木地屋という身分は定住しないのが原則だが、本村では定住して山八合目から上の木を自由に伐って、ろくろ細工をしたのである。定住しているものは農業も営み副業にろくろ細工をしたものであろう。木地屋の先祖は、近江国愛知郡東小椋村大字君ヶ畑に鎮座する大皇器地祖(おおきみきじそ)神社の氏子と称して日本全国を股にかけて諸役御免の綸旨をいただき、菊花紋章付の旅行提灯を振りかざし、山林中に生活して木地の諸器物を製作しあるいは殖林事業を営んで代々世襲したのである。諸役御免であるから木地屋としてろくろ細工をしながら、生活の基盤はやはり農業に置いていたのであろう。[cite: 103]

七、いろいろな店と職業

藩政時代には生活の基本は自給自足経済であったから、現在のような商売や店屋は、非常に少かった。ただ、どうしても自分の家で作ることができない生活必需品は、店から買ったのである。本村には塩を売る店、茶屋、徳島市内に弟子入りした桶屋などがあった。また、紺屋という職業があり、自分の家で棉を作り、糸に紡いだものを紺屋に持参して染めて貰ったものである。農耕道具の製作修繕には鍛冶職があった。大鋸引(おがひき)という身分は藩から仰せ付けられたものであろう。百姓をしながら藩の命令で、一年に三〇日間夫役として出ていたもので、そのために外の税は免ぜられたものであろう。[cite: 103]

八、身居へのあこがれ(身あがり)

藩政時代には、生れた家柄によってその人間の一生は決められていたので、何とかしてよい家柄の身分になりたいと心を砕いたものである。農民は苛酷な身分制度から逃れようとして金銭によって一人前の百姓や武士の株を買うことによって、地位の向上を図るようになった。[cite: 103]


第九章 検地と年貢

第一節 検地帳

藩政時代の土地の税金は、年貢といわれた。そのもとになるのは土地の面積を調べた検地帳で、この検地帳によって大名や藩士は年貢をとり立てた。検地は田畑の面積・地味・水利を調べて等級を定め、その田畑から収穫される米の量を算定したものである。この結果を記録した帳簿を検地帳、一に水帳という。[cite: 103]

第二節 検地帳の見方

田の等級は上・中・下の三種で、さらに細分せられて一〇等になっていた。石高は、不盛によって定めたこの田から取れる米の責任収穫量である。この年貢の取り立て役は、庄屋や五人与で、小家の方は壱家(本家)が責任を持ってまとめる。年貢は御蔵百姓の分は藩の御蔵米となる。神領では上角の栗飯原氏の前に「くらどころ」があって米の年貢を入れた。毎年一二月二五日までに納めたのである。また文化の地図には、現在の神領小学校の位置にも蔵があったことが記されている。[cite: 103]

第三節 川成

川成は、大水のために田が流れて川原になったので、免租される土地である。年貢が引かれるのを川成引という。丸川成は、永久に川成で免租地である。[cite: 103]

第四節 山畠

山畠というのは、山を開墾した傾斜地の畠のことで、あるいは焼畠であろう。ここには、そばなどを作ったものであろう。畠の場合の年貢は麦だけである。麦年貢は毎年六月二五日限りにおさめた。打直しというのは、測量をしなおすことである。打戻とは、もとの土地に返ったということである。[cite: 103]

第五節 新開検地

普通の検地帳の外に『新開検地帳』と『仮検地帳』がある。新開(しんぼり)検地帳は、新に開墾したのを調べたもので、川成等で荒地となった土地を開墾するには、鍬下料を納める。その後耕作して三年位すれば、年貢地となって年貢を納めるようになる。年貢地となっても検地がある迄は、仮検地帳によって年貢を納めたのである。また上毛帳といって、茶に対しても年貢がかかり、米に換算して納めた。[cite: 103]

第六節 検地のかね

秀吉が天正の検地をした時、今までの貫高を改めて石高に直して、一反を三〇〇歩とし、一間を六尺三寸に改めた。三〇歩を一畝とするのもこの頃からである。慶長七年(一六〇二)の全国検地から、六尺一分の間竿を使ったが、阿波では昔のまゝの六尺五寸の間竿を使い、その後、度々検地が行われた。[cite: 103]

