「阿波歴史史料集」

第五章 宗 教

第一節 宗教に対する国家支配の消長

我が国に於ける各宗教の消長は、それぞれの時代に於いて国家の干渉と支配に依って著しく変遷した。

一、江戸時代に於ける仏教の保護

江戸時代以前はしばらくおき、江戸時代には三代将軍家光の切支丹宗の禁制に依る宗門改めによって、仏教が云わば国家宗教というような形となって、寺院が特別に保護された。江戸時代の寺院には一種の宗教官庁のような特権が与えられていて、住民は必ず何れかの寺院を壇那寺として、その支配を受ける壇家となることを義務づけられていた。寺の住持は毎年各壇家を廻って、その家の宗門を改め、また住民が諸国に旅をする場合には、何寺の壇徒であるという「寺証(てらしょう)」を発行しこれを所持しなければ旅行が出来なかったのである。

本村にも宗門改めの古文書が、上角の佐々木家に保存されている。

元治元年八月 切支丹宗門就御改仕上書物帳

名西郡神領村小高取 佐々木近蔵 仕上書物之事
一、切支丹宗門就御改度々御法度書之趣奉畏候事
一、私弐親兄弟妻子共真言宗則旦那寺当村神宮寺相頼申所実正ニ御座候
一、小家儀召抱候男女共慥成宗旨ニ候則寺請を取置召抱不審成宗門之者無御座候先誓紙を以申上通今以相違無御座候自今以後宗門不審成者聞出候得者早速御注進可申上候
依而書物如件
名西郡神領村小高取 佐々木近蔵政盛(花押)

右佐々木近蔵義真言宗則当時旦那ニ而御座候所相違無御座候
附り当寺之義は門首寺ニ而嵯峨大覚寺無品親王御末寺ニ而御座候右寺内ニ召仕申僧侶共は不審成宗門之者候得者早速御注進可申上候依而書物如件
元治元年八月 同村 神 宮 寺

この様に特別の保護を受けた仏教が、その上に安坐して本来の宗教としての生彩を失った事は、自然の成行きであった。

二、明治維新以後の国家神道

建国の肇に返るという王政復古を標榜した明治維新が宗教の上で江戸幕府の仏教保護を覆して、神道を国是とした事も、自然の大勢であった。慶応四年戊辰三月の太政官布告で出された「神仏混淆御廃止」の示達がそれである。

一、中古以来某権現或は牛頭天王之類其外仏語を以神号に相称し候神社不少候、何れも某神社の由緒委細に書附早々可申出候事
但勅祭之神社 御宸翰 勅願等有之候向は是又可伺出其上にて、御沙汰有之候、其館之社者才判鎮台領主支配頭等可申出事
一、仏像を以神躰といたし候神社は以来相改可申事、附本地杯と唱仏像を社前に掛或は鰐口梵鐘仏具等之類差置候分は早々取除可申事
右之通被出候事 戊申三月

右の布告とそれに附随した諸法令によって、神社に対する国家および地方庁の保護が確立し、これが契機となって全国に廃仏棄釈の運動が起った。廃仏棄釈というのは神仏分離で、神社に混淆している仏教的要素を排除するという運動である。

その後政府は法律で神社の社格の制を定めて、官幣社・国幣社・府県社・郷社・村社・無格社とし、その神社の祭日にはそれぞれ該当の官庁から奉幣使が幣物を捧げるようになった。一方国民の信教の自由は明治憲法によって保証せられたので、国民は各々好みや習慣に従って、仏教・キリスト教・各教派神道等を自由に信仰したので、神社は国家神道として、一応形式上は一般宗教から切離されて、特別な国民信仰という形で両立した。

昭和時代に入って、国家発展上の要請から「国体明徴」が取上げられ、神社を建国精神の顕現として、国民に建国信仰を強調した為、国民の信仰は著しくゆがめられ、一般宗教としての仏教その他の勢力が減殺された。この傾向は太平洋戦争に入るに及んで強くなり、国家神道は実質的に宗教の色彩を濃くした。この事情が、敗戦と共に連合軍の指令に依って国家神道の廃止と宗教法人法の成立を見る根本の原因をなしたのである。

