「阿波歴史史料集」

第十二章 幕末から明治へ[cite: 99]

第一節 神領の庄屋と役人[cite: 99]

一、庄屋のはじめ[cite: 99]

前に庄屋大野家のところで述べたように、六右衛門が大埜地村にいて庄屋をしていたことは、棟附帳によって明らかであり、『大栗誌』の上野家跡書や、『旧神領村誌』にある大栗谷七カ村の組頭庄屋などの文書を見ても大埜地は上野家である。その先祖の三郎左衛門は、一六才の時から一宮長門守に仕えていたが、一宮氏が亡んで浪人となり、神領村に住みついたとなっている。[cite: 99]

その後蜂須賀氏入国の時、大栗谷は重要な土地であるから、善い政治をせよとのことで庄屋になった。六右衛門の前は「まどころ」という役であったことは前にも書いた。恐らく庄屋になった最初はこの六右衛門であろう。その子に長左衛門と又左衛門とがあったが、長左衛門は新地五〇石・諸奉行格に任命せられたと『大栗誌』に見えている。庄屋の役は弟の又左衛門が勤務したことになるが、この間の事情がわからない。『旧神領村史』の上野家の系譜は、三郎左衛門の子に六右衛門があり、その子は四郎兵衛となっているが、万治元年の『棟附帳』によると庄屋六右衛門の子に太郎次郎があり、また上野長左衛門がある。それから一六年程後の寛文一三年の『棟附帳』には、与頭庄屋上野又右衛門となり、同じ壱家に隠居として又右衛門の親の四郎兵衛がついている。年齢的にみても前の万治の棟附の時は六右衛門が五二才で、隠居した四郎兵衛は六八才であり、上野又右衛門は万治に一九才で、寛文の棟附には三五才で、その差が一六年であるから、先代の六右衛門は隠居して四郎兵衛となり、その庄屋のあとを太郎次郎が襲名して又右衛門となったと考えるべきであろう。[cite: 99]

六右衛門の子の長左衛門は、奉行格となり庄屋の上に位する役職で、銅山奉行をも兼ねていたのである。庄屋の又右衛門は孫之亟の訴訟により遂に処刑され、その後上野長左衛門も次郎銅山事件で欠所死刑となった。[cite: 99]

二、代々の庄屋[cite: 99]