第七節 税金

税金の主なものをあげると、田畑に対する年貢(原據は検地であり、米と麦で納めた)。税率は四公六民といわれている。自分の田に定められた米の、四割を年貢に、六割を自分の収入とした制度で、これを四ツ物成という。しかしその外にも、いろいろな付加税があって結局は反対の六公四民ほどになっていた。[cite: 103]

自作のものはこれで普通作穫れるとよいが、小作農はこの所得を地主と半々にす るから、米を一石作っても自分の手に残るのはわずかである。凶作となるとみじめなもので、家に病人でもあると文字通り水呑み百姓の生活である。このような農民の生活は、不安と生活苦から、凶作の時には一揆となり、あるいは土地のやみ取引が行われ、また田畑を捨てゝ他郷へ逃げ出したのである。[cite: 103]

内麦と外麦という制度は、他の藩には見られないもので、二毛作田では米の一部を麦で上納させた。麦は洪水や台風の心配がなく、大体平作がとれたので、これを軍馬の飼料にも供した。[cite: 103]

その他の雑税としては、歩役(人頭税)、地役・村役(役人が巡視する賄費)、小役(雑用税)、定井料(用水の修理費)などがあった。身居が低いほど重税と過労を強いられて間人・名子・下人は年貢と労役の二重三重に重い荷を負わされて、全く乞食のような生活であった。[cite: 103]


第十章 農民の生活

第一節 お 触 れ

藩政時代の農民は、動きのとれぬ身分上の制約を受け、さらにその上に藩からは、色々のしてはならない禁止のお触書によって、全くがんじがらめな不自由な束縛を受けたのである。お触れによる命令には絶対服従が要求せられ、農民の上訴は原則として取りあげられなかった。そして集団謀議による上訴などは極刑に処せられた。[cite: 103]

一般に百姓は、原則として絹物は禁止せられ、食事も雑穀を主とさせられた。特に冠婚葬祭において、酒や肴の分量や品質まで身分に相応するように規定している。何によらず身分相応という考え方が基調をしていたのである。これらのお触れは江戸幕府の享保・寛政・天保の改革と関連しているので、特に天保二二年のお触れは極めて細かい事までに及んでいる。[cite: 103]

思想方面でも、”我侭は一切通らない”、何事も”昔からのしきたり”を守り、新しく善い事でも変更する事はできない。道徳の根源は忠孝を一番大切とし、不忠不孝者は重罪に処せられることになっていた。このような世の中では、進歩も向上もなく、ただ昔からのしきたりだけが大きく世の中に巾をきかせ、人々を暗い冷い生活に追いこんでいたのである。[cite: 103]

主食の米に対するお触れも、これが食糧中最も主要なものだけに、極めて厳しいものがあった。各藩は民間の米の移出入を禁止し、自分の藩の禄高の米を他藩に出すまいとして、あらゆる手段を講じた。限られた土地で、しかも豊作だけではなくて凶作のことも多かったので、藩では開墾を勧めた。それでも人口の増加するだけ開墾は進まず、結局苦しい食糧事情に終始した。このような問題を解決するために、今考えてもぞっとする間引や圧殺が行われ、貧しい家庭では棄子をした。従って棟附帳にのる人口はあまり変動しなかった。[cite: 103]

第二節 人 身 売 買

人権が尊重されている現代では、人を売買することなどは全くうそのように考えられないことであるが、封建時代には人もまた家畜や商品のように取扱われていたのである。永代売(死ぬまで売られ、全く自由を束縛される)・年切売(一定の期間を定めて売られる)などが行われていたのである。[cite: 103]

永代売りは一生浮かぶ瀬がないもので、一人前の人間として扱って貰えないわけである。ただ売られた家の主人が慈悲深い人であるように希うだけが頼りである。[cite: 103]

年切本銀返しは、何年か期限を極めて人を売り、使っている労力が利子となるので、本の銀がその期間中に支払いできないと期限は無効となる方法である。五年の期間をきめて西光寺へ売られ、五年の間に二三〇目の本銀を返した時は、元の自由な身になれる。その間に借金の支払ができない時は無効になる。[cite: 103]

本捨(ともすた)りの売買は、期間さえ済めば、元の自由な身分になれる方法で、まず束縛の少い方である。このようにして売られた者も、身受けといって元の一人前になれることもあった。[cite: 103]