三、国家神道の廃止と宗教法人法の成立

太平洋戦争の敗戦と共に、連合軍の進駐に依り日本の政治・経済・社会・文化の上に一大変革を来したが、宗教の上にも著しい大改革がもたらされた。その第一は昭和二〇年の連合軍の指令に依る国家神道の廃止である。この指令に基づいて明治維新以来連続して来た神社に対する国家や地方自治団体からの特別の保護が廃止せられ従って神社の社格も廃止となり、社地その他の財産の国有も廃止された。第二は昭和二六年宗教法人法が成立して、国有を廃止された社地・社有地を、その氏子に払下げて、神社は宗教法人となったのである。

本村では、昭和二八年に氏神である上一宮大栗神社および八幡神社その他の九社が社地の払下げを受けて、氏子全員の組織をもって神社団体が成立した。また仏教の方では、神宮寺・善覚寺・長満寺の三ヵ寺がそれぞれ宗教法人として成立したのである。この様に江戸時代から現代に至るまで、国家が宗教に対する施策は、仏教から神道へ、さらに自由へと三転し、その間国民の信仰を著しく歪めたものが多く、従って我が国民の宗教心(情操)は特異なものとなったのである。

第二節 各宗および信徒の状況

一、真 言 宗

村民の宗旨は真言宗がほとんどで、他の宗派や宗旨は僅に数える程度である。これ等はすべて村内三カ寺すなわち神宮寺・善覚寺・長満寺を壇那寺としている。各寺の檀家は、寺総代を選出してその寺務を管理し、重要な事項を協議している。住職の後嗣は、寺総代の協議請願によって本山から任命される。寺の維持費は檀家の貧富によって昔から定った割合(何戸分)で分担している。この宗派の最も大きな行事である旧二月一五日の涅槃会(釈迦入滅祭)は、本村の三カ寺と隣村を合せた七カ寺が毎年順番に執行している。本宗の信徒は宗旨本来の信仰というよりも、その開祖弘法大師に対する信仰が中心となっているので、弘法大師入滅の日である旧三月二一日を「正御影供(おしょうめいく)」と称えて最も大きな祭日とし、大抵毎月二〇日の晩を大師講として部落が寄合って念仏を称えている。

二、浄土真宗

俗に門徒と云われているものであるが、村内に数戸の信徒があり、隣村鬼籠野には多数の信徒がある。石井の聖明寺を壇那寺としている。本村にこの宗旨が入った事情は、次のようであると伝えている。伊予の河野氏一族の檀那寺の一つである聖明寺が、紛争か何かの事情で一時下分の聖明寺に移って来た。その時寺に従って移った者がこの地に土着し、聖明寺は再び石井へ移転したが、信徒はそのままこの地に止ったため矢張宗旨も檀那寺も変えず今に至ったものという。

三、神 道

上一宮大栗神社の神職を代々務めている阿部氏、およびその一族の数戸が、宗教神道とは別な神式信仰を続けている。宗派神道としては、黒住教の信者が中津方面に一戸か二戸ある由である。

四、天 理 教

天理教は明治一〇年代に名西山分へ布教が始められ、最初下分上山村字井に教会が建てられた。その頃から本村にもぽつぽつ信者が出来始め、次第に信徒の数も多くなって遂に大正八年一月二八日、寄井に神領分教会が建立された。神領分教会は撫養大教会に属し、故森下高之助氏に依って始められ、大いに布教に尽された。現在では二代目森下公氏が昭和三〇年四月から分教会を継承され、熱心に布教に従事している。信者は谷・北・野間および青井夫に多くあって、その数約一四〇名である。
天理教では数年前から本教の発祥地である大和国天理市に在る天理教祖殿参拝を兼ねて近畿地方の奈良・京都琵琶湖・高野山・伊勢等の名勝旧蹟の団参者を一般から募集し、徳島バスの観光車等に依ってフェリーボートで渡り淡路島を縦走して明石海峡を経て大和迄行き、宿泊は教会の詰所でする等、よく世話をするので毎年多数の参加者を得ている。

