前に庄屋大野家のところで述べたように、六右衛門が大埜地村にいて庄屋をしていたことは、棟附帳によって明らかであり、『大栗誌』の上野家跡書や、『旧神領村誌』にある大栗谷七カ村の組頭庄屋などの文書を見ても大埜地は上野家である。その先祖の三郎左衛門は、一六才の時から一宮長門守に仕えていたが、一宮氏が亡んで浪人となり、神領村に住みついたとなっている。[cite: 99]
その後蜂須賀氏入国の時、大栗谷は重要な土地であるから、善い政治をせよとのことで庄屋になった。六右衛門の前は「まどころ」という役であったことは前にも書いた。恐らく庄屋になった最初はこの六右衛門であろう。その子に長左衛門と又左衛門とがあったが、長左衛門は新地五〇石・諸奉行格に任命せられたと『大栗誌』に見えている。庄屋の役は弟の又左衛門が勤務したことになるが、この間の事情がわからない。『旧神領村史』の上野家の系譜は、三郎左衛門の子に六右衛門があり、その子は四郎兵衛となっているが、万治元年の『棟附帳』によると庄屋六右衛門の子に太郎次郎があり、また上野長左衛門がある。それから一六年程後の寛文一三年の『棟附帳』には、与頭庄屋上野又右衛門となり、同じ壱家に隠居として又右衛門の親の四郎兵衛がついている。年齢的にみても前の万治の棟附の時は六右衛門が五二才で、隠居した四郎兵衛は六八才であり、上野又右衛門は万治に一九才で、寛文の棟附には三五才で、その差が一六年であるから、先代の六右衛門は隠居して四郎兵衛となり、その庄屋のあとを太郎次郎が襲名して又右衛門となったと考えるべきであろう。[cite: 99]
六右衛門の子の長左衛門は、奉行格となり庄屋の上に位する役職で、銅山奉行をも兼ねていたのである。庄屋の又右衛門は孫之亟の訴訟により遂に処刑され、その後上野長左衛門も次郎銅山事件で欠所死刑となった。[cite: 99]
慶応三年頃から王政復古のきざしが見られ、武家政治七〇〇年の終幕が近づいた。政治上の変革で、これほどのショックを与えたものも少い。思えば大東亜戦争が敗戦に終ったあの時の激動にも似たもので、今までの制度は次から次へと変り、それらの変動について行けなかった。封建制度のかたくなな心と、解放された心とが交錯して、考えも及ばぬ事をただ勢に押されてやっている。何でもええじゃないか もその一つの表れであろう。[cite: 99]
政治や戦争などの大きな変り目に会うと、人の心は動揺して仕事も手につかず、自由気ままなその日暮しになり、何かの動機で大きな渦をまきおこす。せん動され易く、人心動揺の騒ぎはこのように波紋をたててひろがって行く。大東亜戦争敗戦によるあの当時を今思い出しても常軌を外れたことが思い合わされる。七〇〇年の武家政治が徳川幕府三〇〇年で終をつげた時、人々は動揺してええじゃないかの波紋を描いた。名西郡でもこの波紋にゆらぎ、各村ともよく似た騒動があった。郡内の様子を見てみると、石井町では「其の家に大神宮飛込めり。「一朱金・二朱金をみつけたり。」「金の亀虫這いこんだり。」と言えば、その家は馳走して隣家に振舞い、隣人は招かれて口々に「何でもええじゃないか」と町中をねり歩き、男は女装し女は男装し全くの虚脱状態となった。この騒ぎで讃岐の金比刀羅神社や伊勢神宮に無銭で参詣した人も多かった。[cite: 99]
ええじゃないかの波紋が神領にも及んで来て慶応三丁卯年一二月一九日卯の刻、野間(現在の大栗玲造氏宅)に御降臨と称して庭先の松の木に毘沙門天二体がかかっていた。近隣の人々は相伝えて大栗家に集まり、馳走を振舞われ「何でもええじゃないか」と口々にとなえ、御馳走をたらふく食べた。写真は大栗家に御降臨と伝えられるものである。[cite: 99]
人心も漸くおさまった明治の初めに、いろいろと制度が変った。明治二年七月、藩主茂韶は封土版籍を奉還して徳島城内に藩庁が置かれ、茂韶が藩知事になった。 明治九年には村行政も変更せられて、与頭庄屋の中から大庄屋用煎と大庄屋とを置いた。それよりも一般農民にとって大きな変革は、氏を名乗ることであり、同時に職業の自由な選択であった。明治三年一一月には名西郡に大里長と大里長補をおかれ、ついで明治四年三月限りに従来の村役人の制度は廃止された。これと同時に郡内を一二組に分け、その組毎に里長または里長補をおいた。この頃の県は名東県と称していた。[cite: 99]
明治五年五月に大小区制がしかれ、阿波を一〇大区とし名西郡は第二大区となり、神領は第四小区となった。その時の戸長は郡長のようなもので、副戸長が村長であった。明治六年六月に用掛を置き、八月に戸長を区長と改め、小区の副戸長を戸長と改めた。明治七年一月一日に用掛を村長と改め、一一月に村長を廃してまた副戸長とした。明治八年五月三日、区長・戸長改正の達しがあり、八月八日以降は官選であった区長と正・副戸長は公選にすることになり、さらに級別となり、戸長は一・二等に分かれて拝命した。[cite: 99]
