板碑は全国では九州・近畿・関東(武蔵・下総)・東北の各地方に分布しているが、本県も多い方である。これはもと鎌倉時代におこった新興仏教の影響を受けたらしく、この時代の末期から始まったのである。阿波は当時の文化の伝播が相当早い地方で、中央文化がいち早く流れ込んで、阿波板碑の発生を見るようになったものであろう。また一つは板碑の材料として、阿波に産する緑泥片岩が豊富にあったことも普及に役立ったと考えられるのである。
阿波板碑の特質としてあげられるのは、まず五輪板碑から作られたらしいことで、写真のように阿川の禅定寺の境内にあるのはその一つである。次に阿波板碑の造立は鎌倉時代末期からであることで、最も古いものは名西郡石井町大字市楽の石川神社の境内から十数基の板碑が発見された内の、弘安八年十二月二十五日の銘がある五大種子板碑で、しかも五輪板碑である。
石材はほとんど緑泥片岩で、中には砂岩や花崗岩のものもあるが非常に数が少い。図のように頂部は山型に先をとがらせ、上部に二条の横線を刻み、周囲に長方形のみぞ(輪廓)を掘っているのもある。その中に種子・画像・各号・銘文・紀年・名が刻まれているのが普通である。大きさは阿波でも一丈以上のものは少く、本村には一丈以上のものはない。銘文は造立の趣旨を表わしたもので、阿波では、「右志者為慈父三十三回忌造立之」とか「右趣意者為比丘尼□□逆修善根建立」とかの型にはまったものが多い。三十三回忌が最も多く一七基、三五日忌が四基ある。三十三回忌が多いのは、それで大体法事供養を終る最後を表わすものであろう。
紀年は板碑を建てた年を記したものであるが、残った板碑で紀年のあるのは数が少く、本村でもわずかしか発見されていない。また造立の月日も記載されているが、多いのは二月・三月・七月・八月で、十月・十一月がこれについでいる。すなわち春秋の彼岸の頃に多いことに気がつく。
(一) 種子板碑——一種のものと三種・五種などがある。三尊種子が一番多い。本村の板碑では二二基がほとんどこれにあたる。これにくらべて五尊種子は三基である。種子(種字)は、仏を一字の梵字で表わしたものである。
(二) 画像板碑——本村には見当らないが、阿弥陀像・観音像・地蔵像・五輪塔などがある。
(一) 追善供養碑——これが普通で、死者の冥福を弔うためのものである。
(二) 逆修碑——造立するものが、自らの後世を祈るために立てたもので、銘文に「為逆修」と刻している。
(一) 双式碑——連碑または夫婦板碑といわれる。比較的少ないが、本村にこれが残っている。その目的は夫婦の供養のためで、神領にあるものは応安五年八月に造立し、慈父慈母三十三回忌に当って子が供養したものと思われる。
本村にある板碑は次表の通り三六基で、紀年のあるものは僅か五基である。これを年代の古い順にあげる。
北朝年号が多いことと、下分・上分・鬼籠野・阿川などに比較して数の少いことは、今後の研究に残された問題である。
方位:N(北)
凡例:川、道路、板碑一基、年号のある板碑
地名・施設名:至阿川、川いし、あぐ、小野、北上角、山の神さん、至徳島、八幡神社、合堂、古祠場、善覚寺、中野家上、白桃、大久保堂の下、釈迦寺跡、発電所、雨乞滝、花折、高根悲願寺、長宝寺、ヒビキ跡、北寺、岩丸墓地、小中、大金、寄井、神宮寺、千氏神、佐藤明神、長福寺、長倉、城西高、至上分
細川氏のために大栗谷における武士の争いは一応終止符を打った。大栗谷の農民はこのような争いをどのような目で見ていたかは想像できないが、黙々と先祖から伝わった耕地を古い農法で耕作し、さらに急傾斜地を少しでも開墾しようと、余力を開拓に注いでいたであろう。大栗谷をはなれて目を阿波国や日本の有様に向けると、この頃の阿波は細川氏と三好氏が統治し、何れも京都において勢力を持った豪族であり、阿波の政治は日本の政治と共通の全国的な大政治家によって行われた。
細川氏は三河国の細川庄を領していたので細川を名のった。細川頼春は文武にすぐれ、阿波郡の秋月に光勝寺を建てて普明国師を迎えて開山とした。その子頼之は山嶽武士を亡ぼして阿波を平定し、足利将軍義満を助けるため京都に住み、四国を弟の詮春に任せた。
頼之は将軍義満を助けて管領となり、幕府の政治を司る中心となったので、これを京の屋形とよび、勝瑞にいた細川氏を阿波の屋形とよんだ。細川詮春は勝瑞に大きい城を築いた。勝瑞は水陸の交通が便利な要害の地であって、従来城といえば多くが山によった山城であったが平野の真中に平城を築いたことは細川氏の進んだ考え方を表わすものである。阿波の細川氏は代々将軍の評定衆として政治の相談にあずかり、京都でも勢力があった。応仁の乱の時など、成之は総大将管領代として戦った。それで下の屋形の勢力は管領家をしのぐほどになった。その時京都では戦乱が多くて戦国時代に移って行き全国も兵乱の休むまもない程みだれた。その時に、細川氏は阿波でよい政治を行い、質実剛健な気風で常に兵力と国力を培ったのであった。
三好氏は小笠原氏の子孫で、三好郡にいたので地名を名とって三好を名のった。三好氏が勢力を得るようになったのは、応仁の乱の後に三好之長が細川澄元を助けて京都に出てからで、之長の子元長は京の屋形の内紛に乗じてうまく勢力を張り、管領を自由にしていた。
元長の子長慶は、天文一八年(一五四九)京都に入り細川氏を亡ぼして幕府の実権を握った。長慶の領有する国は山城・大和・河内・和泉・摂津・紀伊・播磨に及び三人の弟は淡路・阿波・讃岐により、一門は隆盛を極めた。長慶は将軍の廃立を自由に行い、朝廷から授かる官位も長慶の手を通したので、京都の公卿や諸国の大名などはみな長慶の意を迎えようと努めた。それから二~三〇年の間は阿波人の全盛時代で、日本の政治は一時阿波の人々に握られていた。長慶の死後、三好氏はおとろえて家臣の松永久秀が勢力をふるった。
阿波の屋形の細川氏は、三好氏の助けで澄元・晴元二代の管領を出したが、長慶の弟の三好義賢は主人の細川持隆を殺し、細川氏に代って阿波の政治を行ったが、我侭な行いが多かったので、細川氏の旧臣久米義広等が兵をあげて吉野川南岸の名東郡南井上村で戦ったが勝つことが出来なかった。これを鑓場の義戦という。義賢の子長治が後をついだが政治は乱れた。戦国時代に天正一〇年木屋平越前守に攻められて、城山の城主一宮氏は滅亡した。その頃土佐で勢のあった長曽我部元親が、四国を平定しようとして阿波の乱れをみて海部郡から攻め入り、さらに次の年には三好郡から進攻して来た。細川真之は一宮氏などに助けられて兵をあげたが遂に負けて阿波の屋形は一〇代でほろんだ。元親は美馬郡の脇城をおとしいれたが、三好・細川の残党は織田信長に頼って長曽我部氏を討とうと計画した。しかし信長が本能寺の変にあったので、元親はこの機を逃さず四国を平定して三好郡の白地城によった。豊臣秀吉は四国平定を計画して、長曽我部氏を討つために土佐泊から上陸して一宮城を破りその勢力はすでに阿波を平定するの感があった。元親は遂に秀吉と和を講じて土佐に退いた。この戦いで蜂須賀正勝は秀吉の参謀として活躍し、その子家政は先陣として戦に参加して功績が多かったので、その功によって阿波一七万五千五〇石を与えられた。家政は初め一宮城に入ったが、秀吉の命によって徳島に新城を築いて阿波を治めた。
天正一三年(一五八五)の夏のさかり、今から三七三年前のことである。秀吉の四国征伐の大軍は、秀次を第一陣として洲本から鳴門海峡を渡って土佐泊についた。蜂須賀から蜂須賀家政が参加して阿波に進入し、秀次の軍と合して木津城を破り、一宮城をおとしいれた。この戦いで家政は阿波を与えられ、明治になるまで代々阿波の政治をしたのである。
徳島城は今はその面影が緑泥片岩の美しい青石の石垣に残っているだけであるが、城山のみどりに映えた城は阿波城として偉容を誇っていたのである。蜂須賀氏は尾利氏から出て尾張に住み、その土地の名を氏にしたもので、正勝は秀吉に仕え、知謀によってその第一の参謀となって功績があった。
家政は阿波を治めるにあたり、三好・細川時代の先例を重んじ、昔からの武士を用い、神社や寺院をおこし産業を盛んにしたので、長い間の兵乱にまきこまれていた農民は善政を喜んだ。家政は、秀吉の九州征伐や小田原攻めにも出陣し、また朝鮮征伐には文禄の役で第五軍、慶長の役では第七軍に属して戦った。慶長五年(一六〇〇)石田三成が兵をあげた時、家政は領地を豊臣家に返し、僧となって蓬庵と号し、高野山の光明院に入った。関ヶ原の戦の時は、家政の子至鎮は徳川方の東軍に味方し、功によって阿波一八万六千五〇石を与えられ、また大阪冬の陣に至鎮は大いに功績をたて、さらに夏の陣にも加わって淡路一国を加増せられ、阿波・淡路両国二五万六千四〇石八升三合を領し、その後一四代二八〇年余徳島藩主として阿波の政治を司った。
天正一三年(一五八五)四六月、蜂須賀家政が阿波に封ぜられて入国した時、那賀郡の仁宇谷・名西郡の大栗山(今の神山町一帯)・美馬郡の祖谷山など山間の豪族たちは、自分等の勢力が失われることを心配して、何も知らぬ農民どもに新しく入国する家政の考え方や制度・掟などが非常に悪いと宣伝して一揆を企て、天正一三年八月、仁宇谷と大栗山がまず叛旗をひるがえした。
家政は、一揆の取しずめのために尾浦与四郎を仁宇谷に、兼松総左衛門を大栗山に遣わしたが、一揆を鎮めることができず、遂に戦死した。そこで家政はついに自ら出馬して指揮をとり、山田宗重を仁宇谷に、樋口正長を大栗山に派遣した。この時は、麻植郡木屋平の原土松家長太夫が、大いに協力して大栗山の叛民をとりしずめることができた。この一揆で大栗山で特に功労のあった栗飯原源右衛門(現栗飯原胤の先祖)と、上野長左衛門には左の書状が与えられた。
今度丹生(仁宇)大栗百姓ども非儀の働きもっての外、其先の者より別脚走の由黒部久蔵申聞候連一段満足此事候其許相働きいり簡要に候当両人申すべき旨也
藩の政治は身分を定め、各々の役職に従って事に当らせた。家老が一番上で城番を勤め、大将になり、兵器や海軍をつかさどり、中老はその次で国奉行・郡奉行・町奉行を勤め、その下には物頭・与士(馬廻り)・高取諸奉行があり、いずれも五〇石以上の高取で家中といわれ、拝知と称して農村からの年貢を米で受取ったので、その数は約六一〇人といわれている。その下に小姓・中小姓・日根格・徒士・小奉行があり、七石支配・三人扶持以上で、扶持人といわれ、その数は一、三五〇人ぐらい有った。何石支配というのは職務に対する一年の給料で、何人扶持というのは食糧として一人一日米五合の割合で藩の倉から給せられたものである。さらにその下に御鉄砲・御弓・長柄などという者が、およそ五、四〇〇人ほどあった。これらの武士たちの家族を加えると、約一万人ほどであった。