五、真言修験宗

真言修験宗とは、昭和二一年県下の旧修験道者(行者・山伏)の宗義研究および相互の親睦を目的として徳島県で新に生れた宗教団体で、当時仮宗務所を那賀郡古庄に置いていたが、その後徳島市二軒屋町に宗務所を新築した。開宗時から本村には当宗の有力者撫養覚応師を始め多数の幹部級の人が居り、昭和二四年一〇月、名西結衆事務所を寄井の辻堂に置き、故佐藤竜現氏が執事となって大いに活躍され、夏は剣山その他の諸霊山への登山参拝に多くの信者を善導し、冬は寒中寒行等を行い、喜捨せられた浄財を慈恵院へ贈る等、その活動は目ざましいものがある。

六、生長の家

昭和二五年一月頃から、本村にも寄井相愛会と称して生長の家の真理に基づき、会員相互の親睦と生活の光明化を図る修養会が発足した。海老名孝夫氏外一七〜八名の会員が、毎月二回定期に集会して生長の家の真理を探究する会が続けられた。昭和二七年頃までは盛であったが、その後あまり振わない。

七、踊る宗教

太平洋戦争後、各種の新興宗教が現われたが、その一つである踊る宗教が本村へも入って来た。踊る宗教は、山口県の一農婦を開祖とした「天照皇太神教」ともいうべきもので、その信仰が踊りで表現せられる所から、この名がつけられた。現在信徒は筏津の大西昇氏等である。

第三節 上一宮大栗神社

一、社号について

(一) 上一宮大栗神社は古来色々な社号で呼ばれていたので現存せる一四枚の棟札は次の通りである。
1 寛文十三年八月 一ノ宮明神々殿上葺
2 延宝九辛酉年八月 田ノ口明神上葺
3 元禄十三年庚辰八月 一ノ宮明神々殿上葺
4 元禄十六年癸未八月 田ノ口大明神奉繕
5 宝永七年 一宮明神
6 享保元丙申紀八月 奉再興大栗上一宮大明神
7 寛延二己巳稔四月 上一宮大明神再興奉
8 宝暦四戌年霜月 一ノ宮明神々殿上葺
9 明和六丑年七月 上一宮大明神奉再興
10 安永三甲午九月 神殿葺替
11 寛政八丙辰歳八月
12 文政三庚辰歳七月 大栗上一宮大明神々殿
13 弘化二己巳星十二月 大栗上一宮大明神奉再営
14 慶応丁卯年三月 大栗上一宮大明神々殿

(二) なお明治三年神の社改正に当って、埴生女屋神社と改称され、明治二八年に至って氏子等の熱心な請願に依って、現称のように上一宮大栗神社と定まるに至った。以上の所から当社の社号を列記してみると、
一宮明神
田ノ口大明神
大栗上一宮大明神
上一宮大明神
埴生女屋神社
上一宮大栗神社
以上六種の社号が、その時代々々によってつけられていた。或はこの外にまだ社号があったかも知れず、また同じ時に二つ以上の社号を持っていたかも分らない。どうしてこの様に色々な社号があったのであろうか。

(三) 一ノ宮という社号は、この祭神が粟の国の開祖と称せられる大宜都比売命を祀った一国一社である所から起ったものと言われ、またその祭神天石門別八倉比売神が元暦二年三月三日正一位の位階に進み給うたことからこれを敬して正一宮と尊称したものと言われる。そこで江戸時代に元木蘆洲の遺稿『燈下録』にも、「神領村田口大明神 其後神階進み給ひし故にや尊みて正一宮大明神と今は称し奉るなり」と記されている。また『延喜式神名帳』に載せられている名方郡九座の中の一座は大社、八座は小社で、郡中の大社という意味で一宮と称えられたものとも言われている。名方郡は今の名東名西二郡を合わせた古い呼び名である。

(四) 田口大明神という社号は、江戸時代に当社を管していた神宮寺がその地名に依って大栗田口神宮寺と称していた所から、田口神宮寺が管する大明神という名、また田口にある大明神という所から、田口大明神と称えられていたのである。田所氏の引用文に依ると、島田泉山氏の『徳島市郷土史論』中に、「成良は一宮祠官で其の神領として名西郡一半を占める大栗山一山を領し、中祖成高時代から相当兵を養って居った。その祖は平安朝初期国司であった田ノ口息継の一族神領に居り、祖神として田ノ口神社を祭り、子孫一ノ宮の祭官を継いで居ったが小笠原氏入国して其の一族之が養子となり、是より一宮氏を名乗るに至った。」という。

