「阿波歴史史料集」

第六章 言語伝承[cite: 16]

第一節 口碑・伝説[cite: 16]

一、大人の足跡[cite: 16]

昔、巨人がいて富士山を一夜にしてつくったなどという伝説は、日本各地に聞かれるものである。本県でも井内谷村誌等に、大人の足跡の事が記されているが、本村の野間吉田山の山頂から少し西に下った所に面積一反歩位の平坦な所があり、土地の人々は、これを「大人の足跡」と呼んでいる。また、上角名塩水の上にも「大人の久保」という所がある。共に、昔大人があって歩いて行った足跡だといわれている。隣村の鬼籠野一ノ坂・下分の左右内にも同じ伝説の地がある。[cite: 16]

二、響[cite: 16]

大埜地の西、最近出来た潜水橋の突きあたり附近の地を「ひびき」と呼んでいる。これは、橋の下手、川の北岸に天然石という大きな石があった。昔々その昔、天竺から此の石が落ちてきて、七日七晩響きつゞけた。故にそれから「ひゞき」と呼んでいるのだそうである。しかし、惜しいかな肝心の天然石は昭和一三年九月の大洪水で流されてしまった。この地に「響」という姓の家もあり、屋号を「天満屋」と云って、昔の上山街道であったため宿屋を営んでいたそうだが、大正五年北海道根室の方へ引越し今では畑になっている。[cite: 16]

三、長法寺(長宝寺)[cite: 16]

長法寺と呼ばれながら、現在はさゝやかな庵にすぎないが、昔は立派な寺であった。今から五六七年前の嘉慶二年、この寺の住僧良意という人の書いた大般若経が、現在阿川の勧善寺に保存されているので、伝説ではなくて立派な史実である。なお、大埜地には、千蔵寺・蓮花寺(現在の朝井氏宅附近)・名北寺など、寺跡がいくつも残っている。このことは、昔この地が神領の文化の中心であったことを物語っている。また勧善寺の御経は、各地の僧が書写しているが、本村では長宝寺の外、神宮寺や長満寺の名も見えている。これらの寺が随分昔からあったことがわかるわけである。[cite: 16]

四、角場(カクバ)[cite: 16]

大埜地の浦辺氏の前、昔の大野という酒屋の屋敷の上段の田を「カクバ」と呼んでいる。これは藩政時代大栗谷七カ村の与頭庄屋であった岸家が、正月七日に広野以西七カ村の郷鉄砲(昔は炮の字を当てた)をこの地に集め、的を建てて射撃の腕くらべをした故に、との名を残している。[cite: 16]

五、原の馬場[cite: 16]

大埜地の原家の在る附近の広い土地を「ハランバ」と呼んでいる。これは藩政時代慶安・元禄の頃、藩主蜂須賀家から五〇石を頂戴していた大人物、上野長左衛門が、馬の稽古をした所故、それ以後「原の馬場」と呼んでいる。また附近に「ゴムタ」の屋敷という三畝位の畑がある「五武太」〜「吾無太」という小人が住んでいたのであろうか。[cite: 16]

六、池 の 尻[cite: 16]

大埜地浅井氏の家の前に「池の尻」と呼ぶ田がある。昔ここに蓮花寺(北寺)があった時、寺の池の水が溢れてここに流れていた。故に池の尻と伝えられている。[cite: 16]

七、六 地 蔵[cite: 16]

中学校の北側の道路の傍に宝篋印塔と、石の祠の中に地蔵が刻まれ、名が記されている。これは、昔ここに立派な御堂があった跡で、文化三年の地図には庵の建物としされている。この地蔵さんは、子供の寝小便を治すということで願をかけ、治ったら子供の年数だけおつべりをしたそうである。[cite: 16]

八、お 頭 坂[cite: 16]

現在の小学校から山本氏の東の方へ上る坂道を「おかしら坂」と呼んでいる。これは今の山本氏の屋敷が山分の与頭庄屋岸家の屋敷であったため、この坂を「お頭坂」または、岸の門と呼ばれて来た。山本氏は今の屋敷の西にあり「カンジャンキ」と呼ばれていたが、「お勘定屋敷」であったそうである。また学校の上の井上氏の屋敷を「クワイショ」と呼んでいるが、これは「会所」で、岸庄屋が人々を集めて評定したところと伝えられている。もう一つ、佐伯氏附近を「フルマ」と呼ばれているが、これは「古政所」の略で、和田村と呼ばれた頃の庄屋のことであろう。[cite: 16]

九、札 場[cite: 16]

上角名の西の端に札場という所がある。札場とは高札場(制札場)すなわち掲示場のことで、時々の藩の御達しが貼り出されたが、時には罪人の罪状が書いて貼られたり、罪人を「ボーホ」という木にしばりつけ世の人に見せた所で、椿坂の谷の附近の畑では獄門にかけられていたともいわれている。[cite: 16]

一〇、塩 水[cite: 16]

昔から塩水が出るので有名である。藩政時代に著わされた『阿州奇事雑話』や『燈下録』にも記されている。大正の末年から昭和初年にかけて、善覚寺の前に「弁天泉」という湯屋が出来て、この塩水を引いて湯を沸していた。[cite: 16]

一一、新馬場(※推定補記)[cite: 16]

通称北岸道路といわれている滝津—小野の道路の、坂口氏宅附近から上角川出尻までの、鮎喰川に添った地を「新馬場」という。上角の旧馬場では都合が悪くて新にここに作られた故に新馬場と呼ばれた。かけ馬は、上角川の出尻から奥の坂口氏宅の方に向けて行われていた。[cite: 16]

一二、大 蓮 寺[cite: 16]

大栗山の南麓に「大蓮寺」という所がある。これは藩政時代に新田山良蔵院大蓮寺という修験道の寺があった所で、今地名だけが残っている。来称徳兼は世の習い、今は大蓮寺も廃寺になり、良蔵院と呼ばれる一宮家に移った。大蓮寺が現在の良蔵院に移った年代ははっきりしていないが、一宮家を今は良蔵院と呼んでいる。この良蔵院も火災に罹って寺宝はことごとく焼失している。八幡神社の境内の南端にコンクリート作りの小祠があるが、その内陣に安置されている薬師如来と書いた石は、大蓮寺の遺物と云われている。前にこの内に「天保十一年六月九日新田山大蓮寺」と書かれた棟札があったが、今は見当らない。また四国霊場第一七番井月寺には、現在国宝の十一面観世音の木像があるが、これはもと貞蔵院のものだとの説がある。しかし詳らかではない。[cite: 16]

一三、はしあげ[cite: 16]

上角の町の西端に毎年氏神の祭礼の際、屋台神輿を下して休憩するところを「はしあげ」と呼んでいる。この「はしあげ」は、昔の馬場で競馬の決勝点になっていたようである。東からかけてきてこの坂を走り上るとか、馬が返りをしだそうであるということで『阿州奇事雑記』やから「はしあげ」という地名になったわけである。(※一部、原典「八、お頭坂」の引用が混在)[cite: 16]

一四、御蔵のはら[cite: 16]

本上角栗飯原家の前におくらの原と呼ばれるところがある。これは藩政時代ここに蔵があり、藩に納める年貢米を入れたためにこの地名が残った。神領には今一つ小学校の所に「御蔵」があった。何れも文化三年の神領村地図に記されている。[cite: 16]

一五、椿 坂[cite: 16]

下番と上角名との境に椿坂という地名がある。今は道路が良くなって大した坂ではないが、旧藩時代から明治中期までの上山街道は、今の「はしあげ」から西へずっと旧道を通って札場に至り、今の上・下の道路の間を通る細い坂道を通って渕の方へ下りて来たもので、こゝに大きな椿があった。故に椿坂と呼ばれ、昔車の通らない時は、人の肩や馬の背によって物資が運ばれていたのでこの坂で馬がよく転び難儀をしたそうである。椿坂磯八氏の先代は、何時も竹の先に鎌をつけたのを用意しておいて馬の腹帯を切って馬を助けたそうである。『阿陽忠功伝』に木屋平若狭守領分天正年間迄、木屋平・森藤・川田・東山・種野・別枝・桁山・中村・三ツ木・川井・名西郡内椿坂とある。既に、この頃椿坂の地名があった。[cite: 16]

一六、下番(シモバン)[cite: 16]

中津名という地名の起りは、元禄年間の大水によって川幅が広くなり、川の中に洲が出来たため、それが地名となったと云われる。従って最近に出来た地名で、それまでは和田村と呼ばれていた。このことは慶長一三年(三四七年前)の検地帳によって明らかである。この中津の内を下番といゝ、中津というが、古老や他村の人々は今も下番と呼んでいる。
昔、かけ馬(競馬)の盛んであった時代に、この地に「下番」(ゲバン)と呼ぶ土地代表の良馬があり、長命名には「上番」という馬がいたので、その名残りであると云われる。また「和田」とは、海や河の湾曲した所にある田地を云うのだそうである。谷間のはざまなどに比較して、やゝ広い土地をいったものである。本県では入田の日和田・国府町の和田などがある。[cite: 16]

一七、神田(ジデン)[cite: 16]

青井夫に「神田」という所がある。これは蜂須賀家政(蓬庵公)が入国された時この地へ来られ、大栗山の由来を聞かれ、上一宮大明神へ御供田と薪山を奉られた時の田が、この青井夫の神田であった。以後神田と呼ばれていたが、いつしか「ジデン」となった。『阿波志』に「神田、林を賜う」とある。蜂須賀氏が御神料を奉献されたことは史実である。[cite: 16]

一八、青井夫の船戸[cite: 16]

鬼籠野との村境の近くに船戸と呼ぶ地がある。これは名東郡一宮村の船戸にある船尽神社から船戸神を勧請したことから地名がおこり、お舟戸さんの始めとせられ、霊験あらたかなりといわれている。現在お舟戸さんは杉丸氏宅の上、畠の中にある。[cite: 16]

一九、悲願寺の常夜燈[cite: 16]

現在悲願寺にある塔(燈台)の形をした常夜燈は、明治初年まで高根部落の新墓地にあったが、あまり風当りが強くて度々修理を要するので、現在の所に移したのだそうである。この常夜燈が昔燈のところにあった時は、この燈夜籠の火が淡路・撫養方面からも常望まれたと云うことである。このため毎年津田の漁師が灯油を一年分寄進していたという。[cite: 16]

二〇、高根在所[cite: 16]

近年まで高根八軒(文化年間)といって、高根の在所には家が八軒あった。田畠が相当あったことも、文化年間の地図や古老の言伝えでよくわかる。この人たちの先祖は、元暦・寿永の昔、讃岐屋島の合戦に敗れた平家の一族高根主計介が落ちのびて来て安住した地と伝えられている。文化の進むにつれ山の中の生活が不便不自由なので次第に谷・寄井方面へ転住した。高根から下りた家は皆な高橋の姓を名乗っている。[cite: 16]

二一、鎧の岩屋[cite: 16]

悲願寺から南へ伝って山谷という所へ行くと、ここに鎧の岩屋という大きな岩窟がある。平家の落人がこゝへ落ちて来て鎧を脱ぎすてた故に、この名が起ったと伝えられている。[cite: 16]

二二、手足谷・胴谷[cite: 16]

高根の悲願寺へ行く途中に手足谷という所がある。また小野の五味には胴谷という地がある。如何にも変てこな恐しい地名である。昔々の大昔、死体を埋めることをしないで風葬した時代に、ここに死体を放置した故手や足がこの地に残っていたために、この地名がおきたのであろう。
風葬地帯は犬飼ずといわれているが、大昔はどうであったやら知る由もないことである。[cite: 16]

二三、舟乗り[cite: 16]

石堂の在所の上に、舟乗りという所がある。村が湖の時代だったといわれる昔々大昔、こゝから舟に乗った故舟乗という地名が残ったのだそうである。[cite: 16]

二四、風 穴[cite: 16]

雨乞滝の東側の山腹に大きな石の洞穴があって、土地の人はこれを風穴と呼んでいる。この穴は土佐の甲浦へ抜けているといわれている。甲浦にも同じ伝説があるという。[cite: 16]

二五、腰 掛 石[cite: 16]

谷名の向井福太郎氏(椎の上)の門先の田の中に一つの石がある。これは昔一宮長門守が悲願寺へ参詣のみぎり、この石に腰をかけられ対岸の「えびす岩」を見られたと伝えられている。それ以後、この石に触れると腹が痛くなるとして手をふれず、正月にはしめ縄を張ったりしたそうである。[cite: 16]

二六、氷 献 上[cite: 16]