前の一揆から二三五年を経て、文政二年(一八一九)六月に、名西郡上山村上下村民(上分と下分)がむしろ旗をたてゝ一揆をおこした。そのわけは、庄屋や五人組が年貢米を余分に徴収して自分がとりこんでいるから、庄屋や五人組をやめさせよというのであった。上山の字名本の牛之丈・谷平の大郎右衛門・下分の高代松・京地住所などの張太郎などが先鋒となって村民を集め、寄井の西瀬河原に集結した。さらに上角の農民にも参加を求め、総員七〇〇名余りが大埜地河原に集り大いに気勢をあげた。
代表者は、神宮寺の郡代奉行手代詰所に来て、願の主旨を申述べた。役人は事態の重大なことに驚いて、穏代などをなだめて大埜地河原に引取らせた。そこで役所の返事を待っていたが、ついに待ち切れず、一同は上山街道を名西に出て、徳島の城下に入ろうとした。一宮村の与頭庄屋の河原周助は、この一揆の人々に対して至誠を以て説得したので、一揆はついにしずまった。藩では、高木真之助を神領の神宮寺に出張させて、騒動の次第を聞き、首謀者数十人について調査し、その罪をとがめた。この騒動は名西山分では最大のもので、これを本庄博士などは四国型の一揆と名づけている。
蜂須賀氏が入国した当時は、戦乱にあけくれた後の荒廃した状態であり、農民も戦につかれ切って、為政者の命令だけですべてを動かす事は至難であった。これを察した家政は、まず阿波における先例と慣習を法制として用い、さらにその土地の勢力を持つ者を登用した。これが先方士であって、本村ではどの様な人々があったかは検地帳や棟附帳によって知ることができる。
細川・三好時代に、地方の豪族として勢力のあった者は、それぞれ領地を与えられていたが、蜂須賀入部当時は、この先方士の領地をそのまま政所として与え、その上に代官をおいて諸事を監督させたものらしい。当時の代官は、農民の耕作を始め、総てにわたって村政を見ていたので、重要な仕事であった。
一、修道大権現 一、天神社 一、愛宕神社 一、弁財天社 一、石地蔵 一、鎮守社 一、三界万霊 一、観音堂
一、字谷九四番地にある。本尊は不動明王で、行基の作と伝えられる。神宮寺の末寺で、宝形山観音院長満寺と号し、現住職は撫養覚応氏である。創建は不詳であるが、少くとも五七〇年前に既に建立せられていたことは確かである。
阿川村宮分の観善寺に所蔵する大般若経第六百巻の奥書に「阿州名西郡大栗山上一宮長満寺雖為悪筆依結縁者書写了後見人々時可被唱者也 定範」とあって、これを筆写した年代は嘉慶二戊辰年であるから、今から約五七〇年前にあたり、南北朝時代の北朝の年号である。これによって当寺の古さが立証される。
二、その後は記録がなくて不明である。
1、慶長十三年神領村検地帖には、寸地の所有も出ていない
2、万治二年(一六五九、三〇〇年前)十二月三日の棟付帖 一、壱家 高六石三斗弐升六合 長満寺 歳三拾三 老人 長満寺親 又右衛門 歳八拾壱 外に四人 下人小家三軒 九人
3、寛文十三年十二月三日の棟付帖 一、壱家 高六石三斗弐升六合 長満寺 歳四拾九 老人 長満寺弟子 敬清 〃弐拾六 老人 同 弟子 敬伝 〃拾参 牛 弐疋
4、享保九年(一七二四、二三五年前)棟付帳 一、壱家 高拾五石五斗壱升七合 長満寺 歳弐拾四 此者之儀当村郷鉄砲岡田長十郎三男之件ニ而御座候処同村長満寺弟子に指遣し出家仕度由享保元申御代官三沢為次郎様へ御願奉願(中略)唯今長満寺に住居仕居申候(以下略)
5、明和六年(一七六九、一九〇年前)棟付帖 一、壱家 高拾五石五斗壱升七合 長満寺 歳四拾壱 此者儀当村百姓徳兵衛倅ニ而御座候処同村長満寺弟子に罷成出家仕、寛延三午年弐月より長満寺へ入院仕今以住寺職相勤罷有候然処御帳御証文如何仕候以非当り相見仕不申候
6、文化六年(一八〇九、一五〇年前)神領村合名棟付帖 一、寺 真言宗 長満寺 龍月 歳四拾壱 とあるが、「高」がないのはどうしたことであろうか、また同じ棟付帳に一、部屋 道心 盛道 歳四拾弐 此者他国出生に御座候処五ヶ年以前より罷成当時長満寺弟子に相成名中講の部屋に住居申候御取調に付右御趣申上候処御詮儀之上住居御聞届被仰出候(以下略)
7、四百三番地 当村真言宗神宮寺末 長満寺 第十三世 浄蓮 生年七十六 板野郡黒崎村文字仲次男文化丁丑十四年五月三十一日於神宮寺得度
三、三百七十四地所 長満寺末 観音堂 黙然 生年六十七 当村阿部勝左衛門長男嘉永二己酉五月於神宮寺得度 この観音堂は、当寺の西南の上にある凹地の所にあったものを、その後現在の長満寺に合併せられたものである。
四、長満寺の住職は永禄二年から現在まで二一代であるが、貞享四年までの九人は権律師で、他の八名は皆権大僧都であった。
五、寺宝に、真如法親王(皇族、弘法大師の弟子)御筆の大師像一軸があるが、年を経て損傷が甚しいのは残念である。また、多田満仲の位牌を祀り、満仲の息の美女丸に関する伝説があるが、後世の附加物である。
六、現在檀家は約八〇戸位である。
七、山西国 第一一 番
一、本上角五〇番地にあって、弥勒山宝蔵院善覚寺と号し、真言宗神宮寺の末寺である。本尊弥勒菩薩・脇仏観世音菩薩・不動明王、大師堂本尊弘法大師、脇仏十尊王である。明治初年に本堂が焼失し、その後に再建した。本堂本尊薬師如来、脇仏十一面観世音菩薩・不動明王・地蔵菩薩(青銅)の三体がある。もと宝寺山瑠璃光院善覚寺と号した。境内反別は一反一畝一九歩。
二、宝物
1、帝釈天像壱軸、絹地・長六尺四寸・巾六尺一寸二分、絹地表装、万暦一一年(支那明朝、一五八三年、日本の天正一一年、約三七〇年前)扶余地望月山敬竜寺に於て淡澄比丘筆、奉納の施主は中国人でその人名は多数であるから省略する。如何なる経路を経て当寺へ伝来したものか興味のあることである。
2、涅槃像壱軸、絹地、長五尺六寸五分・巾五尺三寸 絹地表装、筆者不詳。
3、竜頭観音像、絹地、長三尺一寸・巾一尺二寸、絹本着色、筆者不詳。
一、字高根一三五番にある。境内敷地二、二八六坪、真言宗長満寺末で、高根山観音院悲願寺と号しているが、一般に「高根の観音さん」の称で里人に親しまれている寺である。寺に古記録がなく、住職も在住の時があり無住の時もあって資料が散逸したので、創建の由来を尋ねる由もない。寺の所伝では、兵庫県川辺郡多田村の多田院・同郡長尾村の中山寺(西国二二番、現在は合併して川西市となる)に伝わる伝説があるが、彼地には光寿丸および美女丸が出家して源賢僧都となり、その苔むした墓石がある。当悲願寺の伝説は何人かが彼の地から持って来たものと思われるのである。また一宮長門守および同奥方の信仰や参拝にも再考の余地がある。しかしこの二つの伝説を否定しても悲願寺の価値は減少するものではない。昔寺の近傍には一つの部落があって、慶長一三年(一六〇八、三五一年前)の検地帳には、高根村として家が六軒、田畠合して三町余の耕地があった。この時に悲願寺が存在しているところから見ると、当寺もかなり古くから建立せられたことが明らかである。
二、累代の先住中、延宝七年以降は二〇名で、現在の中山仁熊師は第二一代である。
三、檀家は現在約二〇〇戸で、末寺の庵は峯の地蔵庵・当地の多尾庵・奥谷庵である。
四、山西国第三番
一、石堂庵
字石堂二二二番地にある。敷地四三坪、阿弥陀如来および千手観音をまつる。石堂山麗光寺という山号・寺号があったが、創立年代およびその盛衰のあとを尋ねるよしもなのは遺憾である。境内に庚申塔があって、享保十五天二月二十一日石道村とあり、面相が特異で、約二三〇年前のものである。口碑によれば石堂某氏の祖先が単独で堂宇を創立したものと伝えられる。山西国第一二番。
二、長倉薬師堂
合名の長倉にある。本尊薬師如来を祀る。寛文十三年(一六七三・二八六年前)の棟付帳の合名には 高四石参斗五合 薬師堂 とある。昔傍近にあった自願寺の本尊を移したとも考えられなものである。境内諸仏:(1)庚申塔(安永七天正月吉日・施主源蔵)(2)五輪塔一基(承応二癸巳年)。山西国第一〇番。
三、地蔵庵
俗に辻堂または辻堂庵という。寄井町内にあって、本尊地蔵菩薩をまつる。創建年代は不詳であるが慶長検地帳には、すでに辻堂の名が見えるから、この頃にはあったものと思われる。また文化年間の地図にも記載せられている。なお近傍の天理教神領布教所の東南の墓地には、六地蔵を陽刻した石像があって、万治の年号がある。もと地蔵庵の境内にあったものであるという。山西国第九番。
四、妙楽寺
字北七七番地にあって、松原山妙楽寺と称している。敷地一一七坪、本尊地蔵菩薩・千手観音を祀っているが、昭和二六年二月火災にかかって悉く焼失し、現在は小祠がある。慶長十三年の検地帳には妙楽寺の地称があるが、当寺の所有地は全然なく、その後何れの年代の公簿にも見られない。しかし現在の庵に近い所にあったことは明らかである。
五、長法寺(長宝寺)
大埜地四九四番地にある。敷地九四坪、弁天山長法寺と称し、本尊阿弥陀如来を祀っている。本寺は現在は一小庵に過ぎないが、長満寺と同じく、阿川観善寺の大般若経の第六〇巻の奥書に、「嘉慶第二林鐘二十二日長宝寺住僧良意」と認められていて、現在の長法寺に疑いなく、これから考えると本庵も長満寺と同じく今を去ること五七〇年前には立派な寺院として存在していたことが明らかである。また寺内に鎌倉時代の板碑と古い型の宝篋印塔があり、また現在の寺の前は平坦で、かつ広い畠がある。恐らく鎌倉〜南北朝時代には相当な寺院であったと思われるが、慶長の棟付にはすでに所領はなく、部落民の醵信によって小庵ながら廃寺となることもなく、昭和の現在に至っている。時代の変遷・栄枯盛衰は世の常ながら、由緒のある寺が小庵となったのは残念なことである。寺内には桧の大樹が一本あって、相当の年代を経たものと考えられる。境内諸仏:(1)庚申塔一基(文化七年庚午三月吉日・尾野地名講中)(2)弁財天一社(棟札七枚の中で最も古いのは宝暦三年のものである)(3)鎮守一社(棟札二枚の中古い方は文政五年である)(4)石地蔵一軀(宝暦十三年癸未歳三月)。山西国第一七番。