(五) 大栗大明神の大栗とはどういう意味であろうか。当社の祭神大宜都比売命は古事記に保食神(うけもちのかみ)の別名で記されている五穀の神である。当社の伝説として大宜都比売命がこの地にはじめて粟を植え給うたという所から、この国を粟の国と称え、後国名は阿波の国となったと伝え、その発祥地として、ここを古来大栗山と言い、広く名西山分今の神山町一円を大栗谷と称えまた粟生郷とも称えた所に、この称号が由来していると言われる。

(六) 上一宮と称するのは下一宮に対するもので、下一宮とは今の徳島市一宮にある一宮神社であって、当社の分霊を祀ったものである。承久三年(一二二一)阿波の守護に任ぜられた小笠原長清の子孫小笠原長宗が、元弘年中(一三三三)名西郡上山に攻め入って当社の祭官であった国造家を滅して当社の大宮司と称し、姓を一宮と改めて一宮城に拠った。その子孫は相ついで一宮大宮司と称して、武将と祭官を兼ねて一宮領を管した。二世を経て成宗に至って、当社の分霊を一宮城内に奉祀して遙拝所としたが、これが上一宮と下一宮の分れた元である。その子成行になって、城主と祭官を分ち、下一宮を以て城主領として長男成良につがせ、上一宮は神領分(村名の起った所以である)として二男成直を祭官としてこれを祀らしめた。世にこれを一宮殿と称した。一宮という称呼が下一宮に移ったのは分霊であっても一宮氏の居城と神社が同所に在ったために一般化したからである。また明神というのは、神祇は叡智聡明であって能く人々の行為を明察するからかく呼ぶ。印度では神を天と名づけ光明の義である。平安時代の末、神仏習合の説が広く行われる様になってから権現の号と共に、春日明神・丹生明神など、この名称が使用せられた。これは仏教の影響といってよい。

『名東郡一宮城跡書』には「一宮大明神祭神は大粟姫命神代より鎮座申伝へ、初め神領村丹生山へ降臨あり其の後当所へ移し奉る、年月不分明。国府より神領の間遠路故国祭の為此地へ引移し奉る由、又此の地に粟を蒔き始め給ひ此の尾筋を大粟の唱を以て阿波の御国と申す由、聖武天皇一宮国分寺御建立の砌此大粟姫を一宮大明神と号し則ち地名も一宮村と申候云々」とある。『阿波国風土記』には、「国魂大宜都比売命は一国の主たり、阿波の国に於ては大粟比売の命と申す。即ち名西郡神領村に祭る上一宮大明神是なり、後に一ノ宮村に移し祭る、通路あいだあるならん。」とある。上一宮大栗神社の分霊は隣村鬼籠野神社にも祀られている。元来鬼籠野村は上一宮の神領分として今の神領村と共に一宮殿の所管であった。

(七) 埴生女屋神社という社号は、明治三年神社改正に依って改称せられたもので、『埴生女屋神社調査報告書』(年代不詳、恐らく明治一〇年代か)にも、「明治維新以前は社号を上一宮大栗神社と尊称せられ、明治三年神社改正の際、本書の如く社号を改称なりたり」とある。此の社号の由来について田所氏は村誌原稿で長大な論証をせられているので、これを略述しよう。

先ず田処氏は『阿波国古代郡県及国司沿革抄』から大化の改新の時の郷名につき、次の如き引用をせられる。
「埴生 此の県は入田より上山村迄山分の地なり、神埴生姫の命の当なり。式内の神社なり此の地大霊山の神領なり
名方郡 此郡号は美名方命の御名の上下を略す。名方郡の根元なり、式内の部に詳なり、人皇九十五代宇多天皇の御宇寛平丙辰九月二十五日二部に分ち、名東名西となる。此は元と、名万西郡なり。」
大化の改新に何故此の地を埴土(はにう)郷と命名したかについて、田所氏は次の如く推論する。「阿波志には所謂埴土郷といひ、其の東南一里半の地を丹生(にう)内といふ、阿波国郡村誌には(土俗伝として当社の神は)大粟山で、伊勢の国丹生より乗馬にてお越しなりといふ。」そこで埴土と丹生と発音の類似する所から丹生が埴生に転化したと推論される。「埴土と丹生の『丹』とは直観的にて稍接近する。」と説かれる。