高根山の上に氷小屋というところがある。藩政時代高根の人々がこの地に大きな穴を掘り、冬、左右山に下る方の氷滝から自然に出来た氷を採り、沢山の雪を集めて穴の中に氷を貯蔵し、盛夏になればこれを藩主に献上した。その故に高根の人々は数町歩の山林を無年貢で貰っていたそうである。氷献上の時は徳島から藩士が来て、この士と共に高根の人が氷を箱につめて背に負い蜂須賀の定紋入りの提灯を灯し城下に至って献上したそうである。この時使用した箱が、昭和二〇年頃まで高橋輝一氏宅にあったそうであるが、こわれてしまって今はない。『阿波国最近文明史料』によると、氷の献上は旧暦の六月朔日であったそうである。[cite: 16]

二七、太守の雨乞滝観覧[cite: 16]

雨乞滝は、名の如く昔から旱魃の際に農民が雨乞をした故に起きた名だと伝えられている。今から百一〇年前頃までは滝より渕の方が物凄かったようである。文化の地図にも「雨乞の渕」とある。この頃は滝へ行く道も充分でなく、岩や木の根・蔓などが生繁って通行も困難であった。文政七年(西暦一九二四年、一三三年前)三月一五日、蜂須賀一四代斉昌公(俗にお西丸様)が滝を御覧になるとて大勢の御供を連れて神領に来られ、大埜地の高橋源蔵氏方に宿泊され、翌日雨乞滝を御覧になったが、この時谷の門田氏が谷から滝までの道路を修理したので、褒美として桐胴火針一対・煙草盆・刀掛を下賜された。それらは今なお門田家に保存されている。[cite: 16]

二八、観音さんと蚕[cite: 16]

高根の観音さんは蚕の神様として昔から有名である。昔、一宮長門守の奥方が蚕をかっていた所、急に蚕が桑を喰わなくなったので色々と方法を考えたがどうしても喰わない。ところがその夜高根の観音の夢告で、新しい別の桑と取りかえればよいとのことで、早速その通りにすると蚕はよく成長した。それ以来奥方の信仰が厚く、一般の人もこれを聞いて信仰が次第に拡がり、養蚕業の盛んな頃には、二月の初午詣りに遠く麻植・阿波・勝浦の各郡から講組を作って参拝する人が多く、終日寄井まで人の群が続く有様であった。[cite: 16]

二九、えびす岩(笑子岩)[cite: 16]

一名目口滝と呼ばれ、藩政時代に著わされた『燈下録』にも詳しく出ている。石堂の在所と向き合った山の上に大きな岩石が苔などによって遠方から見れば「えびす」の面によく似ており、快晴の日にはこにこ笑うが如く、また曇りや雨の日は面が曇って気色悪げに見える。大自然の造化にしてはあまりにも美事に出来ている。[cite: 16]

三〇、長倉の薬師[cite: 16]

長倉の御薬師堂の本尊薬師如来が何人かに盗まれた。数年たって徳島の仏具店に出ている薬師がどうも盗まれた仏像に似ているとの噂が土地の人々の耳に入ったので長倉の人が徳島の仏具店に見に行ったが、さて、これというはっきりした覚がない。一つ試に薬師さんに直接尋ねてやれと思い「もしもしお薬師さん、あんたが神領の長倉のお薬師さんならどうぞ何か一つ顔を動かして下され」と頼んだ。ところが当のお薬師さんがパチパチと目を動かしたので、それから「目ひき薬師」といわれて有名になったそうである。薬師像は現存しているが、こゝに安置されていた金色まばゆい観音像が、近年になってまたも盗み出されている。立派な仏像だけに惜まれてならない。[cite: 16]

三一、自 願 寺[cite: 16]

長倉の薬師堂の北の畠は慶長の検地帳にもあって、自願寺の屋敷あとだと伝えられている。この薬師はもとは自願寺のものであると云われている。昭和二六〜七年長倉道路を改修した時、この附近から瓦が出たそうであるが惜いことに全部道路にうづめてしまって充分には判らない。[cite: 16]

三二、松の木坂[cite: 16]

昔の道は何処も同じだが、川沿いより山の尾にある。この坂も寄井から高根・石堂へ行く道の登り口で、松の木があったからつけたものである。この道の基点に、「安永三年、山より二十七丁」と書いた高根への丁石がある。安永は今から一八二年前で、西暦一七七四年であるが、既にこの時には高根山の信仰が非常に盛んであったものである。
(附)昔は、丁石・墓石の一つにしても、莫大な金と労力を費やしたもので。今のように簡単には建立できなかった。[cite: 16]

三三、ガ行さん(二つ)[cite: 16]

(一) 旧暦の大の月のこもりの晩は、外で馬の「くつわ」のジャンジャン鳴る音がしても、絶対に見たり、のぞいてはいけないと云われている。一宮長門守の亡霊が首切れ馬に乗って高根参りをするのだそうである。(谷地方の伝説)[cite: 16]

(二) 阿川久保の内の若い衆が大勢よって髪を結って貰い先にすんだ者が大埜地の酒屋へ酒を買いにくることになって、夜おそく日浦のカサムの近くまでくると、ジャンジャンと馬のくつわの音がするのでびっくりして傍の草むらに身をかくすと、馬上から「こゝに二ノ宮さんがおいでる」と声がして通った。そこで帰って調べてみると、今ゆった髪のもとどりを結んだ紙が、二宮神社の御札であったとのことである。[cite: 16]

三四、古庫と長倉[cite: 16]

『阿波志』に「神領塁紀成良之を築く」とある。紀成良なれば源平時代になる。また『阿波古城記』には、阿波介範春という武士がおったとも伝えている。城山のことは別の項にゆずって、何れにせよ城主の勢が盛んななれば年貢も多いし、必要な武器・兵糧の類も多くなる。るようになる。それで古くからあった庫が古庫で、新しく出来た倉が現在の長倉の地であろう。[cite: 16]

三五、谷地方と墓など[cite: 16]

鎌倉から室町時代へかけて建立された板碑が、神領で現在総数三〇有余基発見されている。その内高根に三・花折に一・長満寺墓地に三・長倉鎮守様に五・佐藤明神に一・合計一三もこの地方にあり、また五輪塔も約一〇基ある。これから考えて、この時代に、この地方には豪族がいて、すでに開けていたことがわかる。[cite: 16]

三六、大 水[cite: 16]

昔元禄年間に大水があり、各河川が氾濫して家も耕地も一面に押流された。その時寄井の若宮神社附近に住んでいた人たちは周囲を水に囲まれて逃げ場を失い、今残っている「えの木」に鈴なりによじ登って危難をさけたそうである。この大水にこりて附近に住居のあった人は日浦・えびそ谷・影と、各々山に引上ったということである。川又川が今の高浜田だいを通って松の木坂へ抜けていたというのは、現在の地形や岩の状況から見てうなずけるが、それはもっと古い時代であろう。[cite: 16]

三七、巨 木[cite: 16]

(一) 現在の尾田安雄氏宅の北側にあり、そこに樟の大木があって、その影は遠く下分の寺久保まで届いていたとのことである。近年(戦時中)その附近を開墾していたところ、樟の根が覆いかくしたような中から一文銭の入った「かめ」を尾田氏が掘り出した。これで樟の木のあったことははっきりしたわけである。[cite: 16]

(二) 大久保の森根氏方の前に今桜の茂った小さな森があるが、昔は、ここに「スマルの松」といって大きな松があった。そして「スマルの松」の名は他町村にまで聞えていた。徳島へいってもこの松を知らないと他村人と疑われて宿泊が出来なかったそうである。[cite: 16]

三八、楠 権 現[cite: 16]

高浜の在所から奥へ約二丁程行ったところに楠水という地があって、今もこんとんと清水が湧いている。(大栗家所有山)。こゝに昔大きな楠があって用材にしようとして二〜三人がゝりで切り始めたが一日で切れない。一夜あけて翌日行って見ると、斧を入れない前と同じになっている。不思議に思いながらも、また昨日と同じように切って翌日行って見ると以前と同じことである。二度三度重ねるうち、ふと一計を案じ、斧で削った分だけの木屑を火に燃して灰にしてしまった。こうして切り進んでいると、ある日の夕方、木の中から「チワヤ」を着た人が幾人もゾロゾロ出て来て皆な南の方へ行ってしまったそうである。とにかく何か変事があったのであろうその樵夫が泊っていたという大星氏宅の上に、楠大権現という小さな祠がある。現在ある一番古い棟札は、文政三年辰七月九日高浜氏子、吉太とある。[cite: 16]

三九、小野の赤竹[cite: 16]

小野の地蔵庵は、昔(慶長以前)は大きな寺であったらしく、今の庵の前方に「大門」という地名が残っている。この大門が朱塗りで、その朱色が前の竹やぶの竹に映えて美しく、そのやぶを赤竹と呼んだそうである。やぶ跡は現在の農協の倉庫附近と思われる。[cite: 16]

四〇、氏 神 様[cite: 16]

昔、今の氏神様は大栗山の頂上「天べの丸」に祀ってあった。この時は、大埜地田だいから野間田だいまで一望の内にあって、田だいの中を笠をかむり、またほうかむりなどして通行や作業が出来なかった。それで今の古祠場へ社殿を移した。ところが今度は上角の人が社殿の前を下肥を担いだり、葬列が通ることが出来なくなり、再び村民が相談して現在の地に御移ししたそうである。それで以前の地を古祠場と呼んでいる。[cite: 16]

四一、大師と滝津[cite: 16]

昔々大昔、神領は大きな湖で、その余り水が上角から青井夫の方へ流れ「あぎのたお」の峠へ泡となって打越していたそうな。「泡の峠」が「あぎの峠」になったそうだ。ところが弘法大師が四国巡錫のみぎり、これを干拓したら広い耕地が出来ると着眼して、牛に鍬をかけて滝津の山を掘り割ったそうな。それで今も岩に鍬跡が残っているし、この時鍬先にかゝった石を放り投げたのが大こ石だそうである。昔々の物語り。[cite: 16]

四二、高根山の名の起り[cite: 16]

高根の土地は大昔、味鉏(アジスキ)高彦根の神がお開きになった。そのために古えは高根津山と云っていたが、何時しか津の字を省いて高根山と呼ぶようになったそうである。味鉏高彦根命は、出雲の国大国主命の御子で、事代主命の御兄君にあたる。[cite: 16]

四三、悲願寺と野間中山堂のこと[cite: 16]

野間中山にある中山庵は、現在粗末な貧弱な庵であるが、今から百年前位の堂は朱塗りで、彫刻などを多く使用した立派な庵であったが、火災によってその後現在のようなものになった。今も仏像には焼跡が残っている。今の堂の前にある細い道の下の畑を昔から御坊屋敷と云われているが、こゝに珍らしい伝説が一つある。[cite: 16]

摂津国(兵庫県)多田の庄に住んでいた源満仲公(長徳三年歿す、九六二年前)、世に云う多田の満仲公の第三子美女丸は性質が非常に荒々しく、人を殺めなどして父満仲の心配の種であった。そこで満仲は摂津の中山寺(現在西国一九番)の別当職で、かつ自分の家来の藤原仲光に美女丸を僧にすべく托したが、美女丸は二〜三年たっても素行が治らない。かくては家名の汚れと、父満仲は重大な決意をして仲光に美女丸の首を斬るように命じた。しかし仲光は、如何に主君の命とは云え美女丸を斬る事が出来ず、我が子宝専丸を身代りに立て美女丸を他国に落してやった。その後仲光は別当職を辞し、美女丸の行方をたずねる傍ら、我が子の冥福を祈ろうと中山寺を退き諸国の霊山霊場を巡り阿波の国に足を入れた。そして我が神領村に来て図らずも美女丸が悟をひらき、高根山に悲願寺を建てて行を改めているのに出会った。それで安堵した仲光も野間に中山寺と呼ぶ庵を結んで主君や我が子の追福、我が身の後生を祈りつゝ、ここで身を終えた。そこで、こゝを摂津の中山に因んで中山と云う。また仲光のいた地を御坊地と呼んでいる。[cite: 16]

四四、高根と弘法大師[cite: 16]

今から約一、二〇〇年前弘法大師が四国の国々を巡られ、高根山に登られ「はぜの久保」の高原を見て、ここに真言宗法燈の大道場(今の高野山)を開くべく決心されたが、飲料水が不充分なのを惜しまれて道場建設の決心を変えられ、現在の高野山に開かれたそうである。[cite: 16]

四五、板挟の藤原[cite: 16]

小野板挟部落の始めは本家一軒で、藤原某なる人が吉野方面から大峯さんを背負うて来住した。それでこの地に大峯神社が祀られた。また一族の人々が次第に増加して板挟の在所を作ったと伝えられている。[cite: 16]

四六、青井夫と河野[cite: 16]

青井夫には河野姓の家が多い。同名八幡神社の境内には二〜三軒宛で祀っている小祀が沢山ある。何れも「角切り角に三」の河野家共通の家の紋をつけている。この河野の一族は伊勢の国川之江から転住したものと伝えられ、その時に持って来た仏像が今庵に祀られている本尊だと云うことである。寄井・谷・野間の河野も皆同じ系統であるが、何れが本家かわからない。野間の妙見さんも河野氏が川之江から移したのだと伝える人もいる。[cite: 16]