(一) 小川六右衛門(『旧神領村史』による)
高畠村から神領に来て、組頭庄屋兼神領庄屋となり、上野又右衛門の家屋敷に住み、次郎銅山事件で追放せられている。[cite: 99]
(二) 河野重兵衛
阿川村から来て、小川六右衛門に代って組頭庄屋兼神領庄屋となり、元禄九年に退職して阿川に帰っている。[cite: 99]
(三) 鎌田丹兵衛(岸丹兵衛)
鎌田丹兵衛は本姓を岸といい、幼名を清蔵といった。神領の庄屋となってから丹兵衛と改めた。名東郡国府の組頭庄屋岸市右衛門の長子である。神領村の庄屋を命ぜられた時、蜂須賀入国当時にはいざこざもあって、「大栗山は大きな村であり、私ごとき者が参っても勤まらないのでお断り申上げます。」と再三辞退したが、遂に請われて家族を引き連れて赴任したのである。当時造作銀として三貫目・高六〇石余りと居宅・男女一九人譜代下人一人を拝領し、外に鉄砲二挺と手錠とを渡され、神領村の中津に居宅を構え(今の小学校の南上)た。銅山事件のあとの神領は、事件のほとぼりもまださめず、年貢米の上納やもめ事が多かった。元禄の大水の時は寝食を忘れて村のために尽した。[cite: 99]
(四) 岸 直右衛門
父丹兵衛の跡をついで庄屋となった。在任中名東・名西・麻植の一三か村密銅裁判を拝命した。また麻植郡小屋平村の与頭庄屋が差支の時は、その代行をもした。宝暦八年一二月一五日、郷中小高取並となり、七七才で弟の武助を養子として、これに庄屋をゆずった。[cite: 99]
(五) 岸 市左衛門
兄直右衛門の養子となり、安永九年三月八日郷中小高取になった。寛政四年、藩主が名西山分を巡視した際、大埜地で拝謁を賜わった時には八八才の高齢であった。藩主は市左衛門に米の字をできるだけ多く書いてみよといわれたが、その場では書かず、後に郡代穂積早蔵の手を経て藩主に差出したところ、大変おほめにあずかったと伝えられる。寛政一七年九四才の高齢で死去した。男子がないのでおいの熊蔵を養子にした。[cite: 99]
(六) 岸 熊蔵
幼名を亀四郎、後に熊蔵と改名した。宝暦一一年養子になり、一七年間庄屋を勤め、七九才の高齢をもって死去した。[cite: 99]
(七) 岸 新左衛門
天明八年熊蔵の養子となり、庄屋の役儀を相続した。勤勉に役儀を勤めたので、文化八年特別の計らいで、神領と国府における先代以来の高を下されて小高取となり文化九年四九才で病死した。[cite: 99]
(八) 岸 栗里
幼名を秀太郎、通称を新左衛門、号を栗里といった。幼少の頃から勉学に志し、修養をつんだ名庄屋であった。特に書道にすぐれ、今も本村に多くの作品が残されている。清廉潔白の性質は、よく公平に村を治めて、その治績も数多く、『大栗誌』はその手記である。文久三年、七二才で死去した。[cite: 99]
(九) 岸 有意(ありよし)
白堂と号した。天保三年神領に生れ、幼時は父栗里について修学し、一五才の時藩の儒員前川文蔵について学び、一八才で庄屋の職をぎ、栗里が死亡すると小高取になった。清廉潔白で公平な庄屋として大栗谷一帯の信望をうけ、訴訟事なども皆有意のさばきに絶対の信頼をおいたと伝えられる。当時は幕末で世情が騒がしく、隣国土佐藩では尊皇攘夷ののろしがあがり、壮士が国境を越えて海部郡に逃れて来た。阿波藩では直ちに牟岐まで役人が出張し、壮士を捕えて各家に分宿せしめた。この時有意は藩命により談判方を命ぜられ、急いで牟岐浦に出張し、その善後処置に奔走した。結果は壮士を土佐藩に渡すことになって帰国したが、全部斬罪となった。土佐藩はその謝礼に鰹節および金壱封を送って来たが、有意は壮士の言動は粗暴であっても、その意志は甚だ憐むの情あるを思い、その謝礼金を牟岐の海蔵寺に喜捨して壮士の冥福を祈った。[cite: 99]
慶応二年丙寅の年洪水があり、その後凶作つづきで、加うるに貨幣価値の変動があり物価が高く、いよいよ農民は生活に窮した。有意は名西山分はもとより南北各郡の庄屋と連絡し、再三窮状を訴えた上申書をもって、藩に救助を申し出たが採用せられなかった。思い余って日頃尊敬する儒員新居水竹に頼むより外に道がないと、つぶさに農民の窮状を上申書に認め水竹に進達方を頼んだ。水竹は快諾して藩主に直接進達したので、その年の秋は上納を年賦ですることゝ、一時の拝借金を許された。ついで明治となり、その三年に徳島藩権少参事に任命され、民政局副主事から参与会計局に入り、ついで西民政所の所長となった。西民政所は役所が川島にあって麻植・阿波・美馬・三好の四郡を管轄し、行政・司法の事務一切を司った。さらに大蔵省七等出仕・六等出仕から紙幣助に進み、従五位に叙せられた。後、徳島に帰り六八才で死去した。有意が庄屋から少参事に抜擢せられた時、その出世をうらやんで左の落首があった。
神領の岸からのぼるせうさんじ 国の政事はだいじないのか
(註. 焼山寺と少参事、大師と大事とをかけた。)[cite: 99]
(十) 高橋辰之助
天明三年から御取立役となり、天明七年に退職した。[cite: 99]
(十一) 佐々木悦三郎
天明七年から神領村御取立役となった。[cite: 99]
(十二) 高橋源蔵
寛政七年庄屋役となり、寛政一二年に退職した。[cite: 99]
(十三) 佐々木悦三郎
寛政一二年庄屋役となり、文化一一年に退職した。[cite: 99]
(十四) 高橋源蔵
文化一二年に庄屋御用代となり、同一三年に父の跡をついで庄屋御取立を拝命し、信太郎を改名して右左太となり、天保五年に退職した。[cite: 99]
(十五) 佐々木右左太
天保五年庄屋御取立を拝命し、同六年に退職した。[cite: 99]
(十六) 大栗太郎太夫
前名を政太郎といい、天保五年庄屋御取立役を拝命した。嘉永六年に木民を改めて本姓大栗を名乗った。神領上山の新田水帳調べにつき裁判役を命ぜられて尽力したので、安政七年賞として金二〇〇疋を賜わった。明治四年に退職した。[cite: 99]
(十七) 大栗太郎兵衛
太郎太夫の長子で、元治元年庄屋御用を命ぜられ、後太郎兵衛と改名した。[cite: 99]
(十八) 佐伯常五郎
文化二年から五人組勤務中、天保二年に郷目付を兼務し、嘉永五年まで四八年間勤続した。文久五年に五人組郷目付となり、明治四年に組頭となった。[cite: 99]
(十九) 河野寿太郎
阿川村の人で、里長となった。役場は鬼籠野村高米の神光寺にあって、阿野・鬼籠野・神領三カ村を治めた。[cite: 99]
(二十) 佐々木儀一
鬼籠野の神光寺へ出勤し、里長補となった。[cite: 99]