そして丹生氏族の阿波への移民を想定され、其の氏神丹生都比売神の移入、そして此の神と「大宜都比売神の合祀や、更に進んで八倉比売神にまで到達するは別に不思議はあるまい。」と高野山に於いて丹生都比売神、大宜都比売神、市杵島比売神を合祀して仏法守護神としている例をあげて説かれている。この様に移入せられ、丹生即ち埴生が大化の改新の郷名にまで採用せられながら、何故に其後忘却せられたのであるか。田所氏はこれについて、「其の神社に奉賛喜捨する氏族の衰頽したためで、此の丹生都比売神社は平安期に入って忌部神社と同様に著しく衰頽し、平安後期に入っては氏神という定則が変更され出した。産土神とは各人の本居即ち生誕地を守護ささる神であるから、祖神でなくとも何神でも差支えないという事になり、氏神などの関係は少しもない。鎌倉時代となっては氏神も産土神も一括して皆氏神で其の区別が消滅し、只今も其の通りである。此の間に田の口氏が御自分の産土神又は氏神とな了した。茲に於いて丹生都比売神社は田の口神社と社号が変ぜられて遂に丹生都比売の社号は意識下に没却されて了った」と説明される。

右の様な次第で忘却された丹生都比売神が王政復古に当って当社に埴生女屋神社という社号が与えられたと言われ次の如く結論をつけられる。
「大体上一宮大栗神社縁起の俗間に上ったものは、祭神は変更なっているが、公式からのものは大抵埴生女神が祭神である。明治五年などの壬申戸籍などは氏神は埴生女屋神社になって居る。祭神が大宜都比売神と決定したのは明治の年代に出来た縁起である。」

右は田所氏の村誌原稿の所説のあらましを記述したもので、その当否を論ずることは出来ない。一方に於て、明治二八年九月一一日付を以て、神社総代連名および村長沼田鑵治氏の副申を以て、徳島知事に対して、神号追加社号復訴願が提出されている。

神号追加社号復称願
徳島県名西郡神領村字西上角鎮坐 郷社 埴生女屋神社
右神社の儀は元と祭神大宜都比売命又の名大粟比売の命又の名天石門別八倉比売命にして、明治維新以前は社号を上一宮大栗神社と尊称致来り候処明治三年神社御改正の際如何なる御都合にや、神号を単に大宜都比売命とし社号を埴生女屋神社と改称せられたるを以て、氏子一同に於ても神慮の程如何にやと恐察し、多年不本意に打過ぎし次第に有之候元来大宜都比売命の社号は旧称の如く上一宮大栗神社と尊称せらるべき筈にして埴生女屋神社なる社号を付すべき理由なきは別紙参証書に因るも明白と存候、仍て今般神号は大宜都比売命又大粟比売命又天石門別八倉比売命と追加せられ社号は上一宮大栗神社と復称之儀御聞届被成下度別紙考証書相添へ此段奉願候也。

別紙『考証書』の一部抜萃
旧記中埴生郷を神領村の別称の如く記す者あるを以て斯くの如き改称を為したるに非ざるか。然かも上古名東名西二郡を名方郡と称せし際、神領村附近は凡て之を大栗郷と称し、名方郡中埴生郷と称するは、今の名西郡浦庄村下浦及同郡石井町域の内附近を言う。是れ口碑伝説のみならず現に其の附近に於ける神号地名に徴して歴然たり。されば埴生女屋神社は理適さに埴生郷に在るべきなり。大栗郷に埴生女屋神社の存す可き理由なからん。

右の願書は、明治二八年一〇月二九日、徳島県指令乙名第一二九七号、知事村上義雄の名を以て「願の趣聞届く」、という簡単な指令に依って聴許され、社号は郷社上一宮大栗神社と確定したのである。

「阿波歴史史料集」