四七、崩れ(ザレ)[cite: 16]

(一) 川又の在所は、昔前の山が崩れて中津名まで埋め敷など、もこの時埋まったということである。
(二) 野間の中山も山崩れがあって、中山神社が土砂に埋まったのを掘り出すうち、つるはしの先が棟木に当ってやっと掘り出したと云われている。
(三) 筏津も昔長命の方から山崩れで押出して出来た処で大西利雄氏の屋号を「ハリヤケ」と云うのもこれから始ったと云うことである。
(四) 上角と青井夫の境、むろすの池田氏の前の段々畠も表土の下はくり石ばかりで、大昔つら山が崩れて押出してきたものと伝えられている。[cite: 16]

四八、子供と遊ぶ地蔵さん[cite: 16]

小野の農協の上段に堂があるが、この堂に祀られている地蔵さんを、子供が良く持ち出して玩具にして遊ぶ。夏など川に持って行って木像に縄をつけて川に浮かせて浮袋の代用にしたりなどするが、もしこれを大人がとがめると大人に罰が当るそうである。それで子供は自由にするし、時には川に忘れてくることもあり、大水で川下に流されることがあっても、誰かがまた元の堂へ安置してあるそうである。それで地蔵さんも今は頭も胸も判別がつかぬ程磨滅している。青井夫の山の中にう良く似た話がある。[cite: 16]

四九、かさぼとけ[cite: 16]

寄井のエビソ谷の上流の山頂と、大久保の堂の上には昔から「かさぼとけ」が有る。子供の腫れ物を良く治して下さるとか云って、今も小さい金の鳥居やはたが供えられている。まあ皮膚病の神様であろう。[cite: 16]

五〇、寄井町と辻堂町[cite: 16]

現在の寄井町を辻堂町と云ったのは、明治初年頃の野間名の集金帖に辻蔵町とあり、また佐藤宗蔵氏(松原屋)の古書の奥書に(安政六年二月、神領村辻堂、松原屋)とある。今寄井町の中程にある地蔵堂(おぞうさん)を昔は辻堂といっていたので、その名をとって辻堂町といったのであろう。『阿波孝子伝』の辻堂五郎右衛門の項に、「慶安元年より神領村に来り茶菓子を売りて辻堂に居住せり」とある。また、松の木坂にある高根山の丁石に(安永三己午天、よりい講中)とあり(安永三年は今から一八二年前)、また文化三年の神領村の地図をみると今の谷川より西の狭小路附近を寄井と記してあるから、昔は川西が寄井、川東は辻堂町であり、次第に東へ発展して寄井町になったものであろう。[cite: 16]

五一、山又(やまた)[cite: 16]

冬大雪の朝、雪の中に大足で歩いた足跡が見られる。その歩幅は四〜五尺もあり到底普通人の足跡ではない。しかもそれは必ず一本足であった。これを山父と呼び、正体は分らない。最近では全然見当らないそうである。[cite: 16]

五二、天狗の声[cite: 16]

野間の某氏が、川又の芝小屋の手前、狸石の附近まで来ると何か音がするので誰かと思い、「オーイ」と呼びかけると自分の声の何倍も大きい声で「オーイ」と返事する。さらに大きい声で「オーイ」と呼ぶと、前よりもさらにさらに大きい声で、しかも頭の上で「オーイ」と答えた。某氏はびっくり仰天、飛んで帰り、以後一人で絶対に奥山に行かなかったと云う。[cite: 16]

五三、平野の狐[cite: 16]

今から約三〇年前、寄井附近で毎夜のように鶏が盗まれた。誰云うとなくこれは狐の仕業であると騒ぎ出し、川又川の平野の桑地(現河川敷)の石垣附近に鶏の毛が散乱していたことから、その附近に狐がひそんでいるに違いないと、物好な連中が附近一帯をくまなく探したが見付らなかった。その後鶏の被害もなくなり、狐の噂も消えた。全く狐に化されたような話である。[cite: 16]

五四、大麦五升の争い 附、神宮寺鐘銘のこと[cite: 16]

頃は、上野長左衛門が庄屋の時代、当地方は五穀稔らず飢餓に襲われた。これがために藩庁から救恤の米・麦が庄屋長左衛門の手を通じて分配されたが、藩から下された量と分配された量とに食い違いがあるのを知った徳兵衛は、何とかして長左衛門の不正を上役人に訴えたいが方法が見付らない。ようやく一計を考えた徳兵衛は、大晦日の夜、徳島に行って佐古山の頂上で大きな焚火を始めた。この火が御城にいた城主の目にとまり、早速役人に命じ逮捕させて取調べた。その際長左衛門の不正を訴えたということである。[cite: 16]

徳兵衛は、以前侍で両刀を帯び、珠算は殊に上手で、「徳兵衛の算盤に違算はない」と広言していた通り、取調べの結果、長左衛門に大麦五升の不正があることが判明し、村役人・訴人ともに処分された。その後徳兵衛の霊を慰さめるべく、村人が相談して梵鐘を造り、その鐘の音を聞くたびに徳兵衛の徳を偲んだ。この鐘が神宮寺にあった釣鐘である。(但し、この話は史実とは若干異っている)[cite: 16]

五五、隠岩と初日山[cite: 16]

青井夫名の通称中山の頂上の東端に秋葉神社の祠がある。この秋葉神社から峰伝いに約二〇〇米程北に行くと隠れ岩がある。古人の伝えるところによると、初日山へ平家の残党が籠り、源氏は隠岩から攻め、平家方はことごとく討死してこの地に埋められたと云うことである。現在初白山には、これらの戦死者の霊を、初白山不動明王として祀り、近郷近在、遠くは北方からも参詣者が多い。[cite: 16]

五六、太 鼓 石[cite: 16]

上角名と東大久保と鬼籠野へ流れる分水界にある。南面して大久保谷へ向い、大きさ直径二米位の大太鼓を台に据えたような形からこの名があって、有名である。[cite: 16]

五七、燧 石[cite: 16]

大久保名山本柳助氏の宅から上流へ約一〇〇米位の所にある。昔この石の破片を燧石として使用したので、燧石の名を生じ今にこの名が残っている。[cite: 16]

五八、大久保の「フルコーシ」[cite: 16]

氏神様が当地方を平定しようとして、南方勝浦郡の方から進入して来たが、現在の御馬石附近まで進んで来た時、土匪の抵抗に会われ容易に進行ができなかった。ためにその乗馬を停めてねんごろに諭され、汝はこゝで石と化せといい法力を以って石とされ、御自身は法力を以って西方等高の現在「フルコーシ」と呼ばれる地点に飛行して難を避けられた。この時飛行するのに距離が遠くかつ高度も高いため、身体を震わせて越えられたことから「フルイコーシ」と呼ばれたが、後次第に「フルコーシ」というようになったということである。
氏神様はその後、大栗山の山中で一人の樵夫に会われ空腹であったため樵夫に弁当を求められた。樵夫はあり合せの木の葉にのせて献上したが、御感あって永く供御の役を仰せつけられたと云うことである。[cite: 16]

五九、妖 怪[cite: 16]

(一) 御染狸:滝には、御染と呼ぶ古狸がいて、夜漁に行くと石を投げてよく邪魔をした。この狸は、屋島の狸合戦にも参加したと云われている。また、滝津へ釣に行っていて蛇を見かけたら、その日は絶対に釣れないということである。[cite: 16]

(二) 小豆洗い:金蔵籔(昔金蔵という人がいた)には、小豆洗いと呼ばれる狸がいて、人を化かしたり、小豆を洗う音をさせて通行人の胆を冷やしたという。[cite: 16]

(三) 狸の火:1、滝上氏宅の裏下の用水附近で夏雨降の夜には狸の火が西野間附近からよく見えたそうである。2、長満寺の墓地でも、梅雨の頃から夏にかけて、雨のしとしと降る夜は、沢山の火が集ったり散ったりする賑やかな行列が、川東の方からよく見られた。[cite: 16]

(四) 六右門狸:柳沢氏の裏山には、阿波の狸合戦で有名な六右衛門が移り住み、その余生を送った所と土地の人たちは云っている。
狸や狐の話はまだぽつぽつ聞かれるが、世が進むにつれて次第に人の口に上らなくなり、最近では昔話として聞く程度である。[cite: 16]

六〇、会堂の楓(青井夫名)[cite: 16]

青井夫の中央の公会堂に、太さ二米もあろうという楓の巨木がある。その偉容や春秋の美は、時として往来するものの足を止めさせ、またこの地に生れたものに郷愁をよびさまさせるという程の名木である。いわば青井夫名を象徴するものの一つであろう。ところでこの楓にまつわる伝承を古老はこう教えてくれる。[cite: 16]

往古「あおによし奈良の都」と呼ばれた奈良に都があった頃、高位高官の一翁があり、鹿をことのほか愛していた。時代の勢運は次第に京に移り、都も奈良から京都に移されるようになった。翁も官に禄をはむ身なれば旧都に惜別の情を抱きつゝ、一匹の牝鹿と兄弟の秘書官を連れて京に移り住むことになった。ある日のこと、秘書の兄弟が縁先で書に読みふけっているおりしも、牝鹿が生んだ多数の小鹿が彼等のまわりにきてしきりにたわむれ、勉強の邪魔をする。たまりかねた弟の秘書がいきなり手許の文鎮を小鹿の群になげつけたところ、あにはからんや一匹の子鹿の急所にあたったか、ばったり倒れたその子鹿は、兄弟がかけつけた時には既にとぎれていた。意外の出来事に兄弟はしばし唖然としていたが、その屍を庭の一隅に埋め、その上に一本の楓を植えて供養した。[cite: 16]

あやまちとはいえ、子鹿殺しを知った翁は、弟秘書に小鹿殺しの罪として石こづめの極刑を申渡した。このことを知った兄の秘書は弟をあわれみ、秘かに弟を逐転させようとして、ある夜、海浜にさそい出し、細々と弟を説き、形見に一握りの木の根を渡して、おりよく流れついた一本の丸木に弟を乗せて遠国に渡らせた。漂流久しく長い月日を重ねて流れ付いたのが阿波の国、そして巡り巡って住みついたのが青井夫の地で、彼は辻堂の庵主となり、終生神田(ジデン)の守護にあたったがこの地を永住の地と定めたとき、直ちに兄から形見に受け取った一握りの木の根を庵の庭先に植えて愛育したのが現在の楓であり、その楓は子鹿の供養に植えたものから根分けしたものだといわれる。青井夫が一名「鹿楓」と呼ばれるのも、そこに起りがあるのだそうである。真偽の程はともかく「鹿」と「楓」にちなんだ物語として長く伝えたいものである。[cite: 16]

第二節 方 言[cite: 16]

最近は一般に標準語が使用され、何処の人に会っても用が足りるが、なお各地には古くから地域的に用いられているいわゆる方言があり、他所の人々には理解し難い言葉であっても、土民にとっては親しみ深く懐しい音律を聞かせてくれるものである。[cite: 16]

従来方言は不良な言葉として、標準語を普及徹底するために色々の方法がとられて来たが、方言に残る古語や特殊性は、その地の生活の伝統を継承する貴重な民俗資料であって、一がいに不良として貶し去ることは出来ない。勿論方言は地域的な通用語であるから全国どこでも自分の意志を早くかつ完全に相手に伝えることはできないが、地域に住むものにとっては最も実感の伴う言葉であり、自己の思想感情を最も端的に伝え得る便利重宝なものでもあり、民俗の伝統を伝える無形の資料であり、文化財でもある。しかし、この方言の発生には、古くからその地に伝承されたのもあれば、古の都や行政の中心地から、大官人[cite: 16]

一、草履を昼過ぎておろす時は鍋炭をつける。[cite: 16]

一、彼岸の入の日は墓地に樒を供えぬ。[cite: 16]

一、婚礼・上棟式の日の雨は吉。[cite: 16]

一、婚礼・上棟式には満潮時がよろし。[cite: 16]

一、夫婦喧嘩の仲裁人には素麺一貫の礼でよい。[cite: 16]

一、腰巻は火伏の呪になる。[cite: 16]

第三節 路傍信仰[cite: 16]

現在の我が村には、大・小数々の神様や仏様が祀られている。祀られている所も、田の中・畠の岸・石垣の中・山の中・道路端など、いたる所にある。これらの中には今なお、多くの人の信仰を集めているのもあれば、僅かに二〜三軒で祀っているものや、また、中には全然祀る人もなくて荒廃した祠もあり、祠だけで御神体もなくなった場所だけのもの等もある。神様も色々であるが、昔の人々は、随分多くの神様や仏様を信仰したものであると思う。信仰心の薄い今の人々を、神様や仏様は、何と見て御座るやら。お互の先祖達の残した数々の信仰のあとを、少し調べて見たいと思う。なお、各祠の数は、神領中学校の生徒の調査を基にしたものである。[cite: 16]