六、中津庵
現在中津名の栗飯原氏宅の上にある。本尊千手観音で、境内に三仏がある。その内に石仏が一尊あって、宝永五年の年号を刻してある。この庵は昔、現在の小学校の敷地にあったものを、学校を建築するために現地に移転したものである。山西国第五番。
七、満福寺
字西大久保一一一番地にあって、敷地五一坪、通称銀杏庵として知られ、境内に銀杏の巨樹があるので名高い。現存する木版には「非長山満福寺」とあって、山号と寺号があり、また附近には通称「ニシノモン(西の門)」の地称がある。しかし慶長検地帳以降の公簿には寺として記録せられてはいない。従って過去は寺であったのか、それとも一仏堂であったのか立証するものがないのは残念である。地蔵菩薩(金仏)を祀り、また境内の銀杏は乳銀杏と呼ばれて、乳の少い婦人が生れ年の干支を記した紙を気根に結びつけて乳量の増加を祈願すると効験があると伝えられている。山西国第一八番。
八、墓地蔵庵
字南上角一〇八番地にあって真言宗善覚寺末で、本尊地蔵菩薩を祀っている。旧参道に丁石があって往時の信仰の厚かったことを物語っている。境内諸仏:(1)薬師如来石像 寛政十三年辛酉年正月二十四日 (2)光明真言百万遍塔 万延二年酉年二月吉辰。山西国第一九番。
九、奥谷庵
字青井夫、三三番地にある。真言宗善覚寺末で、本尊阿弥陀如来を祀っている。古老の言によれば、この本尊は、青井夫の河野一族が伊予の川之江から当地へ来た際に奉持して来たものであると伝えている。山西国第二二番。
一〇、とうじが峠の庵
字青井夫にある。敷地四八坪、本尊千手観音をまつっている。昭和一三年二月一日火災に遭って焼失した。現在の建物は同年に再建せられたものである。
一一、小野地蔵庵
字本小野一九九番にある。真言宗神宮寺末で、本尊は地蔵菩薩、敷地は三三三坪ある。附近の地称に「大門」があり、また赤竹の伝説がある。慶長以前には一寺であったかとも思われるのである。境内諸仏:(1)板碑一基(高三尺五寸)(2)石地蔵一軀(明治七戌年演立法師)(3)五輪塔二基。
一二、中山堂
本野間中山にある。中山権現と同一地番(約四畝)にあって、建坪約四坪、茅葺の四ツ足堂であったが、近年になってトタン屋根に改修された。講中は八軒で中山権現と共に輪番に祭る。堂では土用に念仏を誦する。本尊観世音菩薩。山西国第七番。境内:庚申塔一基(正徳四年)。伝説に、昔裏山に大崩れがあって当社と堂は共に埋没し、七日七夜掘り続けてやっと発掘したという。また堂の下の地を坊屋敷という。昔この地に寺僧か堂守が居た為に生じた名称かと思われる。最近附近の畠中から江戸初期のものと思われる土器を発掘した。
一三、妙見堂
野間妙見神社の境内にあって、建坪約二坪、古老はこの堂が昔廃寺となった「釈迦寺」の跡だとも云うが真否は不明である。しかし講中が野間・川又・高浜に及び、長命は中山堂・筏津名は筏津堂をそれぞれ管理している所からして、昔は相当数の講中があったと思われる。現在は祭祀も絶えて僅かに建物の維持をしている程度である。本尊阿弥陀如来 脇侍観世音。山西国第八番。境内仏:地蔵尊一基(天明八年)。
一四、辻堂
青井夫にあって、通称「堂の辻の地蔵さん」と呼ばれている。この小庵は開基や縁起は全部不詳で、調べる方法もないが、大正八年頃当時四ツ足堂であったものを会堂に改築して現在に到っている。現在仏像は、六角形の木柱に陽刻された一風変った六地蔵が安置されている。明治時代には金仏が一体安置されていて、子供が悪戯をすると腹痛などを起したと古老は語っているが、現在それはない。寺であったという証拠はないが、多少の山林を所有していたらしく、現在の名有の山林の一部がそれであるという。講中は青井夫名の全員で、縁日は六月二四日、行事は旧六月一日虫送り、旧七月七日(七夕)には名中の老若男女が集って念仏を称える。常に名中の会合に利用され、力石を囲んでの力較べや盆踊は昔のこと、今は各種の集会や青年の演武場として利用されている。境内諸仏:(1)庚申塔(天和三年一月十七日)(2)不動尊(元禄十六年十一月十八日)(3)光明真言百萬遍(弘化二己四月吉日)(4)見事な老松が一株あって、往時は剣山参詣の人がこの蔭で休憩して涼を入れるのを例としたという。
一五、筏津堂
佐々木頼章氏宅の上の道の側に、コンクリート造りの小さな堂がある。これが筏津堂である。以前は二間四方の木造建築であったが、大正七年の青井方面の大火の時に類焼し、その時に本尊脇侍等一切が炎上したので、その後再建して本尊を安置した。焼山寺の住職笠井法道師に依頼して金仏を購入したが何者かに窃取せられたので、その後巡拝中の四国遍路に依頼して阿弥陀如来・観音菩薩・大師像の三体を刻んで貰って安置してある。再建した堂が、腐朽したので昭和二八年に現在のコンクリート造に改めた。山西国第六番。境内諸仏:(1)庚申塔一基(正保四年)(2)舟月神一祠。
今まで記述したのは現存する寺院であるが、本村には尚この外にも寺院があったようである。昔のことは記録が少いので不明であるが、慶長一三年(一六〇八、約三五〇年前)以降の検地帳や棟付帳に記載されている寺は次の通りである。
一、蓮花寺
慶長十三年五月十一日、『神領之内大野治村御検地帳』に「北寺四畝廿歩」と「同壱畝拾歩」とある。北寺の実の名は蓮花寺である。その位置は現在の浅井氏宅の附近と推察される。北寺の地称区域が蓮花寺の境内と思われるので、附近には蓮花坊という二反歩程の土地がある。その蓮花坊の所有地が検地帳にあるが、当時既に廃寺であったらしく「大門」の地称もある。蓮花坊には大分所有地がある。当時はまだ隆盛であったようだが、程遠からずして衰頽したのか、次の年代の記録には見えない。
二、千蔵寺
慶長十三年『神領之内大野治村御検地帳』に次の記事がある。道の上壱畝下々畠二升千蔵寺。この千蔵寺は院号を常光院と号すという。堂のくぼは、寺の本堂の位置と思われ、既にこの頃寺の建造物は殆んどなく、当時の政所上野家の所有に帰し僅かに壱畝の畠に寺名を残すに過ぎない。この後この寺の記録はない。寺の所在地は西川重雄氏宅から鎌田氏宅附近にあったものと思われる。
三、釈迦寺
慶長十三年の検地帳を調べてみると、「門口 二反三畝七歩 上々田 四石八斗七升九合 しやか寺」とあり、以下釈迦寺の所有地を調べてみると、田数合せて二二筆・一町八反四畝・高三〇石二斗三升七合、畑数合せて一〇筆・三反九畝一八歩・高合一石四升、田畠合して二町二反四畝一八歩・高合して三一石二斗七升七合の大資産の寺である。この所有地の中には明薬寺や辻堂の地称も見え、この時既に明薬寺および辻堂が存在していたこともわかる。またこの所有地は、野間村の外、谷村にも及んでいる。これによって「しやか寺」は当時は相当な大寺であったことが判明するが、更に約五〇年後の万治二年の検地帳には「給年跡に孫七相果其上釈迦寺退散仕」とあるが、この後の検地帳等の何れにも「しやか寺」の文字は見えない。あれほどの大寺が、どうして亡んだか、土地には伝説も残らず、忽然として消えたこの寺の事は、今後の研究にまつ所が大である。今しゃか寺跡と伝えられている所は、野間の宮本要氏附近であるが、何の遺物も見られず、伝説もない。
四、大蓮寺
現在の大栗山(氏神を奉祀する山)の東南の山麓に大蓮寺という地名があって、以前ここに良蔵院大蓮寺という寺があった。『阿波志』に「良蔵院亦在神領村、又称大蓮寺」とある。慶長三十年の御検地帳によると、二二筆約二町二反、高約二五石の地所を所有している。約五〇年後の万治二年の棟付帳には、「一、壱家 高三拾七石五斗一升一合 本百姓 山伏 不動院 良蔵院」とある。これでわかるように、不動院の親が良蔵院で、子に不動院を譲って親が小家となったのである。さて、ここで山伏について一寸説明すると、山伏とは野山に伏して修業することから起った名で、一に修験者と云い、修験道という仏道の一派に入った者である。この宗門は、宇多天皇の寛平九年に示寂した醍醐の僧聖宝が、大和国の葛城山に籠って修行し、神通力を得て役の小角となったが、これを祖として起った宗旨で、胎蔵界と金剛界との両部にわたり、護摩を炊き、呪文を唱え加持祈禱をなし、本地垂迹の説を以て神仏両道に仕えたので、両部神道とも称した。篠懸・袈裟に頭巾をつけ・太刀を佩き・金剛杖をつき・法螺を吹き、山野に入って修業する。然るに天正十年十一月一宮城落城に及び、一宮長門守成助は長曽我部元親のために名東郡夷山城で殺害せらるゝに及び上一宮大栗宮に奉仕した祭官一宮殿も亦相前後して亡んだ。此時にあたり良蔵院は縁家の故をもって、一宮殿の跡を再祭せんとして今の地に来りて一宮殿代々の霊を弔い、後に一宮殿を冒す。即ち今の一宮氏は其の後裔なり、村内唯一の旧家と称す。旧家と知らるゝ同家も、惜い哉天保年中に火災に罹りたるため、保存せる旧記什宝の多くは烏有に帰し、僅かに古き提灯・版木等ありしも、之亦処分せり。今は建造物は何一つなく、わずかに地称が残るのみで本尊仏の行衛も判然としないので、今後の調査にまつ所が大である。ただここで注意を要するのは、山号を新田山と号し、また版木に「御祈禱之札」とある点および寺の所在から考えると、南北朝時代の山嶽武士・山伏の通路にあたり、上分の新田八幡宮と併せ考える時、この寺院が当時の南朝方の連絡所か宿舎として利用されたものではなかったかということである。創建年代が不明で、現在では何とも断定出来難いが、これまた大いに研究を要する項目と思う。現八幡神社の境内の南端にある薬師如来の石碑は、もと大蓮寺にあったものと伝えられている。
〇本稿は、本県における仏教美術の権威である名西高等学校長原崎陽一先生が、本村誌のために特に実地調査の上で執筆せられたものである。
一、神領村に於ける仏像は矢張り名西山分の他地域との関連に於て把握しなければならないが、この村が名西山分の中心地であった事は仏像の研究面に於ても現われてくるだろうし、またこの神領と云う村を地域的に見る時比較的土地の広い広野から、山の多い上分に向って通ずる中継地である所から、仏像面では興味ある傾向が見られるのではないかというのが最初の予想であった。このような思惑を含めての仏像に対する一般的傾向が次の様な事項にあらわれて来ている。
(1) 路辺にみえる石造の地蔵尊は他の地域に比較して圧倒的に多い。この事は山分の人口比を明確に示していると思われる。(奥すなわち下分・上分では、ほとんどそれが見られない。)