第二節 解放された農民[cite: 99]

慶応三年頃から王政復古のきざしが見られ、武家政治七〇〇年の終幕が近づいた。政治上の変革で、これほどのショックを与えたものも少い。思えば大東亜戦争が敗戦に終ったあの時の激動にも似たもので、今までの制度は次から次へと変り、それらの変動について行けなかった。封建制度のかたくなな心と、解放された心とが交錯して、考えも及ばぬ事をただ勢に押されてやっている。何でもええじゃないか もその一つの表れであろう。[cite: 99]

第三節 ええじゃないか[cite: 99]

政治や戦争などの大きな変り目に会うと、人の心は動揺して仕事も手につかず、自由気ままなその日暮しになり、何かの動機で大きな渦をまきおこす。せん動され易く、人心動揺の騒ぎはこのように波紋をたててひろがって行く。大東亜戦争敗戦によるあの当時を今思い出しても常軌を外れたことが思い合わされる。七〇〇年の武家政治が徳川幕府三〇〇年で終をつげた時、人々は動揺してええじゃないかの波紋を描いた。名西郡でもこの波紋にゆらぎ、各村ともよく似た騒動があった。郡内の様子を見てみると、石井町では「其の家に大神宮飛込めり。「一朱金・二朱金をみつけたり。」「金の亀虫這いこんだり。」と言えば、その家は馳走して隣家に振舞い、隣人は招かれて口々に「何でもええじゃないか」と町中をねり歩き、男は女装し女は男装し全くの虚脱状態となった。この騒ぎで讃岐の金比刀羅神社や伊勢神宮に無銭で参詣した人も多かった。[cite: 99]

神領のええじゃないか[cite: 99]

ええじゃないかの波紋が神領にも及んで来て慶応三丁卯年一二月一九日卯の刻、野間(現在の大栗玲造氏宅)に御降臨と称して庭先の松の木に毘沙門天二体がかかっていた。近隣の人々は相伝えて大栗家に集まり、馳走を振舞われ「何でもええじゃないか」と口々にとなえ、御馳走をたらふく食べた。写真は大栗家に御降臨と伝えられるものである。[cite: 99]

第四節 制度の変革[cite: 99]

人心も漸くおさまった明治の初めに、いろいろと制度が変った。明治二年七月、藩主茂韶は封土版籍を奉還して徳島城内に藩庁が置かれ、茂韶が藩知事になった。 明治九年には村行政も変更せられて、与頭庄屋の中から大庄屋用煎と大庄屋とを置いた。それよりも一般農民にとって大きな変革は、氏を名乗ることであり、同時に職業の自由な選択であった。明治三年一一月には名西郡に大里長と大里長補をおかれ、ついで明治四年三月限りに従来の村役人の制度は廃止された。これと同時に郡内を一二組に分け、その組毎に里長または里長補をおいた。この頃の県は名東県と称していた。[cite: 99]

明治五年五月に大小区制がしかれ、阿波を一〇大区とし名西郡は第二大区となり、神領は第四小区となった。その時の戸長は郡長のようなもので、副戸長が村長であった。明治六年六月に用掛を置き、八月に戸長を区長と改め、小区の副戸長を戸長と改めた。明治七年一月一日に用掛を村長と改め、一一月に村長を廃してまた副戸長とした。明治八年五月三日、区長・戸長改正の達しがあり、八月八日以降は官選であった区長と正・副戸長は公選にすることになり、さらに級別となり、戸長は一・二等に分かれて拝命した。[cite: 99]

これより先、明治五年二月壬申(じんしん)戸籍を作成した。今までの棟附帳の代行であって、家数番・職業・氏名・年令・家族名、妻・養子の上には親の氏名を書き、氏神と檀那寺とを記してある。 明治九年八月二一日に名東県を廃して高知県と合併し高知県と称した。明治一〇年には西南の役があったが本村からも数名出征している。明治一二年には郡制を実施して郡役所を石井においた。翌一三年に再び徳島県が置かれて現在に至ったのである。[cite: 99]

この頃の名西山分の様子を見ると、明治一二年に上分・下分・左右内が合併をといいて独立し、同一三年一二月八日に上分上山村・下分上山村と称した。左右内は明治一九年になって阿川村に合併し、同二二年一〇月にまた分離した。 明治二二年になって市町村制が実施され、その後昭和三〇年三月三一日に名西山分の五カ村が合併して神山町となって現在に至っている。[cite: 99]

結 び[cite: 99]