第十一章 いろいろな事件や騒動

第一節 次郎銅山事件

次郎銅山は、延宝二年(一六七四)約二八四年前に、大阪の奈良屋吉兵衛・備後屋次郎右衛門が草分けとなって掘り初めたもので、その頃上分と下分とが現在のように上分上山・下分上山に分れた時である。その後大阪のくさまや徳兵衛・国本禄七が掘り続け、さらに小松島浦の寺沢六右衛門が引きついだが、この時は盛んであった。降って元禄になって上野長左衛門の事件があるまで二〇年ばかりは坑夫も多く藩でも屈指の大銅山であった。[cite: 103]

次郎銅山事件を引き起した底流があったと思われるがそれは孫之亟の訴訟である。この訴訟に見られるような上野家に対する一般農民の意識が底流として存在していたために、神領で最も大きな事件となったものと推察されるのである。上野家は当時神領を中心とした大栗谷に於ける一大財閥であり、絶対的支配権力を持ったお山の大将であった。封建制度下では、ともすると権力を持ち財力を持つ者が恨まれ勝ちであり、またそうなり易い環境である。同じ大埜地に住む孫之亟が、自分たちの主人に当る上野家を訴訟するなどば、余程の事情がない限りしない筈である。積年の鬱憤や不平が、ついに義憤として爆発したのであろう。考え方によると孫之亟が大衆の意志を代表してぶちまけたと見てもよい。[cite: 103]

残された文献が少いので、事件の全容を十分知る事はできないが、銅山の御蔵米すなわち公有米二、〇〇〇石の違算によるものである。上野家は、前に孫之亟の訴訟により天和二年に庄屋又右衛門は処罰を受け、さらに次郎銅山事件によって元禄六年倅亀十郎とともに欠所の上死罪になった。当時処刑された人々の数は総計五三三人で、これは当時の神領に於ける総人口の三割強である。如何に大きな事件であったかわかる。死罪が五一人追放が一〇三人、残りが立退人でさらに絶家が一四軒となっている。[cite: 103]

第二節 海 部 騒 動

益田豊後を一三年間神領の大谷に幽閉したことが、『大栗誌』に見えているので、この事件の海部騒動を略記する。益田の妻は蜂須賀正勝の妻の弟で、家政は五、五一七石を与えて海部郡に置き、その子豊後には七、五〇〇石と小さい城と鉄砲卒四隊を附し、南方の守備として海部郡に配置した。[cite: 103]

豊後は海部郡にいて郡政をとっていたが、ひそかに海部郡を私有しようと思いたち、幕府の重臣にこびへつらっていた。豊後の子外記は、家臣と相談して山民を救済する道は海部郡内にある松・つが・もみなどの大木を伐採することが最も適した施政であると断定し、郡内にある数十年来の大木を伐り、これを売って私腹を肥やそうとした。この噂が当時江戸にあった藩主の耳に入り、よく調査して見ると、噂に間違なく豊後等の仕業と分った。[cite: 103]

以上の如き大事件となったので、藩では国元の重臣が相談したが、豊後は正勝の従弟で家政の叔父に当るため、よい案もなく困っていた。井伊掃部頭が係役となり、豊後について事情を取調べた。その結果、事は明白になって豊後の所置は阿波藩主に一任せられた。その後、藩主は豊後を大栗山に放逐した。時に寛永一〇年であって、記録によれば豊後は大栗谷から護送中に死に、外記は徳島の大安寺において殺されたとある。[cite: 103]

第三節 樋口茂兵衛の最期

上角の善覚寺の上に苔むした五輪塔が寒々と立っている。この五輪の下には海部騒動の張本人益田豊後の家臣である樋口茂兵衛が静かに眠っている。この茂兵衛の最後には次のような伝説が伝えられている。たぶん海部騒動の罪によって樋口茂兵衛も神領の庄屋上野長左衛門に預けられていたものであろう。[cite: 103]

いよいよ藩主から樋口茂兵衛を殺せという命を受けた上野長左衛門は、樋口茂兵衛は剣の達者であるから、命のままに茂兵衛に正面切って斬りかけても怪我人ができるに違ない。だまし打にする外はないと思い、碁に誘い出して大埜地の酒屋(高橋氏、後に大野と改めた)で碁を打っている時、女中に茶を運ばせ、過って茶を火鉢の中にかえさせて、その灰かぐらの立っている時に斬ったという。また一説には、上角の善覚寺で碁会を行い、帰る時に下駄をかくして、それを探している隙にその背中に斬りつけて殺したとも伝えられている。いずれにしてもだまし打にしたのである。[cite: 103]