(2) 奥には路辺に相当数の不動尊が見えるが、この地域にはその数は二〜三にとゞまっている。何故奥になるにつれて不動尊が多いかは、他の機会にその説明をゆずりたい。
(3) 右に呼応して奥には不動尊を本尊とする寺が相当あるが、神領では奥に近い長満寺が不動尊を本尊とする外、他の二寺は不動尊を本尊としていない。
(4) どの寺も相当古い由緒を持つのだが、火災等の為にか、特に古いとして特筆すべき史料はない。鮎喰川流域圏に位置して、他の考古学的資料においても今は一段劣る立場に座している。今後の研究・発見に伴い、古美術の出現を期待している。
二、さて、順次寺を追ってその仏像について考えてみたい。
(一) 神宮寺
1、本尊 文殊菩薩:非常に立派な飜込み付二段座の上に、七頭の獅子を置き、その上に敷茄子・蓮肉をもつ台座の上に、体長四五cmの文殊像が結跏趺座しておられる。漆箔のこの仏像は彫りはやゝ深く、衣文に流れる線は多くかつ複雑で、天衣なども躍動する姿で作られている寄木造りである。光背に円鏡を用いている所など、神宮寺の面目を如実に示している。
2、阿弥陀如来:江戸時代の後補と思われる漆箔の台座光背があって、この如来像は立っておられる。その姿—特に面相は、円満・豊麗で、拝するものをして真に法悦の中に導かずにはおかない。寄木・内刳・玉眼の挿入があり、衣文の彫りは浅くかつ柔かで、仏体の上部に麻布を張った作業をしてある。このような様相からして、多分に室町的な傾向を帯びるものと思われる。全長九八cm・体長四五cmで、比較的小さい姿である。
3、その他、大師堂に大師像(極彩色)・不動明王等が有る。
(二) 善覚寺
1、本尊薬師如来:立像で、衣文に流れる線は柔かく、ふくらみもあり、柔和な性格を如実に示している。寄木内刳である。全長九〇cm・体長四七cmある。
2、地蔵菩薩(金仏):実に良い面相で、柔かくそして簡素ではあるが古式を偲ばせる衣文の流れ、量感に富む姿である。半眼を閉じ、瞑想にふける温容で、しかも奥には熱情を秘めた輝々しい地蔵相である。全長一m・体長四五cm。
3、その他に十一面観音等が有る。
(三) 長満寺
1、本尊不動尊:作風が良く、量感があり、岩座の上にしっかりと立ち、左手に羂索・右手に剣を持たれる毅然たる姿である。不動尊がかくの如く本尊になる事は全般的にみれば非常に珍しい事であるが、矢張り山分特有の地形の峻嶮は修験の地と考えられ、不動尊信仰の特殊性と併せ考える必要があるように思われる。江戸期特有の技巧に満ちた作風は、山分に見られる他の不動尊とほぼ同質のものと思われ、多分の関連性をもっている。本像は、寄木・内刳で、身長は九五cmある。
2、その他に十一面観音・歓喜天・如意輪観音などがあるが、時代はまず本尊と同期と考えて良いと思われる。十一面観音の台座には、次の様な背銘が有る。「承応三甲午十月 淡州勝右衛門造之」
(四) 高根山悲願寺
本尊千手観音。本県では、千手観音は極めて稀であるが雲辺寺のもの等は有名である。さてこの像は、蓮華台敷茄子台座の上にある。木彫・寄木で、彫りはやゝ荒く、時代形式は鎌倉を偲ばせるものがあり、非常に柔らかな面相と相俟って、立派な姿である。面頂から台座まで七八cmの立像で、下半身および台座に、鼠の囓った痕跡および一部修繕の跡がある。光背は、彩色の舟形光背である。脇士として毘沙門天・聖観音像があるが、「慶長十乙巳年二月十四日」の墨書銘が有る。
(五) 辻地蔵庵
上角の奥にあるこの庵には、木彫の地蔵を中心として数体の仏像が見られる。
1、中心の地蔵は寄木の椅像であるが、作風は良く、実に温容な姿である。光背の頭光の所に三つの宝珠の化物をもっている。左手に宝珠・右手に錫杖を持ち整然とした均衡を示してる。
2、その本尊の脇士として、毘沙門天・千手観音・不動尊等があって、時代は比較的若いが、素晴しい仏像群を形成している。この庵にはなお研究を要するものが多い様である。
(六) 長法寺庵
1、本尊阿弥陀如来。この庵の本尊は、この地域の人達から特に信仰の対象とされているようであるが、非常に良い姿をされている。彫りはやゝ荒く鋭い刀法で、御手などもキリッとして古式を感じさせる上、腰には弘仁期の特徴を示す衣文を持ち、腕にかゝる衣には軽い翻波を持っている。たゞ全般的に見る時、時代をそう古く迄、遡らせることは出来ないと考える。木彫・寄木のこの像は、立派に保存されているが、今後もさらに大切にされるように期待している。
2、なお、この外に不動尊などが見られる。
昔、巨人がいて富士山を一夜にしてつくったなどという伝説は、日本各地に聞かれるものである。本県でも井内谷村誌等に、大人の足跡の事が記されているが、本村の野間吉田山の山頂から少し西に下った所に面積一反歩位の平坦な所があり、土地の人々は、これを「大人の足跡」と呼んでいる。また、上角名塩水の上にも「大人の久保」という所がある。共に、昔大人があって歩いて行った足跡だといわれている。隣村の鬼籠野一ノ坂・下分の左右内にも同じ伝説の地がある。
大埜地の西、最近出来た潜水橋の突きあたり附近の地を「ひびき」と呼んでいる。これは、橋の下手、川の北岸に天然石という大きな石があった。昔々その昔、天竺から此の石が落ちてきて、七日七晩響きつゞけた。故にそれから「ひゞき」と呼んでいるのだそうである。しかし、惜しいかな肝心の天然石は昭和一三年九月の大洪水で流されてしまった。この地に「響」という姓の家もあり、屋号を「天満屋」と云って、昔の上山街道であったため宿屋を営んでいたそうだが、大正五年北海道根室の方へ引越し今では畑になっている。
長法寺と呼ばれながら、現在はさゝやかな庵にすぎないが、昔は立派な寺であった。今から五六七年前の嘉慶二年、この寺の住僧良意という人の書いた大般若経が、現在阿川の勧善寺に保存されているので、伝説ではなくて立派な史実である。なお、大埜地には、千蔵寺・蓮花寺(現在の朝井氏宅附近)・名北寺など、寺跡がいくつも残っている。このことは、昔この地が神領の文化の中心であったことを物語っている。また勧善寺の御経は、各地の僧が書写しているが、本村では長宝寺の外、神宮寺や長満寺の名も見えている。これらの寺が随分昔からあったことがわかるわけである。
大埜地の浦辺氏の前、昔の大野という酒屋の屋敷の上段の田を「カクバ」と呼んでいる。これは藩政時代大栗谷七カ村の与頭庄屋であった岸家が、正月七日に広野以西七カ村の郷鉄砲(昔は炮の字を当てた)をこの地に集め、的を建てて射撃の腕くらべをした故に、との名を残している。
大埜地の原家の在る附近の広い土地を「ハランバ」と呼んでいる。これは藩政時代慶安・元禄の頃、藩主蜂須賀家から五〇石を頂戴していた大人物、上野長左衛門が、馬の稽古をした所故、それ以後「原の馬場」と呼んでいる。また附近に「ゴムタ」の屋敷という三畝位の畑がある「五武太」〜「吾無太」という小人が住んでいたのであろうか。
大埜地浅井氏の家の前に「池の尻」と呼ぶ田がある。昔ここに蓮花寺(北寺)があった時、寺の池の水が溢れてここに流れていた。故に池の尻と伝えられている。
中学校の北側の道路の傍に宝篋印塔と、石の祠の中に地蔵が刻まれ、名が記されている。これは、昔ここに立な御堂があった跡で、文化三年の地図には庵の建物としされている。この地蔵さんは、子供の寝小便を治すということで願をかけ、治ったら子供の年数だけおつべりをしたそうである。
現在の小学校から山本氏の東の方へ上る坂道を「おかしら坂」と呼んでいる。これは今の山本氏の屋敷が山分の与頭庄屋岸家の屋敷であったため、この坂を「お頭坂」または、岸の門と呼ばれて来た。山本氏は今の屋敷の西にあり「カンジャンキ」と呼ばれていたが、「お勘定屋敷」であったそうである。また学校の上の井上氏の屋敷を「クワイショ」と呼んでいるが、これは「会所」で、岸庄屋が人々を集めて評定したところと伝えられている。もう一つ、佐伯氏附近を「フルマ」と呼ばれているが、これは「古政所」の略で、和田村と呼ばれた頃の庄屋のことであろう。
上角名の西の端に札場という所がある。札場とは高札場(制札場)すなわち掲示場のことで、時々の藩の御達しが貼り出されたが、時には罪人の罪状が書いて貼られたり、罪人を「ボーホ」という木にしばりつけ世の人に見せた所で、椿坂の谷の附近の畑では獄門にかけられていたともいわれている。
昔から塩水が出るので有名である。藩政時代に著わされた『阿州奇事雑話』や『燈下録』にも記されている。大正の末年から昭和初年にかけて、善覚寺の前に「弁天泉」という湯屋が出来て、この塩水を引いて湯を沸していた。
大栗山の南麓に「大蓮寺」という所がある。これは藩政時代に新田山良蔵院大蓮寺という修験道の寺があった所で、今地名だけが残っている。来称徳兼は世の習い、今は大蓮寺も廃寺になり、良蔵院と呼ばれる一宮家に移った。大蓮寺が現在の良蔵院に移った年代ははっきりしていないが、一宮家を今は良蔵院と呼んでいる。この良蔵院も火災に罹って寺宝はことごとく焼失している。八幡神社の境内の南端にコンクリート作りの小祠があるが、その内陣に安置されている薬師如来と書いた石は、大蓮寺の遺物と云われている。前にこの内に「天保十一年六月九日新田山大蓮寺」と書かれた棟札があったが、今は見当らない。また四国霊場第一七番井月寺には、現在国宝の十一面観世音の木像があるが、これはもと貞蔵院のものだとの説がある。しかし通称北岸道路といわれている滝津—小野の道路の、坂は詳らかではない。
上角の町の西端に毎年氏神の祭礼の際、屋台神輿を下して休憩するところを「はしあげ」と呼んでいる。この「はしあげ」は、昔の馬場で競馬の決勝点になっていたようである。東からかけてきてこの坂を走り上るとか、川の出尻から奥の坂口氏宅の方に向けて行われていた。ここに作られた故に新馬場と呼ばれた。かけ馬は、上角「新馬場」という。上角の旧馬場では都合が悪くて新に口氏宅附近から上角川出尻までの、鮎喰川に添った地をがえりをしだそうである。ということで原八、お頭坂れた『阿州奇事雑記』やから「はしあげ」という地名になったわけである。
本上角栗飯原家の前におくらの原と呼ばれるところがある。これは藩政時代ここに蔵があり、藩に納める年貢米を入れたためにこの地名が残った。神領には今一つ小学校の所に「御蔵」があった。何れも文化三年の神領村地図に記されている。