(一) 日待・月待[cite: 16]

普通、お日待と云い、隣近所で講組を作り、特定の一日(日は一定しないが、旧暦の正月・五月・九月に行う)を眠らないで、語り明かすことを日待と云うが当地方ではどの程度行われたかは記録がなく調べるよすがもない。しかし、戦前までは、各地でかなり行われたようで、今は、その名残りとも見られる形で残っている。各名中旧家では、今も、神職や僧侶を招き、宵・夜中・暁天と三回(一回の所も多い)、神(仏)を拝し、朝方解散する。[cite: 16]

長満寺、神宮寺で「二十三夜」さんと云って、お札や切り餅(供えたもの)を檀家に配っているが、これは月待の名残りで、やはり、正・五・九月の特定の月齢の夜に、講中が集まって飲食を共にし、月の出を待った行事で、一五夜・一七夜・一九夜・二三夜などあるが、当地方では、九月二三夜が特に盛んであったようである。今配られてくるお札や切り餅は、その名残りである。[cite: 16]

(二) 庚申さん[cite: 16]

支那の説に、庚申の夜には三尸(シ)虫が人間の体から抜け出して、天帝に、その人の罪過を告げるとされ、この日は、我慎恐懼して善事を行うべきであるというので、庚申の晩は、終夜寝ずに徹夜することが修行せられた。これが、我が貴族社会に受け入れられ、庚申の夜を徹して酒食することが行われた。それが今日に伝わる庚申講で、室町末期頃から庚申待供養塔が建て始められた。それが、何時の間にか庚申待と書かれ何時か猿になり、猿から直ちに猿田彦に結びつき、猿田彦神から道祖神へと、次々に連想がうつって、非常に最初とは趣が変ったものになった。[cite: 16]

近世に入ってやゝ経過した後、庚申待供養塔が、腕六本の青面金剛を刻むようになった。この塔は、六〇年目毎に建て改め、ことに塔の下に酒壺を埋めるなどした地方もあるといわれる。[cite: 16]

さて、我が神領には現在、庚申待碑二基・青面金剛碑二二基・計二三基ある。庚申待碑は、谷の長満寺と小野の四つ足堂にあり、他の二一基中には、腕が六本のもあれば、四本のもあり、下部の三猿も、中には二猿もあり、また鶏が二または三羽、左右に日月を彫ったものなど、少しずつ異っている。猿や鶏が何故刻まれているかは、最初の説明で理解出来ると思う。[cite: 16]

当地方の人には、この外次のような事が信じられている。すなわち七庚申といって、庚申の日に七カ所の庚申に参詣するとよいとて、七庚申参りが谷・北・野間地方に行われている。また、庚申の神は恐しい神で非常に祟りやすいとか、また、北向きの庚申は、特にあらたかであるとか考えられている。庚申の日、庚申団子と称し米の粉を練って団子にし、上下同じ大きさの重ねたものを、一二箇と、指でつまむほど小さいのを五つ、お星と称し、いずれも蒸さない生のまゝを八寸膳に入れて祀る風習の家もある。[cite: 16]

本村に於ける庚申塔の分布は、次の通りである。
谷 悲願寺 一 石堂庵 一 長満寺 二 薬師庵 一
野間 影 一 高浜 一 中山 一 筏津 一 若宮神社 二
中津 長法寺庵 一 大埜地 一 八坂神社 一
上角 古祠場 一 善覚寺 一 樋水 一
青井夫 会堂 二 奥谷庵 一
小野 板抜 一 四ツ足堂 一 天王社下 一
二三基中、最も古いものは、筏津の正保四年(三一三年前)、新しいのは、若宮神社の天保二年(一二七年前)で、元禄年間に五基も作られている。この時代が如何に太平であり、また、庶民の生活に余裕とうるおいが出来ていたかがうかがわれる。[cite: 16]

(三) 花折さん[cite: 16]

高根悲願寺への旧道を行くと、手足谷を渡って間もなく大きな岩の傍を通る。岩の頂きには、祇園さんが祀られているが、その岩の根方、道の傍に花折りさんがある。こゝを通る人は、花や葉の小枝を折って置いて行く。昔の道標の一つであり、別に祠があるわけではないが、大昔の人は、人間以外の畏怖すべきものには、凡て神霊が宿っていると考えて、木や石を神として祀ってきた。花折さんにも、大木や大岩があったのかもしれない。現在、神領に花折さんと呼ばれる所はこの外に大久保の奥の勝浦街道に一、元山から牡丹が峠への途中に一つ、小野天王寺から五味へ行く道に一つと、計四カ所ある。[cite: 16]

(四) 地蔵さん[cite: 16]

親しみやすい仏様で、地蔵さんが童形で現われて、人々の苦難を救ってくれたという話も多いし、路傍の地蔵さんも童形を示したのが多く、特に地蔵さんと子供の関係は、著るしい。地蔵さんは冥界と現実界との境に立って守ってくれると云う考え方から、境神として祀られ、また境神から「サヘノカハラ」に対する考えに発展すると、石地蔵さんに石を積んで献ずる習俗も生まれた。本村で有名なのが、小野農協前の地蔵さんで、子供の玩具となって川端へ忘れられたり、また水に流されても何時かは御堂へ帰ってくると思う。大人が咎めると咎めた人が腹が痛むといわれる。今でも土地の人は地蔵さんがいなくても一寸と留守位に考えて深くたずねもしない。お陰で地蔵さんは傷だらけである。この外、野間の妙見神社下の地蔵さんも、子供に遊ばれて大分傷がついているし、大埜地浅井の前の川端の地蔵さんは、大水に流されたとかで、首がなく、また樋水古道の地は、水災に遭われたため、新と旧と二つある。その他に地蔵さんは、寄井辻堂・大久保観音庵・峯地蔵庵・上角古祠場辻堂・小野地蔵庵・板抜・滝津に一休ずつ、ほかに、悲願寺・長満寺・長法寺・神宮寺・善覚寺にもある。[cite: 16]

中学校の北にある一つ石に上下二段に刻んだもの、昔はここに庵があった。同形のものが寄井天理教東側の墓地にある。多分辻堂の初めての仏と思われる。青井夫の会堂の内部に、六角柱の木材に彫り刻んだ、一風変ったものも見られる。尚各寺院の境内には一体宛石彫のものがある。[cite: 16]

(五) ノゴウさん[cite: 16]

これは、里分や他国には全然見聞しない信仰のようで、当山分特有のものかもしれないが、なお、研究の余地がある。何縁を何のために祀ったか、はっきりと答えてくれるものはないが、古老の話を綜合してみると、藩政時代には農家の牛というものは、今よりももっともっと重要な家畜で、ほとんど家族の一員のようであった。牛を大事にしたこの時分から出来たものらしく、牛を守る神さんか、または、牛自体を埋めたものか、とにかく牛の御神さんらしい。[cite: 16]

ノゴウさんには、社殿など全然なく、オカマゴでもしてあれば良い方で、ほとんど、石の寄せ集めのようなものが多いが、全部が全部高い所、すなわち、畠と山の端附近に多く、平地には全然見当らない。祭日は年一回、旧五月節句の日で、この日ヨモギ・カヤ・菖蒲の三種の草を束にして「オイシ」と共に供える。これを「ノゴウさんの草入」と云う。小野の板抜方では大峯神社にノゴウさんを野上神社として、はっきり神様として祀っている。また、青井夫地方では、農家が始めて牛を飼育した時は、ノゴウさんへ連れて来て安全息災を祈るといい、また、節句の日は、ノゴウさんが牛を使うといって、荒縄のかうひ縄を奉納する地方もある。(註、「野上神社」としたのは後世の小利口な人の才覚で、本来はノゴウさんとは別のものである。)

4、平安時代

七九〇(延暦九)
空海(一八才)大滝嶽に登ると伝える。
八一四(弘仁五)
空海高野に金剛峯寺を開く。
八三二(天長八)
衛門三郎が左右内の杖杉庵で歿したと伝えられる。
八八三(元慶七)
一二月八日 埴生女屋祠が従五位を授けられた。
八九六(寛平八)
九月五日 名方郡を分けて、名東・名西の二郡を置いた。
九二七(延長五)
一二月二六日 『延喜式』が完成した。
九二三—九三〇
(延長年間)
『倭名類聚抄』(源順)が完成した。神領は埴土郷に属していたらしい。
九九七(長徳三)
八月二七日 多田(源)満仲が歿した。
一一七三(承安三)
一〇月 阿波民部重能(田口成良)が平清盛の命を受けて摂津の福原に経ヶ島を築いた。上一宮大栗神社を田口大明神と呼ぶ。
一一八四(寿永三)
二月 源義経が屋島に平氏を破った。

5、鎌倉時代

一一八六(文治二)
佐々木経高が阿波・淡路・土佐の守護となって、白鳥(鳥坂)に居城した。
一一九二(建久三)
源頼朝が征夷大将軍となり幕府を鎌倉に開いた。
一二二一(承久三)
小笠原長清が阿波の守護となる。九月一一日 佐々木経高の子高兼等が長清に追われて鬼籠野の弓折で自害したという。
一二七八(弘安元)
八月 石井町下浦矢負橋板碑の紀年(阿波最古)。
一二八五(弘安八)
一二月二五日 高川原市楽石川神社の境内にある板碑の紀年。

6、南北朝時代

一三三二
南朝は(元弘二)・北朝は(正慶元)と両年号がある。
一三三五(建武二)
二月 細川和氏が阿波守に任ぜられ、阿波郡秋月に居った。
一三三六
(南朝、延元元)
後醍醐天皇が京都を出て大和の行宮に向われた。
一三三七
(南朝、延元二・北朝、建武三)
『焼山寺文書』(現存)に「焼山寺領下山分」とある。
一三三八
(南朝延元三・北朝暦応元)
青井夫の奥谷八幡神社にある板碑の紀年、「暦応□□月」の文字が見える、神領最古。
一三四一
(南国二・暦応四)
九月一三日『焼山寺文書』に「焼山寺領大栗山云々」の文字が見える。
一三四三
(興国四・康永三)
新田義宗・脇屋義治が阿波郡に来たと伝える。
一三五〇
(正平五・観応元)
一二月一三日 足利直義が南朝と和睦した。
一三五一
(正平六・観応二)
二月三〇日 直義が南朝に叛いた。一〇月二四日正平の和議が出来た。
一三五二
(正平七・観応三)
八月一七日 正平の和義が破れた。鬼籠野村辻堂にあった板碑の紀年。
一三六一
(正平一六・康安元)
六月二四日 南海道地震、お亀磯が陥没した。
一三六二
(正平一七・貞治元)
武家方の細川氏によって南朝方の山嶽武士の拠点一宮城が陥落し、引続き神領の城山も落城した。
一三六三
(正平一八・貞治二)
長倉森のはな佐藤明神にある板碑の紀年。
一三七二
(文中元・応安五)
八月 上角の古祠場にある板碑の紀年。
一三八一
(弘和元・康暦三)
阿波の山嶽武士が亡んだ。
一三八八
(元中五・嘉慶二)
阿川の勧善寺の大般若経に、大栗山および神宮寺・長法寺・長満寺等の文字が見える。
一四〇一(応永八)
二月 白桃の中野氏裏にある板碑の紀年。
一四〇九
(応永一六・大道五)
正月二三日神宮寺の掛仏の紀年。

7、室町時代

一五四九(天文一八)
三好長慶が京都に入って天下の権を掌握した。
一五七五(天正三)
上角八幡神社を再興した棟札の紀年。
一五八二(天正九)
一〇月一六日 新開遠江守道善が長曽我部元親のために、丈六寺で殺された。
一五八三(天正一〇)
九月五日、大洪水。九月二一日、元親が阿波全土を降した。一一月七日、一宮長門守成助が元親の為に夷山城で殺された。
一五八三(天正一一)
(中国明朝萬暦一一年)善覚寺帝釈天像の画軸の紀年。
一五八四(天正一二)
一一月、名東郡国府町矢野興禅寺前の六地蔵板碑の紀年。(阿波最新)。
一五八五(天正一三)
豊臣秀吉が四国を征した。八月、大栗谷の土民が一揆を起した。閏八月、蜂須賀家政が阿波に封ぜられ、一一月、一宮城に入った。
一五八六(天正一四)
五月、家政が徳島城に入った。渭津を改めて徳島と呼んだ。
一五九二(文禄元)
三月、秀吉が朝鮮を征した。家政は第五軍に将として出征した。
一五九四(文禄三)
三月一〇日、神宮寺が火災に罹った。(阿波志)。三月、四国郷村の人数を調査し現在の住所を本籍と定めた。
一五九七(慶長二)
正月、朝鮮再征。家政は第七軍に将として出征した。
一六〇〇(慶長五)
七月、家政は阿波国を秀頼に返上した。九月八日、家政は高野山の光明院に入り、剃髪して蓬庵と号した。九月一五日、関ヶ原合戦。
一六〇一(慶長六)
一一月一九日、関ヶ原の戦功により、蜂須賀至鎮が阿波に封ぜられた。(一八六、七五〇石)。
一六〇四(慶長九)
二月四日、日本全国に一里塚を築かせた。阿波国内に検地を行うた。
一六〇五(慶長一〇)
二月一四日、高根悲願寺脇侍背銘の紀年。
一六〇六(慶長一一)
日本国内に永楽銭の通用を禁止した。
一六〇八(慶長一三)
五月一一日、『神領村検地帖 』が出来た。この時の神領村は鬼籠野を含み、二一の小村から出来ていた。
一六一五(元和元)
閏六月三日、至鎮は大阪夏の陣の戦功により、淡路一国を加増せられ、二五七、九〇〇余石を領し、阿波両国の太守となった。閏六月一三日、幕府は一国一城の令を発した。阿波藩は徳島・洲本の二城となった。