第十二章 幕末から明治へ

第一節 神領の庄屋と役人

六右衛門が大埜地村にいて庄屋をしていたことは、棟附帳によって明らかであり、『大栗誌』の上野家跡書や、『旧神領村誌』にある大栗谷七カ村の組頭庄屋などの文書を見ても大埜地は上野家である。その後蜂須賀氏入国の時、大栗谷は重要な土地であるから、善い政治をせよとのことで庄屋になった。[cite: 103]

代々の庄屋としては、小川六右衛門、河野重兵衛、鎌田丹兵衛(岸丹兵衛)、岸直右衛門、岸市左衛門、岸熊蔵、岸新左衛門、岸栗里、岸有意(白堂)などが村の行政を担ってきた。特に岸有意は、清廉潔白で公平な庄屋として大栗谷一帯の信望をうけ、訴訟事なども皆有意のさばきに絶対の信頼をおいたと伝えられる。明治三年に徳島藩権少参事に任命され、民政局副主事から参与会計局に入り、ついで西民政所の所長となった。[cite: 103]

第二節 解放された農民

慶応三年頃から王政復古のきざしが見られ、武家政治七〇〇年の終幕が近づいた。政治上の変革で、これほどのショックを与えたものも少い。封建制度のかたくなな心と、解放された心とが交錯して、考えも及ばぬ事をただ勢に押されてやっている。何でもええじゃないかもその一つの表れであろう。[cite: 103]

第三節 ええじゃないか

政治や戦争などの大きな変り目に会うと、人の心は動揺して仕事も手につかず、自由気ままなその日暮しになり、何かの動機で大きな渦をまきおこす。七〇〇年の武家政治が徳川幕府三〇〇年で終をつげた時、人々は動揺してええじゃないかの波紋を描いた。名西郡でもこの波紋にゆらぎ、各村ともよく似た騒動があった。[cite: 103]

ええじゃないかの波紋が神領にも及んで来て慶応三丁卯年一二月一九日卯の刻、野間に御降臨と称して庭先の松の木に毘沙門天二体がかかっていた。近隣の人々は相伝えて大栗家に集まり、馳走を振舞われ「何でもええじゃないか」と口々にとなえ、御馳走をたらふく食べた。[cite: 103]

第四節 制度の変革

人心も漸くおさまった明治の初めに、いろいろと制度が変った。明治二年七月、藩主茂韶は封土版籍を奉還して徳島城内に藩庁が置かれ、茂韶が藩知事になった。明治九年には村行政も変更せられて、与頭庄屋の中から大庄屋用煎と大庄屋とを置いた。それよりも一般農民にとって大きな変革は、氏を名乗ることであり、同時に職業の自由な選択であった。[cite: 103]

明治五年五月に大小区制がしかれ、阿波を一〇大区とし名西郡は第二大区となり、神領は第四小区となった。明治八年五月三日、区長・戸長改正の達しがあり、八月八日以降は官選であった区長と正・副戸長は公選にすることになり、さらに級別となり、戸長は一・二等に分かれて拝命した。これより先、明治五年二月壬申(じんしん)戸籍を作成した。今までの棟附帳の代行であって、家数番・職業・氏名・年令・家族名、妻・養子の上には親の氏名を書き、氏神と檀那寺とを記してある。[cite: 103]

明治二二年になって市町村制が実施され、その後昭和三〇年三月三一日に名西山分の五カ村が合併して神山町となって現在に至っている。[cite: 103]


結 び

”歴史は生きている”

今という現在は、人類が発生してから幾十万年かの遠い昔からの時の流れの中の一点であり、さらにそれは後の未来永劫に続いているのである。しかもこの現在は、止まることを許されない流転進展の瞬間である。その生きた時の流れである歴史を、そしてわが神領村の歴史を今静かにふり返ってみたい。この村誌発刊を機として、村民各位が古い神領の姿を正しく解釈し、先人の歩いた尊い道を将来の生活に活かせ、さらに私たちの郷土をより高くより深く発展させる根拠ともせられるならば、それは望外のしあわせと思うものである。[cite: 103]

「阿波歴史史料集」