下番と上角名との境に椿坂という地名がある。今は道路が良くなって大した坂ではないが、旧藩時代から明治中期までの上山街道は、今の「はしあげ」から西へずっと旧道を通って札場に至り、今の上・下の道路の間をる細い坂道を通って渕の方へ下りて来たもので、こゝに大きな椿があった。故に椿坂と呼ばれ、昔車の通らない時は、人の肩や馬の背によって物資が運ばれていたのでこの坂で馬がよく転び難儀をしたそうである。椿坂磯八氏の先代は、何時も竹の先に鎌をつけたのを用意しておいて馬の腹帯を切って馬を助けたそうである。『阿陽忠功伝』に木屋平若狭守領分天正年間迄、木屋平・森藤・川田・東山・種野・別枝・桁山・中村・三ツ木・川井・名西郡内椿坂とある。既に、この頃椿坂の地名があった。
中津名という地名の起りは、元禄年間の大水によって川幅が広くなり、川の中に洲が出来たため、それが地名となったと云われる。従って最近に出来た地名で、それまでは和田村と呼ばれていた。このことは慶長一三年(三四七年前)の検地帳によって明らかである。この中津の内を下番といゝ、中津というが、古老や他村の人々は今も下番と呼んでいる。昔、かけ馬(競馬)の盛んであった時代に、この地に「下番」(ゲバン)と呼ぶ土地代表の良馬があり、長命名には「上番」という馬がいたので、その名残りであると云われる。また「和田」とは、海や河の湾曲した所にある田地を云うのだそうである。谷間のはざまなどに比較して、やゝ広い土地をいったものである。本県では入田の日和田・国府町の和田などがある。
青井夫に「神田」という所がある。これは蜂須賀家政(蓬庵公)が入国された時この地へ来られ、大栗山の由来を聞かれ、上一宮大明神へ御供田と薪山を奉られた時の田が、この青井夫の神田であった。以後神田と呼ばれていたが、いつしか「ジデン」となった。『阿波志』に「神田、林を賜う」とある。蜂須賀氏が御神料を奉献されたことは史実である。
鬼籠野との村境の近くに船戸と呼ぶ地がある。これは名東郡一宮村の船戸にある船尽神社から船戸神を勧請したことから地名がおこり、お舟戸さんの始めとせられ、霊験あらたかなりといわれている。現在お舟戸さんは杉丸氏宅の上、畠の中にある。
現在悲願寺にある塔(燈台)の形をした常夜燈は、明治初年まで高根部落の新墓地にあったが、あまり風当りが強くて度々修理を要するので、現在の所に移したのだそうである。この常夜燈が昔燈のところにあった時は、この燈夜籠の火が淡路・撫養方面からも常望まれたと云うことである。このため毎年津田の漁師が灯油を一年分寄進していたという。
近年まで高根八軒(文化年間)といって、高根の在所には家が八軒あった。田畠が相当あったことも、文化年間の地図や古老の言伝えでよくわかる。この人たちの先祖は、元暦・寿永の昔、讃岐屋島の合戦に敗れた平家の一族高根主計介が落ちのびて来て安住した地と伝えられている。文化の進むにつれ山の中の生活が不便不自由なので次第に谷・寄井方面へ転住した。高根から下りた家は皆な高橋の姓を名乗っている。
悲願寺から南へ伝って山谷という所へ行くと、ここに鎧の岩屋という大きな岩窟がある。平家の落人がこゝへ落ちて来て鎧を脱ぎすてた故に、この名が起ったと伝えられている。
高根の悲願寺へ行く途中に手足谷という所がある。また小野の五味には胴谷という地がある。如何にも変てこな恐しい地名である。昔々の大昔、死体を埋めることをしないで風葬した時代に、ここに死体を放置した故手や足がこの地に残っていたために、この地名がおきたのであろう。風葬地帯は犬飼ずといわれているが、大昔はどうであったやら知る由もないことである。
石堂の在所の上に、舟乗りという所がある。村が湖の時代だったといわれる昔々大昔、こゝから舟に乗った故舟乗という地名が残ったのだそうである。
雨乞滝の東側の山腹に大きな石の洞穴があって、土地の人はこれを風穴と呼んでいる。この穴は土佐の甲浦へ抜けているといわれている。甲浦にも同じ伝説があるという。
谷名の向井福太郎氏(椎の上)の門先の田の中に一つの石がある。これは昔一宮長門守が悲願寺へ参詣のみぎり、この石に腰をかけられ対岸の「えびす岩」を見られたと伝えられている。それ以後、この石に触れると腹が痛くなるとして手をふれず、正月にはしめ縄を張ったりしたそうである。
高根山の上に氷小屋というところがある。藩政時代高根の人々がこの地に大きな穴を掘り、冬、左右山に下る方の氷滝から自然に出来た氷を採り、沢山の雪を集めて穴の中に氷を貯蔵し、盛夏になればこれを藩主に献上した。その故に高根の人々は数町歩の山林を無年貢で貰っていたそうである。氷献上の時は徳島から藩士が来て、この士と共に高根の人が氷を箱につめて背に負い蜂須賀の定紋入りの提灯を灯し城下に至って献上したそうである。この時使用した箱が、昭和二〇年頃まで高橋輝一氏宅にあったそうであるが、こわれてしまって今はない。『阿波国最近文明史料』によると、氷の献上は旧暦の六月朔日であったそうである。
雨乞滝は、名の如く昔から旱魃の際に農民が雨乞をした故に起きた名だと伝えられている。今から百一〇年前頃までは滝より渕の方が物凄かったようである。文化の地図にも「雨乞の渕」とある。この頃は滝へ行く道も充分でなく、岩や木の根・蔓などが生繁って通行も困難であった。文政七年(西暦一九二四年、一三三年前)三月一五日、蜂須賀一四代斉昌公(俗にお西丸様)が滝を御覧になるとて大勢の御供を連れて神領に来られ、大埜地の高橋源蔵氏方に宿泊され、翌日雨乞滝を御覧になったが、この時谷の門田氏が谷から滝までの道路を修理したので、褒美として桐胴火針一対・煙草盆・刀掛を下賜された。それらは今なお門田家に保存されている。
高根の観音さんは蚕の神様として昔から有名である。昔、一宮長門守の奥方が蚕をかっていた所、急に蚕が桑を喰わなくなったので色々と方法を考えたがどうしても喰わない。ところがその夜高根の観音の夢告で、新しい別の桑と取りかえればよいとのことで、早速その通りにすると蚕はよく成長した。それ以来奥方の信仰が厚く、一般の人もこれを聞いて信仰が次第に拡がり、養蚕業の盛んな頃には、二月の初午詣りに遠く麻植・阿波・勝浦の各郡から講組を作って参拝する人が多く、終日寄井まで人の群が続く有様であった。
一名目口滝と呼ばれ、藩政時代に著わされた『燈下録』にも詳しく出ている。石堂の在所と向き合った山の上に大きな岩石が苔などによって遠方から見れば「えびす」の面によく似ており、快晴の日にはこにこ笑うが如く、また曇りや雨の日は面が曇って気色悪げに見える。大自然の造化にしてはあまりにも美事に出来ている。
長倉の御薬師堂の本尊薬師如来が何人かに盗まれた。数年たって徳島の仏具店に出ている薬師がどうも盗まれた仏像に似ているとの噂が土地の人々の耳に入ったので長倉の人が徳島の仏具店に見に行ったが、さて、これというはっきりした覚がない。一つ試に薬師さんに直接尋ねてやれと思い「もしもしお薬師さん、あんたが神領の長倉のお薬師さんならどうぞ何か一つ顔を動かして下され」と頼んだ。ところが当のお薬師さんがパチパチと目を動かしたので、それから「目ひき薬師」といわれて有名になったそうである。薬師像は現存しているが、こゝに安置されていた金色まばゆい観音像が、近年になってまたも盗み出されている。立派な仏像だけに惜まれてならない。
長倉の薬師堂の北の畠は慶長の検地帳にもあって、自願寺の屋敷あとだと伝えられている。この薬師はもとは自願寺のものであると云われている。昭和二六〜七年長倉道路を改修した時、この附近から瓦が出たそうであるが惜いことに全部道路にうづめてしまって充分には判らない。
昔の道は何処も同じだが、川沿いより山の尾にある。この坂も寄井から高根・石堂へ行く道の登り口で、松の木があったからつけたものである。この道の基点に、「安永三年、山より二十七丁」と書いた高根への丁石がある。安永は今から一八二年前で、西暦一七七四年であるが、既にこの時には高根山の信仰が非常に盛んであったものである。
(附)昔は、丁石・墓石の一つにしても、莫大な金と労力を費やしたもので。今のように簡単には建立できなかった。
(一) 旧暦の大の月のこもりの晩は、外で馬の「くつわ」のジャンジャン鳴る音がしても、絶対に見たり、のぞいてはいけないと云われている。一宮長門守の亡霊が首切れ馬に乗って高根参りをするのだそうである。(谷地方の伝説)
(二) 阿川久保の内の若い衆が大勢よって髪を結って貰い先にすんだ者が大埜地の酒屋へ酒を買いにくることになって、夜おそく日浦のカサムの近くまでくると、ジャンジャンと馬のくつわの音がするのでびっくりして傍の草むらに身をかくすと、馬上から「こゝに二ノ宮さんがおいでる」と声がして通った。そこで帰って調べてみると、今ゆった髪のもとどりを結んだ紙が、二宮神社の御札であったとのことである。
『阿波志』に「神領塁紀成良之を築く」とある。紀成良なれば源平時代になる。また『阿波古城記』には、阿波介範春という武士がおったとも伝えている。城山のことは別の項にゆずって、何れにせよ城主の勢が盛んななれば年貢も多いし、必要な武器・兵糧の類も多くなる。るようになる。それで古くからあった庫が古庫で、新しく出来た倉が現在の長倉の地であろう。
鎌倉から室町時代へかけて建立された板碑が、神領で現在総数三〇有余基発見されている。その内高根に三・花折に一・長満寺墓地に三・長倉鎮守様に五・佐藤明神に一・合計一三もこの地方にあり、また五輪塔も約一〇基ある。これから考えて、この時代に、この地方には豪族がいて、すでに開けていたことがわかる。
昔元禄年間に大水があり、各河川が氾濫して家も耕地も一面に押流された。その時寄井の若宮神社附近に住んでいた人たちは周囲を水に囲まれて逃げ場を失い、今残っている「えの木」に鈴なりによじ登って危難をさけたそうである。この大水にこりて附近に住居のあった人は日浦・えびそ谷・影と、各々山に引上ったということである。川又川が今の高浜田だいを通って松の木坂へ抜けていたというのは、現在の地形や岩の状況から見てうなずけるが、それはもっと古い時代であろう。
現在の尾田安雄氏宅の北側にあり、そこに樟の大木があって、その影は遠く下分の寺久保まで届いていたとのことである。近年(戦時中)その附近を開墾していたところ、樟の根が覆いかくしたような中から一文銭の入った「かめ」を尾田氏が掘り出した。これで樟の木のあったことははっきりしたわけである。