8、江戸時代

一六一八(元和四)
二月一日、藩法として御壁書二三カ条を制定した。
一六二〇(元和六)
二月三日、八幡神社を両興した棟札の紀年。
一六一五—一六二四
(元和年間)
家政が播磨から藍種を移入したと伝える。
一六二六(寛永三)
阿波両国の人数を調査した。
一六二七(寛永四)
八月、藩法の追加として裏書七カ条を定めた。
一六三三(寛永一〇)
九月、益田豊後長行が罪によって、その領地を没収せられ、大栗谷に幽囚せられた。吉利支丹宗が禁制になった。
一六三七(寛永一四)
島原の乱が起った。
一六四〇(寛永一七)
郡毎に郡奉行一人を置き代官を兼ねしめた。寛永年間、組頭政所四郎兵衛、後六右衛門と改める。
一六四五(正保二)
長満寺にある五輪塔の紀年。
一六四四—一六四八
(正保年間)
「正保図」(阿波国十三郡古図・正保古図)が出来た。(口絵写真版参照)。
一六四七(正保四)
筏津にある庚申塔の紀年。
一六四八(慶安元)
四月五日、幕府から吉利支丹宗門禁制の触れが出た。上角の善覚寺にある樋口茂兵衛の墓の紀年。
一六四九(慶安二)
上角の大蓮寺にある五輪塔の紀年。
一六五二(承応元)
徳島を再び渭津と改めた。八幡神社の棟札の紀年(慶安五年)。
一六五三(承応二)
長倉の薬師堂にある五輪塔の紀年。
一六五四(承応三)
一〇月、長法寺十一面観音台座銘の紀年。
一六五六(明暦二)
棟付改(戸口調査)を行った。前野氏宅の上の五輪塔の紀年(予州某)。七月、神宮寺が炎上した(阿波志)。
一六五八(万治元)
神領の家数三四〇軒・人数一一五三人(女子を除く)。棟付庄屋上野六右衛門。
一六五九(万治二)
一二月三日、『神領村棟付御帳』 神宮寺の下方にある上野家の墓の紀年。野間の釈迦寺跡にある五輪塔の紀年。
一六六三(寛文三)
長倉の尾田氏宅の北にある五輪塔の紀年。
一六六四(寛文四)
閏五月一日、幕府の命により、阿波国一三郡を廃合して一〇郡に復した。
一六六六(寛文六)
みどう谷窪の上にある五輪塔の紀年。
一六六八(寛文八)
大埜地酒屋あとにある五輪塔の紀年。
一六七一(寛文一一)
阿波両国に五人与を置いた。
一六七三
(寛文一三・延宝元)
八月七日、一宮明神を再興した、上葺棟札の紀年。一二月三日、『神領村棟付御改帳』。大埜地村が大埜地名となる。
一六七四(延宝二)
『上角名御検地御帳』。一〇月二日『上野長左衛門拝領反高帳』。上山村が上分と下分とに分れた。次郎銅山が開坑した。神領家数四五〇軒・人数(男子)一三一四人。上野六右衛門の嫡子長左衛門が神領村で新地五〇石を賜わり、諸奉行格となった。
一六七五(延宝三)
長倉尾田氏の北にある五輪塔の紀年。
一六七八(延宝六)
渭津を再び徳島と改めた。北名の若宮神社の棟札の紀年。
一六七九(延宝七)
長満寺にある庚申待塔の紀年。八幡神社の棟札の紀年。
一六七三—一六八一
(延宝年間)
上野四郎兵衛が庄屋および組頭庄屋となる。
一六八一
(延宝九・天和元)
田口大明神の棟札の紀年八月一日、上野又右衛門の争。一一月、銀札場を置いて、藩札を発行した。この年饑饉。
一六八二(天和二)
青井夫の会堂の横にある庚申塔の紀年。上野長左衛門両国追放欠所となる。
一六八三(天和三)
大埜地の酒屋脇にある五輪塔の紀年。
一六八五(貞享二)
高根悲願寺の境内にある庚申塔の紀年。
一六八七(貞享四)
九月に大水があった。
一六九一(元禄四)
上角の善覚寺にある樋口茂兵衛の墓中の一基の紀年。
一六九二(元禄六)
塩水にある庚申塔の紀年。七月庄屋小川六右衛門が銅山事件の為に追放になった。
一六九五(元禄八)
善覚寺の境内にある庚申塔の紀年。長満寺の観音堂が建立された。棟札の紀年。藩覚寺の大師堂が建立せられた。
一六九六(元禄九)
河野重兵衛が組頭兼神領の庄屋であったが、退職して阿川村に帰った。鎌田丹兵衛が府中村から来て山分七カ村の組頭庄屋兼神領の庄屋となった。
一六九八(元禄一一)
一一月二四日、板東十郎兵衛(阿波の十郎兵衛)が刑せられた。中津天王さんの前にある庚申塔の紀年。八幡神社の棟札の紀年。
一七〇〇(元禄一三)
一宮大明神の上葺棟札の紀年 長満寺にある庚申塔の紀年。
一七〇一(元禄一四)
六月二六日、神宮寺の梵鐘の銘(今亡)。七月一〇日午后一〇時頃から大雨が連続して三昼夜に及んだ。
一七〇二(元禄一五)
大洪水があって、川又川(野間川)が氾濫し、麻植および若宮神社附近が流失した。一二月一四日、赤穂義士が吉良邸へ討入った。
一七〇三(元禄一六)
田之口大明神の上葺棟札の紀年。青井夫会堂不動尊の紀年。
一六八八—一七〇三
(元禄年間)
この頃から一般の人の墓が村内の各地に建ち始めた。
一七〇七(宝永四)
一〇月四日、大地震があって津浪が起った。
一七〇八(宝永五)
1月一五日、中津の御堂内にある石仏の紀年。
一七〇九(宝永六)
青井夫の会堂の横にある庚申塔の紀年。大埜地の庚申塔の紀年。
一七一〇(宝永七)
一之宮明神の棟札の紀年。
一七一三(正徳三)
小野の天王の下にある庚申塔の紀年。小野の地蔵堂の横にある庚申待塔の紀年。八幡神社の棟札の紀年。
一七一四(正徳四)
野間の中山堂にある庚申塔の紀年。
一七一五(正徳五)
森貞徳兵衛(上野又右衛門と争った人)が死亡した。
一七一六(享保元)
一宮神社(氏神)棟札の紀年。
一七二三(享保八)
九兵衛が神領村の庄屋・御取立役となった。
一七二四(享保九)
神領村の家数六三〇軒・人数一四四二人。大旱があった。『神領村棟付御帳』が出来た。悲願寺の前堂を再建した。
一七二五(享保一〇)
本年も大旱があった。蝗害が多く、村内に飢人が多数出た。
一七二六(享保一一)
本年もまた大旱があった。いなごの害が多く、村民は困厄した。七月七日、善覚寺にある光明真言百万遍碑の紀年。
一七二九(享保一四)
秋大水があった。
一七三〇(享保一五)
石堂庵にある庚申塔の紀年。北若宮・天王宮の棟札の紀年。
一七三一(享保一六)
大風雨があって、農作物は不作であった。高浜にある庚申塔の紀年。
一七三六(元文元)
八幡神社の棟札の紀年。
一七三七(元文二)
青井夫の奥谷にある庚申塔の紀年。
一七三九(元文四)
野間の中山権現が建立せられた棟札の紀年。
一七四二(寛保二)
長満寺の地蔵尊の紀年。
一七四三(寛保三)
北の若宮天王宮の棟札の紀年。
一七四五(延享二)
大栗神社の若宮の棟札の紀年。青井夫の河野氏が祀っている若宮の棟札の紀年。
一七四六(延享三)
小野の板抜にある庚申塔の紀年。上角の佐々木家の土蔵(現存)が建築せられた。
一七四八(寛延元)
上角の正村氏の旧宅の棟札の紀年。
一七四九(寛延二)
上一宮大明神の棟札の紀年。
一七五〇(寛延三)
北の若宮牛頭天王・竜王権現の棟札の紀年。
一七五二(宝暦二)
野間の妙見神社の棟札の紀年。
一七五三(宝暦三)
長法寺の弁天社の棟札の紀年。板抜の大峯大権現の棟札の紀年。
一七五四(宝暦四)
一宮明神の棟札の紀年。佐々木氏太郎氏が御用金を献上した。長命神社の棟札の紀年。
一七五七(宝暦七)
大洪水があった。星田の鎮守社の棟札の紀年。氏神若宮社の棟札の紀年。野間の中山社の棟札の紀年。
一七五八(宝暦八)
一二月一五日、岸直右衛門が郷中小高取となった。
一七六三(宝暦一三)
長法寺にある地蔵尊の紀年。
一七六四(明和元)
八月九日、大栗神社の「上一宮大明神」の扁額の紀年。小野の王子天皇の棟札の紀年。
一七六五(明和二)
大水(酉の年の水)があった。北の天王宮の棟札の紀年。
一七六六(明和三)
北の若宮権現の棟札の紀年。長法寺の弁天社の棟札の紀年。
一七六九(明和六)
『神領村棟付御帳』が出来た。神領の家数六九一軒・人数一五五一人。大栗神社の棟札の紀年。中山社の棟札の紀年。長命社の棟札の紀年。
一七七〇(明和七)
八幡神社の棟札の紀年。
一七七一(明和八)
夏大水があった。綱越(あそこへ)の半鐘の紀年。阿弥陀堂とある。
一七七二(安永元)
北の若宮竜王社の棟札の紀年、明和九年とある。
一七七三(安永二)
北の若宮天皇社の棟札の紀年。
一七七四(安永三)
秋大水があった。大栗神社の棟札の紀年。野間の妙見社の棟札の紀年。谷の松之木坂にある高根悲願寺の丁石の紀年。
一七七五(安永四)
中津の八坂神社の燈籠の紀年。
一七七六(安永五)
とうじが峠の八坂神社の棟札の紀年。
一七七七(安永六)
青井夫の八幡社の常夜燈の紀年。北の若宮社の境内にある鎮守の棟札の紀年。北の片山社の棟札の紀年。
一七七八(安永七)
長倉の庚申塔の紀年。北の若宮竜王社の棟札の紀年。高浜の大こち権見の棟札の紀年。善覚寺の法界万霊塔の紀年。
一七七九(安永八)
葛倉社(腰之宮)の常夜燈の紀年。
一七八〇(安永九)
板抜の地蔵尊の紀年。三月八日岸市左衛門郷中小高取となる。
一七八一(天明元)
洪水があった。北の若宮社境内の庚申塔の紀年。皇殿社の燈籠の紀年。安永十五とある。
一七八二(天明二)
野間の中山社の棟札の紀年。天明の飢饉。
一七八三(天明三)
野間のくび山の神棟札の紀年。天明七年まで、高橋辰之助が御取立役であった。
一七八五(天明五)
小野の大峯社・大権現の棟札の紀年。
一七八六(天明六)
洪水があった。
一七八七(天明七)
佐々木悦三郎が神領村の御取立役であった。
一七八八(天明八)
野間の妙見社の下にある地蔵尊の紀年。
一七八九(寛政元)
地震があった。
一七九〇(寛政二)
一〇月、藩は地神碑を作るようにとの御触を出した。
一七九一(寛政三)
六月一二日、妙見社の棟札の紀年。八幡神社の棟札の紀年。
一七九二(寛政四)
長法寺の鎮守社の棟札の紀年。
一七九四(寛政六)
石堂庵の手洗鉢の紀年。
一七九五(寛政七)
寛政一二年まで、高橋源蔵が庄屋役であった。
一七九六(寛政八)
古祠場の庚申塔の紀年。大栗神社の棟札の紀年。青井夫の若宮の棟札の紀年。
一七九七(寛政九)
小野の鎮守社の棟札の紀年。中山の権現社の棟札の紀年。
一七九九(寛政一一)
発電所の北側にある行者像の紀年。長満寺の鎮守の棟札の紀年。
一八〇〇(寛政一二)
大飢饉があった。佐々木悦三郎が神領村の御取立役で庄屋を兼務した。この頃『阿州奇事雑話』(横井春隥)が出来たらしい。「神領馬石」の記事がある。
一八〇一(享和元)
峯の地蔵庵の石仏の紀年。大どち権現の棟札の紀年。
一八〇二(享和二)
北の若宮の牛頭天王の紀年。青井夫庵の地蔵尊の紀年。
一八〇三(享和三)
高根悲願寺参道の丁石(九丁)の紀年。
一八〇五(文化二)
長法寺の弁天の棟札の紀年。長満寺の摩仁塔を再興した、棟札の紀年。腸蒂落名の大師講の鉦の紀年。善覚寺の手洗鉢の紀年。
一八〇六(文化三)
中津の八坂神社の手洗鉢の紀年。
一八〇七(文化四)
滝津の地蔵尊の紀年。
一八〇8(文化五)
八幡神社の棟札の紀年。
一八〇九(文化六)
『神領村棟付御帳』が出来た。神領の家数六五九軒・人数三三〇九人(女子を含む)。佐々木右左太が庄屋御用代になった。『燈下録』(元木蘆洲)が出来た。「石馬」・「塩水の池」の記事がある。
一八一〇(文化七)
合名の大石氏の宅にある土供養石の紀年。長法寺の庚申塔の紀年。大峯大権現の棟札の紀年。
一八一一(文化八)
八幡神社の棟札の紀年。岸新左衛門が小高取となった。佐々木悦三郎が棟付調方に努力に付賞として金一封を賜わった。
一八一二(文化九)
妙見神社の棟札の紀年。大葉神社の若宮の棟札の紀年。岸新左衛門が四九才で歿した。
一八一三(文化一〇)
神領村の石高一、五九八石余であった。大埜地の天王社の棟札の紀年。
一八一五(文化一二)
青井夫の舟月にある大師の墓の紀年。一二月二五日『阿波志』(藤原之盛)が付来た。神領の記事がある。
一八一六(文化一三)
若宮竜王社の棟札の紀年。佐々木悦三郎が庄屋御取立役を退いた。佐々木右左太が庄屋・御取立役を拝命した。
一八一七(文化一四)
大峯社の棟札の紀年。
一八一八(文政元)
北の若宮牛頭天王の棟札の紀年。小野の鎮守の棟札の紀年。えびそ谷の山ノ神の棟札の紀年。
一八一九(文政二)
六月、上山の百姓一揆が起った。佐々木氏太郎が感状を頂いた。善覚寺にある光明真言百万遍碑の紀年。長倉尾田の鎮守の棟札の紀年。
一八二〇(文政三)
大栗神社の棟札の紀年。長命社の棟札の紀年。楠権現の棟札の紀年。
一八二一(文政四)
影の庚申塔の紀年。小野の王子天皇の棟札の紀年。
一八二二(文政五)
八月コレラが流行した。長法寺の弁天および鎮守の棟札の紀年。板挟の光明真言百万遍碑の紀年。
一八二五(文政八)
四月、阿波藩主(西ノ丸様=斉昌)が雨乞滝へ遊覧に来た。雨乞滝の竜王社の棟札の紀年。小野の天皇社の狛犬の紀年。
一八二六(文政九)
洪水があって、八月二〇日下分の安吉は湖となった。
一八二七(文政一〇)
北の若宮竜王社棟札の紀年。
一八二八(文政一一)
八月迄八五日旱天が続いた。
一八二九(文政一二)
野首のくび山の神棟札の紀年。
一八三〇(天保元)
石堂庵の燈籠の紀年、文政十三年。腰之宮の光明真言百万遍碑の紀年、文政十三年。えびそ谷の山ノ神の紀年。西野間の不動尊の紀年。
一八三一(天保二)
神宮寺の本堂を再興した、棟札の紀年。北の若宮の庚申塔の紀年。悲願寺の鰐口の紀年。大埜地の警鐘の銘の紀年。佐伯常五郎が御目付を拝命した。一〇月一五日、『分間絵図』(文化図)が完成した。
一八三二(天保三)
青井夫八幡の手洗鉢の紀年。
一八三四(天保五)
佐々木右左太が庄屋・御取立役を退職した。佐々木太郎大夫が庄屋・御取立役を拝命した。
一八三五・六(天保六・七年)
夏から秋にかけて大雨があり。長雨で作物が稔らず飢饉となった。
一八三六(天保七)
長法寺の弁天の棟札の紀年。一〇月一日から天保通宝が用いられた。
一八三七(天保八)
岸栗里が『大栗誌』を起稿した。
一八三九(天保一〇)
河野(伴)の若宮の棟札の紀年。一社明神の棟札の紀年。
一八四〇(天保一一)
奥谷八幡の棟札の紀年。北の竜王社の棟村の紀年。楠権現の棟札の紀年。
一八四一(天保一二)
梨木の光明真言百万遍碑の紀年。
一八四二(天保一三)
長命社の燈籠の紀年。
一八四三(天保一四)
洪水(七夕水)があった。『神領村仮御検地御帳』が出来た。
一八四四(天保一五・弘化元)
高根悲願寺の宝篋印塔の紀年。
一八四五(弘化二)
大栗神社の棟札の紀年。雨乞滝の竜王社の棟札の紀年。長法寺の弁天の棟札の紀年。二月八日、八坂社の前にある光明真言百万遍碑の紀年。青井夫の会堂の光明真言百万遍碑の紀年。
一八四六(弘化三)
えびそ谷の不動尊の紀年。のくび山神の棟札の紀年。
一八四七(弘化四)
八月、暴風雨のために吉野川に洪水(盆の水)があった。谷の城山にある惣前の祠の棟札の紀年。妙見社の常夜燈の紀年。
一八四八(嘉永元)
上村都大夫の人形箱の蓋の裏書の紀年。
一八四九(嘉永二)
七月八日から大暴雨が一一日に及んで、洪水(阿呆水)が出た。
一八五〇(嘉永三)
風雨があって稲作の被害が大であった。北の竜王社の棟札の紀年。夷船が一隻海部郡に来泊した。
一八五二(嘉永五)
大旱害が数ヵ月に及び、草木は枯れ、諸人は苦しんだ。
一八五三(嘉永六)
二月一〇日、本村で甘蔗の栽培を始めた。五月二三日—七月二日まで大旱があり、雲早山で大雨乞を行った。佐々木近蔵(当主利文氏・屋号全)が記した『萬覚帳』が出来た。
一八五四(嘉永七・安政元)
六月一四日、大地震があった。伊賀の上野城が崩れて、死者が六〇〇人出た。一一月四日から一四日まで地震が頻りに起った(萬覚帳)。大どち権現の棟札の紀年。
一八五五(安政二)
一月一四日、地震があった。八月二〇日、大水が出た。八幡様の椋の木が折れた。大栗神社の社殿が完成して、こけら落しの人形芝居源之丞が興行した。九月二日、氏神の狛犬が出来るので、地搗きを行い、上三カ名と下三カ名との間に争論があった。一〇月二日〜三日に地震があった。
一八五六(安政三)
正月一八日、阿川の神木に大火があって、一九軒が焼失し、本村から見舞として麦一斗五升を贈った。三月二八日、神宮の土蔵を建築し棟上げを行うた。七月七日、旱魃。疫病が流行して死人が多く出た。八月一七日、宗門改めを行う。飯原玄達が歿した。西原古祠場の狛犬の紀年。
一八五七(安政四)
正月二日、風邪が大流行し、風邪薬の葛根湯が高価となる。七月、暴風雨洪水。一一月己の日、大地震。
一八五八(安政五)
七月一〇日氏神に狛犬到着。妙見社の棟札の紀年。中山社の棟札の紀年。えびそ谷の山神の棟札の紀年。
一八五九(安政六)
三月、勝明寺用水の工事に着手した。大峯社の棟札の紀年。青井夫の王子社(熊之宮)創建か?
一八六〇(萬延元)
洪水。高根の山神の棟札の紀年。勝明寺樋門成る。
一八六一(文久元)
谷の城山の出雲社の棟札の紀年創建か?。岑の光明真言百万遍碑の紀年。長命の地神碑の紀年。洪水があった。
一八六二(文久二)
大峯の八百万神の棟札の紀年。八月初旬から麻疹が流行し、団地利の打子が少くて困った。(この頃の祭礼は八月一一日であった。)
一八六三(文久三)
八月二日、岸栗里が七二才で歿した。
一八六四(元治元)
七月、長州征伐が始って郷鉄炮が従軍した。大栗家に『従軍日記』がある。
一八六六(慶応二)
八月七日、洪水があった、寅の年の大水。八坂神社の駒犬の紀年。北の竜王社の棟札の紀年。
一八六七(慶応三)
八月三日、英国公使パークスが徳島に来て蜂須賀斉裕・茂韶両侯に謁した。一二月一四日、王政復古。一二月、各地に「おさがり」があり「ええじゃないか」の踊りが流行した。伊勢神宮へ御抜け参りが行われた。
一八六八(慶応四・明治元)
正月一三日、岸・野間(大栗)両家に御下りがあり、「ええじゃないか」と踊った。三月二八日、神仏分離の令が出た。三月一四日、「五箇条の御誓文」が出た。閏四月二一日地方を分って、府・藩・県とし、徳島藩となった。八月二五日、天長節が定められた。