”歴史は生きている”[cite: 99]

今という現在は、人類が発生してから幾十万年かの遠い昔からの時の流れの中の一点であり、さらにそれは後の未来永劫に続いているのである。しかもこの現在は、止まることを許されない流転進展の瞬間である。その生きた時の流れである歴史を、そしてわが神領村の歴史を今静かにふり返ってみたい。この村誌発刊を機として、村民各位が古い神領の姿を正しく解釈し、先人の歩いた尊い道を将来の生活に活かせ、さらに私たちの郷土をより高くより深く発展させる根拠ともせられるならば、それは望外のしあわせと思うものである。[cite: 99]

『大栗誌』(岸栗里著)等について[cite: 99]


第三編 自 治[cite: 99]

第一章 村の構成[cite: 99]

第一節 村役場の沿革[cite: 99]

明治四年に佐々木儀一氏が神領・鬼籠野両村の里長補を拝命して、鬼籠野村喜来の神光寺を村役場に借り入れ自宅から出勤執務していた。明治八年五月七日佐伯常太郎氏が戸長を拝命し自宅を村役場としたが、明治一四年二月一六日、神領村字中津一三三番の地(現在の小学校の位置)に小学校を建築(木造杉皮葺二階建、間口八間、奥行五間・建坪六八坪・階上二八坪・階下四〇坪)し、その二階を村役場として使用した。その後次第に児童数が増加して校舎が狭隘となり、二階も教室として使用することになったので、明治三〇年四月五日に同所に増築(木造杉皮葺二階建、間口二間・奥行五間・建坪二〇坪・階上一〇坪)して移転した。ところがまたも小学校の児童が増加したので校舎として使用するに至り、明治三五年五月四日、字中津六六番地の一の民家前野勘五郎氏の宅を借り受けて、執務していたが、狭くかつ上山街道改修のために不便となったので、明治四二年一〇月二六日に字中津一三六番地の八に、木造杉皮葺平屋建、建坪三一・三坪を新築して移転した。その後沼田農氏が五坪三合六勺の土蔵を建築して寄贈された。また大正一一年三月杉皮葺を瓦葺に改めた。[cite: 99]

その後役場の事務はますます複雑となり、多数の吏員を擁し、村議会を開催する議場もない状態となったため昭和二九年五月一一日、郡内唯一のモダンな鉄筋コンクリート二階建の建築工事に着手した。建坪一二六・三五五坪(一階六〇・六二坪、塔屋四・五一坪)・工費八三七万円、外に敷地費五〇万円・内容調度五八万余円・合計九四五万二〇六〇円の巨費を投じて完成した。この建築費は先覚者の残した村有林の一部を売却することによって支弁し、昭和三〇年一一月一日に新庁舎に移転した。昭和三〇年三月末、町村合併により神山町として発足するに及び、この庁舎を神山町役場として使用し現在に至っている。[cite: 99]

第二節 郡長・郡の沿革・郡の廃止[cite: 99]

一、歴代郡長
初代 篠田 復紀、二代 阿部 興人、三代 安田鹿七郎、四代 森 村樹、五代 米木 少駿、六代 徳部 為吉、七代 岸本 攸信、八代 原田 有徳、九代 服部 丑男、一〇代 鳥居 和邦、一一代 井内泰太郎、一二代 香川甚四郎、一三代 藤岡直兵衛、一四代 赤川 万吉[cite: 99]

二、郡の沿革
明治二二年に府県制と同時に郡制が定められ、郡は県と町村の中間の地方自治体として成立した。郡には郡長および郡会議員がおかれ、郡役所に事務職員を置いて町村の指導監督にあたった。郡役所は石井町の石井駅前通りに設置されていた。郡会議員は複選制によって郡内の町村会で選挙し、他の一部は郡内の大地主がこれを選挙した。しかしこの複選制は、明治三二年に廃止された。[cite: 99]

三、郡の廃止
地方自治団体としての郡制は、大正一二年四月一日に廃止せられて消滅した。しかし行政官庁としての郡役所は、その後も引続き存続したが、大正一五年七月一日に事務の簡捷と経費節約のために廃止された。[cite: 99]

第三節 村長・その他の吏員[cite: 99]

一、歴代村長

回期氏 名就任年月日退任年月日事 由
1佐伯常太郎明三三・一一・八明三七・一一・九病気
4沼田 継治明三七・一二・二七大七・一・一九死亡
7谷渕熊五郎大八・一〇・二五昭三・六・三〇老齢
1蔵本 弥市昭三・七・一昭二一・一一・二一一身上の都合
1佐伯 芳一昭二一・一・一昭二二・一〇・二五一身上の都合
1河口重兵衛昭二二・一一・二六昭二七
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