(二) 大久保の森根氏方の前に今桜の茂った小さな森があるが、昔は、ここに「スマルの松」といって大きな松があった。そして「スマルの松」の名は他町村にまで聞えていた。徳島へいってもこの松を知らないと他村人と疑われて宿泊が出来なかったそうである。
高浜の在所から奥へ約二丁程行ったところに楠水という地があって、今もこんとんと清水が湧いている。(大栗家所有山)。こゝに昔大きな楠があって用材にしようとして二〜三人がゝりで切り始めたが一日で切れない。一夜あけて翌日行って見ると、斧を入れない前と同じになっている。不思議に思いながらも、また昨日と同じように切って翌日行って見ると以前と同じことである。二度三度重ねるうち、ふと一計を案じ、斧で削った分だけの木屑を火に燃して灰にしてしまった。こうして切り進んでいると、ある日の夕方、木の中から「チワヤ」を着た人が幾人もゾロゾロ出て来て皆な南の方へ行ってしまったそうである。とにかく何か変事があったのであろうその樵夫が泊っていたという大星氏宅の上に、楠大権現という小さな祠がある。現在ある一番古い棟札は、文政三年辰七月九日高浜氏子、吉太とある。
小野の地蔵庵は、昔(慶長以前)は大きな寺であったらしく、今の庵の前方に「大門」という地名が残っている。この大門が朱塗りで、その朱色が前の竹やぶの竹に映えて美しく、そのやぶを赤竹と呼んだそうである。やぶ跡は現在の農協の倉庫附近と思われる。
昔、今の氏神様は大栗山の頂上「天べの丸」に祀ってあった。この時は、大埜地田だいから野間田だいまで一望の内にあって、田だいの中を笠をかむり、またほうかむりなどして通行や作業が出来なかった。それで今の古祠場へ社殿を移した。ところが今度は上角の人が社殿の前を下肥を担いだり、葬列が通ることが出来なくなり、再び村民が相談して現在の地に御移ししたそうである。それで以前の地を古祠場と呼んでいる。
昔々大昔、神領は大きな湖で、その余り水が上角から青井夫の方へ流れ「あぎのたお」の峠へ泡となって打越していたそうな。「泡の峠」が「あぎの峠」になったそうだ。ところが弘法大師が四国巡錫のみぎり、これを干拓したら広い耕地が出来ると着眼して、牛に鍬をかけて滝津の山を掘り割ったそうな。それで今も岩に鍬跡が残っているし、この時鍬先にかゝった石を放り投げたのが大こ石だそうである。昔々の物語り。
高根の土地は大昔、味鉏(アジスキ)高彦根の神がお開きになった。そのために古えは高根津山と云っていたが、何時しか津の字を省いて高根山と呼ぶようになったそうである。味鉏高彦根命は、出雲の国大国主命の御子で、事代主命の御兄君にあたる。
野間中山にある中山庵は、現在粗末な貧弱な庵であるが、今から百年前位の堂は朱塗りで、彫刻などを多く使用した立派な庵であったが、火災によってその後現在のようなものになった。今も仏像には焼跡が残っている。今の堂の前にある細い道の下の畑を昔から御坊屋敷と云われているが、こゝに珍らしい伝説が一つある。
摂津国(兵庫県)多田の庄に住んでいた源満仲公(長徳三年歿す、九六二年前)、世に云う多田の満仲公の第三子美女丸は性質が非常に荒々しく、人を殺めなどして父満仲の心配の種であった。そこで満仲は摂津の中山寺(現在西国一九番)の別当職で、かつ自分の家来の藤原仲光に美女丸を僧にすべく托したが、美女丸は二〜三年たっても素行が治らない。かくては家名の汚れと、父満仲は重大な決意をして仲光に美女丸の首を斬るように命じた。しかし仲光は、如何に主君の命とは云え美女丸を斬る事が出来ず、我が子宝専丸を身代りに立て美女丸を他国に落してやった。その後仲光は別当職を辞し、美女丸の行方をたずねる傍ら、我が子の冥福を祈ろうと中山寺を退き諸国の霊山霊場を巡り阿波の国に足を入れた。そして我が神領村に来て図らずも美女丸が悟をひらき、高根山に悲願寺を建てて行を改めているのに出会った。それで安堵した仲光も野間に中山寺と呼ぶ庵を結んで主君や我が子の追福、我が身の後生を祈りつゝ、ここで身を終えた。そこで、こゝを摂津の中山に因んで中山と云う。また仲光のいた地を御坊地と呼んでいる。
今から約一、二〇〇年前弘法大師が四国の国々を巡られ、高根山に登られ「はぜの久保」の高原を見て、ここに真言宗法燈の大道場(今の高野山)を開くべく決心されたが、飲料水が不充分なのを惜しまれて道場建設の決心を変えられ、現在の高野山に開かれたそうである。
小野板挟部落の始めは本家一軒で、藤原某なる人が吉野方面から大峯さんを背負うて来住した。それでこの地に大峯神社が祀られた。また一族の人々が次第に増加して板挟の在所を作ったと伝えられている。
青井夫には河野姓の家が多い。同名八幡神社の境内には二〜三軒宛で祀っている小祀が沢山ある。何れも「角切り角に三」の河野家共通の家の紋をつけている。この河野の一族は伊勢の国川之江から転住したものと伝えられ、その時に持って来た仏像が今庵に祀られている本尊だと云うことである。寄井・谷・野間の河野も皆同じ系統であるが、何れが本家かわからない。野間の妙見さんも河野氏が川之江から移したのだと伝える人もいる。
(一) 川又の在所は、昔前の山が崩れて中津名まで埋め敷など、もこの時埋まったということである。
(二) 野間の中山も山崩れがあって、中山神社が土砂に埋まったのを掘り出すうち、つるはしの先が棟木に当ってやっと掘り出したと云われている。
(三) 筏津も昔長命の方から山崩れで押出して出来た処で大西利雄氏の屋号を「ハリヤケ」と云うのもこれから始ったと云うことである。
(四) 上角と青井夫の境、むろすの池田氏の前の段々畠も表土の下はくり石ばかりで、大昔つら山が崩れて押出してきたものと伝えられている。
小野の農協の上段に堂があるが、この堂に祀られている地蔵さんを、子供が良く持ち出して玩具にして遊ぶ。夏など川に持って行って木像に縄をつけて川に浮かせて浮袋の代用にしたりなどするが、もしこれを大人がとがめると大人に罰が当るそうである。それで子供は自由にするし、時には川に忘れてくることもあり、大水で川下に流されることがあっても、誰かがまた元の堂へ安置してあるそうである。それで地蔵さんも今は頭も胸も判別がつかぬ程磨滅している。
寄井のエビソ谷の上流の山頂と、大久保の堂の上には昔から「かさぼとけ」が有る。子供の腫れ物を良く治して下さるとか云って、今も小さい金の鳥居やはたが供えられている。まあ皮膚病の神様であろう。
現在の寄井町を辻堂町と云ったのは、明治初年頃の野間名の集金帖に辻蔵町とあり、また佐藤宗蔵氏(松原屋)の古書の奥書に(安政六年二月、神領村辻堂、松原屋)とある。今寄井町の中程にある地蔵堂(おぞうさん)を昔は辻堂といっていたので、その名をとって辻堂町といったのであろう。『阿波孝子伝』の辻堂五郎右衛門の項に、「慶安元年より神領村に来り茶菓子を売りて辻堂に居住せり」とある。また、松の木坂にある高根山の丁石に(安永三己午天、よりい講中)とあり(安永三年は今から一八二年前)、また文化三年の神領村の地図をみると今の谷川より西の狭小路附近を寄井と記してあるから、昔は川西が寄井、川東は辻堂町であり、次第に東へ発展して寄井町になったものであろう。
冬大雪の朝、雪の中に大足で歩いた足跡が見られる。その歩幅は四〜五尺もあり到底普通人の足跡ではない。しかもそれは必ず一本足であった。これを山父と呼び、正体は分らない。最近では全然見当らないそうである。
野間の某氏が、川又の芝小屋の手前、狸石の附近まで来ると何か音がするので誰かと思い、「オーイ」と呼びかけると自分の声の何倍も大きい声で「オーイ」と返事する。さらに大きい声で「オーイ」と呼ぶと、前よりもさらにさらに大きい声で、しかも頭の上で「オーイ」と答えた。某氏はびっくり仰天、飛んで帰り、以後一人で絶対に奥山に行かなかったと云う。
今から約三〇年前、寄井附近で毎夜のように鶏が盗まれた。誰云うとなくこれは狐の仕業であると騒ぎ出し、川又川の平野の桑地(現河川敷)の石垣附近に鶏の毛が散乱していたことから、その附近に狐がひそんでいるに違いないと、物好な連中が附近一帯をくまなく探したが見付らなかった。その後鶏の被害もなくなり、狐の噂も消えた。全く狐に化されたような話である。
上野長左衛門が庄屋の時代、当地方は五穀稔らず飢餓に襲われた。これがために藩庁から救恤の米・麦が庄屋長左衛門の手を通じて分配されたが、藩から下された量と分配された量とに食い違いがあるのを知った徳兵衛は、何とかして長左衛門の不正を上役人に訴えたいが方法が見付らない。ようやく一計を考えた徳兵衛は、大晦日の夜、徳島に行って佐古山の頂上で大きな焚火を始めた。この火が御城にいた城主の目にとまり、早速役人に命じ逮捕させて取調べた。その際長左衛門の不正を訴えたということである。
徳兵衛は、以前侍で両刀を帯び、珠算は殊に上手で、「徳兵衛の算盤に違算はない」と広言していた通り、取調べの結果、長左衛門に大麦五升の不正があることが判明し、村役人・訴人ともに処分された。その後徳兵衛の霊を慰さめるべく、村人が相談して梵鐘を造り、その鐘の音を聞くたびに徳兵衛の徳を偲んだ。この鐘が神宮寺にあった釣鐘である。(但し、この話は史実とは若干異っている)
青井夫名の通称中山の頂上の東端に秋葉神社の祠がある。この秋葉神社から峰伝いに約二〇〇米程北に行くと隠れ岩がある。古人の伝えるところによると、初日山へ平家の残党が籠り、源氏は隠岩から攻め、平家方はことごとく討死してこの地に埋められたと云うことである。現在初白山には、これらの戦死者の霊を、初白山不動明王として祀り、近郷近在、遠くは北方からも参詣者が多い。
上角名と東大久保と鬼籠野へ流れる分水界にある。南面して大久保谷へ向い、大きさ直径二米位の大太鼓を台に据えたような形からこの名があって、有名である。
大久保名山本柳助氏の宅から上流へ約一〇〇米位の所にある。昔この石の破片を燧石として使用したので、燧石の名を生じ今にこの名が残っている。
氏神様が当地方を平定しようとして、南方勝浦郡の方から進入して来たが、現在の御馬石附近まで進んで来た時、土匪の抵抗に会われ容易に進行ができなかった。ためにその乗馬を停めてねんごろに諭され、汝はこゝで石と化せといい法力を以って石とされ、御自身は法力を以って西方等高の現在「フルコーシ」と呼ばれる地点に飛行して難を避けられた。この時飛行するのに距離が遠くかつ高度も高いため、身体を震わせて越えられたことから「フルイコーシ」と呼ばれたが、後次第に「フルコーシ」というようになったということである。