9、現 代

一八六八(明治元)
九月八日、改元、一世一元の制となる。
一八六九(明治二)
六月一七日、版籍奉還。六月二四日、徳島藩を置き旧藩主蜂須賀茂韶が藩知事に任ぜられた。徳島・富岡・川島・洲本に民政係を置く。六月二五日、藩士は士族、農工商は平民となる。
一八七〇(明治三)
正月二七日、国旗の寸法を定める。五月一三日、庚午事変(稲田騒動)が起る。七月二八日、米人ウハリントンが次郎銅山を見分に来て神宮寺に宿泊した。九月九日、吉野川に洪水があった。九月、平民に姓を称することを許された。検地を行う。庚午戸籍を編成した。各郡に大里長・大里長補を置く。氏神を埴生女屋神社と改称した。
一八七一(明治四)
三月一一日、神武天皇祭を定めた。三月、庄屋を廃して里長・里長補を置く。大栗太郎兵衛が庄屋御用を退任した。五月一四日、神社の社格を定めた。七月一四日、廃藩置県、徳島藩を廃して徳島県を置き、阿波と淡路の三原郡を管した。八月九日、断髪廃刀を許す。一〇月二八日、府県官制を定め、知事を置く。一一月二日、知事を県令と改める。一一月一五日、徳島県を名東県と改称し、阿波・淡路両国を管した。村役人を廃した。佐々木儀一が鬼籠野・神領の里長補を拝命した。
一八七二(明治五)
一月二九日、神武天皇即位日を祝日と定める。二月一五日、土地売買の禁をとく。二月、壬申戸籍を編成した。四月九日、大小区制を施行して大区に区長・小区に戸長・副戸長を置く。神領は第二大区第四小区に属した。七月一日郵便役所を綿場町に置く。八月二日、学制頒布。一一月九日、旧暦を廃し太陽暦(ユリウス暦)採用、明治五年一二月三日を明治六年一月一日とし、一日一二時を二四時に改める。一一月一五日、神武天皇即位の年を紀元元年と定める。一二月三日、五節句を廃し神武天皇即位日・天長節を祝日と定める。
一八七三(明治六)
一月一〇日、徴兵令発布。二月上角の善覚寺を仮校舎として小学校を創立した。二月二二日、香川県が廃せられて、名東県は阿波・淡路・讃岐の三国を管轄した。本県に始めて『名東県新聞』・『徳島新聞』が発刊せられた。三月七日、神武天皇即位日を紀元節と称して祝賀を行った。三月、地券を発行した。用掛・区長を置く。一〇月一四日、紀元節を二月一一日と定める。一一月、中津に神領小学校を置き、新校舎を建築した。一二月一日郵便はがきを発行した。
一八七四(明治七)
六月三〇日、佐伯常太郎が副戸長に任命された。八月、初めて県会を開く。一二月二五日、神領郵便局を設置し、初代局長に栗飯原勘三郎が就任した。用掛を村長と改めた。小野の地蔵の隣地蔵尊の紀年。
一八七五(明治八)
五月七日、佐伯常太郎が戸長を拝命し、自宅を村役場とした。九月五日、再び香川県が置かれて讃岐が分離した。初めてマッチが使用せられた。
一八七六(明治九)
一月、児童が少くて、小学校は一時休校した。二月、地租改正のため一筆調査(地押調査)を行った。地名が改正せられて検地帳にある古い地称が消滅した。四月二一日『普通新聞』第一号が発行せられた。
一八七七(明治一〇)
二月一五日、西南の役(西郷騒動)が起り本村からも数名が従軍した。一二月一五日、新町橋と讃岐の丸亀の間に電信が開通した。
一八七八(明治一一)
一〇月二五日、高知県徳島支庁を廃し、高知県徳島出張所を置く。大栗神社の拝殿の棟札の紀年。
一八七九(明治一二)
一月一日、大小区制を廃止して、郡区町村編制法を施行し、県下を八郡に分ち郡役所に郡長を置く。石井に郡役所を置く。三月四日佐伯常太郎が戸長兼学務委員となる。善覚寺の本堂再興の棟札の紀年。八月、小学校が再び開校した。下分・上分の合併をとき、それぞれ独立した。
一八八〇(明治一三)
三月二日、再び徳島県が置かれ、阿波一国を管轄する。七月、『阿波国名西郡村誌』が出来た。
一八八一(明治一四)
改正地券が交付された。二月一六日、小学校の校舎を改築した。
一八八二(明治一五)
三月一四日、徳島銀行が創立された。一一月一七日、石井警察署神領分署が設置された。武市省五が歿した。高浜の獅子舞が始まった。大峯社の狛犬の紀年。青井夫の不動尊の紀年。
一八八四(明治一七)
八月二六日、暴風雨のため洪水があった。雨乞滝の竜王社の棟札の紀年。
一八八五(明治一八)
二月一六日、字中津一三三番地に、村役場を建築した。赤痢が流行した。『阿波国郡誌』が出来た。長命社の狛犬の紀年。
一八八六(明治一九)
一月、門田熊次郎が県会議員に当選した。五月二五日、栗飯原忠太郎が神領郵便局の二代局長となる。七月二〇日、県令が改められて知事となる。左右内が阿川村と合併した。小野の王子天皇の棟札の紀年。
一八八七(明治二〇)
九月一四日、阿波国共同汽船株式会社が創立せられた。八幡神社の棟札の紀年。
一八八八(明治二一)
一〇月、『徳島日日新聞』創刊。一一月、『徳島新報』創刊。一一月一日、神領登記所が設置された。北若宮の棟札の紀年。滝津に剣山の分霊が祀られた。
一八八九(明治二二)
二月一一日、憲法発布。一〇月一日、市町村制施行。一〇、一一、村会議員選挙。一一月五日、沼田鑵治が名誉職助役になった。一一月五日、佐伯常太郎が名誉職村長となった。吉田山の狛犬の紀年。左右内が阿川村から分離した。
一八九〇(明治二三)
五月一七日、府県制・郡制公布。一〇月三〇日、教育勅語渙発。一一月二九日、村長佐伯常太郎が辞任した。一二月二二日、村会議員(一般)選挙。
一八九੧(明治二四)
一月二一日、沼田鑵治が名誉職村長となった。四月一日、郡制施行。四月一日、徳島測候所開設。四月二日、郡会議員選挙。谷の城山の地神碑の紀年。
一八九二(明治二五)
七月二二日、暴風雨。二三日洪水。一〇月二〇日、村会議員改選。
一八九三(明治二六)
八月一二日、国歌「君が代」制定。腰宮の地神碑の紀年。楠権現の棟札の紀年。
一八九四(明治二七)
八月一日、日清戦争開始。九月、青井夫に第六名西高等小学校創立。大峯蔵王社の棟札の紀年。
一八九五(明治二八)
四月一七日、日清講和談判が成立した。氏神は上一宮大栗神社と改称せられた。
一八九六(明治二九)
三月二一日、日清戦役戦利品の統器が小学校に配布せられた。小野の鎮守の狛犬の紀年。六月一日、阿波商業銀行創立。南兼三郎が歿した。一〇月二〇・二一日、村会改選
一八九七(明治三〇)
一月一〇日、神領村在郷軍人会設立。五月五日、郡会議員選挙。六月、名西山分線道路起工。野間名戸主会創立。中山社の棟札の紀年。地価修正法実施。大栗神社の例祭日の八月一一日を現行の制に改めた。
一八九八(明治三一)
三月二四日、善通寺に歩兵第四三聯隊設置。三月三一日、第六高等小学校廃止。
一八九九(明治三二)
二月一六日、徳島・鴨島間に鉄道開通。四月二日、谷渕熊五郎が助役に就任。四月、小学校に高等科併置。六月一五日、徳島毎日新聞社創立。一〇月二〇・二一日、村会選挙。
一九〇〇(明治三三)
新居永吉が神領郵便局三代局長となる。八月、阿波農工銀行創立。一二月一四日 徳島県師範学校が常三島に移転。七月八日、暴風雨 九日、洪水。一〇月一〇日、郡会議員選挙。
一九〇一(明治三四)
一一月一七日、広野で上山道神領村農会設立。
一九〇二(明治三五)
二月、西上角消防組設置。五月四日、前野勘五郎氏宅をかり、仮役場とする。路開通式挙行。神領村農会設立。一〇月二〇・二一日、村会改選。
一九〇三(明治三六)
一月、門田熊次郎歿。高橋安一氏渡米。木村氏渡米。小野の天王社の棟札の紀年 四月、小学校教科書国定となる。一〇月一〇日、郡会議員選挙。
一九〇四(明治三七)
二月一〇日、露国に宣戦。小学校新校舎建築。一〇月二〇・二一日、村会改選。
一九〇五(明治三八)
一月二日、旅順陥落。三月一〇日、奉天占領(陸軍記念日)。五月二七日、日本海海戦(海軍記念日)。九月五日、日露講和ポーツマス条約成立。
一九〇七(明治四〇)
三月、徳島市内電話開通。小学校新築工事竣工。九月一〇日、郡会議員選挙。一〇月二〇・二一日、村会改選。
一九〇八(明治四一)
二月二三日、『阿波名勝案内』(石毛驤之助)出版、神領の記事掲載。四月、義務教育六カ年に延長。一一月、第一〇旅団司令部・歩兵第六二聯隊、加茂名町に移転。
一九〇九(明治四二)
佐々木高助医院開業。小野線着工。神領村青年会創立。八坂神社祭日変更。市川原蔵歿。一〇月二六日、中津一三六の八に役場を新築移転。
一九一〇(明治四三)
七月、小野線道路竣工。八月二二日、韓国併合。一〇月二〇・二一日、村会改選 一二月九日、栗飯原晃三神領郵便局四代局長就任。
一九一一(明治四四)
三月二一日、補習学校設立。七月一三日、神領婦人会設立。一〇月九日、郡会議員選挙。寄井定席で上村源之亟興行。
一九一二(明治四五・大正元)
三月、徳島大阪間海底電線敷設。三月二一日、帝国在郷軍人会神領分会設立。七月三〇日、明治天皇崩御。九月一三日、乃木大将殉死。一一月二六日、野間森林組合設立。寄井家畜市場開設。
一九一三(大正二)
四月二〇日、徳島・小松島間に鉄道開通。六月一四日、神領分署廃止、神領村巡査部長派出所となる。八月二日、林道川又線起工。八月一二日、本県初の自動車中洲港に到着。九月一日在郷軍人分会旗購入。一〇月二〇・二一日、村会改選。
一九一四(大正三)
三月二三日、第一回農業功労者魂祭執行。三月二五日、徳島本線池田迄延長。四月全国森林組合大会一行本村泊。六月二八日、第一次世界大戦起る。大旱、村内各高地で火を焚き雨乞。
一九一五(大正四)
五月、青井夫大磐瀬道起工。九月日、大正天皇即位礼。奉祝阿波踊。一二月三〇日、暴風雨。一〇月一〇日、郡会議員選挙。一一月一〇『神領村誌』(日浦善平著)発行。名西郡牛馬畜産組合設立。
一九一六(大正五)
大栗神社本殿棟札紀年。三月、川又線道路竣工。五月、阿南鉄道(中田古庄間)開通。一一月一日、神領郵便局簡易保険、郵便年金業務開始。一一月七日、岸亀三郎県会議員当選。
一九一七(大正六)
四月六日、板野郡板東町に徳島俘虜収容所設置。六月一〇日、『日本伝統養蚕阿波の巻』(藤原衛彦)出版、神領の伝説記載。六月二四日、御大典記念徳島県立米麦図書舘完成。一〇月二〇・二一日村会改選。
一九一八(大正七)
一月一六日、青井方面大火。一月一九日、村長沼田鑵治歿。七月一二日、暴風雨。八月三日、富山で米騒動。八月二九日、洪水。一一月一一日世界大戦休戦条約。一二月、流行性感冒大流行。一一月一七日名西水力電気株式会社設立。
一九一九(大正八)