これより先、明治五年二月壬申(じんしん)戸籍を作成した。今までの棟附帳の代行であって、家数番・職業・氏名・年令・家族名、妻・養子の上には親の氏名を書き、氏神と檀那寺とを記してある。 明治九年八月二一日に名東県を廃して高知県と合併し高知県と称した。明治一〇年には西南の役があったが本村からも数名出征している。明治一二年には郡制を実施して郡役所を石井においた。翌一三年に再び徳島県が置かれて現在に至ったのである。[cite: 99]
この頃の名西山分の様子を見ると、明治一二年に上分・下分・左右内が合併をといいて独立し、同一三年一二月八日に上分上山村・下分上山村と称した。左右内は明治一九年になって阿川村に合併し、同二二年一〇月にまた分離した。 明治二二年になって市町村制が実施され、その後昭和三〇年三月三一日に名西山分の五カ村が合併して神山町となって現在に至っている。[cite: 99]
”歴史は生きている”[cite: 99]
今という現在は、人類が発生してから幾十万年かの遠い昔からの時の流れの中の一点であり、さらにそれは後の未来永劫に続いているのである。しかもこの現在は、止まることを許されない流転進展の瞬間である。その生きた時の流れである歴史を、そしてわが神領村の歴史を今静かにふり返ってみたい。この村誌発刊を機として、村民各位が古い神領の姿を正しく解釈し、先人の歩いた尊い道を将来の生活に活かせ、さらに私たちの郷土をより高くより深く発展させる根拠ともせられるならば、それは望外のしあわせと思うものである。[cite: 99]
明治四年に佐々木儀一氏が神領・鬼籠野両村の里長補を拝命して、鬼籠野村喜来の神光寺を村役場に借り入れ自宅から出勤執務していた。明治八年五月七日佐伯常太郎氏が戸長を拝命し自宅を村役場としたが、明治一四年二月一六日、神領村字中津一三三番の地(現在の小学校の位置)に小学校を建築(木造杉皮葺二階建、間口八間、奥行五間・建坪六八坪・階上二八坪・階下四〇坪)し、その二階を村役場として使用した。その後次第に児童数が増加して校舎が狭隘となり、二階も教室として使用することになったので、明治三〇年四月五日に同所に増築(木造杉皮葺二階建、間口二間・奥行五間・建坪二〇坪・階上一〇坪)して移転した。ところがまたも小学校の児童が増加したので校舎として使用するに至り、明治三五年五月四日、字中津六六番地の一の民家前野勘五郎氏の宅を借り受けて、執務していたが、狭くかつ上山街道改修のために不便となったので、明治四二年一〇月二六日に字中津一三六番地の八に、木造杉皮葺平屋建、建坪三一・三坪を新築して移転した。その後沼田農氏が五坪三合六勺の土蔵を建築して寄贈された。また大正一一年三月杉皮葺を瓦葺に改めた。[cite: 99]
その後役場の事務はますます複雑となり、多数の吏員を擁し、村議会を開催する議場もない状態となったため昭和二九年五月一一日、郡内唯一のモダンな鉄筋コンクリート二階建の建築工事に着手した。建坪一二六・三五五坪(一階六〇・六二坪、塔屋四・五一坪)・工費八三七万円、外に敷地費五〇万円・内容調度五八万余円・合計九四五万二〇六〇円の巨費を投じて完成した。この建築費は先覚者の残した村有林の一部を売却することによって支弁し、昭和三〇年一一月一日に新庁舎に移転した。昭和三〇年三月末、町村合併により神山町として発足するに及び、この庁舎を神山町役場として使用し現在に至っている。[cite: 99]
一、歴代郡長
初代 篠田 復紀、二代 阿部 興人、三代 安田鹿七郎、四代 森 村樹、五代 米木 少駿、六代 徳部 為吉、七代 岸本 攸信、八代 原田 有徳、九代 服部 丑男、一〇代 鳥居 和邦、一一代 井内泰太郎、一二代 香川甚四郎、一三代 藤岡直兵衛、一四代 赤川 万吉[cite: 99]
二、郡の沿革
明治二二年に府県制と同時に郡制が定められ、郡は県と町村の中間の地方自治体として成立した。郡には郡長および郡会議員がおかれ、郡役所に事務職員を置いて町村の指導監督にあたった。郡役所は石井町の石井駅前通りに設置されていた。郡会議員は複選制によって郡内の町村会で選挙し、他の一部は郡内の大地主がこれを選挙した。しかしこの複選制は、明治三二年に廃止された。[cite: 99]
三、郡の廃止
地方自治団体としての郡制は、大正一二年四月一日に廃止せられて消滅した。しかし行政官庁としての郡役所は、その後も引続き存続したが、大正一五年七月一日に事務の簡捷と経費節約のために廃止された。[cite: 99]
一、歴代村長
| 回期 | 氏 名 | 就任年月日 | 退任年月日 | 事 由 |
|---|---|---|---|---|
| 1 | 佐伯常太郎 | 明三三・一一・八 | 明三七・一一・九 | 病気 |
| 4 | 沼田 継治 | 明三七・一二・二七 | 大七・一・一九 | 死亡 |
| 7 | 谷渕熊五郎 | 大八・一〇・二五 | 昭三・六・三〇 | 老齢 |
| 1 | 蔵本 弥市 | 昭三・七・一 | 昭二一・一一・二一 | 一身上の都合 |
| 1 | 佐伯 芳一 | 昭二一・一・一 | 昭二二・一〇・二五 | 一身上の都合 |
| 1 | 河口重兵衛 | 昭二二・一一・二六 | 昭二七 |