氏神様はその後、大栗山の山中で一人の樵夫に会われ空腹であったため樵夫に弁当を求められた。樵夫はあり合せの木の葉にのせて献上したが、御感あって永く供御の役を仰せつけられたと云うことである。
(一) 御染狸:滝には、御染と呼ぶ古狸がいて、夜漁に行くと石を投げてよく邪魔をした。この狸は、屋島の狸合戦にも参加したと云われている。また、滝津へ釣に行っていて蛇を見かけたら、その日は絶対に釣れないということである。
(二) 小豆洗い:金蔵籔(昔金蔵という人がいた)には、小豆洗いと呼ばれる狸がいて、人を化かしたり、小豆を洗う音をさせて通行人の胆を冷やしたという。
(三) 狸の火:1、滝上氏宅の裏下の用水附近で夏雨降の夜には狸の火が西野間附近からよく見えたそうである。2、長満寺の墓地でも、梅雨の頃から夏にかけて、雨のしとしと降る夜は、沢山の火が集ったり散ったりする賑やかな行列が、川東の方からよく見られた。
(四) 六右門狸:柳沢氏の裏山には、阿波の狸合戦で有名な六右衛門が移り住み、その余生を送った所と土地の人たちは云っている。
狸や狐の話はまだぽつぽつ聞かれるが、世が進むにつれて次第に人の口に上らなくなり、最近では昔話として聞く程度である。
青井夫の中央の公会堂に、太さ二米もあろうという楓の巨木がある。その偉容や春秋の美は、時として往来するものの足を止めさせ、またこの地に生れたものに郷愁をよびさまさせるという程の名木である。いわば青井夫名を象徴するものの一つであろう。ところでこの楓にまつわる伝承を古老はこう教えてくれる。
往古「あおによし奈良の都」と呼ばれた奈良に都があった頃、高位高官の一翁があり、鹿をことのほか愛していた。時代の勢運は次第に京に移り、都も奈良から京都に移されるようになった。翁も官に禄をはむ身なれば旧都に惜別の情を抱きつゝ、一匹の牝鹿と兄弟の秘書官を連れて京に移り住むことになった。ある日のこと、秘書の兄弟が縁先で書に読みふけっているおりしも、牝鹿が生んだ多数の小鹿が彼等のまわりにきてしきりにたわむれ、勉強の邪魔をする。たまりかねた弟の秘書がいきなり手許の文鎮を小鹿の群になげつけたところ、あにはからんや一匹の子鹿の急所にあたったか、ばったり倒れたその子鹿は、兄弟がかけつけた時には既にとぎれていた。意外の出来事に兄弟はしばし唖然としていたが、その屍を庭の一隅に埋め、その上に一本の楓を植えて供養した。
あやまちとはいえ、子鹿殺しを知った翁は、弟秘書に小鹿殺しの罪として石こづめの極刑を申渡した。このことを知った兄の秘書は弟をあわれみ、秘かに弟を逐転させようとして、ある夜、海浜にさそい出し、細々と弟を説き、形見に一握りの木の根を渡して、おりよく流れついた一本の丸木に弟を乗せて遠国に渡らせた。漂流久しく長い月日を重ねて流れ付いたのが阿波の国、そして巡り巡って住みついたのが青井夫の地で、彼は辻堂の庵主となり、終生神田(ジデン)の守護にあたったがこの地を永住の地と定めたとき、直ちに兄から形見に受け取った一握りの木の根を庵の庭先に植えて愛育したのが現在の楓であり、その楓は子鹿の供養に植えたものから根分けしたものだといわれる。青井夫が一名「鹿楓」と呼ばれるのも、そこに起りがあるのだそうである。
最近は一般に標準語が使用され、何処の人に会っても用が足りるが、なお各地には古くから地域的に用いられているいわゆる方言があり、他所の人々には理解し難い言葉であっても、土民にとっては親しみ深く懐しい音律を聞かせてくれるものである。
従来方言は不良な言葉として、標準語を普及徹底するために色々の方法がとられて来たが、方言に残る古語や特殊性は、その地の生活の伝統を継承する貴重な民俗資料であって、一がいに不良として貶し去ることは出来ない。勿論方言は地域的な通用語であるから全国どこでも自分の意志を早くかつ完全に相手に伝えることはできないが、地域に住むものにとっては最も実感の伴う言葉であり、自己の思想感情を最も端的に伝え得る便利重宝なものでもあり、民俗の伝統を伝える無形の資料であり、文化財でもある。しかし、この方言の発生には、古くからその地に伝承されたのもあれば、古の都や行政の中心地から...
※方言に関する詳細な語彙一覧等は割愛しております。
現在の我が村には、大・小数々の神様や仏様が祀られている。祀られている所も、田の中・畠の岸・石垣の中・山の中・道路端など、いたる所にある。これらの中には今なお、多くの人の信仰を集めているのもあれば、僅かに二〜三軒で祀っているものや、また、中には全然祀る人もなくて荒廃した祠もあり、祠だけで御神体もなくなった場所だけのもの等もある。神様も色々であるが、昔の人々は、随分多くの神様や仏様を信仰したものであると思う。信仰心の薄い今の人々を、神様や仏様は、何と見て御座るやら。
普通、お日待と云い、隣近所で講組を作り、特定の一日(日は一定しないが、旧暦の正月・五月・九月に行う)を眠らないで、語り明かすことを日待と云うが当地方ではどの程度行われたかは記録がなく調べるよすがもない。しかし、戦前までは、各地でかなり行われたようで、今は、その名残りとも見られる形で残っている。各名中旧家では、今も、神職や僧侶を招き、宵・夜中・暁天と三回(一回の所も多い)、神(仏)を拝し、朝方解散する。
長満寺、神宮寺で「二十三夜」さんと云って、お札や切り餅(供えたもの)を檀家に配っているが、これは月待の名残りで、やはり、正・五・九月の特定の月齢の夜に、講中が集まって飲食を共にし、月の出を待った行事で、一五夜・一七夜・一九夜・二三夜などあるが、当地方では、九月二三夜が特に盛んであったようである。今配られてくるお札や切り餅は、その名残りである。
支那の説に、庚申の夜には三尸(シ)虫が人間の体から抜け出して、天帝に、その人の罪過を告げるとされ、この日は我慎恐懼して善事を行うべきであるというので、庚申の晩は、終夜寝ずに徹夜することが修行せられた。これが、我が貴族社会に受け入れられ、庚申の夜を徹して酒食することが行われた。それが今日に伝わる庚申講で、室町末期頃から庚申待供養塔が建て始められた。それが、何時の間にか庚申待と書かれ何時か猿になり、猿から直ちに猿田彦に結びつき、猿田彦神から道祖神へと、次々に連想がうつって、非常に最初とは趣が変ったものになった。
近世に入ってやゝ経過した後、庚申待供養塔が、腕六本の青面金剛を刻むようになった。この塔は、六〇年目毎に建て改め、ことに塔の下に酒壺を埋めるなどした地方もあるといわれる。
本村に於ける庚申塔の分布は、谷(悲願寺一、石堂庵一、長満寺二、薬師庵一)、野間(影一、高浜一、中山一、筏津一、若宮神社二)、中津(長法寺庵一、大埜地一、八坂神社一)、上角(古祠場一、善覚寺一、樋水一)、青井夫(会堂二、奥谷庵一)、小野(板抜一、四ツ足堂一、天王社下一)など計二三基ある。最も古いものは、筏津の正保四年(三一三年前)、新しいのは、若宮神社の天保二年(一二七年前)で、元禄年間に五基も作られている。
高根悲願寺への旧道を行くと、手足谷を渡って間もなく大きな岩の傍を通る。岩の頂きには、祇園さんが祀られているが、その岩の根方、道の傍に花折りさんがある。こゝを通る人は、花や葉の小枝を折って置いて行く。昔の道標の一つであり、別に祠があるわけではないが、大昔の人は、人間以外の畏怖すべきものには、凡て神霊が宿っていると考えて、木や石を神として祀ってきた。花折さんにも、大木や大岩があったのかもしれない。この外に大久保の奥の勝浦街道に一、元山から牡丹が峠への途中に一つ、小野天王寺から五味へ行く道に一つと、計四カ所ある。
親しみやすい仏様で、地蔵さんが童形で現われて、人々の苦難を救ってくれたという話も多いし、路傍の地蔵さんも童形を示したのが多く、特に地蔵さんと子供の関係は、著るしい。地蔵さんは冥界と現実界との境に立って守ってくれると云う考え方から、境神として祀られ、また境神から「サヘノカハラ」に対する考えに発展すると、石地蔵さんに石を積んで献ずる習俗も生まれた。本村で有名なのが、小野農協前の地蔵さんで、子供の玩具となって川端へ忘れられたり、また水に流されても何時かは御堂へ帰ってくると思う。大人が咎めると咎めた人が腹が痛むといわれる。今でも土地の人は地蔵さんがいなくても一寸と留守位に考えて深くたずねもしない。お陰で地蔵さんは傷だらけである。
これは、里分や他国には全然見聞しない信仰のようで、当山分特有のものかもしれない。何縁を何のために祀ったか、はっきりと答えてくれるものはないが、古老の話を綜合してみると、藩政時代には農家の牛というものは、今よりももっともっと重要な家畜で、ほとんど家族の一員のようであった。牛を大事にしたこの時分から出来たものらしく、牛を守る神さんか、または、牛自体を埋めたものか、とにかく牛の御神さんらしい。ノゴウさんには、社殿など全然なく、オカマゴでもしてあれば良い方で、ほとんど、石の寄せ集めのようなものが多いが、全部が全部高い所、すなわち、畠と山の端附近に多く、平地には全然見当らない。祭日は年一回、旧五月節句の日で、この日ヨモギ・カヤ・菖蒲の三種の草を束にして「オイシ」と共に供える。これを「ノゴウさんの草入」と云う。
村内で、現在までに判っている数は、上角六、青井夫四、小野一、谷五、北三、野間四、中津四である。多くは、急な川岸や、淵の傍・断崖の所に建立せられて道行く人に無言の庇護と、安堵を与えている。一般に不動尊信仰が広まったのは比較的新しく、江戸時代後期のようである。山分は危険な道が多いせいか、お不動さんの数も多いようである。
神仏様とも書き、一般に産婦神・魔神とも記され、猿田彦命に附会したり、種々の説があるが、その名の如く、元来は、防備・防塞の神で、外からくる疫神、悪霊などを村境・峠・橋のたもとなどで、防ぐ意味である。支那の信仰の流入と共に、また、行路の神・旅の神の信仰も加わって、種々の性格が習合されて今日に到っている。祭日は旧一二月一六日にお綿着と称し、箸または竹に綿を巻き舟つけて祀り、また正月二六日には「カタビラ」といって、紙型を着物状に切って祀る。