二月四日、小野名の保証責任神領信用購買販売組合設立。六月二八日、欧州大戦平和条約締結。六月三〇日、保証責任神領第一信用購買組合設立。九月一四日、名西酒造会社設立。一〇月五日、谷渕熊五郎名誉職村長となる。一〇月一〇日、郡会議員選挙。八坂神社の百度石の紀年。大西角平氏徳島・上分間幌馬車運行。小学校南校舎増築。
一九二〇(大正九)
常谷有林統一に着手。五月、寄井農村前立。大峯若宮の棟札の紀年。九月、大風。神領村処女会創立。一〇月一日、第一回国勢調査施行。
一九二一(大正一〇)
一〇月二一日、村会改選。
一九二二(大正一一)
四月、名西水力送電開始。四月、小川橋架設。一〇月三〇日、学制頒布五〇年記念式典挙行。
一九二三(大正一二)
四月一日、郡制廃止。七月一一日、神領少年団設立。九月一日、関東大震火災。始めて上山線バス乗入、徳島・上分間サクラヤ自動車運行。
一九二四(大正一三)
二月一日、神領村常会有林整理統一を完了す。長法寺弁天の棟札の紀年。
一九二五(大正一四)
一月、寄井橋架設。軍縮少により、四月二七日、歩兵第六二聯隊解隊式、五月三日歩兵第四三聯隊善通寺から移転。七月一二日、東京中央放送局ラジオ放送開始。七月一二日、本村神宮寺の北の公会堂でラジオ披露。夏、女子簡单服流行 九月三〇日、佐伯芳一収入役に就任。一〇月二〇日村会議員選挙、地方自治法改正に伴う市町村制改正により無等級選挙となる。氏神大鳥居完成。
一九二六(大正一五・昭和元)
七月一日、郡役所廃止。七月一日、青年訓練所設立。一一月一日、上山線自動車乗合業務開始。一二月二五日、大正天皇崩御。
一九二七(昭和二)
二月二三日、徳島銀行臨時休業。三月、小野橋架設。八幡神社の棟札の紀年。小学校の中校舎増築。
一九二八(昭和三)
二月二〇日、普通選挙施行。五月一〇日、徳島銀行阿波商業銀行に合併。七月一六日上山線自動車・株式会社に変更。一一月一〇日、今上天皇即位礼。阿川方面山火事。一二月、寄井中橋架設。
一九二九(昭和四)
一月五日、神領第一消防組高圧式プランジャ型ポンプ購入。寄井劇場創建。三月、徳島市営バス開通。四月、池田・蟇蛟村間鉄道開通九月二二日、大礼記念西の丸運動場完成。一〇月二〇日、村会選挙。
一九三〇(昭和五)
六月三〇日、忠魂碑完成。一一月一五日、忠魂碑除幕式。招魂祭。
一九三一(昭和六)
五月、寄井喜多橋竣工。九月一八日、満州事変起る。神宮寺大師堂再建。徳島新聞創刊。『秘境を掘る』(横山春茂)出版、神領の伝説記載。
一九三二(昭和七)
一月二八日、上海事変起る。二月二四日、充員召集。歩兵第四三聯隊出動。四月一三日帰還。滝津に火葬場設立。
一九三三(昭和八)
六月一日、徳島県立徳島中学校入方に新築移転。七月二二日、徳島放送局(JOXK)放送開始。一二月九日、西の丸運動場甲種に認定。一〇月二〇日、村会選挙。
一九三四(昭和九)
一月一日、『大阿波の横顔』(横山春茂)出版、神領の伝説集録。九月二一日、室戸台風。大峯蔵王社の棟札の紀年。
一九三五(昭和一〇)
一月七日、国防婦人会徳島本部設置。三月六日、本村国防婦人会会員六二〇名。三月二〇日、高徳線開通。一一月二八日、土讃線開通。
一九三六(昭和一一)
一一月二六日、二・二六事件。五月、東部・寄井両商工会合併、神領商工会設立。一〇月四日大阪—徳島—高知間定期航空路開設。一一月二六日、神領郵便局電話開通、加入者一五人。
一九三七(昭和一二)
一月二〇日、小学校講堂新築落成。三月二二日、私設消防を廃し公設消防とす。四月一日、寄井郵便取扱所開設、初代所長に高橋孝平就任。四月一日、郵便料金改正、はがき二銭・封書四銭となる。五月、互幸久会創立。六月一〇日、蔵本弥市助役に就任。七月七日、北支事変起る。英霊の出迎え始まる。八月一九日、歩兵第四三聯隊出動。小野農協裏の不動尊の紀年。九月、国民精神総動員実施。一〇月二〇日、村会選挙。
一九三八(昭和一三)
四月二五日、寄井郵便局昇格局長に高橋孝平就任。九月五日、暴風雨洪水、民家・田畑・山林・道路各所に流失。警防団結成。繭委 開拓青少年義勇軍に一名参加。神領村商業組合設立。
一九三九(昭和一四)
四月一日、消防組を廃して警防団を設置した。七月、国民徴用令公布。ガソリンの統制により木炭バス出現。満蒙開拓青少年義勇軍に二名参加。
一九四〇(昭和一五)
三月一五日、小松島臨港鉄道開通。五月二一日、神領幼稚園設立。七月一一日、米切符制となる。九月二七日、日・独・伊三国同盟調印。一一月二日、国民服制定。一二月一〇日、紀元二千六百年式典挙行。満蒙開拓青少年義勇軍に一名参加。大政翼賛会・部落常会・隣組結成。
一九四一(昭和一六)
四月一日、神領土木出張所開設。四月一日、国民学校令施行、小学校を国民学校とす。一一月二三日、追補責任神領森林組合設立。一二月八日、大東亜戦争起る、ハワイ真珠湾攻撃、米・英に宣戦布告。一二月一六日、徳島新聞創刊。満蒙開拓青少年義勇軍九名参加。
一九四二(昭和一七)
一月二〇日、衣料切符制発令。四月一八日、アメリカ東京初空襲。六月一日、牟岐線開通。七月八日、県下に七地方事務所設置、本郡は勝名の管内に入る。一〇月一一日、鉄道を始め、二四時間制採用。二月二〇日、翼賛壮年団結成。大栗神社の棟札の紀年。満蒙開拓青少年義勇軍に三名参加。四月二〇日、村会選挙。一一月一七日、神宮寺梵鐘供出。
一九四三(昭和一八)
満蒙開拓青少年義勇軍四名参加。九月一八日、小野名産業組合合併。
一九四四(昭和一九)
二月一一日、神領・下分・上分組合立青年学校設立。三月二五日、産業組合改組 神領農業会設立。五月、勤労奉仕隊が生まれ、防空壕を掘る。学徒動員始まる。一一月、米機B29本土上空に飛来。満蒙開拓青少年義勇軍に一名参加。疎開始まる。
一九四五(昭和二〇)
二月、小麦粉・雑穀を主食に配給。四月一日、郵便料金値上、はがき五銭・封書一〇銭。学校の授業一年間停止。六月二二日、徳島市に機銃投下。七月一日、蔵本弥市村長に就任。七月四日、徳島市空襲、旧市内大半焼失。七月一一日主食一日二合一勺配給。八月一五日、正午玉音放送ポツダム宣言受諾、無条件降伏、敗戦。九月一七日暴風雨。一二月、米一石七五円・生産者価格一五〇円。農地改革始まる。徳島駅前に闇市発生。
一九四六(昭和二一)
三月二日、米一石二五〇円。四月、はがき一五銭・封書三〇銭となる。四月五日従来の婦人団体を改め神領婦人会発足。神領村青年団民主的団体として新発足。四月一〇日、第二二回衆議員選挙、女子に参政権与えらる。九月、農地調整法中改正法律案国会通過(農地改正法案)。一一月一日、米一石四五〇円。一一月三日、新憲法公布。一一月二一日、佐伯芳一助役に就任。徳島民報創刊。一一月三〇日、神領村農地委員会成立。一二月二一日、南海大地震。公職追放令。
一九四七(昭和二二)
一月一日、佐伯芳一初代公選村長に就任。四月、はがき五〇銭・封書一円二五銭になる。四月五日、知事・市町村長選挙。四月二〇日、参議院議員選挙。四月二五日、第二三回衆議院議員選挙。四月三〇日、県・市町村議会議員選挙。五月三日、憲法施行。五月三日、学制改革、六・三制施行。五月三日、神領中学校創立。七月、米の消費者価格一石一四二六円。八月二五日、参議院議員補欠選挙。一一月一日、米消費者価格一石一八〇〇円。水上政文、寄井郵便局長に就任。農地改革。
一九四八(昭和二三)
新民法施行。警防団廃止、消防団組織。五月、サンマータイム(夏時間)実施。五月七日、神領村農業協同組合設立。七月 はがき二円・封書五円になる。米一石、三三三一円になる。七月一七日、神領村農業共済組合設立。七月二五日中学校第一期工事落成。八月一五日、神領村農業会解散。七月、消防法公布。一〇月五日、県教育委員選挙。一一月二三日、名西南農業改良普及事務所開設。神領たばこ耕作組合設立。一一月二八日、河口重兵衛二代村長に就任。
一九四九(昭和二四)
一月二三日、第二四回衆議院議員選挙。三月三一日、県立城西高等学校農林科神領分校発足。四月、米一石、五八三〇円になる。五月 はがき二円・封書八円になる。七月 食糧事務所神領出張所設置。九月、朔日会創立。一〇月一八日、中学校本館講堂落成。一二月、お年玉付年賀はがき売出。
一九五〇(昭和二五)
一月、米価格改訂、一キロ四四四円となる。年令計算に満年令を用いる。一月七日、千円札発行。三月二九日、天皇巡幸、石井小学校で奉迎。六月四日、参議院議員選挙。九月三日、ジェーン台風。九月一二日、キジヤ台風。九月、衣料切符廃止。一〇月二四日、神領村防犯協会創立。一一月一〇日、県教育委員選挙。
一九五一(昭和二六)
一月一日、米価格一キロ一一五円となる。二月、上角農業研究会創立。三月三一日、農業委員会法実施。四月、五百円札発行。四月二三日、村議会議員選挙。四月三〇日、知事選挙。県議会議員選挙。七月一五日、神領農業委員会成立森林法改正。八月一日、米価格改訂一キロ六二〇円。一一月はがき五円・封書一〇円となる。
一九五二(昭和二七)
四月、夏時間廃止。四月一八日、神領巡査警部派出所新築。昭和二七・八年中にガソリンポンプに切替。六月一日、麦類統制撤廃。七月、住民登録。七月一日、四国放送(JOJR)放送開始。七月二三日、神領森林組合改組。神領商業組合解散。寄井および東部両商工会生まる。部落有林統一記念碑を役場前に建立。一〇月一日、第二四回衆議院議員選挙。一〇月二日、神領総合グラウンド竣工。一〇月五日、神領村教育委員選挙。一一月二八日、蔵本弥市三代村長に就任。
一九五三(昭和二八)
三月、N・H・Kテレビ放送開始。三月、岩丸橋竣工。四月一九日、第二五回衆議院議員選挙。四月二四日、参議院議員選挙。七月二二日、寄井人形座の人形頭が県の重要文化財に指定。八月、麻名家畜診療所神領出張所設置。九月一四日、台風。天王祭、本年は「提灯」となる。氏神両社および村内八社、宗教法人として発足。青年学級振興法の制定により、神領小学校において神領村青年学級開講。
一九五四(昭和二九)
一月、米価格改訂一キロ七六五円となる。三月、町村合併始まる。佐々木高助氏本村始めてテレビ設置。三月一〇日、小学校創立八〇周年記念式典挙行。四月一日、川島土木出張所開設。五月二日、神領公民館設立。五月、一一日、村役場の鉄筋二階建築工事に着手。六月、一円以下の貨幣の通用停止。七月一六日、神領村農業委員選挙。鮎喰川治山事務所設置。一二月一六日、名西郡百合根輸出組合設立。
一九五五(昭和三〇)
一月一日、村役場新庁舎に移転。二月二七日、第二六回衆議院議員選挙。三月三一日、神領村財産区設立。三月三一日、町村合併により阿野・鬼籠野・下分上山・上分上山の五カ村合併して神山町となる。校名変更。四月二三日、知事選挙。県議会議員選挙。四月三十日、町会議員選挙。同日 町長佐藤忠一氏当選。

三月三十一日、神領村その使命を終る。
以下現在にいたる。

参 考 文 献

全篇又は二篇以上に亘り共通のもの、(順序不同)

文 献 名 著 者 又 は 発 行 所
神領村誌 日 浦 善 平
神領村誌原稿 日 浦 善 平
下分上山村史 岸 栗 里
大栗誌 上 野 直 樹
新しき阿波史料 飯 田 義 資
阿波藩民政資料 木 村 万 平
名西郡史 柳 田 国 男
民俗学辞典 佐々木頼章
佐々木文書

第一編から第七編および付録中関係あるもの

阿波名所図会 / 阿波志 / 大日本地名辞書 / 名東名西郡地誌 / 阿波国郡村誌 / 阿波国古代郡県及国司沿革抄 / 国魂大宜都比売命 / 粟国建国並に大宜都比売命に就て / 名西郡神領村上一宮大栗神社由緒 / 阿波神蹟夜話第一編大栗神社の巻 / 上一宮大栗神社由緒書並縁起 / 新しき阿波の歴史 / 小笠原家文書・三好家文書外諸記録 / 名西郡史資料(地誌・神社編) / 阿波史研究第一号・第二号 / 郷土研究第二・三・五集 / 徳島県災異記 / 徳島県地理概録 / 神領村地質見取図並びに説明 / 阿波国風土記並阿波国風土記考 / 日本の社寺建築

編集後記

……るとあったのに、九日の新聞に八日逝去七〇歳という記事が出て、驚きの中に一〇日の告別式に参列して焼香した。

その年一〇月、鳥田降夫君と徒歩で下分の地辷を見に行き、白尾山で初めて後藤弘文君に会った。昭和一七年同君は師範の専攻科に入ったので鎌田匡君と共に家へ出入し、夏の富士登山・秋の剣山行・雪の東宮山越と、よく歩いた。物資窮乏の戦争中、八月七日に富士の麓の大宮の宿で飲んだ「白妙」の味は今に忘れない。

敗戦後、県の統計課で労働力調査を担当し、昭和二三年一〇月から区域が名西郡に更り、山分三村を毎月二〜三回廻った。一〇月二〇日、小学校に同居中の神領中学校に後藤君を尋ねると、尾田武男君が居合わせて『大栗誌稿』を見せられ、岸東翁の『村誌』の原稿が一部失われていると聞き、出版の促進を勧め、村役場の『検地帳』や『棟付帳』の話をした。翌二四年六月二〇日の夜、中学校で後藤・尾田・影石・溝口の四君とジンゾクで焼酎を飲み、尾田・影石両君と公民館で泊ると、二一日の午前三時半ごろデラ台風で、建築中の本館が倒壊した。これも終生忘れ得ない印象である。その冬、徳島少年鑑別所に勤務して名西郡との縁は切れたが、後藤君は昭和二五年に徳島大学学芸学部付属中学校へ転任したので悪縁未だ尽きず、また徳島での交遊が始まった。

昭和二九年九月四日、尾田君が鑑別所を訪れて村誌編集の相談をかけられ、これに関係することになった。参考として要項を提供したところ、独自の完備した項目が定められ、一二月一七日、大久保の山を歩き、夜裁縫室で編集の説明をし、後藤君の家で泊った。三〇年二月、青井夫の会堂で古老座談会を試み、大栗氏の古文書を見、一二月には名西郷土会が農協で開かれ、三二年二月、佐々木家の古文書を調べ、八月、阿波郷土会の例会が小学校で開かれた際、高根の悲願寺で泊り、翌日大栗氏の古文書を調べ、三三年八月、委員会で出版の具体的な話をし、翌日再び佐々木文書を調べた。三四年、原稿のプリントが出来るに伴い、四月から七月まで一泊二日ずつ一〇回で補正を加え、九月、印刷所との契約に立会い、一〇月上旬、印刷開始以後は校正に従い、時に三校・四校に及び、今日までに印刷所に通うこと一〇〇回を超えた。

始終実にエライ目に遭ったわけである。その間、執筆委員諸君は最善を尽すという言葉の通り本当によくやって呉れた。凡そ仕事というものは割当てられた部分を、お座なりに片付けると、それは請負仕事に堕して真の生命は発現しない。しかし自分の魂を打ち込み創意工夫を加えて追究精進すれば、自己内心の満足や喜悦はもとより、必ず読む人の心を打つ生気が躍動するものである。神領村誌はこの点に於て決して他所の村誌に負けないと思うが、手前味噌になるから詳しくは述べない。たゞ読者諸賢に委員の誠意を汲み採って戴きたいとお願いするに止める。なおこの際、民俗編の詳説として、神領の人の手による「神領民俗誌」を是非完成せられることをここに望蜀の念願として敢て付加したい。

以上愚辞を並べて巻末を汚し、本村との関係と経過の一端を叙し、併せて希望を述べた次第である。
昭和庚子歳水無月中廿三早旦 羊 我 山 人 記

【奥 付】

昭和三五年六月二〇日印刷
昭和三五年七月 一日発行

徳島県名西郡神山町神領
編集兼発行 名西郡神領村誌編集委員会


[cite: 16]

「阿波歴史史料集」