軒なり、五〜六軒で祀っているのもある。中学生の調査によると、本村には現在約一二二のオフナツサンが祀られている。五角形の石柱に、天照皇大神・大己貴命・倉稲魂命・少名彦命・埴安姫命の五柱の大昔の神様が刻まれて、何れも農業五穀の神様である。農家では春秋二回社日の日を地神さんと云って耕地に立ち入らず、多く休養するが、地神さんを参拝する人は少い様である。
中津の八坂神社の南上方、通称「仏の多尾」と、北名日浦山の土に「カサ(瘡)仏」という所がある。何れも小さな祠であるが、皮膚病に効験があるとて祈願する人があり、この願解きには、金(カネ)の鳥居を奉献する風習で、沢山の小鳥居が供えられている。
光明真言百万遍と彫込んだ大石碑が、小野・中津・青井夫・上角名に分布している。善覚寺の大師堂の両側にある二基は、二基とも他所の全然異形で面白い。小野地蔵庵のは光明真言でなくて「南無阿弥陀仏」となっている。念仏を百万遍唱えると極楽往生するとの信仰からであろうか。何れも、大きな講中で建立されている。信仰の盛であった記念である。
村内に沢山ある。神様や仏さんと同じように、一方には、沢山の信心の講組がある。戦時中に食糧を初め諸物資の不足のため、いくつかの講を合併して「諸神講」として発足した地方もあり、また、盛んであった信仰講が何時しかすたれて、今は全然なくなったものもある。信仰も時代の流れと共に変化するが、出来るだけ永く、この純朴な信仰の風習を伝えて残したいものである。
以下に述べる講組は、昭和三三年に中学校の生徒の協力を得て、調査したものである。
村内各所に点在する五輪さんは、昔の武士階級の墓で大きさにより大五輪・中五輪・小五輪などに分ける。一つの五輪塔は上から空・風・火・水・地の五つの石にわけ、水輪が球形なのが普通である。五輪塔の初めは詳でないが、源平時代に始まり鎌倉時代に最も盛であったようである。
江戸時代には、人が死亡して二〇〇年経過すると「若宮さん」として仏から神様になって祀られた。これが個人の家の若宮さんである。
丹生連山を背に、鮎喰川の清流に臨む神領小学校の校庭の一隅に、静に立つ石碑がある。今の公営住宅が建つ前には、そこに上山谷七カ村の組頭庄屋であった岸家の屋敷跡があって、早春の陽に桜がひそかに香り、草深い古池に倒れている石碑があった。村の歴史を研究する青年達は、この碑が岸栗里および岸家の功績を讃えたものであることを知り、地元の中津青年団が校長小川修一氏や岸頼光氏等の協力によって、昭和三〇年の元日に校庭の一隅に移建したのである。これは岸栗里(有意)六〇才の還暦を祝った寿居水竹の詩を石に刻したもので、栗里のみならず岸家代々の善政をたたえたものである。
文草貫道真儒志(文章道を貫く真儒の志)
清白伝家循吏名(清白家に伝う循吏の名)
大意は学問ができてて真理の究明に徹底するのは、真の意味の儒者の志であり、代々清い公平な心でよい政治をした立派な公僕の名が家に伝わっている(岸家をたたえた詞)。実に岸家は丹兵衛が初めて上山谷七カ村の組頭庄屋として神領に赴任して以来、七代の間、組頭庄家として上山谷一帯に公平をもってよい村作りをしたのである。
最吉氏の長男として明治一六年野間に生れた。生後一ヵ年で股関節を患い各帝大病院で治療を受けたが生涯快癒せず。これが為に進学を断念し、徳島市の岡本漢学塾に学び後に塾頭となった。有徳堂在学中に恩師および漢文学から受けた思想的影響は永く氏の生涯を支配した。性質廉潔白温厚で、その主義信念には、常に東洋的古武士の風格が漂っていた。
塾を出て後、家業の酒造業に専念し、銘酒「大聖」・「仁泉」を造る傍ら、望まれて近隣の青壮年の教育につとめ大学受験者の教育や一般の人々に漢文学を教えた。氏の教育を受けた人の中には後に当山分の指導的地位についた人が多い。また大正一二年に当地を去るまで村政・郡政に積極的に尽力し、教育・道路・橋梁架設・神社改築等氏の参画した所が多く、現在の北名若宮神社の鳥居・大栗神社の鳥居・寄井橋等の文字は氏の筆蹟で、能筆家としてもよく知られていた。
他郷に出て封建的色彩の強い酒造業に一大改革を加え、司牡丹酒造と改名し銘酒「司牡丹」の基を固め、酒造用の特殊の精米機を考案し、また瓶詰工場の刷新・当時稀な硬輓引樽の採用・倉庫の全冷房等次々に改良を加え、昭和一三年名誉賞杯を受けた「司牡丹」を作り出すに至った。昭和一四年一月一四日に歿した。享年五七才、西野間共同墓地に葬られた。
お医者さんといえば佐々木さん、神領の人には佐々木さんは医者の代名詞の様に思われていた時代があった。佐々木高助氏は明治一七年一二月阿波郡土成村の住友亀三郎氏の二男に生れ、明治三六年愛知県立医学専門学校予科に入り、同四二年五月に本科を卒業して医師となった。卒業の年の四月、迎えられて本村佐々木頼一氏の養子となり佐々木姓を名のった。
当時は山分に医者は少なく、多くの人々は衛生知識も低く、御祈禱や売薬などに頼っていた。トラホームや伝染病など野蛮国に多いという病気が多かったので地方の衛生思想の向上に不断の努力を重ねられた。明治四三年六月二八日、神領小学校の校医となり、昭和二三年三月に退職するまで、約五〇年の長きに亘り親子二代に及んで在校児童の健康に注意せられ、児童を通じて全村民の衛生知識の向上を計り、その功績は甚大であった。農家の求めに応じて三秋の夏も厳寒の夜も谷を渡り山を越え山間の僻地にも労を厭わず、診察に往かれた温情に村人は慈母の如くに慕い、氏の温厚な人格とすぐれた医術や仁術によって広く村民の信望を集めた。昭和二三年六月八日逝去せられたが、葬儀の当日は遠近から生前御世話になった人々が多数参列して氏の死を惜しんだ。
開墾された山の斜面や、米の作れる田に、緑滴る桑畑が多かった大正の終りから昭和のはじめは、ほとんどの農家に養蚕が行われ、現金収入はこれに負うところが大であった。この頃の先覚者に大南国一氏(大南昇氏の父、明治一七年一月三日生)がある。神領で蚕を栽培しはじめたのは、明治三五〜六年頃で、佐伯常太郎氏が「あかい」附近の鮎喰川原を開墾して、信州から「こまき」の品種を引いて植えた。そこは田にすべく開墾したが、砂質土であったので桑畑にした。しかし桑の成育もよくなかった。それから二〜三年して、「又昔」・「青熟」という蚕種で、春蚕を飼育したのが養蚕の初である。この頃の春蚕を「かたこ」といったがその方法も管理も十分わからないので、何とかして研究したいと思い、大南国一・阿部五郎助の両氏は、石井町に開設された養蚕伝習所に入所し、一ヵ年間研究をつんで村に帰り養蚕の普及につとめた。明治四〇年頃のことである。
大南国一氏は高川原村の近藤家(ふなとや)に入り熱心に研修した。帰村すると蚕種製造を思いたち、「直ぶせ」という方法で、蚕種を作った。一尺に八寸位の種紙に蚕の蛾を猪口で伏せて置くと産卵する。その種紙を天井に吊して、翌年の春蚕に使用するのである。この方法は今から考えると、極めて原始的なもので、「大南だね」と呼ばれた。この「大南だね」は、桑の栽培・蚕の飼育方法などが広く普及されるにつれて、神領の農家では次第に広く使われた。そのうち繭糸の価格も高騰し、養蚕は農家の現金収入の最右翼となり、ほとんどの農家が養蚕に従事するようになった。
治一郎氏の長男として明治二四年一二月西野間に生れた。徳島中学校(現城南高校)を経て明治四五年七月東京帝国大学農科大学獣医科を卒業して獣医師となる。大正元年八月農商務省雇として朝鮮釜山家畜伝染病研究所に勤務中、父死亡のため同四年八月退任帰郷し暫く県畜産課に勤務の後大正一〇年四月から名西郡畜産組合に奉職し、戦時中法律の改正により県農業会に統合改組せられた同会に勤務し、昭和二二年から引続き嘱託として同二五年まで約三〇年の長期間名西郡畜産特に上山牛の品種改良に努力し斯界に上山牛の名声をはせ、また仔牛せり市の農家に有利な事に着眼しこれを宣伝啓蒙して昭和一六年始めて寄井でせり市を開設し、今日の隆盛の基を築いたのは氏の尽力が最も大でその功績は没すべからざるものがある。
氏は時流を蘊んでた高邁な識見と高潔な人格はよく村民の嘱望する所となり大正一〇年当時としては異例の若冠三〇才で村会議員となって村政に参画し、また信用組合・森林組合の各理事となり長期間その任を尽し、また野間森林組合の組合長を勤める等よく村政経済方面に尽力しながらづく終戦後混迷した時代に選ばれて初代村議会議長となり、よく村政の向う所を誤まらしめず、また新制中学校創設にあたり期成同盟会長に推されよく創生の難業或は設備の充実に貢献した。
氏は中学時代、岡本斯文翁の塾に学んで漢籍をよくし常に漢詩を誦するのを楽しみ、また書をよくし栗村と号した。終生読書と勉学を怠らず死の直前まで枕頭に漢籍を積み家人に音読せしめた。諸事厳格几帳面で小事もゆるがせにすることはなかった。昭和三三年三月二四日歿し、西野間共同墓地に葬られた。
本上角九〇番地の沼田鑵治とその妻千枝の長男として、明治二五年三月二二日に誕生した。明治三九年神領尋常高等小学校を卒業し、師範予備校を経て本科第一部に入学し明治四五年三月二二日目出度卒業して、小学校本科正教員の免許状を授与され、直ちに下分校へ赴任した。
大正一一年九月下分尋常高等小学校へ学校長として栄転し、昭和六年三月まで約八年半、一意学校経営に専念し、施設・設備の改善・拡充に努め、また補習学校長として、青年訓練所主事として男女青年教育にも励み、実績大いに挙り村民有志・下分上山教育会から感謝状並に記念品を贈呈された。
昭和六年四月母校神領校の校長に栄転の後、昭和八年九月まで二一年半誠心誠意各般の経営に専念し、恩潮に順応しつつ穏健中正な経営振りを発揮し、その間県から体育指定校として選ばれたが、能くその目的を達成した外、青年訓練所・補習学校の成績も大いに見るべきものがあり、その献身的な努力は枚挙に暇なく功績は偉大であった。
本名鑑は編集委員会から往復はがきで照会し回答のあった六六一名を収録した。調査洩れや不備の点はご寛容を乞う。
※以下、各種人物の詳細な生没年・職歴等が羅列されております(本アーカイブでは要約・代表のみの記載となります)。
栗飯原勘三郎(元神領郵便局長)、栗飯原忠太郎(元神領郵便局長)、栗飯原晃三(元神領郵便局長)、阿部伍郎助(会社員、朝鮮慶尚北道で鉱山経営)など多数の郷土出身者が各分野で活躍した記録が記されています。
※村の歴史的な出来事を年代順に記した年表から一部を抜粋。